2011-05-06

色あひ深き花の房長きたる藤の松にかかりたる。

訳:藤色の深い~花の房の長い藤の松によりかかってるのん。
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平安の都、貴族のあいだで最も権力を持ったのが藤原氏は自らの姓にちなんだ藤の花を好みその花の満開の時には祝宴を興じたといいます。
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鎌足の領地小原に咲く山藤
殿上人はほとんど藤原氏あまりに同じ姓が多すぎてか?後世鎌倉時代にはそれぞれ違う姓を天皇より賜り、近衛、三条、二条、一条、九条、鷹司、西園寺、花山院、四条、勧修寺等々末は斎藤、安藤、遠藤、須藤等々分かれてゆきました。
現在の藤原姓の人々はほとんどが藤原氏の荘園(所有する土地)に縁のあっただけで子孫ではないそうです。
では藤原氏とは?
元々藤原氏という氏族は存在していません。
天智天皇が中臣鎌足の臨終の際に彼の出生地「藤原」にちなみ下賜した氏です。
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今の明日香小原の里(藤原)
但しこの姓は彼にのみ与えられたのか、彼の血族に与えられたのかはっきりせず、鎌足の遺児は元の中臣姓を名のっていました。
天武天皇時代改めて藤原姓が与えられ、文武天皇時代、その姓は成長した遺児次男の「不比等」の血筋にあたる者のみに与えられ、他の一族の者には元の中臣姓に戻し、その地位も神祇官に制限されました。

天智天皇(彼に自分の妻を与えています。)、孝徳天皇(日本書紀では即位前に寵妃に厚くもてなさせたと記述があります。)、天武天皇(彼の娘を後宮に夫人として迎えています。)が側近にまた関係を持ちたがった教科書に載るほどの有名人ですが謎の多い人物だという印象です。
藤原姓の初め「中臣鎌足(初めは鎌子と言われていました)」とはどういう人物でしたのでしょうか?

当時の人々の日記や公的な書物はありません。手がかりとなるのは「日本書紀」や「藤氏家伝」多武峯略記など後世に記録された信用性の薄い資料のみ。
この資料はまったく信用出来ません。

【余談1】
特に日本書紀!
日本書紀は奈良時代養老4年(720年)に舎人親王(天武天皇の皇子)によりまとめられ、元正天皇に贈られた国史。本書は現存せず写本がいくつか残るのみ、しかも本当の編集者は藤原不比等とも言われる太政官の親玉で当時の政治中枢のまさにド真ん中で日本を内外共に唐を手本とした中央集権国家に押し上げく、あらゆる事をしてきた持統天皇からの側近中の側近。都合の悪い所やいい所は削除し誇張し嘘をつきやりたい放題に記述された事でしょう。外交向けの国力UPキャンペーン本いう側面と聖武天皇(文武天皇と藤原不比等の娘宮子の子)即位に向けた皇太子の正統性の確立などのためには必要不可欠な物。それなりに書いちゃいますよね、やっかいな資料なんですがこの時代の地近い資料がこれ。しかしこの資料たまに?というくだりがあります。これを「舎人親王からの暗号」と考えます。舎人親王は天武天皇の皇子で、皇親政治を推し進め協力していた皇子。親王は律令制国家への移行に持統天皇以降信頼を得て重職につき正一品親王ですが、表向きは藤原不比等を支持していたでしょうが、天皇家にからみつく藤原氏に対し良い印象はないはずです。そこで不比等にさとられない様にさら~と暗号めいた真実を載せたと推測してみましょう。裏を読み取りながら進めましょう。
蘇我馬子、聖徳太子が記したという「国記」(蘇我本邸が燃やされた際、中大兄派により持ちだされ、壬申の乱後も石上麻呂により天武朝に渡ったと推測されます。)は天智、天武天皇以来の「歴史記録書(名不明・編集途中)」と、どうやら新羅、百済の「古記」を参考に編集したと推測出来ます。
特に後世の三国史記とは記述が似ているので驚きです。どちらかがどちらかを盗作したと思われます。

三国史記とは高麗1145年金富軾が古記、海東古記、三韓古記、本国古記、新羅古記、高僧伝、花郎世記(いずれも現存しない)を編集した古代朝鮮記です。
日本書紀が720年ですから記としての歴史は日本書紀が早く。
もしこれらの古記があった事実が確かなら三国史記が早くなります。
個人的憶測からいうと、古代から飛鳥にかけては文化的水準は朝鮮半島伝来してきたので、古記が早いと考えられます。おそらく国記も百済、新羅からの古記が参考にされたと考えて妥当でしょう。
この二つとも実現在では在せず、編集に改ざんの可能性もあるという事を付けくわえます。

朝鮮半島の歴史的関連もあわせて記述します。(645年前後)
618年隋滅亡、唐建国
629年舒明天皇即位
630年倭国初遣唐使派遣
631年唐、高句麗侵攻
632年新羅 善徳女王即位し、
638年百済新羅の城を攻撃
641年
百済義慈王即位
 
641年舒明天皇崩御
倭国は642年に皇極天皇即位(共に女の君主)

642年高句麗でクーデター勃発
643年
百済高句麗同盟成立
百済義慈王即位後王族流刑王子豊璋倭国の質として渡倭
645年 入鹿殺害・皇極天皇譲位孝徳天皇即位
645年唐、高句麗遠征に失敗
647年新羅でピダムの乱善徳女王没・真徳女王即位
654年 新羅で真徳女王没武烈王即位、倭国で同年孝徳天皇没
655年 斉明天皇即位(新羅では女君主二代続いた後、男の君主が誕生・倭国では同じ女の君主即位の間に男の君主の即位)同年新羅百済を攻撃
660年 唐新羅軍が 百済滅亡させる 
661年 新羅の武烈王没文武王即位、同年倭国斉明天皇没
663年白村江で倭国、旧百済救援軍、唐軍に大敗
668年 唐侵攻で高句麗滅亡
同年倭国天智天皇即位
671年 新羅唐戦同年倭国で天智天皇没

朝鮮半島は常に軍事的緊張にあり、日本の古墳時代から白鳳時代にかけては動乱の時期でもありました。軍事的優越に立つ高句麗に新羅、百済、伽耶諸国は常に滅亡の危機にさらせれ、それを排除しようと新羅が百済を軍事支援をする事もあったものの、斉明朝期高句麗と百済の同盟で新羅が大国唐に急接近していました。そんな東アジア情勢の真っただ中、倭国も大陸情勢とは無縁ではありませんでした。
三国ともせっせと大使を派遣し、新羅百済は人質まで渡し倭国を味方につけようとする始末。日本も東アジア情勢の混乱に巻き込まれていきます。そう早春の中東地域の政変の様に。

又3世紀邪馬台国と7世紀の大和朝廷の在位共通点(こじつけ?)
邪馬台国在位 卑弥呼(*鬼道で統治補佐は弟)→男王→台与
7世紀の在位 皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇(*鬼道に傾倒、補佐息子の中大兄王子)

新羅討伐は神功皇后も斉明天皇も行った。


(注釈)天皇の名は贈名且つ天皇、皇太子、皇子等という言葉自体ない時代においても尊称として、且つ名も通称と身分両方で使用
します。
またこの時代は鎌足だけの話をするのは背景がわかりずらいので、東アジア情勢、国内政治、外交、天皇家あらゆる余談を書きたします。


では本題
鎌足の生没は推古22年(614年)?~天智8年(669年)11月14日
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中臣御食子と大伴夫人の間に奈良の明日香村小原(藤原)、もしくは橿原市藤原、もしくは茨城の鹿島に生まれたとされる飛鳥時代の連でそんなに高位の貴族の子息ではありません。
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いきなり鎌足の母大伴夫人の御墓が!なんで一豪族の女に過ぎない御墓が何故わかっているのか?
不比等の母も不比等自身の墓も?なのに!極めて怪しい墳墓、その前に鎌足誕生地跡に建つ小原神社を訪れます。
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出生地もはっきりしない神祇に携わる一族の子息に過ぎない人物でした。若い頃から秀才で儒教や兵法書などを学んだといいます。
ただどんなに秀才でも当時は新興勢力の仏教推進派の蘇我氏(特に蘇我蝦夷、入鹿親子蘇我宗家【但し本当の名ではなく後世に付けられた蔑称】)に権力を握られていたので、身分柄政治に関与などまったく出来ない状況でした。
なぜそんな彼が歴史の教科書にも載る「大化の改新(最近は乙巳の変という様)」の名クリエイタ―になっていったのでしょう。
妄想と想像を働かせながら、彼の縁の地を訪ねていきましょう。

