2015-08-13

「戦後70年・日韓国交正常化50周年」を草子する。

文字色ここ数年来の中国・韓国の異常な「NO JPAPAN」の嵐にそろそろ世界もうんざりモード

今年は第二次世界大戦終結からちょうど70年そして日韓国交正常化して50年本来ならば交流を盛んに行い、両国の先の大戦で戦死した国民をともに慰霊しなければならない年でした。

韓国悪癖再び


「民衆主義と李明晩前大統領の退任後の不逮捕対策として竹島訪問したり、天皇からの朝鮮植民地化に対しての謝罪要求してみたり、後任のお堅いハイハイミス朴 槿惠大統領は技娼を軍の強制軍慰安婦にした。」と旧守派だのみの日本たたきはあいかわらず。・・・・・7月の世界文化遺産登録に「明治産業革命の遺産」を妨害してみたり・・・・・だだっ子なただで幼園児国家です。

というわけで久しぶりに歴史草子することにしました。

まず進めるにあたり、下記を念頭にすることにします。

李朝朝鮮末期・および大韓帝国の成立から抹消まで社会構造・政治・経済を簡潔に記述 

日本人、韓国人、ならびに現在のまた当時の欧米人の著書を参考資料にする。

儒教思想が李朝朝鮮・大韓帝国を破壊したという根本で記述する。




第一章 李朝朝鮮末期の政治


世界にもしという言葉があれば
李朝朝鮮王国で「正祖」がもっと祖父英祖のように長生きだったなら現在かなり違う「まともな国」になっていたのではと思うと所が多いのでまことに残念でならない。

彼は父である荘献世子を老論派(李朝朝鮮時代の政治派閥の一つ・元は15世紀後半成宗時代に重用された地方両班士林派の一派・後の僻派・外祖父豊山洪氏も所属していた派閥)の陰謀で祖父英祖の命により餓死させられた不幸な王子でした。
しかし祖父はそれを悔いて孫正祖を「王世孫」とします。
即位後は政治統治能力にたけ、人材を活用しながら僻派をけん制し時派(老論派から分離したいわば温厚派)を重職につけました。
政治経済文化国と大きく向上させようとした李朝朝鮮国後期の誉れ高い王です。

しかしその大事業のストレスからか短命で49歳という若さで崩御し、不幸なことに長男である息子も先に死去していたため幼君であった二男純祖が国王即位しました。
英祖の王妃貞純王后金氏が垂簾聴政治を行い時派は政界から除外されてしまい正祖の改革はすべて頓挫台無しになってしまいます。
息子純祖は朱子学(李朝朝鮮開祖李成桂が建国の際に国学と定めた儒教の一派)に傾倒しており、そのため貞純王后金氏のいいなりで(儒学では血族の長老の言うことは絶対)太王太后安東金氏は実家の一門を重用させて僻派が体制を占めてしまいます。

純祖の時代1816年アマースト使節団に同行したベイジル・ホールが書いた「朝鮮琉球航海記」から当時の朝鮮の様子が見て取れます。

ベイジルが初めて朝鮮の地を踏んで、朝鮮人の印象
「肌の色は濃い赤銅色であり、顔つきは気むずかしげでいくぶん野蛮な感じがする。」

当時の村の様子
「これらの小屋と小屋の間の空き地はゴミの山とと濁った水溜りで占められている。」

「これらの人々は落ち着きと無関心がないまぜになった尊大な態度の持ち主である。好奇心を欠いている点でも、われわれに強い印象を与えた。」

この身体や肩までたらした髪はじつに野蛮であるとしかいいようがない。」

「懲らしめの為に竹の鞭で打つように命じたのである・・・・・受刑者が悲鳴をあげるたびに一種の歌、あるいは歓声というべき声をあげてそれに合わせた。」

後年純祖は後悔し、世子妃に豊壌趙氏(趙万永の娘)を迎え対抗勢力を作ろうとするも早死にし、またも幼君憲宗が即位してしまいます。

この王も無力のまま早死にします。
すると安東金氏一派は王族の末でほとんど農民とかわらない生活をして読み書きも出来ない若者を宮中に入れ、協議させないまま強引に即位させます。
哲宗の誕生です。
純宗の王妃純元王后が垂簾聴政を行います。
しかしその形式をとるも儒教上女性は政治に参加しないので実質は安東金氏が勢道政治を行なっていました。
無気力になった哲宗はしだいに酒におぼれるようになり体調を崩し33歳の若さで世子を残さず崩御します。

勢道政治実に59年間半世紀以上・・・・・・・しかもまだ続きます。

さてまたもや王様の座が空白となると今度は神貞王后趙氏(純宗の世子妃)と両班の間でも評判の悪かった李昰応(李王族・仁祖八世孫)が巧みに政治の中枢にいた安東金氏らを利用して11歳になる昰応の息子命福を王位に就けます。

1863年李朝朝鮮最後の王高宗の誕生です。

即位するやいなや一旦は大院君は政治に関与しないと断言しながら、即座に表向きは神貞王后が垂簾聴政を行うものの実質の政治は興宣大院君と呼ばれた李昰応が握ります。
ここに貧困した国民を無視した壮絶な政界バトルが始まるのです。

さてここでは多くを記述しませんが憲宗の時代1830年代後半は朝鮮の身分秩序と封建制度の崩壊、水害と伝染病が多発、西洋列強諸国が当時鎖国していた朝鮮半島を脅かし始めた時代の幕開けでした。

だいたい日本の幕末の混乱期のような状態で武力で開国をせまり屈服していくプロセスに重ねていただいていいでしょう。

第一項 大院君の政策

勢道政治の終焉
摂政となった大院君が行った政策
勢道気の宮廷要職の解任、宮廷追放、横領・賄賂の厳罰化
各党派の均一人材登用
儒教政策

1864年1月大院君は軍事権と行政権の分断 権限分権
1864年8月書院保有土地に関税
       その後書院(有名書院は少数存続)の解体
1865年 景福宮の再建
漢城の正宮・文碌の役で民衆によって放火され270年間再建されていなかった景福宮の再建に重い税、通行料、寄付金を強制徴収します。
さらに貨幣を鋳造して建設費を調達してもたりず、両班にまで税金を取り立てる。

大院君の独裁執政が軍事権、行政権、人事権を王命によって施行、両班、儒生、儒教者の反感をかってゆきます。

興宣大院君の政治で徹底的に行ったのは鎖国主義
1866年3月 丙寅教獄 キリスト教徒とその伝道師を処刑
         朝仏戦争 上記の事件によるフランスの報復攻撃事件
     8月 ジェネラル・シャーマン号事件  朝鮮に不法侵入民間人の虐殺強奪
                            朝鮮側の報復によって焼き討ちされた事件事件

1873年ノースチャイナヘラルドより「かつて朝鮮の征服は容易だったが、侵入者から救った事で、今やどんなに犠牲を払ってもヨーロッパ人は入れないという気分がみなぎっている。」


この世になにも叶わないものなどないとおおかしていた大院君に思わず敵が牙をむきます。
その人物こそ1866年高宗王妃として大院君の推薦をうけて入宮していた大院君の正妻「驪興府大夫人閔氏」同族の娘閔氏です。
大院君は長い安東金氏の勢道政治を再び再現しないよう神貞王后が推す豊壌趙氏の娘をしりぞけ、閔妃を選定しました。
自分の嫁の一族であり、しかも彼女には両親が故人となり兄弟も姉妹もいない孤児です。
家柄が良くかつ近い血縁者がいないうってつけの人物でした。

入宮当時閔妃に高宗は酒や若い尚宮達に溺れあまり関心をしめしていませんでした。
彼女は「王の愛人の子の誕生」という衝撃的な出来事に自らを押し殺し王へ祝いを述べなくてはいけません。
女たるもの嫉妬してはいけない。嫉妬したというだけで廃妃されるのです。

自尊心を傷つけられていましたが、女性として成長すると聡明さと実行力でしだいに王を魅了し始めます。
おそらく青年にたっした高宗の自立心に火をつけたのでしょう。

閔妃は待望の長男を出産するも数日で死去すると妊娠中に大院君から贈られた朝鮮人参を食べたために長男が奇形で生まれ殺された。
と信じ恨みを募らせます。




第二項 閔妃の政治介入

閔妃は交流のあった驪興閔氏一族、神貞王后、崔 益鉉(反大院君派の重鎮)開国路線の開化派の官僚と図り
1873年11月3日大院君の政治批判の上疏を崔益鉉が提出

大院君の隠居と側近の追放・流配・処刑等で廃絶に成功

高宗の親政宣言で再び勢道政治の始まりです。
1874年2月 清銭流通禁止
一定の流通貨幣「清銭」を廃止したことで全土で経済が混乱し、デフレーションと常平銭の偽造が多発。
同3月農村と漢城府の仲買商人の活動を禁止
経済をさらに冷え込ませる。
1875年6月近衛部隊新設


閔妃は高宗に頼みこみ閔氏重職をしめ一族末まで多数の高官の職に就きます。

この時閔妃が協力を要請したのが大日本帝国(今の日本)でした。

守旧派×閔妃派+開化派⇔日本
この時の開化派は金弘集・魚允中・金允植が中心で「李朝朝鮮を開国して近代化を図る」目的とした高級官僚の派閥です。

この新しい政権はあくまで閔妃が大院君を下野しようという目的で結束したものであり当然政権につくと開化派X反大院君守旧派勢力(衛正斥邪派)の対立は激しくなります。
高宗と閔氏一族は、守旧派を弾圧し激しく政局混乱します。

閔妃と閔一族に多くの賄賂・不正・略奪がおおこうします。
閔妃介入の開国派は当時の世界情況にあまりにうとく、国内も儒生をはじめとする「旧守派衛正斥邪派達」を黙らせる力もなく、しかも開化派内で統一した政治体制の確立もないまま推し進めたので激しい反発を招きます。

閔氏は守旧派を取り込むために書院を復設、大院君の人材育成中止閔氏の重用を推し進める。
しかし多くの儒生に上奏され政治混乱がおき開国のための各国条約は結べない状態が続きます。

1873年冬閔妃の住まい中宮殿が爆破されます。

1874年閔妃第二王子「坧」後の純宗出産

その子は病弱で閔氏は国庫の6倍以上にあたる金額の国費を惜しまず呪術に浪費し、両班たちはこぞって賄賂を送る始末でした。
当然批判の矛先は国母である閔妃に向い大院君派両班はもちろん庶民も大院君の存在を待望してゆいきます。
後に外国人医師の診断によると純宗には軽い知的障害があったという記録があります。

1874年春景福宮火災、大院君の仕業と噂が流れました。
同年11月閔氏一族の最高実力者である義兄・閔升鎬宅に爆破彼と母子爆死

さらに報復とばかりに
翌年11月大院君の兄興寅君邸襲撃事件発生

1875年3月 閔妃実子坧王世子撮礼

大院君が庶子孫を擁立しようとした動きに閔妃が先手を打っためといわれています。
李朝朝鮮は清の属国であり国王、王妃、世子の指名には清の承認が必然だったのです。

         蔚山民乱勃発

1875年9月        江華島事件勃発
江華島付近で起こった日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件

同事件の後処理に全権大使黒田 清隆と朝鮮政府交渉開始

1876年3月申報より「最近上海で入手した情報によれば、高麗に赴いた日本公使は既に帰国したが、両国の関係は恐らく正常化される。朝鮮は三港を通商港として開港する。」

1876年2月日朝修好条規を締結
ようやく日本の実力行使で条約を結び朝鮮は開国の一歩を歩みます。

第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める

これで日本は朝鮮が中国の属国ではないという前提を設ける事に成功する。
事大・開化派は清派の大院君の牽制が行える。

第二款 日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること
朝鮮国内に駐在公使を置くことで在朝日本人を保護および政治的行動が行える。

第四款・第五款 すでに日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港

第七款 地図を編纂両国客船の安全な航海を可能とする。
これで簡単に往来でき経済軍事的に優位に立てます。

第九款 通商は各々人民に任せ、自由貿易を行う。
     両国の官吏は少しもこれに関係してはならない。
     貿易の制限を行ったり、禁止してはならない。
     しかし詐欺や貸借の不払いがあれば両国の官吏はこれを取り締まり追徴すべし。

第十款 日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。
      また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。
      しかし双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をすることなく努めて公平に裁判することを示すべし。

付録第五款 開港地において日本人は朝鮮人に賃金を支払うことにより雇用することができる。
        朝鮮政府の許可あれば、来日することも問題なしとする

付属第七款 開港場において日本人は自国の貨幣を使用することができ、朝鮮人は売買によって入手した貨幣を日本製品購入の        ために使用することができる。
        また日本人は朝鮮銅貨を運輸することができる。貨幣偽造があれば、その国の法に照らし罰する。

付録第十款 朝鮮は海外諸国との国交がないが、今後朝鮮に国交のない諸国の船が遭難し、漂着する人がいれば、日本の管理         官がいる開港地まで送り届け、そこから遭難者の本国に送還することとする。

第6則     開港地での米や雑穀の輸出入を認める
        これで主食である穀物の確保が出来る。
        しかし朝鮮での穀物価格の上昇によるインフレが予測できます。それは現実に起こりました。

第9則     指定された開港場以外において密貿易を行い、その地の官僚に摘発された時は、
         日本の管理官に引き渡し、日本側は没収した金品を全て朝鮮側に交付すべし。

以上が概ねの条約の内容です。
これは完全なる不平等条約、特に全文ほぼ日本が開国時に結んだもののコピー盤といわれています。

朝鮮は以降他の欧米列強ともどうようの条約を結びます。


     5月第一次朝鮮修信使を日本に派遣「東京を訪れ明治産業革命の施設」を見学
     7月第二次朝鮮修信使を日本に派遣
     11月 大院君の兄・李最応邸放火事件

1880年高宗の庶子完和君変死
閔妃の暗殺といわれています。

閔妃と、開国派の改革は同時に朝鮮国内の儒学者、旧守派両班、鎖国主義で旧体制を望み貿易により国内のインフレ物不足による民衆の不満がくすぶり始めます。
これに舅である大院君はだまっていません。
京畿道楊州の山荘で政界への返り咲きを画策し孫の永宣君の擁立を考え始めます。

大守旧派であった大院君とその一派に対して閔氏は改革政策をとり始めており、閔妃の開国政策に不満の声が挙り始めていました。
すると儒学者、老論派共に大院君の鎖国政策を待ち望む雰囲気となり政治の混乱期に入ります。


李朝朝鮮内部で激しい権力闘争が交錯するなか日本の山縣有朋が1888年1月に山県は主権線と利益線という観念を提起している。日本はロシアと清国との危機を管理するためには朝鮮半島に注目する必要があることを論じました。
その「主権線」は国家を規定する国境を意味し、「利益線」はこの国境から離れた地域においても国家の利益と関係する境界線をいうという山縣独自の論理を「山縣有朋意見書」で述べています。
1901年4月山県はイギリスやドイツとの同盟により南下政策を阻止する強制外交を論じています。陸軍で頭角を現し「大日本帝国陸軍の父」と呼ばれた彼は陸軍ないで自身の軍閥「山縣軍閥」を構成していたいわば軍のトップでした。
その彼が独自の朝鮮論を展開し事実その通りに展開しててゆきました。

山縣有朋:1838年長州生まれ藩士吉田松陰の松下村塾出身「日本軍閥の祖」「元老中の元老」「国軍の父」ともいわれる。
       軍人としてはやくから活躍し、明治政府初期から陸軍軍閥を組織してその長として重用される。1889年、1898年に     二度内閣総理大臣に就任し栄華を極めたが宮中某重大事件でその政治的権威が失墜して後は元老院の重鎮となります。


1881年安驥永の乱勃発
安驥泳は林鼎鎬と共に李載先を王に推戴しようとクーデターを起こそうとした事件。
李載先は高宗の妾腹の兄で事件後逮捕され賜薬の刑で処刑されました。
賜薬の刑は主に高貴な人物の処刑方法で「毒薬を自ら飲み干す刑罰」ただし即死しないので罪人は長い間苦しみながら息絶えました。

1881年外交交渉の為日本へ派遣
      5月紳士遊覧団日本へ派遣
     10月第三次朝鮮修信使を日本に派遣

1882年3月王命により金玉均日本視察
これまでに日本への渡航で「開化派」と呼ばれる多くの若者が大志を抱き国してゆきます。


しかしその開化派の派閥は覇権争いと宗主国清の強力な内相干渉で開化派の分裂が始まります。
独立党→金玉均・朴泳孝・除光範
本流→金弘集・魚允中・金允植


      
第三項 大院君の復帰

1882年7月23日守旧派軍隊の兵士による壬午事変勃発
西洋式軍隊を日本の支援により設立した別技隊はそれより以前に組織された守旧派軍隊よりも処遇面で優遇された事で
旧朝鮮軍の守備隊が王宮を襲撃した事件。

守旧派の不満が一気に爆発、ここに守旧派の両班が大院君を御旗に兵士が昌徳宮へなだれ込み閔妃暗殺未遂殺害発生
閔妃は王宮を脱出して地方実家の驪州へ隠遁して身を隠します。

この時一部の暴徒化した民衆と兵士が在朝日本人、別技軍の日本人教官将校、日本公使館と襲撃します。
この事件は日本の軍隊を朝鮮に配備できるかっこうの口実とされました。
不平等条約を最初に締結した日本に対してはそりゃ印象悪いですよね。

この時天津にいた魚允中・金允植が清国の大臣李鴻章代理を通じ、清軍朝鮮へ入港
日本に対して今回の事件を協議して外交交渉で解決する旨の助言を受ける。
まだ戦争の準備が出来ていない日本は調停を受け入れる。



大院君は宮中に出廷、閔妃の死去(嘘)を公にし、高宗からは壬午軍乱の事態収拾の為に大権を委任されます。
そして別技軍を解体五軍営・三軍府を復設します。

一見大院君の復権ははたされたものの閔妃は復権をかけて清の袁 世凱の支援を受けることに成功し9月清国軍とともに入宮漢城に入城しします。
馬建忠は大院君を接待して軍事問題を会談を実現して強制的に清への亡命を余儀なくされます。
この事件で外務卿井上馨の指示の元した花房義質が弁理公使として交渉
1882年8月済物浦条約締結

前文 日本暦7月23日、朝鮮暦6月9日の変は、朝鮮の賊徒が日本公使館を襲撃し、職員の多くが被害を受け、朝鮮国が招聘していた軍事教官も惨殺された。日本国は和好を重んじる為に協議し、下記の6款及び別訂続約2款を実行することを約すことで、両国の関係修復と成すことを表明する。是において両国全権大臣は記名捺印して、両国の信頼が確かなものであることを確認する。

第一款 今より20日以内に、朝鮮国は賊徒を捕縛し首謀者を厳しく究明し、重い懲罰を与えること。日本国は人員を派遣して、処罰の場に立ち会うこと。もしも期日内に捕らえることが出来なければ、日本国がこれを処弁する。

第二款 日本官吏で軍乱に巻き込まれ死亡したものは、礼を尽くして埋葬し、厚く弔うこと。

第三款 朝鮮国は日本官吏の死者の遺族と事件の負傷者に5万円を給与すること。

第四款 賊徒の暴虐によって日本が被った損害と公使を護衛する陸海軍の派遣費用の内、50万円は朝鮮国が補填すること。毎年10万円を支払い、5年をかけて完済とする。

第五款 日本公使館は兵員若干名を置いて警護すること。兵営を設置・修繕するのは朝鮮国の役目とする。もしも朝鮮国の軍や民衆が法律を守り1年が経って、日本公使が警備を必要ないと判断した場合、撤兵しても差し支えない

第六款 朝鮮国は高官を派遣し、国書をもって日本国に謝罪すること。

この条約で日本軍を朝鮮国内に駐留出来るようになり、結果的に後の日清戦争へ向かう。

1882年8月大院君清天津へ強制連行監禁

1882年壬午事件の謝罪のため朝鮮修信使日本へ派遣

この時からさらに李朝朝鮮による清の宗主国としての政治介入が強くなり、閔妃派・開化主流は親清派へと動きます。
開化派は清と日本のどちらに近代化を継承するか分裂は決定的になりました。
日本は清の政治介入で日朝修好条約がすでに紙切れでしかなくなり、朝鮮への政治介入で独立党を支援していく方向性では干渉が難しいと判断し朝鮮への内政干渉は一旦見送られざるをえなくなります。




第四項朝鮮国内混乱閔氏×開化派分裂×大院君派


親清派に大きく舵をきる調停に開化派から独立した過激改革派「開化派・独立党」が反発します。
いわば穏健派が主流はならこちらは強硬改革推進派です。

彼らは内政干渉が難しくなり躊躇する日本政府要人に痺れを切らせ表向き高宗の意を得てクーデターを企てます。
当時日本は清との朝鮮半島覇権争いがいきずまっていたために、国として方針が出せず結果、金玉均は日本の後押しを受けられない無謀なクーデターでした。(日本の内地は強く後押しはしないが成功すれラッキーって感じでしょうか)

1884年12月4日甲甲政変
開化独立派の金 玉均、朴 泳孝、徐 載弼らが日本の支援をうけ閔泳翊ら閔氏一族を殺害、新政府樹立を宣言
閔妃の清国への身柄保護を目的に政府軍と駐留清軍により駆逐され失敗、清軍と王宮を守る日本軍銃撃戦、日本公使が日本公使館に放火長崎へ敗走するも逃げ延びそれた在朝日本人に被害が出る。
開化派の両班は一族の多くを流刑・奴婢・処刑の刑に処せられた。
沈舜沢左議政、金弘集右議政をすえて事態収拾をはかる。

1885年日清の間で天津条約締結

1. 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
2. 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
3. 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知行文知照を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。


この後金 玉均は日本に亡命、後に上海で閔妃の放った暗殺者の手で殺害され、朝鮮へ運ばれ五体を切り刻まれ河に投げ捨てられます。
妻子は奴婢に降格しその後日本が保護しました。
彼の墓は横浜の外国人墓地に建てられています。


