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雑草子「平安時代 雅なんかじゃない現実」

平安時代以前の歴史好きですが、平安時代には生まれたいとは思わない。
実は平安時代は超が数十字書かないといけないほどの超格差社会

平安時代の人口は律令制の崩壊で戸籍が存在せず不明
かろうじて田積数をもとに算出された総人口はおよそ500~600万人この数字も説であり実数は不明
文献上の人口は
聖武天皇の奈良時代748年
8,631,770

一つの仮説として平安時代の人口は600万

1279年
4,989,658

この500年で人口が半分近くいなくなる状態に陥ります。


平安京の都の人口はどうだったか?
京都産業大学の井上満郎教授の論文による算出では平安京の構成する1136町(「町」は京を構成する単位である40丈[約120メートル]四方の区画を職人たちが住む諸司厨町四一町、一般市民居住区452・5町、東西両寺などの「特別区」42・5町に同規模の集落があったと仮定して、
貴族・官人12273人☜最大でという数字 実際はこの半分以下か
諸司厨町の人口15033人
一般市民90066人と算出した。
+実数の不明確な天皇・皇族・奴婢などを加えると、合計12万人前後~13万人と仮定している。
但平安京ないで同規模の居住地が点在しているというのはやや多すぎでは???


貴族とは五位以上の官位がある身分いわゆる殿上人を指します
とりあえず地方の国司の数は入っていないのを考慮してもおよそ1000人程度?

その中でも
太政大臣、左大臣、右大臣「公」

三位以上の貴人や参議の官「」と呼ばれる公卿

三公は各一人で三名(但太政大臣は空席になる場合あり)
大納言は定数二名(但 後世権大納言職が出来ると定数が無実化される)
中納言は定数二名(但 後世増員される)
参議 四位以上の位階 参議の数も定数は?
    +下記のいずれかの条件を満たすもの
      蔵人頭・左右大弁・近衛中将(長年務めた場合のみ)・左中弁・式部大輔(侍読を務めた場合のみ)
      五ヶ国の国司を無事に務め上げた者
      三位の位階を持つ者(従三位に相当する官職としては、大宰帥、弾正尹、中納言、左右の近衛大将

国政は上記の公卿で執り行われますのでどう考えても十数人かなぁ。

しかもその中で公の第一の人

「関白・天皇が成人でない場合は摂政」
「内覧:天皇にあがる上奏文をあらかじめ拝謁できる権利・いわゆるここで握り潰せる権利を持つ」
道長は左大臣でこの内覧の権利を得ていたので関白にはなったことがありません。それほど重要な行為でした。
「藤氏長者:政治的な藤原氏の存立基盤整備、氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社などの管 理を束ねる者」

概ね天皇に最も近い近親者で年長の者が指名される。

実質最高権力は一名のみになってしまいます

その地位を得るまでの条件が超過酷

①父親もしくは義父(養子になっているかもしくは婿)が生存し、現在進行形で権力を把握している。かもしくは自身がすでに権力を把握している。

父親が最高権力者であっても死亡していたり、有力な後ろ盾を持っていないと地下(蔵人の六位以外の六位以下の貴族は内裏へも上がれない場合がある。)といって貴族であるが貴族扱いされない。


②母が正妻
当時は一夫多妻制度通い婚が普通その他に愛人、妾、家女房(召使のお手付き女房)あり。
自分の子供であっても正妻の産んだ子とその他の妻以外の子は出世に大きく差をつけられる。
子供間格差が当たりまえ
正妻は一人だけ、多くの妻の中で実家が権威のある家柄の者か多くの子女に恵まれた者がその地位に就くことが多い。

正妻に子供のない場合は例外だが
叉は養子が後継ぎとして定めた場合を除き、長男であってもだだの妻の子は後継者になれない。



ものすごいコアな確率が必要です。

つまりすごい超ラッキーがないと簡単に手に入れられない第一の人

これは天皇に即位、東宮に立つ条件も同じです。

となると

天皇 一人
関白か摂政・内覧 一人(親子関係の場合はいずれかも可)
東宮 一人
                        計三名

しかも上記の身分になっても絶対的な存在にならない場合もある。

では平安時代の人物を紹介しながらいかに当時が貴族社会の中でも格差社会だったのか検証してみましょう。
天皇すら絶対的でなく時にその地位を意図的に退位させられたりしました。


平安時代前期の天皇

陽成天皇

父清和天皇と正三位藤原 長良を父に持つ女御藤原高子の第一親王

貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位され、皇位を継承母方の伯父・藤原基経が摂政に就任
しかし清和天皇の臨終の頃からその関係が悪化してゆき、たびたび基経が出仕しなくなる事態をまねき政局が混乱してゆく。
基経は高子とは同母兄妹ですが、基経は幼少期に叔父の養子になっているので疎遠だだったのでしょう。その理由を現在は生母高子と基経の権力の中枢にいた二人の関係悪化があげられ、後宮にも誰一人妃がいないという前代未聞な状態が続く。

これらはあきらかに基経の陽成天皇と生母高子への嫌がらせであり、基経は貞観2年(860年)、藤原氏宗と結婚して同年8月、従五位上に叙され清和天皇の宮廷に出仕し続けていた異母妹の淑子に接近

同じ後宮内に異母姉妹が接触していたのです。
そもそも内輪もめですね・・・・・・・・・そんな緊張感のあるなかついに事件が!!!

