舞少納言の歴史謎解き物語第一段の巻き

京草子別編「皇極・斉明天皇・天智天皇の謎」をテーマにあれこれ草子したいと思います。

参考書はこれしかないので「日本書紀」他に同時代の歴史書がないのが非常に残念です。

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷(続日本記より)

日本書紀(養老4年)720年に舎人親王(天武天皇の皇子)が編集し完成させた国史。神代の時代から持統天皇の時代の記述で終わる全文漢文で記述された書です。
完成後は元明天皇に献上されて以降原書は現在に至るまで行方不明、写本がいくつか残る謎の歴史書です。
その記述は膨大な物である事と天武天皇も国書の作成を指示した経緯、又飛鳥時代に国記と天皇記の史書編集がされていた事、又その記述が百済新羅高麗三国史書とも記述が似ている為に養老以前にいくつか出来あがっている物を参考にして編集されたと考えていいでしょう。

さてその中で得意なのは「皇極天皇期」の記述です。この編集は日本書紀の前半唐人が記述していた時代にも関わらず、倭人が記述したと思われる文体が読み取れるのだそうです。
唐人では絶対間違わない漢文の間違いの記述が所々あるそうで日本人による書き直しがなされていたのです。
ようは始め唐人が記述していた皇極天皇期の行を後の時代に変えてしまった。という事実が判明した訳です。

皇極天皇期で書き換えが必要だった。といえばあれしかありません。
乙巳の変(以前は大化の改新)といわれたクーデターです。
そう蘇我入鹿暗殺、蝦夷自殺するあの蘇我宗家滅亡の事件の時代です。

これはなにかありそうです。
では始めていきましょう。

舒明天皇崩御の後、帝位は皇后である宝が即位します。

642年
元年春正月丁巳朔辛未皇后即天皇位以蘇我臣蝦夷為大臣如故大臣児入鹿更名鞍作自執国政威勝於父


詔大臣曰以津守連大海可使於高麗以国謄吉士水鶏可使於百済水鶏此云倶比那
八月甲申朔天皇幸南淵河上跪拝四方仰天而祈即雷大雨遂雨五日溥潤天下或本云五日連雨九穀登熟於是天下百姓倶称万歳曰至徳天皇

九月癸丑朔乙卯天皇詔大臣曰朕思欲起造大寺宜発近江与越之丁百済大寺復課諸国使造船舶

辛未天皇詔大臣曰起是月限十二月以来欲営宮室可於国国取殿屋材然東限遠江西限安芸発造宮

丁卯天皇御新嘗是曰皇太子大臣各自新嘗

簡訳:
即位前半は是と言った政治指導を行っていたとはいえなさそうで、蝦夷を大臣に蝦夷は父以上に権勢を振るった。
雨降りの祭事を行い雨が降って人々が徳のある天皇だといって褒めたたえた。
舒明天皇の悲願「百済大寺」の再建を指示した。
宮殿を造るため人夫の招集を行った。
新嘗祭を行った。

643年
天皇遷移於小墾田宮
丁未自権宮移幸飛鳥板蓋新宮
丁亥吉備嶋皇祖母命薨癸巳詔土師娑婆連猪手視皇祖母命喪天皇自皇祖母命臥病及至発喪不避床側視養無倦乙未葬皇祖母命于檀弓岡是日大雨而雹丙午罷造皇祖母命墓役仍賜臣連伴造帛布各有差
冬十月丁未朔己酉饗賜群臣伴造於朝堂庭而議授位之事遂詔国司如前所勅更無改換宜之厥任慎爾所治

天皇が新しい宮殿に移った。
また新しい宮殿に移った。
母が病気になり、天皇は看病を熱心に行ったが、崩御してしまった。その後墓を造られた。
又天皇は別の宮殿に移った。

