2011-11-08

舞少納言斑鳩の地に現るの巻

今回は春の「奈良版京草子」の続編で、斑鳩の里を訪れます。
斑鳩といえば聖徳太子、そういえば旅行に行って必ずといって出あうのは聖徳太子、行基、弘坊大師の三人のお話
や縁の地である事が多いです。
聖徳太子は飛鳥時代の王族、行基は奈良時代地方を廻りお布施を集め大仏建立に貢献した僧、弘坊大師は平安時代の僧空海で真言宗の宗祖です。

前回は「鎌足」を主人公にいろいろ草子しましたが、今回は「山背大兄王と長屋王」を主人公にこの法隆寺の謎にせまって妄想してみたいと思います。

御題:聖徳太子が法隆寺を建てたんじゃな~~~い!!!

注釈:①「隠された十字架」法隆寺論 梅原猛氏著を支持しながら若干の異論も交え展開します。
   ②聖徳太子と記載せず廐戸王子として記載し、あくまでも斑鳩寺、宮創建者いう立場で展開させ、山背大兄王の父として脇役として登場させます。
   ③時代背景、人物関係等も合わせて記載し、出来る範囲で資料も現文使用を心がけます。
   ④天皇、大王、皇子皇女、王子王女の記載の違いは天武期以降を皇と以前を王に区別して記載します。
    又蝦夷、入鹿といった後世の名を使用せず、当時使用されたと思われる呼び名で記載します。
⑤紹介する建物、及び宝物は創建当時、及び宝物する国宝美術品に限定する。

学生時代に行ったきり、縁遠く二十年ぶりの斑鳩はどう変わっているでしょうか?
今回は夢殿「救世観音立像」の特別拝観に合わせての訪問です。

JR法隆寺駅前から全然関係ないですが、いきなりお菓子屋に目を奪われて入店しました。
奈良祥楽さんです。和菓子、洋菓子を扱われているとの事です。
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大和茶のバームクーヘンと大仏まんじゅう購入しました。

お店の情報は【こちら】

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バスで1キロ弱国道25線を左折して右手に法隆寺参道が真っすぐ延びているのが見えてきます。
法隆寺のiセンターで情報をGETしてからまずはレンタサイクルを借りてグル~~と周辺を散策していきます。
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藤ノ木古墳斑鳩にある古墳の中でも注目度NO1の古墳です。
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埋葬者は特定されていないものの、2体の遺骨、埋葬品などいまだ誰が埋葬されているのかわからない墳墓です。
法隆寺では10月3日に崇峻天皇と山背大兄王子忌日を藤ノ木古墳に参拝する行事があります。
法隆寺は厩戸王子の縁のお寺、その寺が藤ノ木古墳の埋葬者が崇峻天皇と山背大兄王子と考えている為なのでしょうか?藤ノ木古墳が厩戸王子の縁の地斑鳩にあるというのは偶然でしょうか?
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石室内部はガラス越しに見えます。
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近くに咲くコスモスはまだ見頃

藤ノ木古墳
昔より「ミササギ」と周辺では言われていた古墳です。未盗掘で近年発掘された珍しい古墳その規模と造営年から崇峻天皇墓との見解が有力と言われています。
不思議なのは一つの石棺に二体の男子の遺骨があった事、その規模のわりに内部が雑な事、しかもここは崇峻天皇の甥の厩戸王子のコロニー内である事を考えてもかなり高い確率で御陵ではないでしょうか?
厩戸王子の母間人皇后(穴穂部皇女)は崇峻天皇と穴穂部皇子(間人皇后とはどうやら双子の可能性あり)の同母妹です。穴穂部皇子は物部氏と関わりが深く当時蘇我氏と対立的な立場を取っていました。しかも皇位を狙っていたので馬子は何度となく皇子に忠告しますが、これを拒否したため馬子の部下に殺害されてしまいます。
厩戸王子は母の嘆きの為に斑鳩の地にその埋葬を行い、次にやはり馬子の部下に暗殺された崇峻天皇を埋葬したのではないでしょうか?
ちなみに11月3日には法隆寺では崇峻天皇と山背大兄王子の忌日として藤ノ木古墳を参拝するそうです。
法隆寺では藤の木古墳をやま背大兄王子の墓と考えているのでしょうか?

西里と呼ばれる旧市街地の道を通過します。法隆寺の大工や職人さん達が暮らしたエリアだそうで古い町並みを今に残しています。
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菊が綺麗に咲いています。

その後法輪寺(別名三井寺)と法起寺を訪ねます。
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法輪寺は厩戸王子が崩御した後、山背大兄王が供養の為に建立したという説と斑鳩寺火災の後百済の僧達により建立された説がある寺院ですが、創建以来の建築物は残っていません。三重塔も戦前落雷にあい消失してしまいました。今の三重塔は昭和50年に再建されたものです。
現在は薬師如来坐像、虚空蔵菩薩像という伝飛鳥時代の仏像を所有しています。が、この2体法隆寺の物にくりそつ、出来は法隆寺に及びませんが。本堂は焼けたのに何故仏像は飛鳥時代といいきれるのでしょうか?僧が火災の際に持ち出した???発掘調査によるとこの寺院の全体図は法隆寺の三分二の縮小版との事、法起寺建立グループとは別に再建法隆寺を計画した僧の中で創建に際し、意見が分かれたグループによって創建されたのではないでしょうか?よって法隆寺伽藍と同じ且つ規模も縮小版、所有する薬師如来像も法隆寺のそれに似ています。すくなくても金堂完成前後に分かれたのではないでしょうか?

ちなみに寺院の地下層には飛鳥時代のなんだかの建物跡が確認出来ているそうです。厩戸王子縁の地には違いないでしょう。厩戸王子の妃の一人膳妃が住んだ邸があったとも伝承されているそうです。IMG_8957.jpg
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寺のすぐわきで咲いていたサザンカの花。
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ススキの穂がたなびいて風流な光景でした。

法輪寺の情報は【こちら】

さらに法起寺に向かいます。
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その縁起は厩戸王子が法華経を講説した岡本宮を厩戸王子の遺言で山背大兄王が建立したという説、六三八年に僧が厩戸王子の為に建立し奈良時代に完成した寺という説があります。
ほぼ法隆寺の三分の二の構造をした建築物で、おそらく法隆寺の建立後に携わった技術者達による物と建築推測されています。
またその下層にはさらに後世の建物跡があり、ここになんだかの宮があったのはほぼ間違いないと言われています。
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境内のさざんかの大木です。
ちなみに厩戸王子の妃で山背大兄王の生母蘇我馬子の娘刀自古郎女の邸跡とも伝承されています。でも普通は通い婚です何故に馬子の邸は明日香です。なんで娘が斑鳩に?馬子と厩戸王子は
仲たがいしていたというのでしょうか?

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法隆寺の五重塔にくりそつ、いや同じといっていい・・・。
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現存する三重塔は最古の物もの法隆寺近郊世界遺産に指定されています。
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まだまだ見頃のコスモスです。

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ランチは柿の葉すし!!!

法起寺の情報は【こちら】


斑鳩はまさに厩戸王子、山背大兄王の鎮護の地という感想です。

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さあでは法隆寺向かいます。道の突き当りが法隆寺南門。

中門には左右に日本一古い阿吽の仁王像がたっています。奈良時代和銅4年の作といいます。門前にあるため風や雨が直撃しますので、傷みがひどく何度も修復されているそうです。
すぐに境内に入らずに手前、右折して若草伽藍跡付近を散策します。

第一章「斑鳩寺創建と山背大兄王子の悲劇」

法隆寺(元斑鳩寺)が初めて歴史に登場するのは推古十四年秋七月です。
因以納二于斑鳩寺一。

厩戸王子(皇太子)が岡本宮(今の法起寺)で法華経の講義をした功積に額田部大王は播磨国の領地を与えました。厩戸王子はその経典を縁の斑鳩寺に納めました。
という程度の記述ですが、斑鳩寺の建立、完成についてはまったくふれていません。

昭和14年以前斑鳩に現在建つ法隆寺が厩戸王子の建立した斑鳩寺であるというのが定説でした。

しかし昭和14年遺跡調査で普門院や実相院の庭付近辺りの北西20度傾斜に四天王寺式伽藍の遺構が発掘され、また平成16年に西南隅から平安時代に瓦礫を撤去し埋め立てた溝から焼けた瓦、壁画多数発見され、斑鳩寺が火災で消失し、その遺構から飛鳥時代の百済式唐草文様の瓦や九弁蓮華文軒丸瓦が発見され旧斑鳩寺の存在が世に知られました。
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厩戸王子の建立伝承の残る寺院調査では四天王寺式伽藍が採用されており、好きな様式だったんでしょうか?
様式は南北に南から南大門、中門、塔、金堂、講堂、そして中門から講堂までを左右に廻廊で囲うもので四天王寺が始まりだといわれます。そしてこの伽藍様式に建てられた寺院はほぼ厩戸王子の縁の寺院なのです。

ここは後世法隆寺仏花栽培園だった場所にちなみ通称若草伽藍と呼ばれています。
当初発掘調査前は塔礎石だけが古くから露出していたそうで、この石も明治に北畠男爵家庭石に、後に兵庫県住吉区久原邸へ渡り、昭和14年以降元の地に戻されたというこの悲劇の寺院に相応しい逸話があります。
その場所は丁度子院の庭にあたるので公開されていませんので写真はありません。残念です。
元斑鳩寺に纏わるお話でかかせないのが、蘇我(林太郎鞍造)入鹿による「山背大兄王一族襲撃殺害事件」です。

日本書紀、藤氏家伝、聖徳太子伝、聖徳太子伝補闕記を元にまずは斑鳩寺で起こった惨事を紹介してゆきます。
*全て後世記録された伝記で真実性は多少疑問が残るものの資料が少ないのでしかたがないですね。

日本書紀

於是山背大兄王子等自レ山還入二斑鳩寺一。軍將等即以レ兵圍レ寺。
於是山背大兄王、使二三輪文屋君一謂二軍將等一曰、吾起レ兵伐二入鹿一者、其勝定之。然由二一身之故一、不レ欲レ殘二百姓一。是以吾之一身、賜二於入鹿一、終興二子弟妃妾一。一時自緇俱死也。于時五色幡蓋等、種々伎樂二灼空於一、臨二乗於寺一。衆人仰觀稱嘆、照變為、黒雲一。由レ是入鹿不レ能レ得レ見。蘇我大臣蝦夷、聞三山背大兄王子等被レ亡二於入鹿一、
而嗔曰、口意入鹿、極甚愚癡、専行暴悪、儞之身命、不レ亦殆一乎。
山背大兄王子等憁被不レ亡レ於入鹿一而嗔曰、口意。

聖徳太子伝補闕記
山代大兄王子率諸王子 出自山中 入斑鳩寺塔内 立大誓願曰 吾暗三明之智 未識因果之理 然以佛言推之 吾等宿業于今可賽 吾捨五濁之身 施八逆之臣 願魂遊蒼旻之上 陰入淨土之蓮(中略)賊臣滅太子子孫 後乃告於大臣 大臣大驚曰 聖太子子孫無罪 奴等専輙奉除 我族滅亡其期非遠 未幾大臣合門被誅 亦如其言 可何奇

聖徳太子伝
大兄王謂左右曰 我以一身 豈煩万民乎 不欲使言後丗之人由吾故而喪父子兄弟 還斑鳩宮 遂與子弟等 自絞而死(中略)大臣聞入鹿弑大兄王等 歎曰 我亡不久(中略)
父大臣 大臣大驚 拍手曰 聖太子子孫無罪 奴等專輙奉除 我族滅門 其期非遠者 後年合門被誅 亦如其言一何可奇

概ね三書とも634年林太郎鞍造(入鹿)は山背大兄王を亡きものにしようと斑鳩宮に家来の軍を送り襲撃しようとするも、気付いた山背大兄王一族は家来と共に生き延び生駒山で潜んでいました。家来が「深草に行き東国の乳部の民と共に戦えば勝てます。」と進言するのを王子は襲撃犯と戦うことより民衆を巻き添えに出来ないと言い、隠れていた生駒山から斑鳩寺に戻り、斑鳩寺で一族共々自害した。(補闕記では五重塔で火をつけて亡くなったと伝えます。)豊浦大臣は息子の行為をひどく怒り自分達の運命も滅亡するだろうと嘆きました。

但しどうやら斑鳩寺は中大兄王子即位後にも存在していたらしく、後年落雷により一屋も残らず消失しました。
詳しくは後項で!