1885年8月大院君朝鮮へ帰国できたのは2年後再び朝鮮王に完興君の擁立を袁 世凱に打診するも断られます。


1885年朝露秘密協定清の袁 世凱に漏れ撤回させる。

1888年朝鮮、ロシア陸路通商条約締結

清は高宗閔妃派がロシアへ大きく傾倒していく政策に危機感を持ち対抗馬として大院君を帰国させます。

1889年第一次山縣内閣誕生(~1891年)

帰国した大院君は表向きは邸宅に蟄居していましたが、静かにしているはずはありません。
1890年東学党の幹部が邸宅を訪問するとこれを迎え学農民軍と通じます。

1892年春、雲峴宮・完興君・永宣君の居住爆破未遂事件発覚

1894年大院君は東学党と手を結び甲午農民戦争勃発

1894年6月22日大院君側近二人を閔妃の廃位及び閔妃派の官職追放の要求を大鳥圭介日本公使に提示するも失敗

フランクフルターツァイトゥング紙「朝鮮は端的で極東の病人だ。国王はいささかの権力も持たず宮廷は全アジアのうちで最も不道徳で腐敗している。陸軍はまったく価値がなく海軍は金がないため存在しない。朝鮮の存在はその地理的位置のみある。」
        
1894年7月朝鮮半島権力抗争による日清戦争勃発

同年5月勃発した甲午農民戦争(東学党主導の農民による反乱)の鎮圧を目的に高宗閔氏が清に援軍した事で天津条約に従いと日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵漢城近郊に布陣して清国軍と対峙した。

イザベラバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮内での日清戦争で平城での様子

「倭人は朝鮮人を殺さない。」という事が次第に知られるようになった・それで人々が帰ってきた。その後占領中、日本軍は立派にふるまった。町や近隣で有効な買った用品の全てに良心的に代金が支払われた。
そこの人々は日本軍を激しく憎んでいたが、平穏で良好な秩序が維持されたのは容認した。
日本人が訓練し、武装させた朝鮮人の連隊訓練隊にひどく苦しめられるだろうと大層心配していた。その訓練隊はすでに略奪を始め、人々を叩いた。そこでその民間での権威は無視され始めた。



執権の地位である大院君は永宣君を別入直待令医官に任命
高宗及び閔妃を監視、閔妃を廃位することを画策


    11月末第二次東学党の乱発起日本軍第二次甲午農民戦争鎮圧


イザベラバード著「朝鮮紀行」より

紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどい臭いだと考えていたのだ。
人々が地べた、主として迷路なような路地で暮らしている・・・・・・・・・・・家が出す個体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶ、その汚れた臭い縁によっていっそう狭められている。・・・・・・・・・そのどぶはつちぼこりの半裸の子供達や疥癬持ちでかすみ目の毛の抜けた犬の犬は汚物の中で転がりまわるひなたでまばたきしている。


ソウルの「風光」の一つは小川というか下水というか水路である。
・・・・・・・川床に堆積した排泄物やごみのあいだを、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れている。


ソウルには古い時代の廃墟もなく、図書館もなく、文字もない。

ソウルは中国または日本の最も惨めな都市にさえ見える。


当時のソウルの情景です。

当時を旅行したイギリス人イザベラバード著朝鮮紀行より

「朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。」





第五項 大院君再再復帰


日本側は大院君を摂政として日本軍の護衛で宮中に出廷し再度執権を掌握する。

1894年7月大院君日本に押し立てられ再び権力の座に就く一定の範囲内権限行使容認させる。
     それ以外は日本が裁決するという親日政権でした。



大院君が押し進めた政策と日本側の望む改革とは違い1ヶ月で摂政の座を下ろされます。
ただ大権は保持大院君は高宗を廃位し永宣君(妾腹の高宗の兄の子供・大院君の孫)を王位に推戴しようと策定します。

大院君東学党と密約
数十万の農民軍を上京させ永宣君擁立を提唱させる。

王宮内に浪人を隠匿農民軍を討伐する名目で兵を出動させ内外から宮中にいる日本軍を追放

日本軍が朝鮮軍及び農民軍を鎮圧すれば一大事になるので清国も鎮圧を名目に進軍してくる。
裏交渉を結託して日本軍を追い払う

高宗・閔妃・世子廃位する。
この計画は日清戦争の清敗北を受けて失敗
大院君は日本公使館に呼び出され、引退を勧めら、日本は開化派の政権を樹立させます。

金鶴羽殺害の事件の首謀者に指名された永宣君は死刑を宣告
大院君の弁論で井上馨を説得、永宣君は流刑。
大院君は雲峴宮に幽閉。

イザベラバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮の役人組織は積弊を一艘するには実に日本人が着手した非常に困難な仕事であった。
名誉と正直の伝統は仮にあったにしても数世紀の間忘れ去られていた。役人は清廉の規範なぞ知らない。
日本人が改革に着手した時、朝鮮には略奪者と非略奪者の二つの階級しかなかった。略奪者の中には官僚を構成している莫大な大群が含まれている。搾取と公金横領が最高位の官僚から最低位の官史までの全ての役人どもの慣例となっていた。
ありとあらゆる地位が買収されていた。


1895年4月日清戦争終結・下関条約締結

日本は莫大な賠償金と台湾、遼東半島を領地として手に入れる。

フランスロシアドイツ三国干渉日本に勧告
「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」

ようは欧州はいずれ清を分割保有する気でいましたが、清国内の抵抗に苦慮して実際の領土確保求めないを暗黙の承知を行っていました。
日本といういわば新興国に先手をうたれた衝撃はあまりに大きかった。

「イザベラバード著 朝鮮紀行」より
古い秩序が日本人顧問の圧力の下に毎日のように変わっていた。全体としては一番きっぱりとよい方向へ変わっていた。


日本はまったく誠実に努力した。
経験にかけ、しばしば乱暴、ぶっつきらぼうで不必要に敵視を刺激したけれだ、朝鮮を従属させる意図は持っていないばかりかむしろ朝鮮の保護者、朝鮮独立の保証人の役割を果たそうとしている。

日本が清に勝利したとこで閔妃は後ろ盾を再びロシアへ通じる。





第六項 朝鮮へ日本の内政干渉

日本政府代表井上馨が漢城へ入り朝鮮内の内政干渉が始まります。
王室と政治の分離、政治組織財政の改革、官史登用など大改革というものでした。
高宗は一旦改革遂行を了承、旧守派である大院君は井上に東学農民戦争の協力者である証拠を握られ雲峴宮で引きこもらざるえません。
日本の内政干渉は沈静化していた東学党の再発起を呼び、閔妃は旧守派、開化派からも断罪され窮地に陥ります。

一旦日本の朝鮮国内改革は成功しそうな様相を見せます。
内閣を開化派である朴泳孝の組閣を実現、徐光範、載弼も政界復帰します。

開化本流派・独立党派→親日派

大院君と閔妃は政界から追われています。この時期の閔妃は中宮殿に引きこもり表舞台から退きますがその再起を虎視眈々と狙っていました。

日本の明治維新に近いスタートとなりますが、朝鮮は一筋縄にはいきません。

1894年7月 甲午改革開始
両班(貴族)・平民の階級差別撤廃
奴隷制度廃止
早婚禁止
未亡人再婚許可
贈収賄厳禁
未令状での逮捕禁止
職業差別禁止
無裁判での処罰禁止
道政府違法課税禁止
職務不当取得禁止
拷問の修正
訓練隊の新設等
 
高宗、皇族、閣僚とも令に従ったのですが、両班や庶民にはこの令が日本の意志であるということは明確でかなりの抵抗がありました。

 開化派内でも激しい権力闘争が始まります。
朴泳孝(旧独立派)と金弘集(開化本流派)の政治的対立です。

さらに日清講和成立後日本は三国干渉で遼東還付の受け入れを了承し、朝鮮政府閣内も反朴派重臣が親露派へ流れる事態が起こります。
そうなるとロシアの存在が大きくなり始めると単独での内政干渉は難しくなるので井上は一旦帰国します。

1895年3月タイムズより「これらの改革を実施しようという試みは完全に失敗した。まず第一にこうした全面改造は資金を必要とするが、使える金はない。朝鮮ではすでに貧しい人民からさらに絞りとるしか金の調達の道はないのだが、これはもはや事情が許さない。」

閔妃はその間にロシア公使ウェーベルと密談、これを朴泳孝が知り閔妃の警護を訓練隊に変えようと画策、高宗へ宮廷会議で閔妃への糾弾を議題にあげると高宗の反感をかいます。
朴泳孝は日本へ亡命

金弘集・朴泳孝との連立内閣が樹立

洪範十四条
一、官司の職守を明かにし、地方官吏の情弊を矯正すべし
一、外国交渉の事宜を重んじ、職守其人を撰ぶべし。
一、裁判を公正にすべし。
一、会計出納を厳正にすべし。
一、兵制を改良し、警察の制を設くべし。
一、幣政を改定すべし。
一、交通の便を起すべし。

更に改革案が協議

第一条 中央政府の制度より地方制度に至るまで適宜改革を加へ人材を選抜すべき事、
一、有司百官の職制を申明する事、
一、凡そ内治外交の機務は之を議政府に統括し、掌理は故の如くにして、六曹判書は責を分ち職に当り、世道を革め権限は旧例に依る、
一、宮廷の庶務は治国の庶政と劃然区別し、所属の諸官吏は概ね一切の国政に関係す可からず、
一、各外国交渉通商の事は関係重大なるを以て、宜く之を慎み重責の大臣を挙げて之を掌らしむべし、
一、官衙にして政令を行ふに必要なるものは之を存すべく、有名無実の官廳は之を廃すべし、其他各署を合併し務めて煩を去り簡に就くべし、
一、現定せる州府郡縣の治境は其数過多なるが如し、適宜合併して務めて其数を減じ冗費を省略すべし、但治理に妨げ無き様注意を要す、
一、大小の官吏職任を分司して必ず欠く可からざる者のみ之を存し、虚設の冗員は概ね裁汰すべし、
一、歴行格式成例を廃除して、広く人材を挙ぐるの途を開くべし、
一、物を納めて官を授くるは弊生じ易し、之を厳禁すべし、
一、大小の官吏の俸禄は時宜を参酌し、明かに額数を定めて生を営み廉を養ふに足らしむべし、
一、大小の官吏銭物賄賂を索取するの悪習は法章を設けて厳禁すべし、
一、大小の官吏並に地方官私を営むの弊は、法章を設定して厳に矯正すべし、

第二条 財政を整へ富源を開くべき事、
一、国家出入の財賦は審査明確にして制度を明かにすべし、
一、会計出納の政務は厳明正準なるべし、
一、速かに貨幣の制度を改定すべし、
一、各道の田沓は数額を明にし、租賦の率を改定すべし、
一、各種租税の法を改定し、併せて税源を開くべし、
一、支款の甚だ緊要ならざる者は概ね減省し、其進欵の増すべき者は力めて請求すべし、
一、官道通衢を平坦広濶にし、京城開港塲間には鉄道を布設し、各道州府縣鎮には電線を通じて往来を利し消息を便にすべし、
一、各開港塲の税関は一切の事務朝鮮国自ら管理して、他に干預せしむ可からず、

第三条 法律及び裁判の法を整頓すべき事、
一、現定の法律時宜に適せざる者は概ね革罷し、時宜を参酌して別に法章を定むべし、
一、裁判の法を改正して司法の公正を申明すべし、

第四条 速に兵備警察を整理し、国内の変乱を鎮め、併せて国家の安寧を保持すべき事、
一、士官を養成すべし、
一、従来の水陸兵は概ね裁革し、財力の許す限り新式の軍隊を増設すべし、
一、警察の設けは最も緊要なるを以て、京城を初め各邑に衙署を分設し章程を厳定すべし、

第五条 一般の学政を約定すべき事、
一、一般の学政は時宜を参酌して改正し、各地方に小学校を分設し童幼を教養すべし、
一、小学の設け漸次緒に就かば進みて中学大学を設くべし、
一、生徒中の俊秀なる者を選抜して、外国に分遣留学せしむべし、


しかし財政窮乏と閔妃一族旧守派儒生の反発にあい実現することはなかった。


第7項 閔妃復権

1895年7月6日 金弘集、総理大臣更迭、朴ら親日派解任、親米派露派による新内閣発足
第3次甲午改革を推進

閔妃は再び政治を手にして閔氏の親露派中心の勢道政治が始まろうとしていました。

大院君隠棲
閔妃は自身の保身のために親露派へと舵を切ります。
しかしこの行動は日本の窮地を更に陥れるもので井上の後1895年9月就任した三浦伍楼を狂気のさたへと誘うものでした。

井上馨が政治家ならこの三浦梧楼は予備役陸軍中佐完全な軍人です。
これを適任として朝鮮へ公使として派遣したのはあまりに無謀ではないでしょうか?

三浦は就任前に政府へ意見書を提出しています。
その内容は「朝鮮へ赴任するにあたり今後朝鮮にあたる基本方針を明確にする」様にという内容でした。
この内容に政府は「事重大に付き追って決定する。とりあえず渡韓せよ」というものでした。
これ????ようは事の重大にそって態様せよということで何をやっても黙認か任せる。とも解釈出来ます。

ノースチャイナヘラルドは社説で次の様に載せています。
「新しい日本公使が昨夜当地に肥後丸で到着した・・・・・・・・・井上の縁者であるという事でないとすれば、彼がなぜ朝鮮公使に任命されたのかは謎だ」
確かに謎です。外交官でもなく軍人しかも陸軍内で多くの意見書を提出し左遷も経験のある人物です。

三浦の朝鮮国内でも行動は不明ですが朝鮮王宮に参内せず、公館にこもりきりだったといいます。
しかしそれは何もしていなということではありません。
この三浦の行動に閔妃は「日本は朝鮮に手を出せない。という隙が生まれます。

朝鮮政府宮内府 軍事顧問 岡本柳之助が大院君と公館間の連絡役として着々と確実にその時を待っていました。

10月6日高宗、閔妃は訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議させます。

10月6日 閔妃派、訓練隊の解散と武装解除を通告、これに反応した訓練隊(日本軍人を教官とした朝鮮人部隊)は大院君を奉じ       決起する計画を立てます。
      もちろん陰で一枚かんでいたのは三浦伍楼です。

   8日訓練隊のまだ暗い午前三時日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮      警務使が景福宮に突入します。

当時景福宮の警護費用は国庫の枯渇で少数であり、しかも十分な兵器も揃っていませんでした。
その上閔妃は不眠症で昼夜逆転の生活、深夜から早朝にかけて芸人や技生達をまねき饗宴を催していました。
丁度その時間は乾清宮の王妃の間で饗宴中で外の騒ぎにきずくのがあまりに遅かった。

乱入者が王宮に入った事を知った閔妃は尚宮の衣装に着替えるのが精いっぱいで数人の女官にまぎれて震えていました。
乱入者は王と世子を確認するも危害を加える事はありませんが、口口に「王妃はどこだ!王妃を殺せ!」と刀を振りかざします。

侍衛隊の教官アメリカ人将軍のウィリアム・ダイとロシア人御用技師は事件を直接目撃した外国人の目撃談

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。
彼らは
奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。
そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。
・・・・・・・・複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。
・・・・・・・・私は・・・・・・日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。
二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた… また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。
…私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。 しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった
この時宮内府大臣と女官三人そして王妃が殺害されました。

遺体はすぐさま灯油で焼かれその後宮中へ呼ばれた大院君により事態収拾後閔氏派は処刑、逃亡します。

10日閔妃王妃身分剥奪庶人へ降格
11日世子の上訴で廃庶人閔氏嬪へ昇格
15日 同復儀 22日成服
10月17日 三浦公使、解任・召還
   18日朝鮮国駐箚小村寿太郎弁理公使
10月19日 朝鮮王朝、閔妃殺害で李周会、尹錫禹、朴鉄及び彼らの一族を処刑

11月26日 閔妃平民詔勅が取消 再び王后閔氏
   同日 興宣大院君失脚。趙羲淵、李周會、権濚鎮は免官
12月3日閔妃薨去公表

儒教生、民衆による漢城に閔妃暗殺による排日デモが激しくなる。

この事件は非常に複雑な事件です。
日本人だけの狂気のさたではなく、朝鮮内部に燻ぶる政治対立と軍隊の対立を利用した朝鮮人と日本大使三浦、征韓主義を唱える大陸にいた浪人の日本人が起こした事件でした。
ただ外国メディアは日本による殺害とセンセーショナルに報道されます。
だたこの事件閔妃を殺害した人物がいまだ特定されていません。
朝鮮側では上記の様に刑を特定し、日本側もかかわったといわれる人物を入獄させるも広島地方裁判所で「証拠不十分」として釈放します。
後日入獄者達は自伝書の中で自分こそ閔妃を暗殺したと主張するので特定は不可能です。
この時担がれた大院君は日本の朝鮮側の公約で雲峴宮に幽閉させられてしまいます。

高宗は頼みの閔妃が殺され、大院君に対しても不審をぬぐいきれず日本への信頼も持てず王宮内で不安な日々を過ごしていました。しかし従来好色なところは隠せず閔妃生存の際に退宮させていた厳妃呼び寄せました。
なにせ自分を廃位させたいと思考する父と何度も牽制した日本にいつ何をされるかわからない恐怖を女の肌でいやしたのでしょうか?

殺害された閔妃ですが、現在の韓国では「非常な日本に殺された聖母のような扱い方をされています。」
しかし現実には権力と名誉、金、一族の繁栄、舅への強烈な憎悪、高宗の妾に対する嫉妬でかためられた醜悪な人物でした。
それだけでも十分なのに貧しい国民をよそに呪詛に夢中になり国庫を使いまくり、高宗のが手をつけた尚宮や子をなした女官を殴打し退宮させ、賄賂も水の様に消費、毎夜宴を催し贅沢三昧、挙句の果てに朝鮮の権利をロシアにたたき売りするなど・・・・・・・話になりません。
だからと言って殺害していいとは思いません。
朝鮮閣僚と大院君の後押しがあったからといってものやはり日本人の殺害にかわりはありません。
しかし
閔妃は「偉大で誇り高き朝鮮の王妃ではまったくない」事は事実です。

アメリカジョージ・トランブル・ラッド博士
「頭は良かったが朝鮮の玉座にとって恥となるほど最も残酷な人物であり、何年も国王の父である大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきた。」

崔基鎬加耶大学校客員教授著「日韓併合 / 韓民族を救った「日帝36年」の真実」より

閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、義父で恩人でもあった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕されたり、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結んだりと、智謀家ではあったが、倫理が無く、『背恩忘徳(恩に背く裏切りをする行為)の生涯』だった



閔妃の死後処理を穏便にすませようと画策した金弘集は更に改革を断行します。
1895年から1896年「未乙改革」
太陽歴採用
小学校の設立
郵便網の整備
種痘法の施行
軍制改革

1895年12月 丁髷令
日本でいう「ちょんまげ禁止・斬髪令と同じ」

1896年1月 閔妃殺害と丁髷令令に義兵発起・鎮圧

イザベルバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮人を日本人のように見せ、日本の風習を無理やり取り入れさせるために日本が仕掛けた企てである。と信じられていたからである。・・・・・・・・・それは丁髷騒動が起こった多くの場所で日本人に対する公然たる敵意行為によって証明された。
その結果しばしば日本人殺害が起こっていた。

 

朝鮮は官僚主義に食いつぶされていた。無数にはびこるばかりでなく政府の全ての組織自体が、あらゆる勤勉の活力を撲滅している悪弊、底なし、或いは岸辺のない汚職の海、強奪の機関になっていた。
日本人が朝鮮の行政組織を日本のものに同化させようと期待したのは当然であり、確かに避難される事ではない。



ソウル市細部ではそこの主な特徴になっていたごみの山と汚物が、同時に生じていた臭気とともになくなっていた。


    11月春生門事件発覚
ロシア軍・アメリカ軍水兵、朝鮮親露派の元農商工部大臣李範晋の議政府総理大臣金弘集暗殺未遂事件
景福宮で監禁状態の高宗を側近達とキリスト教徒による救出作戦が未遂に終わります。

2月俄館播遷成功
側近李完用、李範晋グループによる高宗のロシア公館逃亡計画が実施されます。
深夜女物の輿に乗り官女や側室とともにすばやくロシア公館への潜入が成功します。
その後ロシア軍王宮突入。高宗、世子、親露派側近等ロシア公使館へ移動し監禁状態解消出来ました。

高宗勅令
1.閔妃殺害事件の犯人の首を要求←但し日本人ではなく訓練隊軍人動員責任者(閔妃殺害計画の朝鮮側武官)
                          元訓練隊大隊長・元訓練隊第二大隊長・元訓練隊 第一大隊長
                                    
2.新内閣の公示
総理大臣金炳始
内部大臣朴定陽
軍部大臣兼警務使李允用
法部大臣趙秉稷
学部大臣李完用
宮内大臣李載純
外務大臣閔泳柱

金玉均(開化派リーダー甲甲改革指導者)を暗殺した洪 鍾宇が高官へ登用

国王は親日派と見る金弘集を罷免逮捕の王命を出し弘集は捕えられ連行途中群衆に光化門前で集団撲殺され死去
後処理をまかされただけで・・・・・・・・・。これっていわゆる逆恨み・・・・・・・・。
金弘集は日本との条約に関わっていました、閔妃暗殺の後処理を穏便にすまそうとしただけです。


彼は逃亡することも可能であったのに「朝鮮人民に殺されるなら政治家として本望」と逃げなかったので、暴徒と化した群衆に撲殺されて遺体も恥辱されてしまいます。

朝鮮には犯罪者(あくまでも勝者側の利己的な考え方での犯罪者)を処刑してその遺体も6分割して、切り刻み川に捨てるという扱いを受けます。ちょっと日本じゃ考えられたい・・・・・・・・・。江戸時代の罪人にもこんなのないです。
日本では死後は俗世の悪行は帳消しになります。
仏教的には皆「仏」になる。
神道では祟り神になりかねません。
不幸な死に方をした高貴な人物は「祀らないといけません。でないとたたられます。」


