今後の目標 「人生の節目に向けての計画」


新年明けましておめでとうございます

ご愛読ありがとうございます。


さて2017年9月10日までを平安装束体験を強化してというか突然始めた感満載でしたが、卒業する!を目標クリアーに向けて着々と推進中なのですが・・・・・・・。

2017年予定

1月
いつきのみや歴史体験館 殿上人宿直装束・衣冠 

嵐山時代や細長体験

小野市立好古館 新春束帯体験


今年は「珍しい平安装束」をテーマにトライしていく予定なのでいろいろ資料を読まないと。
ただ単純に平安装束を着せてキャッキャしているだけでなく、そしてこんなんだったら面白いやんではなく、書物や絵巻に出てくる着装を自分なりに解釈、衣紋道の方の知識をおかりして相談しながら体験してゆきます。

それも楽しいそしてそんな我儘にしっかりと答えてくださる体験所の皆さま、装束店の方々、衣紋道の方々に感謝と今年もご活躍を願うばかりです

参考文献は枕草子、源氏物語、紫式部日記、たまきはる、大鏡、満佐須計装束抄、讃岐典侍日記
その他に装束研究家、服飾大学教授、風俗博物館発行の書籍、文献などです。
が!なにせ文章しかも古文しかも平面的表現で正確に再現するのは困難につき、完コピは無理~~~~~
そこの所了承願います

セミ卒業の予定
ただ珍しい衣装や水化粧付きの装束は体験あるかも・・・・・かもなのでセミでもほぼほぼ装束体験からは撤退しま~~~~す。
本篇京草子に戻ります。

追記:昨年の12月に・・・ん~~~~と考えさせる事が起こったんです。
強化年として十二単の変形型着付けを行っているのですが、とある時代装束体験マニアさんで舞が衣紋道を心得た方にお願いして着付けて頂いたお店でその方も同じ様な着付けを願い出られたそう・・・・・・・・
まあそこまではよくある話で舞も他の方のブログを参考にしていますし、どうこう思いませんが・・・・・

ただ舞のサイトから参考資料として印刷し、2か所の衣紋道関係者さまに送ったということをご自身のブログにアップさせていると知りました。
顔だしNGだし FC2にはあげてはいますが、こちらに一言コメントあってもいいのでは?と素朴に~~~疑問に思いました。
一か所の方はこれからいく予定にはしてますが、あがっているブログをスマホなどで見せるくらいはそりゃ公開してますからいいでしょうが・・・・・・ね写真印刷発送ってどうなんでしょう?
ちょっと~~~~~?な出来事でした。

いかでか言はではあらん けしからぬやうにもあり。

今年一年文献・絵巻物にある着装を出来るだけ正確に着付けて頂ける様に精進します。


今後長い目標として最近思う事があります。

まぁ宮仕えはこのままでいいかなとも思うものの・・・・・・・ある程度の年齢になれば短期か期間限定に切り替えていこうかと・・・・。
ストレスを伴う職種あんまに持病によくないし・・・・・・。

そこでじゃあどうするのか?
と考えた所、体の負担にならずに社会とかかわりながら好きな事も追及となると・・・・・・・。

前から考えていた台湾料理にかかわる仕事、でもあまりに専門的にならず・・・・かといって素人でもなく丁度中間的な感じでかかわれたらなと思っています。

となると・・・・・・・・台湾料理の料理教室に通うを基本に、時々本場で料理経験を積んで出張料理教室なんていいかなと思っています。

目標1

台湾料理を学ぶ・出張料理教室開設か一品に特化した販売業


とりあえず料理教室に基礎から通わないと~~~

意外と台湾料理に限定されるとお教室が少ない事が判明しました。
でもABABCafeスクールという所で月に二回開催されていますのでこちらで!
勉強勉強~~~

そしてときどき本場台湾ホジャキッチンで台湾料理プチ留学で!

ん~~~~これっていう料理に出会えて・・・・出会うまでザ台湾料理修業じゃ~~~あ



目標2

西洋服飾体験の主催者になる

衣装コレクション収集


個人的には歴史好きだし、衣装体験にかかわる仕事もいいなぁ・・・・・・・でも手が不器用だから製作するのは無理・・・・・
となると購入になりますね。

ネット社会とは良い事悪い事が極端!
海外サイトでオペラや芝居などで使用する為にアンティーク風ドレスを安価で購入する事が出来ます。

少しずつドレスを増やしていく!

コレクションを蓄えないと・・・・・・・・でお家では体験所を開業するのは無理(家族がいるので、しかも小君は人見知り絶対無理)どこか会場を借りて、もしくは安価なスタじオを紹介して衣装体験の好きな方向けに体験の仕事が出来たらなぁ~~~なんて思うこのごろ。

で!店舗名決定

ベル・エポック

・・・・・・・まだHPも準備も出来ていないのに・・・・・妄想爆裂

ベルエポックとは
フランス語で古き良き時代という意味です。

概ね19世紀末のヨーロッパ特にフランスで流行した文化や芸術、産業が開花した時代でした。
日本とも無縁ではありません。
この時期にパリで行われ万国博覧会で幕府と薩摩藩が日本館を出品していたのですが、これが時の王侯貴族、文化人、ブルジョア層に大いに受け入れられヨーロッパで「ジャポニズム」が流行しました。
古い時代の衣装は同時に文化の集約でもありますし、私自身アールヌーヴォが好きだからという理由です。

では夢に向かってGO

かなり暴走モードですが・・・・・・

まずは比較的に手に入れやすい小物を揃えてゆき、余裕がある時期にドレスを注文していきます。


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小物A
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小物B
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小物C
小物確保済みリスト

