2010-12-04

舞少納言高麗に渡る第2段1.2の巻「伝統ソウル」

再び高麗へ渡る密命を中宮様から受け、今年も高麗に渡りました。
前文で解説しますが、高麗は私達平安時代の国名で現代は御存じ大韓民国の事です。
よってなぜか御案内する場所は私達の時代なかったりします。なぜ?案内出来るか?気にしてはいけません。楽しみましょう!
っておもっていたら、ニュースで北朝鮮が突然韓国の島を攻撃死者まででるほどで・・・まったく何を考えているのやらあのおバカ国・・・・・かげんにもほどがあるものを・・・・・。
しかも今回はさっむい!このところ渡高すると想像よりも暖かい漢陽しか知らないのでさてどういう旅になるやら・・・
とりあえず外務省HPから情報を確認しつつ、現地情報もチェックしないと。

今回は1日目は関空からアシアナ航空の夕方便で出発、仁川到着後に免税店に寄った後夜遅く宿泊地明洞ビズに到着して就寝です。
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密命なので、浅ちが原な宿なんでペンションって感じですね。が、宿の方は良い方ばかりで過ごしやすいです。

2日目は伝統ソウルを堪能します。
早起きして、安国にある北村韓屋通りを散歩します。
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この辺りは李氏朝鮮時代の両班屋敷が立ち並ぶエリアです。両班は朝鮮時代の貴族階級の総称です。
文班と武班に分かれ本来は高級官僚の総称で身分階級の呼び名ではなかったようです。
ここは景福宮や昌徳宮が近い事や風水的に良い場所だそうで、屋敷を構えるのには人気エリアだったんでしょね。
日本でいうと武家屋敷群といった所でしょう。
かなり地下鉄の駅から北上して宮宴のレストランを過ぎ、左折すると西側に韓屋通りを歩きます。しかも坂道もありウォーキングですね。ここは住居なので、静かに散策します。

急な階段を下って、軽くお腹をすかせた後は三清カルグクスでアサリ韓国風うどんの朝食です。
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大ぶりでゴロゴロ入ったアサリのあっさりとした出汁とこめっちゃこしのあるうどんがからんで美味しいです。ここは次回もこないとと思わせるお店です。
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バスに乗り、景福宮の国立民族博物館の近くの入り口から入りますが、説明は光化門から北上するルートで紹介します。
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ベア達が建築中の景福宮の想像図です。
李氏朝鮮王朝建国者李成桂により1395年に建てられた李朝の正宮。現在の物は高宗時代や今尚修復され復元され続けている建物群で、創建当時の建物ではありません。正宮なのに世界遺産登録されていないです。
そう宮殿のほとんどを文禄慶長の役で民衆に破壊され、以降正宮は昌徳宮など他の宮殿に移ったんですね。

避けては通れない歴史の一巻き、秀吉の明への侵攻の足掛かりに秀吉連合軍が朝鮮へ侵攻します。
平和な時代が続いた朝鮮の軍隊は秀吉連合軍にひとたまりもなく李王家は漢陽を追われ、明の援軍が来ても戦いで国内は大混乱。
秀吉の死で明との講和で戦闘は終結しますが、復興には大きな時間を要し、以降の発展に大きな影を落としたといいます。
しかしこの戦いで意外な遺産がありました。唐辛子です。唐辛子は日本軍によって朝鮮半島に持たれされました。風土にあったんでしょね。キムチも赤くからくなかったかもしれません。
日本には朝鮮磁器の陶工達が連行されて各地で磁器生産が盛んになりました。
戦いは悲劇と変な文化交流をもたらすものですね。ヨーロッパでも入浴、珈琲やカツレツもそうだし・・・なんか複雑。平和交流ならいいのに・・・・しかも日韓併合後は高宗時代の建物が移転させられたり、解体されたりで悲劇の宮殿です。

風水で良いはずなのに、何故か王が定住しません・・・・・悲運の宮殿ですね。
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光化門(元の位置に戻されこ公開中)

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修政殿(世宗大王がハングルを考案させた場所)撮り忘れて・・・・ベアで世宗大王がハングル語考案見学想像図
ハングル文字が出来るまで一般庶民は読み書きが出来ない人がほとんどで、支配層だけが感じの読み書きが出来、ハングル文字が出来ても下層級の文字として意味嫌われ、公文書は漢字、庶民はハングル文字を使用しました。現在意外と漢字が通用しないのはそのせいです。
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慶会樓(饗宴用施設)

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勤政殿(正殿)
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勤政殿の内部(即位式や重要行事の式典場所です)
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ここは東宮殿の部屋を再現したものですが、こんな部屋だったのでは?
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康寧殿と交泰殿(前者は王と後者は王妃の日常生活の場)