基経出仕拒否後に陽成天皇の乳兄弟源益殴殺事件が起きます。しかも天皇の近習していた時でした。
事件はむやむやにされますが、宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、さらに禁中で禁止されていた馬の飼育が発覚、基経は公卿の賛同を取り付けて陽成天皇に退位をせまり、天皇はしぶしぶ譲位を承諾。

なんせ味方となる権力者がだれもいませんから。当時は天皇といえど政治は臣下が決定したいたので、何も決めれません。

基経はここで自分の孫異母弟・貞辰親王(女御・佳珠子の所生)を帝位につけるかと思いきや、仁明天皇の子供で一品に叙せられ親王の筆頭である母方の従兄弟にあたる光孝天皇を担ぎ上げます。

実はこれには淑子が一著かみしていまして、即位後淑子は尚侍に任じられ、光孝天皇の息子定省王を猶子にしていました。
この光孝天皇意外と律儀な人で、即位後基経は甥である貞保親王に皇位を継承させるだろうと考え。
自分の子女たちを全員臣籍降下させまくりました。
その光孝天皇が重病になると基経なんと「源定省の臣籍降下を撤廃 親王復位」をさせるウルトラCをしちゃいます。

仁和3年8月25日親王に復位翌8月26日に立太子、同日に天皇は崩御、定省親王が践祚して宇多天皇即位。

さて 後に陽成天皇は、宇多天皇即位の際には「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったという話が大鏡にあるようになんともいえない心情だったでしょうね。

陽成天皇の崩御は949年で81歳崩御、朱雀天皇治世の頃ですから4世代に生きたんですね。

さて生母の藤原高子皇太后はというと。
ふんだり蹴ったり寛平8年(896年)宇多天皇治世、東光寺の座主善祐と密通疑いをかけられ、皇太后を廃されてしまいます。
翌年天皇の生母班子女王が皇太夫人から皇太后にあがります。
延喜10年3月24日に没後の天慶6年(943年)に朱雀天皇の詔によってようやく復位されました。
権力者の父と兄を持って、親王も生んだにも関わらず虐げられる場合もあったのです。

しかしこの基経かなりの策略者です
。それまで北家では房前以来穏健な人が多かったのにここにきて、血なまぐさい闘争が激化してゆきます。
貞観8年(866年)に起こった応天門の変では応天門が放火され炎上する事件の首謀者とされる首謀者伴善男は右大臣・藤原良相に対して源信が犯人であると告発します。
藤原良相は源信の捕縛を命じて兵を出し、邸を包囲する事態に発展。
しかし当時参議の藤原基経がこれを義父太政大臣・藤原良房に告げ、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実とされ、後日その犯人は伴善男とされ伴氏は紀氏と共に流刑になり都を追われます。
残ったのは藤原氏のみ。
この事件は藤原氏の他氏排斥ともいわれています。


平安時代中期の天皇
三条天皇

冷泉天皇の第二皇子  母摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子

外祖父関白兼家の鍾愛を受けて育ち、兄花山天皇の退位後に円融天皇の東宮(生母詮子兼家の娘・孫 一条天皇)が即位した際にその東宮に就きます。
つまり天皇の方が東宮より年下
外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道兼が関白に就任していた頃はまだ安泰でしたが、入内していた関白の娘たちが相次ぎ死去してしまい、妃は時済の娘せい子のみという後見が薄くなっていました。

寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位します。
皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王が立ちます。
さてその頃の実力は道長で説明なしで可ですよね。
血縁関係の薄い道長が次女研子を入内させますが、誕生したのは娘禎子内親王のみでこうなると

娘彰子の親王の即位を見たい道長得意の圧力が!!!

長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患います。
今でいう緑内障でしょうかね。

道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫り、更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失当時は天変地異と同じ内裏出火も天皇の徳がないのが原因と言われていました。
病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い譲位し後一条天皇が即位、翌寛仁元年(1017年)4月に出家後すぐに崩御してしまいます。
直接の死因は不明です。


さて余談ですが、後一条天皇の東宮に敦明親王は、当然父への不敬を見ていた彼は自分に分がないのが十分わかったのか。
道長に東宮位を辞退したいと申し出、承諾され彼は即位していないが太上天皇に準ずとされ小一条院と名乗り、道長の明子所有の娘寛子を女御に迎えて邸も高松殿で生活します。

ここでも悲劇
平安時代中期東宮妃
藤原延子

小一条院の妃は右大臣だった藤原 顕光の次女 延子と堀河殿で生活し二人には子供に恵まれていましたが、道長の権威におされた小一条院は堀河殿を出て高松殿で生活すると延子の元へ通う事がなくなります。
延子は失意のうちに心身症を患い寛仁3年4月10日静かに息を引き取ります。
栄花物語からおそらく精神的ダメージによるうつ病かと・・・・。

この藤原顕光も立派な関白の子供です。
関白藤原兼通と正妻元平親王娘・昭子女王との長男です。
本来なら関白を就任してもおかしくないのですが、貞元2年(977年)兼通は病に倒れ死去。
叔父たちが歴代関白を就任した以降官職が止まり、新関白となった兼家の子(道隆、道兼、道長)に追いこされます。
この人の場合は「出仕以来、万人に嘲笑され通しだ」と学識人の藤原実資の揶揄されるだど能力がなくその器などでなかったようです。
しかし権力者にとって無能な貴人も必要なようで、疫病による要職に似合った人物が続々死去したために最終左大臣まで登ります。あるいみ運だけで来た人。
でもスキャンダルとは無縁とはいえず。
娘元子が一条天皇の女御となるも婦人系の病を妊娠と錯覚して「「水を生んだ」と人々から笑われ、一条天皇崩御後に元子と参議・源頼定が密通を犯して勘当したりと。
頼りの息子重家は寛弘の四納言と呼ばれた(藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の4名)の実力を知り羞恥心から出家し父を悲しませます。
貴公子でも運、実力なければダメな社会だったのね。


平安時代後期 超幸運な天皇
後白河天皇
父親 鳥羽上皇 母親中宮・皇太后藤原璋子

第四子に生まれるも、当時は祖父で後ろ盾になったであろう白河上皇が崩御しており、一生親王で終わるはずが異母弟近衛天皇の急死により鳥羽上皇と美福門院が養子の守仁親王(二条天皇)に皇位を継がせる目的で即位。
即位後すぐに譲位して上皇となります。
始めは芸能に興味があり、政治には無関心だったのですが、鳥羽上皇崩御後、当時の関白がまだ若く藤原内部紛争や皇位継承の対立などが重なりなす。
また武士の断頭も目立ち始め院政を行い度々幽閉や政治的危機に立つも権力を把握し、初めて院政をしいて受領(中産階級の貴族五位や六位)や北面の武士を重用して権力を把握した上皇となります。

