舞少納言の「可怜國(美し国)詣で」

舞少納言の伊勢国詣で


今年の国内観光トレンドそれは「伊勢

伊勢という名は「伊勢国風土記」にこの様な御話が出てきます。

神武天皇の東征の際、天日別命が当地に派兵され伊勢を治めていた伊勢津彦に国土を譲渡するかと問われると、伊勢津彦は拒否します。
すると天日別命は伊勢津彦を討伐しようとします。
おそれおののいた伊勢津彦は伊勢から風に乗り、信濃国へ逃れたそうです。

この伊勢津彦は出雲の神大国主神の子で別名出雲建子命、天櫛玉命と言われた「伊勢」の名が由来だそうです。

ここ伊勢は元出雲系の支配下であったと言えます。

つまり敗者の地(出雲系)に勝者(大和系:ここで神武天皇がいたかは別にして)が入り込み、自分の神を祀る大神宮を建立している訳です。

出雲では出雲大社を大和では大神神社を勝者が敗者を丁重に祀っているのに関わらず、ここでは何故か出雲系支配圏であるにもかかわらず負者の地に勝者の神が祀られているのか?

これは今回のキーワード①になりそうです。

20年に一度行われる伊勢神宮の遷宮の年のため全国から観光客が訪れている伊勢ですが。
また昨今の中国韓国の慇懃無礼な国策に逆に私達の日本国への敬愛が巡行という行動に出ているのかもしれません。
今年「平成のおかげ参り」が大ブームだそうです。

遷宮とは神社の本殿を新しい御殿に建て替える行事を言います。

20年に一度といっても準備まで10年以上、樹木の調達を含めると数十年という長さが必要な行事です。
遷宮の制度は飛鳥時代天武天皇が決め、その皇后で後の持統天皇の時代から始められたといいます。
この10月に神様のお引っ越しが終了し、12月の今は神様は新居でゆっくり過ごされいらっしゃいます。
多分~~~~~

今回は伊勢神宮参拝&美食&温泉~~~で癒される美し国を満喫です。

さてこんなに有名な伊勢神宮ですが、実は多くの謎があります。

①皇室の祖神なのにどうしてこんな東の地方に祀られているはなぜか?
②皇室の祖神なのに明治天皇以前の天皇行幸は記紀を読む限りまったくないのはなぜか?
③皇室の祖神なのに明治時代になるまで宮中の三殿で祀られていないのはなぜか?

ではそもそも伊勢神宮とはなにか?

伊勢神宮とは私達が知る天照大神(正式名称皇大大神)が祀られている内宮、豊受大神が祀られている外宮だけを指すのではなく伊勢国にある内宮外宮の摂社を含む125社を総称して呼ぶ名称です。

資料として「古事記」「日本書紀」を原文で抜粋して紹介しますが、両書とも問題のある歴史書です。
しかしその他に古い資料がない為、採用しました。記紀について舞は下記の様に考えています。

日本書紀は帝記、旧辞、百済記、漢書(三国志、漢書及び後漢書、淮南子)等
天武天皇十年丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉

天武天皇の勅願で始まった歴史書は一旦完成されたと記述しています。
しかしその後元正天皇の時代に日本紀として天皇に献上されたと続日本紀が伝えます。
という事は天武天皇の時代にはすでに正史は編集されていたにもかかわらず、改めて造られたという事です。
ではいつ???
天武天皇崩御後以降でこの異業を成し遂げられる又成し遂げなくてはならない人物といえばあの人しかいません。

天智天皇の皇女にして天武天皇の皇后にして皇太子の母、持統天皇です。
彼女は天武天皇と息子草壁皇太子の死により、皇位を孫軽皇子に継がせる為に即位した中継ぎ天皇です。当時天武天皇の親王達は多くが存命し、皇太子の息子であっても即位するのは非常に難しい環境でした。直系相続より、天皇に近い血筋であり年長者である事が優先されていた時代です。直系相続の正統性をアピールする事が必要でした。
持統天皇は即位後天武天智天皇の後継者として治める事に重きを置き、天武天皇の構想であった遷都、吉野御幸、竜田神社信仰、薬師寺の建立です。しかし政治体制には天皇親政を改め大臣の起用と律令の制定などがそれにあたります。