中臣氏は神祇、祭祀を行う中央豪族の一族でその祖は常陸もしくは九州等出身の神様、天児屋命と言ってます。(大きく出ました。事実は?そう主張しているで・・・)
天児屋命は天照大御神が天の岩戸に隠れた際、祝詞を唱え戸が開いた時に鏡を差し出したまたの名を「春日権現」そう関西では奈良の春日大社のに祀られた神様です。事実は?としてそう主張しているで)

飛鳥に行く前に藤繋がりという無理やりな寺院「葛井寺」を訪れました。
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白藤に魅せられた蜂君と共に
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山門と藤
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談山神社に行きましょう。
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談山神社は多武峰にある神社で皇極4年(西暦645年)に起こった乙巳の変に縁のある場所で、背景の山の中に鎌足の墓があるそうですが・・茨木の阿武山古墳、山科(場所特定不明)にも鎌足が埋葬されているといわれています。あんなに有名人の墓がはっきりと解明されていないって?これも謎!
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この道の先の御破裂山中にあるというのですが、時間なきく途中まで・・・でぇ~~~。

その名の由来は中大兄皇子と鎌足がこの多武峰山中で、「乙巳の変」の秘密の談合を行った「談い山」「談所ヶ森」からだそうです。
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伝談い山
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その地に長男の定慧和尚が留学中の唐から帰国した後、故父の由縁深い多武峰に墓を移して十三重塔を建立したのが始まりです。初めは多武峰寺、お寺として創建しました。
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庵羅樹定慧が唐から持ち帰ったと伝承されている樹、にしては大木化していません。怪しいです・・・・。
そう!!!ここで問題が・・・・
実は藤氏家伝では定慧は鎌足死亡の前、天智4年に謎の死を遂げています。(百済人の僧による怨恨で刺殺???奇妙です。)鎌足が死亡したのは天智8年ですから死んだ人間が生きている人間の供養をする為に建てた。ってありえません。
思うに父である鎌足が息子の悲運に嘆き、供養する意味も兼ねて創建したのではないでしょうか?
神祇の家系で仏門に長子を入れ、供養の為に寺を建立っていうのも納得出来ない理由ですが・・・鎌足自身意外と家業に興味なしだったかもしれません。ほら和菓子屋の子が洋菓子屋になるみたいなもん・・・。

この定慧という人物は鎌足とその妻車持夫人の間に誕生した事になっていますが、実は孝徳天皇の落しだねとも噂されています。(多武峰略記にて)
「日本書紀」から
皇極3年正月(中略)中臣鎌子連、曾て軽王と善しくありき。故、彼の宮に詣りて侍宿らむとす。
寵妃阿倍氏をして、別殿を浄め掃へて新蓐を高く鋪き、具に給がすといふこと靡からしめたまひ、敬重ねたまふこと特に異なり。
舎人に語りて曰く、「殊に恩沢を奉ること、前よりの所望に過ぎたり。誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」という。皇子大いに悦びたまうふ。

これは中臣鎌足が以前から親しくしていた軽王(皇極天皇の同母弟で後の孝徳天皇)の屋敷に行き、近くで夜の番を願いでた時に王が寵愛する妃阿倍氏(阿倍内麻呂の娘小足媛と推測出来る。有馬皇子の母。)に手厚く接待させ、鎌足が身分不相応なもてなしに驚き喜び「ぜがひでも天皇になってほしい」と伝え、それに王も満足したという内容です。
直訳するとそうなのですが、このように鎌足が感激する接待といえば、あれしか考えられません。
そう軽皇子は自分の妃に鎌足の夜の相手をさせたと推測出来るんです。定慧は皇極4年の生まれとされていますが、一年の差なんて誤差範囲です。その前後に身ごもった寵妃の生んだ子を公臣の誓いとばかりに差し出した
しかしその子は孝徳天皇と中大兄皇子が不仲となり始め11歳で出家させられ遂には留学僧として危険な旅遣唐使船に乗船します。前項で中臣氏は俳仏派です。どうして総領息子を僧になどしなくてはいけないのでしょうか。そう殺される前の常用手段出家、古人大兄、大海人等。孝徳天皇との因縁のある男子、中大兄皇子は何をするかわかりませんから。定慧を思い旅立たせたのかもしれません。
しかし天智天皇4年唐から百済経由で帰国後すぐ刺殺されます。これも憶測ですが、天智天皇の命令か?なんせ孝徳の有馬皇子も謀反の罪で処刑していますから、可能性はあるでしょう。刺殺相手は百済人、中大兄は大の百済派です。
そんな息子の霊を慰める為に建立した寺を今度は次男不比等が鎌足の霊を祀る為に大宝元年(701)に神殿が創建しました。そう鎌足を神格化する不比等の策です。神社になったのは神仏分離の国策でその時から正式に神社となります。
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西宝庫と楼門
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神廟拝所
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神廟拝所と八重桜
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境内の八重桜
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西宝庫の八重山吹
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楼門
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拝殿
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拝殿の回廊
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どうだん躑躅
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青紅葉
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下から見た拝殿
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八重桜

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お昼は古代米の柿の葉ずし、明日香ルビー

不比等はどうして鎌足を神格化しないといけなかったのでしょうか?
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この絵、なんだか聖徳太子像に構図似てませんか?釈迦三尊像図ちなみに中央鎌足、左不比等、右定慧です。
寺院だった名残でしょうか?

当時の不比等の最大の目的は自分の孫、首皇子(後の聖武天皇)の即位でした。藤原氏の血を引く最初の天皇の登場は彼の悲願でした。(母が不比等の娘文武天皇の夫人宮子)中流貴族出身の中臣氏ではどうしても皇族や他の貴族に劣ります。そこで極悪非道な悪大臣から天皇家と国家を救う神的英雄が必要だった。それがほとんど記憶にすらない父鎌足でした。その父を祀り英雄にしたてる必要がこの絵にあらわれています。

観光の情報は【こちら】
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明日香の蓮華畑

さてそれでは政変の舞台「明日香」
この辺りはレンタサイクルでまわります。
鎌足の生地とした場所に小原神社と母大伴夫人墓があります。ほんとにここで誕生したかは不明ですが、この辺りに鎌足の屋敷があったのは里下がりしていた娘五百重媛の歌でわかります。
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小原の里

では
乙巳の変前夜から・・・時代は遡って推古天皇が崩御した後、蝦夷は重臣阿倍内麻呂他と相談して田村皇子と山背大兄皇子のどちらかに皇位継承者にするか論議し、最終的に阿部麻呂臣、大伴鯨連、釆女臣魔礼志、高向臣宇魔、中臣連禰気、難波吉士身刺が押した田村皇子が629年即位して舒明天皇となりました。蝦夷が何故甥の山背大兄王子を推さず、妹を妃にして王も誕生しているものの直接血縁関係のない田村王子を支持したというのも?です。蘇我馬子が天皇家との血縁関係で大臣になり、実権を取ったのですから?行為です。
また後日検証するとして。
時代はさらにすすみ641年舒明天皇没すると、大后宝皇女が642年皇極天皇として即位します。蘇我蝦夷、入鹿親子は舒明天皇と法提郎女(馬子の娘)との皇子古人大兄皇子を天皇にとの思惑に、その間の中継ぎとして即位と推測出来ます。またも山背大兄は皇位から遠ざかり、643年遂に蘇我入鹿の軍に襲撃され一族共に自決したと伝承されています。【日本書紀は入鹿単独説を取るもそれには疑問点もあり】

【余談2】この時代の類以点
日本書紀:皇極2年茨田池の水の色が藍の汁の様になり、魚は腐れ死んで食用にならなかった。
新羅本記:善徳8年七月東海の海水が赤色に染まり、暑いため食用にならなかった。
日本紀は皇極天皇母が病になった際の記述で新羅記は赤潮の現象を記述したか。



この頃蝦夷は病で国政に参加する事も減り実権は息子入鹿に移ります。この時点で皇位継承権は①古人大兄皇子(母が蘇我氏)②軽王(妻が天皇(姉)の長女)③中大兄皇子(父母が天皇)の順と思われます。入鹿は蝦夷と違い栄華を極めた宗家の御曹司にありがちな傲慢な所があったのか、またまた女帝の寵愛はなはだすぎたのか。日本書紀ではぼろかす書かれています。まあそうじゃないとクーデターに正統性がなくなる訳なので当然なんですが。
蘇我宗家が最後の栄華を極めていた時代に主役が突然本当に突然日本書紀に登場します。