【余談1】

何故信憑性にとぼしいのか?聖徳太子伝はもちろん厩戸王子がどんなに聖人だったかをPRした伝記ですから過剰聖人を物語る書でしょうし、補闕記は比較的信用しても良いと印象に残る書ですが、出所がはっきりしません。特に国家の正記たる日本書紀の完成は養老4年元正天皇(草壁皇子と元明天皇の長女)期。
藤原不比等(鎌足の二男)、舎人親王(天武天皇皇子)が編集に大きく関わったと言われていますから当然都合の悪い事は記述しませんし、都合の良い事は大きく記述しています。もちろん嘘もまじえて。

しかし各書が語るのは養老以前に厩戸王子を賛美する傾向がすでに国家の手で完成していたと見てよいでしょう。
何故かは飛鳥時代の歴史を知る人なら誰でも知っているように、仏教は朝鮮半島から百済、高句麗、新羅を通じて蘇我馬子が率先し、国教化(もちろん八百万の神も同等に信仰対象でしたが)へと導いた歴史があります。つまり蘇我=仏教のイメージが強い為、国家事業としての仏教推進するには馬子以外にそれにかわる人物の存在が必要になります。
また蘇我宗家を滅亡させた張本人に軽大王、巨勢徳太、中臣鎌子もいたとすると蘇我馬子、蝦夷、入鹿の怨霊封じもしないといけません。しかし直接蘇我氏を祀るなどできるはずもなく、間接的にその血筋の王族を信仰しなくては呪われてしまいます。

その人物こそ磐余池辺雙槻(用明)大王と穴穂部間人王女の長男厩戸王子だった。

その聖人の息子であり、上宮王家の長である山背大兄王の死はその聖人の思想を忠実に守り抜いた立派な人物でなくてはならない。その願望と意思が大きく感じられる違和感のある記述だと思います。
ただしただしがつきます。それは後半のお楽しみ!ひと休み~~


第二章「東伽藍と光明皇后(山背大兄王と長屋王の悲劇)」

【夢殿は聖徳太子の姿に変えた長屋王の墓である】

そんな飛鳥の残照を感じながら南門から先に建立がはっきりしている今本尊特別公開中の東院伽藍の通称「夢殿」に向かいます。
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東院の南門、通称開かずの門
門なのに封印する様に古くから閉められていたそうです。しかも夢殿を囲う様に回廊が封鎖しています???
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東院の入り口、層用の門だった所です。
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夢殿
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伝法堂

夢殿は現在八仏堂(夢殿)、伝法堂(聖武天皇橘夫人邸宅)、絵殿、舎利殿、仏殿、鐘楼がその構成です。

創建当初は八仏堂(夢殿)と回廊、南大門が、しばらくして伝法堂(聖武天皇橘夫人邸宅)、他に2棟建物で構成されていました。

厩戸王子の邸宅跡地に奈良時代739年に律師に任じられた僧の行信が荒れ果てた斑鳩宮跡を憂い、阿倍女皇太子と房前に願い出て建立された寺院「上宮王院」が始まりと東院伽藍縁起は語ります。

但し続日本記にはその記述はありません。
しかもその年には房前は死亡しているので、信用性は?なんですが、行信が創建したのは間違いな事実です。

続日本紀から

(天平十年閏七月)行信法師為、二律師一。

この僧は義淵の弟子で遣唐使の一団に参加し唐で仏教を学んだ後帰国、日本に仏教経典を持ち帰り、普及活動し僧の3番目に高い律師になったのです。
(後に筑紫の観世音寺に左遷された薬師寺の同名の僧と同じ人物かどうか?)

この行信は聖人の居住跡「斑鳩宮跡」の荒廃ぶりを嘆き、その時すでに建立されていた西院伽藍とは別に法隆寺東伽藍の建立皇室に進言し、天平11年(739年)4月10日「上宮王院」を完成させたと伝えられています。

これも不思議なのですが、上宮王院の発願、着工にいたっては年も不明ではっきりわかっていません。
つまり行信がその為に律師に抜擢されたのか、律師になったので念願の上宮王院を建設したのかどちらか不明なのです。

ただ天平八年(736年)二月廿十二日に法隆寺で厩戸王子の太子忌日を行信が法華経講会を開催させ、光明皇后も多くの仏具品を施入しました。
それを翌年に施入を上宮王院に変更しているので、その年にすでに建築の提案は受け入れられていたと解釈して、太子信仰の功により律師になり、さらに新たな建築物の建立に乗り出したといっていいでしょう。

今日でも会社の実績はなくても設立前に名称だけ先に届け実際の経営はその後という事は良く有る事です。
では行信は自身の功積を高めるという野心があり、偉業をなしとげようと東院伽藍建立を願ったのはわかります。では何故それに光明皇后は貢献したのでしょうか?

奈良天平聖武天皇時代は華やかな仏教文化の時代とは相対して非常に天災や疫病に悩まされた飢餓の時代でもあり
ありました。シルクロードの終着点であった倭国がほぼ初めて公に他国との交流を深めた結果、多くの人々の渡倭は多くの伝染病もはやらせる事にもなりました。免疫の少ない日本人には致命的だったでしょう。
特に天平九年(737年)の疱瘡の大流行は多くの太政官が死亡し、国家存亡の危機におちいっていました。

(天平九年)是年春、疱瘡大発。初自二筑紫一来、経レ夏渉レ秋。
公卿以下天下百姓、相継没死、不レ可二勝計一。近代以来、未二之有一哉。
天平九年四月参議民部卿正三位藤原房前薨
大宰府の管内諸国、疱瘡流行。
大宅朝臣大国、小野朝臣老、長田王、多治比真人県守、大野王卒、
七月参議兵部卿従三位麻呂藤原朝臣麻呂薨。百済王郎虞卒、左大臣藤原武智麻呂薨
八月中宮大夫兼右兵衛率生四位下橘宿禰佐為卒。
八月参議式部卿兼大宰師正三位藤原朝臣宇合薨。 
更疱瘡筑紫流行。 

それでもなんとか朝廷人事を立て直し天平十年(738年)阿倍内親王(父聖武天皇、母光明皇后)が立太子し、政務は右大臣橘諸兄(橘三千代の前夫美努王の間の長子)左大臣不在、正三位知太政官事鈴鹿王(高市皇子の二男長屋王の弟)遣唐使から帰国した玄坊(前年に聖武天皇の生母藤原宮子の産後鬱病を治した当時僧正)、吉備真備(当時従五位上右衛士督)、が聖武天皇、光明皇后の寵臣として辛うじて政権を維持します。

しかし各地で疫病や気候不安で不安定な治世はおさまらず、彼らは特に唐の最先端の仏教や知識に傾倒し、仏教国家を確立する事で国家の平定を行おうとしていました。まさにそういう不安定な時期に行信により斑鳩宮跡に寺院建立が提案されたのです。

国家側の関与は誰だったのか?

候補①阿倍内親王 上宮王院(東院伽藍資材帳)資財帳は春宮と房前の後見との関わりを示唆していますが、当時女皇太子になったばかりか、なる直前、房前は完成前死亡している。
  ②聖武天皇  確かにかなりの仏教傾倒者。でも規模がその割に小さい。
  ③光明皇后  個人的に一番可能性の高い人物。仏教傾倒者であり、長屋王の犠牲の上に一氏族の娘が皇后になり前年に親族を相次いで亡くしたばかり。心中穏やかなはずはありません間違いない人物。東院伽藍に行信と共に多くの経典を奉納した記録が「東院資材帳」に記載があり行信、光明皇后がその建立に関わった事は確かです。

では何故でしょうか?なぜこの僧に皇后はそんなに聖徳太子信仰に傾倒したのでしょうか?

光明皇后、元は聖武天皇の夫人という地位でした。

これは彼女が時の権力者藤原不比等を父に県犬養三千代を母に持つ(美努王の元妻、文武天皇乳母にして、内命婦の高女官没後正一位橘大夫人)長女(元の名は安宿媛)とはいえ臣下の娘が皇后にはなれない慣例に従った人事でした。
彼女は一男一女をもうけながら、しばらくは夫人という地位にありました。

聖武天皇の後宮は異常な状態にありました。
妃に皇族出身者がおらず、夫人は光明子の他に県犬養広刀自(安積皇子、井上内親王、吉備内親王の母)、橘古那可智(三千代の孫)、藤原武智麻呂と房前のそれぞれ娘(それぞれ南夫人、北夫人と称された)のみ。
他の妃に皇子が出来るのを極力おさえたい藤原不比等の意向が色濃く出ているといっていいでしょう。

しばらくは夫人の地位にいましたが、藤原四兄弟はあらっぽい策を講じて皇后という地位を獲得させます。
いわゆる長屋王の変です。

長屋王は天武天皇の長男高市皇子(太政大臣)と中大兄王子の娘御名部皇女(元明天皇の同母姉)の長男しかも正室に吉備内親王(草壁皇太子と元明天皇の娘、元正太上天皇の妹)を持ち、藤原不比等(長屋王の舅でもあります。娘長我子は長屋王の妃)、四兄弟(特に房前・義理の兄弟)と左右を分ける実力の持ち主で、元明天皇崩御の際は枕元に長屋王と房前を呼び二人に元正天皇の政務を良く補佐する様に遺言を残すほどでした。
で>神亀年代には左大臣という要職にありました。
また正義感強く義と理を貫く人物だと言われていました。それは続日本記に起こった朝廷内の出来事でも十分わかります。

 (神亀元年三月)辛巳、左大臣正二位長屋王言伏見二二月四日勅一藤原夫人天下皆称二大夫人一者。臣等謹検二公式令一、云二皇太夫人一。欲レ依二勅号一。応レ皇字一。欲レ須二令文一、恐作二違勅一。不レ知レ所レ定。伏聴二進止一。詔曰、宜下文則皇太夫人、語則大御祖、追二収先勅一、頒中下後号上。

これは聖武天皇の正母宮子夫人の名が皇太夫人(法律で決められた身分)を贈られたのに、皆太夫人(天皇の命令で決められた身分)といって令と違っている。令(法律)と詔(天皇の命令)のどちらにも忠実でない改めるべきだと長屋王が進言した所、字は皇太夫人と書いて言葉を大御祖と言う事で修めた。という記述があります。

また神亀四年二月左大臣正二位長屋王勅でも
民の願望に背いた政治が行われているので正しく改めさせると宣言。諸司長官に役人達の勤務態度を査定し、管理させたりと今でいう能力制を取り入れた人物です。又三世一身の法も要職にあった際、取りきめられた法律です。三世代になって耕された土地は自分の物とする。って法律、学校で習いましたよね。

しかし皇親と藤原家の均等は不比等の死と神亀4年の光明子(安宿媛)腹の皇太子の死で大きく崩れます。

それは藤原四兄弟に激震をもたらしました。又他の北夫人南夫人とも懐妊しないので、皇位継承は長屋王が吉備内親王の夫という立場で親王を称され、その存在が大きくなったのです。(昭和旧デパートそごう奈良店の建築の際に長屋王邸跡が確認出来、長屋親王と記載された木簡が出土していた事で彼がただの王族でないことは確かでした。

又続日本記にはそれ以前霊亀元年丁丑、勅以三品吉備内親王男女皆入皇孫之例焉と記述が出てきます。(父方では4世、母方では三世)母が天皇の娘なので皇孫にするというのです。男子の皇位候補者は安積皇子と長屋王だけになってしまったのです。

唐突に続日本記は伝えます。
  天平元年二月辛未、左京人従七位下漆部造君足、無位中臣宮処連東人等告レ密称、左大臣正二位長屋王私学二左道一、欲レ傾二国家一。其夜、遣レ使固守二三関一。(中略)将二六衛兵一、囲二長屋王宅一。(舎人親王、新田部親王、参議以下)就二長屋王宅一、窮二問其罪一。○癸酉、令二王自尽一。其室二品吉備内親王、男従四位下膳王、無位桑田王、葛木王、鉤取王等、同亦自経。(中略)○甲戌、遣レ使葬二長屋王、吉備内親王屍於生馬山一(中略)長屋王者依レ犯伏レ諜。雖レ准二罪人一。莫レ醜二其葬一埃。

朝廷に長屋王が天皇の地位を狙って謀反を起こそうとしていると二人が朝廷に名のり、軍が差し向けられ邸は包囲されます。さらに親王(天武天皇皇子、長屋王の伯父達)と公卿がその罪状を問いに現れると、長屋王は正妻(吉備内親王)とその腹の王達だけと共に首つり自殺してしまいます。

その後が?その遺体を天武天皇の孫という理由で丁重に生駒山に葬り(ちなみにその墓は推定ですがなんと法隆寺と目と鼻の先平群の村にひっそりと残っています。これって偶然???その墓は違うという異説もありますが、生駒と斑鳩は地理的に近いです。)
と勅命を出し、吉備内親王は無罪、生き残った他の親族は無罪放免にせよ!という命令といい、(もちろん不比等の娘とその子供達は無罪放免)
ようはあきらかにでっちあげだったわけです。

その証拠に集まって密談する事を禁じた詔が出されたり、同年四月に異端、厭魅呪詛者は処罰の詔が出て、長屋王の近親者が異変を起こさない様に釘を刺した訳です。殺害出来ないなら呪って殺そうなんて気はおこしちゃだめっ!!!ってね。
しかも実弟の鈴鹿王は公卿が揃って死亡した後に三番目に高い地位につきます。

その後の不審度はさらに高まります。天平十年六月密告者の一人東人が事件に巻き込まれて死亡します。
長屋王と親しかった大伴子虫と密告者東人が碁を打ちながら遊んでいた際に、話が長屋王の事件に発展した。お互いを罵り合い、大伴子虫が刀で中臣宮処東人を殺害したが、子虫は罪には問われなかったんですね。これって???ですよね。

長屋王は元明・元正天皇治世では藤原氏の不比等や房前と並び公卿の勢力図を左右うまく均等を取るため天皇の娘吉備内親王を正妻に持ち政治の上でも優遇されていました。しかし聖武天皇治世では彼自身の存在が聖武天皇、藤原家一門に取り、邪魔な存在になってしまったのです。
他の皇族舎人親王や新田部親王(母は鎌足の娘、天武天皇夫人で後の不比等夫人藤原五重媛)も大友皇子、大津皇子の皇位の正統性や謀反事件に記憶のある者ばかり。自分の一族を犠牲にしてまで彼を救う事より藤原家についた方が善作と決めたのでしょう。

この時元正上皇の心中はどうだったのでしょうか?当時同腹腹の姉妹は同じ母方の家で養育されていたかどうか確証はないものの(乳母の氏族の家で養育された可能性もあるので)元正上皇と長屋王と共に自害した吉備内親王は同母姉妹です。妹の死に動揺する事はなかったのでしょうか?もちろんそんな事に日本書紀はふれません。
が、気になりますよね・・・・・。知りながらしれんふりしてしまった・・・そんな自責の念はなかったのでしょうか?