あまり天皇としての親政を行ったという感じはないですね。

ただ特に気になったのはやはり蘇我入鹿の暗殺時の皇極天皇の行動です。
645年
戊申天皇御大極殿
曰当居嗣位天之子也臣不知罪乞垂審察
天皇大驚詔中大兄曰不知所作有何事耶
中大兄伏地奏曰鞍作尽滅天宗将傾日位豈以天孫代鞍作耶蘇我臣入鹿更名鞍作
天皇即起入於殿
庚戌譲位於軽皇子立中大兄為皇太子
天豊財重日足姫天皇四年六月庚戌天豊財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄而詔曰云々
是日奉号於豊財天皇曰皇祖母尊

簡訳:三韓の調の際、天皇が大極殿にいた。
(中大兄王子が入鹿に切りつけた後)入鹿が「皇極天皇が天位にあるのになぜ臣下の罪のない私がこんな目にあるのか?どうぞ真偽をはっきりと明るみにしていください。」
と訴えかけると、かろうじて中大兄王子に「これはどうしたことか?」と聞き、それに中大兄王子が「入鹿が天皇になろうとし、皇位を滅ぼそうとしました。」と主張すると皇極天皇は何も答えず、入鹿をみはなした様に宮殿の奥に引っ込んでしまいます

その後中大兄王子に皇位を譲る旨を内々に告げるが、これを辞退し皇位は伯父軽王に譲位します。
中大兄王子は皇太子になり、皇極天皇は「皇祖母尊」と呼ばれ孝徳天皇が即位しました。

なんか変だと思いませんか?
父以上に権威を振るった入鹿、皇極天皇の寵臣であったはずです。その寵臣が突然目の前で暗殺され、しかも入鹿の訴えをきかずに現場から立ち去る。しかも責任追求もなし。変です・・・・・。

皇極天皇はあらかじめこの暗殺を知っていたのではないでしょうか?
だから入鹿を助けなかった。いや実はその暗殺に参加していたかもしれない。

では何故助けなかったのか?

それはひとえに皇位。

皇極天皇は皇位は自分の血を受けた中大兄王子に継がせたかった。
入鹿は古人大兄王子に皇位を継がせたかった。

両者の蜜月は皇位で真っ向から対立するかっこうです。

だから皇極天皇はこの暗殺に参加しました。

ここで暗殺ど真ん中に参加していた中大兄王子本当に参加していたのでしょうか?
残念ながら確たる証拠はありません。(天智天皇の項で)
しかし蘇我宗家がこの事件で没落した事実は真実です。

皇極天皇が譲位し孝徳天皇が即位した後の皇祖母尊の動きです。

649年
三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨天皇幸朱雀門挙哀而慟皇祖母尊
651年
二年春三月甲午朔丁未丈六繍像等成戊申皇祖母尊請十師等設斎
653年
法師命終而遣使弔并多送贈皇祖母尊
是歳太子奏請曰欲冀遷于倭京天皇不許焉皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等往居于倭飛鳥河辺行宮于時公卿大夫百官人等皆随而遷由
654年
冬十月癸卯朔皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟公卿等赴難波宮
母奉皇祖母尊遷居倭河辺行宮

簡訳:阿倍大臣が死去し皇祖母祖はひどく悲しんだ。僧に斎を行わせた。
尊い僧が死去したので使者を送った。
皇太子が都を奈良に戻したいと天皇に進言した所、天皇は拒否された為に母、妹、重臣を連れだって飛鳥河辺行宮に戻った。
天皇が難波で病気になったので難波に戻り天皇を見舞った。
皇祖母尊が難波から飛鳥河辺行宮に戻った。

同母弟孝徳天皇と中大兄王子の対立と別離があった事がわかります。
ここでも弟よりもわが子をとった。
というより、自分が戻りたかった???

