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飛鳥時代 「二つの襲撃事件 点と線の交差点」第一章 山背大兄王子襲撃の犯人

舞的歴史妄想草子

まずは今から草子する二つの飛鳥時代の事件を斜め45度の視点で分析・構築してみる。

舞が以前から日本書紀の記述には全体的に漂う奇異なところが多いということ。
がそもそもの始まり、以前もいろいろ草子したとこがありますが。

まず私見による日本書紀への考え方についての定義


①日本書紀は当時現存していた倭伝記の全てをまとめあるいは加筆した編集本である。

日本書紀の中では一書伝が多く記述していますが、そもそもこれらは諸家・個人所有の書・三国史記魏志倭人伝等を転記しています。
転記したあとこれらはどうなったのでしょうか?
返されたならどれかは現存したはずです。
しかし日本書紀・三国史記・魏志倭人伝以外現の書は今のところ存していません。

逆にいえば日本書紀に転記されたからこそ現存しなかったのではないか?

そう書き上げた後処分されていたとしたら?

何故そう考えるのか?

正史の中に入れることで倭=日本
すべての歴史書が日本書紀にまとめられる事でその中に含まれる出来事、話、そのすべてが日本の話だ。
と堂々と主張できるのでは?

こう考えるのは日本書紀はあくまで外国へ向けての史記であると考えるからです。
古事記は日本向けの天皇の正当性を主張する書

ゆえに日本書紀は漢文で古事記は万葉仮名風の倭風漢文で記述
話の内容も違い、特に日本書紀が一書曰くや天皇家の祖天照大神が違う名で記述されたりとするのに対して
古事記は物語、人物も断定系で記述されます。

だからこそ異説も全て載せて正史とした。
そうすることですべての記録は日本という主張が出来るという考えが出来る。

②日本書紀は段階的に編集され途中で改竄・捏造に近い創作を書き足されて編集された。
根拠
元嘉暦と儀鳳暦という二つの暦を併用

元々元嘉暦は宋から朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた暦

日本書紀では

14巻雄略天皇~21巻用明天皇
24巻皇極天皇~27巻天智天皇

で使用されている。

ところが
 
1神代~13巻允恭天皇
22巻推古天皇~23巻舒明天皇 
28巻~30巻天武天皇~持統天皇

儀鳳暦が使用されてます。

唐の儀鳳年間(天武天皇5年(676年)-同8年(679年))に日本に伝わり持統天皇治世段階的に元嘉暦と併用され、文武天皇元年(697年)から儀鳳暦が単独で用いられるのを定説としています。

よく見るとそう、新しい暦を使用した話に物語の始まりからスタートしているのに気がつきますね。

そう神代の話から古い話は後世書き加えられたのです。
こんなあからさまなミステイクをなぜ放置したのか?
書き換えるにはあまりに膨大な量で、完成を優先したのか?

これは唐・新羅へのアピールいわば国内よりも海外への外交関係に配慮しての結果

キチンと唐と新羅の暦を使用していますよ。
つまり日本書紀は外交に重要な役割があったのです。
日本という国はこんなに古く律令制国家としてふさわしい国であるという事の主張を優先した。

森博達氏による漢文の使い方による分析により編集作業が漢人倭人の違う章二つに分かれる。
漢人の章にあっても倭人の編集がみられる。
ようは改竄・捏造あり以下③で説明します。

森博達著 日本書紀の謎を解く ・日本書紀成立の真実を支持し
この本の主張を前提に進めていきます。

森氏は大阪外国語大学中国語学科・名古屋大学大学院修士課程中退・有名大学の講師を経て後に京都産業大学
教授古代中国語のエキスパート。
日本書紀にある漢文を音韻論・文章論・編集論に分け、明らかに漢人と倭人の記述者の違いを見抜いた。

例えば在を有・無を非・者を仮定条件から確定条件で使用している。所を動作直接間接しないといけない所で動作の主語にしている等々。逆に誤字誤認等のミスのほぼない文章を各整理し分析解析した結果が下記。