この事件後、とってつけたように年代を天平と改め、
(天平元年)○戌辰、詔立二正三位藤原夫人一為二皇后一。
舎人親王にその理由を詔までさてて言わせています。
長い間皇后不在で政務が滞り、皇太子母であった藤原夫人が適任。元正太上天皇に許可ともとれる天皇への詔をだします。聖武天皇は臣下の皇后は葛城氏の娘磐之媛命がいると、実在さえあやぶまれる皇后の名を出して長々と言い訳の続く立后宣言でした。

しかも天平以降、干害、台風、橘三千代(皇后母)の死、皇后の病い、大地震、日食、新田部親王、賀茂朝臣比売(皇后外祖母)、舎人親王達の死が、疱瘡流行が続き、太上天皇(元明天皇)の病い、疱瘡再び続く。
と災難続きです。

【余談2】
以前「正倉院展」で光明皇后直筆の「楽毅論」を見た事があります。筆にはその人の性格が出るとも言われ筆跡鑑定で性格をあてる事も出来るのだそうです。その書の筆跡は一糸乱れぬ几帳面さがありながら一字一字に力強さがあり、良く言えば豪快で強い信念の持ち主のように見え、悪くいえば信念の為には他をかえりみない傲慢さもあるように感じました。又、最後に藤三娘と記してあるように藤原家の娘である事を自負していたようです。不比等と三千代の強力な遺伝子のそのままを受け継いだ人物のように思います。
しかしさすがの光明皇后も近親者の死去で気弱になってきた所、病がちになっていたようです。

そんな皇后の元に行信の「太子信仰」東院伽藍の建立話しが持ち込まれれば皇后はそりゃそれに飛び付くでしょう。

その内容とはどんなものだったでしょうか?

実はこの夢殿の付近は以前斑鳩宮跡でした。正確には夢殿の北部部分、殿自体にはその遺構はかかっていません。わざとかけなかったのかそれとも偶然かは不明です。

斑鳩宮で起こった事件こそ光明皇后を恐怖に陥れる出来事の原因の再現そのままだったのです。
その事件とは?
本題から少し時代を遡りましょう日本書紀は語ります。

【余談3】

九年春二月、皇太子初興二宮室于斑鳩一。
(十三年)冬十月、皇太子居二斑鳩宮一
廿九年春二月己丑朔癸已、半夜廐戸豊聆耳皇子命、薧二于斑鳩宮一。

これは額田部大王治世時に厩戸王子が斑鳩に宮殿を造営した。次にそこに移住した。その後年、その宮殿で死亡したという程度の記載です。
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【余談4】

厩戸王子は王都飛鳥を離れてどうして斑鳩などという地に本拠を移したのでしょうか?
古くは伊何屢俄と呼ばれる地、西に竜田、生駒山を抜けて河内平野を抜けると難波津に出る竜田ルート古代の交通網の1つでした。物部本流を滅ぼした後、河内、渋川、志紀は渡来系文化圏内であり、外国(特に朝鮮半島)からのいち早い文化をもたらす位置にあり、又この地は妃の一人と言われる皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した膳氏の関係する地一族に伊何屢俄という名の人物が記述されています、又隣接する平群の軍事豪族の平群臣の関係する地でした。
この二族は物部氏との戦いの際に厩戸王子と親交が深まったと言われています。
厩戸王子がなんでそんな遠い土地に?斑鳩?と疑問が大きくなるのです。ただ単純に王族が新しい仏教文化をいち早く知りたい。政治と離れたい仏教という世界に専念したいと思えばそんなに疑問はなくなるのです。
しかしそれは同時に難波湾から飛鳥への道竜田ルートをおさえるという事は=外交ルートを手にいれる

これが山背大兄王子の悲劇に至る理由ともいえるのです。朝鮮半島の三国(百済・新羅・高句麗)、隋(唐)と通じる窓口が「飛鳥」と「斑鳩」という二重外交ともいえ、三国に倭の内政干渉を受けるすきがあったとも言えます。そうとう危険な場所であったのです。

飛鳥:額田部大王、田村大王、宝大王

斑鳩:厩戸王子、山背大兄王子

これに
百済
高句麗

新羅


しかし個人的に斑鳩の里のイメージは「死」がつきまとっている様に思います。

三人の連続した死母穴穂部大后、膳妃、厩戸王子、山背大兄王の自害、そして藤ノ木古墳(埋葬者は厩戸王子の二人の叔父(母の同腹兄弟)とも言われています。母思いの厩戸王子が側に墳墓を造営させたのでしょうか?、そして長屋王、吉備内親王の生駒陵、そんなに遠くない二上山にある大津皇子墓、付近のお寺も生前住んでいた邸を死後寺に改めた縁起がほとんどでなんだか~~~なんです。


厩戸王子の父は日本書紀では
崇峻九月甲寅朔戌牛、天皇即天皇位。宮二於言磐余一。名曰二池邊雙槻宮一。

そこは桜井市で明日香ではありません。
つまり父、池邊雙槻大王の宮も明日香を離れていたのです。
これは池邊雙槻宮大王自身も倉梯柴垣宮(泊瀬部)大王を馬子が暗殺する事件の為に偶然王位をついだに過ぎなかった。しかも病で即位後すぐに崩御し、その在位は非常に短いものでした。

なので皇太子となり厩戸王子が額田部大王と馬子と共に政治を行えたかは疑問です。
馬子はともかく額田部大王にとって自分の子供達が健在の際は政敵でもあったはずです。その相手をその子供達が死亡したからといってわだかまりがなくなったといえるでしょうか?
しかも当時皇太子という地位が確立されていたというには疑問も残ります。
更に摂政についたといわれるには20歳にもならない王族とはいえはなはだ疑問です。

飛鳥時代、田村大王(舒明)の父の押坂彦人大兄王子は水派宮王家という宮家を明日香離れた地で営んでいました。

その事を考えても厩戸王子が皇太子でも摂政でもなく普通の王族の一員だとすれば別段深くとらえる事ではないと思います。斑鳩寺、四天王寺、斑鳩宮を建築出来るほどの財力を父母から相続出来た裕福な王族だったと考えられます。

ただ厩戸王子と血筋の関係者の墳墓はほとんど明日香とはなんの関係もない河内の磯長にあります。訳語田幸玉大王(敏達)、額田部大王(推古)、池邊雙槻宮(用明)、小野妹子、もちろん厩戸王子、穴穂部大后(厩戸の母)、妻膳妃の三人合葬墓。しかも(聖徳太子)そこはなぜか、いや必然的聖武天皇開基伝と言われる叡福寺が墓守しているんです。

この一族は継体大王と大和朝廷の大王の直系王女との血族です。田村大王は継体大王と最初の妻との間できた血族です。血統はやはり大和朝廷直系血族が優勢でしょう。
ここがそもそもの大王即位争いの出発点でしょう。

この墳墓は後世に改葬された物のようです。(個人的には藤原不比等政権下と思えてなりません。)何故か軽大王(孝徳)も?まあ戦前宮内庁が書紀を元に定めたものなので、信憑性は?ですが・・・話しを戻し、更に時代をさかのぼらせます。

話し戻し
厩戸王子死後、額田部大王が病に臥せ、もはや崩御も時間の問題という時期に次の大王候補と目されていた二人の王族を枕元に呼びます。

則召二田村皇子一謂之曰、昇二天位一而經二綸鴻基 不レ可二輜言一、馭二萬機一以亭二育黎元一、本非二輙言一。恆之所レ重。故汝愼以察之。
即日、召二山背大兄一教之曰、汝。肝稚之。若雖二心望一、而匆二諠言一。必侍二群臣言以宜レ従

これは堅く身を慎むようにと言った程度の内容で王位継承者のどちらに即位させるか明言していません。
受け取りようで、両方ともに王位を与えたいと受け取れるのです。

額田部大王が崩御すると、豊浦大臣(馬子の息子蝦夷)は王位について悩みます。

嗣位未レ定。當二是時一蘇我蝦夷臣為二大臣一。獨欲レ定二嗣位一。顧畏二、群臣不レ従。則興二阿部麻呂臣議、而聚二群臣一、饗二於大臣家一
中略 今誰為二天皇一。時群臣嘿之。中略 於是大伴鯨連進曰、既従二天皇遺命一耳。更不レ可レ侍二群言一。阿部臣則問曰、何謂也。中略 詔二田村皇子一、曰三天下大任也 中略
皇位既定。誰人異言。時采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連禰気、難波吉士身刺、四臣曰く、隨二大伴連言一更無レ異。許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、三人進曰、山背大兄王、是宣レ為二天皇一。唯蘇我倉麻呂臣獨曰、臣也當時、不レ得二便言一。更思之後啓。
中略 先、是大臣獨問二境部摩理勢臣一曰、今天皇崩無レ嗣。誰為二天皇一。
對曰、擧二山背大兄一為二天皇一。

まず自分(豊浦大臣)には決まった大王がいるが皆が従わないと困る。どうしたらよいかまず阿倍麻呂(これは後の軽王の側近で阿倍内麻呂)に相談します。阿倍麻呂は蘇我大臣家で夕食会を開きその後に誰が適任者かと問うよう進言います。
ここで

大伴臣、鯨采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連禰気、難波吉士身刺は田村王子派
許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、境部摩理勢臣は山背派

蘇我倉麻呂臣は保留
5対4で全員一致はしませんでした。

これって?不思議
①当時の大臣の地位にいた蘇我宗家がどうして豪族の意見を聞いて同意を求めようとするのか?
②阿倍麻呂は誰を押したか書いていません。そしてなにより、
③豊浦大臣と阿倍麻呂の二人の話も書いていません。

ここで読み取れるのは
①当時大王の選出は先大王の意思や指名でなく豪族の意見から選出される多数決によるものといえるでしょう。
 だから額田部大王が次期大王の名を告げないのは当然といえるのです。
②豊浦大臣は当時豪族の中で大きな権力を保持していないか、もしくはあっても保持しなかった。
嶋大臣から直系相続という当時珍しい継承を手にした豊浦大臣には後ろめたさの様な物があったのかもしれない。
③阿倍麻呂の沈黙と蘇我倉麻呂の保留の不気味さです。
すでに阿倍麻呂は軽王という御旗を手にしていたが、感ずかれたくないのであまり王位について積極的だと見られないように装っていた。蘇我倉麻呂は豊浦大臣と阿倍麻呂の様子を覗っていたように思えます。

これは推測ですが、当時の豊浦大臣はなにかと引き合いに王位の選択を譲ったのではないでしょうか?
それは林太郎鞍造(入鹿)の本家相続と引き換えに阿倍麻呂の押す田村王子を即位させるつもりなのでは?
豊浦大臣は馬子から宗家を相続出来ましたが、それは当時の馬子の絶対権力と大王の信任によるものです。
兄弟相続があたりまえの時代、親子相続を二代に続けるには相続が難しいと考え、阿倍麻呂の密談に応じたのではないでしょうか?又山背大兄王が叔父と呼んでいる所、豊浦大臣の妹が厩戸王子の妻であるのは事実のようです。(但し日本書記は厩戸王子が山背大兄王の父親だとは明確に記述していません。
これには巧妙なトリックが隠されているのです
。)
田村王子にも妹を嫁がせて古人王子も誕生していたら、そしてすでに山背大兄王の母である妹はすでに死去し、居住エリアも圧倒的に斑鳩と明日香では距離があり、親近感も薄かったのではないでしょうか?
要は今の大王というより、次の大王の即位を願ったとの取れるのです。そして、阿倍麻呂としては田村王子が即位したほうが、その后宝媛の弟軽王の皇位もあがる訳です。のらない訳がありません。
又国際政治外交で山背大兄王が豊浦大臣や大夫、田村王子とは違う考えを持っていたとしたら、飛鳥朝廷で山背に浮いた存在だったでしょう。確実に大王即位には不適格と考えられたとして不思議ではありません。