さて話しを戻し新内閣の組閣が行われ李範晋、李完用、李允用さ親露米派が主流となります。
日本の公館大使は国王との面談も不可能な状態で朝鮮に対してロシアとの交渉にあたらなくてはならなくなります。
日本の助言から始まった改革はすべて破棄されました。

国内は混沌としてゆきます。
2月仁川に4000余名の暴徒蜂起 官衙官宅を毀壊、各地に起こる暴動
この1年間はロシア・アメリカの朝鮮内の利権を搾取してゆきました。
しかも内閣内も親露派李範晋と親米派李完用・允用が対立してゆきます。
結果李範晋は1869年在アメリカ大使として左遷される。


イザベルバード著「朝鮮紀行」より
9月に十四人の構成員からなる国家評議会が日本の参如によって組織されっていた大臣達の内閣と入れ替わった。
ある程度古来からの方法への復帰となった変化である。
その優勢期に日本人が悪弊を改革しようとした企図の多くは執行するに任されていた。・・・・・・・・・・・・・・・
宮内府大臣や国王のその他の寵臣達が、最も有害な慣例に課せられた最も軽い抑制さえ殆ど受けることなく、最も恥知らず遣い方で道ならびにその他の地位を売る慣例を再び始めた。
君主自身は王室費余るほど十分あるのに公金を彼個人の目的に私物化していた。・・・・・・・・多くの点でその王朝の伝統に逆戻りした。


官職の内密販売の結果起こる国庫途上にある税収の強奪、「高い地位」を授けて貧乏な親類や友人の寄生動物宿主への公金宛てがいを可能にする数日間の官職任命、取るに足らない批判による高官辞職の慣習などで行政機関は、恒久性混乱状態に置かれている。

何度雲迷っている君主は統治法の観念がまったくなく、国王の優柔不断に働きかけるくだらない寵臣の気晴らし、貪欲な寄生虫の餌食に何時もなっている。
さらに外国人山師どもの手先が永続性の原理を時々ぶち壊して立派な政治を全て麻痺させ、無力にしていた。


1896年7月、英国人税関長ブラウンが財政顧問下で「白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行」経済が破たんし         かけていた。

丁度その頃漢城では甲午農民独立戦争を主導した徐 載弼、開化派李完用が中心となり立憲君主国としての朝鮮国を目標とする組織当初三十数名の政治組織集団(中に大韓民国初代大統領李 承晩の名も在籍)が設立します。
当時朝鮮は長い間の属国支配になれ、事大主義から抜けられずにいました。彼らは「真の独立国家」としての歩みをその存亡にかけ「独立新聞」をかわきりに民衆への独立運動を啓蒙していました。

高宗は反露派を朝鮮から追放します。
以降高宗はロシアのいいなりとなり、多くの朝鮮国内での特権、譲歩を繰りかえします。
列強各国へ、鉄道敷設建権、鉱山採掘権、森林伐採権、漁業権を売却し事大主義へ逆戻り
以降一年間をロシア公館で政務をとります。
しかしロシアの「トバノフ・山縣議定書」(朝鮮国内での両駐屯軍の在潮を認め合う・衝突を避けるために緩衝地帯を作る事・電信仮設権を認め合うという内容)の公表で高宗はロシア側の対応にいたく失望します。


ロシア公館に逃げ込んだ高宗は民衆の間で熱烈な歓迎を持って受け入れられた独立協会に利用価値ありと、李完用を通じ「独立協会」との連合を一旦了承し、度重なる交渉の結果

ようやく1年後ロシア公館に近い慶雲宮(後の徳寿宮)へ遷御する。
独立協会の主張を受け「大韓帝国」を建国するにいたります。

断髪令廃止


第8項 高宗旧守派政治「大韓帝国建国」


1897年高宗は国名を「大韓帝国」と改め、大韓帝国皇帝高宗と即位
しかし結局のところ清の中華帝国を継承するものにすぎず、また王朝時とかわらず王政復古と変わらない様相を持っていた。

守旧派・親露米派・皇国協会 高宗×独立協会・開化派

アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレン伝
「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」と韓国の統治能力に疑問を持ちその状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」

1897年徐 載弼国外退去を政府から通達
      3月李完用全羅北道観察死へ左遷
あまりに違う理念の主張がうまくいくはずはありません。いわば蒋介石と毛沢東のアンデンティティーの差です。
「献議6条」独立協会から内閣へ署名強要
一外国人に依存せず官民同心合地からして、専制皇権を強固にする。
二鉱山鉄道石炭森林の利権外国の借款借兵および外国人との約束は各大臣と中枢院議長が署名捺印しなければ施行しない。
三いかなる租税も度支部で管轄し他府郡私会社はこれに干渉せず、予算と決算を明らかすること。
四重大罪人は別に公判を行うが、被告が徹底的に説明し、自服した後に施行する。
五勅任官は皇帝が政府に諮り、過半数の賛同を得た後に任命する。
六中枢院改造による議会設立案を実践すること。

内閣と高宗は一旦は同意したものの、皇帝専制政治権の迫害に感じた高宗は反撃を開始します。

官民共同会に賛同した大臣を罷免



1897年には守旧派と親露派に糾弾され李完用が外務大臣から学部文部大臣へ更迭されました。
高宗のロシアへ利権を売る姿勢を反対したためです。これで議会政治は壊滅してしまいます。

光武改革という近代化政策を行うも財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化ための増税が民衆反乱を招いて改革は失敗する。
1898年6月 ノースチャイナヘラルド紙「国王は外国人から少なくとも常に善意の人と思われていたが、今やその評判を失いかけている。国王に好きなように国政を運営する機会が与えられた時彼が行った事は最悪の殺し屋集団を見つけ、身辺を取り巻くことだった。・・・・・・・・彼らの立脚する主要にして唯一の綱領は啓蒙的、進歩的、愛国的な同胞はすべて地下6フィートの土中に引退させることだ。」  

イザベルバード著「朝鮮紀行」より
昔の悪弊が毎日のように頭をもたげていた。大臣やその他の寵臣が恥知らずにも官職を売った。・・・・・・・王朝最悪の伝統に逆戻りした。・・・・・・・・・・・・人々は理由もなく投獄された。朝鮮にとて損害の大きい国王の性格と統治の特徴を見逃すには誤解を招き不誠実となろう。


     7月高宗譲位問題審議
     9月金鴻陸毒茶事件
賎民出身ロシア通訳官金鴻陸が1898年不正横領の罪で流刑になった復讐に金鍾和を使い前典膳司主事孔昌徳に毒を盛らせた事件。
高宗も独立協会のあまりの人気に自身の権力を脅かす存在としか認識できず、後退と廃絶に大きく望み行動に移します。
皇国協会に独立協会のメンバーを襲わ、協会の幹部の逮捕者、1898年独立協会の解散を命じます。
多くのメンバーが拘束、殺害、国外へ亡命し、皇国協会に襲撃させ弱体化をはかりますが、民意を得ている独立協会を襲撃すればするほど漢城府の治安は悪化して市内で激しい暴動を引き起こす懸念が出始めました。
しかたなく高宗は独立協会の活動を容認中枢院の議員に入れる事も承認されたものの、親米派でアメリカ留学中の徐載弼日本亡命中の朴泳孝の入閣は受け入れがたいものでした。


    10月ノースチャイナヘラルド紙「一週間ほど前内閣が一新しその閣僚がほとんど全員日清戦争以前の官僚である。・・・・・・・・・この国の腐敗は日増しにひどくなっており、役職の売買がかつてなく公然と行われ条約港の全商人の総収入に20%の税を課すとい新しい搾取がおこなわれている事を考えれば・・・・・・・・国王を・・・・・とんでもない道化のように思われる。」

1898年第二次山縣内閣誕生(~1900年)
    
      4月西ローゼン協定
         ロシアは、韓国の商用・経済発展への日本の投資を妨害しないことを誓約
        韓国が日本の勢力範囲になることを明確に認めた。
        代わりに、日本は満州におけるロシアの勢力範囲を暗黙に認めた。

1898年第一次大隈重信内閣誕生(~1898年)
1899年英学の反乱勃発

     6月独立協会の崔廷植絞首刑・李承晩に終身刑
        韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧
再び独立協会弾圧を開始し、解散に追い込まれあるものは逮捕され、拷問され、処刑され、国外へ散ってゆくかという末路を迎えます。

     8月日韓暫定合同条款に基き鉄道敷設権を得た鷺梁津間済物浦間鉄道開通
大韓帝国憲法発布
        但し国事は全て統帥権、立法、行政権、外交権すべてが皇帝の君権を規定していてさらなる混沌を巻き起こす元と         なる。

 大韓国国制

1.大韓国が自主独立の国であること
2.大韓国の政治は万世不変の専制政治であること
3.大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること
4.大韓国大皇帝は不可侵であること
5.大韓国大皇帝が統帥権を有すること
6.大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること
7.大韓国大皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること
8.大韓国大皇帝が官吏の昇任降格を決定し、栄典を授与すること
9.大韓国大皇帝が外交権を有し、各国に使者を派遣・駐在させ、宣戦講和及び諸般の条約を締結する

結局全ての権利が皇帝に与えられ名ばかり憲法です。
立憲君主国ではありません

1901年6月第一次桂内閣誕生(~1906年)

1904年8月日韓議定書締結

1.大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔ハ各相当ノ委任ヲ受ケ左ノ条款ヲ協定ス。

2.第一条 日韓両帝国間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為大韓帝国政府ハ大日本ヲ確信シ施政ノ改善ニ関シ其ノ忠告ヲ容ルゝ事

3.第二条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ皇室ヲ確実ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事

4.第三条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事

5.第四条 第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルへシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事

6.第五条 両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事

7.第六条 本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事

アーネストハッチ著「極東の印象」より
「日本の様なより精力的な国の影響下にあれば東アジアの国々の中で尊敬を受ける地位を得られるだろう」


イタリア外交官カルロスロゼッティ記より
「この国が完全な無政府状態に陥るほどの清国なありさまになった。」


アメリカ人教授ジョージラッド著「伊藤公とともにコリアで」より
「朝鮮の今の政府または文明体制の下ではこの国が自ら統治出来る能力は内在的かつ絶望的にない」



高宗は軍事費と宮廷費の大幅増加を予算委組み入れます。しかしもともと財源が脆弱であったこともあり、借款にたよらざるをえず、結局大国に依存しなくてはならなくなります。

1904年日露戦争勃発~1905年終結
   同年一進会結社
解散させられた独立協会系政治結社 宋 秉畯 尹始炳 李容九 などの開化派のメンバーが対露政策とし日本を手本にまずは日本と併合して最終的に近代国家として独立をはたす事を目的とした団体です。

但し併合後は解散を命じられ亡命する者、国内に残る者と解散させられます。
一進会は元々独立協会に入会していたメンバーで構成されていました。なので単純に日本の併合にもろてをあげて賛成するとは思いません。いわば連合国的な意味合いで賛成し、国力がついた暁には独立と考えていたのではないでしょうか?
当時日本でも「アジア民族主義」いまでゆうEUアジア版的思想もはやっていました。
結局は解散させられてしまいます。

      10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。
      7月保安会排日民族運動始まる
       1905年10月日本軍への不満から公州地方隊兵士日本駐在所商店を襲撃
     
          日本と同一の貨幣制度を採用


当時朝鮮を訪れたスウェーデンジャーナリストの書「悲劇の朝鮮」より

釜山で朝鮮が与えた第一印象はさほどいいものではなかった。道は狭く不潔で家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目をひく商店や古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積り、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上がった下水道があるが、そのべとべとしたそこではいろんな汚物が腐りかけている。


地方では盗賊が頻繁に出没して手あたりしだい人を殺し、略奪と放火の大被害を与えたりするが、ソウルの中での個人の安全度は比較的高い。

地方の職人制はまだ十分な発達を見ておらず、手工業者、商人はそれぞれ官庁の権力濫用や一般人の詐欺に対応出来ない。



1905年 東学党二代目教祖孫秉熙「天道党」と名を変える。


      10月京釜線開通

     12月 韓国統監府設置初代統監伊藤博文就任
大韓帝国皇太子垠日本留学

明治天皇は皇太子垠のために佐々木侯爵旧邸を買い上げて内装を改め、尚栗原御用係りに宿泊させてから引越し         にいたります。
天皇皇后は垠の御所訪問を歓迎し、「いつでも御所にあがるように」と歓迎しその際には常に贈り物をあげては伊藤         公を困惑させたそうです。
当時の皇孫(昭和天皇)が天皇に三度しか拝謁していない。また娘の内親王達にいたっては婚儀の挨拶に初めて拝謁         した事実をあげれば「垠がただの人質であった」とは考えにくいです。

日本政府は高宗の常に「日本主導の改革」を受諾しては約束を反故にして逃げ切る態度に失望し、未来を皇太子に         かけた。それには幼いうちから「進歩的な思考を養う」のが一番と考えたにすぎません。
彼はただの人質ではなかった破格の扱いを受けていました。

李王妃方子回想録より
 「みなとの別れよりも、初めての旅の方に興味があって・・・・」と語っている。

        
         
伊藤は元々朝鮮併合には消極的で1905年11月韓国の富強の実を認むるに至る迄と書かれたメモに発見されています。

1907年7月、京城にて新聞記者達の前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。」と演説

1909年4月、時の首相・桂太郎と外相・小村壽太郎が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると、「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても「その大網を是認」と同意

その後演説で「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し聴衆を驚かせたという。

そして同年5月、統監職を辞職

1905年桂タクト協定結ぶ
       ここにフィリピン付近はアメリカの影響下に朝鮮は日本の影響下にという覚書を締結
       この時アメリカセオドアルーズベルト大統領はハワイ併合をもくろんでいました。ハワイは日本人移民者が多い地です。
       ここで日本が難色を示されては困ります。ハワイと朝鮮を天秤にかけて「ハワイ」を選んだわけです。
      高宗は完全にアメリカから見放されます。

同年   日英同盟締結

長谷川好道朝鮮総監に就任

「知識のレベルの低さ国家観不在、そしてされには強者の盲目的崇拝という点においてはほとんど野蛮人に近い対処するにあたり、力に依拠しない手段を用いることは効果的でないと考えざるを得ない。」


     2月第二次日韓議定書締結

第1条:日本国政府は今後外務省により韓国の外交を監理指揮するため、日本の外交代表者と領事は外国にいる韓国人とその利益を保護しなくてはならない。

第2条:日本国政府は韓国が他国と結んでいる条約を実行する立場となるため、韓国は今後日本の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない。

第3条:日本国政府は代表者として韓国皇帝の下に統監を置く。統監は外交を管理するために京城に駐在し韓国皇帝と親しく内謁することができる。また日本は韓国の開港場などに理事官を置くことができる。理事官は統監の指揮の下で、従来韓国にある日本領事が持っていた職権の全てを執行し、また本協約を完全に実行するための一切の事務を担当しなくてはならない。

第4条:日本と韓国との間にある条約や約束は本協約に抵触しないかぎり効力を継続する。

第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳の維持を保証する。
文部大臣李完用第二次日韓議定書調印に賛成し、これを推進

現在の国際法に乗っ取った当時の「条約の有効性についての国際議論」

当時の国際法においては、国家への武力による条約の強制があっても有効であるが、国家代表者に対する脅迫があった条約は無効原因

英国国際法の教科書によると

真正の同意がない場合には条約は拘束力を欠くので、締約国には絶対的な行動の自由がなければならない。しかし、『行動の自由』という表現は、締約国の代表者に対してのみ適用される。当事国の代表者に対する脅迫に基づき締結された条約は、この者の代表する国家を拘束するものではない
という記述による。

国の代表者に対して個人的に加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となることは当時の国際慣習法として成立すると考えられている。

2001年国際学術会議「韓国併合再検討国際会議」では、日韓および欧米の学者が参集し問題を検討した結果
ダービー大学のキャティ教授が帝国主義全盛の当時において「国際法が存在していたかどうかさえ疑わしい」とし、ケンブリッジ大学のクロフォード教授(国際法)は「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」、「国際法は文明国間にのみ適用され、非文明国には適用されない」とし、英米などの列強の承認があった以上、当時の国際法慣行からするならば、無効ということはできない

李完用は元々反日・親米派露派です。
その李完用が日露戦争を境に急速に日本指示へ傾倒してゆきます。

彼の行動はまさに当時の朝鮮の事大主義を象徴しています。

初めは日本を敵視して欧米派へ、しかし朝鮮が世界から見放され始めたと感じ自力での復興は不可能と考えてた現実主義者(高宗の元での改革)でした。
この賛同した軍部大臣李 根沢、内務大臣李 址鎔、外務大臣朴 斉純、農商工部大臣権重顕を現在乙巳五賊と呼んで売国奴と忌み嫌われています。
しかし清は国力低下で朝鮮ところではなく、ロシアも日露戦争に敗れ朝鮮を去り、イギリスアメリカとも自国の国内事情で朝鮮を見放します。
あげく高宗は「自身の権力・遊興」のみで改革をするそぶりも見せないどころか芽をつぶす態度しかしめさない。
これで国内だけで大改革などできるはずない。
最後の彼の苦渋の選択肢だったに違いありません。

李完用は韓国の将来を考え、自主独立への道を模索していたのです。
独立協会の創設者の一人ともなり、日本に近づくも日本語を決して学び、話す事はない。
独立新聞の記事にも、李完用を批判する記事は一つも載っていない。

金弘集・金玉均が理想主義であったのなら李完用は現実主義な政治家でしょう。

金弘集・金玉均が理想と現実に押しつぶされたのなら現実主義すぎて売国烙印を押されたんでしょう。


11月ノースチャイナヘラルド紙「朝鮮人を知るすべての人は朝鮮人には多くの美質ががあると認めるのではあるが、朝鮮人が大好きな者でも朝鮮は20世紀には独立国としてやっていけないと認めざるを得ない。」

1905年11月タイムズより「日本は戦争の結果必然のものとなっや協約を朝鮮政府と時を無駄にすることなく締結した。」

ノースチャイナヘラルドより「国土の六分の五は人里離れた山か、ろくに木もはえていない丘で、残りの六分の一に当たる谷間や平地に千万千二百万のもの悲しい目をした人々が群がり、大概は田畑で家畜のように働き、家畜とともに寝ている。釜山から鴨緑江まで縦断した私のように朝鮮全土を旅行する人の目にする都会は、ソウルだけである。首都だけが、過去の破壊がひどくなければ、朝鮮はかくやも知れない」という雰囲気を僅かながら残している。」

高宗は一旦条約を締結しながらこれを無効と宣言し1906年1月29日に国書を制作

天道党を高宗が弾圧
天道党内部分裂

1906年韓国総督府設立


大隈重信著「大隈重信の朝鮮朝鮮開発構想」フォーラム1906年4月ー6月号
われわれの朝鮮政策を永続的な成果を伴うものにするためには第一にそれは経済の発展との調和の下になされなければならい。・・・・・・・・・個人間における真に有益な取引では双方がともに受益者となる。これは国家間においても同じ事である。・・・・・・・・・・・・・・・隣国それも特に朝鮮を犠牲にして我が国を偉大にすることは決してないのである。


大隈重信:1838年生まれ佐賀藩士
2期内閣総理大臣を務めた。早稲田大学創設者、自由民権運動家にして政治家、教育者


1906年6月22日に親書ハルバート特別委員・フランス大統領に送った

1907年4月20日ハーグ密使李相卨への皇帝の委任状

しかし上記のすべてが完全に無視されました。日本は各列強国に朝鮮の支配に対して同意を取り付けて先手をうっていました。

朝鮮包囲網は完全に終了、朝鮮は世界から見放されてしまいます。
高宗はこの行為で日本から完全に見放され日露戦争以来親日へ傾き始めた李完用達親日派により強硬に退位に追い込まれます。

七月ルタンより「慶雲宮を五千人もの群衆が取り巻き、代表者は交代で熱弁をふるい、学生は嘆願書を提出しようとした。警察顧問丸山重俊は宮廷警備の警官にカービン銃を支給したが、群衆は増すばかりだった。騒然たる雰囲気の中で一九日午前10時かtら、皇帝の退位式が行われます。

1907年ハーグ密史事件発生による退位、純宗へ譲位
伊藤博文と共に日本に対し反抗的な高宗に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやる。

7月第三次日韓議定書締結
このころから反日義兵闘争が活発化

1908年第二次桂内閣誕生(~1911年)

     ソウル高等法院開庁

1909年日韓併合模索

1909年 戸籍制度を朝鮮に導入

奴婢や下層階級の身分解放を否定した両班達の抗議デモが起こった。

→本当にありえない!!!無能な両班


1909年 韓国統監府初代統監伊藤博文安重根により暗殺
当時の常識のある有識者元両班尹 致昊が伊藤博文の暗殺が日韓併合をもたらした、と結論しています。

W・F・サンズ著「極東回想記」
朝鮮人が朝鮮のためにやらかした最悪のことは、伊藤博文を暗殺し、私の後任者であるスティーヴンス (Durham W. Stevens) を殺したことである。私が朝鮮の際立った人物たちと閔泳煥のような熱烈な愛国者たち、そして皇帝とそのお喋りな内待たちから聞いたことを総合すると、日本の天皇が容認した伊藤卿の提案とは、日本・中国・朝鮮間に緊密な同盟関係を結ぶ方向だったことを示していた


ルタンより「この報復は朝鮮の悲惨な歴史状況に何の責任もない人物を犠牲にしたのだ。」

さて伊藤を暗殺した安重根は両班出身者で官僚の道を断たれ日本を敵視していました。
この強硬手段に日本政府は「法廷」の場を与え「有罪」が確定してから処刑を執行します。
テロリストに裁判という法定処置を行った事実はおさえなくてはいけません。
朝鮮なら即門道無用で即残忍な方法で処刑です。

「李王妃方子回想録・垠の話より」
「伊藤公は実に誠実に世話をしてくれた。そして将来私が勉学をおえて新しい知識を朝鮮へ持ち帰り、故国で役立てる事を期待して、そのような構想を考えておられたと思う。」


「伊藤公が生きておられたら・・・・・・・・・。」
という言葉を方子は何度も聞き、何かあるたびにおっしゃった。と自伝に書いている。


ようのつまり韓国側の主張する皇太子の人質は、監禁状態に置くことではなく。進歩的な日本の近代化を大韓帝国の次世代に伝える最も効果的な方法と伊藤は解釈していた。といえる、そもそも伊藤は日韓併合には消極的だった。
つまり、保護国として日本がその統治に関与できれば十分と考えていました。
だからこそ皇太子の発言があるのだと考えます。
しかし結局は高宗の安易な裏切り(ハーグ事件)を皮切りに、高圧的に高宗に退位をせまった経緯がありました。



イザベラバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮は内部からの改革が不可能なので、外部からの改革させなければならない事

結局出来ませんでした。

なぜなら
君主の権力は厳しくて永続的な憲法の上の抑制の下に置かねばならない事

高宗はそれを手放す事は自身の滅亡、皇統の排除と考えたため



1910年8月22日 日韓併合条約締結

皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。 此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。 惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。 朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。 隆煕四年八月二十九日 御璽


韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)

日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ

第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス

第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス

第三条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス

第四条 日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ各相当ノ名誉及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス

第五条 日本国皇帝陛下ハ勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナリト認メタル者ニ対シ栄爵ヲ授ケ且恩金ヲ与フヘシ

第六条 日本国政府ハ前記併合ノ結果トシテ全然韓国ノ施政ヲ担任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身体及財産ニ対シ十分ナル保護ヲ与ヘ且其ノ福利ノ増進ヲ図ルヘシ

第七条 日本国政府ハ誠意忠実ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相当ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ韓国ニ於ケル帝国官吏ニ登用スヘシ

第八条 本条約ハ日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ノ裁可ヲ経タルモノニシテ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

右証拠トシテ両全権委員ハ本条約ニ記名調印スルモノナリ


9月申報「韓国は滅んだ。しかるに韓国の皇帝はニコニコとし、韓国の家臣は喜び、韓国の太上皇帝もまた恨みを残さない。均しく外国の寵遇を得意としているようだ。ただ鬱鬱として不安を抱いているのは韓国の学生だけだ。


李朝朝鮮・大韓帝国は滅亡しました

一旦検証
目まぐるしく変化する○○派と呼ばれる政権を担う政治家の方針がころころと変わる。
その時の政治状況で支援を得る国を変えていく。
主体制の無さがまさに致命的でした。
一貫して親日派の金玉均と朴泳孝くらいが唯一くらいでしょうか?