皇極三年春正月乙亥朔、中臣鎌子連を以ちて神祇伯に拝す。
再三固辞びて就らず。疾を称して退でて三島に居り。
時に軽皇子、患脚して朝りたまはず。中臣鎌子連、曾て軽皇子と善しくありき。
故、彼の宮に詣りて侍宿らむとす。(中略)
乃ち寵妃阿倍氏をして、別殿を浄め掃へて新蓐を高く鋪き、具に給がすといふこと靡からしめたまひ、敬重ねたまふこと特に異なり。(中略)
舎人に語りて曰く、「殊に恩沢を奉ること、前よりの所望に過ぎたり。誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」という。
皇子大いに悦びたまうふ。

家業といえる神祇伯を命じられているのに再三病気を理由に断り三嶋(大阪府高槻辺り)に移り住んで、以前から親しい皇極天皇の弟軽王の宮殿に行き、夜の番をした時のもてなされようが記載されています。まず、鎌足は中大兄ではなく、軽王と接触した事実がここにあります。二人の話はまったく記載されていないので不明ですが、もてなされた鎌足が後日軽王の家来に「天皇にふさわしくないなどありえない」まで言っているのです。その話が関連しているに間違いないはずです。
実は両者の強い結びつきに軽王の名から父芧渟王時代からの拠点和泉国和泉郡軽部郷とその近郊に鎌足の中臣氏同族拠点一つ三嶋から淀川中流南岸一帯、河内から和泉が非常に近い事という事実があります。そう学校で習った歴史とは違う側面が見え始めています。

歴試みて王宗の中に接えい、功名を立つべき哲主を求む。便ち心を中大兄に附くれども、疏然て末だ其幽抱を展ぶること獲ず。
鎌足は大業なす皇族を探し、舒明、皇極天皇の長男中大兄皇子に白羽の矢を打ちます。でも親しくないので、簡単に接近出来ません。
これって本当に次期の天皇を探していたのでしょうか?
なんだか違う様に思えます。なら態々軽王の離宮に行く必要にですし。
毛並みの良い血気盛んな若い皇子を探しているような気配感じませんか?そう実行犯を・・・・・・そして出会いの場へ。
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蘇我氏の大寺院「飛鳥寺」飛鳥大仏で有名ですね。
観光の情報は【こちら】

偶に中大兄の法興寺の槻樹の下に打毬の侶に預りて、皮靴の毬の随に脱げ落つるを候ひ、掌中に取り置ち、前すて跪き恭みて奉る。中大兄対ひて跪き、敬びて執りたまふ。茲より相善びて倶に懐ふ所を述べ、既に匿るる所無し。復他の頻に接はることを嫌はむことを恐りて、俱に手に黄巻を把り、自ら周孔の教を南淵先生の所に学ぶ。
遂に路上、往還ふ間に、肩を並べて潜に図り、相協はずということ無し。
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談山神社のけまりの庭(元興寺の庭はもうないので)
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飛鳥寺院跡
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今はのどかな春の地
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菜の花畑

偶然、飛鳥寺の木の下で打毬して遊んでいた中大兄の靴が脱げます。これを鎌足が拾い中大兄が受け取った。この出来事を境に学者僧南淵の塾に通いながら両者は急接近、クーデターの計画を立ててゆきます。
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江戸時代の写し多武山縁起絵巻
談山で密談する二人右奥の左が鎌足、右が中大兄王子

この南淵という儒学者は隋帰りの学者で、後の孝徳天皇側近で国博士の高向玄理、僧旻と共に学んだ旧知の間柄です。ここで軽王と鎌足=中大兄王子繋がりました。

【余談3】
この打毬の出会いも三国史記の新羅本記、春秋公(武烈王)と金庚信の出会いと似ています。
蹴鞠をしていた二人、庚信は公のちょごりの紐をふみ落してしまい、邸が近いと自邸に招きます。そこで妹に縫わせた縁で公と文姫は結婚し、後に統一新羅をなしえた文武王が誕生しました。


是に中臣鎌足連、議りて日さく、「大事を謀るには、輔有るには如かず。請はくは、蘇我倉山田麻呂の長女を納れて妃として、婚姻の呢を成しまさむことを。然る後に陳説きて、与に事を計らむと浴ふ。功を成す路、茲より近きは莫からむ。」とまをす。中大兄、聞きて大いに悦び、曲に議る所に従ひたまふ。
中臣鎌足連、即ち自ら往きて媒要び言乞りぬ。
而るに長女、所期りし夜に、族に偸まれぬ。(中略)
乙女曰く「願はくはな憂へたまひそ。我を以ちて奉進りたまふとも、亦複晩からじ」という。父、便ち大きに悦び遂に其の女を進む。奉るに亦心を以ちてし、更に忌む所無し。
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鎌足はクーデターを成功させるには入鹿の従兄弟で蝦夷の甥の蘇我倉山田麻呂の長女と結婚するのが大切と、自分で仲人までかってでますが、その結婚の夜に長女は倉山田麻呂の弟(日向)に略奪されます。(これは蘇我の他の兄弟になんだかの異変を思わせる出来事だったのか?しかし以後クーデターの発覚はありません鎌足が察知して抱きかかえたんでしょうか?)茫然とする父を見て次女の造媛(遠智媛ともいう)が事情を聴き自分が嫁ぐと言い、事なきを得てこの次女は良く中大兄に仕えました。

【余談4】
新羅本記には庚信は始め姉宝姫に春秋公と会わせようとしますが、姉は他に用があり急遽妹が来て、公はその妹と結婚しました。姉妹逆転似てますね。

【余談5】
政敵とみなす蘇我氏の縁者との結婚はどういう意味があるのか?
蘇我氏の内部分裂を利用したと言え、元々馬子その前の稲目が築き挙げた地位を蘇我宗家と他の分家を分裂し、且つ分家の長が宗家の地位を略奪すると言う構図が見てとれます。
元々天皇家をみれば明らかですが、基本相続は兄弟間に公平に移行されます。現在で当然の長子独占相続はあまり一般的ではありませんでした。所が蝦夷→入鹿の実子相続に他の蘇我姓を名乗る人物達から出る不満は当然といえました。彼らが宗家滅亡後、政界入りした事がそれを物語っています。
じゃあ入鹿の悪人説は嘘?答えは「YES」

倉山田石川麻呂、赤兄、日向、果安の兄弟はその後の孝徳、斉明、天智天皇の治世で出世してゆきます。
この突然出てきた倉山田麻呂は軽王とも非常に近い関係がありました。倉山田石川」麻呂の娘の乳媛は軽王妃、婚姻の時期は不明ですが、乳媛の別称芽渟媛の名から軽王の父「芽渟王」の名が同じで当時の名は生まれた地、養育に当たった氏の名が付けられるのが一般的で芽渟とは大阪南岸、和泉沿岸を指す。また石川の名から勢力分布が河内国石川郡、和泉郡と近い両者の勢力分布の近さが見てとれます。そして地理的共通点がまず奈良の葛城市(中大兄王子の本名は葛城皇子)から竹内街道を西に行くと、まず山を越え大坂に出ると石川(蘇我山田石川麻呂)があります。そしてさらに進むと羽曳野の軽里(軽王)にでるのです。そしてそのさらに西に中臣の拠点の一つ丹比や三宅など中臣勢力圏が!これは偶然ではないでしょう。繋がりました!