さて話しを戻しましょう。
この話を人ずてに聞いた山背大兄王は黙って沈黙しませんでした。

是時山背大兄、居二於斑鳩宮一、漏二聆是議一。即遣二三國王 櫻井臣和滋古二人一、秘謂二大臣一曰、傅聞之、叔父以二田村皇子一、欲レ為二天皇一。我不レ能二獨對一。立思矣居思矣、未レ得二其理一。願分明欲レ知二叔父之意一。於是大臣得二山背大兄之告一、而不レ能二獨對一。
則渙二阿部臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等一、仍曲擧二山背大兄之語一。既而便且、謂二大夫等一曰、汝大夫等、共詣二於斑鳩宮一。當啓二山背大兄一曰、賤臣何之獨諏定二嗣位一。唯擧二天皇之遺詔一、以告二于群臣一。々々並言、如二遣言一、田村皇子、自當二嗣位一。更詎異言。是群卿言也。特非二臣心一。但雖レ有二臣私意一而惶之、不レ得二傅啓一。乃面日親啓為。爰群大夫等、受二大臣之言一、共詣二斑鳩宮一。使下三國王・櫻井臣以二大臣之辭一啓中於山背大兄上。
時大兄王、使レ傅問群大夫等一曰、天皇遺詔奈之何。對曰、臣等不レ知二其深一。唯得二大臣語爿犬、稱、天皇臥病之日詔二、田村皇子一曰、非三輕輙言二來國政一。是以爾田村皇子、愼以言之。不二可緩一。次詔二大兄王一曰、汝肝稚。而勿二諠言一。必宜レ従二群臣言一。是乃近侍諸女王及采女等悉知之。且大王所レ察。於是大兄王、且令レ問之一曰、是遺詔也、専誰人聆為。答曰、臣等不レ知其密一。既而更亦、令レ告二群大夫等一曰、愛之叔父勞思、非二一介之使一、遣二重臣等一而教覺。是大恩也。然今群卿所レ噵天皇遣命者、少々違二我之丁聆。
吾聞二天皇臥病一、而馳上之侍二于門下一。時中臣連禰気、自二禁省一出之曰、天皇命以喚之。
則参進向二于閤門一。亦栗隈采女黒女、迎二於庭中一、引二入大殿一。於是近習者栗下女王為レ首、女嬬鮪女等八人、荓敷十人、侍二於天皇之側一。且田村皇子在焉。時天皇沈病、不レ能レ覩レ我。之栗下女王奏曰、所喚山背大兄王参赴。即天皇起臨之詔曰、朕以二寡薄一、久勞二大業一。今暦運レ將レ終。以病不レ可レ諱。故汝本為二朕之心腹一。愛寵之婧、不レ可レ為レ比。其國家大基、是非二朕世一。自レ本務之。汝雖二肝稚一、愼以言。乃當時侍之近習者悉知為。故我蒙二是大恩一、而一則以懼、一則以悲。踊躍歓喜、不レ知二所如一。仍以為社稷宗廟重事也。我眇小以不賢。何敢當焉。當二是時一思三欲語二叔父及群卿等一。然未レ有二可レ噵之時一、於今非レ言耳。吾曾將レ訊二叔父之病一、向レ京而居二豊浦寺一。是日、天皇遣二八口采女鮪女一、詔之曰、汝叔父大臣、常為レ汝愁言。百歳之後、嗣位非レ當レ汝乎。故愼以自愛矣。即分明有二是事一。何疑也。然我豈餮二天下一。唯顯二聆一耳。則天神地祇共證之。
是以冀生欲レ知二天皇之遣勅一。亦大臣所遣群卿者、從來如二嚴矛取レ中事一、而奏請人等也。
故能宜レ白二叔父一。既而泊瀬仲王、別喚二中臣連・河邊臣一緭之曰、我等夫子、並自二蘇我一出之。天下所レ知。是以如二高山一恃之。願嗣位勿二輙言一。則令二三國王・櫻井臣一、副二群卿一而遣之曰、欲レ聞二還言一。時大臣遣二紀臣・大伴連一、緭二三國王・櫻井臣一曰、先日言訖。更無レ異矣。然臣敢之、輕二誰王一也、重二誰王一也。於是敷レ日之後、山背大兄、亦遣二櫻井臣一、告二大臣一曰、先日之事、陳レ聞耳。寧違二叔父一哉。是日、大臣病動、以不レ能三面言二於櫻井臣一。明日、大臣喚二櫻井臣一、即遣二阿部臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣・大伴連一、啓二山背大兄一言。自二磯嶋宮御宇天皇之世一、及二近世一者、群卿賢哲也。
唯今大臣不賢、而遇當二乏レ人之時一、誤居二群臣上一耳。是以不レ得レ定レ基。然是事重也。不レ能二傳一。故老臣雖勞面啓之。其唯不レ誤二遣勅一者也。非二私意一。

即而大臣、傳二阿部臣・中臣連一、更問二境部臣一曰、誰王為二天皇一。對曰、先レ是大臣親問之日、僕啓即言乞之。
今何更而傳以告耶。乃大忿而起行之。適二是時一蘇我氏緒族等悉集、為二嶋大臣一造レ墓、而次二于墓所一。爰摩理勢臣、壊二墓所之蘆一、退二蘇我田家而不レ仕。時大臣慍之、遣二身狭君勝牛・錦織首赤猪一而珻曰、吾知二汝言之非一、以二于支之義一不レ得レ害。唯他非汝是、我必忤レ他從レ也。若他是汝非、我當乖レ汝從レ也。是以汝遂有レ不レ從者、我興レ汝有レ瑕。則國亦亂。然乃後生言之、吾二人破レ國也。是後葉之悪名焉。汝愼以勿レ起二逆心一。然猶不レ從、而遂赴二于斑鳩一、佳二於泊瀬王宮一。於是大臣益怒、乃遣二群卿一、請二于山背大兄一曰、頃者摩理勢違レ臣、匿二於泊瀬王宮一。願得二摩理勢一、欲レ推二其所由一。爰大兄王答曰、摩理勢素聖皇所レ好。而暫來耳。豈違二叔父之情一耶、願勿瑕。則謂二摩理勢一曰、汝不レ忘二先王之恩一、而來甚愛矣。然其因二汝一人一、而天下應レ亂。亦先王臨沒、謂二諸子等一曰、諸悪莫作。諸善奉行。余承二斯言一、以為二永戒一。是以雖レ有二私情一、忍以無レ怨。
復我不レ能二レ違二叔父一。願自レ今以後、勿レ憚改レ意。從レ群。而无レ退。是時、大夫等且誨二摩理勢臣一之曰、不レ可レ違二山背大兄王之命一。於是摩理勢臣、進無レ所レ歸。乃泣哭更還之、居二於家一十餘日。泊瀬王怱發レ病薧。爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。大臣將レ殺二境部臣一、而興レ兵遣之。境部臣聞二軍至一、率二仲子阿椰子一、出于門一坐二胡床一而待。
時軍至乃令二來目物部伊區比一以絞之。父子共死。

叔父である豊浦大臣に大王即位について抗議し事実と違うので、大臣の本心を知りたいと使者を送るも、大臣はこれに答えず、山背大兄王は再三使者を送るも同様に返され、豊浦大臣は明言をさけます。が、山背も頼みの綱は蘇我宗家のみとばかりになお返答を求めます。が、やはりはっきりとした返事はもらえません。そんな駆け引きの中、豊浦大臣は境部臣摩理勢になおも次期大王に適任者は誰かと問いかけます。
(どうやらあとの三人は説得出来たようです)
怒った摩理勢は嶋大臣の墓造の指示を放棄するだけでなく墳墓建築施設を破壊した後、厩戸王子の弟泊瀬王の宮殿に行っていました。しかしその後頼みの王は死去してしまい。後ろ盾を失った摩理勢は山背大兄王子に泣きつくも、促され泣きながら自宅に戻ります。ここぞとばかりに怒った豊浦大臣は摩理勢邸に軍を差し向け親子ともども殺害します。

ここに皇位がさだまったのです。
豊浦大臣の希望は全員一致での田村大王即位だったようです。

所が田村王子は即位するもの治世半ばで崩御、今度はその妻宝大后が即位し、豊浦大臣が病で政務を取れず息子林太郎鞍造に大臣の地位を譲ったまさにその直後事件は起こります。

何故かここでは山背大兄王は自身の即位について豊浦大臣に追求していません沈黙するのみです。
不思議ですあれほどじたばたして抗議していたのに、大臣に見捨てられたと自覚したのでしょうか?無策のまま時を過ごしていたようで書紀にも記述がありません。

壬子、蘇我大臣蝦夷、縁レ病不レ朝。
私授二紫冠於子入鹿一、居擬二大臣位一。(中略)
戌牛、蘇我臣入鹿獨謀、將下癈二上宮王等一而立二古人大兄一、為中天皇上。
林太郎鞍造は病気の父から勝手に大臣の地位を貰い、古人大兄王子を即位させる為に山背大兄王を単独殺害計画という暴挙に出るのです。

日本書記には
十一月丙子朔、蘇我臣入鹿遣二小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連一、山背大兄王子等於斑鳩一。於是奴三成興二敷十舎人等一、出而拒戦。土師娑婆連、中レ箭而死。群衆恐退。軍中之人、相請之曰、一人當千、請二三成一歟。山背大兄、仍取二馬骨一、投二置中寝一。遂率二其妃、荓子弟等一、得レ間逃出、隠膽駒山一。三輪文屋君・舎人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅緇従焉。小徳巨勢徳太臣等焼二斑鳩宮一。灰中見レ骨、誤請二王死一、解レ圍退去、由レ山背大兄等、四五日間、淹二留於山一、不二得喫飯一。三輪文屋君、進而勸曰、請、移二向於深草屯倉一、従レ玆乗レ馬詣二東国一、以二乳部一為、本、興レ師還戦。其勝必矣。山背大兄等封曰、如二卿所∇導、其勝必然。但吾情冀、十年レ役二百姓一。以二一身之故一、豈煩二勞萬民一。
又於後世、不レ欲丁言丙由二吾之故一喪乙己父母甲。豈其戦之後、方言二大夫一哉。夫損レ身固レ國、不二亦大夫一者歟。
有レ人遙見二上宮王等於山中一。還噵二蘇我臣入鹿一。々々聞而大懼。速發二軍旅一、述二王レ所一在於高向臣國押一曰、速可三向レ山求二捉彼王一。國押曰、僕守二天皇宮一、不レ敢出∇外。入鹿即將二自徍一。丁時古人大兄皇子、喘息而來問、向二何處一。入鹿具説二所由一。古人皇子曰、鼠伏レ穴而生、失レ穴而死。入鹿由レ是止レ行。遣二軍將等一、求二膽駒一。竟不レ能レ崽。

藤氏家伝では
後崗本天皇二年歳次癸卯 冬十月 宗我入鹿與諸王子共謀 欲害上宮太子之男山背大兄等曰
上宮聖徳法王帝説では
十一月 入鹿臣 獨遣小巨勢臣太等 欲率兵弑山背大兄王等於斑鳩宮 於是 大兄王奴三成率數十人距戰 出於万死 鋒不可當 然而大兄王 即取獸骨 投置内寢 率子弟 從間道出 隱膽駒山 軍衆燒斑鳩宮 見骨灰中 軍衆皆謂 王已死 解圍退去 

聖徳太子伝補闕記(伝知恩院)
日本書紀暦録并四天王寺聖王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾
癸卯年十一月11日丙戌亥時、宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輜王、巨勢徳太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣盬屋枚夫等六人 發悪逆至太子子孫 男女廿三王無罪被害山代大兄王蘇 殖栗王 茨田王 乎末呂王 菅手古女王 春米女王 膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王。  

日本書紀上宮聖徳法王帝説は概ね同じで林太郎鞍造が家来を使い、単独で山背大兄王を襲撃し、王子はいち早く家族と家来と共に動物の骨を身代りに宮殿に火をつけて生駒に逃れ、しばらく隠れ家来の深草の屯倉に行き軍備を整えて東国の乳部の者と共に挙兵して戦おうと進言するも、民を犠牲に出来ないと覚悟して一族と共に斑鳩寺に戻り、一族ともに火をつけて自殺します。その様は天女や極楽の音楽に迎えられて浄土に向かう美しい様子を描いています。
藤氏家伝は林太郎鞍造と王達が山背大兄王子を襲ったと記述しています。要は他の王族も共謀していたというのです。


聖徳太子伝補闕記は具体的に共謀者を挙げて林太郎鞍造の単独説を否定しています。
この書はかなりいわくつきの書で長く知恩院の書庫にあり長く世に出ていなかったようです。
が文書の初めから手厳しい

日本書紀暦録并四天王寺聖王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾」

日本書記と四天王寺聖徳太子伝記はまったくもって事実を記していない。はなはだ不快なので、古書を探した所、調使家(具体的に家名はありません。調という当時の税金の管理を任されていた一族だと想像出来ます。)と膳家(厩戸王子の舅の家系、山背大兄王子の正妻の実家)の家伝書を手に入れる事が出来たのでこれを持って記する。と言ってるのです。作者不明ながら僧であり、かなりの学識があり、知恩院とも関係の深い人物のようです。

聖徳太子伝補闕記
宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輜王、巨勢徳太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣盬屋枚夫等六人

蘇我豊浦元大臣、林太郎大臣、軽王(そう後の孝徳)そして中臣氏のこの人は誰なのか?

そうこ中臣盬屋枚夫こそ「中臣鎌足だ!」といえばどう思いますか?
この説、そんなに嘘くさくないんです。

何故なら日本書紀にその後の実行犯は巨勢徳太と大伴馬飼の二人軽王が即位したあと大出世するんです。

しかもその後の中大兄大王(天智)治世でもです。
しかも聖徳太子伝補闕記では一族が自殺した後、生き残った弓削王を僧であるはずの大狛法師(この人物も軽大王(孝徳)治世、十師に選ばれる高僧です。)が斑鳩寺で絞殺したというのです。

僧がそこまでして厩戸王子の血を残さないという意思は相当な事です。わざわざ刺殺しなくてもただ密告するだけでいい訳ですから。

一王族の大王継承者の完全全滅が目的だった。

そしてその日本書記も沈黙し林太郎単独犯だと記述しながら

入鹿即將二自徍一。丁時古人大兄皇子、喘息而來問、向二何處一。入鹿具説二所由一。古人皇子曰、鼠伏レ穴而生、失レ穴而死。山背大兄王が生き延びて生駒に居る事を知って、高向に再襲撃を命令するも拒否、単独で軍を動かそうとするも、古人大兄王子が引きとめます
え~~~!!!単独説じゃないじゃん。なんで古人大兄王子一緒にいる。しかも鼠の穴ってどこ?