さて日韓併合後の大韓帝国帝室はどうなってのでしょうか?

平民にされた?いや亡命した?いえ、そのまま宮殿に住み続け李王家、準皇族「李王族」として存続します。

よって別途王公家の予算として150万円だったのはかなりの優遇です。

なんせ首相の年棒12000円、日本の皇族の総予算費が総額78万円を考えるいかに高額であったかわかります。
そしてその生活においても「政務」とよばれる統治権は失うものの、一定の変わらぬ日常生活をおくれるように配慮したのです。
李王家の元皇太子垠嫁いだ梨本宮方子女王が李王家を訪問した際には「李王家はかわらず朝鮮式の日常生活」、「朝鮮式の儀式」を体験し李家に好意的に迎えられたと自伝書にもあります。



現在の韓国で日韓併合の調印に賛同した大臣を「庚戌国賊」と忌み嫌われています。

内閣総理大臣 李完用、侍従院卿尹徳永、宮内部大臣閔丙奭、度支部大臣高永喜、外部大臣朴斉純
趙重応法部大臣 、親衛副長官兼侍従武官長李秉武、承寧府総管趙民煕

赤で記載している大臣は日本びいきであるものの李完用は違い、閔丙奭はあの閔妃の一族です。
それに当時の明治産業革命で成功した日本を手本にするという発想は日本を訪問した者ならだれでも魅かれるものです。
しかも彼らにはもはや日本以外の宗主国の選択権はなかった。
単独近代化・立憲君主国を確立出来ていたなら、朝鮮維新も可能でしたでしょうが・・・・・・・そういう考えが欠落しているのですから出来なかったでしょう。


さて今日の韓国では七奪(韓国が主張する日本が犯した七つの罪)と主張しています。

一奪 国王?

しかし高宗、純宗はまさに末期の王朝でによく誕生する無能な王です。
人の良さそうに装いながらその実権力意識が以上に高い、優柔不断で傍観者的、無責任、王権執着、無能な人物です。
もし最後の王がシャム王国のラーマ4世・5世・6世や日本の明治天皇のようにカリスマ性に優れた人物であったなら・・・・・。自分の国の歴史を嘆けばいい。他者に責任を押しつけているとしか思えない理屈です。
ちなみにアジアの王朝でこの時代まで続いていたのは日本とタイ王国とかろうじてブータン王国だけでしょう。
アジアはヨーロッパとアメリカの食べ物でした。
当時は弱肉強食が世界の常識、武力で制し国力を上げるために植民地を増やし国内産業を上げる材料を生産させる場所でした。
よって現地人はたんなる生産業の労働者であり、インフラも必要最低限度にとどめていました。
日本くらいですよ。橋、道路、ダム、貯水池、教育などインフラに湯水のように金を使ったのは・・・・・・その話は後に。




二奪 主権?



1)国民および領土を統治する国家権力
2)他国の支配に服さない統治権力
3)国家の構成要素のひとつで、最高・独立・絶対権力
4)国家の政治のあり方を 最終的に決める権利

主権とは上記の権力をいうのだが果たして李朝朝鮮が上記にあてはまる国家なのか?はかなり疑問です。
1)はあるとしても、2)3)4)は眉唾です。
なぜなら常に明、清の意向を意識せざるをえません。国王王妃王太子そのすべてに中国の当時の王朝の了承がいるのでした。
そんな国が独立国であるでしょうか?

すべては事大主義に依存した結果です。他者のせいにするのもお門違いですね。
事大主義とは
小が大に事えること、強い勢力には付き従うという考えを意味し、行動様式の1つ。
東アジアでは外交政策の方針



第二章 李朝朝鮮の初期と末期の社会構造

李朝朝鮮王朝は1394年高麗の最後の王恭譲王により「王朝継承者」として将軍李成桂(後の太祖)へ譲位した時から始まります。
ただし二代目定宗までは明から「権知高麗国事」(高麗の知事というくらいの意味)という地位を与えられだけで終わります。
実質的には王であったものの明から国王と認められる冊封は太宗の時代まで待たなくてはならなかった。

1393年明の「朝鮮国」を名乗る事を許され正式に国名も高麗から朝鮮へ変わります。

太祖は高麗が仏教遇した事で政治関与と腐敗が国力を弱めたと考え、崇儒廃仏を推し進めます。
以降朝鮮の国教は「儒教・朱子学」とされ、仏教寺院は廃寺か山間部にしか残らず、また荒廃していきました。
500年という長きに渡り、滅亡しなかったのは明清への属国として依存した事。
儒教思想により徹底した「孝」「忠」が行き届いた結果と考えられます。
しかしそれは保守派の断頭を意味し改革派・向上性・改革意欲をそぎ落とすものでした。
祖先←高祖父・高祖母←祖父・祖母←父母←自分
「孝」が非常にとおとばれ祖先が素晴らしい功績や習慣、社会を生み出したのだから現状維持が一番崇高な世界という幻想を生み出す事になります。

第一項 李朝朝鮮の朱子学の国教化と小中華思想

朱子学とは儒教の一派で南宋の時代に朱熹により再構築された儒教の新しい学問体系をいいます。
程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)や程顥の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みそれを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立てた学問。
個人と社会を統合する思想を提唱しました。
といってもいまいち????????

儒教の教えの中でも特に重要視された教えが下記
五倫五常
五常は人に存する仁・義・・智・信の五つの徳

五倫は父子の親、君臣の義、夫婦の別長幼の序、朋友の信

特に「礼」の考えが重要視され礼とはいわば上下関係の事、つまり徹底した身分制度

理気説と呼ばれる二元論(理=宇宙・万物などの原理を指し、気=物質、存在、運動を表す)、性(人間の持って生まれた本性)は理であるとする性即理、上下関係の秩序を重んじる大義名分論が主な内容です。
「四書」(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視した学問です。


小中華思想の構築

これは中国の大中華思想の朝鮮版で、自分たちが世界の中心、ただし朝鮮ではその中心は明であり、清であってその周りに朝鮮国があり、その世界を「小中華」という考え、その更に外にある世界は夷狄、さらに外にある世界が禽獣とよんさげすんでいました。

小中華内では文化的優越、政治的地理的世界観にもでて現実はどうであれ「朝鮮は中国王朝と共に世界の中心をなし、周辺諸国を従属させている」という差別意識の高い思想です。

これは日本が朝鮮を差別しているのではなく、朝鮮が日本は差別しているという事を物語っています。

つまり偉大な朝鮮が日本のような蛮族武力をちらつかせながら一時期支配され国として消滅してしまう
                            ↑
 ここが朝鮮人の虚栄心の高さゆえの過ちで、自分たちの責任を一切認めない、嘘をもついてします
 たちの悪さの根本です。

;">「恨」:豊臣秀吉の朝鮮出兵が大きな負の遺産として朝鮮人の脳に刻みます。それはDNAに深く刻まれ子孫へ根強く烙印を押し続けたのです。あれから3世紀がたっているにもかかわらず。それが今朝鮮半島にもいえます

日本人も言い返さないとね(笑い)
鎌倉時代元にそそのかされ日本へ高麗兵が出兵して漁民を惨殺して、捕虜として多くの日本人拿捕した事を。

第二項 朝鮮の制度の確立
太宗(李成桂の五男)の時代~

科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度の整備

科挙制度
科挙:官僚への登用試験をいいます。
本来は身分に関係なく受験することができる制度でありましが、金銭的理由により貴族層である「両班」でなくては実質合格しない

身分制度

両班

両班は官僚機構・支配機構を担った身分階級で現在でいう貴族層で新興儒臣や在地地主などの地方が李朝朝鮮の両班の元となっています。(ただし両班でも妾の子は英祖時代まで純宗以降科挙に受験できなかった)

官僚になれる身分文門(文臣)武門(軍臣)にわかれ、武臣には賎民でも受験でき、文臣の地位の方が高位とされます。

両班は初期全人口の3%中期で全人口の10%を占めていましたが、後期以降50%を超える勢い(地区では70%とも言われます。)で増加していきました。

これは両班が世襲制であり、その特権効果から自然増加したとも、且つ中人が両班へ昇格する場合や後期以降金持ちが没落両班の身分族譜を買い取ったり、自称両班を名乗ったりした事が考えられています。

特権として兵役の免除や刑の減免、地租以外の徴税・賦役の免除。
社会的特権として、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利やその他、家・衣服・墳墓・葬礼などに対しての特権は上げれば数えきれない。

彼らは朱子学の教えにより儒教を勉学するだけで労働行為については忌み嫌うようになり、その品行の悪さから極めて常民、賎民からの評判が悪かったといいます。
両班たちは日常生活にまで朱子学を浸透させて、知識人・道徳的指導者を輩出する身分階層を独占した。
支配階級のための実践的な思想で、身分制度の尊重と君主に従うことを説いている。それが李氏朝鮮時代の社会の発展を停滞させた一因

ゲ・デ・チャガイ著「朝鮮旅行記」より
朝鮮の貴族は総じて非常に有力で誇り高いが自らの利権保全にひどく御執心で、その権利を尊重しないようにゥどきが僅かでもみられると、途方もない残忍さでそれを鎮圧するのだ。
朝鮮貴族の人口は今や膨大な数に達している。この情況は国にとって大きな災凶となっている。
貴族はあらゆる制令に全く拘束されず、彼らのために法律ま明文化されていない。


イザベラバード著「朝鮮紀行」より
役人階級は改革は日本の「搾取」や不正利得の終わりを意味するものと見ていた。
日清戦争終結後朝鮮への内政干渉に関する理解を

汚職の本拠地はソウルにあるけれど、全ての地方政府が小規模だが首都同様の不正行為を繰り返しており、勤勉な階級の稼ぎを強奪して肥えふとっている不正直で怠慢な役人の大群を抱きかかえている。

朝鮮の役人は生き血を啜る吸血鬼である。


官職の任期がひどく短いので役人はその支配権ないの人民を向上させる能力の持ち主としてよりもむしろ搾取の対象としてみている。


「両班が労働しない理由は論語の一説にある」という

大宰問於子貢曰、夫子聖者与、何其多能也、子貢曰、固天縦之将聖、又多能也、子聞之曰、大宰知我者乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也。

訳:
呉の総理大臣が子貢に尋ねた。「孔子は聖人であられるとのことだが、それにしては、どうしてあんなに多才・多芸なのか」。子貢がお答えした。「もちろん先生は天が認めた聖人ですが、聖人であるだけでなく多才・多芸なのです」。それを聞いて子が言われた。「呉の大臣は私のことをよく知っているようだ。私は若い時に卑賤だったので、色々な小さなつまらないことが得意になったのだ。君子は多芸であるべきだろうか、いや、多芸であるべきではない


牢曰、子云吾不試、故芸

訳:
琴牢(きんろう)が言った。「孔子は『私は官に用いられなかったために多芸になったのだ』とおっしゃっていた

なんで一芸がダメで多芸がいいのだろう?
一芸=労働で多芸=労働以外?
超へ理屈三昧こんなの真剣に勉強してたなんてありえない~~~~~!!!!!

そんな両班の一日

全ての両班が官僚として中央政府に登用されたわけではありません。
両班にも家柄、金さまざまな家系があって一概には言えません。
男子で朱子学が出来、詩が読め、書が出来、金さえあれば中央政府の高級官僚「議政府」として閣僚になる道もひらけます。

また科挙に受からなくても先祖代々の土地(私地)さえあれば一生労働せずに朱子学だけを学び、時に詩を読み、書や画を描き、酒や宴会を催し、音楽を聞き、好きな女を妾にして優雅に生きてゆけました。
中には犯罪を犯す者の現れますが、大抵金があればもみ消せ、平気で常人以下の人間を殺していました。

しかし中には土地のない者や家長が死去した両班の家など悲惨です。娘を宮中の女官して入宮させたり(女官は中人から採用されるので極めて屈辱的な行為)、最悪技生に身を落とさないといけない場合はありました。
朝鮮の貴族階級は世界中で最も強力であり最も傲慢である。

朝鮮の両班は、いたるところでまるで支配者か暴君の如くふるまっている。
大両班は金がなくなると人を使って商人や農民を捕まえさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食べ物も与えられず両班が要求する額を払うまで笘打たれる。

野蛮極まりない行為が罰を受けない。


ダレ編集「朝鮮事情」
19世紀半ばフランスのキリスト宣教師達が集めた資料をダヴリュイ主教が編集しかけたものをダレが書籍化した資料です。


両班の男はまだしも、女は大変です。

男尊女卑の李朝朝鮮世界では両班の女子はほぼ居住区から出る事はできません。
外に出る際は輿しに乗り、もしくはきものを頭から覆い隠し姿を見られてはいけません。
若い女子は特にです。
しかたかく家の中にあるブランコで外を眺めていたのだそうで、適齢期には親の決めた縁談は絶対で恋愛なんてもってのほか!。
父親祖父の年長者の言葉には絶対服従で、嫁げば舅姑旦那、小姑には絶対服従、従順、大人しく、嫉妬をしたり子が出来ない場合離婚されます。
そしていよいよ男子を産んで立派に育てた時、初めて腹いせとばかりに嫁をいびり、母として息子を服従させ影の主となりました。

両班については上記の通りですが、それ以下について記述します。

中人
外国語、医学、天文学、法律学などの特殊技術を学んで世襲していました。(宮廷女官はこの地位で入宮する事が多かった。)
科挙にも受験出来ましたが、登用出来てもその地位は低く高位に上がる事はありませんでした。

吏胥、駅吏、軍校があり、彼らは末端の行政・警察事務を担当し、直接平民たちを支配する実権を握っていました。

常人
農・工・商に従事する民
国家に対し租税、貢賦、軍役など各種の義務を負担し、且つ地方官や郷吏などの搾取対象になっていました。
その生活は一般的にとても悲惨でこんな苦しい生活の中で、農村共同体を作り相互扶助を目的にした様々な契が組職されました。

奴婢
1894年まで朝鮮半島で人身売買が行われその対象者1920年代にも事実上実在していました。
奴婢の子、捕虜、犯罪人、窃盗犯、王命で賤民に落とされた功臣、逆賊の妻子で賤民に落とされた者、借金の抵当などで落ちる場合が多く多くは商工業に従事していました。

彼らは主人の所有物であり財産(売買・略奪・相続・譲与・担保・賞与の対象)その交換価値は、奴婢制度が法的に廃止された甲午農民戦争の当時で、美貌の婢一人以上を含む奴婢五人で牛一頭。
ただし李氏朝鮮の時代には奴婢貢という賤民を対象とした税金があり、同時に王に対しても別に定められた枚数の木綿を納布する義務がありました。

賎民
奴婢
官奴婢と私奴婢に分かれ、住まい及び結婚、職業の選択の自由に制限を受けており、法的に市場での売買が可能であった。
官奴婢は、他の奴婢よりも高い地位で、良民と奴婢との中間のような立場でした。
技生、僧、医女、巫女もこの地位に位置します。
一般の村に住み、良民との結婚も可能で、奴婢の身分から解放される場合もあった。
官奴婢の一部は徴税を代行した場合地方の農民より裕福な者も出てきました。
さらに文禄の役の際には、奴婢が反乱を起こして役所に火を放ち戸籍を燃やしてしまい、賤民を脱した。
戦費を獲得するために一定の額を支払った奴婢は良民になれるようにされたため、地方では37%居た奴婢が2%まで減少し、代わりに人口の9%に過ぎなかった両班が地方によっては70%を占めるという状況も起きました。

白丁
賎民の最下位層隔離された地域に住み一般の村に住めず。
良民とは結婚できなかった。
族譜を持つことの禁止
屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に就くことの禁止
日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止
瓦屋根を持つ家に住むことの禁止
文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
姓を持つことの禁止。
公共の場に出入りすることの禁止。
葬式で棺桶を使うことの禁止。
結婚式で桶を使うことの禁止。
墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
墓碑を建てることの禁止。
一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。
人ではないので殺しても罪には問われなかった。
ただし戸籍を持たず税金や軍布などは免除されていました。
庶民に対する過酷な財産徴収を受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級でもありました。
1926年当時でその統計数は3万6809といいます。

世宗大王の時代~
王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治移行に変化する。

議政府は今の内閣であり、経国大典』「総百官平庶政理陰陽経邦国(すべての官吏を総帥し、諸政を公平にし、陰陽を明確にし、国家を運営する)」と定義していました。
国政運営を協議し、王の裁可を仰いだうえで行政実務を分掌する六曹へ通達し実際の行政へといざないます。
議政府構造
領議政・左議政・右議政・左賛成・右賛成・左参賛・右参賛・舎人・検詳・司録
儀賓府
国王の娘婿を管轄する庁
これとは別に国王直轄の承政院(国王の命を伝達する組織)と内禁衛(国王の親衛隊)
吏曹
任官や人事考課
戸曹
戸口、貢物、田糧、租税、食糧および国家財政に関連した部分を担当
礼曹
儀礼や祭事、外交などを司った
兵曹
軍事を管掌
刑曹
国家の司法、刑罰に関連した部分を管轄
工曹
公共事業その他の社会事業を管轄
其他衙門
奎章閣
王立図書館に相当する機関
司憲府
時政論評、官吏の糾察、褒挙、風俗の矯正、冤抑の解決、また経国大典では、濫偽禁止などに関する業務を管掌する。
武職
義禁府
王命により大罪人の取り調べを行った官庁
禁衛営
首都防衛を行った軍営
捕盗庁
成宗代から 中宗代にかけて創設、漢城府及び京畿道の警察業務を担当する部

で構成されていた。
世宗王が病弱な事もあり、その任が重要であったので、役割を分割した事がきっかけでした。
しかし同時に官僚支配がはびこる原因でもありました。そのために最高高級官僚たちは派閥を形成し、何代にもわたる朝鮮王朝特有の血なまぐさい政権闘争へと発展していくのでした。

貨幣制度については第三章で


第三章 李朝朝鮮末期の経済と産業・文化

経済を語る前に経済にかかわる重要な「貨幣」について記述します。
貨幣は物資を購入するための通貨であり、日本では富本銭が今のところ最古の銭です。
もちろん一般には流通せずに終わりました。その後長い間国内での貨幣の鋳造は行われず中国大陸の通貨を輸入して庶民も使用出来るようになりました。
再び国内で製造されたのは16世紀中期で、徳川家康の江戸時代から徐々に貨幣が鋳造され庶民にも国内産の貨幣を使用するようになります。

では李朝朝鮮ではどうでしょうか?
その前に朝鮮半島の貨幣の歴史もやはり中国大陸の貨幣が持ち込まれますが、多くは墳墓の埋葬品に使用され、実貨幣ではありませんでした。
それは高麗時代に至ってもかわらず、何度か鋳造は行われましが、、銭貨の使用は改廃され不安定化して結局李朝朝鮮時代においても鋳造されても、一般流通には出回れませんでした。

貨幣という利用価値がなかった朝鮮では庶民は市場で物々交換をしていました。
つまり山間部に住む住民は山の幸を、漁民は魚を、家でこしらえた草履や小物を生活のかてにしました。

北部地方ではこの貨幣すら流通していない。
そこではすべてものが、ある慣習に基づいて交換されている。
ダレ編集「朝鮮事情」1874年初版発行



では他の地方では銅銭が出回るまで何をもって通貨としたのか?
布幣
布(素材は麻)がそのまま貨幣として使用されていました。しかも、19世紀ころまで使用していました。
1364年頃素材は木綿になり、その後時代ごとに通宝が鋳造されますが、安定したことがありません。
開国後の貨幣1888年ごろから銀貨、黄銅貨、白銅貨を発行してようやく漢城では使用され始めます。