ここでいえるのは皇極天皇は阿倍大臣に信頼を置いていた。その点孝徳天皇も同じ、その人物の死がこの姉弟の亀裂を産んだ可能性が大きいのではないでしょうか?
しかも退位したといえど「皇祖母尊」いわば上皇のような存在それなりの存在だったと考えていいでしょう。
ひょっとしたら中大兄王子よりも皇祖母尊の方が飛鳥に戻りたかった?
だから皇太子が飛鳥に戻った時に重臣が一緒に同行したともいえるのです。

皇祖母尊(皇極天皇)が孝徳天皇を捨てた。

孝徳天皇崩御の後、皇祖母尊が再び即位します。
何故中大兄王子は即位しなかったのでしょうか?
母皇祖母尊の思惑があったのではないでしょうか?伯父を乱暴に振り切っての即位は重臣達からの反感を買う可能性があります。また皇祖母尊は自分の親政も行いたかったというのもあると思われます。孝徳天皇は唐、新羅に近い姿勢を示し、これに反して百済派の重臣は一気に皇祖母尊に傾いた。彼女自身も百済支援を自分の手でなしたかった。よって中大兄王子の即位を遅らせたのではないでしょうか?


655年
元年春正月壬申朔甲戌皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮
夏五月庚午朔空中有乗竜者貌似唐人著青油笠而自葛城嶺馳隠胆駒山及至午時従於住吉松嶺之上西向馳去
冬十月丁酉朔己酉於小墾田造起宮闕擬将瓦覆又於深山広谷擬造宮殿之材朽爛者多遂止弗作
是冬災飛鳥板蓋宮故遷居飛鳥川原宮

簡訳:
飛鳥板葺宮で皇祖母尊が即位した。夏に唐人に似た異形の者が竜に乗って葛城の嶺から生駒を抜け、住吉に向かい西に駆けていった。
冬小墾田宮の造営を行う為に宮殿用の木材を伐採する為に多くの者が徴収された。
この時に飛鳥板葺宮が火災にあい、飛鳥川原宮に天皇は移った。

異形の者って誰???なんだか恨みに死んだ入鹿???
斉明天皇となった皇祖母尊は人が変わった様に政策を打ち出します。まずは新しい宮の造営、しかしこれは出火により一時中断してします。この出火どうやら人災だったようです。この頃放火は朝廷への不満の方法といわれており即位そうそう人気がなかったようです。

656年
是歳於飛鳥岡本更定宮地時高麗百済新羅並遣使進調為張紺幕於此宮地而饗焉遂起宮室天皇乃遷号曰後飛鳥岡本宮於田身嶺冠以周垣田身山名此云太務復於嶺上両槻樹辺起観号為両槻宮亦曰天宮時好興事廼使水工穿渠自香山西至石上山以舟二百隻載石上山石順流控引於宮東山累石為垣時人謗曰狂心渠損費功夫三万余矣費損造垣功夫七万余矣宮材爛矣山椒埋矣又謗曰作石山丘随作自破若拠未成之時作此謗乎又作吉野宮西海使佐伯連栲縄闕位階級小山下難波吉士国勝等自百済還献鸚鵡一隻災岡本宮
簡訳:飛鳥岡本宮で百済高麗新羅の使者をもてなす饗宴を催した。後飛鳥岡本宮の嶺に垣を造営して二つの宮殿を造営し、水工事業を行い多くの者をそれに従事させた。岡本宮が火災にあった。

斉明天皇は宮殿造営や水工土木工事を大変好んで行い、人々の反感を買って宮殿も放火されるありさまです。
皇極天皇時代は徳の高い天皇として敬わられたのに今度は非難の対象に変貌してしまいます。

657年
辛丑作須弥山像於飛鳥寺西且設
簡訳。:須弥山を飛鳥寺の西に造営した。

この天皇石物にすごく傾倒していました。
確か奈良にある母の墳墓にも奇妙な石物が建っていました。パワーストーンを感じていたのでしょうか??