有力な後見があれば東宮や天皇に即位出来たのか?
実はそうでもありません。

平安時代中期皇族
為平親王

父村上天皇母中宮藤原安子(右大臣藤原師輔の長女)の間に生まれた第二親王・正妻の産んだ第一子
兄は冷泉天皇、村上天皇も目をかけていたのに順位でいくと安子の次男なので東宮に就いてもおかしくないのですが、東宮は弟の守平親王(円融天皇)が立ちます。
左大臣源高明の娘を娶って源氏の外戚で既に一上の地位を得ていた高明がさらなる権力を得ることに対する藤原氏側の危惧があったといわれています。(この頃師輔はすでに死去長男藤原 伊尹はまだ大臣にさえ就任していません。)
その後、源高明は冷泉天皇を退位させようとしているとの風説で大宰府に左遷された安和の変で失脚、京へ戻っても不遇の暮らしを強いられます。
ちなみに彼の娘は藤原道長の第二妻の源明子叔父の養女となってから詮子の後見で彼と結婚したとされます。

第一親王・中宮腹であってもまったく後見がいなくて立太子出来なかった親王

平安時代中期皇族
敦康親王
父一条天皇 母皇后藤原定子(父藤原道隆・母高階貴子)
后腹の第1皇子当時外祖父である中関白藤原道隆は既に亡く、伯父伊周孝家の長徳の変で失脚で没落し、中宮彰子の養子になったものの、彰子に敦成親王・翌年、敦良親王が誕生すると皇位継承権から除外されます。
風雅に生き20歳で薨去悲劇の親王ですね。


摂政や関白の地位にもれた子息・天皇の血筋の貴公子たちははどうしたのか?
まず直系の子息はそれぞれの母親の地位と誕生順に基ずいて官職に就きます。
後はその当時の最高権力者にどう采配されるか。
側近として公卿を目指すか。
それとも敵対勢力として排除されるか。

側近として重用された

兵安時代中期公卿
藤原 行成 
(祖父の摂政・藤原伊尹の猶子・父藤原義孝母源保光娘)
生れてすぐ伊尹・父義孝も死去して備前守だった祖父の源保光の養子となったので青年時代まで地下でした。
長徳元年(995年)親友源俊賢の推挙によって従四位下の殿上人から一条天皇の蔵人頭に抜擢、一条天皇の信頼を得て確実に出世、道長の重用もあり、最終官位権大納言になります。実務者として有能で洞察力に優れ冷静沈着、書家としても有名でした。

彼の息子はたたき上げの父の様に才能がなく、また道長に多くの子息がいたために官職を望めないと思ったのか、受領一筋の地位に徹してひたすら財を築いたようです。
贅沢しすぎて肥満のために家人に支えられないと歩くことも困難だったようです。
受領はいまでいう知事&地方警察庁長官&地方最高裁判所所長を兼ね中央から税の徴収もしていまいましたが、横領や蓄財も認められていて中央の公卿に賄賂などを贈ってはさらに財をなしていました。
院政時代には大きな勢力となっていきます。


藤原 公季
父藤原師輔 母醍醐天皇十四皇女・康子内親王
しかも幼少期から村上天皇の内裏で過ごしていた超セレブ、東宮だった円融天皇から「まるで親王の様にふるまっている」
と憤慨されたほど。
成人すると時の関白に近ずいてそれなりの地位にいてとくに道長執政下伊周失脚後その後任の内大臣に就任しました。
後一条朝には老臣として治安元年(1021年)太政大臣に昇進し、死後正一位の極位に。
嫡孫・公成の娘・茂子(藤原能信養女)の生んだ皇子が白河天皇として即位して以降天皇家に血を残します。


藤原公任
父藤原頼忠 母代明親王娘・厳子女王
祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務めた超セレブしかし藤原兼家が摂政となり昇進が止まる。

長徳元年(995年)の赤斑瘡の大流行や長徳2年(996年)の長徳の変を経て執政の座は藤原道長に移る。
長徳5年(999年)公任は14年ぶりに昇叙されて従三位になりの頃より公任は道長に接近、寛弘6年(1009年)に藤原斉信と共に権大納言に昇進する。
和歌に優れ道長も人目おく風流人、自分の官位が思うようにならない時には籠って辞表を出して固辞し逆に昇進させる裏技をやっていました。当時和歌に優れ、道長としてはぜひともほしい人材だったようです。

この人超苦手いけすかん感じ
今は昔、一条天皇の御時に、上東門院が始めて参内させ給ひけるに、御屏風を新くせさせ給て、色紙形に和歌を書かん料に、歌人共に仰せ給て、「歌読て奉れ」と有けるに、四月に藤の花の趣深く咲きたる家を絵に書たりける屏風の一帖が公任大納言に当てられ、歌読み給けるが、既に其の日に成て、人々の歌は皆持ち参たりけるに、此の大納言の遅く参り給ければ、使を以て、遅き由を関白殿より度々遣しけるに、行成大納言は此の和歌を書くべき人にて、早く参て、御屏風を給はりて、書くべき由申し給ければ、殿、いよいよ苛立ち居て待たせ給ける程に、大納言、参り給へれば、人皆、「歌人共がはかばかしく歌も読み出でぬに、然りとも此の大納言の歌は、よも拙き様は非じ」と期待したりけるに、御前に参るや否や、殿、「いかに歌は遅きぞ」と仰せられければ、大納言、「はかばかしくも、更に作り得ず。拙くて奉たらんに、奉らぬには劣たる事也。其の中にも歌人共のいと勝れたる歌共も候はざめり。其の歌共取り上られず、我のはかばかしくも非ぬが書かれて候はん、公任が永くの汚名に候ふべし」と、強く辞退を申し給けれども、殿、「他の人の歌は無くても有なん。汝の御歌無くば、総て色紙形を書くまじき事也」と、真剣に責め申し給ひければ、大納言、「実に困り候ふ態かな。此の度は、凡そ誰も誰も歌を読出でぬ事にこそ候めれ。中にも高遠のをこそ優れし、と、然りとも、其の歌を期待し候つるに、此く「きしのめやなへ(岸の芽柳?)」と読て候へば、いと異様に候ふ。然れば、此の人々だに此く読み損ひ候へば、まして公任は読み得ず候も理なれば、尚免し給ふべき也」と、様々に逃げ申し給へども、殿、強ちに頻りに頻りて責させ給へば、大納言、極じく思ひ煩て、大に溜息して、「此れは末代迄の汚名残す事かな」と打云て、懐より陸奥紙に書たる歌を取出て、殿に奉り給へば、殿、此れを取て、御前に開きて置給ふに、御子の左大臣宇治殿、同二条大臣殿より始めて、多の上達部、殿上人、「然れども、此の大納言は無下に故無くは作り給はじ」と期待して、除目の大間書を殿上の間に開きたる時の如くに、皆人、寄り集りて見騒ぐに、殿、声を高くして読上給ふを聞けば、