645年六月の丁酉の朔にして、甲辰に、中大兄、密かに倉山田麻呂に謂りて白く、「三韓の進調らむ日に、必ず卿をして其の表を読み唱げしめむ」といひ、遂に入鹿を斬らむと浴ふ諜を陳ぶ。麻呂許し奉る。

中大兄は倉山田麻呂に宮殿で三韓(新羅、高句麗、百済)の調(貢物の使者)が来る日にその報告書を読み上げてくださいと伝え、倉山田石川麻呂がそれを承諾しました。
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事件の現場、伝飛鳥板葺宮跡に着きました。
今は井戸や当時の宮殿跡を石組で囲っただけの公園です。この下に乙巳の変の舞台となった宮殿跡があるそうです。
さてクーデター初日です。

戌申に、天皇、大極殿に御します。古人大兄侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の為人疑多くして、昼夜剣を持けることを知りて、俳優に教へて、方便して解かしむ。入鹿臣、咲いて剣を解き、入りて座に侍り。
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倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読み唱ぐ。
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是に中大兄、衛門府に戒めて、一時に俱に十二通門を鏁め、往来はしめず。衛門府を一所に召聚めて、給禄けむとす。時に中大兄、即ち自ら長槍を執りて、殿の側に隠れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて為助衛る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中の両剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰く、「努力努力、急に斬るべし」といふ。子麻呂等、水を以ちて送飯き、恐れて反吐ひつ。中臣鎌子連、嘖めて励ましむ。
倉山田麻呂、表文を唱ぐこと尽きなむちして、子麻呂等の来ざることを恐り、流汗身に沃ひて、声乱れ手動く。鞍作臣、怪しびて問ひて曰く、「何故にか掉ひ戦く」といふ。山田麻呂、対へて曰く「天皇に近くはべることを恐み、不覚にも汗流ずる」といふ。中大兄、子麻呂等の入鹿が威に畏り、便旋ひて進まざるを見て曰く、「口屈口差」といひ、即ち子麻呂等と共に、其の不意きに出て、剣を以ちて入鹿が頭肩を傷り割く。入鹿驚きて起つ。子麻呂、手を運し剣を揮き、其の一脚を傷る。入鹿、御座に転びて就き、叩頭みて曰さく、「嗣位に居しますべきは、天の子なり。臣罪は知らず。乞ふ垂審察へ」とまをす。天皇、大いに驚き、中大兄に詔して曰く、「作る所を知らず。何事有りつるや」とのたまふ。
中大兄、地に伏して奏して、曰さく、「鞍作、天宗を尽に滅して、日位を傾けむとす。豈天孫を以ちて鞍作に代へむや」とをす。天皇、即ち起ちて殿中に入りたまふ。佐伯連子麻呂、・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席・障子を以ちて鞍作が屍に覆ふ。

天皇が儀式の場にいて、古人大兄も来ている。鎌足は入鹿の刀をうまく奪い、入鹿は席に着いた。倉山田麻呂臣が報告書を読みあげる。中大兄は宮殿の門を全て閉めさて通せなくして護衛兵を一か所に集めた。そして自分は長槍を持ち御殿の隅に隠れ、鎌足は弓矢で中大兄を助け守った。海犬養連勝麻呂が箱の中の両剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に渡して「間髪入れず斬れ」と言った。恐怖のあまり子麻呂等、水飯を食べるが吐いてしまう。鎌足が叱咤激励する。
倉山田麻呂は子麻呂達が撃ちにこないので恐怖が増し汗が出て声も震え出した。入鹿はそれに気付いて何故そんなに震えているのか聞くと、天皇の前なので緊張しているからといい訳するが、入鹿は不審がる。その時中大兄が入鹿に一太刀浴びせさらに子麻呂も斬りつけた。入鹿は天皇に「皇位にあるのは天皇様なのに臣下の私にどんな罪があるのでしょう。調べてください」【これは馬子の崇峻天皇暗殺にかけあわせての発言。馬子により皇位についたが、言動が過ぎて馬子の部下東漢直駒が東国の調の儀式の場で殺害した事件を入鹿は殺されるのは天皇なのにどうして私なんでしょうと言ってるんです。】と皇極天皇に懇願すると、天皇は「どうしてこんな事をするのか?」と聞き、中大兄は「入鹿が天皇になろうとした。」と言うと天皇は御殿を去った。
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入鹿は子麻呂と網田に殺され入鹿の死体は雨が激しく降る庭に投げられた。入鹿の死体は障子などで隠された。

どうして暗殺場所が宮殿なんでしょうか?わざわざ天皇の目の前で、ものすごいインパクトです。天皇とは世を安らげる存在です。自分の治世でこんな劇的な残殺行為が起こったら退位しちゃうでしょう。その通り皇極天皇は事件後退位してしまいます。そうまさに本当の目的は天皇の退位だともとれるのです。
そして、この場面で気になるのが鎌足と中大兄の位置。今入鹿を狙おうとする皇子達とそれを護衛する鎌足。最前列に入鹿、後ろに中大兄、その後ろに弓矢を持った鎌足。逆鎌足位置からすると入鹿を撃とうとしているのか?それと皇子を撃とうとしているのか?暗殺失敗時の光景も想像出来ないでしょうか?
入鹿が逃げて、中大兄が暗殺者として鎌足に撃たれる姿を・・・・・・

海犬養連勝麻呂って?佐伯連子麻呂?葛城稚犬養連網田?皆名前に宮殿に通じる門の名が付いています。そう宮殿の守備隊の氏族達。この人物なしで宮殿内で暗殺皇行為なんか出来せん。全部門を閉めさせないといけません。さてその総責任者は?大伴連長徳。そう大伴氏、忘れていませんか?鎌足の母は大伴夫人(大伴氏の出身)です。そしてまた彼の家系も和泉に関わりが深いのです。和泉の高石は万葉集でも「大伴高師能浜」「大伴乃御津」など呼ばれていました。そうやはり軽王と繋がり、また彼らの勢力圏は河内国石川郡、そう蘇我倉山田石川麻呂とも繋がるのです。

暗殺企画は無事に成功して、入鹿の掲げた次世代皇位継承者古人大兄は邸宅に籠り出てきません。事件後の経緯です。
中大兄、即ち法興寺に入り、城として備ふ。
凡て諸皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造、悉に皆随に侍り。(中略)中大兄、将軍巨勢徳陀臣をして、天地開闢けてより君臣の恥始めより有ることを以ちて、賊塔に説かしめたまひ、(中略)
中臣鎌子連、議りて曰さく、「古人大兄は殿下の兄にして、軽皇子は殿下の舅なり。方今し、古人大兄在します。而るを殿下、
陟天皇位さば、人の弟として恭遜ふ心に違はむ。且舅えお立てて民の願いに答はば、亦可からずや」とまをす。是に中大兄、深く厥の議を嘉したまひて、密に以ちて奉聞したまふ。

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騙され殺害された入鹿は恨みのあまり、首だけが中大兄王子達を追いかけ飛鳥寺まで来た所、父の事が気がかりで甘樫丘の蘇我宗家の邸を向いた時に首がおっこちたといわれる跡に建てられた首塚。
もちろん伝承で後世建てられた物。

中大兄が飛鳥寺に入ると陣を構えこれに全ての者(もちろん軽王も)が従いました。(中略)中大兄皇子は将軍巨勢徳陀臣に蝦夷方の家臣に天地に君と臣がある事、つまり蝦夷は逆賊なので、抵抗して戦わない様に説得させにいかせた。

なんで飛鳥寺にいる?山背大兄王子を襲ったあなたが!まるで小早川秀秋!完全蘇我入鹿派の巨勢が。巨勢氏の本拠地は高市郡巨勢郷で軍人家系、ここは軽里に近く、そう軽といえば軽王。しかもやはり和泉郡に同族の拠点があり、この人物も日本書紀では直接クーデターに参加していないものの外せない人物です。

そして蝦夷は味方、家臣の援護も受けられず、病もあり反撃する事もなく邸宅を焼いて自害。
蘇我宗家はここに滅亡してしまいます。

皇極天皇から次期天皇として名指しされた中大兄は鎌足に相談します。
「古人大兄は皇子の異母兄で、軽王は皇子の舅です。古人大兄は生存されていますし、ここは弟としての義理を立てる為にも今は舅を天皇にして民の声を聞いて政治をするのが良いのでは」アドバイスし、これに従います。
ほらね実子即位を断念しましたね。

本命登場!軽王、本来天皇の皇位とはほど遠い存在の一皇族。敏達天皇の皇子押坂彦人大兄の長男の茅渟王と桜井皇子(蘇我氏娘腹)の王女吉備姫王との間に生まれた長男。
よってどう状況見ても古人大兄よりも皇位には遠い。古人大兄がいる限り、入鹿いる限り即位は夢のまた夢。
しかし大逆転が!中大兄皇子が内々の即位を辞退した事で皇極天皇は弟軽皇子に譲位の意思を公にします。
これに軽王の態度は?