この時期に起用されたのが藤原不比等です。彼は藤原鎌足の二男であり近江朝廷の敗者の息子、持統天皇も敗者の娘です。不比等が政治の実務者として政治手腕を発揮するものこの持統天皇の時代です。
彼は後に孫軽皇子に娘宮子を嬪として後宮に入れ首皇太子の外祖父として、又軽皇子の乳母で後宮の実力者信任厚い犬養三千代(後の橘三千代)の間に生まれた安宿媛(聖武天皇の皇后光明子)を首皇太子の妃として入宮させます。二人の馴れ初めは持統天皇も一役買いました。出あった頃三千代には美努王という夫がいました。これが障害にならない様に天皇は美努王を京から離し離婚させてしまいます。政治の表、後宮の裏共に強大な協力者を手にしたのでした。

日本書紀は表向き舎人親王が名目上は編集責任者ですが不比等の関与はあきらかです。

日本書紀の漢文解読による特徴β群と@群に分かれす。β群は和人執筆、@群は唐人もしくは唐系もしくは新羅系外国人、渡来人系の執筆である事が学術的に認められています。
おそらくは天武天皇の編纂歴史書の再編成を持統天皇から始め元正天皇の時代に編集が終了と考えていいでしょう。

神代から安康天皇までβ群  奈良時代に加筆
雄略~祟峻天皇まで@群   原本通り
推古から舒明天皇までβ群  奈良時代に改訂
皇極から天智天皇まで@群但し乙巳の変、大化の改新は和人執筆β群の跡が確認出来る
天武天皇以降β群      舎人親王編集時に完成

天武・持統天皇統治時代には前天智天皇時代にあった対新羅唐軍との敗戦により新羅とは友好外交を基本方針としたものの、唐とは一定の距離を保っていました。ゆえに漢文に熟知した倭人は極めて少ないと推測出来ます。よって天武天皇時代以降に唐人か新羅人、唐系渡来人に編集させた(天武天皇が命じた国史を)よって時代が古いほど@群からβ群へ意向していくであろう漢文体が、時代に関係なく前後するのは文武天皇から元明天皇の時代に後半、前期の加筆改ざんが行われたと推測します。

では何故持統天皇に断定するのか。天武天皇の皇后だった彼女でしたが、息子草壁皇太子を亡くし皇統を孫軽皇子に継承をさせたいと考えていましたが、当時の天武天皇の親王達が多数生存しており皇太子の子息であっても天皇に即位するには大きな障害でした。そのため持統天皇は自身の父天智天皇の功績を偽造し、又孫軽皇子が夫天武天皇の後継者としての強調する必要がありました。

つまり神代の天孫降臨の主人公が天照大神→天忍穂耳命→邇邇芸命  
                   持統天皇→草壁皇太子→文武天皇  と当てられます。

この作業には舎人親王ではなく藤原不比等が大きくかかわったと考えます。何故なら改ざんされた「蘇我蝦夷入鹿の滅亡」の記述に父鎌足の業績を讃える記述があり、彼は持統天皇統治時代に太政官で活躍した人物、その後に藤原氏反映の基礎を造った人物だからです。これは不比等が文武天皇に娘宮子を後宮へ送り込み「文武天皇唯一親王」を誕生させ次世代の天皇に正統な後継者としての権威をつけるためでした。

「古事記」
古事記:
臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠、而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野。列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇。所以稱賢后。望烟而撫黎元。於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異、文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽、照今以補典教於欲絶。曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國。皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歲次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王。握乾符而摠六合、得天統而包八荒。乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國、重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。時有舍人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育。御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮。日浮重暉、雲散非烟。連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下、謂玖沙訶、於名帶字、謂多羅斯、如此之類、隨本不改。大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
和銅五年(712年)正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

古事記は天武天皇の勅命により天皇の私的家人舎人の稗田阿礼が誦習していた物語を中級文官太 安万侶が阿礼の語る物語を文書化した最古の歴史書です。
しかし日本書紀、続日本紀にも記述がなく長く偽書とされ、江戸時代国学者本居宣長によりようやく研究が始まった書でもあります。