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香遠亭(王と臣下の遊戯場所)
女人天下に出てきましたよね。実は高宗時代に造られたので、中宗、仁宗、明宗時代にはありませんでした。

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最後に乾清宮
最近復元された(李朝朝鮮王朝最後の大韓帝国最初の皇帝)王妃の宮殿「中殿」が爆破された後、高宗と閔妃の日常生活していた宮殿内の最北建物です。
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高宗の生活場所「長安堂」
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他の施設とは異なり両班屋敷の造りになっています。
王の住む場所には5色の彩色をほどこすのが決まり事です。
李朝朝鮮末期は大きく王権の失墜した時期なのでそのあらわれでしょう。なんだか塀も中も厳格さがありません。
さてこの宮殿日本と大きな関係のあった悲劇の宮殿となります。

悲劇の主人公はここに住んだ高宗の王妃「閔妃」です。
閔妃は歴代3名の王妃を輩出した閔一族の娘で、名は不明。

1866年高宗の父「興宣大院君」の後ろ盾を得て王妃として高宗の宮殿に入宮しました。
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当初は夫の寵愛を得られずも彼と、舅に良く従い王妃という古来の責務を十分果たしていました。王の女官が長男を出産した際も表向きには平然とし表向きは慶事を喜んだと言います。
ようやく入宮5年目で高宗の寵愛を受け二男で嫡子をもうけるものの、肉体的欠陥の為この王子は生後すぐ死亡します。閔妃はこれを大院君の謀略と考え、かと言ってあからさまに制裁を加える訳にもいかず、そのいら立ちを巫女や僧侶のきとう、高宗の特別尚宮達(愛人)への粛清(刑罰)で紛らわします。
おそらくその前後高宗は父よりも王妃に大きく傾倒し始め、それは政治的側面も顕著にあらわれていたでしょう。

1873年癸酉政変が起こります。成人した高宗に摂政は必要なしとついに、閔氏や反大院君や儒教者とも共謀し大院君と守旧派を政治の舞台から降ろし旧体制派を一掃します。ようは追放、流罪、処刑しました。
閔一族と大院君は以後閔妃の宮殿、閔氏の親族邸、大院君の私邸爆弾の仕掛け合いを何度も繰り返します。
閔妃は何度も流産や幼児の死に目に合いながら、1874年二男(李朝朝鮮王太子で最後の大韓帝国皇帝純宗)を出産すると一年後には清に莫大な費用を出し「世子」と認めさせます。この息子は病弱でその都度閔妃は巫女や山神にきとうさせました。
その費用は国家予算の6倍とも言われ、莫大な金は両班が賄賂や国家予算でまかなったそうです。
1880年には彼女の息子完和君が変死し、高宗の特別尚宮の生母李氏が変死。閔妃の命と言われています。
高宗の長男ですからね大院君にも世子にと思惑もあったそうです。
高宗の三男張氏腹の義和君も生母と共に宮殿を追われます。
この世の春をおおかしていた閔妃は1882年7月旧朝鮮軍と大院君派のクーデター壬午軍乱で失脚、地方へ逃亡後、清の袁世凱の後見を得て1ヶ月後政権奪還。大院君を清の天津へ連行幽閉させます。
その2年後今度は日本が支後ろ盾になった開化派が起した甲申政変で失脚するも3日で清軍により政権奪還します。
この時の開化派への粛清はすざまじく日本に亡命した中心人物を暗殺し、死体をバラバラにして葬ったといいます。
その後1年後朝露秘密条約に危惧した親は日本の進言もあり一方的に大院君を帰国させます。
1894年農民軍全州占領するも日清軍により鎮圧。やはり日本軍の支援を受け、大院君を再び担ぎあげた親日派開化派が起こしたクーデター甲午改革失敗で失脚するも、1895年には清からロシア(露親派)に軸を移して政権奪還します。以降は後半で記載するとして。
まさに権力闘争に捧げた人生といっていいでしょ。