小物はこれで準備完了

撮影用機材一覧
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背景布桜
和洋どちらでも可

背景画を止めるための和装着物用ハンガー

畳を隠すための布

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少しイメージとは違う・・・・・縫い合わせも雑な感じ・・・・・・
これはプチ体験初心者向けにリーズナブルに展開しようと・・・・・・・・・まず縫い目補修中


(1)16世紀初頭ルネッサンス終盤期 スペイン王宮宮廷王妃の衣装
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スペインハプスブルグ・カルロス1世王妃
イザベル肖像画衣装

イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン

神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世(神聖ローマ帝国の皇帝としてはカルロス1世)の皇后
1503年誕生ポルトガル王マヌエル1世と2番目の王妃マリアの長女
かのイザベル1世の孫娘(母マリアはカスティリア女王イザベルとアラゴン王フェルディナントの三女)にしてスペイン王フェリペ2世の母
1526年に隣国スペインのカール5世に嫁ぎます。
外国へ遠征にあけくれるカール5世にかわり摂政を務める良妻賢母の王妃として知られます。
彼女は慎み深い人で出産の際に苦痛を知られたくないという思いから暗がりの中で叫び声の出さずじっと陣痛に耐え続け出産をしていました。末子を出産後、産熟熱で1539年逝去しました。
最後の別れを行った息子のフェリペ2世はかわりはてた母の姿に絶句して失神したと伝えられています。
妻を失ったカール5世は再婚せず死ぬまで黒の喪服ですごし、退位後はユステ修道院で病い(痛風)に悩まされながら、亡き妻を偲んだといわれています。

が!実は彼、妻一筋だったわけではなく義理の祖母(祖父アラゴン王フェルディナント2世の後妻ジェルメーヌ)と子をなしたり、フランドル人の母から生まれたマルガリータ(後のパルマ公妃)、庶民の貧困層の母を持つドン・フアン・デ・アウストリアなど婚外子もいました。
まあ戦争にあけくれていましたから、戦場に王妃を同行させる事も出来ないわけですから・・・・・現地調達・・・・ですね。

さて衣装のオーダーはアリババwebで写真から確認して注文した後、色とサイズをオーダーでお願いしました。

色は実際のティッツァーノ画スペイン王妃イザベラのドレスの色を参考に「落ちついた赤色」真ん中の生地に、唐草模様の柄をつけてもらい発注しました。

注文してから39日目に発送メールが来ました。
ここのサイトは担当者とすぐにメールでやり取りできて安心感がありました。
舞の好きそうなドレスが多いので、リピーターになっています。

ティッツァーノ画イザベラ王妃の肖像画から


ではこの時代の衣装の特徴

16世紀に入り極端に高かったウエストラインは元の腰部分にもどり、スカートは床丈になり、丸みを帯びて広く襞をたっぷりとっています。
フランス・イギリスなどではデコルテを出すのに対し、スペインが強固なカトリック教国であった事から女性の肌が露出するのを嫌った影響が現れています。
肌着の襟は高く詰まってブラウスを着用し、スラッシュと呼ばれる袖を部分部分で切り裂き紐で結びます。
そしてラフと呼ばれた襟飾りです。
ラフは始めこの肖像画のように下にきていたブラウスの襟が16世紀後半には独立して襞を大きくとって大きな物になってゆきました。
この衣装ではラフは見受けられませんが、概ねこの時代の衣装には襟の部分にレースのヒダヒダをつけた肖像画が多くあります。

これらの生地は絹織物で織られ金銀を刺繍した豪華なドレスを着ていました。
当時のスペインは南アメリカ大陸からの金銀が大量に運ばれ、富をもたらし繁栄をおおかしていましたから衣装や装飾品も豪華です。
宝石は真珠が好まれ、大ぶりの宝石をちりばめたブローチを付けて腰には金のベルトを着けます。
ただこれは再現出来ないので・・・・・金なんて高価すぎて手がだせません。
ガラス製の真珠風のネックレスを装着したり、ペンダントトップを縫いつけたりしました。



(2)17世紀バロック中期スペイン王宮王女衣装

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オーストリア・神聖ローマ帝国皇帝 レオポルト1世皇帝皇后
マルガリータ・マリア・テレサ・デ・エスパーニャ皇后肖像画

1651年に誕生したスペイン王フェリペ4世と神聖ローマ帝国皇帝皇女マリアナ・デ・アウストリア王妃の長女
両親は叔父と姪の関係で、実はマリアナ王妃は夫の息子バルタサール・カルロス・デ・アウストリアに嫁ぐ予定でした。
しかし急死したため婚約者の父に嫁ぐ事になりました。
それより以前にも従兄妹、叔父姪の婚姻の多かった結果、王位継承者の不足や無能な王、病弱な王が続いたためスペインハプスブルグ家は斜陽の帝国となってゆきます。

そんな中でも病弱とはいえ精神面で健全な王女は幼いころより叔父レオポルト1世へ嫁ぐ事を念頭にお見合い写真のように3枚の肖像画がウィーンへ送られます。
彼女は嫁ぐ際に唯一の弟カルロスに「悲しまないで、オーストリアからあなたのお嫁さんを連れてきてあげるから」と優しく言ったといいます。
残念ながらそうはならなかったのですが・・・・・。