私達日本書紀の大虚にまんまとしてやられているんです。

山背大兄王子襲撃事件の背後には「磯城島金刺宮(欽明)大王」から分かれた二家の大王相続権抗争だったのです。

蘇我氏腹妃の血筋磐余池辺雙槻宮(用明)大王家 対 磐余玉穂宮(継体)大王の先妃の孫娘石姫腹の血筋訳語田幸玉宮(敏達)大王家
  山背大兄王      対        田村王子 

しかもこれに外交問題がからんだ複雑な問題だったので更に深刻です。

朝鮮半島が軍事状況の中、倭でもその影響を受けずにはいかなかった。三国共倭の大王が誰になり大臣大夫達を自国へ優位に働きかけをしていたので更に複雑です。

百済は田村、宝女王、軽王派(後に新羅や唐派と思われる行動が多い)であり同時に蘇我宗家が支持していました。 
この隙を高句麗、新羅が自国の優位に大王継承権に首をはさんでもおかしくありません。

この襲撃明らかに皇位継承権王族同士の争いに豪族達が関わっていたのです。しかも飛鳥の豪族、王族達は何もせず、沈黙して山背大兄王達上宮王家の滅亡を容認してしまっています。

日本書紀に立派な人物のしかも皇太子の地位にいた者の息子などと書いたなら、その人物を大王にせず、しかも田村王子の子供達こそ当時の天皇家の一族(元明、元正、首皇太子(聖武)天皇)なのです。自分の先祖の皇位が不当などととられる記述は出来ません。しかも見殺しにしたなど到底書けません。なのでなんとなくボかして書いているのです。
上宮王家当主であり、蘇我豊浦大臣を叔父と呼この人物はどう考えてみても厩戸王子の子です。

この一族誠に奇妙です。
山背大兄王の正妻は厩戸王子と膳氏女の大姫春米女王、その子の妻は祖母穴穂部間人王女と義理の息子(用明の王子)田目王子の娘を妃にしています。他から豪族の妃を持っていません。蘇我氏の強い血筋を引いた斑鳩に一族のコロニーを持つ裕福ではあるものの非常に孤立した王族であったのでしょう。

総合的に考え、豊浦大臣は他の首謀者と共に林太郎鞍造の山背大兄王殺害を持ちかけられ、消極的に参加するものの良心がとがめられたのでしょう。

一族の血がそうさせたのか?山背大兄王子に知らせたのではないでしょうか?そうでなければ小さな子や女達が輿に乗りながらとはいえ斑鳩から生駒山まで簡単には歩けません。なにより、数十日も生駒に隠れていないでしょう。豊浦大臣は逃がすつもりはあったものの、積極的に助けるつもりはなかったのでしょう。もし助けるつもりなら救いの手を出したでしょう。生駒から深草、太秦の秦氏か膳氏に手助けさせたでしょう。山背大兄王はおそらく豊浦大臣が助けてくれると思い、山中に長く潜伏していたものの、誰の手助けも受けられず、飲食にも困りはてもう自殺するしかなかったのでしょう

一族を連れて山を降り、弟、妃、妾(妾の存在は不明)、子供達と斑鳩寺で自殺してしまいました。


そんな話しをもし行信がして「こんな時だからこそ聖徳太子様を祀りしないといけないのです!」と光明皇后に進言したら、皇后は恐怖で震えあがり、聖徳太子を大切に祀ったでしょう。

なぜならもう10年前の話しとはいえ長屋王の事件そのままなのです。

しかも光明皇后の母は県犬養橘宿禰三千代、そう犬養氏族といえば入鹿暗殺犯グループにも参加していた氏族、そしてあの山背大兄王子襲撃の黒幕「軽王(孝徳)」の拠点は県犬養氏の拠点軽里という説があるのです。なぜなら彼女は草壁皇太子と阿閇皇女の子「軽王子(文武)」の乳母なのです。皇子、皇女の名は乳母の出身地が付けられました。そう父方と母方二重の十字架を背負った光明皇后はかなりの衝撃を受け、東院伽藍の完成に尽力したでしょう。

東院伽藍の中心通称「夢殿」しかしなんで夢殿?じ~といて夢でも見て静かにしていてくださいましな聖徳太子様って事かしら???

八角円堂のこの御堂、通常この形状の御堂は個人を祀る為の御堂で、当時不比等や房前などの公卿が死亡した後縁者によって建立する事が多かったようです。
つまりは供養塔のような建物です。しかし八角は別の意味で共通する建造物があります。
天皇や皇族などの古墳の形状がまさに八角なのです。
東院に関しては圧倒的に梅原氏の隠された十字架を指示します。そのお堂をまずは四方を回廊で囲み、屋根の中心には宝珠と言ってますが、その形は舎利物の物に非常に似ています。

又南に不明門いわゆる開かずの門で封印します。

その八角円堂の中にはあの有名な「救世観世音菩薩像」が祀られているのです。

正式には尊上宮王等身観世音菩薩木像壱躯金薄押というそうであくまでも厩戸王子が菩薩になった像なのだそうです。この像なぜかその様式から飛鳥時代製造が定説です。けれど東院伽藍が建立されたのは奈良天平時代です。
どこからパクってくたというのでしょうか?西院からというのでしょうか?西院には釈迦三尊像があります。これも厩戸王子の姿を釈迦にした像同じような像が二体あったというのも???考えにくいでしょう。あんなりっぱな像が他の厩戸王子縁の寺にあったのでしょうか?

飛鳥時代でまさか厩戸が生きていた頃に製作されたとは考えられません。というとやはり死後、「聖徳太子」という冠を付けられてからと解釈すれば、山背大兄王子生前でも無理があるでしょう。自分の父が仏になる=自分も仏と解釈されかねません。というとやはり飛鳥時代では無理があるでしょう。

これは推測ですが、やはり改めて像を製作したというのが、正解ではないでしょうか?
飛鳥時代といつわりその姿だけを飛鳥様式にする。
当時の名工の中でも際立って優れた若い仏師に行信が細部に渡るまで製作に関与したとは思えないでしょうか?
そしてその魔を内に秘めた美しい楠製の恐ろしい像を製作した。その方が自然の様に思えます。

外観は観世音菩薩にその実、巧妙に仕掛けられた呪いの封印。


菩薩の手に燃え上がる舎利を持たせ、中は空洞、しかも崇拝対象の像の頭に後輪を打ちつけるなんぞは尋常な方法ではありません。
これは聖徳太子といいながら、その実長屋王自身ではないでしょうか?

長屋王が無実である事は十分承知している。

けれどこの時代まだ公に謀反人を祀慣習がなく、またそれをすると自身の正統性を批判する事です。
だから聖徳太子像と言いながらその実は長屋王像の供養仏でもあった。
だからこそこの像は非仏として布でグルグル巻きに何十もされ、封印し「開封すれば寺が滅亡する」まで伝承を残させたのではないでしょうか?
そう思いながら拝観すると実に恐ろしい場所です。
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この夢殿の周りを回廊で囲っている南門は通称「開けず門」と伝承しています。門なのに開けない。???
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後年夢殿の丁度、北側に奈良時代の建築物 瓦葺講堂一間 通称「伝法院」が移築されます。

ここは丁度斑鳩宮があった場所でおもいっきり敷地にかかって奈良時代に移築されました。

この建物、橘宿禰佐為の娘聖武天皇夫人「橘古那可智」の邸宅を東院に施入し、院側が仏殿として改築した痕跡のある建物です。この行為も見逃せません。なぜなら彼女の父も藤原四兄弟と共に同年疱瘡で死去しているからです。かさねてやはり熱心な仏教徒だといわれています。これは彼女の邸宅であり、又父佐為の邸宅であったのではないでしょうか?
この年の疱瘡の流行が長屋王の祟りと噂されていたというのであれば、この東院の建築に係わった光明皇后とは従姉妹で同じ後宮にいた橘古那可智が縁の建物を施入した事実はやはり

聖徳太子=長屋王の鎮護寺の創立
と見た時、さらに真実味を浴びてくるのです。

その他に「東院資財帳」に檜皮葺屋三間、瓦葺僧房二間の記述がありますが、現在絵殿、舎利殿、鐘楼、門外に太子殿、北室院、本堂が存在しています。

光明皇后はこの東院の完成の頃、続日本記の記述では大病を患っており、相当精神的にまいっていたのでしょう。

この東院は完成一年前に立太子をした阿倍内親王を守る意味でも彼女の名を縁起に残すほど重要であった思いのあらわれだと思われます。

その後、光明皇后は東大寺や天平十七年(745年)には父不比等邸で自身の皇后宮を総国分尼寺「法華滅罪之寺」通称法華寺を創建します。しかもこの後の移動場所がなんと長屋王邸跡。発掘調査で王邸跡近くから皇后宮の木簡資料等の発見があり、その後光明皇后が宮殿として使用した痕跡が残っているのです。そりゃ滅罪だわね~~~ので、法隆寺奉納、施入はひと段落したと思った様で親族の橘夫人にその代行をされる様に今度は橘夫人名義で法隆寺に奉納が始まります。

【光明皇后と法隆寺の関連年表】
大宝元年701年安宿媛(後の光明皇后)、同年首皇子(後の聖武天皇)誕生
霊亀二年716年安宿媛、首皇太子妃となる。
養老二年718年阿倍内親王誕生。
  四年720年父不比等死去
神亀四年727年基皇子誕生。
  五年728年同皇子死去。
天平元年729年長屋王の変同年八月立后する。
  二年730年施薬、悲田院を置く。
  五年733年母三千代死去。法隆寺に阿弥陀仏奉納。
        皇后病む
  六年734年皇后回復す、法隆寺に宝物施入。
  八年736年光明・牟漏姉妹法隆寺に鏡を奉納。行信法隆寺で法華経講会催す。
  九年737年仏具奉納同年藤原四兄弟相次いで死去。皇后上宮王院へ施入を変更
  十年738年阿倍内親王立太子。法隆寺に食封二百戸、財宝施入。行信律師に任命される。
 十一年739年皇后病む。行信東院伽藍「通称夢殿」完成。

その後、平安前期の僧道詮が山城国へ遷都後、荒廃する東院を再興させ、夢殿は現在私達が目にする姿に改築されました。

第三章「西院伽藍」 

【法隆寺は怨霊鎮護寺だ】

さて本題の西院伽藍。難しい御題です。

日本書記、続日本記に出る法隆寺の記述は極めて少ないのが現状です。何故ならその他に同時期の寺院の建築物が存在せず、比較の対象が出来ない最大の理由があります。

学者の間でも、美術、建築、その他の知識人でも西院の説明はつじつまが合わず、法隆寺の謎は深まるばかりです。

若草伽藍は山背大兄王の惨事から後も、存在していたといってよいでしょう。
それは軽大王が難波に遷都した大化3年法隆寺資材帳に「合食封参佰戸大化三年歳次戌申九月廿一日己亥、許世徳陀高臣宣命納賜」とあるからです。

この人そう山背大兄王を襲撃した張本人巨勢徳太です。
軽大王に願い法隆寺に食封三百戸施入したというのです。政権が落ち着いたので罪滅ぼしのつもりでしょうか?
とにかく斑鳩寺は施入を受け小規模であったろうが存在しました。しかし!

日本書記から
天智九年夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災二法隆寺一。一屋無レ餘。

今の若草伽藍の出火の結果法隆寺は全壊していまったと記述しています。
前年の出火の記事もあり、どうやら自然災害には勝てなかったようです。その後の様子は諸説によると

聖徳太子伝補闕記
預言太子子孫滅亡之讖 斑鳩寺被災之後 衆人不得定寺地 故百濟入師率衆人 令造葛野蜂岡寺 令造川内高井寺 百濟聞師 圓明師 下氷君雜物等三人合造三井寺

聖徳太子伝記
庚午年四月三十日夜半 灾斑鳩寺 而暦録不記 此年是推古天皇十五年矣 又説曰 寺被灾之後 衆人不得定寺處 故百濟入法師率衆人 令造楓野蜂岡寺 又造河内國井田寺 又百濟開法師・圓明法師・下冰君新物等三人 合造三井寺矣

これは中大兄王子即位後の9年目、都はすでに大津に遷都された後の話しです。なので、普通に考えて壬申の乱~天武天皇即位し飛鳥への遷都をした後の話しと理解しないといけません。でないと、焼け野原にどこが斑鳩寺かわからないなどと人々がうろたえるはずはないのです。

上記2記は斑鳩寺がどこにあったか見当もつかなかったので、百済法師が、百済開法師、圓明法師・下冰君新物の三人が葛野蜂岡寺、高井田寺、三井寺(法輪寺)を建立したと記述されています。

この文章では斑鳩寺の再建についてはきわめてあいまいです。


1項 法隆寺の七不思議

①法隆寺の南大門には蜘蛛が巣をかけない。
②南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある。
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③五重塔の上に鎌がささっている。
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④不思議な伏蔵がある。
⑤法隆寺の蛙には片目がない。
⑥夢殿の礼盤(僧が座る台)
⑦雨だれが穴を空けるべき地面に穴が空かない。

なんだか怪談じみた話しです・・・・・・・
①そんな事ないです~~~
②は元々の南大門の位置はもっと北だった訳で、中世に子院の増築で移築して今の位置にあるのでそんなに気にする事ではと思います。鯛石は一説に竜田川の氾濫による水限を現したともいわれているそうです。
③避雷針用ともいいますが、それなら他の寺院でも継承されていてもおかしくありあせんが、この鎌は法隆寺のみに限られます。
④金堂の隅に石盤がはめ込まれ、仏法が滅亡した時に封印を解けといわれているそです。
⑤そんな事ないです~~~
⑥確認出来ません~~~
⑦そんなことないです~~
やはり怪談じみています。法隆寺とはそんな謎にみちたおどろおどろしい様な気がしてきました。

2項 法隆寺再建

これはかなり困難な課題です。

火災のあったという日本書紀の年は通常考えて近江に都があった時期です。
信仰深い人々が斑鳩に集まれる環境とはいえず、その1年後に壬申の乱の内乱が起こります。再建はやはり天武天皇が飛鳥淨御原宮で即位し、都が飛鳥に戻ってからと考えるのが妥当でしょう。
では誰が?