舞は古事記が一貫して天照大神で記述し、天皇家の正当性を強調しながら各時代の天皇を人間的に描写ししまるで日本昔話的な構図で描いている特徴を持っています。これに対し日本書紀は他の書の存在を紹介する内容も記述したり、客観的に記述している事に注目しています。そして古墳時代と飛鳥時代では記述の特徴が急激に変化する事もあり、編集された時代から見た正当な皇統日本の成り立ちを確立するための書と考えます。

但し両書とも内容が違い箇所もおるものの歴代天皇順、正当性を強調している点は変わりません。
日本書紀が外国を意識した歴史書正書であるのに対し古事記は天皇の民間用歴史書と思われます。

ではでは伊勢詣で

今回は近鉄電車で美し国を訪問しました。

まずは鶴橋から近鉄電車に乗りローカル線で伊勢市を目指します。

伊勢市で下車すると外宮参道を通るとすぐに外宮が鎮座しています。内宮が森に囲まれた交通の便の悪い場所にあるのに対して外宮は海に近く古くから発展していた場所にあるのも不思議ですね。
外宮参道の「神泉」旅館の1階食事処で昼食です。
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海鮮丼を注文しました。
なかなか美味しかったです。

お店の情報は【こちら】



まずは古式にのっとり外宮から参拝します。
この「外宮先祭」は他の神社の中でも異例で通常は格式の高い宮から参拝するのが習わしなのでそうです。
ここにも何かありそうです。

伊勢神宮元々天照大神を祀る「内宮」は私幣禁断とされ「天皇家」以外の奉幣は禁止されていました。
よって一般庶民はお参りする事すら許されずにいました。
天皇だけが祀る事を許された場所にも関わらず直接神宮を行幸した記録は一度もありません。

外宮も皇室の恩恵を受けていましたが天皇を中心とする中央集権国家体制が武家社会の断頭で崩壊すると、天皇家の加護が受けずらくなった豊受大神宮を祀っていた神職達はその存在を脅かされていました。

そこで豊受大神が豊穣の女神であるという事を掲げて、お抱えの御師達を全国に送り込み、その信仰を広めていった事で「伊勢神宮」は外宮の力で一気にメジャーデビューとなりました。
つまり江戸時代までは伊勢の神といえば「外宮豊受大神様」でした。

豊受大御神

雄略天皇治世に天照大神の意を受けて丹波国から召喚された神と言われているが記紀はその由来を伝えておらず、伊勢神宮の中では内宮の次に祀られている縁起不明の神様です。


古事記 
伊邪那岐命伊邪那美命(伊邪那美命が病床にある時に生まれた神)
次和久產巢日神。此神之子、謂豐宇氣毘賣神

邇邇藝命(天孫の地上降臨の際に持従した神)
次登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也

伊邪那美が病床に合った際に尿から生まれた稚産霊の子とされ、受け(ウケ)=食べ物・豊(トヨ)=富を現し多くは穀物、食物など生産の神として信仰されています。

古事記では豊受大神と同一神「宇迦之御魂神」ウカとは穀物・食物の意味であり穀物の神とされ一般的に女神とされています。
この神様実は大和系神様ではなく出雲系の神様です。
この宇迦之御魂神は「伏見稲荷大社」の御祭神で伏見稲荷は秦氏と関わりの深い神社です。
意味深日本神に渡来系信仰神?

古事記 速須佐之男命
又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神。次宇迦之御魂神

つまり出雲速須佐之男の娘神が豊受大神だというのです。
速須佐之男は天照大御神の弟だから出雲系?っておかしいんじゃない??と思う方多いと思います。
確かに古事記日本書紀などは弟と登場しますが、本当にそうでしょうか?

三柱の神の名にしては不自然です。

天照大御神(太陽神)
月読神(月神)
何故速須佐之男(天であるかかわりがない)

しかも月読神はほとんど記紀に出てこず無視状態、なのに速須佐之男は特別扱いです。
これってそもそもに別の所で信仰されていた、しかもかなり有力な神様をむりやりひっつけた感満載の様な印象です。
速須佐之男は大国主命の娘婿で一説に子供、もしくは子孫だと記紀にあります。
しかもその国の支配権を大国主命に譲った経緯が記紀に見られます。
つまり出雲系の神様!ではないんでしょうか?