軽皇子、再三固辞びて、転た古人大兄に譲りて曰く、「大兄命は、是昔の天皇の所生なり。而して又年長いたり。斯の二理を以ちて天位に居しますべし」とのたまふ。是に古人大兄、座を避り逡巡き、拱手して辞びて曰さく、「天皇の聖旨に奉順はむ。何ぞ労しくして臣に推譲らむ。臣音願はくは、出家して吉野に入り、仏道を勤修ひて、天皇を祐け奉らむことを」とまをす。
辞び訖りて、佩かせる刀を解きて地に投擲ち、亦帳内に命せて皆刀を解かしむ。(中略)
是に由りて、軽皇子、固辞ぶること得ずして、壇に升りて即祚す。大伴長徳村連、金の靫帯て、壇の右がに立つ。犬上健部が、金の靫帯て、壇の左に立つ。

軽王、即位の詔を再三頑なに断り、「古人大兄は舒明天皇の皇子です。そして皇族の年長者です。天皇に相応しい。」と言い古人大兄を推挙する。古人大兄座を退いて「天皇の仰せに従います。私は臣です。臣の願いは出家です。吉野で仏道に励みたい。天皇の治世を奉ろうと願っています。」辞退して刀を下して部下の者にもそうさせた。(後に中大兄皇子が襲撃し、自殺します)しかたがないので、断りきれず軽王が即位した。大伴長徳が弓矢入れを持ち孝徳天皇の右側に立ち、犬上健部が同じくして左側に立った。

なんだか嘘っぽい態度です。喉から手が出るほどほしいはずの皇位。ここに第一位皇位継承者を押しのけての即位が安易でない事が覗えます。

【余談6】
新羅本記の武烈王の即位の経緯が似ています。
真徳女王が死去すると郡臣は上大等閼川に即位依頼するも、高年を理由に辞退して春秋公を推薦し、公は再三辞退するもやもうえず即位した。

しかし結局断りきれない状況になり(もしくは作り)
天皇に即位した孝徳天皇は皇極天皇は皇祖母尊となり、中大兄皇子を皇太子阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、そして鎌足に大錦冠を授け内臣に任命しと。その忠誠心を褒め称えて、彼が官司を統括したので、政治は安定したとあります。
しかし鎌足の内臣の職は良くわからない役職でその前にはなかった官職です。やはり身分柄大臣職は憚りがあったのでしょうか?鎌足の為に与えた特別職だったようです。
しかしこの頃から日本書紀ではその名が記述される回数が減ります。しかもこれといった業績がある訳でもなく。これは何を意味するのでしょうか?
日本書紀は歴史書、天皇を中心とする中央集権国家への集大成、国力のアピール書なので鎌足一人個の記述は必要ないと編集者は見たのか?それとも姿がない時ほど、なにか影の大業をなそうと姿を消したのか?まあどちらかでしょう。

その後孝徳朝ではやつぎばやに政治改革してゆきます。まあそれが嘘の記述でも、なんせ大化改新と日本書紀に記するほどの大改革でなくてはいけません。
当時ない地方役所の名、官位の名、法律、戸籍の成立を大改革。しかし即位後後、大郡に遷都するなど孝徳天皇の天皇としての政治の意欲は感じる事が出来ます。
その地位を盤石にしたい為と皇位略奪の地を離れたかったのかも知れません。
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難波長柄豊崎宮の模型図
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大王の御殿(御常御殿)
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大極殿
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現在の内裏跡の風景

しかしまさに大坂に遷都してからの孝徳天皇に落日の影が立ち込めます。
中大兄王子との対立です。孝徳天皇は難波に遷都して、有馬に左右大臣達を伴い行幸し、武庫行宮に宿泊した日に中大兄王子の私邸が火災に合います。しかもこの火はどうも放火だったらしく、人々は怪しんだと伝えます。
天皇、左右大臣派の暗殺か?事実孝徳天皇は都を留守にしていました。

孝徳五年三月の乙已朔にして辛酉17日に、阿部大臣が夢りぬ。天皇、朱雀門に幸し、挙哀たてまつりて慟ひたまふ。

3年後阿倍内麻呂大臣が死にます。天皇は朱雀門まででて、その死を激しく悲しみます
阿倍氏は孝徳と中大兄に娘を妃にした、いわば二人の調整役です。その人物の死。これは大打撃です。


阿倍が亡くなるとすぐ同年戌辰24日に蘇我臣日向、倉山田大臣を皇太子に譖じて曰さく、(中略)己已25日(中略)「願わくは、我生々世々に君王を怨みまつらじ」といふ。誓ひ訖りて自ら経きて死せぬ。

日向は兄の倉山田石川麻呂大臣を皇太子を暗殺しようとしていると中大兄に進言。最終的に大臣は自殺してしまいます。

またも蘇我氏の同族争い。
蘇我分家は当時、石川麻呂、日向(のち筑紫師)、赤兄(のち左大臣)、連子(のち右大臣)、果安(のち御史大夫)の5名、石川麻呂が襲撃された事と残りの全員が斉明・天智治世で出世した事実により、事件関与と孝徳天皇の権力排除は中大兄首謀説はほぼ間違いないでしょう。しかも、天武天皇時代に連子の娘は鎌足の二男不比等と婚姻関係を結んでいます。両者の親はすでに死去していますが、当時でもなんだかの関わりがあったとみて良いでしょう。よって鎌足もこれに積極的に関与したと思われます。が、孝徳天皇と旧知の仲の鎌足はさすがに表に出れないのか。すっかり息を潜めます。
その年の夏に大紫の位に上がって左大臣になった巨勢臣徳太と同じく右大臣になった大伴連長徳も怪しいですね。すでに中大兄皇子派に事件の中核にいた。

また次にいきなりの展開!ですが。

私財の中、好書の上には皇太子の書と題し、重宝の上には皇太子の物と題す。使者、還りて所収めし状を申す。皇太子、始めて大臣の心の猶し貞しく浄きことを知り、追ひて悔い恥ずることを生し、哀しび歎くこと休み難し。皇太子の妃蘇我造媛、父の大臣、塩の為に斬らると聞きて、傷心して痛み惋く。(中略)造媛、遂に傷心に因りて死するに到りぬ。皇太子、造稗徂逝せぬと聞しめして、愴然傷怛み哀泣びたまうこと極甚し。
しかもこれには話がもう一つ加わります。
自殺した倉山田石川麻呂の邸の財宝を没収しに行った役人からとんでもない事実がわかるのです。多くの財宝や貴重な書物に「皇太子の物」と書かれていた。というのです。
皇太子は事実を知り、大後悔!この人にしてはひどく落ち込みます。しかも追い打ちをかけるように石川麻呂の二女皇太子の媛が悲しみのあまり建王を出産後死亡して、更に皇太子は自暴自棄になります。
あんなに冷酷で覇王な人が???

【余談7】これには
編集者の意図
が隠されています。実はこの日本書紀を献上した相手元正天皇は草壁皇太子と元明天皇の娘、そして元明天皇の母父母は天智天皇、倉山田石川麻呂の娘、且つ草壁皇太子の母は持統天皇、その父母は天智天皇とこの時死亡した造媛(倉山田石川麻呂の二女)天皇の血縁者が謀反人ではいけないのです!で悲劇のオンパレードとなるのです。

白雉2年大郡より遷りて、新宮に居します。号けて難波長柄豊崎宮と曰ふ。

そして、事件の2年後体制を立て直すかのように孝徳天皇は以前から計画させ完成した難波長柄豊崎新宮に移り遷都します。
ただし書紀には変後、6カ月後同じ豊崎宮に遷都した記載があるが、これは大坂の大郡の宮に遷都のあやまりと考えた方が妥当でしょう。

しかし内麻呂と倉山田石川麻呂をなくした孝徳天皇は両手のないも同然。トライアングル関係が消滅した事で一気に体制は中大兄に傾きます。やはり事件の背後に中大兄と鎌足あり!

異常に悲しむ皇子とまったく出てこない内臣。
しかも一人息子定慧は
白雉4年5月辛亥朔壬戌、大唐に遣わさる、(中略)定慧内臣乃長子也(中略)
不可思議?これから起こる悲劇を見させるにしのびなかったか?