  紫の雲とぞ見ゆる藤の花
いかなるやど(家)の兆しなるらん
    
(紫雲は吉兆、藤の花は藤原氏の象徴。藤原氏繁栄の予祝)

と。多の人、皆、此れを聞て、胸を叩て「素晴し」と讃め騒けり。大納言も、人々の皆「素晴し」と思たる気色を見てなん、「今ぞ胸は落着き居る」とぞ、殿に申し給へる。
此の大納言は、万の事皆優れける中にも、和歌読む事を自も常に自賛し給けり
わざわざ遅く着てさらにもったいぶってひけらかす

平安時代中期 公卿
源 雅信
父敦実親王、母藤原時平の娘
宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖
朱雀天皇 → 村上天皇 → 冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇 → 一条天皇と天皇が変わるが順調に出世
円融天皇治世で特に重用され藤原氏に排除されることなく左大臣までのぼり詰め、993年薨去します。
彼は生前娘倫子を后にと一条天皇の後宮に送りこもうと正妻に相談した所、当時はまだ年少で成人した倫子とでは不釣り合いでかつ関白をゆうする藤原氏に対抗する事への恐れから「猛反対」
正妻は当時倫子に懸想していた道長に出世の望みのほうが可能性があると主張して、強引に夜這いさせて結婚させてしまいます。
後年これは大正解~~~残念ながら雅信はそれ以前に死去してしまいますが、死後に天皇の外祖父となります。



では立ち回れなかった人は?

平安時代中期 公卿
藤原 道雅
父 藤原伊周母 源重光娘
祖父の中関白道隆に溺愛されて育つも祖父の死後父と叔父のしでかした長徳の変がたたり中関白家は没落、春宮権亮の頃敦成親王の従者暴行して謹慎その三年後長和5年(1016年)に蔵人頭に昇進するも数日で更迭、9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通が発覚して三条上皇に仲を引き裂かれる。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見さらた事件に容疑者として法師隆範を捕縛すると道雅の命で皇女を殺害したと自白。
しかし自首犯が突如現れ事件はむやむやに。
2年後万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されます。
万寿4年(1027年)に路上で乱闘事件を起こし、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま天喜2年(1054年)7月10日に出家10日後に死去
ついたあだ名が世上荒三位、悪三位


藤原 兼綱
父藤原道兼 母藤原遠量または藤原国光娘
養父:藤原道綱
関白右大臣として執政の座にあった藤原道兼の三男として誕生するが、長徳元年(995年)に道兼が薨去した後、叔父・藤原道綱の養子となる。
寛弘2年(1005年)正月の踏歌節会に際して、源朝任・藤原兼貞・藤原忠経・藤原経通・藤原資平と共に蔵人に暴行を加えて、節会で踏歌を行う女性らが使用するはずだった簪や櫛を取り上げてしまうとの事件を起こします。
他の5名と共に謹慎処分
兼綱は10年以上左近衛中将に止まり、結局公卿昇進を果たせずに生涯を受領に終わり死去


平安時代中期 公卿
源 高明
父 醍醐天皇 母源唱女・周子
臣籍降下して実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て政界で活躍するも両名が死去すると源氏の勢力が拡大することをおそれた右大臣藤原師尹は高明が失脚するように策をねります。
諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、関白藤原実頼が謀反の疑いをかけて太宰府に左遷。
安和の変の犠牲者となる。翌天禄2年(971年)に罪を赦されて翌年4月に帰京するも、政界に復帰することなく隠棲
有職故実の西宮記の作者、道長の高松殿の実夫として知られます。


反抗しつつもそれなりに出世した

平安時代中期 公卿
藤原 能信
父藤原道長 母盛明親王養女・高松殿
いわゆる二番目の妻の子供なので倫子所有の子息よりも出世は遅かった。
道長に似て勝気な性格でよく乱闘事件や暴行事件、強姦事件の協力をおこす問題児
一方正妻腹の頼通にすりよる事なく、後三条天皇に仕え後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするように進言しかなえられる。
また自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ妃がいないという状態を防いだ。
同母兄の右大臣・藤原頼宗の急死で大臣への道が開かれたその僅か6日後死去
延久4年12月(1073年1月)に茂子所生の皇子である白河天皇が即位
翌延久5年(1073年)5月の後三条天皇崩御直前には能信は死後正一位・太政大臣を賜る白河天皇は能信について必ず大夫殿と尊称しました。


藤原 実資
父藤原斉敏、母藤原尹文娘
養父:藤原実頼
藤原北家嫡流・小野宮流の相続者、有職故実に精通した当代一流の学識人で藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫いた。
最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた小右記の作者
道長の娘の彰子が入内する際にその調度品の一つとして四尺の屏風を作らせ実資にも和歌を所望したがそんな例はないと断固固辞した。常に一条天皇や三条天皇によりそい義を通したが。あからさまに道長に反抗したわけでなく筋の通らない事はNOという人物だったようで、大きな衝突はあえて起こさず、ただ通りにあわない事は正論を立てて反発したという事でしょう。
道長の長男頼通には頼りにされたらしく、双方円満に政治を行っていました。



女性皇族・貴族

中宮になっても親王を産まないと不動の地位ではありません

平安時代中期 中宮
藤原 遵子
父関白藤原頼忠の次女・母代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王

円融天皇は第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく彼女を中宮にしたのには藤原氏の勢力分散が目的だったのですが、この行為で詮子とその父兼家の恨みを買いました。
立后の日、弟の公任は詮子方に「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかなといらない一言を言ったため後世に慎重な姿勢で政局を生きなければなりませんでした。姉が親王を産まなかったためです。
逆に一条天皇の即位で詮子が皇太后になった際、公任は詮子の女房から「姉君の素腹の后はどちらにおいでで?」と皮肉られたそうです。
譲位後は里邸の四条第で暮らし仏道に専念しつつ公任の娘を養女にして余生を送った寂しい中宮でした。