β群 倭人編集 
1神代~13巻允恭天皇
22巻推古天皇~23巻
舒明天皇 28巻~天武天皇30巻持統天皇

α群 漢人編集 
 14巻雄略天皇~21巻用明天皇  
 24巻皇極天皇~27巻天智天皇


面白いのはα群が雄略天皇から始まる点そう唯一考古学的に大王として実在が確定出来るワカタケル大王です。
さらに面白いのがα群に属する漢人が書いた24巻~25巻に多様な倭習がみられる点。


つまり改竄の跡がある。

そう皇極天皇巻と孝徳天皇巻です

その中で特に皇極紀の山背大兄王子襲撃事件・乙巳の変の改竄・孝徳紀の大化の改新部分の改竄が特徴


④日本書紀についての見解
続日本紀 元正天皇紀 

先ㇾ是一品舎人親王奉ㇾ勅修二日本紀一


日本書紀の編集責任者はこの記述により舎人親王届いてされています。
しかし舎人親王の一存ですべての編集及び改竄捏造がされたかというとそれは否定します。
何故なら倭の初めての史記です。
当然国内外に内容は大きな影響があります。

特に持統天皇は息子草壁皇子の死去後に孫の軽王を次期天皇として皇太子にさせたい。
しかし当時皇位継承は直系が継ぐのが大前提ではありません。
あくまでも候補者から太政官皇族の総意の元決定されるのです。

持統天皇治世では天武天皇系の皇子が多数存命中であり、孫への継承は安易に出来ない事情がありました。
それゆえ側近で政治的能力のたけた藤原鎌足の次男不比等の補佐を受け、直系継承を実現するために動きます。
日本書紀もその手段として大いに利用されました。

①天智天皇と藤原鎌足の地位向上を図り
皇極・孝徳天皇紀の一部を改竄する。
孫軽王を文武天皇として譲位した後、守護神のように天智天皇陵を当時都藤原京の北に移動させたのはこの時期です。

都の一番北にある陵墓
星座の中で一番北にあり、動くこのない星に一つ北斗七星になぞられます。
つまり天智天皇により守られた都絶対的存在にさせた。
持統天皇は孫首皇子の皇位継承にすべてを注ぎました。首皇子は天武天皇の孫ではありますが、叔父達が存命中は直系といえども皇位を継承するには当時としては弱かった。
しかも持統天皇は近江京に都を移した天智天皇の娘母方の祖父の地位を上げる必要があります。

その片腕に藤原不比等(藤原鎌足の次男で娘都を文武天皇元年(697年)8月、即位直後の文武天皇の夫人を大宝元年(701年)、首皇子の外祖父になる)と協議して二人の父の偉業を盛る必要がありました。

そこで日本書紀に改竄と捏造が必要でした。

②直系継承を名実ともにするために史記を利用する。
天照大神(ただし主導したのは高皇産霊尊)から皇孫の瓊瓊杵尊への豊葦原中国への降臨
持統天皇から軽王(孫)への皇位継承を正当化を主張

③天照大神という皇家の祖を生み出す

太陽信仰はどの国でもどこの地でも自然に出てくるのは当然
おそらく倭の国の中でも日神は名こそ違うが崇拝される存在唯一無二
3世紀崇拝されていたのは太陽の出る東にそびえたつ三輪山大物大神だったでしょう。

天武天皇が壬申の乱の時に勝利を祈ったのは当時の自身の養育部族の大海人の信仰する伊勢の神
遷宮は持統天皇治世で決められた祭事です。
この神様が名を天照大神として登場させた。

④神功皇后と応神天皇の神的な壮大な話
神功皇后に卑弥呼的な要素と皇后といいながら天皇のような存在と応神天皇の活躍
まるで持統天皇は神功皇后の再来といわんばかり。


上記の前提にたち話を進めてゆきます。

まず皇極紀の改竄一段
第一章 山背大兄王子襲撃事件の犯人


この書の記述の再確認でした。

上宮聖德太子傳補闕記
原文
日本書紀暦録并四天王寺聖德王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾

癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害【今見計名有廿五王】
山代大兄王蘇 殖栗王 茨田王 乎末呂王 菅手古女王 舂米女王膳  近代王 桑田女王礒部女王 三枝末呂古王膳
財王蘇 日置王 蘇片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘
孫 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王

于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王
倭訳

癸卯の年の十一月十一日丙戌亥の時。 宗我大臣并びに林臣入鹿・致奴王子の兒、名は輕王・巨勢德太古臣・大臣大伴馬甘連公・中臣鹽屋枚夫等六人、惡逆を發し太子が子孫を計るに至る。 男女廿三王、罪無くして害さる【今見て名を計るに廿五王有り】。時に王等皆山中に入りたまいて六箇日を經て、辛卯辰の時に、弓削王、斑鳩寺に在(ましま)す。 大狛の法師は手ずからこの王を殺す。


平安時代初頭におそらくは僧が記述した聖德太子傳補闕記
自身がなぜこの書を作成したかを序文に記載しています。
日本書紀と四天王寺聖德王傳は真実と違う記述がみるにたえず。
古い記を探し求めようやく調使と膳臣との家の記を手に入れ書を書き上げたと記述しています。

ここで現れる調使とは律令制において調・庸などを京に運ぶ任務を負った国司の職員の責任者いわゆる帳簿のスペシャリスト
膳氏はそう聖徳太子の妃の一人膳部菩岐々美郎女・妹の比里古郎女は久米王子妃を輩出した一族で、
古来から朝廷の食膳を管掌した伴造氏族の出身。軍事や外交などに活躍した人物も多い一族最も身近な氏族

そうかなり信ぴょう性が高いかなと・・・・・・・・。

上宮聖德太子傳補闕記での犯人


宗我大臣并びに林臣入鹿 蘇我入鹿

致奴王子の子 輕王→(後の孝徳天皇)
軽王
その名から軽里(現在大阪府羽曳野市軽里・ここは文武天皇の乳母犬養三千代の所縁の地)の一族が養育係についてきます。
なによりその後見は阿部内麻呂は王子時代から阿部氏の妃小足媛を与えています。
この阿部氏も和泉に勢力を持ちます。


巨勢德太古     →巨勢 徳多 蘇我入鹿の側近 
               乙巳の変時に復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直を説得
巨勢 徳多は蘇我氏の家来です。
その勢力は大和国 高市郡 巨勢郷 桜井屯倉 和泉の茅渟山屯 倉国毎(クニゴト)の田部 小墾田屯倉 国毎(クニゴト)の田部

 

大伴馬甘連公    →大伴 長徳 
大伴 長徳 
物部氏と共に朝廷の軍事親衛隊的な大伴氏を管掌していた氏族
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。
大伴の高師の浜(現在の高石市)大和国高市郡築坂邑に勢力があった。 この大伴氏の女が中臣鎌子の生母はい中臣氏と大伴氏繋がりました。

狛大法師:         大化の改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の
               「大化僧尼の詔」により十師に選出されています

ここにでてくる人物は入鹿以外みな孝徳天皇治世に重用された者ばかりです。

ここで重要なのは軽王と中臣鹽屋枚夫という山背大兄王子襲撃事件の共犯者という点

軽王は皇極天皇の同母弟
敏達天皇の孫 押坂彦人大兄皇子の王子の茅渟王の長男(つまり舒明天皇の甥)

父は大兄(王子の中で皇位継承の資格のある長男)ではあるが、軽王自身は蘇我氏の血統ではなく、皇位には遠いいわば傍流の王族の一人。

中臣鹽屋枚夫の名は初出
中臣鹽屋枚夫 
中臣氏はの京都市山科区中臣町付近の山階を拠点とし現在の高槻三嶋も勢力地だった

そう軽王と中臣鎌子の出会いになった稱疾退居三嶋 

しかしこの中臣鹽屋枚夫という人物、孝徳天皇治世でも高官になっているどころか正史に出てきもしません。
さらにゆうとこの書にしか出て来ていません。
実行部隊であり、血を流してなんの恩寵も与えられていない。
記紀からも排除せれている不思議??