4年是の歳に、太子奉請して曰さく、「冀はくは倭京に遷らむ。」(中略)天皇、許さしたまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊、間人皇后を奉り、(中略)皇弟等を率て、往いて倭飛鳥河辺行宮に居します。時に公卿大夫。百官の人等随ひて遷る。(中略)5年壬子に紫冠中臣鎌足連に授く。
誰が???授けた???
そう誰が?天皇は一人、臣下は大和。但しその大和で唯一それが可能な人物は一人。皇祖母尊(いわば上皇)やはり今回の無血クーデターの褒章でしょ。

654年 10月壬子に天皇、生殿に崩ります。

この孝徳期の外交は新羅が単独で使いをよこしたり、質「金多遂」を渡倭させたり、遣唐使を派遣したり高向玄理が唐に渡ったりと新羅と唐への接触する記述が増えます
。その新羅が唐の衣服で渡倭した際に巨勢大臣が新羅征伐を提案するも孝徳天皇は無視します。どうやら高向玄理、僧旻は隋で学んだ留学生です。隋なき後唐式律令制国家「倭国」を目指すのは普通です。

この辺りが中大兄、皇極天皇と対立したと見て良いでしょう。百済派は新羅と唐が更に倭国まで敵になっては百済は間違いなく滅亡まっしぐら、倭国に保険(人質)をかけた意味がありません。
僧旻が死去すると計画通り遂に両者決別。しかし今度は親族間のクーデター。
やり方は前より穏便に行わないといけません。

653年に中大兄皇子、天皇に大和に都を遷都しようと言われ、拒否すると親族連れて大和に帰ってしまいます。そしてこれに臣下全員従い天皇を残し皆大和にもどってしまいます。天皇は恨んで退位したいと山崎に移りすもうとしますが、10月に病の為崩御します。

崩御する前に皇后間人に送ったという歌
金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか 孝徳天皇堅い木に縛って飼っていた私の馬、外に出さないでいた私の馬を何故人は見知ったのか?

一般的には妻を寝取られた悲しみの歌と受け取られている様ですが、なんだか信頼する重臣を奪いとられた悲しみと恨み、寂しさがある様に思えます。

おそらく鎌足や他の重臣達には老いの激しい孝徳天皇、後見人のいなくなった有馬皇子だけでは南淵塾で共に学んだ若い覇王中大兄皇子にはかなわなかったのでしょう。皆将来前途有望の御曹司に従いますよね。鎌足を黙らせた編集者の意図もわかります。この後高向玄理も追い出される様に唐へ派遣され二度と帰国する事なく唐で死去します。
勝者中大兄皇子!&鎌足


大和に帰ると皇太子が即位するのかと思えばまたも母皇極天皇が再即位。
なぜ即位しない中大兄王子!当時も今もやはり象徴的な存在になっていた天皇になるよりも、実務者である事をこのんだ。その方が政治断行しやすかったの一言だと推測されるのです。

有馬皇子の事件の同年658年1月に鎌足に二男不比等が誕生します。当時で44歳の鎌足、遅い子供です。
鎌足にはほとんど晩年に子供が出来ています。その他は女の子で、2名は天武天皇夫人に、1名は大友皇子妃、1名は意美麻呂夫人ですが、母も生年もはっきりしません。
不比等は母親が車持夫人とも・・なんと家伝ではあの鏡王女(一般に天智天皇妃と言われているが書紀には記載なし)とも伝える人物。実は平安初期に読まれた「竹取物語」に出てくる車持皇子は不比等がモデルという説があります。なんで皇子?
そうこの不比等にも出生の秘密があると平安初期の書物にも書かれています。その根拠が二人の残した歌。

玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも 鏡王女訳:男女の秘め事を隠すのは簡単だと、日が明けてから帰るあなたはいいけれど私の名が卑しめられるのは悔しいといった感じの内容。
これに鎌足は
玉櫛笥 みむろの山の さな葛さ 寝ずはつひに 有りかつましじ   鎌足
訳:男女の秘め事は【三輪の神様(さな葛は中大兄皇子の別名葛城)】中大兄の意向です。寝ないなどという事はありえませんという感じの内容です。
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談山神社にある東殿には鏡女王と定慧、不比兄弟を祀った若宮。
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つまり、中大兄の指示で当時妃だった鏡王女を内緒で鎌足が通い婚していたというのです。鏡は王族で王族の結婚は臣下とは法的に許されていませんでした。通常は考えにくいのですが、皇太子に娘を入内させていない鎌足には王室に入れる娘がいなかったと思われ、替わりに中大兄が妃の一人を内緒で関係させていたというのです。(だから書紀に記載がないのか?)
しかもまたも鏡はおそらく二人と関係していて子を妊娠。皇太子は「生まれた子が男の子なら鎌足の後継ぎに」と提案。生まれたのが、男の子の不比等。子供は車持氏、もしくは田辺氏に預けられ養育されたと推測できます。

【余談8】
斉明天皇体制は孝徳天皇治世まるかかえ、しかも皇極期にはまったく事業らしい興味なしといった統治だったのに、豹変。宮殿造りと土木事業(石像物の巨大流水施設など、最近の調査ではこの巨世群は道教に関連した祀事場という結論)東国平定、そして孫の健王の養育だけ。
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酒舟石遺跡に向かう竹林
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途中に復元された石垣
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酒舟石
一部は切り出され、所在不明です。勝手な憶測ですが、京都や東京など権力者へ珍しい巨石などと言って贈呈された様に思うのです。だって変わった石像は珍重されたはずです。なので今京都にある寺の庭にある石は明日香の石造だったなんて推理しちゃうんです。
最近まで何のために造られた不明な岩、酒の製造に使われたとか、庭園の石造など諸説ありました。近年第12次調査で発見された石造群により、斉明天皇の両槻宮の一部である事がわかりなんだかの祭事の場と判明されました。
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第12次調査で発掘された遺跡、復元含む。(主に天武期に改修された施設を公開)
斜め前から
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上層部右から、小判形と亀形石造群
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小判、亀形石造群は天武期の改修(本物)
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階段状石垣
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斉明~859年頃まで使用された施設である事が発掘の結果判明しているそうです。
話し戻し。


本当に同じ人?皇太子の中大兄皇子の感心事は百済の支援で新羅・唐の外国向けの戦争だけ。
新政権は上記の無謀な政策の反感を買いました。飛鳥板蓋宮→飛鳥川原宮・岡本宮が火災にあったのは当時宮殿の放火は政治批判として行われていたといわれ、当時斉明天皇、中大兄皇子の不人気度を現しています。
そんな事はお構いなし。
ついには唐新羅連合軍に敗北した百済再建に質の百済王子に軍までつけて帰国させ、援軍に天皇まで九州にこさせ、斉明天皇は九州朝倉宮で崩御。それでも中大兄はまだまだとばかり朝鮮半島まで兵を出し、白村江の戦いで大敗退、踏んだり蹴ったり。ボロボロになり、大和に帰還後、これまた百済難民に土地を与え、あげくそのうちの拠点大津に遷都してしまいます。
朝鮮半島、大陸からの軍事的防衛地ってわかるが、自国の危機を天秤にかけてまで救援した関係って?自分の国ならわかるけど。自分の国?国???皇極天皇期にはそれほぼ百済びいきがみられませんでしたが、斉明期では大重要課題となります。
これにはやはり中大兄の意向が、というよりも父舒明天皇の遺恨が影響している様に思われます。舒明天皇の晩年すくなくとも百済宮、百済大寺、百済大殯など、百済系の関わりがあり、すぐに崩御してしまいます。この無謀な外交戦略は父親の周辺にいた百済から渡来してきた多数の豪族達との協力関係からとは考えられないでしょうか?また母の父茅渟王は一説に百済王(王族の名は養育に係わった氏の名がつけられるのが一般的)とも呼ばれていた
とも言われます。え~中大兄王子ってファザコン???

朝鮮半島は飛鳥時代以前より三国時代軍事大国の高句麗と百済と新羅が同盟、決別、戦闘を繰りかえす歴史にありました。特に百済新羅は軍事的に弱くその強化の為倭国との外交を優位にしようと倭国に質(人質の事をそう言いますが、当時は王の代理人的な役割が大きく、今でいう代理王と在倭大使を兼ねた存在だったと考えられます)
皇極期から斉明期に当たる時期に百済の書紀に見える質の名は「長福」「豊璋」「塞上」新羅は「弥武」しかも彼らは度々日本書紀にも登場します。
特に百済派の朝廷を形成する為舒明天皇にその望みを託すも道半ばで崩御、皇極天皇は蘇我入鹿大臣のいいなり、
そんな中、百済の使者が渡倭した皇極2年には蘇我大臣への贈り物が質素だと大夫の役人に叱責されます。これは気になる一文です。大臣の百済軽視ともまた国内の百済系勢力が不快になったと同時に危機感も与えたに違いありません。
母国の政情安定にも大協力国がぜひとも必要だった。
で!倭国定住の百済系帰化豪族を囲いこみしようとしたのが中大兄皇子。
しかも「中大兄皇子」の名は通称で本名は「葛城皇子」しかし日本書記は中大兄、もしくは皇太子の名にこだわり。今日通称が一般的な呼び名で使われます。
「大兄」である事にこだわったのではないでしょうか?大兄は皇太子の位ではありませんが、間違いなく天皇候補の証し、しかし葛城皇子は誕生以来蘇我氏腹大兄達がいたので父母が天皇でその長子と生れながら、皇位からは遠い存在。しかも葛城氏は古い豪族とはいえ強力後見とはならずしかもその名は蘇我宗家の勢力地域だった為、真ん中の二男坊皇子となんだかわかりずらい適当な名前を使用したのだと推測できます。
又後世天武天皇が東漢氏に「推古から天智朝に政争の実戦部隊として陰謀にかかわった罪を許す」と伝えています。東漢氏は百済系帰化人!