大和系天照大神に仕えさせる出雲系豊受大神?・・・・。
ただし信仰とは地域的にも同時に同じ性質の神が存在する場合もあり、又よく似た性質のある神は同一とされるので、一概にこの宇迦御魂神と豊受大神が同じ神とは断言出来ないのかもしれないです。

先に式年遷宮の博物館で基礎勉強します。20年に一度の遷宮を模型や資料、パネルなどで展示している施設です。



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第一鳥居

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隣の旧正宮もまだそのままありました。やはり20年の歳月が物語っています。しかしこれはこれで重みのある風情がありよいのではないでしょうか?

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御正宮
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豊受大御神が鎮座されている正殿です。
実は正宮はもっと奥にあり、参拝場所からは見えません。
なので写真はNG

正宮はこの伊勢神宮でしか見えない唯一神明造りと呼ばれる切妻平入り茅葺屋根の檜掘立式で「高床式穀物庫」がルーツと言われています。
内外宮共にほぼ同じ建物ですが、外宮の鰹木が9本、内宮が10本であるのと、屋根の上にある千木が内宮は外削で外宮が内削です。
両宮共直に柱を地に埋め立てているので当然腐ります。だから遷宮が行われるんですね。
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多賀宮

豊受大御神の荒魂が祀られている筆頭の別宮です。
ここは鳥居がないそうで、理由は不明だそうです。
通常神社は神様に願い事をする場所ですが、伊勢神宮は願い事をする行為はNG
「おかげ参り」の名の如く「日々の生活を感謝する所~おかげです」という気持ちが大切なんですね。
但し内外宮共に荒魂にはお願い事をしても良いのだそうです。
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こちらは旧多賀宮の御正宮跡です。この下に「御心柱」が埋め込まれ20年後の正宮となります。
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池も神秘的です。

豊受大御神を祀る神職である禰宜は持統天皇治世以来外宮度会氏(天牟羅雲名末裔)が代代務めていました。
実は江戸時代に流行った「おかげ参り」はこの度合氏の禰宜が伝道した「伊勢神道」の信仰が大きく影響しています。

度会行忠、家行親子が特に外宮の信仰を全国へ広げ今日の「おかげ参り」の基礎を作ったといわれる人物。
家行は1256年誕生した彼は外宮の禰宜に就任すると「伊勢神道」という信仰を広めていくます。伊勢神道とは豊受大神はそもそも天照大御神以前の神国立つ神であり、伊佐奈美命の子であり天照大神と姉妹であり、その地位は同格もしくはそれ以上という思想をいいます。

よって当然天照大御神を祀る内宮と対立関係が生じてしまいます。
これって内宮に外宮が仕えるという関係が崩れています。

度会氏は外宮内に度会国御神社・度会大国玉比賣神社に自身の祖先という天日別命の伊勢平定に纏わる神様をお祀りしています。しかも度会大国玉比賣神社を伊勢で天日別命を出迎えたという神様でつまりは伊勢の地方神です。
この外宮には他にも土宮という元々伊勢の土地神様も別宮で祀られています。
つまり、外宮には地方色がぷんぷんしているのです。
本当に天照大神の為に鎮座しているのでしょうか?

鎌倉・室町時代武士の時代になると伊勢神宮の内宮天照大御神は武士階級にも厚く信仰されますが、平安以前の天皇中心国家という加護をなくした外宮は危機を向かえます。しかし外宮の宮司達は御師(おんし)を使い、全国へ豊穣の神「豊受大御神」を宣伝し行脚します。
彼らは各国で伊勢神宮の信仰を広め又伊勢へ行く旅費となる伊勢講の世話や伊勢滞在中の宿や便宜を図ったおかげで「伊勢神道」という外宮独自の信仰を深める事に成功します。