やはり山背大兄王子への自責の念と厩戸王子への信仰に係わった者達
創建当初国家関与はないと考えてよいでしょう。

天武天皇は百済大寺(父田村大王か創建、宝大王も建築するも未完の巨大寺院)、山田寺(持統天皇の祖父蘇我倉石川麻呂の氏寺の再建)、薬師寺の建立(持統天皇の病気平願の為に建立された)、しかも藤原京の遷都も計画中なので、法隆寺までは手はまわらない。
なんせ「租庸調」の財源は決まっているので放題に使用出来ません。

しかも天武天皇は己卯年(679年)に食封を停止させました。

建築途中の法隆寺に最大の危機が訪れます
。官寺なら絶対ない対応です。

それなら膳氏、山部氏、秦氏、平群氏といった斑鳩の地に関係し厩戸王子の縁の者が複数で法隆寺再建に関与したと考えてみてもいいのではないでしょうか?
しかしやはり中心となったのは厩戸(聖徳太子)王子信仰を唱える旧斑鳩寺の僧達だったと言ってよいでしょう。

また山背大兄王を見捨てた斑鳩近隣の厩戸王子と関わりのある豪族達はその時代の変化と遷都が続いて罪悪感が薄らいでいたが、再び飛鳥の地に遷都され、帰った事で罪悪感が増してくる。しかもその罪なき者を鎮める寺がなくなっている。

特に斑鳩の支配権及び近隣の豪族は後ろめたかったに違いありません。かといって法隆寺を公に支援するという行為も出来ないでしょう。
なんといっても天武天皇の血筋はその山背大兄王の敵であった田村王子なのですから。そこで建立を後方から支援したのではないでしょうか?
では創建はどう始められたのでしょうか?

創建場所は元斑鳩寺跡がわからないほど荒れ果てていたはずです。しかも当時、天武天皇による土地整備の為、斑鳩条里は変形され畑化して景観もおもがわりしていたでしょう。
後世の発掘調査では溝を造り若草伽藍跡のがれきをそこに撤去したという発見からもおおよその位置は把握していたものの確信がもてずあえて違う場所に再建したとみていいでしょう。
ここで法隆寺再建計画に携わった僧の間で意見が分かれ後にその一派は法起寺、法輪寺などの建立に関与したと推測出来ます。

新地再建論派はなんとか土地整備を行えば建立出来る場所が現在の法隆寺西院位置だったのでしょう。

しかも近くに生駒山から材木の伐採が可能ですし、整備して削り取った岡の土は像を製作する際の材料にも有効でしょう。現在跡地は池に治しています。瓦も近くの三井瓦窯がありますから、あとは木材を切り出す林業師、仏師、建築家、大工、工芸師など匠を揃えたのでしょう。
時代的にも唐との関係も改善され、朝鮮半島は新羅が統一していましたから、斑鳩という地理的位置からもいち早く技術や文化が入った事でしょう。その後高句麗も滅亡し渡来した高句麗人も見逃せません。

当時、寺院建立が国家事業として活発に建立、再建されるなか、その事業からはずれた一部の相当優れた仏教美術建築技術者達が関わったのはないでしょうか?

なので法隆寺式伽藍といわれる様式がこの地にだけあるのだと考えられます。

通説では寺院は百済建築様式が飛鳥時代の典型的な様式で建立されていました。今はない元興寺の五重塔の江戸時代の絵図が残っていますが、その百済式そのものでした。今韓国扶余にある百済文化団地の五重塔はそれとくりふたつ。

しかし法隆寺の物とはあまり似ているとはいえません。

三国時代の百済、新羅、高句麗は民族的には同じツングース系ではありますが、文化的に少し違いが見えます。
中国と敵対していたもののいち早く仏教を取り入れた北魏派の高句麗と南魏派百済、新羅はこの二大国に戦術でおされぎみになり後年唐軍を受け入れ朝鮮半島を統一します。

つまり再建法隆寺の建築には高句麗が唐により滅亡させられた後、亡命した高句麗の技術者が大きく貢献したと想像しても良いのではないでしょうか?

しかも厩戸王子の仏教の師は高句麗人「恵慈」(但し本当にそうだったとはいいきれません。なぜなら旧斑鳩寺には百済式が採用されていて、高句麗式ではないからです。)です。四天王寺、斑鳩寺の各建築物が高句麗様式で建築されていたと考えても不思議ではありません。むしろ自然かもしれません。

また法隆寺式伽藍は山田寺の変形バージョン更には法起寺の逆変形バージョンである可能性があります。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が建立し、後に謀反の罪で同仏殿で自決した後、贖罪の意味であろう中大兄王子が即位後再建をさせ、天武天皇期に完成した寺院です。

法起寺は父厩戸王子の遺言により、岡本宮を寺にあらためたという縁起の残る縁の寺院であり、法隆寺の塔と金堂が左右逆という配置のお寺です。

山田寺の伽藍では丁度塔と金堂を反転させ建築したものが法起寺では左右にふったものが法隆寺式といえ、今旧大安寺跡とされる吉備池廃寺跡は法隆寺式に極めて似ています。もし吉備池廃寺が百済大寺跡であるなら又この大寺も田村大王、宝女大王が建立にたずさわった天智、天武天皇が父母の鎮護目的に建立された官寺。

丁度伽藍が変わる編成期に再建が始まったと言え、ともに鎮護寺という意味でも興味深い共通点です。

再建年の基準となる材木伐採年輪から算出された数値によると、まずは金堂、五重塔、廻廊中門の順で再建され和銅四年法隆寺西院伽藍帳に仁王門の阿吽の像の完成の記述があるのでその頃に完成したと解釈していいようです。天武期からとしても足掛け30年近くすごいなが~~~すぎる造営ですよね。

初めは順調に進んだ再建途中の法隆寺に最大の危機が訪れます。

前項で述べた天武天皇期の食封停止です。この危機を奇才を使い切り抜けます、詳細は次項で!

続日本記の記述に
和銅四年に再建法隆寺が建立されるとその四年後食封が再び開始されます。
和銅八年(715年)鵤寺食封二百戸。

霊亀元年(715年)癸亥、設I二斎於弘福寺・法隆寺二寺一。
(中略)於レ是、未レ経二数日一、澍雨滂沱。時人以為、聖徳感通所レ到焉。

#和銅八年と霊亀元年は同年元明天皇の譲位と元晴天皇即位が重な年号が変わった為、両年共に同じ。
法隆寺で雨乞いの行事を行った所、にわかに雨が降り、時の人々は「これはさすがに聖徳太子様の力だ」と感心した。という記述です。この頃には官寺につぐ霊源新たかな寺「聖徳太子の御寺」と時の朝廷の賛美を受けています。

又合食封参佰戸。右養老六年歳次壬戌、納平城宮御宇天皇者
722年食封も再会されます。

又も神亀四年歳次丁卯年停止
(726年)律令に定まれた通り食封停止されます。

合食封弐佰戸。右天平十年歳次戌寅四月十二日、納平城宮御宇 天皇者

またも聖武天皇期738年に食封が始まります。
こう見た際まさに東院といい西院といい法隆寺はその創建期より奈良時代に黄金期を向かえるといって良いでしょう。

3項 金堂

【釈迦にされた聖徳太子】

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現金堂は内部一層、外観二層に裳階付きの建築物で斑鳩付近の7世紀仏教建築物の中では最古の建築物と言われています。(アジアでも最古の木造建築)軒を支える組物に雲形、上層部に卍崩し高欄など独特な建築様式を持つ特異な金堂です。裳階は製作途中で足された様ですし、後年の度重なる修復のせいで元の建築が私達が目にする現在の金堂とはかなり違いがあると思います。
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材木の年輪伐採は677年に伐採され、又部分材に伐採年輪年代668年、650末~660、673年代が見受けられています。
という事はそれ以前に岡を平らに整地し、金堂様に生駒山から杉や檜を伐採しました。しかしこの再建法隆寺に最大の危機が訪れます。天武天皇8年の食封停止です。財源を取られては計画に支障がきたします。

この危機を転材という奇策で乗り切ります。

又はやはり厩戸王子の建立寺院の再建建築というだけに縁の建物の部材を転用されたという可能性も考えられます。周辺地域は厩戸王子縁の王宮が点在していました。しかも朝廷は斑鳩に無関心だったので、放置状態だったので建築物はそこそこ残っていたでしょう。それらを厩戸王子の寺院を建築するのです。使用してなんの問題があるでしょうか?

一隻二兆な訳です。
木材伐採には近隣の豪族の支援もあったでしょう。特に山部氏は山林を管理する地位にある氏族です。ここで手を貸したに違いありません。部分材を使用しなくてはいけない金堂のなんとなく感じる歪つ感はそのせいでしょうか?

この斑鳩の地には天武・統持天皇の統治期にすぐ傍の竜田大明神の祭祀が厚く信仰をうけ朝廷から天皇の使者が訪れたと日本書記に記述されています。
そのすぐそばで建築されていた法隆寺の話しは天皇にも届いたのでしょう。

持統天皇時代には金堂で開催された「仁王会」の為に仏具の施入があり、この時期に金堂の建築出来た様です。
但し内部の色彩や壁画は完成に満たない状態ではないかと推測します。なにせ持統天皇期にも食封がありませんから。壁画はかなりそう和銅8年に遡ってもいいかも知れません。絵画は古典的に描ける物ですし、壁画を見る限り唐時代の影響を十分に受けている完成度をしています。

但し内部の装飾に、問題が発生していきます。金堂自体は天武期の完成を見たものの、その中に安置されている天蓋の年輪測定した結果、中の間のそれは606年から654年。西の間のそれは663年から670年というものでした。ここでも古い木材の転用がされていたのです。
それは天蓋に限らず、仏像3体の下の台座は中央の台座が一番古飛鳥時代七世紀前半、左右はそれよりは若干時代が下るが飛鳥後期時代と言われています。

そしてさらに中央の安置された御本尊釈迦三尊像、西の間に安置された第二の御本尊ともいえる薬師如来像第三の東の間に安置された阿弥陀如来像(この像と東の間の天蓋に関しては後世の作なのでこれ以上ふれません。様は台座だけが再建じ金堂に安置されていた)がありますが、両像共に北魏様式が採用されたといわれる釈迦三尊像は飛鳥時代作、薬師如来像は白鳳時代作という歪な金堂が出来あがったので、更に?????なるのです。つまり器が新しいのに中身が古い。

これが法隆寺の謎を深めている原因です。

像の光背にその作の経緯が記しているのですが、非常に??????なのでここではふれません。
つまり作風は釈迦三尊像の方が古いのにも関わらず、由来は薬師如来像の方が古いのです。しかもこの薬師如来像は左手に薬壷をもたず、しかもその手の印は釈迦そのものなのです。
つまり、薬師如来像といいながらその実は釈迦如来像なのです。??????

ここからはじき出される物それは!!!!!

金堂は転材を用いながら、天武期から元明期に飛鳥時代に建立された様にその外側を完成させた。

釈迦像と台座のバランスの悪さからはじけだされるのもそれは他の縁の寺院の統合により古い仏具を手にいれた法隆寺は古い仏具を金堂に配置し、その上に転材を使用して製作された天蓋を取り付けます。
時代は下りますが元正天皇(氷高内親王)治世に尼僧令という命令が発布されます。

様は当時各寺院は荒れ放題で尼僧達が寺を荒らし放題にしておいて朝廷には施入をせがむ事を叱責し、寺院の管理、統合、財産整理等を厳しく監視する法令を出したのです。
私達が考える寺院とは建築物、内装、安置仏具、本尊、脇像等が完成して初めて建立と考えていますが、そうではなく財政困難な法隆寺では建築物は完成出来ても、食封がない時代には内部までは完成していなかった。と考えてもよいのではないでしょうか?