また不可解な事に入鹿が暗殺された際、それを見た古人大兄王子が「「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」」という台詞が非常に重要です。
入鹿暗殺の影にも中大兄の周辺に百済勢力あり!大きな後見基盤のもたない皇子の唯一の基盤と見た。
中大兄王子に影ながら接近!それを結んだ人物が中臣鎌足!

ここに(中大兄皇子&百済王族と百済系帰化人)=中臣鎌足=(軽王と朝廷豪族)の構図が誕生


①百済王子「塞上」質:皇極期~斉明期?までは記述あり
父から「よくない事をしている。母国に返してほしいが天皇が許さないだろう」と言いい間接的に王子が天皇に重要視されています。しかも彼は蝦夷にも印象が悪いのか本宅にまねかなかったと日本書紀に記述が残っています。この人物はなにかひっかかります。王はなにを良くない事をしているといっているのでしょうか?蘇我家は渡来系のかかわりの深い一族、百済仏教推進派。その蘇我本家と不仲且つ父王の心配。塞上は倭国を大親百済国にしたかった。その後孝徳期に宴の際登場した後は不明。他の本には豊璋が百済に召還される際に同行させたとあります。

②百済王子「豊璋」質:ほぼ舒明期~斉明期まで記述あり
皇極2年11月以降三輪山に養蜂するが増えずという記述がひっかかります。単純に倭国に養蜂技術を伝えようとした。では???です。彼は百済王子で養蜂技能者ではない。そしてその月です。山背大兄王子事件が11月。その後、そして鎌足が登場する前。
冬に養蜂って無理でしょ!今より寒いはずです。しかも三輪山って大物主の神山です。山そのままが御神体しかもその神は祟り神。外国の王族でも勝手にそんな事したら大騒ぎです。
この記述はやはり「舎人親王の暗号」と見るのがBESTです。

豊璋は三輪山=天皇家及び皇族に蜂=自分に賛同する勢力を結びつけ倭国に百済ネットワークを作ろうとしたが、失敗したか。と見るか。
三輪山=出雲系の象徴を蘇我宗家に置き換え、蜂=暗殺実行犯もしくは諜報員を送り込んだと見るのが妥当。

一度失敗したが、これを中大兄王子(三輪山)鎌足(蜂)が結び付け成功するも、孝徳期では自国の成果が上げられず、斉明期でようやく滅亡の危機に救うべく、百済王として本国に召還され、倭軍協力軍と共に新羅唐軍を向かえ撃つも敗退。行方不明(一説に高句麗に亡命した?)

③百済王子「翹岐」亡命者?大使?皇極期のみ(豊璋の別名という説あり)
皇極元年に百済の王族が即位したての義慈王に島流しにあった翹岐を倭国に迎え阿雲氏の家に帰化させた。
その後いきなり大使の任につき、天皇に謁見して蝦夷も本宅に招いて贈り物までもたせた。
その後子が死に河内国百済村(葛城軽里ライン上に極めて近い)に妻子と共に安住し、時折朝廷に呼び出され百済への饗宴では相撲を観賞して百済人は翹岐の邸を訪問したとあります。(但し奇妙な事にこの後さらに翹岐がまた渡倭したと記述しています)

④身分不明「長福」質:皇極期のみ
皇極期に小徳の位を与えた。

⑤百済王族豊璋の伯父「忠勝」質ではない孝徳期~斉明期?記述小
白雉が現れた際に同席しただけ、一説に百済に帰国した豊璋に同行したとも言われている。


【大胆!妄想説】
実は乙巳の変
大黒幕「富璋・塞上他百済王子&百済系帰化豪族」
実行犯「中大兄王子 他2名」
計画者「軽王&阿倍内麻呂、鎌足」
協力者「蘇我倉山田石川麻呂初め傍流蘇我氏、巨勢氏、東漢氏、大伴氏など他多数」

背景
天皇家の皇位派閥闘争 
継体天皇大和系皇族(蘇我氏腹)対継体天皇非大和系皇族(非蘇我氏腹)
豪族達の家督順闘争  
蘇我宗家による直系相続主義 対 家督兄弟間相続主義
東アジア外交関係  
高句麗・百済 対 新羅・唐
  
 

      
百済再興の際にも両史記に類似が見られます。
どちらも百済国(もしく旧百済勢力)が侵略される事を意味してます。
日本書紀:夏四月 鼠が馬の尾に子を産んだ。
百済本記:義慈王雌鶏が小さい雀と交尾をした。


中大兄皇子は敗戦後大和で母帝の埋葬をすませ、即位せずに政務につきます。

明日香に天智2年、天智天皇勅願で義淵僧正が建立したお寺といわれれています。
途中にあったので、寄ってみました。今は石楠花と牡丹が見ごろです。

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山門
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お地蔵様と牡丹
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枯山水の庭、遠くに桐の花
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石楠花
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本堂
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【余談9】
舎人親王の暗号2
天皇崩御の欄に「天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月甲子の朔に皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕、朝倉山の上に鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆磋怪ぶ。」とあります。
磐瀬宮に戻って亡き天皇のお葬式をする所を朝倉山から鬼が見ていた。さあこの鬼だあれ!!!
実はこの鬼斉明天皇即位の時にも出没している。
夏五月庚申朔甲戌、空中なかにして竜に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。

殺された入鹿か?事実解明せず、逃げた天皇のお葬式を眺めていたか?
やはり恨みに思って出てきたんですね。悪者にされて祟りに来た?実は入鹿の邸の地周辺に地元の方が代代守り続けた入鹿神社があります。明治に祭祀を止める様に政府に圧力をかけられても止まなかったそうです。入鹿はそんなに民衆に嫌われていなかったんですね。やはり蘇我一族の内ゲバの犠牲者というべきでしょう。

なお鬼は百済本紀にも出てきます。
一匹の鬼が宮中にに入って来て、「百済は滅ぶ、百済は滅ぶ」と大声で叫んでから地の中へ入った。
どちらも不吉な話です。




ようやく鎌足登場
同日、中臣内臣、沙門智祥を遣わし物郭務悰に賜わる。戌寅に、郭務悰らに饗宴を賜わる。
鎌足が唐の使者に物と宴会を設けた。
敗戦後の会談に来た使者をもてなすそんなにたいした事ではない役目・・・・この前も後もでなさすぎ。
もしや孝徳天皇暗殺?した?後悔の念で政治意欲をそがれたか?
この後は老いた道化の様です。


667年近江宮に遷都し即位した中大兄王子。何故に近江?実は高祖母広媛の父は息長真手王といわれ、父舒明は息長足日広額天皇の名を持ちます。この息長という名は近江の古豪族で、血族の縁の地であり、父母から近江出身の継体天皇の濃い血(継体天皇の即位前の正妃の系統に遡る事が出来ます。)を受け継いだ為か、もともとこの地は帰化百済人地区であり、又福井や若狭といった日本海にでる海路、東国にでる陸路に通じ新羅、唐連合軍に対応しやすい地でした。即位し天智天皇となり、皇后を古人大兄の遺児倭姫王(自分の皇位にはく、もしくは正統性を持たせる為)にして戦争処理に奔走します。朝鮮半島は新羅がほぼ制圧し、苦しい外交をよぎなくされます。表向きは唐、新羅と和解し、国内の百済亡命者を受け入れすでにない国「百済」の使者を国内に保護されていた義慈王の子「善光王」が朝鮮半島の百済から外交しているようにみせる記述もあり、わざわざ倭国内に仮想百済国を設定しているのです。
頼りは百済派のみか・・・・・・

鎌足は近江遷都後更にどうでもいいわというくらいしか、出てきません。

この頃天智天皇は采女の一人を鎌足の妻に与えます。
 我れはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり  鎌足
この安見児はだれでしょう?この女性まったく文献に出てきません。いたのか?俗名か?