ない事の事実、ないからこその事実すなわちこの中臣鹽屋枚夫こそ中臣鎌子

だからその後の歴史に名がなく、中臣鎌子(鎌足?)唐突に日本書紀に出てきます。

いない人物ではなく違う人間が名を変えて存在する。

今でもやりますよね。姓名を違う字に入り、姓を変えて違う人物になりすます。平然と違う人物を演じる。

もしこれが鎌子でないなら、孝徳天皇治世に功労者として臣下に名が入るはずです。
個人的に調べてもこの名では不明でした。
しかし中臣氏で高官についたのは鎌子だけです。

この無実である王族襲撃というべき事件に藤原氏の立役者を犯罪人にするわけにはいきません。

つまり罪なき人物の殺害に関与したなど、断じてならないのです。
何故なら中臣鎌子→藤原鎌足は当時の太政官で律令制度を確立するために奔走していた藤原不比等の父であり。
文武天皇夫人のを入内させ首皇子(後の聖武天皇)の外祖父である高祖父血で手を染める大罪を犯してはいけないのです。


狛大法師 孝徳天皇治世十師に選出されています。


鎌子の初見を日本書紀を見てみましょう。

皇極天皇
三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。謂充舍人爲駈使也。舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅
入鹿とその下僕の単独犯をとっています。

山背大兄王子襲撃事件は入鹿の単独説ではない

不思議なのは当時の貴族たちが沈黙したという事実です。
秦氏や膳氏すら天皇へ奏上した形跡がありません。
奏上しても無理と分かっていたから?軽王は皇極天皇の同母弟です。

入鹿の父蝦夷が嘆いたくらいで、他の氏族は沈黙を守りぬきます。

何故???これは次の話でも出ますが、誰もいえない人物が実は黒幕いや黒幕というか
いわゆる忖度だあった。と仮定出来ないか


この王族の襲撃事件では犯人は特定されているのに処罰されてはいません。

何故?現天皇の弟軽王、蘇我氏の総領息子と大伴氏が犯人ならば処罰するのは難しいでしょう。
それだけでしょうか?

軽王は皇極天皇の同母弟です。
皇極天皇も知っていたがしらないふりを決め込んだ。
犯人隠避に走った。
いやむしろ容認した。


だからこそ首謀者、実行犯はいとも簡単に襲撃し、山背大兄王子は反撃できないとあきらめ一族もろとも自害したと納得出来ます。

軽王は皇極天皇に「このままだと山背大兄王子の皇位継承が確実で自分の子供葛城王子に皇位を継承できない」と。

それを実現するには邪魔者を排除しないといけない。
と襲撃事件の黙認を事前に伝えていたのでは?


軽王は山背大兄王子を撃つ事でどう転んでも+。

姉に恩を売って自身の政治家としての地位を確立できる、棚ぼたてきに即位できるかもという誘惑に乗った
 

そう点と線は繋がりました。

しかし日本書紀では

山背大兄王子の殺害は入鹿とその側近の単独説を主張しています。

日本書紀
十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟中略
有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行

でも古人大兄王子が入鹿に忠告しています。忠告しているということはあらかじめ知っていたということ。

日本書紀にみる山背大兄王子襲撃事件の全文

蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。是月、茨田池水還淸。十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等曰、如卿所、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。
有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰
觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。林臣、入鹿也。以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。
この中で森氏が書で指摘した場所を赤字でマーカーしてみた。
古代中国語としては形をなしていない。明らかな間違いで漢人ならミスするはずのないところなのだそうです。