仏具の古さはやはり縁の橘寺かもしくは中宮寺から持ち込まれたのではないでしょうか?
法輪寺、法起寺はほぼ同時期の建立寺ですし、なにより天武期にこの尼寺の坊はほとんど出火の為に消失しています。
数点法隆寺でも縁の品々が納められて今でも法隆寺にあります。

中宮寺の天寿国繍帳も元は法隆寺に保管されていた物を鎌倉時代の中宮寺の尼が寺に戻したという説話からも聖徳太子縁の寺院間の物の移動は意外と安易だったと推測出来ます。
後は仏像を待つばかりです。

仏像の製作した仏師はいわゆる止師ではなく(飛鳥大仏の名工ですが時代が下りすぎでそれはないでしょう。)高句麗亡命系の技術者、古来高句麗は北魏と国境をかいしていましたし、調遣していた事実も判明しています。百済滅亡後、しばらくして高句麗も滅亡します。その際倭に亡命したとしても可笑しくありません。その中の集団に仏師や仏教関連の技術者が斑鳩でその技術を発揮したとしても不思議ではありません。厩戸王子と高句麗僧恵慈の師弟関係は承知の事実です。

その仏像製作前、寺の将来に暗雲が立ち込めます。さらに聖徳太子信仰を高め、聖徳太子=釈迦という人物崇拝をさせる必要があり時の権力者の血の染める行為を鎮護出来、且つ怨霊封じが出来るほどのまさに仏教とはま逆の「魔」の仏世界の長の像が必要となりました。

その歴史自体を天皇家と大きな関わりを持たせる必要性があるように宣伝する為にも、又聖徳太子の崩御を壮大な一幕にするために3人の死というシナリオ作成します。

母穴穂部王女(間人大后)の死、膳氏の妃の死、そして聖徳太子自身の死を3身1体として金堂に3体の仏像を安置することにします。

まず聖徳太子の釈迦三尊像の製作、二台の天蓋、台座も古い転材を使用し、作業を急ピッチで行います。


この厩戸王子の姿を移した風変わりな釈迦像自体は短期間で製作出来たのですが、脇の二体が間に合わない。そこで法隆寺の僧は工人にすでにあった数体の観音像の中からを左右アシンメトリーな手の印を持つ二体の像を添え付けさせました。この像実は製作年間に若干のずれがあり、そのため左の菩薩像の保存状態が良いのではないでしょうか?
その釈迦像の工人達は、いや法隆寺の僧は像のあまりの出来のよさに恐ろしささえ感じ始めます。

そう仏の世界で人界で血の染めた強者に加担し、世に未練の残る弱者を仏界に封印する役割の像の完成は自らのそれに加担するという事です。
僧でありながら人界の血を流す役割をさせる像と自分自身。自分にもその怨念が降り注ぎはしないかと?
そしてしてしまうのです。

釈迦という名の持つ厩戸王子の額に白毫に見せかけたピン打ちを。そして本来の釈迦如来像(今は薬師如来像と呼ばれる像)は西に移され、台座も橘寺から用意させその名も薬師如来像と変えられ用明天皇にゆわれの像と冠をつけられます。御本尊となった聖徳太子化した釈迦三尊像はその縁起を偽造されあたかもずっと飛鳥時代からいましたよといわんばかりに鎮座しています。(いやさせられています。)

ちなみに現在中央に安置された釈迦三尊像の光背の外側には沢山の飾りがあったそうですが、安置の際に全て落っこちてしまったそうです。

この釈迦三尊像の台座東側裏には毛筆でこう記載されているそうです。

相見 陵面楽識心陵了時者

陵の面に相まみえよ、陵に葬られている死者の魂をしずめるためには。とい意味だそうです。

陵とは墓の事です。
この陵とは誰の墓の事でしょうか?穴穂部王子?泊瀬部大王?聖徳太子?山背大兄王子一族?大津皇子?長屋王・吉備内親王?

死者の魂を鎮めなくてはいけない。

この台座は飛鳥時代後期をくだらないと言われています。では厩戸王子と深い関わりのある敗者でというと穴穂部王子では?
すくなくとも台座の本来の安置場所は鎮護寺「中宮寺」か「橘寺」であったでしょう。厩戸王子の生母は同腹の乳母の氏も同じ穴穂部王女(又の名を間人大后)同母腹の兄を実の叔父に殺された母の思いを厩戸王子は仏教という思想で弔いを行ったのでは?と想像してみるのも一案です。

法隆寺はその創建の本来の意味の建立とは関係なく巨大鎮護寺となるのです。

時の権力者が大鉈をふるい暴挙に出る度に、死霊封じを生業にして紆余曲折はあったにせよ巨大な地位をその時代時代に応じて現存する事の意味を。教えてくれているようです。

初め法隆寺は単に上宮王家鎮護の寺として再建されたが→建立中に目的が変えられた。→聖徳太子を祀る寺として政治的敗者の怨霊を封じ込める霊源新たかな寺院へと変更された。→故に全体的に歪感のある謎の多い寺院に変貌した。

そして少し時を置きようやく残りの台座天蓋2体もそっくりに製作し、左右に阿弥陀如来像、薬師如来像(本来は釈迦如来像だがここで用明大王の名を出す事で更に官寺の重みをもたせます)を安置します。
その事でこの金堂は他に例の見ない本堂に3体の御本尊という形態が出来あがります。

ちなみに聖徳太子の墓と伝承されている河内の墓には江戸時代の内部を詳細に記載された書物によるとやはり中央に1両脇に左右二の石棺が安置されていたそうです。後年の捏造のような・・・・・・・匂いしますね。
3にこだわる法隆寺。

4項 五重塔
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【聖徳太子の一族の墓】
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さて金堂の建立があらかたすんだ頃、大工達は五重塔の建立を始めます。
いきなり難問です。
2001年2月に奈良文化財研究所で発表された法隆寺五重塔中心柱の伐採年数は五九四年でした。
そうその創建時期よりそして、火災し全焼したはずの年代よりも以前の数値がでたのです。

この年は飛鳥寺(元興寺)より建立後、大王が各豪族に寺院建立を指示し、山林から木材を伐採したと日本書記に記述のある年にドンピシャなのです。
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その他の木材の伐採年代が670年以降と出ているので、心注部分だけが古いのは594年まで置いていたとは考えにくく、どこからか心注を持ってきたとしか考えらずそのれがどこからなのかも?なのです。やはり五重塔も転材使用されたと見てよいでしょう。しかもその様式は金堂よりもかなり緩やかな形状をし、またその材もB級等の使用や加工されることなく無垢のまま使用される事もありこの時期も相当金銭的に苦労した痕跡がこのります。

さて心注が何故古いのかですが、考えられるのは旧若草伽藍からの移動です。しかし斑鳩寺は全焼しているので、可能性は低い。では付近の寺はどうでしょう。中宮寺、法起寺(元は五重塔だったとして)、法輪寺(同)、橘寺、です。ここからの転用は考えられなくもないです。すでに廃寺同然なら、縁の寺に同化した方が得策なのではと考えたのではないでしょうか?

またその心注の下は大正十五年四月の調査で須箕弥山と四方に釈迦の生涯を塑製で製作した塑像の下に仏舎利孔の上に銅盤、その下には何重にも重ねられた碗に舎利壺発見するも水にとけなにもない舎利壺唐代海獣葡萄鏡発見、その上は空洞地下の密閉空間で湿気の為心中柱の下が腐りほぼ地面から浮いている状態だった。と記録されています。

又そこはうぶのまま(創建以来手をつけられていない)でだあったそうで、唐代海獣葡萄鏡があったという事は唐との直接外交があった証拠であり、やはり五重塔も白鳳期後期以降の建築と認めざる得ないでしょう。

意外でしょうが、この中心柱は五重塔とはまったく構造を同じくしていません。様は上の飾りを支える物で塔を支える物ではありません。
しかしこれこそが地震大国日本で生き延びた理由なのです。
お互いを支え合い組まれた材木は、地面が動けばそれに同調して揺れながらバランスを保ちます。さすがに老朽化には勝てず、何度の改修の結果やはり当時の姿ではありませんから全体的にも歪感があるのはしかたない事ですがやはり美しい塔には違いありません。
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五重塔は仏教施設では釈迦の骨を祀る墓ストゥーバ
だから法隆寺の五重塔そのもののが非業の死を遂げた厩戸王子の子孫達の供養塔と言えるでしょう。

入鹿と呼ばれた林太郎鞍造さえ管理していた土地にはいまでも入鹿神社という社があり、地元の方がいまでも大切に祀りされています。
なぜに無実の山背大兄王達には墓や祀る寺社がないのでしょう。

まあ墓はあったにせよ現在までここであるという確証のある墳墓は発見されていません。一族二十数名といいます。
死者の魂は「鎮護」しなければ祟られます。???

その替わりにされたのがこの五重塔ではないでしょうか?

「これだけ供養したのですから、どうぞ祟らないでください。」という願いが鎌を飾ったのかもしれません。
又龍は雨と雷とも関わり深いので、日本書紀に宝大王期に起こった奇怪な事件龍の出現=蘇我林太郎鞍造から災難を避ける意味もあるかもしれません。

この塔の完成も何度も工事が泊まり長い歳月をかけざるおえません。
ようやく完成したのは元明天皇期頃和銅期よりも少し前と考えてもよいでしょう。

四項 中門と回廊
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さて再建法隆寺の建設は中門とそれを囲む廻廊を建築完成します。
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この中門も謎の一つ、まずその構造がきわめて金堂に似ている事、そして最大の謎門であるにもかかわらず中心に柱が一本まるで道をとうせんぼしている事です。また中門の周りの壁が左右に一軒分左がたりないのです。
まず構造は入母屋造の外見二階建、正面柱間は4間、奥行きは3間正面という大変珍しい間の取り方をしています。手前は門ですが、その奥がまるで部屋の様に広いのです。

その材木の伐採年輪年代690年代末、いえば建築後期の作です。
しかも通常あるはずの講堂が創建当初の法隆寺にはなく、その場には食堂があったそうです。

そう考えると、この中門は講堂も兼ねていたのではないでしょうか?建築を急いだのか?もしくは財源が少なくなってしまったのか?理由はそのどちらかと考えていいでしょう。
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梅原猛氏が気にした左右一軒差のある廻廊の南側。
ゆえに真ん中に柱があってもそんなに問題はないでしょう。中門付き講堂、さらに真ん中に柱を造る事で一軒たらない壁との調和がなんとか取れるのです。
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そして廻りの回廊も後期の改修工事で廻廊の改造がなされています。当初は金堂、塔を囲み、食堂がその外にあったと調査の結果あきらかになりました。

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僧房
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東大門、創建当時は南門に平行して僧用の門があったが後世移築された門、今の門は室町時代の物です。
今でこそ大変りっぱな寺院ですが、和銅年間頃は南大門、東大門、中門、廻廊、金堂、五重塔、食堂、そして僧坊があるだけのこじんまりしたお寺と考えればよいのではないでしょうか?

奈良時代元明天皇、元正天皇、光明皇后、聖武天皇夫人橘夫人など朝廷の女性達によって「聖徳太子信仰」の名の元除除に大寺院の体裁を整えたといっていいでしょう。
女性の方が宗教にハマりやすいといいます。奈良時代は私達が考えている以上に混沌とした不安定な時代だったといえるでしょう。

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絶対変ですこの御寺!
歪感このうえない!
建物!中の美術品、仏像バランス悪すぎです~~~気持ち悪いです~~

【法隆寺と時代背景年表】
593年  四天王寺着工
596年  法興寺完成
601年  厩戸王子斑鳩宮造営
605年  厩戸王子斑鳩宮移住
 ?    厩戸王子斑鳩寺建立
618年  隋滅亡唐建国
622年  厩戸王子崩御
628年  唐中国統一
626年  蘇我馬子死去
628年  額田部大王崩御・皇位継承争う
629年  田村大王即位
630年  百済大寺建立開始
641年  田村大王崩御・蘇我倉山田石川麻呂山田寺造営開始
642年  宝大王即位
643年  山背大兄王襲撃事件一族死亡、斑鳩宮焼失
645年  乙已の変蘇我宗家滅亡
  軽大王即位、大化改新開始、蘇我倉山田石川麻呂山田寺建立開始
647年  斑鳩寺に三百戸食封施入

649年  蘇我倉山田石川麻呂が謀反罪により山田寺仏殿で自殺
653年  軽大王を難波宮に残し、宝上大王、皇族、重臣飛鳥に戻る。
654年  失意のうちに軽大王崩御
655年  宝大王再即位する 
660年  百済、唐新羅軍に滅亡する。
661年  宝大王筑紫で崩御、中大兄王子皇太子のまま政務をとる。
663年  白村江の戦いで敗戦、百済人等と共に帰国する。山田寺塔完成
667年  大津宮へ遷都
668年  中大兄王子葛城大王即位・高句麗、唐軍に滅亡。
669年  中臣鎌子死去
670年  斑鳩寺全焼
672年  壬申の乱起こる
673年  天武天皇即位・百済大寺を高市大寺に再建。
679年  法隆寺食封停止
680年  橘寺失火
684年  法起寺建造開始
686年  天武天皇崩御・大津皇子謀反罪で死亡
690年  持統天皇即位
693年  法隆寺に経台他を施入
694年  藤原宮遷都・法隆寺に金光明経を下賜
697年  文武天皇即位、持統天皇太上天皇として譲位
698年  薬師寺完成
702年  持統太上天皇崩御
706年  法起寺完成
707年  文武天皇崩御・元明天皇即位
708年  法隆寺詔により造る
710年  平城京遷都
711年  法隆寺完成
715年  斎、法隆寺に設ける。元明譲位元正天皇即位
716年  大官大寺、大安寺(旧高市大寺)を移転
718年  法興寺、薬師寺、新都に移転
719年  法隆寺に唐から舎利、壇像一具施入
720年  日本書紀天皇に献上・藤原不比等死去。
721年  元明上皇崩御
722年  法隆寺に財宝、食封百戸施入
724年  元正天皇、聖武天皇に譲位
727年  法隆寺食封停止
729年  長屋王の変、安宿媛夫人から皇后に立つ。
      仁王会により聖武天皇仁王経、供養具施入
732年  聖武天皇仏3像と仏画施入
733年  橘三千代死去
734年  法隆寺に財宝施入
737年  藤原四兄弟疱瘡で死去
738年  法隆寺に食封二百戸、聖武天皇浄寺奴一口施入
739年  東院造営
740年  藤原広継の乱
746年  朝廷より資材帳勘録の製作を命じられる
747年  法隆寺資材帳完成・新薬師寺建立
748年  行信 聖霊会始行・元正上皇崩御
749年  聖武天皇、孝謙天皇譲位、法隆寺に施、綿、布、稲、懇田地施入
754年  太皇太夫人宮子崩御
756年  聖武上皇崩御遺品法隆寺施入
760年  光明皇太后崩御
770年  百萬小塔完成、十大寺に分置される。