【余談9】
いまさら女を与えて鎌足との関係強化も?相手は老人ですし。思うに鏡王女が正室とするための仮名では?興味深い説があります。以前は鏡王女と額田王は姉妹説が一般的でした。同じ鏡王の娘と記載されているので、他説で、実は同一人物という説があるのです。もしその説をとるなら次の記述はドラマティックです。

天武12年秋7月4日天武天皇、鏡姫王の家に行幸し、病を見舞った。
5日、鏡姫王薨りぬ。
壬申の乱後、即位した天武天皇が病の故内大臣正室鏡姫王の邸に見舞いに行きその5日後なくなります。

なんか子供もなした元夫婦が別の立場で対面する。考えしきり、ただこの説少し矛盾があります。次の持統天皇治世でも額田王は見事な和歌を残しています。死んでないんですね・・・・。


話戻して
何故か天智7年5月5日、蒲生野に於て遊猟。于時、大皇弟、諸王、内臣及び郡臣、皆悉く焉く従う。

これは唐にならい、今の子供の日に薬草を摘む宮中行事を蒲生野でおこなって皆付いていった。
有名な額田王と大海人王子の歌「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」額田王
              「 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方」大海人王子
の歌がその時の祝宴で披露されたと言われています。家伝では天智天皇が気分を害し、大海人王子と一触即発になりかけたのを鎌足がとりなしたと自慢げに書いていますが、もうこの時は皆中年です。酒の席の冗談歌でしょ。

(天智7年秋九月の)丁未に、中臣内臣、沙門法弁・秦筆を使して、新羅の上臣大角干庾信に船一隻を賜ひ、東厳等に付く。(中略)

(天智7年秋九月の)に中臣内臣(鎌足)が沙門法弁と秦筆を使いにして新羅の重臣金庾信に船を東巌に託して贈ります。
涙苦しい努力です。

天智8年5月、山科に於て遊猟。于時、大皇弟、藤原内大臣及び郡臣、皆悉く焉く従う
またも遊びでお供。名前変わっています。藤原姓になってるし。しかも内臣が内大臣になっています。
書記ミスか7年か8年に賜ったか?

是の秋、藤原内大臣家に於て霹攊。(中略)
同じ秋に鎌足の邸に落雷がありました。雷というのは当時不吉な現象とみられ、それは「龍神」が
激昂しているからだと思われていました。龍=竜そう斉明天皇即位の際、葛城から飛んだ異形の者の乗り物は竜!

冬十月の丙午の朔にして乙卯10日に、天皇、藤原内大臣の家に幸して親ら所患を問ひたまふ。而して憂へ悴けたること極めて甚し。乃ち詔して曰はく、「天道輔仁、何ぞ乃ち虚説ならむ。積善余慶、猶し是徴無からむや。若し須る所有らば、便ち以聞ゆべし」とのたまふ。対して曰さく、「臣、既に不敏し。復何をか言さむ。但し其の葬事は軽易なるを用るむ。生きては軍国に務無し。死りては何ぞ敢へて重ねて難さむ。」と云々まをす。(中略)庚申15日に、天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣して、大織冠と大臣の位とを授ぐ。仍りて姓を賜ひて、藤原氏とす。此より以後、通して藤原内大臣と曰ふ。辛酉16日藤原内大臣薨りぬ。

10月10日に天皇が病の鎌足の見舞いに訪れた。憔悴しきった鎌足を見て、「なにか申し出があればいなさい。」と言った所、鎌足は「私の様な愚かな者にいまさらいえません。葬儀は簡素に生きていて国の役にたてず、死んでわずらわすなどできません。」天皇は非常に感動され、東宮大皇弟(大海人王子)に鎌足の邸を訪問させて、藤原の姓と大織冠と大臣の位を授けました。しかし16日に亡くなりました。

ここまで紹介してなんですが・・・なんか鎌足いなくても歴史が変わる事ないような、ん~~~なんだろうこの変な感じ。そう存在していた確証はあるのに、大きな功績が表だってはっきりしない感じ。
私達は不比等にしてやらわているのでしょうか?大きな政変の中に大きく誇張して描かれた鎌足を信じこまされているのでしょうか?

ともあれ、鎌足亡き後、近江朝は壬申の乱で崩壊、天武天皇が飛鳥で即位します。

【余談10】
日本書紀:六月在る村で亀を捕まえた所、背に申の字が書かれていた。
百済本記:地中に亀が発見されてその背に「百済月輪、新羅新月」と書かれていた。
両記とも(近江朝と百済国)滅亡を意味している。


幼い二男は田辺史(渡来系)大隅の元で高い教養を身につけ育てられます。末娘の娘婿として一族の意美麻呂と天智朝の重臣連子の子大嶋がなんとか天武朝で生き残り、さらに鎌足の遺児の姉妹を天武天皇夫人として皇室との関係も保ちつつ、成人を迎えると自身も蘇我連子の娘娼子を正妻にして男子房前(他に武智麻呂、宇合)が誕生し、他1男。又賀茂媛の娘との間に後の文武天皇夫人宮子、後室橘三千代の間に光明子他1名、母不明で長屋王夫人など地盤固めしてゆきます。

娼子の実家蘇我連子の一族は滅びはしなかったものの、近江朝で重用された為勢力を失っていました。
日陰同士の婚姻です。
しかしこの房前の子孫こそ後の平安朝で主流となる北家の藤原氏となるのです。
まさに松(天皇家)にかかりたる藤(藤原氏)なんですね。

最後に今回の資料は本当に困りました。なんせ日本書紀の記述が難解!嘘と真実がごちゃまぜ
しかもいろんな資料を読むにつけて、いままで朝鮮半島から倭国に文化、技術、芸術が入って来たいわば先進国と後進国の関係と思っていたら衝撃の連続!倭国は古墳時代から朝鮮半島を度々侵略し、新羅百済からは人質まで倭に送られたほど。当時(古墳時代)日本は戦闘の動乱期で、伽耶(朝鮮半島の小国、鉄の生産国)とも強い結びつきがあり、倭国はかなりの軍事集団国家だったんですね。まあ弥生時代からの何度かの渡来人の倭国入国で倭国の韓化もあるでしょうが。

そして最後に一つ
異説に鎌足、天智天皇どちらかが富璋・塞上・翹岐説鎌足が新羅の金ユシンと天智天皇が武烈王説という論があるようですが、個人的にはないと思います。敗戦後亡命者の中に富璋に殺された鬼室福信の子がおり、鎌足が富璋なら無事ではいられないでしょう。し、又敗戦後新羅の金ユシンに船まで贈る、唐の使者の接待役など?後者も論外で敵対する倭国の王になり母国を攻撃するなどありえませんし、武烈王の父金春秋の娘は百済人に夫婦で惨殺されています。腹違いとはいえ尊敬する父の百済嫌いを否定するどころか反するとは考えられない。
また、乙巳の変からの日本書紀の記載が朝鮮半島の歴史を記しただけで、以降の倭国の歴史を捏造した等という異説もないと思います。

倭国の朝鮮支配は歴史の完全捏造等かなり困難です。皇極天皇から4世代前の継体天皇は請われて、皇位についたのに大和に入るまで約20年かかったほど、豪族の力が強い倭で他国人の天皇即位などありえないと思います。クーデターを起こした外国の王子の元に全員賛同など不可能です。もししようとしたらどこかに痕跡がかならず出てくるはずです。
又、日本書記は捏造も多い国書ではありますが、事実もあり当時の遺構も発掘されています。なにより三国史記に倭国の朝鮮系天皇の即位の記述がないのが物語っています。日本書紀があまりに朝鮮の古記を模倣していたのでそういう異説が出た様に感じました。

ついつい当時文化的に優位な為に倭国は当時の国際社会で劣った国の様に考えていましたが、朝鮮半島に強い影響力が軍事国であり、軍事と引き換えに文化、技術を入手していった。


当時の東アジア情勢の余波として「乙巳の変」があったと断言していいでしょう。
でも鎌足いなくてもク―デタ―の成功は可能かも???あれ?結局不比等にまだ騙されている???
というのも
中大兄皇子=鎌足
持統天皇 =不比等
そして天武天皇時代には共に敗者側の人間という構図にそれぞれの父方の血筋の正統性を強く感じるのです。

あれ~~~結局すべての謎は天皇皇族、関係者の墳墓を調査、埋葬者のDNA検査をしないと解けないという事ですね。はあぁ宮内庁は絶対させないでしょう。永遠無理かも~~~

ハギレのわるい終わり方ですが、次回のあれば奈良版京草子は「法隆寺」を秋に予定。
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