658年
五月皇孫建王年八歳薨今城谷上起殯而収天皇本以皇孫有順而器重之故不忍哀傷慟極甚詔群臣曰万歳千秋之後要合葬於朕陵輙作歌曰
伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多多婆那爾柯那皚柯武其一
伊喩之々乎都那遇舸播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾其二
阿須箇我播濔儺蟻羅毘都都喩矩瀰都能阿比娜謨儺倶母於母保喩屡柯母其三
天皇時々唱而悲哭

簡訳:孫の建王が死去した。天皇は大変嘆き悲しんで自分が死んだら一緒に合葬するようにと遺言しました。
悲しみの歌を3首読んで口ずさんでは嘆いた。

658年
冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯天皇憶皇孫建王愴爾悲泣乃口号曰
耶麻古曳底于瀰倭施留騰母於母之楼枳伊麻紀能禹知播倭須羅庾麻旨珥其一
瀰儺度能于之褒能矩娜利于那倶娜梨于之廬母倶例尼飫岐底舸庾舸武其二
于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘飯岐底舸庾舸武其三
詔秦大蔵造万里曰傅斯歌勿令忘於世

簡訳:白浜温泉に行幸して亡き孫を懐かしんで悲しんで歌を詠んだ。
後世にその歌を忘れさせない様に命令しました。

659年
五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯

5月春に再び白浜温泉に行幸しました。

三月戊寅朔天皇幸吉野而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦平此云毘羅丁亥吐火羅人共妻舎衛婦人来甲午甘檮丘東之川上造須弥山而饗陸奥与越蝦夷檮此云柯之川上此云箇播羅
秋七月朔丙子朔戊寅遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐国仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子

簡訳:3月吉野で饗宴を催して、甘檮丘の東之川上に須弥山を造営した。
秋に唐国に使者を送った。

伊吉連博徳書曰同天皇之世小錦下坂合部石布連大山下津守吉祥連等二船奉使呉唐之路以己未年七月三日発自難波三津之浦八月十一日発自筑紫六津之浦九月十三日行到百済南畔之嶋々名毋分明以十四日寅時二船相従放出大海十五日日入之時石布連船横遭逆風漂到南海之嶋々名爾加委仍為嶋人所滅便東漢長直阿利麻坂合部連稲積等五人盗乗嶋人之船逃到括州々県官人送到洛陽之京十六日夜半之時吉祥連船行到越州会稽県須岸山東北風々太急二十二日行到余姚県所乗大船及諸調度之物留着彼処潤十月一日行到越州之底十月十五日乗騨入京二十九日馳到東京天子在東京三十日天子相見問訊之日本国天皇平安以不使人謹答天地合徳自得平安天子問曰執事卿等好在以不使人謹答天皇憐重亦得好在天子問曰国内平不使人謹答治称天地万民無事天子問曰此等蝦夷国有何方使人謹答国有東北天子問曰蝦夷幾種使人謹答類有三種遠者名都加留次者麁蝦夷近者名熟蝦夷今此熟蝦夷毎歳入貢本国之朝天子問曰其国有五穀使人謹答無之食肉存活天子問曰国有屋舎使人謹答無之深山之中止住樹本天子重曰脱見蝦夷身面之異極理喜怪使人遠来辛苦退在館裏後更相見十一月一日朝有冬至之会々日亦覲所朝諸蕃之中倭客最勝後由出火之乱棄而不復検十二月三日韓智興人西漢大麻呂枉讒我客々等獲罪唐朝巳決流罪前流智興於三千里之外客中有伊吉連博徳奏因即免罪事了之後勅旨国家来年必有海東之政汝等倭客不得東帰遂逗西京幽置別処閉戸防禁不許東西困苦経年難波吉士男人書曰向大唐大使触嶋而覆副使親覲天子奉示蝦夷於是蝦夷以白鹿皮一弓三箭八十献于天子

簡訳:使者は唐国に着いて皇帝に謁見したが、監禁されてしまった。

庚寅詔群臣於京内諸寺勧講盂蘭盆経使報七世父母

簡訳:都の寺院に盂蘭盆経を唱えさせ七世の父母の霊を鎮めた。

660年
詔曰乞師請救聞之古昔扶危継絶著自恒典百済国窮来帰我以本邦喪乱靡依靡告枕戈嘗胆必存拯救遠来表啓志有難奪可分命将軍百道倶前雲会雷動倶集沙喙翦其鯨鯢紓彼倒懸宜有司具為与之以礼発遣云云送王子豊璋及妻子与其叔父忠勝等其正発遣之時見于七年或本云天皇立豊璋為王立塞上為輔而以礼発遣焉