これ実は後世の改竄という事実はほぼ定説

そしてなぜか日本書紀は山背大兄王子聖徳太子の息子だと記述していません。

紀が記述しているのは山背が蝦夷を叔父と呼びかけている事実だけです。
おそらく山背大兄王子が聖徳太子の子であることは事実であったでしょう。
逆に事実だったので書かなかった。
のではないか?
日本書紀でも聖人として記述されている王族の息子に日本書紀的には推古天皇の皇太子の息子です。
これをそのまま加筆した時代背景もやはり
持統上皇(同じ女帝だった)の皇太子を経た文武天皇に直結しいては文武天皇の子息首皇子という元皇太子の息子という同じような構成があります。そこはさけたかった。
つまり血族の構成があまりに似ていてそこを強調したくなかったととらえるのは考えすぎでしょうか?

またそんな聖人の血筋の王子を天皇が見殺しにした。
その実行部隊には当時新興勢力藤原氏の道筋を作った政治家としての祖というべき鎌足が参加している。
そんな事実が明らかになれば当時文武天皇の後宮に入り、後に首皇子を生んだその大切な血筋に傷がついては困るのです。
よってあえて書かなかった。


さて山背大兄王子をかたるうえで見逃されないのがそれより前項目にある。

推古天皇の末時期皇位継承の記述である。
ここは倭人による構成されています。
推古天皇の遺言

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。

推古天皇は二人の有力な天皇候補田村大兄王子、山背大兄王子を枕元に呼び助言を残します。
あくまで群臣の意見に求めに応じるようにと遺言します。

崩御後蝦夷は次の天皇継承をどうするか大夫達重臣に問います。

蝦夷九月、葬禮畢之、嗣位未定。
當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家
食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰
「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。

蝦夷は邸宅に重臣を集め宴会を行った後皇位の継承者について意見を求めます。
推古天皇の遺言とおり蝦夷は実行しようとしています。

誰も意見する様子がなくようやく

於是、大伴鯨連進曰
「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」
阿倍臣則問曰
「何謂也、開其意。」
對曰
「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」


時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、
四臣曰
「隨大伴連言、更無異。」

↑ものすごく創作的な展開のようにみえます。
予め台本ありその通り意見したように。


阿部内麻呂が主導し大伴鯨連が先導して田村大兄王子を担いだ。


許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰
「山背大兄王、是宜爲天皇。」
三名は山背大兄王を押し

唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰
「臣也當時不得便言、更思之後啓。」
この段階で蘇我氏の傍流である倉麻呂は意見を保留つまりどちらにも就かなかった。
この人後の蘇我倉石川麻呂の父です。そう乙巳の変で入鹿を裏切ったあの人物のです。

爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。

蝦夷は田村大兄王子の皇位継承を全員一致でおさめたかった。

さらに摩理勢に同意させようとしますが、はっきりと田村派につけとはいいません。
忖度してくてということでしょう。

是、大臣獨問境部摩理勢臣曰
「今天皇崩無嗣、誰爲天皇。」
對曰「舉山背大兄爲天皇。」


ついに重臣の皇位の見解を知った山背大兄王子は。

是時、山背大兄、居於斑鳩宮漏聆是議、卽遣三國王・櫻井臣和慈古二人、密謂大臣曰
「傳聞之、叔父以田村皇子欲爲天皇。我聞此言、立思矣居思矣未得其理。願分明欲知叔父之意。」
叔父蝦夷は田村大兄王子を次の天皇にしたいようだが本意を聞きたいと依頼します。

於是、大臣、得山背大兄之告而不能獨對、則喚阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等、仍曲舉山背大兄之語。既而便且謂大夫等曰、汝大夫等共詣於斑鳩宮、
當啓山背大兄王曰
「賤臣何之獨輙定嗣位、唯舉天皇之遺詔以告于群臣。群臣並言、如遺言、田村皇子自當嗣位、更詎異言。是群卿言也、特非臣心。但雖有臣私意而惶之不得傳啓、乃面日親啓焉。」