で何故経済の前に貨幣の話をするのかというと経済=貨幣は極めて重要であるからです。
貨幣とは経済学上、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持った物、=貨幣を発行する政府に対して国民の信用が存在することが必要条件です。

つまり貨幣の安定していない国はその国自体が安定していない=国が安定していないのに=経済が安定するはずはない
といえます。
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李朝朝鮮時代の市場
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併合後の市場

ゲデチャガイ著「朝鮮旅行記」より
「朝鮮では商業が未発達で当面は萌芽状態にある」・・・・国内における商業は生産に専業化を欠き、また手工業も未発達である結果更に一層惨めな状態にとどまっている。


E・Jオッペルト著「禁断の国・朝鮮」
朝鮮人の産業技術と技量は、アジアの他の民族に比べてずっと劣っている。こうなった決定的な理由は、抑圧的な政治体制に起因する。政府は政治的な目的と動機から産業発展に無関心で、甚だしくは直接的にそれを押えつけさえした。こうした情況は朝鮮の産業発展を支える土台から既に脆弱で、したがって現在の政治体制が変わらなくては、いかなる発展も成し得ないことを立証している

19世紀初頭 アジアの経済といえば基本「農業」が主流です。
李朝朝鮮国でも稲作は奨励され農業技術を広く普及したし、また農業関連書籍も印刷して田植法で生産していました。
しかしその地理的要因のため森林を伐採した為に禿山が多くなり洪水の際にはひどい被害にあいました。それでも年貢は50%奪い取られ、残った米も春には底をつき春から初夏にかけて大量の餓死者が出たといいます。
しかも稲作の作付は気象の関係上南部に集中しており、元々巨大稲作地帯ではありませんでした。よって米だけではなく雑穀が主食と考えていいでしょう。
しかも農具も幼稚で鉄を使わない鋤もあり、農民の生活は貧困を極めました。
日本も室町辺りまでは農民は家畜と同じくらいの扱いを受けていましたから、それが李朝朝鮮では延々続いていたわけです。

土地は基本的には国王の物で、農民はその土地を借り生産できた米を税として徴収されます。また両班が国王から贈与された土地の農民は当然両班へ米を借地代として差し出さないといけません。

農民は耕せば耕すほど税を徴収され、役人に課税以上の金を吸い上げられました。しかもそれが払えないと容赦ない拷問で殺され文句言えず死に耐えるしかなかったといいます。
役人はその金を朝廷の高官へ賄賂として送り役職や身分を金で買える世界でした。
それ以外の土地は両班の私所有として与えられ、また非開墾地を耕させそれを朝廷に届けず両班も同じように賄賂や横領を重ねていました。
李朝朝鮮時代には正確な土地測量が一切行われなかったのです。それはそうです国王がそう指示を出しても朝廷の重臣達は自分たちの悪行がばれ、今までの定期的に貢がれた賄賂を手放すわけがありません。
結局日韓併合までまたなくてはいけませんでした。

耕作地の土地生産性調査
1455492結→1902年988147結(結とは税をかける単位)に減少していました。
これは天変地異により、減少したほかに大多数が両班により、不法に私土にして税を逃れた事と農民が耕作しても過剰に違法な税と偽り、小作料などの名目で詐取した事が大きかった為です。


李朝朝鮮末期に訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジー「朝鮮の悲劇」

私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか?」と聞いたところ、「耕せば耕すほど、税をとられるだけのことだ」という返事があった

李朝朝鮮末期に訪れたスウェーデン人ジャーナリストのアーソン・グレブスト著「悲劇の朝鮮」

朝鮮ではまだ農耕技術が発達していないため、あらゆる仕事を丹念さと手腕を尽くして手で処理する。

イザベラバード著「朝鮮紀行」より
「小作農でその大半は両班から土地を借りている。貸すか貸さないかは両班の心しだいである。・・・・・・地主は種を用意し収穫の半分を受け取る。・・・・・・・・1894年には耕作分にもとずいて年貢を支払った。」


19世紀末でこの使用料半分とられさらに年貢を払わされるのでは向上心0にはなるかなあァ~しかも少しお金が入ると両班に強奪されるんですから。

米生産石高
1939年年平均2500万石
ただし26797~14356とかなり安定していません。
1905年で平均9斗で、そのころの日本の反当収量は1石6斗日本の約半分にすぎません。


その農民が発起しては鎮圧されの繰り返しが李朝朝鮮後・末期の時代でした。

正祖の没後、息子「純祖」の時代から朝鮮の身分秩序が乱れ始めます。
良人や中人出身の富農、巨商ら官職を買収し両班のように振舞った。中には両班の身分を金で買う者まで現れます。
逆に良人である農民の中で小作農に没落、ホームレスとなる者もあり、両班の中で小作農に没落してゆく者もいました。

この秩序の乱れが人民に不安的要素を投げ国王さえ軽く扱われてゆきます。

1801年奴婢の数をあらわす奴婢案が国家で燃やされ官奴婢を逃れた者が多く現れ始める。

1811年洪景来の乱勃発
西北地方の大商人、郷任層、武士、流浪農民など各階層が連合し地方差別打破を合言葉に掲げて起きます。
1千余名の兵力で軍事を起こし清川江以北の9邑を占領するも官軍に敗れ、定州城に入って軍事を起こしてから4ヶ月目終焉します。
1836年謀反事件発生・鎮圧

1844年謀反事件発生・鎮圧

1860年崔 済愚東学を創始
慶州の竜潭亭で天啓を受け、儒教・仏教・民間信仰などを融合した宗教
日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱える
天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説い
東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。
つまりは東学は宗教であって、東学党を信仰していた貧困層が暴徒化してしばしば高圧的な地方官僚を襲撃した反乱を。

1863年に済愚政府により逮捕、64年に「邪道亂正」の罪で処刑される。

1862年 壬戌民乱勃発

1862年 晋州民乱

1869年光陽の乱

1871年 李弼済の乱
19世紀中葉の哲宗代に至って、賦税制度の矛盾に不満を抱く民衆の抗拒は全国的に拡散

1883年各地で農民の反乱勃発

1894年第2代教祖武力蜂起し、農民の多くが東学に帰依、信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展し甲午農民戦争に発展
      10月第二次蜂起するもに日本軍の前に鎮圧、捕えられ、漢城(ソウル)で処刑される。

井上馨日本公使は共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していた。
しかし朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。

1894年から3年間の間に4度渡韓したイザベラバードのその著書「朝鮮紀行」の中で当時の農民と農業についてこう述べています。

「政府が立派で正直なら旅人が日本で見たような幸福で裕福な人々を作り出す事であろう。・・・・・・・・・・朝鮮の農業はある程度無駄が多くだらしない。・・・・・・・・・農機具は租製で少ない。」


工業

たいていの農家、漁民は、生活必需品、つまり糸、布、履物、家具、農具など一家で製造していました。
つまり徹底した自給自足制度により単一職種、分業制でないなら大きな産業が育ちません。

当時それらで作られた商品を持ち合い市を通じて行われる物々交換が多かったのです。

しかし商人がいなかったわけではなく、ソウルにあった六矣廛という絹織物、綿布、綿紬、紙、苧布、塩魚をあつかう六つの特権商人は店舗をかまていたほか負褓商という行商人による商売が行われていました。

家内工業とは別に専門的な手工業者の工匠と京工匠と外工匠がいました。その身分は奴婢で大変虐げられていました。
朝鮮ではいわゆる職人工業に携わる職業を卑下する風潮があり、工芸絵画職人、芸人、巫女、技生などは賎人、奴婢などの仕事とされました。
日本では飛鳥時代から仏教芸術から工芸品のさまざまな名工が名を残しています。
権力者もこぞって彼らを優遇したので、逆に名声を得て庶民から羨望のまなざしを受けていました。
だいぶ違いますね。

中央の各官庁に属している工匠を京工匠、地方の各道・邑に所属した工匠を外工匠と言いいました。
その人員と種類は相当に多かったのだそうです。
工匠は支配階級の威儀を整えるための装飾品を作るのに従事するもので、官庁の命令で無報酬の仕事を受けなければならず、しかも工匠税を払わなければならなかったので、楽ではありません。


とはいえ李朝朝鮮といえば産業「陶磁器」が有名です。
そう唯一大きな産業といっていいでしょう。

ただ高級な陶磁器のその需要は限られた階級層に限られます。
一般庶民向けには粗悪な物で十分です。
取引には居間という仲買人を通じて、商廛、客主、旅閣という問屋に納まれ更に常設店舗や負褓商のもとへとどけられる。
負褓商はこれらの商品をふつう市にだし、ここから消費者にわたるようになっていた。

負褓商は、強固な同業組合をつくり、しばしば政治団体としても活躍しました。
大院君などもこの負褓商をたびたび利用し、隠密のような役割もはたして情報なども集めたりしました。

陶工達もやはり賎民以下の身分であるので、いわゆる秀吉の朝鮮出兵の際に帰国する戦国武将達が陶工を日本へ連行した後磁器の制作が盛んに行われます。
彼らは自由こそ奪われましたが、元元賎民に自由はありません。それよりも自分の焼きたい磁器を自由に描ける、両班のきままで軽視されたり、暴力を振るわれたり、殺される事もない。
藩によっては武士の次にあたる郷士という身分さえ与えられていました。
後世昭和初期外務大臣を務めた東郷茂徳は彼らの子孫の一人です。
「朝鮮の器の美」を開花させたのは日本の茶人達でした。

李罫稷著「扶桑録」秀吉の朝鮮出兵の際捕虜として日本へ連行された朝鮮人の帰国に関しての朝鮮側の記述より
帰る事を思う者はたいてい忠義心のある士族およびこの地で苦労している人達であった。
そのほかの妻子があり財産があってすでにその生活が安定している者達は、全く帰る意志がなかった。
憎むべし憎むべし!


会い来る者は絶えなかったが帰国を望む者ははなはだ少なかった。・・・・・・・・・・
使臣が来た事を聞いて偶然会いにきただけで、故国に向う心はほとんどなかった。
・・・・・・・・・・生計が豊かですでに根を下ろした者は全く帰る意志がなかった。あるいは聞き、あるいは見る事もしたがその情勢は憎むべしその性根を叩き直す事も出来なかった。


秀吉の朝鮮出兵の際朝鮮人捕虜の故国帰還希望者は大坂まででようやく100名程度でしかも旅の途中で逃亡するものが絶えず、結局対馬から出向する際に300弱船で3隻だった。

しかも帰国後はさして保護もせず放置され、帰国者は途方にくれたといいます。
さすがにまずいと感じた朝鮮通信使の一人が王に進言するも銃を作る職人の扱いには興味を示したが、その上奏を無視しました。
さすが、表向きだけの国です。

概ね捕虜は手あたりしだいというより、選りすぐりを選んだ職人、商人、美しい女性(中には大名の側室になったり、侍女として大名の妻に使えたりしていた。各地方の寺には彼女達の墓が祀られています。)
朝鮮で卑下された人々です。そりゃ帰らないでしょう。

イザベラバード朝鮮紀行より
「広い通りにはの一つには屋台が両側に並び・・・・・・・外国品の不用品からくだらないものばかり選んできたような品々はどれも悪趣味の極みとしかいいようがない。」


鉱業

鉱物は国王の所有物でかつ初期には明清の献上品であったので金、銀は勿論、鉄、銅等も掘れば朝廷に捧げるようにしました。
しかし中期に秀吉の朝鮮出兵の際に鉄が必要になり必要量を充当し難くなったので私有鉱山を許可しました。
掘り出した鉱物に対して一定金額の租税を賦課するようにしました。
私有鉱山は、店と呼ばれた。金店、銀店などである。後期になるとこの鉱山に農業で食べれなくなった農民が流れてくるようになりました。

朝鮮半島には多くの鉱物が産出出来たはずですが、李朝朝鮮王朝はその採掘を禁止していました。これは末期においても同じでその採掘権利を他国に安値で売り払いました。
中国の王朝に属国したいた為、財政が豊かだとかえって献上を要求されかねない懸念と採掘に集まった民衆が蜂起し反乱をおこす事を恐れたためともいいます。



日韓併合ではその供給の確保にも狙いがあったといわれています。


外国貿易

鎖国してたので、ほとんど貿易は行われていません。
明、真女族、日本と小規模ながら行っていました。

明・清に対しては、いわゆる朝貢という形式を通じた公貿易を使臣一行が行う私貿易などがありました。
日本と女真及び琉球などとは、交隣外交を通じて彼らの進上品を受ける形式の公貿易が北側の中江・北関、南側の倭館での開市を通じて民間貿易が行わました。
日本にはいわゆる「朝鮮通信使」が歴代徳川家の征夷大将軍が就任すると派遣されていました。
これって朝貢じゃないの???

貿易や勃発的に起こる事件、問題は対馬藩の宗氏が変わって行っていました。
貿易は主に陶磁器や朝鮮人参などが輸出されたようです。

イザベルバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮は米に関する限り日本の穀物倉庫になる途上にある。米の輸出代金はすでに1890年に27万1千ポンドに達していた。



文化

文学:書物は両班が漢文で書いた日記、史記、儒教書、軍記等ハングルで書かれた物は仏典、儒教の道徳を婦女子に教えるための読み物烈女伝、洪 吉童、九雲夢、謝氏南征記、春香伝、沈青伝など他にもありますがハングルは卑しい階層が読む文字とされ、しかも李朝朝鮮末期においても識字率は10%未満と低い一般庶民には普及しませんでした。
ただし英祖後半から正祖時代には社会は安定していてハングル文字を読める一部の階層に「流行本」を貸出す商売もありましたが庶民には「こう談」による読み聞かせが主でした。

日本の江戸時代は寺小屋(私塾)江戸に限れば男子50%が女子は20%といわれ、江戸では本も庶民の娯楽でした。

また地方農村でも江戸時代中期米沢藩(今の山形県)の農民の老婆が残したカタカナで書かれた文章が残っています。

当時の藩主鷹山がこの老婆の農作業を手伝った際に当時の習慣で返礼として餅を返した時、その老婆は初めてその人物が藩主であった事を知ります。

鷹山は餅を献上した老婆にさらに金を与え家に帰しました。

老婆はこの名誉を後世にも伝えようと、親族に贈り物のたびとこの話をカタカナで記載した手紙を添えて渡しました。
山形の山間部の小さな年老いた農婦でさえカタカナといえ文字を書けるのはかなりの識字率ですね。

話を戻し、朝鮮文学のほとんどが作者不明です。日本では平安時代頃までくらいは確かに作者不明な書物ばかりでしたが、江戸時代にいたっては作者の名ははっきりしています。
庶民でも文字を読めたので文学は大変流行しましたが、朝鮮ではその政治体制と庶民階級の低迷でそれどころではないといっていいでしょう。

絵画においては初期の水墨画家、安堅 申 師任堂(申 師任の母という意味名は不明)、金 弘道、金 得臣、申潤福、張承業、鄭敾、許 百錬、羅 蕙錫と世界的にも知名度は低いです。

さらに女性文化人が誕生する事が皆無な世界でした。儒教では女性は醜悪な者、滅ぼす者と決めつけ徹底的な男尊女卑の世界でした。よって細君は良妻賢母がもてはやされ、女性個人は系図にも名はなく、ただ女としかありません。
その中で許 蘭雪軒こと許楚姫、申 師任堂は異彩を放った女性でした

許楚姫は16世紀半ば8歳にして詩を作った才能に恵まれた女性でしたが、嫁ぎ先で徹底的に虐待し、若くして死去した女性です。その才能は弟許筠(洪 吉童の作者)により清へ持ち込まれ清や日本では古くから知られ、称賛され続けました。
韓国では長らく無視され朝鮮戦争後にようやくその功績が認められ始める。不運な女性です。
その一方申 師任堂は16世紀初頭から中頃まで活躍した詩人で画家、儒学者李栗谷の母でもあったので良妻賢母の鏡ともてはやされ続けていました。
彼女は幼いころから四書三経にふれ孝心と志が高くて、文章・針工・刺繍にたけ特に詩文と絵画に才能がありました。嫁ぎ先でもその事を後見する夫、姑に会い更に名声を得ます。

両者の違いは前者は子供(朝鮮の場合は男子)を生まず、後者は名儒教者の母であるという違いでしょう。
李朝朝鮮での女性軽視は激しく、娘の頃は外すら外出できず、嫁いでも舅姑夫に平伏し、夫に妾が出来ても見て見ぬふり。
さらに身分が中人以下は両班の餌食になり強姦、暴行は日常茶飯事だったといいます。
男性も同じで特に平民以下はいかなる理由で殺されるか?わからない時代でした。

そんな王朝で自由な文化など育ちません。
書物、絵画、詩などの文化は両班の成人男子の為にだけあるような物でした。

イザベラバード著「朝鮮紀行」より
ソウルに派芸術品はまったくなく、古代の遺跡はわずかしかない。


芸術は皆無である。(1897年イザベルバード著「朝鮮紀行」朝鮮序文より)


E・Jオッペルト著「禁断の国・朝鮮」
独特で高い水準の文化を誇り、文明化された暮らしを営んでいると公言できる国の中で、朝鮮ほど民族の起源や歴史に関する文献が不完全で不足な所も珍しい。学者然とした朝鮮人のうち、誰も自分の国の歴史を記述しようとしたり、それができる人はいないらしい。彼らは中国や日本の史家が残した記録が、付け加えることがない完全なものだと信じているようでもある。

中国や日本ではきわめて大衆化している演劇やその他の公演のような演芸が、朝鮮ではまったく欠けている。これはおそらく部分的には、朝鮮固有の文学が欠如していることによると思われる。他方では朝鮮人の文化的水準が低く、こうした種類の芸能には感興を感じる能力がないためである。

医学

中国大陸から伝来した「韓方」が韓方医により処方される。
が、まず金のある者しか治療が出来ず、しかも満足に治療出来る医師は皆無でした。

病気がちな中宗の為に王医は野人乾水を処方して王はそれを飲んだといいます。そりゃ長生きしないですよね・・・・・・・・。

当時の朝鮮の名医と名高い男を後の純宗の最初の世子妃閔氏(後の純明皇后)が重体に落ちいった際に診療した時のとんでもない治療方法が下記の通りです。

診断結果
悪鬼が腹に住みついた。
腹の中で悪鬼がすぐに育ってしまうので、早く手を打ってそれを祓わないと事態は大変な事になる。
治療方法
・・・・・・・医師はその悪鬼をはらうために城門の戸のひとつを壊してその木をくべて煎薬を煮たてるようにとの処方を与え、毎朝それを一杯ずつ患者にのまさればなおるだろうと言いました。・・・・・・・・
1904年宮中に世子妃が逝去するとその失態を追及されると
「処方が守られなかったのにどうしてお妃様が全快されましたでしょうか?」と悪ぶれるもせずいいまかし、難を逃れたといいます。

アーソン・グレブスト著「悲劇の朝鮮」

漢方(朝鮮では漢ではなく韓方)と書く、パクリを自分の国の物、のっとり文化
またその他に鍼治療も盛んに行われていました。てっか全部中国大陸からの伝来物~~~

病気も多く疱瘡病、赤痢、コレラや風土病が蔓延してこれに天候不順や天変地異で農作の不作が続くとその数に拍車をつけました。疱瘡病は度々大流行してこれといった治療がうけられないまま死亡しました。
日本では1810年で陸奥国廻船問屋の子中川五郎冶がロシアで学んだ牛痘法を箱館・松前を中心に広めたものの、まだ一般には知られていらず、本格的に牛痘法が普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩がワクチンを輸入し適塾で緒方洪庵が実験で処方し、彼と彼らの弟子によってひろめられました。

朝鮮では医療が上記のレベルなので遅れていて、子供は生まれても半分以上成人出来ず、李朝朝鮮時代の平均寿命は25歳前後といわれています。

1933年ですらハンセン病に効く特効薬は「人間の脳味噌」という伝承を間に受けた父親が死亡した女児を埋葬した墓を暴き、首を切断し、脳みそを抜き取り子に与えた京城府竹添町幼児生首事件がありました。
そんな物飲んでよくなるはずはなく、子の病状は悪化したそうです。

主に治療は民間療法や祈祷にたよりきりでした。
民間療法はひどいもので朝鮮民族集によると

歯痛には古墓の人骨を歯につけ噛みしめる。松の枝を油で煎じて口に含む(日本では南天実を使用する民間療法がありこれは効能が現在証明されています)
眼病自分の尿で洗えば再発しない(日本では車前子(オオバコ)が用いられた)
腫物人糞に塩を混ぜて貼る(日本ではドクダミこれも効能が証明されています。)
その他にもウソでしょう!!!
と気持ち悪くなる処方がいっぱい
肺病には人肉の粥
高熱には野人乾水これ人の糞を乾燥させて水で溶いたもの・・・・・・・・・。
そりゃ生きられへん・・・・・

祈祷は朝鮮の土着の信仰で神を憑依させお告げを行う巫女「巫俗」が行い、個人の幸福を祈ったり、病気の治療、死者の供養、村の神様を祀るなどを大変信仰されていました。
景宗生母張氏が王宮で巫俗を呼び寄せて王妃を呪い殺したとして、賜薬の刑にされたり。
閔妃が長男の世子が病弱のために病気治療に高額な祈祷料を納めたりと・・・・・・・。かなりあたりまえに行われていたそうです。

まだ日本の方がましかも江戸時代には出島で蘭学(西洋式医学)を学ぶ医師もいましたしね。日本も鎖国していましたが、宗教に関わらないという大原則を守る事を厳守した「オランド」と「ポルトガル」だけに貿易や技術を受け入れていました。
徳川幕府はフランス革命も知っていたんだとか。