では他の側面から、外交的にはどうだったでしょう。
高宗の親政政治を後押しした閔妃は開国派に国の舵をきります。1876年の日朝修好条規いわゆる不平等条約を結びます。これを皮切りに各国と似たような条約がさなれます。鎖国政策の解禁は海外から容赦ない貿易不均衡、経済混乱、国内での外国人の優位による不平等と問題多発しました。このあたりは開国すぐの日本と同じですね。閔妃は当初富国強兵で国力をつけた日本を手本としようとした様子がうかがえます。まず日本から顧問を迎え、軍隊を近代化するため、新たな軍隊が設立されました。
しかしその後、壬午軍乱で日本はそれほどあてに出来にできないと見るや見限りまたも清の保護下に入ります。国内の反乱を事あるごとに清軍で鎮圧してゆきます。以後も容易に外国軍隊の入国を見過ごしたり駐屯を許可したりとかなり無防備な外交を行っていました。
その後、軍の弱体化した清から親露に舵きりをしようとした事が露天し、日本の進言もあり清は仇敵大院君を帰国させます。閔妃は触手を大きく伸ばす日本に対抗する為親露派へ大きく傾倒いていました。
基本的に開国派といいながら、各国の保護下に置く事で、国を治めようとする他力本願な外交交渉はあやうく綱渡り的でした。

では国内政治はどうだったか。憲宗、哲宗時代以降国内は勢道政治(平安期の摂関政治にあたる)政治で賄賂横領が横行し、飢饉や天災で経済、社会そのものが崩壊しつつあり、それを立て直すどころか政策は拍車をかけるほど愚行でした。閔妃が国内政治に関与した事実はわかりません。ただ政争と外交に熱心ではなかった様に思えます。
まあ閔氏一族が政権に関与していた以上影響力はあったでしょうが。

さてこれが悲劇の乾清宮で起こった事件の背景です。
閔妃は生前大変不人気な王妃でした。男尊女卑で儒教思想の朝鮮で、女だてらに政治に口をはさみ、大金を使い、舅を追放し殺害を企て、嫉妬深い。廃妃か賜薬の刑になってもおかしくなかったでしょう。王の格別の寵愛がそれを妨げたのでしょう。
しかし今日の大韓民国では聖母です。それはなぜか?

「1895年10月8日乾清宮で日本人によって閔妃が殺害された」と言われているからです。
韓国では乙未事変といいます。
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この乾清宮のこの楼でそれは起こりました。

日清戦争で勝利し西洋列強諸国から一目おかれた日本はその手本通りに征韓に乗り出そうとします。
閔妃は親露に大きく傾倒し、朝鮮への影響力を保有したい日本政府からすると確かにやっかいな存在でした。
殺害の政府関与の証拠は存在しません。国家の計画的策略というには犯行はずさんで衝動的であからさまでした。
まあだからこそ成功した部分はあるでしょうが。
下記の経過を見ると、そうなる可能性にかけた政府関係者の憶測は十分に考えれらます。が、首謀者が誰であるか次々と名のり出る者がいるものの客観的な証拠証人がなく、今なお謎と多くの憶測がなされています。

その前後の状況から仮説すると
一説三浦公使が大院君を担ぎあげて、朝鮮朝廷の反閔妃派を味方につけ訓練隊とその他日本人武装集団を使い実行
  (個人的には書籍を読む限りやはりこの仮説が有力のように感じます。)
二説反閔妃派が大院君(もしくはその逆)を担ぎあげて三浦公使が協力訓練隊とその他日本人武装集団を使い実行
  この事件の中心的役割を果たしのが「大院君」だったとカルネイェフ中佐が語っています。
  彼は大院君に謁見していますがその印象を精力的で思慮深い陰険で残忍な老人と伝えています。

1895年9月1日 三浦梧郎朝鮮国駐箚公使に着任 かれこそ閔妃殺害の首謀者と言われています。
この人物、自分のイデオロギーを上官に直訴しては左遷されていたいわくつきの人物で陸奥外相の征韓派軍人です。この着任の際にも独自の朝鮮政策を就任の条件を上奏していたといいます。要は政府の許可を受けず勝手になんでもやりかねない要素持つ人物。着任後は景福宮にも参内せず公邸にこもっていたそうです。なにしていたか?気になる所ですし、事件後裁判にかけられた人の一人でした。本人は首謀者と証言しますが、証拠不住分で釈放後時を経て出世してゆきます。これは事件に係わったとされるほとんどの人物の共通でもありました。

そのほぼ1カ月後、10月7日2日後の訓練隊の解散と武装解除勧告。
訓練隊とは日本が育てた西洋式軍隊で朝鮮人により組織されていました。その軍隊が解散させられる前日の
犯行。つまり、この軍隊がないとこの計画は頓挫するという事です。ここで日本人だけでは出来ない行為である事を物語っています。宮殿に出入りしていない者が宮殿北上するなどあの巨大な宮殿内で不可能です。