玉の輿皇后
平安時代初期 皇后
橘嘉智子

父親橘清友 母親田口三千媛
嵯峨天皇が親王の時に入侍、即位後の大同4年(809年)6月に夫人正四位下に叙される。
翌弘仁元年(810年)11月、従三位となり、当時藤原氏一門に適齢期の女性貴族がいなかったことと。桓武天皇の皇女で高津内親王が後宮にいた。
藤原氏は皇族の皇后を立后することを危惧したのか、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位とともに妃に立てられるが、間を置かずして廃妃になり息子業良親王も無品の親王で終わらせ強引に弘仁6年(815年)7月13日、立后させます。
嵯峨天皇の間に2男5女をもうけ、藤原氏の子女を息子に娶らせて皇太后・太皇太后となり、淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)のきた廃太子を伴う承和の変にも大きく関わって仁明天皇の直系皇統を実現しました。

中宮皇后になれなければ栄花を極められなかったか?
女性に求められた役割に出産があります。特に天皇家では皇統を継続していくには必然
なので中宮だから皇后だから男子を産めるとは限りません。
そりゃそうです。

平安時代中期 女御
藤原 詮子
父摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女 母摂津守藤原中正の娘時姫
した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟です。
第64代円融天皇に入内し三年後唯一の第一皇子懐仁親王(のちの一条天皇)を生むも、円融天皇が兼家のみの権力集中を回避させたい為に中宮の地位を関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われます。
その後実家に籠ったきり、へそを曲げて入宮しなかったといいます。
一条天皇が即位すると国母として政治にも介入し始め、藤原実資に「国母専朝」と非難される。
末の弟道長をかわいがっていたため、後にその出世に大きく貢献する人物です。

東宮を産み高貴な家柄にもかかわらず、後見を受けられずに隠棲しつつ後に栄花を極めた人は?

平安時代後期 中宮・皇后
禎子内親王

父第67代三条天皇の第3皇女 母藤原研子(道長の次女)
万寿4年(1027年)、皇太子敦良親王に入内、長元2年(1030年)良子内親王を、同5年(1032年)娟子内親王を出産したのち、同7年(1034年)尊仁親王を出産
しかし長元9年、夫の皇太子敦良が即位(後朱雀天皇)。同10年2月(1037年)、中宮に冊立されるが、3月嫄子(藤原頼通養女)の立后で皇后宮に変えられると、当時両親も死亡叔母で姑の彰子も死去しており彼女は道長の外孫といいつつすでに親王を産んでいたため頼通にとって邪魔な存在でした。入宮も出来ずに所有の親王も冷遇されていました。
しかし後朱雀天皇の妃に他の親王が誕生しなかったためと異母弟で中宮大夫だった能信がすすんで尊仁親王を立太子させることを上訴したため親王は後三条天皇として即位国母となることが出来きました。

平安時代末期中宮
藤原忻子
父徳大寺公能 母藤原豪子
後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立後譲位後皇后のち皇太后
寵愛が薄く子もなかった。
絶大な権力であった後白河上皇の前では中宮であっても後宮では寂しい存在だったんです。


平安時代末期 シンデレラガール
平滋子
父兵部権大輔・平時信 母中納言・藤原顕頼娘 祐子

後白河上皇の女御・女院
父は鳥羽法皇の近臣、滋子も法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)の女房時代に後白河院の寵愛を受ける。
20歳で第七皇子(憲仁)を出産、仁安元年(1166年)立太子後仁安3年(1168年)2月、後白河院は当初の予定通りに六条天皇を譲位させ、憲仁親王即位。皇太后に後女院となります。34歳でにきみ(腫物)おそらく腫瘍かもしくは腫瘍の外傷による破傷風?により崩御するまで後白河院の寵愛を得ていました。


概ね平安時代中期の人物を中心にしてかつ藤原道長・菅原道真・等の有名な人物や有名な藤原氏の抵抗勢力排斥の事件の犠牲者は外しています。


生きるという現在の価値観で間違いない常識がかなり危うい。
簡単に病気にかかりあっけなく死んでしまう世界

現在の常識とはかけ離れた生活習慣と価値観と無知

まず医学知識が0

典薬寮はあったものの民間療法や中国からの医学書(こちらも医学書とよべるほどの物ではないレベルの書)に近い薬草やお灸や鍼が医療行為として行われていたので治るはずはなくかえって悪化することも多い。
平安時代に病気の治らないものは悪霊や魑魅魍魎が原因とされていました。
治らない物は除霊や加持祈祷などで祓う=病気が治るという認識でした。

②食生活が無茶苦茶
まず一日二食
食事回数が少ないほど人の体は飢餓状態で血糖値が急上昇して糖尿病のリスクがあがります。

加糖体質の食生活
白米のご飯山盛り、これに酢塩醤酒などの調味料を加えおかずは干した魚介類・海の物は塩漬け・刺身・焼いた川魚・鳥で
デザートは果実や小麦粉で揚げた唐菓子というお菓子が出ます。これに酒や祝いの席では餅

女性貴族に至っては「食べる行為そのものが卑しいという認識で常に栄養失調状態」


男子貴族は常に飲酒しており、平安時代の酒は現在の物よりも糖分が高かったといわれています。
その酒に塩分の高い魚、海藻をあてにしていたのでそれはやばいでしょ。

完全に炭水化物中毒&塩分過多&少タンパク質&食物繊維不足
これを毎日していたらそりゃ生活習慣病地獄ですね。

③運動は少な目
ほぼ戦争のなかった平安時代(内戦は省きます)、貴族は運動といっても庭で軽くいまでいうプチサッカーをするくらい。
女性にいたっては歩くことすらまれ、膝行が一般的で物をとるにも高貴な姫君・夫人は女房に手渡ししてもらっていました。
これも生活習慣病の元です。

④生存競争によるストレス
貴族たちは極めて近しい親族のみで構成されています。
当時の藤原氏が、その他に天皇の血筋を継ぐ源姓、その他の少数貴族(橘氏・菅原氏・中臣氏・大江氏・紀氏・清原氏・高階氏)
その中でも生存競争をかけた裏工作や政争など巧みな駆け引きが必要で親子間でも場合によると敵対したり、気がおけなかったりしました。
近親者で構成される社会では「恥」がなにより勝ります。