簡訳:百済を救う為(唐と新羅に滅ぼされかけていた)当時倭に滞在していた豊璋達百済王族を援軍に向かわせた。

十二月丁卯朔庚寅天皇幸于難波宮天皇方随福信所乞之意思幸筑紫将遣救軍而初幸斯備諸軍器是歳欲為百済将伐新羅乃勅駿河国造船

簡訳:12月天皇自らも難波に向かい、軍備を整え駿河国で軍艦を造らせた。

661年
七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路
庚戌御船泊于伊予熟田津石湯行宮熟田津此云爾枳陀豆
三月丙申朔庚申御船還至于娜大津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津
五月乙未朔癸卯天皇遷居于朝倉橘広庭宮
秋七月甲午朔丁巳天皇崩于朝倉宮
八月甲子朔皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮是夕於朝倉山上有鬼著大笠臨視喪儀衆皆嗟怪
冬十月癸亥朔己巳天皇之喪帰就于海於是皇太子泊於一所哀慕天皇乃口号曰
乙酉天皇之喪還泊于難波
十一月壬辰朔戊戌以天皇喪殯于飛鳥川原自此発哀至于九日

西に船を出向させ熱田津の道後温泉に行宮を経由して筑紫に向かい朝倉橘広庭宮に入った。
七月には天皇が崩御した。
八月に中大兄王子が天皇の亡きがらを磐瀬宮に戻すと、朝倉山に大きな笠をかぶった鬼が出没して皆怪しんだ。
冬天皇のなきがらを筑紫から難波、大和の飛鳥川原宮に戻した。

一連の内容からして百済救済は斉明天皇の強い指示があったとはいえないのでしょうか?
高齢の身で軍艦に乗り込み筑紫まで赴き指揮する。
どうしても中大兄王子のかいらい天皇の姿が感じられません。

この海路の道中あの有名な和歌が詠まれています。

熱田津に船乗りせむと月待ては潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

伝額田王と言われていますが、詩の内容的に船の指揮者の歌にも読み取れます。
斉明天皇作と言っても可笑しくなく、いやいった方がしっくりいくのではないでしょうか?

斉明天皇は百済支援の思い道半ばで崩御してしまいます。

この後中大兄王子は敗戦処理と百済の亡命王族、貴族、市民等を倭に移住させて救済の処理、唐の侵略の為に城壁を各所に配置し、筑紫の防衛も強化します。
そしてあらかた国政を整えた後、近江に遷都します。が、この遷都非常に人々から嫌われ良く放火されました。
ようやく即位した天智天皇は官位を改めたくらいで後は狩猟や宴会を催すなどぐらいで大きな政治手腕を振るう事はありませんでした。

671年
十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮癸酉殯于新宮

簡訳:近江宮で崩御しました。

中大兄王子は本当に即位したかったのでしょうか?
なんだかしかたなく即位したっぽい気がしてなりません。何故なら即位後の政策が明らかでないからです。
他に即位する者がいなかった事と母の願いを叶えたかった。それだけだったのかもしれません。
だからこそ日本書紀は業績を記述出来なかったのではないでしょうか?

しかし当時の皇位であった元明天皇の父天智天皇の業績を入鹿暗殺で活躍させヒーローにする事で子文武天皇の正統性と孫軽王(聖武天皇)の即位を確たる物にする必要性があったと言えます
少なくとも当時天武天皇の親王が多く存命中であり、藤原氏からの初めての皇太子という立場は盤石ではなかったでしょう。それを正当化する為にも天智天皇の功績をおおきくする必要があったのです

で今日も私達はこの策略にまんまと乗り、中大兄王子と藤原鎌足を有名な人物と信じていたのです。
もちろんその策略に藤原不比等が一枚も二枚もかんでいたのは間違いないでしょう


あああ~~~怖い怖い歴史の御話。
次回はそのうち「竹取物語の謎」を予定します。
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