そして翌日8日の早朝景福宮に大院君を頭に武装した集団、訓練隊が侵入。王宮を警護していた別の訓練隊と交戦後、乱入した数十人の日本人の別働隊によって乾清宮で殺された3名の女官の内の1名が閔妃と断定。遺体確認8時~9時頃頃鹿園にて焼却した事件です。
死の経緯は犯行者が皆興奮状態であったのでそれぞれの意見が異なり明確にわかりません。
乱入時に恐怖でかたまっていた女官の中に閔妃がおり、宮内大臣が庇う姿勢を示した所、日本人の一人が宮内大臣を切りつけた。閔妃は恐怖のあまり隣の棟に逃げようとした所、切りつけられ何度か倒され刀で突き刺され絶命したとも言われています。
この記述はイザベラバード、ロシア人将校カルネイェフ(目撃者サバチンもロシア人で彼からの情報でしょう)に共通しています。

カルネイェフ証言はゲデチャガイ編の「朝鮮旅行記」の記述です。
そのの中で彼以外のロシア人でも日本への批判朝鮮びいき(当然朝鮮国内での覇権を争っていたので)の記述がみられ、高宗や閔妃に対しても高評価、世子の印象は悪かったようですがそれを差し引いても貴重な資料でしょう。

実行部隊の日本人の集団は多くの個人は特定出来ませんが、裁判証言の詳細な発言等から小早川秀雄、安達 謙蔵、岡本柳之助(広島裁判で詳細に語っているので現場にはいたと断定していいでしょう。)その他浪人、軍人、公邸関係者、警察隊等考えられ数十人くらいはいたでしょうか。三浦は現場にはいませんでした。本隊とは別行動で動いて一番に乾清宮に侵入したと考えられています。今復元された宮殿の姿が当時と同じであるなら、無防備この上ない宮殿です。宮殿の一番北(逃げ道無し、外部と隣接)、周りに建物なし、塀は梯子で登れるほどの高さで一重のみ、入ってすぐ王と王妃の部屋など????

景福宮侵入から乾清宮まで戦闘もあったがせいぜい時間にして1.2時間くらいしかなかったと推測されます。
宮殿内で大した抵抗もなかった所を見ると規模を縮小したとはいえ護衛隊も本当にいたのか?相手にそんなに不意打ちをくらわせる事が出来たのか?女官たちが恐怖で右往左往していたと言います。
しかも当日は祝宴も催され、高宗、王世子高官も同席。惨事をまのあたりにしています。
無防備この上なく出来過ぎです。
死亡確認事、閔妃は寝間着姿だったと記録にあります。
着替えて逃亡しようとしていたのでしょうか?
逃亡する時間はなかったので高級女官の寝間着に着替えるのがやっとだったのでしょうか?
これは宮殿内に密通者、もしくは計画を知る者がいないと引き入れ、逃亡防止できないのでは?
そう露派の台頭を望まない日派開化派の高級官僚(大臣クラス)が賛同して、疑がわれないようにしないといけません。
それを証明するように高宗は「王妃を殺害したのは自分の部下」といい、息子(後の純宗)は「国母は軍部大臣に殺された」と言っていました。
事件後朝鮮側の首謀者として李周会、朴銑、尹錫禹、軍部大臣や訓練隊の朝鮮人隊長2名を処刑、暗殺しています。
ただしその現場をアメリカ人ジェネラル・ダイとロシア人サバチンの証言通り「20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。~日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されている」
日本人がこの惨事に参加し実行したのは事実です。

しかし閔妃を殺害出来たからといっても日露戦争に勝たなかったら当然併合もなかったでしょう、親露路線まっしぐらなら、今頃朝鮮半島は共産主義で真っ赤かだったかもしれません。
19世紀のアジアはまさに人間界の弱肉強食の時代といっていいでしょう。
「勝てば官軍、負ければ賊軍です」

歴史とは光と影が存在します。明治政府は倭寇、三浦の乱、秀吉朝鮮出兵を過去の事と忘れ(今もですが)戦略を間違えた。光だけを見る(現在は渡韓して韓流にはまるとか、遊ぶだけとか)朱子学の「恨」をいつまでも引きずり(ちなみに鎌倉時代の元寇の役の兵に高麗つまり朝鮮人兵士が多数いました。日本を侵略しようとした過去があるんですよ。)影だけを見る(現在自らを見返ることなく過去だけをこだわり続ける)だけではいけないとそんな気がしました。