平安時代は恥が最大級の虚栄心になり、時には殺人事件も起こされたりします。

貴族の死因実例

①ダントツに多いのが糖尿病の合併症による死亡

地下・殿上人とわず貴族の病気といえばこれ
一番有名な人物は藤原道長
中期
後一条天皇  輔仁親王   藤原 伊尹 道隆 伊周 家長 
後期
藤原 公実 徳大寺 実能 藤原家成

有名人物で上記

遺伝型の二型糖尿病といえるか?でも当時の貴族には多い病気でした。
いわゆるインスリン不足で栄養がいきわたらない合併症を伴う病気で死亡します。
脳梗塞・脳卒中・心不全・壊疽・失明・腎臓不全等免疫力が著しく低くなり肺炎やちょっとした傷が化膿して熱が出て感染で死亡したりします。

脚気が原因の胸病

直接の死因は心不全
庶民はあわやひえなどの雑穀を主食として食べましたが、貴族は白米です。
しかも副菜から栄養をとっていないのでビタミンB不足倦怠感や手足のしびれ・むくみなどから始まり、末梢神経の麻痺進行すると心臓衰弱をまねく。
皇族や貴族など上層階級を中心に脚気を発症している。
近代でもNO3に入るくらい国民病といわれていた。

現在の肺炎や結核も胸病とされたので現在では判定が難しい
有名な人物では
藤原超子冷泉天皇の女御
藤原兼家の長女 母藤原中正の女・時姫
居貞親王(三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王の三男一女を産んで栄花を極めようとするも天元5年(982年)急死。
庚申待の明け方、脇息に寄りかかったまま眠るようにしていつの間にか息絶えました。心不全ですね。

③感染症(赤痢・瘧マラリア・赤疱瘡はしか・疱瘡天然痘・風風邪及びインフルエンザ・しはぶき)
衛生状態の非常に悪い時代しかも生活習慣病や栄養不足等で一旦流行すると貴賎を問わず爆発的に感染する。

瘧マラリア
平安時代末期平氏武士
平清盛
父平忠盛 母白河院女 房義母祇園女御
後白河院に童子の頃から仕え側近として頭角をあらわす。武士の身分で初めて娘徳子が高倉天皇の中宮になって自身も太政大臣にまで登りつめるも。後年後白河院と源頼朝らと対立し平家討幕の機運の中、瘧に感染して病死したといわれています。

平安中期 疱瘡
藤原  挙賢
     義孝
 
父藤原伊尹  母代明親王娘・惠子女王
死去

藤原朝光 
インフルエンザ?
父藤原兼通  母有明親王娘・能子女王
大納言 死去

平安時代中期 
赤疱瘡 現在の麻疹
藤原嬉子
父藤原道長 母源倫子 後朱雀天皇の東宮妃
万寿2年(1025年)8月3日王子(親仁親王、後冷泉天皇)を出産するも2日後に薨去
栄花物語に病状が出てきますが、まさにはしかの病状にドンピシャ


疱瘡
藤原威子
研子の同母妹
甥の後一条天皇に入内4月に女御宣旨を受け、10月中宮に冊立夫の死後半年で39歳で崩御
入内時9歳年長の妃年上でかつ幼い時から知る甥の妃になるのを恥じる様子が栄花物語にある。
しかし二人の内親王にしか恵まれず、後一条天皇に姪が入内する話が持ち上がると里へおりようとする態度に出て結局摂関政治に終止符を打つ事にも。
子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)だが二人とも子に恵まれずに二人の皇統は途絶えます。


④女性に多いのが妊娠中毒症及び出産による死去

康子内親王(嵯峨天皇の内親王)

藤原安子(村上天皇中宮)

藤原定子(一条天皇皇后)

関白道隆四の君御くしげ殿(定子の妹)

藤原忯子(花山天皇女御)

藤原 嫄子(父一品式部卿敦康親王 母具平親王次女)
頼通の養女後冷泉天皇中宮

藤原永頼娘四の君
藤原頼通の子を産むも母子死亡

藤原公任娘(藤原教通室)
出産後死去


もののけ
概ね異常行動や言動が原因とされる病はすべてもののけとされる。現在ではおそらく総合失調症・躁鬱病・神経症等の精神的疾患や発達障害やアスペルガー・更年期障害・知能障害身体障害等によるものと思われる。

藤原明子(染殿后・文徳天皇女御清和天皇の生母)
冷泉天皇(村上天皇・中宮安子)
道隆の三の君
通仁親王、君仁親王(鳥羽天皇・中宮 璋子)
藤原寛子(父藤原道長三女 母 源明子)
小一条院の女御
小一条院の妃延子とその父右大臣藤原顕光の霊による病で死去とされている。
精神的過労?

鬱病による餓死

栄養不良と過度なストレスがかかる平安時代書物でこれは絶対に鬱病による食欲不振からくる餓死といっていいのではという記述が見えます。
女性に多いのはやはり暗い邸の中にいて、太陽に浴びない為にセロトニンがうまく作れず、運動もしないからだと。

源国盛
道長から第一国越前守を命じられていたのにもかかわらず、藤原為時が一条天皇に「淡路国守任命」を奏上する詩を送った所天皇がその素晴らしさに為時に同情して涙する。これを見ていた道長がおそらく自身が決めた国盛の任地越前を為時に譲るように命じた後、越前は為時、淡路は国盛に決定するも意気消沈した国盛は床に臥せ翌年の播磨守就任も受けるも死去します。

高階貴子(道隆正妻)
長徳の変で目の前で伊周が検非違使に捕らわれ、連れ去られる様子を見てそのまま床につき病みます。
その後伊周が密かに京へ戻り再会するも本服することなく死去

藤原延子
(父右大臣藤原顕光 母村上天皇皇女・盛子内親王)
三条天皇の第一皇子である敦明親王と婚姻し、敦貞親王、敦昌親王、栄子内親王の二男一女をもうけるも、道長の嫌がらせで三条天皇は譲位、夫敦明親王が東宮になり未来があるように見えたが、敦明親王は即断で東宮を辞退小一条院と称して道長の明子腹の寛子を女御にむかえ高松殿で同居する。
以降院にみ捨てられたように堀河殿で孤独に病で死去