これが江戸時代「おかげ参り」という伊勢詣での流行を生み出します。
当時百姓町民は気軽に休みをもらえたり、自由な金銭を所持せず又、関所を越える事も非常に難しかったですが、伊勢詣でに限り無断で家や奉公先を抜けだしても伊勢へ行きお札を持ちかえるだけで許されていました。
又伊勢詣でに限り通行手形を比較的簡単に入所でき関所越えもしやすかったそうです。

これにより全国的に伊勢神宮へ参る参拝客が増加し外宮は一気にその地位を拡大してゆきます。

これは元々天皇の権力に外宮は内宮を奉仕するという強要に結局、折れざるおえず持従したもののその権威が薄らぐと反発している様に感じます。
つまり豊受大神宮は元は出雲系の地主神様であり、元々度会氏も出雲系の豪族だった。
古来からこの地は豊受大神をお祀りしていた。

大和朝廷との戦に破れ大将をなくした度会氏は天皇(その当時は大王)に仕え引き続き主を変えて仕えた。
だからこそ天皇家の権威が下がると「豊受大神」こそ主神だ!と発言し内宮の神官達と対立したと見えます。


この外宮「豊受大神宮」を違う目で見ないといけなくなりそうです。

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「せんぐう館」で遷宮についてお勉強出来る施設です。


伊勢の観光の情報は【こちら】


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ホテルは湯リゾートホテル「志摩朝彩楽」です。
英虞湾内にあり温泉、パターゴルフ場付きオーシャンビューのお薦め宿です。
漫画室、カラオケ、朝食夕食ビュッフェ付き込込7800円です。
12月は限定で「飛騨牛ステーキ付き」ですよん。

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ロビーはクリスマス。
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お部屋は1階でしたが綺麗でオーシャンヴューでした。

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お部屋で「うぐいすとまり」「えびせん」を頂きます。

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お食事は「時間制バイキング」

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残念ですがこのお肉飛騨牛の成形肉でした。
もう素人が見てばればれの仕事でした。お味も油がギト~~まあキャンペーン中でだたなのでいいか!
お食事はかなりそれなりの内容です。よくショッピングセンターにありがちなお味です。まずくはないですが。



宿の情報は【こちら】


二日目
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部屋からのオーシャンヴュー
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朝食はこんな感じです。

伊勢神宮内宮(皇祖大神)

さて本命の内宮は皇祖天照大神の御神体「八咫鏡」を祀る日本総氏神のトップとされています。
躁氏神といいながら実は神在月と呼ばれる10月は島根県のみ他の地域は神無月と呼びます。
これは出雲に八百万の神が出雲大社に集まれる事に由来します。そう天照大神のいられる伊勢ではありません。
これってどう解釈すればいいのでしょうか?

内宮は創建当初から現在の姿で鎮座しているのではありません。その事は記紀の記述にも明らかです。
伊勢内宮の大きな転換期は3度ありました。
一度目は天武天皇治世、次に持統天皇治世、そして時を経て明治天皇治世です。

その天照大神ですがじっくり記紀を読み進めると奇妙な箇所はいくつも出てきます。ではそれぞれの天照大神の初見です。

古事記ではイザナギがイザナミを追い黄泉国から帰国した際に禊した際に生まれます。

於是洗左御目時。所成神名。天照大御神
賜天照大御神而詔之。汝命者。所知高天原矣。

?あれ??でもイザナギとイザナミはSEXして神を生んでいました。けれど黄泉国から出ると途端に一人で神様を生んでいますね???

日本書紀からイザナギイザナミが自然の神を生んだ後に
何不生天下之主者歟。於是、共生日神。號大日孁貴。大日孁貴、此云於保比屢咩能武智。孁音力丁反。一書云、天照大神。一書云、天照大日孁尊
名前に一貫性がありません。古事記との違いです。
しかもその後一書といい天照大神ではない名で登場します。
さも天照大神と思わしき行動を記述してゆきます。

一書曰、伊弉諾尊曰、吾欲生御宇之珍子、乃以左手持白銅鏡、則有化出之神。是謂大日孁尊
一書曰~然後、洗左眼。因以生神、號曰天照大神。復洗右眼。因以生神、號曰月讀尊。復洗鼻。因以生神、號曰素戔鳴尊。凡三神矣。已而伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以治高天原也
一書曰、伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以御高天之原也
一書曰、日神本知素戔鳴尊、有武健凌物之意
一書曰、是後、稚日女尊、坐于齋服殿、而織神之御服也
一書曰、日神尊、以天垣田爲御田