爰、群大夫等、受大臣之言、共詣于斑鳩宮。
使三國王・櫻井臣以大臣之辭啓於山背大兄。
時、大兄王、
使傳問群大夫等曰
「天皇遺詔奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、稱、天皇臥病之日、詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、愼以言之、不可緩。」次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉知之、且大王所察。」

蝦夷の使いで訪れた臣達は自分の皇位継承に対する意見を明確にはしません。
推古天皇の遺言通り臣の意見に従いなさいということでしょうか。
山背なかなか皇位に執着しているようでこの後襲撃される際には自決しそうな人物には思えませんが?

於是、大兄王、且令問之曰
「是遺詔也、專誰人聆焉。」
答曰「臣等、不知其密。」既而更亦令告群大夫等、
曰「愛之叔父、勞思、非一介之使遣重臣等而教覺、是大恩也。然、今群卿所噵天皇遺命者、少々違我之所聆。吾、聞天皇臥病而馳上之侍于門下。時、中臣連彌氣、自禁省出之曰、天皇命以喚之。則參進向于閤門。亦、栗隈采女黑女、迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王爲首、女孺・鮪女等八人、幷數十人侍於天皇之側。且、田村皇子在焉。時、天皇、沈病不能覩我。乃栗下女王奏曰、所喚山背大兄王參赴。卽天皇起臨之詔曰『朕、以寡薄久勞大業。今曆運將終、以病不可諱。故、汝本爲朕之心腹、愛寵之情不可爲比。其國家大基、是非朕世、自本務之。汝雖肝稚、愼以言。』
乃當時侍之近習者、悉知焉。
故、我蒙是大恩而一則以懼一則以悲、踊躍歡喜不知所如。仍以爲、社稷宗廟重事也、我眇少以不賢、何敢當焉。當是時思欲語叔父及群卿等、然未有可噵之時、於今非言耳。

自分の推古天皇の遺言とは違うと意見します。さらに

吾曾將訊叔父之病、向京而居豐浦寺。
是日、天皇遣八口采女鮪女、
詔之曰
『汝叔父大臣常爲汝愁言、百歲之後嗣位非當汝乎。故、愼以自愛矣。』既分明有是事、何疑也。然、我豈餮天下、唯顯聆事耳。則天神地祇共證之。
是以、冀正欲知天皇之遺勅。亦大臣所遣群卿者、從來如嚴矛嚴矛、此云伊箇之倍虛取中事而奏請人等也。故、能宜白叔父。」

前に蝦夷が次の皇位には自分を推挙しようという考えを女官を通じで聞いている。と弁明し蝦夷の本当の意見を求めています。

既而泊瀬仲王、別喚中臣連・河邊臣謂之曰

「我等父子並自蘇我出之、天下所知。是以、如高山恃之。願嗣位勿輙言。」

則令三國王・櫻井臣副群卿而遣之曰
「欲聞還言。」

時、大臣、遣紀臣・大伴連、謂三國王・櫻井臣曰
「先日言訖、更無異矣。然、臣敢之輕誰王也重誰王也。」

於是、數日之後、山背大兄、
亦遣櫻井臣告大臣曰
「先日之事、陳聞耳。寧違叔父哉。」
是日、大臣病動、以不能面言於櫻井臣。

徹底して蝦夷は山背大兄王子通り直接会わないし、山背も蝦夷の邸宅へ行こうとしない。
常に代理人に伝言するだけです。
これはどういう?すでに両者の間溝ができている?というここか?