結婚のためオーストリア入りしたマルガリータを待ちうけていたのは豪華な披露宴でした。数カ月に渡りオペラ、音楽、パレードなど華やかに開催、ヨーロッパ史上空前の結婚式と呼ばれ当時の王侯貴族の逸話になったほどでした。
レオポルト1世はマルガリータを「グレートル」、マルガリータは「叔父様」と呼び合い趣味も合う仲の良い夫婦だったといいます。
しかし厳格なカトリック教を強いていたスペインとは違い、オーストリアの王室は宗教上も宮中作法・儀礼も比較的緩やかでその環境がスペインの随行員達には不服で、打ちとけないものになりオーストリアの貴族達をいらだたせます。
その結果幼いマルガリータに非難が向いてしまいます。
元々病弱で毎年のように妊娠、流産するマルガリータはついに末子を死産した後、産熟熱で死去してしまいます。
死の床で居る中オーストリアの貴族達は次の皇后候補し結果レオポルド1世は1年後に分家の公女を皇后に迎えます。
マルガリータのこされた唯一の娘マリアアントニア皇女はバイエルン公妃となり一男を残し若くしてこの世を去ります。
この一男も幼くして夭折し後にルイ14世とスペインハプスブルグ家のスペイン継承戦争の発端となるのです。

ルイ14世の王妃はフィリペ4世の王女マリーテレーズその間に出来たアンジュー公爵後のフィリポ5世を後継者に
オーストリアハプスブルグ家は皇帝レオポルト1世の末子カール大公を後継者に推してヨーロッパ中を巻き込んだ大戦争
最終的に1714年アンジュー公爵が継承する和平を合意して終結

1659年ベラスケスが描いたマルガリータ「青いドレスの王女」は彼女の不幸を知ることなく現在でも訪れる人を魅了しています。

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス画 
青いドレスの王女より



バロックとはポルトガル語でゴテゴテしたとかゆがんだいう意味で16世紀末から17世紀初頭に流行した美術様式です。
すでにスペインは斜陽の国となり始め、代わって台頭したのがオランダ、イギリス、そしてフランスでした。
前時代からの上半身をきつく締めつける様式はそのままに胸元にレース、リボンや装飾品をきらびやかに飾り、スカートは大きくたっぷりとひろげています。
他の国では胸元を大きく拡げてありますが、スペイン宮廷では宗教上の理由から胸元はレースで覆われ隠されています。
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実はこのドレスアリババのサイトで、特別注文で作ってもらった物です。
製造が中国でしかも写真だけいわゆる平面での注文なので、ある程度妥協しないとと思いながらドキドキで注文しました。
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やはり平面上の見本ではなかなか仕上りは難しいです。
が、ストライプがベージュのオーダーでしたのが、白に・・・・・胸元をレースにと写真を送ったのですがその服のレースが白だったからでしょう。
リボンを作ってピンで留めて、そで口は以前に購入していたレースを手縫いしました。
若干特撮物の美少女系コスチュームになっているような・・・・・・・でもまあ想定内意外と気に入りました。
体験の目玉の一つにします!!!なんたってオリジナルですからね。




18世紀ロココ朝最盛期フランス王宮宮廷公妾の衣装
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(3)ルイ15世公妾 
ポンパドール侯爵夫人肖像画

ジャンヌ・アントワネット・ポワソン

1721年銀行家の娘というブルジョワ階級に生まれた彼女は一役人デティオールと結婚して一女をもうけます。
パリの多くのサロンに出入りしているのをルイ15世に知られ、平民ながらポンパドール侯爵夫人の爵位を得て1745年公妾としてヴェルサイユに一室を与えられます。
彼女はただの公妾としてではなく、政治に興味を示さなくなったルイに変わり国政にかかわるようになります。
弟をヴェルサイユに招き重要ポストにつけ、徐徐に宮廷の中でポンパドール派と呼ばれるグループを築きあげます。

そして後に3枚のペチコート作戦と呼ばれたマリアテレジア・エカテリーナ2世と政治交渉を行った女傑で、ルイの寝室から引退してもなお、信頼を寄せられ1764年に逝去するまでヴェルサイユに住み良き友人でもありました。
ヴェルサイユ内でも平民出身ながら評判も良く貴族はもちろんのこと王妃にも慕われたといいます。
王妃は「どうせ他の誰かが公妾になるなら・・・・・あの人がいい」と言ったほどだったとか。


フランソワ・ブーシェ画 ポンパドール夫人
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ルイ14世が逝去すると古い時代からの解放感からロココと呼ばれる文化が花開きます。
その影響は服飾にも現れます。
コルセットとパニエの強調です。
上半身をさらに締め付け、スカートは鯨の髭を使用してスカートを左右に大きく広げてきました。
前半には後ろの襟部分から細長く生地を流すワトー襞と流行します。
生地には高級な織物に刺繍、宝石、リボン、レース、造花等を飾ります。
その形もさまざまで基本となるローブヴォラント、後ろの左右をたくしあげ中のペチコートをみせるポロネーズ型、裾が短めのシルカシェンヌ、パニエが小さな二部式のカラコ型とそのレパートリーは多きに至ります。

ピンクのリボン足してみよう。薔薇が多すぎるからとってと・・・・・意外といけてたので満足目玉ですね。

ここまではドレス入手済み(2017年1月現在)


確保予定衣装
(4)16世紀中頃 イタリアモードルネッサンス後期貴族子女衣装
ラファイエロサンティ婚約者マリア・ビッビエーナの肖像画
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マリア・ビッビエーナ


ラファイエロ・サンティ画 ヴェールを被る女

宗教色が消え、「再生」「復活」を意味するフランス語のルネサンス期は14世紀からイタリアで始まりヨーロッパに波及16世紀にいたるまで芸術文化あらゆる面で影響を与えた様式です。
衣装ではウエストラインはそのままで下につけたブラウスを見せ、胸元も強調されます。
腕はスラッシュと呼ばれる裂け目から下のブラウスを見せ、スカートはたっぷりと広がり優雅さを演出させていました。
この絵ではヴェールをかぶっていますのでイスラム文化の影響を受けているのかもしれません。
残念ながら二人は婚約したものの、マリアの死去に伴い結婚することはありませんでした。