第四章「法隆寺の国宝美術品」
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①伝橘夫人厨子念持仏
個人的にえ~~橘夫人って本当に橘三千代の事?と疑っていました。
だって県犬養橘宿禰三千代は生前は正三位まで死後は正一位大夫人の称号を持った内命婦(後宮の女官)です。
確かに藤原不比等夫人でしたが、夫人というにはあまりにも独立した人物だったので、東院伽藍にある伝法院の元の持ち主従三位橘宿禰古那可智夫人とばかり・・・
でも調べていくと、製作年が大宝~和銅年間(天武から元明天皇の頃)まだ古那可智が生まれるかなり前である事と元明上皇の発病を期に出家したという事実。
これまた平城京の県犬養門近く、不比等邸の西側の発掘調査で阿弥陀浄土院の遺構跡が発見され、又彼女の遺品の経典に西家経と記されている所から三千代が阿弥陀仏信仰者であったのは間違いないようです。

また須弥座下框の板に「光明后母公阿弥陀座」と鎌倉時代の墨跡があり、聖徳太子伝私記にも記載が「光明皇后の母橘大夫人の造る所也」後世で考えられていた事をふまえて、この様な美術品として国宝級の厨子を持つにふさわしい橘夫人という女性が白鳳、天平時代にいない以上真実と受け止めなくてはいけないでしょう。

(但しもう一人平安初期にもいましたが、はい嵯峨天皇皇后橘嘉智子実は元夫人の称号で入内しました。ん~~~ど~なんでしょう・・・・・)

県犬養三千代は東人を父に持ち、宮中に出仕中に始め美努王に嫁ぎ、諸兄、佐為両王と牟漏女王(後房前夫人)を産み、後に藤原不比等の妻となり安宿媛(後の光明皇后)を産んだ時代的には天武、持統、元明、元正、聖武天皇時代を生きた宮廷女官です。この人今でいうかなりのキャリアウーマンでししたたかな女でした。
持統天皇の信頼深く、草壁皇子の遺児軽皇子の乳母に抜擢され、さらに軽皇子の母後の元明天皇の大きな信頼おも勝ち取り、後に元明天皇が病床にあった際は元正天皇の許可を得て出家するほどどっぷりとした関係を築き上げます。
又夫が大宰府に赴任中に藤原不比等と結婚します。

ただおそらく夫の大宰府赴任中の統治は持統天皇期です。これは憶測ですが、二人は宮中で知り合ううちに意気投合、それを感じた持統天皇が遠い大宰府へ美努王を都から遠ざけたのでしょう。持統天皇は軽皇子を即位させたい意向がありました。しかし天武天皇の皇子達が何人も存命しており、天皇の皇子でない軽皇子の即位は容易ではありませんでした。
そこで朝廷の懐刀不比等と後宮の懐刀三千代の婚姻を後押ししたのでしょう。そのかいあって軽皇子は高市皇子の後押しもありましたが、無事に即位して文武天皇となります。

しかし二人の仲はそれだけではありません。

偶然か必然かかなりのこじつけか入鹿暗殺時にもクーデター立案者鎌足とクーデター実行犯同じ(県と海の差はあるが)犬養姓のメンバーもいましたね。
そして不比等の長女賀茂氏の娘宮子と文武天皇の長男首皇子(後の聖武天皇)に不比等と三千代の長女安宿媛(後の光明皇后)を入内させます。
さらに不比等と故蘇我娘娼子の二男房前には三千代の前夫の子牟漏女王を嫁がせ、その子を聖武天皇の北夫人として、又前夫との子佐為王の娘古那可智も入内させます。この房前を選ぶ所さすがです。
房前は不比等に似ていて優れた参議でした。特に元正天皇の内臣として寵臣で四兄弟のなかでも将来有望株だったからです。
またさらにそれだけではありません。前夫との子の諸兄に不比等の娘をもらい後年諸兄から二世後に嵯峨天皇の橘大后を誕生させるのです。

阿閉皇女(後の元明天皇)が特に橘という姓を授けたほどの後宮の大物でした。
確かにここは素直を認めましょう。
しかしどうしてこれがここ法隆寺にあるのか?
やはり光明皇后の施入でしょう。母が亡くなり、遺品を受け継いだ光明皇后が東大寺に施入した様に法隆寺にもこの厨子を施入したと見て間違いないでしょう。
三千代は何も願って阿弥陀仏を信仰していたのでしょうか?自身と子供達の繁栄でしょうか?故元明天皇の安らかな浄土の世界の生活をでしょうか?それとも娘の栄華の為に黙認した長屋王と吉備内親王(吉備は元明の娘なので同時に元明天皇への贖罪も兼ねる事になります。)の贖罪の為の供養でしょうか?
出家後は平城京西不比等邸の西側の私邸で観無量寿堂で経典の写本、阿弥陀如来像を信仰する尼という生活を経て天平五年正月に亡くなります。

②玉虫厨子(伝飛鳥時代七世紀前半作)

先の伝橘夫人厨子念持仏は実は法隆寺に施入する際、又は施入後、四面に扉と壁を付属させて、この玉虫厨子の反対側の金堂に安置されていた。
つまり厨子念持仏が施入される前にすでに玉虫厨子は金堂にあったわけです。

この厨子は額田部大王が礼拝していた仏像を安置し唱えられていたいう伝承のある檜製飛鳥時代の厨子と言われています。
が、この厨子も誰が、いつ、どこで、なぜ、どのような経緯で法隆寺にあるのかはまったくわかっていない。

構造は上層部が宮殿部、その下に須弥座、更に台脚部を持つ仏を安置する仏壇です。
完成時には内部は霊鷲山浄土図を描き、阿弥陀如来三尊像が中に安置されていたというが、その後盗難に合い、在は金銅観音像が入れられています。
高さ233CM、宮殿部分の屋根は入母屋造、尾垂木、雲肘木など法隆寺の金堂部分にほぼ近い構造で表扉部分に武装神将像、二菩薩像、を描がき全体に黒漆が塗られています。

その下須弥座の扉に有名な捨身飼虎図、施身問偈図、舎利供養塔が描かれています。前者2図は共に釈迦の前世の行いを絵柄にしたもので、自らの身を犠牲にして他を救う慈悲の深い姿を描いています。
この絵がこの法隆寺にある事の重要性は前文の山背大兄王子の悲劇を思わせる上で重要な様に思えます。
しかもその図は金堂の下に描かれているのです。
台座部分の金具の彫刻も美しく、完成当時はその名の由来となった玉虫の羽がその金具に張り付けられていたといいます。
この厨子で興味深い事は、その宮殿建物の構造が山田寺の金堂跡の柱を復元した様式を持つという点です。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂建立の氏寺であり、又中大兄王子暗殺容疑をかけられた際、その寺内で自殺した悲劇の場所でもあります。事件後、長く荒廃していましたが、中大兄王子即位2年目に再創建が始まり、その後天武天皇が皇后(後の統持天皇)の祖父に当たる石川麻呂の鎮護の為に再建したという逸話の残るお寺です。
しかもその下に石川麻呂や山背大兄王子の自虐行為を賛美するかのように描かれた図。法隆寺=鎮護寺のイメージにバシッとハマるのです。

誰の厨子だったのか?本当に額田部大王だったのでしょうか?

やはり構造が軽大王時代の前後もしくは飛鳥時代最晩期と考えるなら、これほどの宮殿式仏壇を持てる人物は限られます。おもいあたるとするなら。かなりの憶測ですが・・・

①蘇我倉石川麻呂娘 中大兄大王妃「姪娘」父、親族蘇我宗家への供養
宝女大王 蘇我林太郎鞍造の贖罪への供養、建王(中大兄王子と蘇我倉石川麻呂娘「遠智娘」の男子)への病気平願と供養
個人的には宝大王の様に思えます。何故なら山背大兄王や蘇我豊浦大臣、林太郎鞍造親子への謝罪。孫建王は生まれつき病弱で言葉が話せないハンディがあり、幼くした他界するといった不幸。彼女の周りにある影が際立って見えるのです。

③夢違観音立像 八世紀初頭
「不吉な夢を吉夢に変えてくれる三観音(百済・救世観音と共に)の一像」
その所有が資材帳に明らかでない江戸中期の「古今一陽集」宝永7年(1710年)に東院絵殿の内陣の仏壇に安置されたという記述が所見のやや奈良に近い少女らしい柔らかな体位で白鳳時代の特徴が良く出ていながら天平芸術の特徴も出始めている名観音立像です。
さあ誰が悪夢にうなされていたのでしょうか?
この時代で芸術的にも秀でた仏像の所有が認められ、更に悪夢にうなされる人物とは?
候補者① 持統天皇
   ② 大来皇女
   ③ 斉明天皇
   ④ 元明天皇
①は母方の祖父蘇我倉山田石川麻呂の供養(父に殺された祖父)甥大津皇子のぬれぎぬをきせた罪悪感から息子草壁皇子の早死などの理由があるものの死亡時期が製作年と存命期間が合わないので却下。
②弟の供養の為に製作するもこれも①と同じ理由で却下。
③は孫建皇子の供養の為とするも更に時代が遡るので却下。
④この辺りが妥当かも、元明天皇の祖父は蘇我倉山田石川麻呂夫草壁皇子は大津皇子を犠牲にしたにも関わらず早死、悪夢を身近で見てきたでしょう。
厨子に入れて拝す姿も想像しやすいですね。
又死亡後に仮説ですが。縁の山田寺に寄進されて中世移行荒廃した寺の仏像が法隆寺にあってもおかしくありません。
なんせその寺の本尊の頭が興福寺の僧により略奪されるのですから。
まああくまで仮説です。

④四天王立像4体
この像も天平十九年(747年)の資材帳の記録になく、嘉承元年(1106年)七大寺日記が所見とされています。出所不明な仏像です。
「太子伝私記」と「別尊雑記」に記載のある厩戸王子が建立した四天王寺の絵図の像が良く似ていたと伝承されている事実を踏まえ、無動の四天王像があってもおかしくはなく、しかも當麻寺(厩戸王子の弟の子孫が建立)では七世紀末に無動の四天王像が安置されています。
時代につれ流動感あふれる様式がこのまれたと解釈してよいように思います。
ただし資材帳に記載がないおよび、しかも奈良時代の四天王像と違い動きがなく、しかも下の邪鬼も大人しく四天王と邪鬼のバランスの悪さ、またも光背と像を繋げるのに頭に杭を打ち込んでいる事実をふまえてこの立像には全体的に違和感を感じます。

仮説四天王立像は飛鳥元興寺にあった物を平城京の宮が移転した後、荒廃し保有していた四天王立像を当時四天王立像を保有していなかった法隆寺に資材帳完成後に転売された。って説はいかがでしょう?
購入した法隆寺はその縁起の手前、元興寺が蘇我馬子の氏寺という事実と、法隆寺が山背大兄王子がその孫林太郎鞍造に殺害されたという事実を考慮し、再び法隆寺内で惨劇が起こらない様に、山背大兄王子が激昂して災いをおこさない様にその頭に杭を打ち付け、像を四方に配置したという説はどうでしょうか?

⑤百済観音立像 伝飛鳥時代

【百済観音像は吉備内親王像】

虚空蔵菩薩像とも言われ、江戸時代中の所見に百済(朝鮮半島にあった国、日本とも文化交流がなされ特に仏教伝来は百済からと言われている。)観音菩薩像と初めて法隆寺にあらわれる。やはり出所不明の菩薩像。
非常に女性的で極めて救世観世音菩薩立像に似ているが、それより似ているのは法輪寺の菩薩像、くりそつ!
しかし完成度ではこちらの方が遥かに上。時代的にも飛鳥時代でいいのか?と思えるほど。
下半身は空洞で、楠木の一本彫りで頭に冠を掲げて、左手に持つ水瓶は惜しみない幸水を人に与える慈悲深い仏の象徴なだそうです。

意外と法輪寺の観世音菩薩の完成盤、というか法輪寺の菩薩像に似せさらなる完成盤を製作されたのかなあ~でしょう?と言いたい法隆寺の仏像の中でも人気の高い仏像です。
非常に痛みが激しいのが残念です。
伝飛鳥時代というけれどはたして???どうかなあ~~~
無理やりですが、夢殿の観世音菩薩立像が長屋王のように、この像は無実の罪で自害させられた彼の妻、「吉備内親王」という説いかがでしょうか?
これで二体の供養仏完成させ、法隆寺ではなく中宮寺【厩戸王子を長屋王にすげかえた様に、厩戸王子の母穴穂部大后を吉備内親王にすげかえて】に安置されていたが江戸の時を経て、縁の法隆寺金堂に安置された。
なので、奈良時代に製作された法隆寺資材帳には記載がない。当然奈良時代は法隆寺は官寺といって良いでしょう。だからこそ資材帳の記載を義務化されたのですから、その資材帳に記載がないのは当時なかったと断言していいでしょう。但し縁の寺院にあった。だからこそその寺院が廃寺になった際に関連のある法隆寺に安置されたともいえるでしょう。
な~~んてのはどうでしょうか?


追記:丁度法隆寺資材帳縁起が完成した当初は法隆寺は官寺級の扱いであったが、平安時代都が奈良に離れるとそうはならず資材帳もいい加減になっていったと想像出来ます。なので、完成後後世に法隆寺にもたらされた国宝級の宝の縁起がわからなくてもなんだ不思議はないでしょう。

法隆寺の情報は【こちら】

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クッパのお店「一平ちゃん」に来店です。ここのご主人が本場のオモニから伝授だれた韓国スープをお持ち帰り
です。
お店の情報は【こちら】

帰宅後お茶しました。
美味しいわ~~
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次回京草子本編は11月25日更新予定です!
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