当子内親王

父三条天皇母藤原母皇后娍子
父から鍾愛された内親王で伊勢斎宮に群行する際に「別れの櫛」儀式時三条天皇は悲しみのあまり、本来はいけないのだが振り返ってしまい、道長に非難されたほどでした。
伊勢において三条天皇の長い治世を大神に神託させたりとしたがおもいかなわず、譲位に。
帰京後、母の殿では狭いという理由で別居していた時、乳母の仲立ちを受け道雅と密通していると噂され、三条天皇は激昂道雅を勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母・娍子のもとに引き取られ裂かれてしまう。
自ら落飾して6年後に短い生涯を閉じました。
精神的ストレスですね。

風病
現在の風邪ではなく、風邪及び脳梗塞、脳卒中、パーキンソン病等中枢神経疾患など広く扱われる病気

平安初期
藤原師輔 右大臣
父藤原忠平 母源能有娘・昭子
栄花物語で風病で死去


藤原実頼 摂政
父藤原忠平 母宇多天皇皇女・源順子

あやしふ風起こりがちにておはしまして、・・・・・・うせままふと栄花物語にあり

 平安時代中期
藤原研子
父藤原道長 母源倫子 三条天皇中宮
妍子は道長の娘達の中でも特に美しく派手好き、道長と三条天皇の間の関係に終始悩まされた。
当時でいう風病で享年34で崩御する。

出来物・二禁
現在のニキビとは違う意味、おそらく悪性腫瘍や皮膚病が悪化して感染症で死亡したと思われる。
藤原詮子 一条天皇生母 皇太后
父 藤原兼家 母摂津守藤原中正娘時姫
ものねさせたまひて悩ましうとある。

花山上皇
父冷泉天皇母兼通娘超子
出来物が腫れて熱が出回復せず崩御

急性ストレス性出血死
藤原原子(父関白藤原道隆・母高階貴子)
三条天皇の東宮時代の妃
父母姉兄妹を続けてなくし、後ろ身のない東宮妃となる。
父崩御後は東宮に寵愛されることなく突然血を吐いて死亡した。


女性はとても生きずらい世の中でした。これがそこそこの身分の女性ならなおさら、女中がいるそれなりの家の娘はかしずかれながら育ち、結婚適齢期に婿を得て両親に養われながらそして婿の面倒は両親と自分が経済的精神的にみました。
妻の地位は絶対ではなく、両親の後見がその死亡や経済的破綻になると命にかかわる事態になります。
それは古典の「今昔物語」でしられます。勿論史実ではない部分もありますが、当時の世相やものの考え方は引きついでいるのでこういう現実もあったと考えるのが妥当です。




通い婚で婿の面倒を妻の実家でみる平安時代では家は娘が相続します。
ただしその職業は長男が継ぎいわば男女両方いないといけない。
両親が死ぬと男は婿取りされればなんとか食べるのにはことかかないが、女の場合はそうもいえない。
夫との間に多くの子に恵まれれば「このように子だくさんなのは前世からの宿命なのだ」と考えていたのでそのまま妻の面倒は夫がみる事があっても絶対ではないようで。


両親が死んだ場合
Aパターン
財産が多く運よく親戚もよい人ばかりで遺産を女性が相続でき、うまく運用出来ている

気楽にその後の人生を送り実子がいればその子の面倒、いない場合養子でももらえばよい。

Bパターン
財産はあって再婚する場合
財産目当てでそれなりの男と再婚する。

Cパターン
財産がそこそこあるかもしくはあまりない、またそれを維持出来る事が難しい場合

内裏・宮へ出仕
概ね五位以上四位以下の娘か妻
中臈の女房
紫式部 大弐三位
和泉式部 小式部内侍
清少納言
伊勢
相模
待賢門院堀河

Dパターン
大臣クラスの娘だが親が死亡したため上臈女房として出仕

上臈女房(天皇・中宮・内親王・斎院等話相手や和歌の技量を見込まれた父が大納言以上の上級の女房)
二条殿御方(父関白道兼) 藤原威子女房
内大臣伊周の娘 
藤原繁子(父関白師輔)典侍一条天皇の乳母
藤原登子(同)村上天皇内侍で愛人・冷泉天皇母替わり
藤原豊子(父藤原道綱) 上東門院女房 後一条天皇乳母
太皇太后令子内親王宣旨 父師通 母家女房丹後 太皇太后令子内親王宣旨

その他にも女房名〇〇少納言・〇〇大納言・侍従の君・大夫の君・宣旨の君・衛門女房など親族の役職名で女房と仕えている。
女房の中に大事件が
花山院の皇女 遺体を犬に食われる
上東門院 女房

花山院のは出家したにもかかわらずに子女がいました。その中に中務とその子平平子(平祐忠女、母は中務) を同時に妊娠させました。その娘の子供の一人が藤原彰子の女房にあがります。
その女房が洛中で殺され遺体となり発見されます。
しかも遺体は野犬に食い荒らされめちゃめちゃかろうじて衣で身元が判明した。
検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月容疑者として法師隆範を捕縛、拷問道雅の命で皇女を殺害したと自白
7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首を申し出、各種記録に残っておらずむやむやに。
翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されている
そもそもよくわからない事件。犯人は道雅なのか?ほかのだれかなのか?
皇女が殺され事件が抹殺されたのは事実


Eパターン財産がなく夫に捨てられる。
中務大輔の娘近江郡司の婢と成る語第四
中務大輔は官人で一娘がいた。貧しくはあったが、兵衛佐の婿を迎えて出来るだけのお世話をしていた。
しかし父が死に母が病死して邸にいた使用人も女童だけが残り夫の世話さえできなくなった。
娘は世話が出来ず夫の勤務にも差し障るので、分かれてほしいと強く懇願し、時々通えってくればいいとほだされ別れた。
男は別の女と一緒になってこの娘の元には来なくなった。
屋敷はどんどん荒れ果て、最後の女童もいなくなり、部屋を間貸ししていた尼の手土産でなんとか生きていた。
そんな時尼の元に近江の郡司の息子が来て、女を世話してほしいと言われ。娘の事を話、仲立ちをすることになった。
娘は初めは断ったが、一人住まいの恐ろしさを感じてこの男と暮らすことにした。男は京の女を知らなかったので気に入り。
国に共に帰るが、この夫の国の妻がひどく嫉妬して女を実家の郡司に置いていた。
郡司はただ飯は食わせないと女を京のとなずけて下働きの下女にした。
そんな日々新しい国司がやってきて、そのもてなしの席で京のを知ると寝所の世話をするように郡司に頼みます。
京のを綺麗にさせてある夜国司に夜の相手をさせます。国司はどこかで会った気もすると気になり、たびたび寝所に召していた。
そんな夜に国司は京のにどんないわれがあるのか尋ねると京のは自分の身を語りだした。
なんと国司は以前の夫だった。国司は自分が元夫だと教えると、京のの体は冷えて死んでしまう。
夫にこんな暮らしをして簡単に身を任してしまった過去を知られてショックのあまり死んでしまった。