E・Jオッペルト「禁断の国・朝鮮」
疾病に対する朝鮮人の知識と治療法は、予想どおり原始的な段階を脱け出せずにいる。したがって主に薬草を利用した治療に限られた医術は、十分な水準に至っておらず、むしろ病気を悪化させる。そのため患者には最も合理的な処方が要求される。朝鮮の医術は中国にも劣るため、韓医たちはあまり尊敬されていない



第四章 日韓併合
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李朝末期の漢城の様子
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併合前後

当時の日本政府も日韓併合には大きく二分され議論された。
併合派は山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、消極的反対は伊藤博文だったといいます。

まず日韓併合は山縣有朋の思案の元、彼の山縣軍閥の中で頭角を表していた桂太郎により実現し、原敬により指導したといってよい。

では大日本帝国は朝鮮へ政治的介入し後に併合する必要性があったのでしょうか?
実は朝鮮半島への日本の影響力はそれよりも古代古墳時代にさかのぼる、当時の日本はある程度国家集団として成立していたそれより以前弥生時代中期には日本人一部が朝鮮半島へ移動した遺構が残っています。
一方、朝鮮半島ではまだ小さな国が乱立していたので古墳時代日本の軍事力は朝鮮半島でも重要視されていました。
その証拠に広開土王碑「新羅百済を倭が臣民にした」と5世紀後半6世紀中葉に日本固有の前方後円墳が朝鮮半島で見られる。
また新羅・百済・任那の勢力圏内に日本産のひすいが出土しています。
当時のこの地域の重要種族が日本に従属していたとみていいでしょう。
これらの国が新羅に滅ぼされると日本は新羅と何度か争い、百済との勢力争いに新羅も日本を重要視して、以降三国は朝貢していました。これは新羅・百済・高句麗本紀に記述しています。

さてはるか時代を明治へ
明治政府は「富国強兵」を元に日本の近代化を強硬に進めていました。
産業、インフラ、教育、そして最大の民主主義による政治改革でした。
欧米に比べ100年は遅れていたので、迅速に行う必要があったのです。
さもないと幕末結んだ他国との通商協定(不平等条約)が続き、はては欧米の植民地にされかねないからです。
その大事業をわずか28年で成し遂げ極東の改革の先進国となります。

要因一
地理的位置が重要視されていたからです。
海を隔てて西に位置するのは朝鮮、清、ロシアです。
清は当時ヨーロッパ列強から軍事的経済的に遅れ国内も暴動や反乱に右往左往していました。
問題はロシアです極東最大の大帝国であり、ヨーロッパ列強の一員として巨大な帝国です。
しかもロシアはその領土を南下させて1858年のアイグン条約でアムール川以北が、1860年の北京条約でウスリー川以東をロシアの領土になりました。
今の満州の北側です。そして東清鉄道や南満州鉄道などの鉄道建設されます。
これで直接日本との距離も近くなり、しかも現在のウラジオストックか軍艦を本州に向ける事も可能になったのです。

そこで日本は大陸満州に繋がる大きな溜まり地が必要になりました。
朝鮮がその役割に適した地でしたが、当時の王高宗があまりに優柔不断であったため信用出来ず、宗主国という地位から完全に統治が可能になる「日本にする必要」があったのです。


要因二
当時の日本の国内事情
近代化が始まる中で最も必要なのは資源と穀物です。
工業化は多くのエネルギーや原料が必要です。しかし日本は資源の乏しい国です。
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そこで朝鮮の米・資源を優位な条件で輸入出来る事が重要でした。
日本へ輸出される米の市

金の日本への輸出
1877年から始まり21807円から1887年1217133円をピークに1893年には493004円です。
明治初年から日清戦争直前まで朝鮮からの輸入は全体の68%

当時の貨幣の交換比率の批准は「金」へ以降する時期です。
安定的な金の確保は国家の必要不可欠な課題でした。

大きく上記の理由が挙げられます。

その手法ですが、これが極めて異例な手法でした。その実験場所が台湾です。台湾派日清戦争の譲渡地として日本の外統治地となりました。初め台湾に住む現地民や活動家が日本統治に抵抗して武装発起しますが、軍や警察をこれを鎮圧します。
その後武力での統治に限界を感じた本土明治政府は台湾総統府と連携して「台湾の産業向上、インフラの整備、義務教育の強化」といった異例の統治を始めます。すると初めは抵抗していた市民もしだいに生活が豊かになるのと、現地に移住した日本人の誠意と行動が徐徐に受けいれられます。
これは当時としてはかなり異例な介入です。欧米では植民地はあくまで本土の産業の原材料生産地でした。よってインフラは必要最小限にとどまります。
しかも抵抗する現地民には容赦ない殺戮が行われ、服従した者も低賃金で働かされ効率の悪い労働者は見せしめのため暴行されていました。これは現在こそ許されるべき事ではありませんが、当時は常識でした。考えてください。まだ黒人をアフリカから強制的に連行し奴隷にして服従させていた時代です。

日本は外地で「小日本」を作り上げ全体の国力を上げてアジア民族主義を叶えようとしていたのです。
あくまでも日本的にですが、台湾はその成功例です。戦時中も日本の為にと戦死することもいといませんでした。
「私は日本人である」という誇りにあふれていたといいます。

台湾の成功に気をよくした大日本帝国はその理想を朝鮮でも実現しようとしました。

日本政府は決して当時の列強国と同じ様に単なる生産地、安い労働力の確保「植民地」という考えは元々ありませんでした。
何故なら明治政府は自分達の「日本の明治近代化の成功」を確信していたからです。
もちろん独立運動には厳しく取り締まりましたが、従順な者には恩恵を預けるように公共施設、インフラ、教育と惜しみないお金を日本本土から排出してゆきました。
いわば日本の成功を朝鮮半島、台湾を初め日本領土になった地で実践していこうとしていたのです。
戦前当時の朝鮮の人口比率
2627万
朝鮮民族97.14%
日本民族15.1%

開城府
7万98100人
朝鮮民族97.5%
日本民族2.5%

京城の日本人比率15%、その他羅津22.4%、釜山府18・4%、興南邑17.9%
朝鮮全体で3%です。
これでは管理出来ません。
元、清といった大陸の他民族王朝が大多数を治めるには「同化」と「融和」しか方法がありません。
1920年17万1543人→1931年52万4660人
ただし朝鮮人も含めるとその比率1%→2.5%
しかもそのうち80%が都市部、30%はソウル・釜山で暮らしていた。



では1910年8月 朝鮮併合
  朝鮮総督府設立
           寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件
           逮捕された数百人のクリスチャン朝鮮人から122名を裁判にかけ有罪になるも減刑される。           

           鉄道京元線や中央線・湖南線などを敷設
当初朝鮮総督府は「武断政治」を主導して行った。これは併合による民衆の暴動を抑え込む処置で今までの朝鮮情勢を考えれば、やもおえない体制です。
憲兵警察制度(日本人憲兵7712名・朝鮮人4410名)
言論・結社を厳しく統制
1910年9月 一進会解散
           朝鮮総督府官制公布
           日本国朝鮮誕生

   1911年内務大臣原敬
朝鮮人の同化の必要性を強調したが、「日本語能力が十分なレベルに達した暁には朝鮮人は朝鮮における府県の行政に参画することが望ましい。朝鮮人議員が将来帝国議会に進出することには何の問題もないと語った。
また朝鮮訪問の際には下層階級は日本人に好意をいだき、中間階級層は利益を奪われたと感じ敵意を見せる。上層階級は表面的には不満を見せるが内心は大いに満足している。
朝鮮人は日本人になりたがっている。とまで印象を語っている。

原敬:1856年生まれ盛岡藩士 内閣総理大臣、外交官、政治家
    平民宰相と呼ばれ国民だけでなく天皇からも信頼を得ていた。   
     1921年一鉄道職員に暗殺される。
  
   
   1914年第二次大隅重信誕生

   1915年12月朝鮮皇室博物館が朝鮮総督府博物館に改名
李朝朝鮮時代大韓帝国時代には博物館すらありませんでした。一般市民に開放するものではなくましてや遺稿や遺跡は無雑作に放置されていました。宮殿ですら瓦が禿げ、雑草すら生い茂り、まさに過去の王により建設さてら楼閣も老朽が激しく、なすがままでした。


  1916年寺内正毅内閣誕生(~1918年)
       
        長谷川好道朝鮮総督に就任

  1918年原 敬内閣誕生(~1921年)

    1919年三一独立運動発生
           高宗太上王の死をきに天道教、キリスト教、仏教の指導者達が中心に学生に呼び掛け大衆化・一元化・非暴力           の三原則で、「独立宣言」を読み上げることを計画した運動
    
宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家である及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。
この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立すること

フランス革命のテニスコートの誓い的な宣言書ですね。
 
代表33名は警察に逮捕されますが、独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当りました。
3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上り、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していきました。
しかし朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息してゆきます。

このデモの逮捕者に裁判が行われましたが、死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいません

それどころか集会や言論、出版に一定の自由を認める。
朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換。

当時の総督長谷川は朝鮮が本土防衛になりうる←ロシア対策、日朝間調和融和の強化、教育を重視していた。
そのつまり武力ではなく穏やかな融和を重要視しているきっかけが三一独立運動でした。


高宗の国葬への不満と見てとった明治政府は純宗の国葬の際には「朝鮮王朝儀式図」を記述した貴重な文献を東京へ取り寄せて参考にしたといいます。

1919年4月15日 提岩里虐殺事件
         日本人巡査殺害等の暴動を起こした30人程の暴徒を軍隊が鎮圧した事件

1899から1902年アメリカ統治下のフィリピンで反乱分子への容赦ない制裁を与えた。
1906年から1908年ドイツナミビアで強制収容所使用
イギリスは1899年から1092年ボーア人の強制収容所使用、1952年から60年ケニアでも同様

日本は1907年から1910年抗日武装運動鎮圧民衆を強制収容所使用していない。
   
1919年長谷川総督辞任 後継斎藤実朝鮮総督就任

1919年8月20日 憲兵警察制度廃止・警察組織強化

地方知事民間人官史待遇改善

教師の武器所持を廃止

斎藤の印象
スタール教授弁
「正直かつ真剣に自らの任務について語り、朝鮮人民の抱負に対して好意的と思える。」


イギリスの植民地研究の専門家アレン・アイルランド
「1922年の朝鮮においては、反日の過激論者を除けば、斎藤総督に対する世間一般の評価は次のようであった。総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていたのである」


1919年9月2日 姜宇奎斎藤実が朝鮮総督任命され来朝した南大門駅で斎藤総督暗殺未遂事件発生
         爆発によって護衛日本人警察ほか死傷者37人が死傷。

事件の一報を聞いた尹致昊はこのような感想を残している。
「エイヴィソン博士の話によれば、何という間抜けが斎藤総督に爆弾を投げたが彼を外れた爆弾により数名の野次馬が負傷したという。私はこの話を聞いて愕然とした。実に哀痛なことだ。朝鮮人は伊藤博文の暗殺が韓日併合を促進したことを忘れたというのか。馬鹿共めが。」  
 

 同年上海で李 承晩 呂 運亨 金九らによる大韓民国臨時政府を宣言するも国際承認は得られていません。
   しかも国を持たいはずなのに内部の権力闘争は激しく最終的に 李 承晩が臨時政府大統領と承認され全権を持ち日本の降   伏を経て大韓民国」を朝鮮に建国します。
1920年尼港事件発生
朝鮮人赤軍日本人守備隊および在朝日本人殺害事件

1921年高橋是清内閣誕生(~1922年)



1926年6・10万歳運動
純宗の死をきっかけに行われた社会主義者と学生により起こされた独立運動規模としては大きくなかった。



1929年光州学生事件勃発
日本人生徒と朝鮮人生徒の間に起こった決闘が発端となり、警察に身柄確保されたのが朝鮮民族さけだったので朝鮮人生徒らは日本の警察や歪曲報道をした光州日報に抗議をしました。
また朝鮮人学生と日本人学生の衝突が発生し、警察が朝鮮人学生を検挙した。
このことが光州高等普通学校の高校生を激高させ、検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開した。
その中の250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒らは同盟休学を結成し、日本に抗議した。
この学生運動に際して、民族主義者と社会主義者の連帯によって結成されていた新幹会が、現地に調査団を派遣して事件の実態を公表する大会を準備したが、警察による弾圧によって失敗に終わった。
しかしながら、この運動は朝鮮各地で1930年まで続き、4万人以上の学生を動員した。この運動は朝鮮全域に広まって6・10万歳運動以降、朝鮮半島で起こった最大の独立運動になった。

1929年斎藤実朝鮮総督に就任

1930年5月30日 間島共産党暴動

1930年ハングルによる参政権の投票が開始
1932年以降朝鮮人4名、台湾人1名の貴族院終生議員任命

1931年7月2日 長春北西に位置する万宝山で起こった、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民の小競り合い
          により日本警察と現地中国人農民衝突事件
 
1931年7月3日発生した朝鮮半島における朝鮮人による中華街襲撃事件

地域活性化運動始まる
自作農の創出
農民への教育(農業経済道徳)
減税処置
低利ローンの提供

21%生活向上
36%食料不足改善
1%未満 悪化
意識調査

1932年小作調停令
1934年農地令

地主が減り小作が自作農へ増えた。


1936年 南次郎朝鮮総督就任
南に現在の韓国では「創氏改名」で悪評される総督です。
が、実は当時一般の朝鮮人が一定の簡素な手続きさえすれば、毎月二回会合できるという気取らない人物でした。


日本政府による警察関係の調査「朝鮮人の独立に関する意識調査」よる

独立すべし8.1%

時期を見て独立すべし11%

独立断念32.6%

どちらでも可48.3%

もちろんこれをもって正しいかというと疑問はある。しかし独立すべしと10%くらいが数字で見てとれる事は意外でした。
どちらでも可という数字が生活レベルが向上するなら独立を望むという意見かと見ています。



1938年2月 陸軍特別志願令公布

1940年2月創氏改名

1942年小磯國昭朝鮮総督就任

呉善花著「生活者の日本統治時代」
D氏の聞き取り
軍部の要請に従い軍用米を内地へ移送する際には
「軍用米の移出を全部とめろ。軍部の意向がどうであろうとこれでは朝鮮が成り立っていかない。」
「自分が全責任を負う。食糧がなくては統治が出来ない。」と頑として軍の要望には耳をむけなかった。
このように総督府は民心の動向には大変気を遣っていました。


朴賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
住人達はもちろん、市内どこでも不安なく不都合なく、いかなる伝統衣装をつけてでも自由に歩くことが出来た。


1944年安部信行朝鮮総督就任45年9月退任
安部は日本統治以降の無政府状態になるのをおそれて民衆の保護を朝鮮へ自治権を与え、呂運亨に朝鮮人民共和国を成立させた。
しかし戦勝国に承認されず。
1947年 呂運亨右翼に暗殺
1948年 親米派李承晩を首班に大韓民国がアメリカの承認のもと朝鮮半島南部に建国

以降米ソ間で朝鮮の建国に民主・共産主義派の主導権争いにより




第一項 大日本帝国の朝鮮統治策

ジャージアキタ・ブランドンパーマー著
日本の朝鮮統治を検証するより

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「あの当時、特に1937年以降の多くの公式文書や政策から見てとれるのは、朝鮮人民の健康、教育、そして福祉の改善に取り組む総督府の強い意志である。・・・・・・・・彼らが朝鮮人民の生活レベルを向上させることが自分達の責務であると信じて行動し、民衆の健康富み、そして幸福の度合いを示す指標が改善されたと知った時、それで満足することなく、さらに努力必要があると訴えたことに注目するだけで十分なのである。」


上記からピーティー著日本の植民地帝国の引用
朝鮮総督府の日本人行政官達は専門家の一集団として高く評価されなければならない。
・・・・・・・・・・植民地における平均的な日本人官僚は優秀だった。・・・・・・・それぞれが公職者として積極的に富んでおり仕事に真剣に取り組んでいた。


朴賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
旧政時代に日本人学校の龍中には毎学朝鮮人の定員は2.3名
そのうち彼は「意地の悪い者が2.3人ほどいたけれど、伝搬的に肌で感じる差別はなかったといえる。日本人の後輩もちゃんと星座して僕に対してくれた。」

法科同級の友人に同じ質問をした事ところ「民族差別はしょっちゅう受けていたね」という返答だった。

僕はどちらも正答だと思う。これは微妙な問題である。




生き証人達の記憶

アメリカ戦後カリフォルニア在住朝鮮生まれ年配者51名の証言「ヒルディ・カン女史インタビュー」
朝鮮の日本統治下の体験者の声より

「私はつら」いことは何も体験していません。」

「ほとんどの人は日本の統治に順応していた。」

「自分たちの人生はおおかた自分たちの選択に基づいて生きる事ができた。

「日本人は総じて悪くはなかった。私たちはお互いにうまくやっていた。ただ私たちを困られせたのは警察官でした。」

「警察署長のものの言い方は丁寧で」

「日本人の中で特に親切だったのは警察官だった。」

「私たちの町で最高権力者の日本人警察署長は父に出会うとしんしんと礼をしたものでした。」

「日本人からも政府の役人からも不愉快な目にあわされた記憶は一切あません。」
また独立主義者の疑いを憲兵に疑われた家族も元を監視していた警官と親交した事で戦後韓国内で日帝協力者として告発された。

私は日本人に対して敵意をいだいた事はありません。日本人が私たち朝鮮人を迫害しているなどど感じた事はありません。」

「私たちに話かける日本人教師の言葉つかいは丁寧でした。」

「私の日本人のクラスメートととても仲良くしていました。」

校長先生は朝鮮人を見下していたとは思いません。とても教育熱心でした。」

「4.5年間に4度昇進しそのつど昇給していました。日本人の同僚と同等の待遇を受けていて差別されたことはありません。」

日本人上司は朝鮮人差別に対して非常に嫌っていて全員平等に扱ってくれました。」

「近所の日本人家族と非常に仲良くなりました。」

いちばん親しかったので日本人家族です。」

「私の父は日本人がやってきた事を大変憎んでいた。しかし私にとって日本人はそれほど悪くはなかった。」

僕賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
本気で朝鮮の独立運動しようとか、独立が可能とか思っている者は一人もいなかったというのが正直な告白である。


呉 善花著「生活者の日本統治時代」
在朝日本人の聞き取りA氏
「両班が怒ると農民達をひどく殴るんです。農民達は彼らにいくらなぶられても抵抗することなく服従していました。父はいつもそれに腹をたてていました。あるとき堪忍袋の緒が切れたんでしょうね。父はこれはとうてい許せないと言って警察に訴えたことがあります。・・・・・・水原では日本人と朝鮮人が衝突したとか、喧嘩したとかなんかのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。・・・・・・学校ではここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て済んでいる。朝鮮人と喧嘩したり朝鮮人をいじめたりしては絶対ににしてはいけません。と盛んにいわれていま、親からもそういわれていました。・・・・・・・・・・父は貧困な農民達の治療に励んでいましたが・・・・・・・・病院を辞める時には多くの朝鮮人が家にきて「どうか辞めないでください」と泣いて別れを惜しんでいました。・・・・・・・・朝鮮人の青年に生意気だというといきなり殴りかかってきたんです。・・・・・・・・警察では告訴するかと効かれましたが、父に「その程度の事で訴えるのは日本人として恥ずかしい事だ。朝鮮人から慰謝料をとるような事をしてはいけない」と言われました。中学校ではとくに朝鮮人との喧嘩には厳しくやれば停学でしたから。・・・・・・・実際朝鮮人の街中で日本人だと威張って身勝手な振る舞いをすることなどとうていできることではなかった。


H氏の聞き取り
「半島や大陸へ出て行った日本人は、日本人の誇りを高くもっていましたし、自分達の手で新しい世界を建設するんだという理想に強く燃えていていました。」


元教師S氏の聞き取り
「皆かなり積極的に日本語の勉強をしていました。史跡の女の子にも日本語やハングル語を教えていました。」
女学校では皆(朝鮮人含む)仲がよかったです
創氏改名について「生徒には変えていない者もいて文句をいうものもありませんでした


元警察官T氏の聞き取り
支那事変が起こると「内鮮一体」という方針が出て、在満朝鮮人の要望もあり創氏改名してもよろしい・・・・・・・・・強制はまったくありません。・・・・・・・・・・・・・・・治安維持のために一生懸命働いたということです
Y夫妻の聞き取り
子供の頃には朝鮮人の子供たちと毎日遊んでいました。少年時代はとても平和でした。
同級生の中には「当時の日本学校は心のふるさとですよ」と言っていました。
Y女史の聞き取り
彼女(母の教え子)の間ではいやな思いをしたことは一度もありません。
仲の良かった思い出がいっぱいで朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったこと本当に見たことも聞いたこともありません。

「父は中学の漢文の教師をしていましたが、他人の為によく働く人でした。・・・・・・・戦後もずっと治安のよさが続いていていました。横暴な振る舞いなどいっさいありませんでした。」


総督府勤務D氏の聞き取り
「総督府でも道庁でも日常の職務遂行の中で朝鮮人に差別的な感じをもったことはありませんでした。」
「(在朝日本人の引き上げ風景より)駅前広場では日本人家族と別れを惜しむ朝鮮人家族の姿に出会いました。」


韓国人からの聞き取り

B氏の話し
「学校では生徒からも先生からも差別をされたことはありません。商業高校の恩師二人はとても尊敬できる方でした。・・・・・・・・・・殖産銀行でも羅南支店に配属されましたが差別的な扱いを受けた事はまったくありません。一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか観たこともありません。・・・・・・・・自分にも徴用の赤紙がきたんです。・・・・・支店長は知事に対して「彼が行ってしまってはこの銀行の仕事は止まってしまう。」といって重用を撤回させたのです。自分にとって一生の恩人です」
M氏聞き取り
「農場の日本人たちはとても勤勉でした。・・・・・・・日本字の経営する農場には韓国人がたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算してわたしてくれました。彼らはとても礼儀正しく日当を払わないような事」はまずしません。」