山背大兄王子自身身の危険が予測されたということか?
叔父と会いたいが自分から飛び込まない。蝦夷も直接話をしたいと言うが決して山背邸を訪問しない。
病にあったというので訪問したくても出来ないというのが答えとも思えるが。

明日、大臣喚櫻井臣、卽遣阿倍臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣・大伴連、啓山背大兄言「自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者、群卿皆賢哲也。唯今、臣不賢、而遇當乏人之時誤居群臣上耳。是以、不得定基。然、是事重也、不能傳噵。故、老臣雖勞、面啓之。其唯不誤遺勅者也、非臣私意。」

さらに蝦夷は山背大兄王子に臣を代理人にして皇位のことは蒸し返すなと遠回しの言い方で、はっきりさせません。

しかし叔父にはあからさまに意見を変えるように再三天皇には誰がいいか問いただします。


既而大臣、傳阿倍臣・中臣連、更問境部臣曰
「誰王爲天皇。」
對曰
「先是大臣親問之日、僕啓既訖之。今何更亦傳以告耶。」
乃大忿而起行之。
ついに切れた摩理勢は兄の墓の造営作業を止めてしまい、蘇我の別宅に籠ってしまいます。

適是時、蘇我氏諸族等悉集、爲嶋大臣造墓而次于墓所。
爰、摩理勢臣壞墓所之廬、退蘇我田家而不仕。
時、大臣慍之、遣身狹君勝牛・錦織首赤猪而誨曰
「吾知汝言之非、以干支之義、不得害。唯他非汝是我必忤他從汝、若他是汝非我當乖汝從他。是以、汝遂有不從者、我與汝有瑕。則國亦亂、然乃後生言之吾二人破國也。是後葉之惡名焉、汝愼以勿起逆心。
」然、猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮。
 さらに臍をまげて泊瀬王の屋敷に転がり込みます。

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。


卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。


於是、大臣益怒、乃遣群卿、請于山背大兄曰
「頃者、摩理勢違臣、匿於泊瀬王宮。願得摩理勢欲推其所由。」
爰大兄王答曰
「摩理勢、素聖皇所好、而暫來耳。豈違叔父之情耶、願勿瑕。」則謂摩理勢曰「汝、不忘先王之恩而來甚愛矣。然、其因汝一人而天下應亂。亦先王臨沒謂諸子等曰、諸惡莫作諸善奉行。余承斯言以爲永戒。是以、雖有私情忍以無怨。復我不能違叔父。願、自今以後、勿憚改意、從群而無退。」

泊瀬王宮に避難した摩理勢に山背大兄王子が戻るように説得し自宅へ帰りますが、

是時、大夫等、且誨摩理勢臣之曰、
不可違大兄王之命。
於是、摩理勢臣、進無所歸、乃泣哭更還之居於家十餘日、泊瀬王忽發病薨。
爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。

なんと後見人の泊瀬王がなくなってしまいます。後見人がいなくなり、自分の身に危険が及ぶことを不安になり。
しかもこれ以降山背大兄王子は皇位継承権の主張を二度と口にしなくなります。

大臣、將殺境部臣而興兵遣之。境部臣聞軍至、率仲子阿椰、出于門坐胡床而待
。時軍至、乃令來目物部伊區比以絞之、父子共死、乃埋同處。唯、兄子毛津、逃匿于尼寺瓦舍、卽姧一二尼。於是、一尼嫉妬令顯。圍寺將捕、乃出之入畝傍山。因以探山、毛津走無所入、刺頸而死山中。

すると蝦夷が摩理勢を撃ってしまいます。
時人歌曰、
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟

蘇我家の内紛はこの時から始まります。
一族の分断は滅亡の始まり。
以降山背大兄王子は蘇我の傍流である摩理勢を失い皇位を諦めたようです。

この前提の元山背大兄王子の襲撃事件があった。

舒明天皇亡き後、 蘇我宗家は古人大兄王子
            皇極天皇派は山背大兄王子の排除にもくろむ。

からの襲撃事件
そしてこの暗殺未遂事件で山背系の王族の血の排除は実現するも、しょせん最終皇位継承を誰にするか。
当然その目的が違うのですから
必然のクーデターが勃発するのは当然

乙巳の変

入鹿と古人大兄王子の排除
皇極天皇派の反撃による入鹿暗殺事件へ続く


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