さてその彼ラファエロは画家の父の血を引き幼いころから才能を開花させる。
盛期ルネサンスの三大巨匠と呼ばれた画家、宗教画人物を得意としその容姿から女性遍歴も数しれず、その中で有名なパン屋の娘マルガリータ・ルティとの逸話は現在でも知られパラティーナ美術館の「小椅子の聖母」のモデルとして知られる女性です。

この絵も最初はマルガリータ・ルティと言われていましたが、現在ではこのモデルのポーズが花嫁の象徴である「胸元に手をあてる」仕草から近年で婚約者のマリア・ビッビエーナと言われています。
さて衣装を3枚手に入れた所で写真撮影する事にしました。



(5)17世紀中頃バロック朝衣装
イギリススチュアート朝宮廷女性貴族の衣装

イギリスチャールズ2世公妾
バーバラ・パーマー
ネル・グウィン
ルイーズ・ケルアイユ
フランセス・ステュアート



題して「陽気な王様と5人の愛人達」
または「のんきな王様と愉快な愛人達」

ヨーロッパ王室で最も重要視されたのは尊い血統の結びつきでした。東南アジアでは王統であれば非嫡生子でも即位出来ましたが、宗教の理由からヨーロッパでは認められなかったのです。
必然的に后妃達は子を産む役割をあてがわれ、公妾達は体を奉仕、又は会話や知性を担っていたといって過言ではありません。

では多くの愛妾を抱え売春宿にも通った経験を持つ王様がいました。
チャールズ2世

スチュアート家チャールズ1世王と王妃アンリエット・マリア・オブ・フランスの二男として誕生しました。
チャールズ1世は王妃の影響を受け、新教徒からカトリック教へ改宗し議会と対立しました。
そのため王妃と子供達は新教徒クロムウェルが反旗を掲げる気運を受けてオランダに亡命、反乱は成功しピューリタン革命によりチャールズ1世は玉座から降ろされてしまいます。
イギリスに残っていた王は処刑され、王妃と子供達は各王室を頼りながら大陸を転々とした後、チャールズ王太子はクロムウェルが死去したことでピューリタン達の統率力が低下した事につけ込みスコットランドの力を得て王座奪還に成功します。
ブレダ宣言を発して復位を提案、この宣言が1658年4月25日に選挙で王党派が多数派になった仮議会に受諾され(5月1日)、チャールズ王太子は5月29日にロンドンに入城してイングランド王チャールズ2世と即位しました。

チャールズ2世は堅物だった父に似ず、寛容で新教徒達にも慕われ庶民にも人気があり、現在人気の犬種「キャバリア・キング・チャールズ・スパイエル犬」は彼が愛した犬に由来します。

彼らはチャールズの艶福家をはやしたて「陽気な王様」と呼んで慕われます。
ではなんで陽気な???ここでこの衣装の主人公達を順番に紹介します。

チャールズは王太子時代からエリザベス・キリグリュー他多くの恋人あり、 亡命時代にもオランダでバーバラ・パーマーやルーシー・ウォルターを愛人にしてルーシーには一男一女(ジェイムズモンマス公爵・メアリー)儲けています。
このウォルターの子である庶子の男子の家系をたどると現イギリスヨーク公爵の娘王女ベアトリスと王女ユージェニーに繋がります。メアリーからはダイアナ元王太子妃に繋がります。
もちろん他にも愛人は数知れず、一度切りの関係を入れるときりがないと言われています。
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バーバラ・パーマー
貪欲で我儘、淫乱な王の公妾
グラディソン子爵令嬢

チャールズ2世は即位してから1662年5月21日ポルトガル王女キャサリンオブブラガンザと結婚します。
この結婚の際にドタバタ劇が起こります。
ポーツマス港に到着したキャサリンをチャールズが出迎えるのですが、当時すでに愛妾であった妊娠中のおバーバラが毎夜王と食事を共にして引き止め、王や廷臣に「迎えにゆくならハンプトンコール宮殿で出産してやる」と脅迫して出迎えを4日も王妃を待たせた事件が起こります。さすがに宮殿に押し掛ける事はしませんでしたが、ホワイトホール宮殿の庭に自分の下着とペチコートをこれ見よがしに干させるいやがらせを起こします。
しかもキャサリンが宮廷に入ると自分の公妾バーバラを王妃付き女官に雇用して王から紹介させるという荒技に出ます。
ただ王はバーバラが王妃に失礼な振る舞いがあった時には激しく叱責したといいますから・・・・。そのあたりはわきまえていたのか?
彼女は1662年にチャールズ、1663年にヘンリー、1664年にシャーロット、1665年にジョージ、1672年にバーバラを産みますが、なんとその際にお約束の様にチャールズは認知を一旦否定しています。
しかし結局は根負けして最後にはチャールズは認知していました。
しかも息子達に続々に公爵・伯爵の爵位を要求し実現します。
彼女はさらに自分に公位をねだりクリーヴィランド公爵を授与され、おもいのままに王から権威、金、土地、爵位引き出させます。