これだけ名が違います。これは倭の中で「天」=太陽信仰は盛んに行われていた証しでもあります。
つまりは多く信仰されていた太陽を一つの神として習合させた神が「天照大神」です。
その太陽神を天皇家の祖とする事で天皇家の正当性を主張出来るのです。

次に天孫降臨の記述には極めて不自然な記述が目立ちます。
葦原中乃国(つまり大国主が支配する地上)天孫に治めさせようとするのがなんと独神、隠れたはずの高皇産靈尊です???
日本書紀
天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬、生天津彦彦火瓊瓊杵尊故皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉。遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。然彼地多有螢火光神、及蠅聲邪神。復有草木咸能言語。故高皇産靈尊、召集八十諸神、而問之曰、吾欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。僉曰、天穗日命、是神之傑也。可不試歟。於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之。然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故仍遣其子大背飯三熊之大人、大人、此云于志。亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞。

故高皇産靈尊、更會諸神、問當遣者。僉曰、天國玉之子天稚彦、是壯士也。宜試之。於是、高皇産靈尊、賜天稚彦天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。此神亦不忠誠也。來到卽娶顯國玉之女子下照姬、亦名高姬、亦名稚國玉。因留住之曰、吾亦欲馭葦原中國、遂不復命。是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彦門前所植植、此云多底婁。湯津杜木之杪。杜木、此云可豆邏也。時天探女天探女、此云阿麻能左愚謎。見、而謂天稚彦曰、奇鳥來居杜杪。天稚彦、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。其矢洞達雉胸、而至高皇産靈尊之座前也。時高皇産靈尊、見其矢曰、是矢、則昔我賜天稚彦之矢也。血染其矢。蓋與國神相戰而然歟。於是、取矢還投下之。其矢落下、則中天稚彦之胸上。于時、天稚彦、新嘗休臥之時也。中矢立死。此世人所謂、反矢可畏之緣也。

天稚彦之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。是時、天國玉、聞其哭聲、則知夫天稚彦已死、乃遣疾風、舉尸致天。便造喪屋而殯之。卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者、一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者。又以雀爲春女。一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者。以鴗爲尸者。以雀爲春者。以鷦鷯爲哭者。以鵄爲造綿者。以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。而八日八夜、啼哭悲歌。

先是、天稚彦在於葦原中國也、與味耜高彦根神友善。味耜、此云婀膩須岐。故味耜高彦根神、昇天弔喪。時此神容貌、正類天稚彦平生之儀。故天稚彦親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀牽衣帶、且喜且慟。時味耜高彦根神、忿然作色曰、朋友之道、理宜相弔。故不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者、則拔其帶劒大葉刈、刈、此云我里。亦名神戸劒。以斫仆喪屋。此卽落而爲山。今在美濃國藍見川之上喪山是也。世人惡以生誤死、此其緣也。

是後、高皇産靈尊、更會諸神、選當遣於葦原中國者。僉曰、磐裂磐裂、此云以簸娑窶。根裂神之子磐筒男・磐筒女所生之子經津經津、此云賦都。主神、是將佳也。時有天石窟所住神、稜威雄走神之子甕速日神、甕速日神之子熯速日神、熯速日神之子武甕槌神。此神進曰、豈唯經津主神獨爲丈夫、而吾非丈夫者哉。其辭氣慷慨。故以卽配經津主神、令平葦原中國。

二神、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端、而問大己貴神曰、高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故先遣我二神、驅除平定。汝意何如。當須避不。時大己貴神對曰、當問我子、然後將報。是時其子事代主神、遊行、在於出雲國三穗三穗、此云美保。之碕。以釣魚爲樂。或曰、遊鳥爲樂。故以熊野諸手船、亦名天鴿船。載使者稻背脛遣之。而致高皇産靈尊勅於事代主神、且問將報之辭。時事代主神、謂使者曰、今天神有此借問之勅。我父宜當奉避。吾亦不可違。因於海中、造八重蒼柴柴、此云府璽。籬、蹈船枻船枻、此云浮那能倍。而避之。使者既還報命。