さて話しは少しそれますが、この朝鮮と日本を旅行し高宗や閔妃とも会見した英国人の旅行家イザベラバードビショップがそれぞれ紀行として本を出しています。

彼女は日本を1878年に訪れ日本の当時の様子を情景や人物を豊かに伝えています。「貧しい人も礼儀正しく身なりもきちんとしている。」「治安の良さ」と「強奪無礼不愉快はまったくなく、丁寧で親切にもてなされた」という記述を残しています。
朝鮮へは1894年から数回訪れ4回高宗、閔妃、王世子と謁見しています。
「王妃はきれいな女性で・・まなざしは冷たく鋭い・・・表情は聡明な人。優雅で超越した知性と気迫で会話で非凡な才がある。」と好意的であるのに対し高宗に対しては「国王は背が低く顔色が悪く、・・平凡な人・・・・愛想よく人のよい心やさしく温厚であるが性格が弱く人のいいなりであった」王世子に対しても「強度の近眼で奇妙であるように伝えまた王妃と手をび・・・」とマザコンぶりを暴露なんとも辛口です。
また両班の暴虐無人ぶりを旅行記に記すなど当時の特権階級の腐敗ぶりと堕落ぶりはそうとうでした。
旅行中は衛生状態の悪さや、朝鮮人の振る舞いに不愉快な思いを随分したようですが、概ね旅行中感銘を受けたようでした。
彼女の旅行記は当時の国の人々や社会構造、風土、景観、政治を伝え、また政治的な記述も強く見られますが、これは彼女が各国の知識人達の交流の影響だとおもわれます。但し彼女は地方の牧師の娘で母方の財力で相当な教養を身につけていたのも事実です。なかなか面白い本でした。

イザベル・バードの書籍の情報は【こちら】

この高宗という王様、存在感なし、指導力なし、優柔不断、常に臣下に怯え、大した身分でもない外国人に無防備に会ったりと。イライラします。
妻である閔妃が殺害された時も同じ宮殿にいながら、三浦公使に抗議もせず直接日本政府にも弾劾しないどころか政策を日本に傾倒させた後、自分が日本からの圧力で廃位、殺害されるかもという恐怖心で再び親露化を目指すが日露戦争で日本が勝利した事で頓挫、独立帝国「大韓帝国」を名のり皇帝として復権するものの国際社会から受け入れらぜす、結局日韓併合となってしまいます。
それ以前、この間、朝鮮の政治、文化、経済、社会そのものが疲弊し西洋列強国と日本国に牛耳られつつあるのに悪政に気付かずそれを助長しているかの様に思えます。
日本とタイ王国が列強の脅威から逃れたのはカリスマ的指導者の存在と良しも悪しも安定した政権、急速な近代化です。それを出来うる立場にあるのにしなかった。かといって放棄もしなかった。ここが最も大きい原因ではないでしょうか?他国に飲み込まれる隙をまんまと放置しまたは服従し続けた。

なんか今の日本の政治家に共通するな・・・・やばい・・・かも???
堅い話はこれぐらいで。

安国駅に行きます。
海鮮スンドゥブ定食ランチ。安国駅北側二本目のチェドンギルを右折して右のすごいわかりにくい場所にありますが、絶対お薦めのお店。
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今回二度目です昼はランチ目当てのサラリーマンやOLで満員、その味に納得お得で美味しい。今日は緑豆チジミと一緒にピリ辛に海鮮のうま味は最高です。
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その後仁洞寺に来ました。
韓国工芸お土産ストリートと言って良いほど、韓国の陶磁器、韓流工芸のお店や伝統茶、食堂などの見落とせないエリアです。ソリハナ、ソンニ、店、国際刺繍院、韓国観光名品店などなど、伝統的な韓国のお土産屋沢山あります。
ついでに「伝統茶院」で伝統茶でまったり~~~^^V以前使用していた韓屋で伝統茶をいただけます。
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観光の締めは新龍山にある農協ハナロクラブというスーパーに行きました。
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そう韓国産にこだわった農協直営のスーパーです。価格はロッテマートやEマートに比べると安くはないでしょうが国産の拘りには勝るでしょう。楽しいスーパー

その後近くのドラゴンヒルスパ
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アシアナ航空を利用して半券パスポート確認後、入場料半額です。
チムチルバンといいます。いろんなサウナが楽しめる地元民に愛される施設は「汗蒸幕」がある所とない所もあるので、そちらを希望される時は事前確認要ですが、安くて韓国美を手に入れるには要チェックです。
まずは体を温めてお風呂に入ってから夕食後にサウナです。お湯はいろいろありますが、露天扶風呂はいただけません。苔???が縁にくっついます。風呂もイベント風呂は少ないかも。でもサウナは岩塩、松ノ木汗蒸幕は大満足これを繰り返してあかすり^^V入場料、あかすり、夕食、ジュースで4万W以下でした。
一日早いです。HOTELに戻ります。

2の巻「3日目韓流時代劇とお買い物ソウル」へ続く
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