しかしこの愛妾身持ちも悪くバーバラの愛人達はネルの恋人であったチャールズ・ハート、モンタギュー公爵ラルフ・モンタギュー、綱渡り芸人のジェイコブ・ホール、マールバラ公ジョン・チャーチル、モンマス公爵ジェイムズ・スコット(チャールズの庶子)、甥となど数えきらないほどでした。
時にチャールズ2世は浮気現場に遭遇しかけます。
その時突然バーバラの部屋を訪ね、マールバラ公が彼女の部屋の窓から慌てて出て行くのを目撃し、2人の関係を知っても黙認していたと逸話があります。

公妾にもかかわらず、あけっぴろげに浮気をしていたのです。
さすがのヘンリーの誕生時には認知を頑なに拒否するもバーバラが「してくれないなら、ホワイトホール宮殿にヘンリーを連れ込み、認知してくれないとこの子の頭をかち割る」と王を脅す暴挙にでます。
争い事が苦手なチャールズが折れて認知をするはめになったのですが・・・・・・。すごい愛人です。
この子スペンサー伯爵家の血に繋がるのですが・・・・・そうダイアナ妃に・・・・・・・・。じゃあ違うかな・・・・・・・。
でもルイーズからも受け継いでいるのでOKチャールズの血は現王室に戻ります。

しかしよっぽど愛していたか?もしくは体が合ったのか?チャールズ2世はずるずる関係を続けていました。
しかし宮廷内で絶大な力を保持していたバーバラにライバルが出現します。
ネル・グウィンです。
さらにルイーズ・ルネ・ケルアイユが1670年にフランスからロンドンを訪れたヘンリエッタ一行に密使として同行し、チャールズ2世に見初められます。

さすがに1671年頃には王に対する影響力を失ったといわれています。
王もバーバラの性格に嫌気がさして霹靂としたのでした。
チャールズ2世から多額の年金を既に与えられていたバーバラは、1677年に駐フランス大使になっていた男性と駆け落ちしてパリに移り住み684年まで暮らしました。
チャールズ2世の死後は、夫パーマーと離婚し、1705年に10歳年下のロバート・フィールディングという美男と結婚しましたが、フィールディングが二重結婚していた事がわかって2年後にこの結婚は無効となります。
バーバラはフィールディングにすっかり財産を食い尽くされ1709年、バーバラはロンドンで死去しました。
哀れな愛人の最後です。

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ルイーズ・ルネ・ケルアイユ

「淑女の仮面を被った王の公妾」

貧乏貴族の家に生まれたルイーズを両親は、ルイ14世の寵姫にするつもりでヴェルサイユ宮殿へ連れていくも不発に終わり、弟フィリップの妃ヘンリエッタの侍女にして良縁を待った。
ヘンリエッタが急死した翌年の1671年9月、ルイーズはフランス外交の中心としてルイ14世によってチャールズ2世の王妃キャサリン付きの女官としてロンドンの宮廷に送られます。
これはルイ14世が密約の監視人としてスパイとして送ったといいます。
1672年の7月29日にチャールズ・レノックスを産みバーバラの公爵夫人の名称にうらやみポーツマス公爵夫人に叙せられるように口説き落としました。
ルイーズもバーバラ同様に金銭、名誉、地位、土地貪欲にチャールズから引き出し、これもバーバラ同様に王妃を見下した。
庶子に公爵の爵位をいち早く授与させます。
バーバラと違った点は王の前ではしとやかさを見せ、あえておおげさに王をせきたてていうことをきかせたのではなく。いわゆるおねだり上手・・・・・・。没するまでは愛妾の地位を維持したもののチャールズが崩御すると王弟ジェームズに嫌われていたので、祖国フランスに帰国してルイ14世の宮廷から下りる年金で生活したのでした。
さてこのルイーズの産んだ息子の内の一人がスペンサー伯爵家の血に流れスペンサー伯爵令嬢だった元ダイアナ王太子妃に流れ、現在ウィリアム王子、ヘンリー王子に受け継がれています。
スチュアート王家とハノーファー王家、ウィンザー王室の血の融合です。

二人の公妾以外に生涯に渡り、また王の臨終の際に気にかけるほど愛された女性がいます。
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ネル・グウィン

「天真爛漫で愛だけに生きた王の愛人」

王党派の大尉である亡き父、貧民出身の母(売春婦と言われています)の元に生まれ貧しい生活を送り、劇場でオレンジ売りをして生計を支えていました。このオレンジ売り当時はただのオレンジ売りではなかったといわれています。

そのうち劇場の関係者から演劇の手ほどきを受けて女優としてデビューします。
天賦の才能かコメディ女優として、たちまち人気女優に上り詰め私生活も賑やかになっていました。
1668年舞台を観賞したチャールズ2世とボックスが隣になった事での目にとまり愛妾となります。
もちろんキャスティングした者がいるのですが。
その夜にパブで飲み明かすのですが、王と王弟は金を持っておらず、勘定はネルのBOXで同席したヴィリアーズが支払いました。
その逸話をネルは「本当に金的ね!あたしの経験した一番チンケな酒席だったわ」と笑い飛ばす女性でした。
しかも王と関係した後も劇場に立ち、住まいも貧民街から転居する際も自分で王宮の近くに家を借りるのでした。