B氏の聞き取り
「日本人の先生達は皆非常にいい人でした。・・・・・・・・今日が豊かに暮らせているのは日本の教育がよかったからです。偏りなく全体的に正しく教えてくれます。」・・・・・・・軍人は三一運動の時表面に出て以来ほとんど一般市民の前にはァ割られる事がなかったんです。

R氏の聞き取り
「お前達が独立するためには経済の力だ」


インフラ整備
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鉄道

大韓帝国時代から太平洋戦争で日本が敗戦するまでの期間朝鮮半島に主要な鉄道網を作りあげたのは日本の金、技術、あらゆるものをつぎ込んだものの結果です。
確かにその目的は大陸への(満州・後の日露戦争への足がかり)であったとしても、現在に至るまで重要な交通網であったのはまぎれもない真実です。

港の整備

1918年仁川港完成

その他羅津港・清津港・雄基港など多額の本土の予算を歳出して完成させた。

道路整備
李朝朝鮮末アメリカ人ローウェル記
「朝鮮では道路が非常に貧弱である。この半島の道という道は全く整備されていない」
と記録しています。道路整備で流通網が確立するのです。併合後それは日本によってお
こなられました。

朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダム
410件の水路の建設
5億9千万本以上の植林
砂防ダム建設

1920~30年代朝鮮半島経済成長率年間約4%
朝鮮半島1人当り生産成長率約2.4%と高い

鴨緑江大橋
朝鮮では橋はあっても簡素で粗末な物ばかりでしかも老朽化で溺れる者が多発したといいます。
交通手段は船が主でした。だからこそ流通網が構築されず経済が低かったといえます。

四奪 土地

これは朝鮮総督府が行った土地調査、所有者の権利確定を指します。
根拠は「日本語の出来ない朝鮮人達は土地を所有していたのに登記出来ず先祖代々の土地を奪われ、より貧しくなり満州などの外国に放浪するしかなく故郷だけでなく国を奪った。」という主張です。

この調査で土地所有者の特定できない土地は全体の2.6%だけだった
これを朝鮮総督府は東洋拓殖株式会社や安価で農民に与えた。

またその土地を朝鮮人から略奪して日本人に分け与えたというが
1929年
耕作者数
日本人耕作数10390名 朝鮮人20801827名  
1942年     5893       3043465  
これはその他工業や商業に労働者が移動したのであって近代によくある例
           
李 秉喆(サムスングループ創業者)、金 智泰(東洋拓殖㈱元職員韓国の政治家)、鄭 周永(現代グループ創業者)など朝鮮の実業家へ頭角を現し始める。

しかし朝鮮ではそもそも土地所有という概念がない

国法
土地は朝鮮王の物

つまり農民全て小作人唯一許されていたのが家臣への土地贈与「私土地(科田)」
これは徐徐に国庫が厳しくなると官僚達の給与は「土地」に換えて支給されたために土地はまったく未開拓地か国王王所有か官僚=地主かしたなかた。

しかしこの私土地も一部は奴婢や庶人に無報酬で勝手に開墾させて蓄財する。いわば横領の行為そのものでした。

ジョージアキタ著「日本の朝鮮統治」を検証する。
ピーティー著日本の植民地帝国の引用
「土地の調査と登録計画は徹底的に正直なものであり、朝鮮の耕作者の犠牲の下で土地を日本人に再分配するように初めから意図されたものではなかった。」


1905年から45年まで朝鮮では一度も飢饉がおこっていないことには注目に値する



教育

ウィリアム・グリフィス著」「隠者の国・朝鮮」
朝鮮の百姓は一般に文盲である。おそらく農民階級の男の十人に四人が中国語か朝鮮語を読めるだろうが、女も勘定に入れると約85パーセントの人々は読むことも書くこともできない。ただし地域差は大きい。


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1912年朝鮮語の教科書「普通学校用諺文綴字法」作成

1925年4月 朝鮮総督府図書館開設

1926年4月1日 京城帝国大学開設
その後1924年にまでに法学専門学校、高等工業・商業・農林学校、師範学校、中等学校あわせて148校が開校した。
尚この京城帝国大学は国外で初めての大学であり大日本帝国で6校目の帝国大学です。
大阪・名古屋・台湾よりも早く開校したのです。
1942年(昭和17年)の朝鮮人の就学率は55%、日本語普及率20%
城大医学部1930年(昭和5年)の第1期卒業生
日本人43人と朝鮮人12人
全体1937年(昭和12年)の日本人学生と朝鮮人学生の比率が70.2%と29.8%

1942年(昭和17年)
60.4%と39.6%

ジョージーアキタ著「日本の」朝鮮統治を検証する」
日本が教育面で遺した実績は最高の分類に属する事がわかる

1938年には朝鮮の各都市ので課題「下水道の未整備」による悪臭、汚物衛生面の改善を行う。

衛生指導、集団予防接種が行われコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率減少

平均寿命は24歳→56歳まで伸びた
数字を見よ!!!

五奪 国語?

1941年3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止を意味していると思われるが。
当時は戦時中であって日本・朝鮮民族の集結・同化が必須でした。

というか!まず国語を奪ったという対象はハングル文字を指すのですが、そもそも李朝朝鮮の公式文章はすべて漢文です。
両班は世宗作らせたハングル語を蔑視して発布事業は上奏が絶えず大変苦労したといいます。
よってハングル語は両班の女性もしくは中人の女性・一部男性の利用しかなく常人・奴婢など貧困層はそれすら読めなかったのです。
字識率3%以下っていう民族に日本人に国語を剥奪したと責める権利はまったくない
1926年4月1日 京城帝国大学開設

1938年に「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強1943年末で22%

1945年の「解放」当時南朝鮮の12歳以上の総人口の78%は依然としてハングル文盲
普通初等学校への就学率は1910年で1.0%
1923年11.2%
1935年21.7%
1943年49.0%

イザベルバード著「朝鮮紀行」より
朝鮮の教育はこれまで愛国者または正直な人を生み出せなかった。
狭量、千篇一律、自惚れ、横柄、肉体労働を卑しむ間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に卑しむ評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。


この教育は両班の書院でのことを指しています。但外国人伝道師や外国の資本で開校した学校もありました。
19世紀末金弘集が勧めた改革でも義務教育制度は機能していなかった。
朝鮮民は教育とは無縁でした。

教育に関しては保護国となって伊藤博文が初代総監になった際に義務教育を先導しておこなっていた。
1906年の時点でも小学校が全国で40校未満で伊藤は当時の大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責学校建設を改革の最優先事項とし、は1940年代には1000校を超えていた。
初等学校への就学率は併合時代の最末期で男子が93%、女子が70%代にまで急上昇した。

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1930年 諺文綴字法制定
習字に堂々ハングル語があります。
1938年朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外れる
これはやはり戦時中の影響
但し朝鮮語を禁止した事実はありません!

1941年3月国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止
これは太平洋戦争へ開戦するにあたって朝鮮と日本の同化政策のために行われ事で即朝鮮語禁止というわけではありません。
但し戦況厳しくなると同化政策も強固な方針となり、「学校内での朝鮮語禁止策」はとられ、教師達にたしなめられた経験者がいたのも事実です。

朝鮮総督府に1921年~1945年の日本統治終了までに朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進・給与を有利に処遇

1943年において日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった



もし本当に朝鮮語を奪ったというなら日本語の出来ない80%の朝鮮人は何語話していたのでしょうか?教えてほしいものです

朴賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
1940年「東亜日報」「朝鮮日報廃刊をうけて」
すべての学科は日本語で教育された。最も担任が日本人だったから当然のことだろう。・・・・・・・・・
日本の政府当局が朝鮮語の抹殺をはかったかどうかは判断するのは難しい。
彼らが学校で日本語を強要されたのは事実であるが、生徒達はこれに抵抗することなくよくしたがった。

日本の教師達は優秀でおとなしい


当時は戦時中であり「同化政策」により、国民の巨党一致を望んだというべき。


各官庁および高等裁判所建設

李朝朝鮮では法はあってもないが如くでした。
多くの無罪な良識ある両班しかも高官官僚がいわれのない謀反や暗殺、陰謀を企てた。庶民には「両班の」ようにふるまったゆわれのない窃盗、障害、殺害、高額な税を納めないとだけで激しい拷問や残酷な処刑方歩で殺害した後最後には惨殺していました。
一般的な拷問は韓国ドラマ李朝朝鮮時代中でよくみかける
笞刑
いわゆる鞭叩き下半身を裸にして板の上にうつぶせにして尻を木の棒で激しく何度も打撲する。
尻や足の辺りの肉片が飛ぶくらい叩きつけるので血が飛び、足の骨を折るほどまで行われた。

周牢
足を固定両膝と腕を縛った後二つの木の棒を向こう脛または太ももの間に挟んで両端を交錯(クロス)するようにねじりながら曲がるようにする刑罰
骨折、脱臼を目的にした。

この二つとも日本統治時代に廃止になります。

処刑方法
凌遅刑
生きたまま肉を切り取りながら、少しずつ出血多量で死に至る残酷な刑罰

罪人の手足に縄をつけて上下で二頭の牛に繋ぎます。牛を打ちその作用で手足がバラバラになった後、胴と首だけになる激しい苦痛と恐怖の後これも出血多量で死に至る。

首を切断した後、道に放置される。
民衆に恥辱を受ける。

生きたまま皮をはがされる。

頭だけ地面に出され、首に刃物で一筋切り傷をつけられ近くに鋸をおかれる。通行人に一回ずひかせる。
苦痛と恐怖の後これも出血多量で死に至る。

わざと暴徒の中に投げ入れ惨殺させる。
まさに刑さえも人まかせ・・・・・・・・。国家でなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

しかも殺しただけでは気がすまないとわざわざ墓を掘り起こして5体をバラバラにしてさらに恥辱させました。

ウィリアム・グリフィス著「隠者の国・朝鮮」
拷問の豊富さは、朝鮮がいまだに半文明国にとどまっていることを示すに十分である。法院と監獄の発明品としては、鉄鎖、背中を打つための竹、尻を打ち据えるためのパドル状の器具、肉が裂けるまでふくらはぎを叩くための鞭、肉と内臓を苛むためのロープ、手かせ、杖、そして膝とむこうずねを叩くための板等がある。
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日本統治時代は当然禁止、しかもちゃんと裁判所で結審、罪がある場合刑務所で衛生的、人間的に扱われ、死刑は当時の世界の一般的な処刑方絞首刑です。
現在よりもやはりそこは人権????でしょうが李朝朝鮮、大韓帝国時代よりまとも文化的近代的でした。

四奪 資源?

元々朝鮮半島に資源が豊富であった事は李朝朝鮮時代に訪れた外国人の書いた書物で知られていたものの、当時の李朝朝鮮ではその発掘が厳しく禁止していました。いわゆる宝の持ちぐされ。
両班が常人以下の金を暴力的に詐取したように、宗主国の清に「献上」という名の「消極的略奪」を受けていました。
これだと持っている方がかえって損失になるという意識を植え付け結果発展しないというスパイラルに入ります。

という事は日本が資源を詐取したというのは当時の輸出先が日本であった。という事実をそのまま略奪した。と乱暴に言い換えたにすぎません。
輸出という事はその分販売価格が朝鮮へ入る。
しかも当時の総督府は内地の予算の多くを朝鮮へつぎ込んでいたので差し引きしても大きな資産です。
また工場の労働者として雇用も生まれるので失業率も下がります。

朝鮮半島の資源は主に北部に集中していて、当然原料となる資源が豊富な場所に工場が建設されたよって敗戦後、北朝鮮の方が経済が豊かで南は経済的に疲弊していたが、韓国はベトナム戦争への派兵にともなう特需と日本からの戦後賠償を含む莫大な規模の経済・技術援助によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。
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1918年日本製鐵 兼二浦製鉄所操業開始

1927年朝鮮窒素株式会社設立

1935年朝鮮石油設立

1936年 鮮満拓殖設立

1937年 朝鮮重工業(現韓進重工業)設立
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1937年水豊ダム建設開始
1942年清津製鉄所操業開始

ジョージアキタ著「日本」の朝鮮統治を検証する」より
「地位向上のための運動はなにも工場、鉱山、建築現場の労働者に限られたものではなかった・・・・・・・近代部門の務め口においてさえも、広くいき渡っていた。」


申起旭著
1940年代GDP工業、農業が40%その他
輸出の50%が工業製本
1937年まで朝鮮企業40%内30%は日本人共同経営
朝鮮資本13%

植民地体制下で勧められた朝鮮の産業化が韓国産業のその後の大変身の礎となったことはほぼ議論の余地はないのである。




1944年4月第1回徴兵検査開始

1944年8月女子挺身隊勤労令公布

1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令

まずはっきりしないといけないのは朝鮮人の徴兵令が布かれたのは1944年これは1945年終戦の一年前です。

当然日本人は明治から徴兵制が採用されていていわば朝鮮人は特例的に例外とされていた。しかし戦況厳しく兵力として大いに期待できる年齢の男子がいよいよ少なく1942年からは学徒出陣が始まっていました。
朝鮮人にはその1年後に朝鮮本土で「志願兵制度」が施行されていました。
当時北京で通州事件が発生し同地で中国兵による朝鮮人、日本人への無差別殺害が行われた事件により嫌中が頂点に達しており、日中戦争への現地派遣を願った朝鮮の若者が志願募集に殺到中には不合格に「自殺」する者までいたという記事が出ていました。

ジョージアキタ著「日本の朝鮮統治を検証する」より
「特別志願兵制度と徴兵制度を実施するにあたって総督府が選んだ手段と行動は、日本の植民地政策は日本の国益にかなうかたちで施行されたというものの、比較的穏健なものであったことを知る重要なてがかりになるが、実は三一独立運動のはるか以前にさかのぼるのである。」


徴兵制度に起因する暴動に関する言及はない。
特別志願兵と徴兵制度を実施するにあたって総督府が選んだ手順と行動は日本の植民地政策は国益にかかるかたちで施行さえたとはいうものの、比較的穏建なものであった・・・・・


僕賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
学徒動員令に対し学生達が反発する気配は見られなかった。戦争だからしかたないという気持ち・・・・・


呉善花著「生活者の日本統治時代」より
朝鮮人達がそんなに日本人への反発心をもっていたなら、あれだけたくさんの朝鮮の青年が志願して特攻隊に入る事などあたでしょうか?



六奪 人命

これは独立運動家への処罰、独立運動の鎮圧による被害者への殺害を指していると思われます。

確かに初期の頃治安維持を目的に憲兵警察制度を導入した総督府は武断統治によって朝鮮を統治しようとしていた事実はあります。
また朝鮮北部、および満州での抗日独立運動家(日本側ではゲリラ)を鎮圧するにあた武力制圧
その結果人命が奪われた事はあったと考えます。

また内地において関東大震災の際に「朝鮮人の暴動が日本人へ大量殺害のために攻襲撃する。とか朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだといたデマが流れ、暴徒化した一般市民による無実の朝鮮人が無差別に殺された事実はあります。

ただ当時の世界基準でオランダ(インドネシア独立戦争でフランス軍がインドネシア人7万5千人から20万を殺害)、フランス(フランス軍がベトナムで100万人を殺害したインドシナ戦争)、イギリス(インド独立運動における鎮圧による)等外地に植民地を持つ国々は自国の軍隊を発動し鎮圧した事実も忘れてはいけません。
また朝鮮国内でも両班が無差別に理不尽な要求を下級階級の人々への暴行が日常的に行なわれ、殺しても罰せられなかったという事実も忘れてはいけません。
しかし1919年の三・一独立運動以降武力による統治は不可能と路線を融和政策へ切り替えます。

統計学上日韓併合後確実に人口は上昇しています。

李朝朝鮮・大韓帝国時代は統計がはなはだ信用できないので、保護国時代の総督府資料
朝鮮内で朝鮮民族だけの統計
1907年 1167万
併合時
1910年 1313万
三一運動
1919年 1678万
1930年 1969万
1940年 2295万
一度も下降していません。

1937年7月盧溝橋事件から日中戦争へ。

朴賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」
その当時まだまだ平和の心地よさを満喫しているかのように見えた。
・・・・・・・・国民皆兵が鉄則になっている日本であるのに朝鮮人には徴兵制が布かれていなかった。朝鮮人には終戦1年前昭和19年に初めて徴兵制が布かれ、僕は徴兵第二期生として甲種合格となった記憶がある。



徴兵制はまず、検査がありそこで合格不合格が内示される。
それから派遣先が検討され、実施となるが、その頃には終戦を迎え、戦地で戦った兵士はそれ以前に「志願兵」か「朝鮮軍人」に限っていました。


七奪?創氏改名 

これは創氏改名実施の事を指しているのだけど実は「本貫」共に戸籍に記入されいわば通称を別に登録した行為にすぎない。
なので本貫の姓を破棄させて新たな姓を日本名に変更したわけではありません。
元々満州へ移住していた「在中朝鮮人」の農民達から相次ぐ馬賊や冷遇する中国人への防御策から「日本人となったのでから日本名を名乗りたい」という要請に従って施行された制度で自由制度で強制ではありません。

朝鮮貴族になった元大韓帝国の内閣閣僚達は率先しておおじました。 


その受付期間は1940年2月に始まり6ヶ月間、この届け出をしない者には家長の姓を自動的に氏とする「法定創氏」となりました。
結果 届け出は80%、未届け出20%

当時の新聞などにもあきらかに朝鮮姓での掲載がある者がいて(その中には朝鮮総督府付職員・国会・地方議員・検事含む)、強制ではないというのが事実です。
ただし当時の元両班・有識者の尹 致昊(男爵)は強制ではないが、「創氏改名」への届け出総督府から再三要望があり、一度は拒否したが、やもなく家族と話し合い「伊東」と届けたと日記にあり影響力のある人物を率先して届け出をさせたというのが本当だろう。

多くの朝鮮人で元々姓をもたない白丁、奴婢以外の元階級の人々は心中では届け出したくないが。
「しない事でいやなめに合うのは勘弁という」心理が働いて上記の数字に出たと考えたほうがいいです。

「いわば我が家を訪問しにきた押しの強い押し売り屋」的な事。
だって押し売り屋にでも「NO」は言えますよね。
「家に入って包丁をすきつけて、金をまきあげたのではない」という事です。

朴賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
当時創氏改名は強制されたものでは」なかった。

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戸籍の上では元の姓はちゃんと残っているのだから姓を奪われたという非難は当たらない。

まだまだ奪われたと主張する物があります。


農林業
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植林される「元禿山」
1933年  都市部と山間部の植林
        「朝鮮独特の家屋暖房装置が結果として招来する放漫かつ非生産な燃料消費、厳しい冬、稠密な人口、森林伐採に        対する一切の国家的監視ならびに規制の欠如はたちまちのうちに由々しい結果をもたらした。」
                朝鮮旅行記よりゲ・デ・チャガイ著
朝鮮半島はソウルなど都市部以外、地方にいたるまで山は禿山ばかりであったため、ちょっとした多雨で洪水となり飢饉を誘発していました。
1933年から1942年ごろにかけて南部の美観の不足である「禿山」を根絶しようと造林事業が行われた。
ただし国有林制の導入などによる自然復元によるところが多く、朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営をした場所もあります。


イザベラバード著「朝鮮紀行」より
「済物浦からソウル間の禿げて緑にとぼしい山山・・・・」


朝鮮文化を抹殺した?
現在でも高麗青磁は大変貴重で人気が高いのですが高麗を滅ぼした李朝朝鮮時代にはその製法は途絶え、ただ窯跡と破壊された破片が存在しただけでした。
それを復興させたのが谷義景氏そう日本人です。

1908年9月に伊藤博文により朝鮮皇室博物館が1915年12月に朝鮮総督府博物館と名称が変更になった。
これが現在の韓国国立中央博物館の原型です。
私は何度か国立中央博物館を見学した事があります。しかしその展示物の少なさに正直???とい印象です。
やはり李朝朝鮮時代では文化が発展せず、遺構が無雑作に扱われ、仏教文化も根こそぎ放置された過去を物語っています。


朝鮮総督府は1993年まず朝鮮国内の文化財を海外に流出するのを防止する法令を施行
各地に残骸や未発掘の遺跡を再発見してその保存に尽力します。

壇君居城発見、皇吾里古墳発掘、楽浪宮城、高句麗遺跡跡発掘、仏国寺修復計画

そしてその朝鮮文化におおいに貢献した日本人「柳宗悦」氏がいます。
朝鮮の陶磁器や古美術を収集し1924年(大正13年)には京城に朝鮮民族美術館を設立したり。
景福宮光化門が取り壊されそうになると、反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。



1909年に発見された石窟庵は現在韓国のユネスコ世界遺産
これが日本統治時代に発見日本により三度にわたる大規模な修復工事されたものの崩壊寸前倒壊の恐れがあった。
天井が抜け落ち、仏像に直接雨が当って周囲の仏像の配置もすでに不明で、全体の半分以上が土に埋もれていました。

日本により三度にわたる大規模な修復工事の結果現在の姿があるのです。もしあのまま放置していたら石窟庵跡と紹介されていたでしょう。
ところがその工事で換気が難しくなり、石窟内に溜まった水によりセメントが溶かされて花崗岩の彫像が侵食されたり、本尊仏の下の地下水を集めて排水する機構が失われて地下水で冷やされた石に水分が凝固するなどの問題が生じたと非難しています。

しかし1944年に現地調査に基づく石窟庵研究書米田美代治著「朝鮮上代建築の研究」発行
補修後20年を経た日本統治時代終盤でも石窟庵に異常はなかったと主張できます。


慰安所と慰安婦

慰安所は近代国家が戦争する上で戦地の治安維持にどうしても必要な施設です。
ベトナム戦争おいても「アメリカ兵のために慰安婦を韓国は供給していました。 いわゆるテキサス村」
その事は黙認するのに対日本が相手だと??????