故大己貴神、則以其子之辭、白於二神曰、我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、國內諸神、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。乃以平國時所杖之廣矛、授二神曰、吾以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者、必當平安。今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。隅、此云矩磨泥。言訖遂隱。於是、二神、誅諸不順鬼神等、一云、二神遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。果以復命。

于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋、立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢。到於吾田長屋笠狹之碕矣。

其地有一人。自號事勝國勝長狹。皇孫問曰、國在耶以不。對曰、此焉有國。請任意遊之。故皇孫就而留住。時彼國有美人。名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬。皇孫問此美人曰、汝誰之女子耶。對曰、妾是天神娶大山祇神、所生兒也。皇孫因而幸之。卽一夜而有娠。皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。汝所懷者、必非我子歟。故鹿葦津姬忿恨、乃作無戸室、入居其內、而誓之曰、妾所娠、非天孫之胤、必當𤓪滅。如實天孫之胤、火不能害。卽放火燒室。始起烟末生出之兒、號火闌降命。是隼人等始祖也。火闌降、此云褒能須素里。次避熱而居、生出之兒、號彦火火出見尊。次生出之兒、號火明命。是尾張連等始祖也。凡三子矣。久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。因葬筑紫日向可愛此云埃。之山陵。

あれ~~~天照大神出てきません。それに鏡の項も!!!!!なんで!!!

実は一書の内の一つがしら~~~と登場させています。
しかも高皇産靈尊が行った行為を天照大神の意志として!

古事記
天照大御神之命以、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國、言因賜而、天降也。於是天忍穗耳命、於天浮橋多多志此三字以音。而詔之、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、伊多久佐夜藝弖此七字以音。有那理、此二字以音。下效此。告而、更還上、請于天照大神。爾高御產巢日神、天照大御神之命以、於天安河之河原、神集八百萬神集而、思金神令思而詔、此葦原中國者、我御子之所知國、言依所賜之國也。故、以爲於此國道速振荒振國神等之多在。是使何神而、將言趣。爾思金神及八百萬神、議白之、天菩比神、是可遣。故、遣天菩比神者、乃媚附大國主神、至于三年、不復奏。

是以高御產巢日神、天照大御神、亦問諸神等、所遣葦原中國之天菩比神、久不復奏。亦使何神之吉。爾思金神答白、可遣天津國玉神之子、天若日子。故爾以天之麻迦古弓、自麻下三字以音。天之波波此二字以音。矢、賜天若日子而遣。於是天若日子、降到其國、卽娶大國主神之女、下照比賣、亦慮獲其國、至于八年、不復奏。

故爾天照大御神、高御產巢日神、亦問諸神等、天若日子、久不復奏。又遣曷神以問天若日子之淹留所由。於是諸神及思金神、答白可遣雉名鳴女時、詔之、汝行問天若日子狀者、汝所以使葦原中國者、言趣和其國之荒振神等之者也。何至于八年、不復奏。

故爾鳴女、自天降到、居天若日子之門湯津楓上而、言委曲如天神之詔命。爾天佐具賣、此三字以音。聞此鳥言而、語天若日子言、此鳥者、其鳴音甚惡。故、可射殺云進、卽天若日子、持天神所賜天之波士弓、天之加久矢、射殺其雉。爾其矢、自雉胸通而、逆射上、逮坐天安河之河原、天照大御神、高木神之御所。是高木神者、高御產巢日神之別名。故、高木神、取其矢見者、血著其矢羽。於是高木神、告之此矢者、所賜天若日子之矢、卽示諸神等詔者、或天若日子、不誤命、爲射惡神之矢之至者、不中天若日子。或有邪心者、天若日子、於此矢麻賀禮。此三字以音。云而、取其矢、自其矢穴衝返下者、中天若日子寢朝床之高胸坂以死。此還矢之本也。亦其雉不還。故於今諺曰雉之頓使是也。