ネルは天性の明るさとウイットに富んだユウモアと気取りのなさでチャールズを魅了し、窮屈な宮廷からチャールズを田舎へ連れ出して二人で過ごしています。
ネルのセンスは独特でチャールズを自身の元恋人達で同じ名にちなみ王を「チャールズ3世」と呼ぶチャールズもこれを容認し、二人の間には2人の息子が生まれます。
一人目が生まれてなお劇場に立ったというから驚きです。
また1671年にフランスから来たフランス貴族の娘ルイーズ・ケルアイユが王の愛妾となると高慢ですました様子を「しだれやなぎ」「やぶにらみ美人」などと言ってからかったりしました。
またバーバラがネルの事を「哀れな放浪の役者」と嘲った時にはバーバラが新しい六頭立ての馬車を走らせて自分の地位を誇示しようとした時にわざと農夫の使う六頭立て牛車を雇ってバーバラの邸の前を鞭を鳴らして「娼婦が商売に行くよ!」と叫びながら走り抜け応戦したのでした。
他の愛妾がイギリス中で嫌われている中、ネルだけは違いました。
ある日ネルも乗ったケルアイユの王家の紋章馬車に「ルイーズ・ケルアイユが乗った馬車」と勘違いした群集に取り囲まれた際も、ネルは窓から顔を出し、「皆さん、乱暴しないで。私はプロテスタントの娼婦よ!」と叫びました。
群衆は、「ネルが一緒なら仕方ないや。」と殺気だった雰囲気が薄れ、すぐに「ネル!ネル!」の大合唱が起こって馬車を通したのです。
また老兵達のためにチャールズ2世が作った診療所の土地を提供すると負傷した人々は、乾杯の度に立ち上がり「良き王チャールズと我らのネリーのために」と叫ぶのが伝統となったのです。

しかし息子の事では違ったようで、他の愛妾が続続に叙位されるのに自分の息子にはおよびからない。自分の事は許せても息子は将来があります。
1676年長男チャールズ をチャールズの前で「おいで、私生児ちゃん!あんたの父ちゃんにこんにちわといいな。」と呼んだのです。
それを聞いたチャールズ2世は驚き「二度とそのような呼び方をするな」と注意されると、「姓も戴いてない息子達を何と呼べばいいのでしょう」と皮肉ったのです。
この年の12月にチャールズをバーフォード伯爵及びヘディングタン男爵に、1671年12月25日に生まれた次男ジェームズをボークラーク卿 に叙した。
ネルは伯爵の母という事で「レディ」の称号を与えられ、彼女は他の愛妾とは違い貪欲に金銭や権威、欲望を求めなかっなのですが、やはり生活に不安を覚えた時、愛妾であるにもかかわらず、演劇界に戻り、舞台に出ると王を脅し、ちゃっかり年金と邸宅を手に入れます。
しかし二人の愛妾よりもかなり少額ではありました、1675年には、ロンドン、ニューマーケット、ウィンザーに邸宅を。
1679年、チャールズ2世はネルのためにウィンザー宮殿の敷地内にバーフォード・ハウスという家を与えたのです。
1685年2月6日、チャールズ2世は死去の臨終の際に弟ジェームズに「どうかかわいそうなネルを飢えさせないでくれ」と遺言するほど心配していました。
チャールズ2世を亡くしたネルはしばらく隠棲してましたが、なんとか立ち直り30代でこの世をさります。
ネルは1687年11月13日に死去遺言には家族、友人、使用人への遺贈を遺言していました。
「毎年クリスマスには負債者監獄に20ポンドを寄付するように」
これは自身の父が借金の返済で修監された事が大きかったようです。
カトリックとプロテスタントの貧しい人々にも分け隔てなく金を寄付するよう、息子チャールズに遺言してもいたのです。
ネルの葬儀には、ロンドン中からあらゆる階層の人々が集まり死を悼みました。
ネルは、むやみに権力や富を求めようとせず、他の寵姫達とは違い、王に対しての貞節を守り、純粋に王の事を愛した。
陽気だったネルに、上流社会、政治家、知識人、庶民など、幅広い人々から愛された女性だったのです。

「彼女は彼の見事な棒を まことにみごとにまさぐったものだ。 しかし棒は棒でも王錫にだけは 彼女は全く手に触れなかった。」
当時の戯れ歌

他の愛妾達

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オルタンス・マンチーニ

ジュール・マザラン枢機卿の姪で良縁を期待して祖国スペインからフランスに移住させた四人のうちの一人(内2人はルイ14世の恋人・愛人です)。
亡命していたチャールズ2世にプロポーズされたが、国も資産もない彼を歯牙にもかけないマザランが断ったもののチャールズが王位に就くと伯父との諍いを仲裁してもらう為に1675年チャールズ2世の元を訪れ、そのままイギリスの年金と引き換えに愛妾となります。しかし御多分にもれず、他に愛人も囲っていた彼女を金と引き替えに別れますが、友人関係は続いたのだそうです。
1699年、チェルシーの自宅で死去します。
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フランセス・ステュアート

ラ・ベル・ステュアートと呼ばれたチャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの侍医をつとめたウォルター・ステュアートの娘でした。
ヴェルサイユで最高の手ほどきを受け、王制復古後の1663年にイングランドへ帰国し、チャールズ2世の結婚式で花嫁の介添え役をつとめて後の王妃キャサリンの女官に就任します。
すぐに王の愛妾になるも、フランセスはリッチモンド公及びレノックス公であるチャールズと恋仲になり、1667年3月に2人は秘密結婚し、王の寵愛を競ったバーバラ・パーマーに密告されると王妃キャサリンの助言にしたがい2人は駆け落ちします。
王は最初怒りますがのち怒りを静め、フランセス夫婦の宮廷への出入りを許し、公爵夫妻を重用していました。
フランセスは、1688年にジェームズ2世と王妃メアリーの長男ジェームズ・フランシス・エドワードの誕生に立ち会い、議会に出生の正当を認めて署名した一人でもあります。1702年に亡くなります。

記述以外にも多くの愛人公式にされているものでも13・14名ともいわれ一度切りや短期間を入れると数えられないといわれています。
チャールズ2世は認知しただけでも14人の庶子があり、愛人及び彼女たちが産んだ庶子たちに大盤振る舞いの叙爵や屋敷をあてがって陽気な王様の渾名を取ったのでした。

この時代男女かまわず恋愛するのは時代だったから?しかしチャールズの愛人のうち、ネルだけがチャールズに忠実だったのは・・・・・・・やはり異常・・・・・・・・・ルイ14世のヴェルサイユなら間違いなく処刑でしょうから!