今昔物語筑前守源道済の侍の妻最後に和歌を詠みて死ぬる語第五十
源道済に仕える侍の男が主人が越前に下る時、新しい妻を召して以前に通っていた妻を京に置いていってしまう。
京の妻はショックのあまり病床につき、嘆き悲しいもういくばかりの命と思い、和歌を童女に託すとなくなってします。
男はその和歌を見ようともせずに捨てると、同僚の侍がこれを拾って同情して主人に見せる。
主人はことのさまをその侍に問いただすと京の妻を捨てて来たことを知り、非情な侍を置いておけないと解雇。
男は失業し今の妻にも捨てられなくなく京に帰った。
主人の守は京の男の妻を懇ろに葬ったというお話

人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語 今昔物語集巻二七第廿四
身分の低い侍が何某守に出世した人と知り合いになりその家人になる。当時侍には美人で気立てや性格はよいが貧しい妻がいた。この侍は丁度いい時期と羽振りのよい違う妻を連れて任地へいってしまった。
妻はそのまま京で残された。
田舎で過ごした侍は京の妻のことが気になりだして帰京したら会いに行こうと決めた。
無事帰京して今の妻を家に届け旅姿で前の妻の家にいくと、女は恨み事一つ言わずに嬉しそうに夫を迎えた。
そのまま一晩共寝して朝がくると朝が来て隣を見ると遺体が
隣の住人に話を聞くと「遠国に出かけた後、嘆き悲しんで病に陥りましたが、看病する人もなく、この夏亡くなりました、埋葬するものもいないので、まだそのままになっています、それ故誰もがはばかって近寄らず、家は荒れる一方です。」
哀れさがこみ上げてきて、いたし方もなく帰っていった。

六宮姫君夫出家する語
六の宮という人の兵部の大輔を父に皇族の母を持つ姫君が人付き合いのしていないお堅い両親に大切に育てられていました。この姫君はあまりに両親に大切にされすぎて乳母にもうちとけていません。そんな世に忘れられているような生活をしているうちに両親が死に侘しい日を過ごしていると、さすがに生きていくには資産がなくて乳母の口ききで国司になれる身分の息子と結婚します。
そのうち男は父の赴任先に着いていくことになり、結婚したことすら父に言えず。姫君を置いて国に下ってします。
そのうち父の口ききで別の妻をめとるものの、京の姫君が忘れられずに数年過ごし、ようやく京にかえるとすぐに姫君の住む邸に向かいます。しかし屋敷は建物さえなくひどい広大な庭だけが残って勿論姫君もいません。偶然以前邸にいた尼と出会い。姫君達が行方知れずとしります。都中を探し回り、西の大門で乞食姿の女二人を見つけます。なんとそれが姫君でした。
男は姫君を抱きしめますが、姫君はその姿を見られたことを恥じてそのままショック死してしまいます。
男は出家して山に籠り姫義気の菩提を弔います。

Fパターン
大納言の娘内舎人に取らるる語第八
ある大納言に大変自慢の美しい姫君がいました。大納言はいずれ帝の妃にと育てていましたが、この邸に出入りしていた内舎人がこの姫に懸想しすぎて体を病み病床にあった時、どうせ死ぬのだから思いを果たそうと女房に嘘をついて姫を邸からさらって東国に逃げた。取り次いだ女房は口を閉ざし、大納言は必死に探したが見つからない。
森に庵を作くり、姫を庵に置いたまま食を求めて里と庵を行ったり来たり。
そのうち姫が妊娠し、男が4・5日帰ってこない日に水に浮かんだ自分の顔があまりにひどいのに衝撃を受けてそのまま思いつめすぎて死んでしまった。庵に戻った男は死んだ姫の亡骸に共に臥して死んでしまった。


まだDパターンまではいい生きていけるんだから。
悲惨なのは財産もなく、それまで両親に不十なく育てられすぎて一人ではなにも出来ない女性


そりゃ悲惨 最餓死 遊び女(遊女)・下衆の妾・へたをすると乞食

今回の今昔物語の史料に盗闘史というのがのせてあった。
平安時代は死刑もなく文学や公家文化が盛んな文化的な時代なんて妄想というか別の顔というのがわかる。

ほぼ毎年毎月一回おそらく公的な事件が主なので庶民階級の事はこれ以上・・・・・。歴史って貴族だけのもの・・・・・・。

御所・公卿の邸。寺に強盗が入り放火、人殺しまで行い。
地方はもとより、京でも殺人・殺人未遂事件・強奪・強盗・放火が日常と化している。
貴族や下衆の乱闘騒ぎ・暴行事件・殺人事件

のオンパレードです。
雅に相対する物それは???
こんな時代に生まれなくてよかった!!!
平安好きでも生きるのはいまがいい


追記:いろいろ調べてみると平安時代は李朝朝鮮時代・現在の韓国や北に社会構造や思想、思考なんかとても似ている。


一部の特権階級がすべてを詐取し、その他はひたすら詐取される側
豊かな貧しいか

男は本能のまま生きられるが女性に人権がない。
そして貴族でも誕生から死去まで年齢が判明している男女の平均寿命

男60歳弱
女50歳

医療が低レベル

喜怒哀楽が著しく激しい

あえて文化面では平安時代の方がかなり優れている。貴族達は舞も楽器も演奏するが、両班は詩以外嗜なまない。
舞も演奏も下人がするもの。李朝朝鮮時代は文化を作る工芸者が人以下扱いなので育たない。


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