姫宮の御かたの童女に、裝束せさすべきよし

訳:内親王様(一条天皇と定子皇后の女一宮・脩子内親王)のお付きの童女達になァ~~ど~~~んな汗衫を着せさたらええんでしょうかァ~~~なぁ~

皇后定子が第二皇女・媄子内親王の出産の準備の為に平生昌邸に滞在していた時
なんの因果か長兄の伊周が左遷され、天皇の許しなしでひそかに帰京した時に道長に密告した生昌の屋敷で出産しなくてはならなくなりました。
皇后がお産の際には里内裏で出産するのが通常でしたが、この時里内裏は火災の為なく、自邸を里内裏として提供する者の現れず(この時すでに藤原道長が摂関政治の中枢に座していた。貴族達は落ち目の中関白家に恩を売ろうという者はいなかったので。)

兄惟仲が中宮大夫であったにもかかわらず、そくざに辞任し、めんどうな中宮の貢献の役目を弟生昌に押し付けました。
生昌はこの役目をいやいや引受、皇后が滞在する場所に四足の豪華な御門を立てなければいいけないのに、金がかかるからと中宮が通るところだけ門を大きくし後の門を小さく作っていました。
当然車が入らず中宮付きの女房達は普段の姿を人に見られるという恥ずかしい思いをしたと清少納言の枕草子に記述されています。

この里下がりの一大事が藤原行成は日記にこのように記述しています。
まず中宮定子が行啓するのを命じる上卿がいなかったんです。なんでか?藤原道長が公卿たちをつれて宇治の別荘へ遊覧してしまったからです。
困った藤原行成は天皇にこの事を奏上すると、天皇は急ぎ上卿を連れて行啓させるようにと命じます。
すると一人病と物忌で家に籠っていた藤原時光(藤中納言)が手を揚げようやく中宮の行啓が実現したのです。
権記より
この時に出産したのが一条天皇の第一男宮「敦康親王」でした。
こ皇子は天皇の第一親王でありながら、天皇の鐘愛され東宮にもと考えたものの道長の後見が得られないと行成に助言され、後に彰子が生んだ敦成親王(後一条天皇)を東宮に立てざあるをえなかったといいます。
御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし
大鏡より
道長には警戒されましたが、その息子嫡男摂政頼通と親しく、相婿となり、一女嫄子女王は後朱雀天皇の中宮となり2内親王を授かります。
なお中宮(皇后)定子の生んだ親と王内親王の後継はなく中関白家の摂関政治は完全に終わりを告げました。

この後中宮定子は媄子内親王を出産した後、産熟熱で帰らる人となり鳥辺野南陵に土葬されました。

辞世の和歌
「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」

武蔵国詣で今回は2月5日八千代市立郷土博物館さんで行われる「平安装束体験」に当選して参加しにきました。
毎年開催の催しの様でお手伝いは東京成徳大学大学平安装束班が着付けをされています。
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今回力を入れた小物はこの二つ
小物は薬玉、五色紐、髪紐、高杯、お菓子、桃桜の造花、ウィッグ
そして物忌みこの物忌みには鳥と蝶の絵を描きました。
綺陽研究所さんで「汗衫」を着た女子が似た物忌みを髪に飾っていたので不器用ながら再現してみました。

そして今回初めて日の目を見た高杯、ひな人形用の高杯を代用しています。

当日は関空第一ターミナル出発のジェットスターの早朝便出発やはりLCC便は助かります。


前回は「十二単衣」でしたが、
今回は本格的に童女になりきるために髪はあげまに結い髪紐を着けて初期の公家童女晴れの装束を体験します。

本当は千葉県立博物館大利根分室で行われる装束体験にいきたかったのですが、なんせ募集人数が少なくてはずれる危険性が大いにあるのでこちらの方が18組募集昨年も空きがあるという情報を聞いていますのでまあ安全と思い応募しました。
でも今回は1日だけなので応募が多かったそうです。

八千代市立郷土博物館は成田の方が近いのです。
京成本線特急 京成上野行に乗り勝田台駅で降りて、バスに乗り換え「博物館前」で降ります。
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八千代市立郷土博物館に到着です。
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玄関にひな人形が飾っていました。

化粧は機内ですませているので、髪形を待ち時間の中でセットしてゆきます。
両側の髪を二つに束ねて耳の上で○にして美豆良にします。
髪がたらないのでウィッグでつけたします。
髪の根元で組紐を結んでリボン結びにします。
そして物忌みを取り付けて髪に結びます。
待っていたら早稲田の装束研究会のメンバーの子も助っ人でいてた!
すごくひとなつっこい子で直垂を着てました。

(1)初期汗衫(かざみ)童女・晴れの装束

汗衫とは本来単が(肌着)だった衣が表衣となって、更に長大化して公家童女の正装晴れの装束です。

円領(あげくび)、衽つき、闕腋、身二巾、袖二巾で身丈は後身曲尺1丈5尺、前身曲尺1丈2尺の長さがあります。
円領(あげくび)の汗衫を垂領(たれくび)に着け、汗衫の下は衵(あこめ・童女の表着)、五つ衣、打衣、単、白の表袴を、濃きの長い張袴の上にかさねて着付けれらていました。

平安時代初期から中期の着つけは不明ですが、現在は後期公家・装束家の「満佐須計装束抄」の姿でに再現される事が多いようです。

初期は公家男子の身なりに近く、髪もみずらを結い紐を結んで物忌の髪飾りをつけ、腰には石帯を装着していたそうですよ。

平安初期の晴れの装束実現可能か?
希望としては衵に五衣(いつつぎぬ)単、打衣と束帯につける石帯の装着が可能かどうか聞いてみる事にしました。

結果

この汗衫の特徴的な着付けはなんといっても足元です。
わざわざ濃き(紫色)長袴をはいてから上から表袴をはきます。
なんでも童女達はいろいろと貴人のお手伝いをしないといけないので動きやすくこの形式がとられたんではないでしょうか?
長袴は歩行には不向きですからね。子供はこけやすそうですし。

小袖
濃き長袴
表袴



そして

汗衫

特別にお願いして石帯を装着してもらえました。

後ろを向いてゆっくり前に向いてゆくと長い後ろ姿が印象に残りますね。
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中宮さんに唐菓子をお持ちする童女
平安時代の菓子は果物、揚げて甘葛の汁を甘味料して使用した唐菓子です。
今回は時間と準備に間に合わずほんまものの唐菓子はあきらめ、唐菓子の影響を受けて現在も菓子として食べられている物で代用しました。

煎餅
唐菓子が原型と言われ小麦粉や米の粉をこねて薄く成形し、油で焼いた菓子
奈良時代にはすでにあったといわれています。

フライパスタ
索餅に形状が似ていたので用意しました。サイズはもっと大きいそうです。
索餅は小麦粉を捏ねて茹でたものでやはり奈良時代までに伝えられたといわれています。

かりんとう
桃枝桃の枝に似ていなくもなく油で揚げているという理由で採用しました。
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折敷には大納言伊周さまから届いた薬玉を乗せて献上する童女
薬玉は端午の節句の際に贈られる邪気を払う飾り玉、中には香木を入れて周りを造花で飾り五色の紐をたらせた物です。
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桃と桜を眺めて春を楽しむ童女
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「竹取翁の物語」を夢中で読む童女
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中宮さんから下賜されたお菓子を食べながら
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薬玉を眺める童女

童女って・・・・・やばい厚かましい事この上ない!!!
でもたのしんじゃいました。

体験後、化粧を落として武蔵国・下総国詣でGO
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