さてこの陽気な王様の妻はやはり陽気な王妃様だったのでしょうか?
いえいえ当然ないです。
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キャサリン・オブ・ブラザンガ


キャサリンオブブラガンザは敬虔なカトリック教徒でイギリス国教での王妃戴冠式もボイコットするほどでした。
しかも残念な事に資産家の王女様でしたが、正直あまり美人ではありませんでした。
美人好きのチャールズにはものたりないものの王妃として丁重に扱いそのかわりに私生活では大いに女遊びにあけくれます。
王妃の生活はイギリス国民には不人気で、宮廷内でも愛妾の争いごとに巻き込まれ、陰鬱な生活でもありました。
しかしチャールズが優しく王妃として接っしていたのと、妊娠するも流産を繰り返し、嫡出子を産めない後ろめたさから離婚は思いとどまったのでした。

そんな彼女が婚姻でイギリスに持ちこんだのが紅茶を飲む習慣でした。
当時大貿易先進国として繁栄していたポルトガルから持参金の一部に紅茶がありました。当時紅茶は高価で貴族でもなかなか手に入らない貴重な飲み物でした。
彼女が生活していたサマーセット・ハウスでは、訪問者にこの紅茶が毎日ふるまわれ、人気を呼んだといいます。
チャールズ2世が崩御すると故郷ポルトガルに戻り、国政に関与することなく1705年死去しました。


チャールズ2世は美人好きですね。
美人評論家舞的には(かなり独断)フランセ・スチュアート、オルスタン・マンチーニ・ネルグレイの順かな。

(6)19世紀初頭懐古主義様式
フランスナポレオン第一次帝政期皇后・貴族・中産階級の衣装

フランス皇后ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ 
ブルジョワジー階層ジュリエト・レカミエ 
フランス貴族テレーズ・カバリュス


フランス革命の後、それまでのロココ朝の衣装はあまりに貴族的で古い時代の象徴でした。革命を経て人々は古き時代に思いをはせ全体的に懐古主義がもてはやされます。
すると衣装にも大きな変化があらわれ、ギリシャ風のシミーズをそのままドレスに仕立て着用する事が流行ります。
コルセットもパニエも装着せず肌のままに薄いシミーズを四季に関係なく着たので風邪をこじらせ肺炎や結核で亡くなる女性が多くいたといいます。
しかもその病的な様子が女性的ではかなげだともてはやされおしゃれも命がけだったです。さすがに冬はこの上にカシミヤのストールを羽織るのが流行したそうです。
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フランス皇后ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ 
マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ
フランス領西インド諸島マルティニーク島生まれの貴族の娘に生まれ、1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚2子を産むも二人は離婚しかしフランス革命で処刑された夫の経歴から、ジョセフィーヌも監獄に収監されてしまいます。
さてこの監修で知り合ったのがテレーズ・カバリュス
当時の革命強硬派が政権から脱落し、友人の協力もあり解放された後は革命家の愛人となり、パリ社交界の花となってバラスの愛人となり、その後ナポレオンの求婚に応じます。初めの頃ナポレオンはジョセフィーヌにぞっこん、押して押して押しまくりつしに結婚します。しかしジョセフィーヌは見た目の悪いナポレオンよりも若い青年に夢中で多くの愛人をとっかえひっかえしていました。
ところがナポレオンの部下と深い仲になり、それを知ったナポレオンがジョセフィーヌに送った手紙がなんとイギリスに渡り内容がイギリスの新聞に載ってしまします。さすがのナポレオンも恥を海外に知られ本気にジョセフィーヌとの離婚を考えます。
ここにオルスタンス、ウジェーヌが泣いて取り持ちなんとか離婚はされることができました。
ここで二人の関係は逆転します。
ナポレオンが女性たちに手を出し始めたのです。
1804年12月ジョセフィーヌは皇后に上りますが、すでに彼女の終焉は近ずいていました。もう中年で子供にとても恵まれそうにないジョセフィーヌ、一方ポーランド人の女性との間に1男をもうけて1804年12月に子供のほしいナポレオンはついにジョセフィーヌと離婚を宣言します。
皇后の名はうばわない、十分な年金を保障する、マルメゾン城を与える。1815年5月29日死去します。
最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だった。
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テレーズ・カバリュス
1773年、マドリード近郊で銀行家・カバリュスの娘に生まれます。16歳の時に金持ちの貴族ド・フォントネ侯爵と進んで結婚しますが、新郎は老人で新婦は自由主義にかぶれ、ラメット兄弟やラファイエットとも交流を深めすっかり革命家気取りでパリで過ごした。
ボルドーで革命家タリアンに出会い愛人となり、友人たちの逮捕状リストから除外していくとこれがロベスピエールにばれパリで監獄に投降されます。ここでジョセフィーヌと知り合います。
監獄に逮捕された恋人にタリアンは、ポール・バラスに誘われていたクーデターの敢行を決意し、7月27日タリアンは国民公会に向かった。テルミドールのクーデターは成功し、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。人々はテレーズを「テルミドールの聖母」と呼び、もてはやしました。
テレーズとタリアンはすぐに結婚して娘をもうける。
しかしこの結婚もうまくいかずバラスにウヴラール、1805年、カラマン伯爵と再婚して領地で静かに過ごします。