まず慰安所・慰安婦は実在してました。

但し
①元々技生しくは自身の事情で慰安婦という職業についいた娘(昌技・娼婦の芸子)
→李朝朝鮮以前技生は国家認任育成専門学校も存在していました。
その格は三段階で一位官技生(給与はすくなくほぼ両班の愛人か妾で生計をたててました) 二位娼技(芸子+娼婦・いわゆる技楼で働く芸者+遊女的な存在) 三位娼婦(芸すらない娼婦)


併合後も存在し、いわゆるプロの売春婦。
戦時中は兵士紀律と現地の治安維持目的に彼女達は現地の業者(朝鮮人経営)の求人に応じ募集に集まり慰安所で奉まり売春していました。その給与は高く時に夕食会や園遊会に同席していました。
韓国で現在「慰安婦」と自身で公表されている中に技生の経験がありながら「軍に騙され売春婦にさせられた。」と公言しています。
→彼女達は自分の意志であるにもかかわらず、恥もなく嘘を風潮しているのです。自分には責任がないと!
  避難する側にたてば避難される事はない。日本人のせいにすれば全て許されると

韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編
「証言集 強制連行で連れていかれた朝鮮人慰安婦たち」より
40人の聞き取り調査の上
21人は話しの前後でつじつまがあわず証言集からも削除
15人貧困による人身売買
 2人は釜山、富山の慰安所にいたというが、この地区は多くの娼館の集まる都市でその必要は皆無。
あとの2人が今日名をあきらかにしている。
元慰安婦金学順
強制連行したと日本の裁判所の法廷で
「養父に技生に売られ、養父に連れられ北支のかっか県鉄壁鎮へ行った。(これは慰安所に入所した)」
聞き取りでは
「養父に連れられ北京の食堂で日本軍将校に襲われ連行された」
↑話がかわってます。

元慰安婦文玉珠
「女中をしている時宋という朝鮮人から食堂で働かないかと誘われビルマに渡り慰安婦にさせられた
聞き取りでは
日本の軍服、太刀を持つ男に拉致され中国で慰安婦をさせられた後、友人から上記の話」と続く。
96年の慰安婦だった私では
技生だった。」
92年5月12日毎日新聞に戦前26000円の通帳貯金の記事があり、当時のその額は陸軍大将の年棒の2倍

これはもうプロの娼婦という証
強制連行で無報酬で働いていたという虚偽があきらかです。

呉善花著「生活者の日本統治時代」
朝鮮の田舎に行って若い娘達を奪ってきた・・・そんなことはありえない。・・・・・・・・・・警察署長、裁判所の判事、検事など朝鮮人がいました。朝鮮総統府でも朝鮮人がいました。・・・・・同じ権限を持っていました。そういう状況下で女狩りが堂々と行われ一人として問題にする者がいなかったなんてありえることではないんです。



僕賛雄著「日本統治時代を肯定的に理解する」より
戦地の売春の値段
1時間兵1円・下士官1.5円将校2円泊まり10円
1か月のかせぎを斡旋業者と折半する。

儲けは兵士の給料の20.30倍になった



②親に促されて・騙されて売られた娘
→当時の朝鮮貧困層はきわめて劣悪な生活をしていました。そのから脱するには娘を売り飛ばし金に換える事でした。
日本でも昭和にはいっても東北で冷害が発生した時などは農村の娘は遊郭に売られていきました。
儒教の強い朝鮮では親の意志は絶対です。中には娘をだまして家から出した親もいるでしょう。
日本においても同じで飢饉がおこると農家の娘達は売られていく現実とおなじです。

→その娘達が親を責める事は儒教社会では出来ないので本人も親も軍のせいにする。手っ取り早い方法で証明ができません。

③誘拐して・または工女になると騙されて慰安婦斡旋業者に売られた娘
当時の朝鮮朝日新聞社および東亜日報で朝鮮人悪徳業者が娘達を誘拐して満州に売り飛ばした。工女になって高収入を稼ごうとという記事がひんぱんにでています。
そしてそれをも逃さず、一斉に取り締まりを強化するように指示しています。
娘達は言葉たくみに娘達をだましもしくは強奪し、しかも「日本軍の命令だ!」と嘘の発言を彼女達にしていたのです。

結果悪徳業者は沈黙し、ハルモニになった娘達が現在騒ぎたてているです。
日本でいくら旧日本軍の関係資料が発見出来ないはずです。ない事はある事よりも証明できませんから。

④強姦被害に遭いそのまま慰安婦となった娘
日本の連合軍の統治時代でも欧米人の日本女子への強姦は日常的に発生していました。しかも占領下でしたから訴える事も出来ません。当時の日本政府と連合軍は「公娼館」の必要性を痛感していました。
そこでいわゆる慰安所が出来上がったのですが、皮肉にも被害に遭った女性が入所する事が多かったといいます。
同じ様な事が朝鮮でなかったとういいません。
それが日本人なのか自称日本人をなのる朝鮮人なのかは不明でしょうが。

⑤各地で警察官軍関係者と斡旋業者が単独で騙して連れてこられた娘
全ての日本人が善良とは言えない。現地の軍人や警察官が斡旋業者とつるんで半強制的に娘を強引に慰安婦にした。
可能性はある。あくまでもの単独行動としてですが。

強制連行

在日韓国・朝鮮人の祖強制連行という誤解。
まずはっきりしておきたのは現在の在日の彼らは本人達の自由な意思で渡航したのであって、欧州のアフリカ人達を拿捕首輪につけて無理やり連行し、時に命を奪うほどの労働を課したのではないという事実です。

一部朝鮮国内でいわゆる徴用労働はありましたが、当時戦時中であり日本国籍を有する彼ら245人(この数字の少なさ)は日本人と同等の義務でした。
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本土の男子日本人が徴兵される中、重要な労働力としてかりだされたにすぎません。
こんな身なりのきちんとした徴用者がいるでしょうか?

ほとんどの渡航者は職を求めて本土へ移住しました。朝鮮では生きてゆけない者渡っていったのです。
日本で目にする朝鮮人達は見た目に貧しく貧困層がスラム化して社会を形成していたのもあり、また得体が知れず、習慣の違から差別意識が高く「朝鮮人差別」根強いものがありました。
戦後日本政府は帰国希望のある在日朝鮮人を帰国させる事業、朝鮮戦争後韓国へ希望者が帰国したりしていました。

在日韓国・朝鮮人は希望意志により日本で暮らしているのです

1945年9月 アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政宣言

朝鮮に残る日本政府および日本人個人総資産額(GHQ試算)

702億5600万円
現在の価格で13兆3486億円



坪井幸生著「ある朝鮮総督府警察官僚の回想より
「知事は鄭僑源という高齢の朝鮮人であった。・・・・・・・・・知事は日本人と朝鮮人は助け合って非常事態に対処しなければならぬ。」
敗戦を知った後の知事の訓示から
この記述で地方の警察組織のトップが朝鮮人であるという事実。
そしてその良識が極めて高い事に驚きます。

戦後すぐ各警察署にいた政治犯思想犯は釈放、刑務所に入所させられていた者も順次釈放となりました。

坪井幸生著「ある朝鮮総督府警察官僚の回想より
解放にわきたつ朝鮮人に向い著者
「不幸にして戦いにやぶれて日本人は大きな悲しみに陥っている。この悲しみの中に、せめてもの喜びは兄弟である朝鮮が独立することである。私達は爆撃された祖国、荒廃の故郷に帰らねばならない。この哀愁の日本人の心情を察してもらいたい。」
すぐに電話で朝鮮人から激励的反応が二、三あり、私は意を強くした。


(解放後しばらくして)反日機運は一つの流行病のようにさかんになっていった。



ジョージアキタ著「日本の朝鮮統治を検証する」より

朝鮮は全般的に見れば日本統治下で利益を得た。





尹 致昊
この方の経歴が非常に興味深い
親派→開化派→親米派→親日派→反日派→親日派

17歳で紳士遊覧団(朝士視察団)の一人として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人として開化思想を吸収

日記より
人種の偏見や差別が激しい米国、悪臭がする中国、そして悪魔のような政府がある朝鮮ではなく、東洋の楽園であり世界の庭園に恵まれた日本で生きてみたい。

これは彼の父が妾の子であるために科挙に受験できない事が大きく影響したと思われます。

清の留学時代
清人の家は陰気で測量もなく日本人の清潔で明るい家と比べることができない。しかし我が国の人々の便所のような家をどうして清人の2階建ての家と比べられようか。

私の国の自慢することは一つもなく、ただ欠点のみを知られることが多いので一層情けなく、一層日本が羨ましくて耐えられない

朝鮮が今の野蛮的状態に留まるよりはいっそ文明国の植民地になる方がより良い

もし私が思いのままに私の故国を選択できるならば、私は日本を選択するだろう。嗚呼、祝福された日本よ!東方の楽園よ


私は彼らが大韓の最後の希望、独立協会を粉砕するためにロシア人らを助ける理由を(民衆が)知ることを心より願う
これが国王とは!いかなる嘘つきで背信的な臆病者でもこの大韓の大皇帝よりさらに卑劣な行いはできないだろう。政府は親日奴隷兪箕煥と親露派趙秉式の手中にある。ロシア人と日本人らは間違いなくある種の利権のためにこの事件に介入して彼らの奴隷を支援している。呪われよ日本のやつら!

日韓併合で韓国が日本に支配されると、1910年10月公職を辞退し、従二品級の高官だったため男爵爵位が賜れたがそれを断わり引退。

伊藤博文の暗殺が日韓併合をもたらした、と結論。
1911年9月22日、男爵だった父が死去すると、形式的に男爵爵位が授与された。

1911年、105人事件後民族主義者として逮捕され、裁判で主謀者とされ3年間投獄された。
1912年2月5日最終的に懲役10年を宣告され、1913年10月9日には男爵爵位を剥奪。

しかし1915年2月13日に出監し、親日への転向を毎日新報の記者に語った。

我々朝鮮民族としてはあくまでも日本を信じ、相互の区別がなくなる時まで努める必要があると考え……以後は日本のさまざまな維新紳士と交際し日鮮民族の幸福のために日鮮両民族の同化に対する計画にどこまで参加し力の及ぶ限り身を惜しまず努力するつもりです。

1919年4月各地で臨時政府が設置されるとすぐに臨時政府参加への要請が来たが断った。

今回の運動に反対する3つの理由はこうだ。

朝鮮問題はパリ講和会議では想定されないだろう。
どんな国も朝鮮独立のために日本と争う冒険をしないだろう。
弱者が取ることができる最善の方策は強者の好感を買うことだ。


最後に極めて客観的に過去を振り返っています。

日本の臣民として「朝鮮で生きねばならなかった」私達に、日本の政権の命令や要求に応える以外にどんな選択肢があったのでしょうか?
私たちの息子を戦場に送り、娘を工場送らなければならなかったが、どんな方法で軍国主義者たちの命令と要求に逆らうことができたのでしょうか?
(中略)したがって、誰かが日本の臣民として行った仕事をもって非難するのは大間違いです。
(中略)我々は、解放が贈り物として与えられたことを率直に認めて、その幸運に感謝すべきです
失くした宝石を発見したような恩恵を受けただけに、謙虚な気持ちで再びそれを失わないよう最善を尽くすべきです。些細な個人的野心と党派的な陰謀と地域間の憎悪は忘れて、苦難を経験している我が国の公益のために皆で協力しなければなりません。
わが国の地政学的状況を推察するとき、民衆の無知と党派間の不和の中で私たち朝鮮の未来を楽観することはできません
我々は、分裂せずに団結する必要があります。(中略)あたかも自分たちの力と勇猛を持って日本軍国主義から朝鮮を救い出したかのようにどこ何処へ行っても威張っている、自称救世主らの振舞いというのは真に見苦しい姿です彼らはとても鈍いか羞恥心がない―おそらくその両方である―人々であるから、朝鮮の自由は月の国の住人程のものすらないということが分からないようです。
(中略)いわゆるその「解放」というのは、単に連合軍の勝利の一部として私たちに与えられただけです
万一日本が降伏していなかったならば、あの虚勢と自慢に満ちた(自称)「愛国者」らは、誰かが大きな杖で日本を追い出すときまで、東方遥拝をし皇国臣民誓詞を詠じ続けていたでしょう。
明らかなのは、この虚勢と自慢に満ちたあの「愛国者」らが日本を追い出したわけではないということです

彼は極めて客観的に自国の内情を良く理解して行動した朝鮮民族では異彩を放っています。
今も彼が現在の朝鮮半島を見てやはり絶望しているかも知れません。


彼の泣き顔を想像するのは私だけでしょうか?

「李朝朝鮮国は今だ健在」だと・・・・・・・・・・・


第五章 今日の嫌日政

李朝朝鮮国が日本による併合後、もしくは朝鮮戦争勃発直前、迫害と被害をおそれのある金持ちの両班達は外国へ逃げた。
彼らは戦後韓国へ戻り、ありあまる富みを権力者に提供、もしくは仲間入りを果たす。
すると自分たちの当然の統治の権利、特権をはく奪されたとして「反日教育」の徹底を図ります。

李承晩
大韓民国第初代大統領(3期就任)
全州李氏世宗の兄である譲寧大君(16代末裔)長男富林令李順の子孫 
少年時代の李承晩は科挙合格を目指すも制度が廃止になり、キリスト系ミッションスクールに入ります。
1896年に設立された独立協会にも参加
1898年11月には時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられます。
  同年12月独立協会強制的に解散させられた。
1899年に逮捕され拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。
1905年8月 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会、親書を手渡すも公式の伝達をうながされ受け取りを拒否されそのまま         アメリカ留学
        もし朝鮮へ帰国したらその罪をきせられて残酷に処刑されたでしょうからそのまま亡命したんですね
1911年   日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動
1912年  寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件の関与を疑われ、再び渡米
       第三次桂内閣誕生(~1913年)
1913年   ハワイのホノルルへ移住学校職員としてまた朝鮮独立運動に携わる。
1919年4月 「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領に就任
1960年5月四月革命でハワイへ亡命

彼が自分の正当な地位、利益、栄誉、栄華全てを剥奪されたと
>;">「日本へ復讐を宣言した最初の韓国大統領」
反日教育の基本を植え付けた人物



尹 潽善(2代目大統領)
両班出身者・併合後平民農民
上海の大韓民国臨時政府議政院議員に選出
1921年6月に上海を離れ、欧米に留学する。
1932年に帰国する。
1950年5月李承晩大統領と対立商工長官解任

朴 正煕(5代目大統領5期)知日派
新羅系王族高霊朴氏・両班武官出身大日本帝国軍人
日本の陸軍学校で学ぶ。

1961年5月16日 5・16軍事クーデターを起こし、国家再建最高会議議長に就任
1963年10月15日 第5代大韓民国大統領に就任

1965年6月22日 日韓基本条約
第一条
日本国が大韓民国に経済協力(無償供与及び低利貸付け)する

第二条
両国は請求権問題の完全かつ最終的な解決を認める

第三条
両国はこの協定の解釈及び実施に関する紛争は外交で解決し、解決しない場合は仲裁委員会の決定に服する

とあります。これは援助を急ぐ大韓民国ととにかく解決したい日本の妥協条約
今思えばもっとつめれば・・・・・・・・・よかったか?とも思える。
このあたりがまあ事を荒立てたくない日本人気質と隙を作って後からいちゃ句を付ける朝鮮人体質の差でたか!

有償金2億ドル
民間借款3億ドル以上
無償金3億ドル
(当時1ドル=約360円
現在価格では合計4兆5千億円相当


国家予算は3億5千万ドル程度
日本からの資金供与及び貸付けを得る
これにより「漢江の奇跡」と呼ばれる好景気を呼び込むことに成功。


しかもこれ以降年間190億円ベース経済協力
新たに7年間で18・5億ド円借款
銀行強調融資21・5億ドル

累計円借款3281億円

1973年8月8日 大韓民国中央情報部日本に滞在してた大韓民国の民主化運動家、金大中を拉致
          日本国の主権を侵害する金大中拉致事件発生

1974年8月15日 文世光による暗殺未遂事件発生

1979年10月26日 大韓民国中央情報部(KCIA)金載圭による朴正煕暗殺事件

崔 圭夏(10代大統領) 
両班出身
1980年5月18日光州民主化運動発生

全 斗煥(11.12代大統領)知日派
韓国軍人
1981年8月15日の光復節記念式典の演説
我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要であると主張した。

1980年5月18日から27日民主化要求デモ光州事件軍制圧
失脚

ここまで軍人出身の大統領

以降は対反日策を強化していなかったが、16代韓国大統領の盧 武鉉は当時の日本の小泉首相の靖国参拝と国連の日本の常任理事国入り工作に強く反発して対日強硬策をとる。

2005年8月日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法施行

これは日本統治時代の親日家の財産を没収というとんでもない悪法

この世代から「日帝支配反日教育」が十分に行われた結果「亡国論」が正当と間違った歴史観をぬぐいきれずにいる。

独立解放後「外国に避難して大韓民国を建国した政府は日本統治がいかに残忍であったか。いかに朝鮮民族から詐取し略奪し民族を破滅においやったか。民族の浄化を図ったか。ない話しや誇張された話し、噂話さえ事実として学校教育で徹底して反日を行った。

しかもあくまで日本の敗戦で独立できたにもかかわらず独立運動が生み出した結果の様に風潮する。

当時を知る世代は独立前に日本人と親しくしていただけで罪にとわれ、またその強固な連体社会からの排除を恐れ沈黙する。」

政府はその時どきの社会情勢、国内事情により「対日対策が錯綜する」
ようは戦後の韓国の経済事情によって日本からの援助を目的とする政府の材料として植民地という切り札に出しては日本は右往左往する。大した調査もせずに「資料はない。よって事実は存在しないが、口うるささと饒舌さで譲歩してしまう」
1998年度までで無償資金援助47億2400万円
無償技術支援239億9400万円
有償資金援助6455億2700万円
合計6742億4500万円
無償技術支援
99~2002年3億1361万ドル
総額7000億超

恩をあだでかえす典型的朝鮮体質へと導く結果に

私達の血税ですよ

韓国一時期の世界制覇は日本広い心のおかげです

現在の韓国ではどうでしょうか?
残念ながら確かに生活レベルでは発展し先進国とみなされていますが概ね現在も李朝朝鮮の時代とあまりかわりません。

両班のごとく、従業員に暴行する財閥のご令嬢ナッツ姫、彼女を庇う両班の家人のごとき大鑑航空常務、過去には現代グループ創設者の孫三人が大麻使用で逮捕、ロッテグループ役員の息子の暴行事件、ハンファグループの会長の息子は引き逃げ、大麻使用で逮捕されること大数えきれない。

また保有会社清海鎮海運旅客船は積載量を大きく超えてセウォル旅客船運行して沈没しました。
高校生と教師らを置き去りにして逃げた船長達実質的オーナーは自殺。

この時、沈没した船は日本製であったため、「日本の建造設計ミスだ・日本のせいだ」!とことさらにマスコミはあおりました。
しかも清海鎮海運が違法増設した設備のせいで不安定になっていたとわかるととたんに静かに沈黙~~~さすが期待をうらぎりません。

まだ騒然とする中、慰問に訪れた議員が遺族のいる港で椅子にすわり平然とカップラーメンをそそる姿はまさに現在の両班を彷彿とさせます。


両 班  =政治家・官僚
負褓商  =経済・財閥
庶 人  =労働者・一般国民
とあてはめるとぴったり~~~

今もその国民性もあまりかわっていません。

李朝朝鮮時代「朝鮮事情」によると
「頑固で気難しく、執念深い。・・・・・・・些細な不快や一言の蔑視がほんのなんでもないことが彼らを自殺へと追いやっている。」
彼らは怒りっぽいが、それと同時に復讐心に満ちている。・・・・個人的な恨みを満足させるためのものであったり、・・・しかえしのためだったりする。・・・・・・・朝鮮人は金もうけに目がない。金を稼ぐためにあらゆる手段を使う。・・・・暴食である。・・・・京畿の人は軽薄で節操がなく、野心、強欲、浪費・・・・・慶尚道の単純で風俗の腐敗はせれほどなくい。・・・・若者達は野良仕事をした後、夜遅くまで読書に励む。女性の立場も他の道ほど厳しく閉じこめわれてはいない。仏教つまり釈迦の宗教の信徒がもっとも多数いるもの慶尚道である。」


やはり仏教を捨てて儒教に走ったのは間違いだとここで立証出来ますね。
慶州にある仏国寺、海印寺、双渓寺、石窟庵、直指寺、通度寺、浮石寺、銀海寺等現在もある寺院が多いですね。

ヘンドリック・ハメル著「朝鮮幽囚記」より
1653年オランダ人でオランダ東インド会社職員で台湾から日本へ向かう途中で朝鮮沖で難破し、13年間同地で幽閉され、脱出して日本経由でオランダへ帰国した経験を書籍した。

彼らは(朝鮮人)盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。
彼らをあまり信用してはいけません。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。


H・B・ハルバート著「朝鮮滅亡」
たとえロシアが日本を駆逐したとしても朝鮮人民の日露両国への心底からの憎しみは変わりない。しかも、朝鮮がどちらか一国の牙にかけられたとき、その対立国に泣きつけば必ず助けてもらえると信じていた。問題をもっと広い観点からとらえ個人的利益を離れて全体としての立場から朝鮮をどう救うかと考える朝鮮人は、皆無に近かった


サイドにジョージアキタ著「日本の朝鮮統治を検証する」より

結論

日本人は自らの過去に不当な負い目を感じながら生きる必要などないのである
李朝朝鮮・大韓帝国の消滅の原因

①儒教の原理主義的専制国家でありすぎ近代国家への変貌ができなかった。

②徹底した鎖国が世界事情を把握予測出来る人材が少なく権力闘争にのみに執着

③すべて政治家が事大主義的なあまり国家理念がなく大国に翻弄されすぎた。

④国王の閉鎖的思考、優柔不断さ、保守さ全てにおいてカリスマ性が欠如しすぎた


いろいろ草子しましたが、朝鮮史はなかなかゾンビゾンビの応酬で・・・・・・一部記述の前後、ミスあるかもしれません。

次回「難波詣で・台北詣で」お会いしましょう
超ご期待~~~~~
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