ジョセフィーヌとテレーズはまさに当時のファッションリーダーでした。
ギリシャ・ローマ風に流れるような布の線を十分に活かして胸高に帯を結ぶ衣装が流行していた。その布もシースルーの薄布で、乳首が透けて見えないといけないと思われていた。それにつば広の帽子をかぶり長いショールを引っかけた。このスタイルの女性を「メルヴェイユーズ」(伊達女)と呼び、タリアン夫人はそのリーダーだった。
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ブルジョワジー階層ジュリエト・レカミエ夫人

リヨンで生まれ、1793年に30歳以上年上の銀行家ジャック・レカミエと結婚。当時、ジャックは事実上ジュリエットの実の父で、彼女を自分の正統な相続人とするために結婚したのではないかといわれていました。

テレーズ・カバリュスと友人であり、後にナポレオンの妻になるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとも一時、友人関係でした。
やはり当時の革命家の出入りするサロンを開催し、なんとナポレオンに愛人要請があったそうで、これは夫人が拒否したのでならなかった。
最終的に関係が悪化して夫人はパリにいられなくなり、各地を点々とします。最後は1819年にパリのオー・ボワ修道院へ引きこもったが時折文化人とも交流をもっていたといいます。

19世紀初めブルジョア階級と王政復古がなされたパリで流行したのがロマンティックスタイルと呼ばれるドレスです。
フランス革命後一時懐古主義でギリシャ風がもてはやされた後、再びブルボン家が王政復古すると再び以前の様な裾の広がった装飾を施したドレスが流行します。
そのスタイルを維持したまま19世紀中頃からクリノリンと呼ばれる大きなパニエを下につけスカートを大きく見せるスタイルが主流となります。
生地もファファとした柔らかな科学繊維が好まれ、産業革命のおかげでミシンや大量生産も可能になっていったのです。
当時のファッションリーダーはフランス皇后ユージェニーでした。ユージェニーの衣装についてはいずれ紹介します。
エリザベートのこの衣装はそのクリノリンをハンガリーの民族衣装をベースにオーダーされました。
スカートにつけた前掛け、胸元の真珠と肩の膨らみとレースの袖、胸元のレースがその特徴を色濃く見えます。


計画中

(5) ロマンティック時代  ルイーズ・マリー・ドルレアンベルギー王妃
(6) 同    クリノリン  マリア・エウヘニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック
                 ナポレオン3世妃 フランス皇后 ウジェニー・ド・モンティジョ
(7) ロマネスク時代    レオノーラ・ダキテーヌ フランス・イングランド王妃 新型ブリオースタイル


コンセプトをしっかりしないと!

①なんでもではなく、肖像画で描かれた当時のヨーロッパの時代別衣装を中心にする。
ステージタカラズカや岩崎博物館、軽井沢写真館、浅草時代や、ジュエリーミュージアム、函館公会堂、グラバー邸など博物館や美術館での体験と違いを明確にさせてマニア受けを狙う!!!
体験施設でありがちなドレスはあえてさけて、時代考証に沿ったドレス、実在の人物や肖像画を可能な限りコピーしてみる。

あなたも肖像画の人物になってみませんか?
みたいな~~~

スタイルは同じでもその時代に生きていた人物と同じ服装を身につけてなりきるというのはなかなか体験出来ないだろうし、そういえば他にないかな?
タカラズカ歌劇場でのステージスタジオがあるにはあるけど自前のカメラで長時間撮影出来ないし・・・・・・
これって大事かな?とも思う。

②美術館や博物館で体験出来る衣装ははずす

結局そこにいけば出来るでは遠方に足を運んでくれる意味がないしここでしかないを「重点的にする。
特に多いバッスルスタイルどこでもあるのでさける。ロココも多いけどやはり気になった物しかオーダーしない。
かぶってもたとえば当時の人物になりきれるとなれば印象違うかも・・・・・・・そういう衣装はGETします。

③体験場所は自宅無理なので比較的リーズナブルな公的な施設
かリーズナブルなスタジオにする。


文化会館の併設の和室、市内のスタジオを同時に紹介する。
交通機関は出来るだけ丁寧にWebで紹介しないとなんせ地域柄その為にくるわけだから。

④打ち合わせにお菓子やお茶を提供して会話を楽しむ
一期一会ですから、自前のコレクションの陶磁器でセレクトしたお菓子でおもてなしをする。

⑤レンタル衣装業として
結婚式や二次会衣装、コスプレ系でもいいけれどWEB店舗として営業する。


経営的にPL・BSは必要なので、レンタル業としても同時に集客する。

⑥撮影は主催者が行う。ただしカメラマン(男女可能)を同行可

⑦少しだけど小物や三脚も貸し出す。もちろん持ち込み歓迎

小物は製作中だけど自分の不器用さが前面に出てしまっている・・・・・・・・・・。衣装のリメイクも同様・・・・・・・でも情熱は

⑧撮影時は同伴、同席なしの自由撮影も可能。


⑨体験者は女性のみ女性と同伴場合だけ男性は自前の服で参加は可


あと出来れば舞装束 東遊・久米舞なんかにも手を出したいなあ~~~なんとなく今後の目標が出来たかなぁ~~~~


とりあえずHPを制作中です。



出来れば・・・・・一度プレオープン出来ればななんて思っています。

最初は至らないとは思います。みなさんの御協力で良い主催にしたいです。
詳しく決定次第お知らせしますね。

宜しければご意見やご感想など温かいコメント寄せていただければ今後の参考にしたいと存じます。

あくまでも希望的目標です!
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