故、天若日子之妻、下照比賣之哭聲、與風響到天。於是在天、天若日子之父、天津國玉神、及其妻子聞而、降來哭悲、乃於其處作喪屋而、河雁爲岐佐理持、自岐下三字以音。鷺爲掃持、翠鳥爲御食人、雀爲碓女、雉爲哭女、如此行定而、日八日夜八夜遊也。

此時阿遲志貴高日子根神自阿下四字以音。到而、弔天若日子之喪時、自天降到、天若日子之父、亦其妻、皆哭云、我子者不死有祁理。此二字以音。下效此。我君者不死坐祁理云、取懸手足而哭悲也。其過所以者、此二柱神之容姿、甚能相似。故是以過也。於是阿遲志貴高日子根神、大怒曰、我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而、拔所御佩之十掬劒、切伏其喪屋、以足蹶離遣。此者在美濃國藍見河之河上、喪山之者也。其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。度字以音。故、阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹高比賣命、思顯其御名。故、歌曰、

阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也。

此歌者、夷振也。

於是天照大御神詔之、亦遣曷神者吉。爾思金神及諸神白之、坐天安河河上之天石屋、名伊都之尾羽張神、是可遣。伊都二字以音。若亦非此神者、其神之子、建御雷之男神、此應遣。且其天尾羽張神者、逆塞上天安河之水而、塞道居故、他神不得行。故、別遣天迦久神可問。故爾使天迦久神、問天尾羽張神之時、答白、恐之。仕奉。然於此道者、僕子、建御雷神可遣、乃貢進。爾天鳥船神、副建御雷神而遣。

是以此二神、降到出雲國伊那佐之小濱而、伊那佐三字以音。拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言、天照大御神、高木神之命以、問使之。汝之宇志波祁流此五字以音。葦原中國者、我御子之所知國、言依賜。故、汝心奈何。爾答白之、僕者不得白。我子八重言代主神、是可白。然爲鳥遊取魚而、往御大之前、未還來。故爾遣天鳥船神、徵來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言、恐之。此國者、立奉天神之御子。卽蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。訓柴云布斯。

故爾問其大國主神、今汝子、事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之、亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言誰來我國而、忍忍如此物言。然欲爲力競。故、我先欲取其御手。故、令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄。故爾懼而退居。爾欲取其建御名方神之手、乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃去。故、追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方神白、恐、莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者、隨天神御子之命獻。

故、更且還來、問其大國主神、汝子等、事代主神、建御名方神二神者、隨天神御子之命、勿違白訖。故、汝心奈何。爾答白之、僕子等二神隨白、僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也。唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音。下效此。天之御巢而、於底津石根宮柱布斗斯理、此四字以音。於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音。而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。亦僕子等、百八十神者、卽八重事代主神、爲神之御尾前而仕奉者、違神者非也。如此之白而、於出雲國之多藝志之小濱、造天之御舍多藝志三字以音。而、水戸神之孫、櫛八玉神、爲膳夫、獻天御饗之時、禱白而、櫛八玉神化鵜、入海底、咋出底之波邇、此二字以音。作天八十毘良迦此三字以音。而、鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵而、鑽出火云、

是我所燧火者、於高天原者、神產巢日御祖命之、登陀流天之新巢之凝烟訓凝姻云州須。之、八拳垂摩弖燒擧、麻弖二字以音。地下者、於底津石根燒凝而、𣑥繩之、千尋繩打延、爲釣海人之、口大之尾翼鱸、訓鱸云須受岐。佐和佐和邇、此五字以音。控依騰而、打竹之、登遠遠登遠遠邇、此七字以音。獻天之眞魚咋也。

故、建御雷神、返參上、復奏言向和平葦原中國之狀

天照大神と高御產巢日神(別名高木ノ神)あれ???日の神が二人もいる???

この高皇高御產巢日神と高産靈尊(別名高木ノ神)は
古事記 
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。次高御產巢日神。次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
日本書紀
一書曰、天地初判、始有倶生之神。號國常立尊。次國狹槌尊。又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊。次高皇産靈尊。次神皇産靈尊。皇産靈、此云美武須毗。
と紹介されている神で独り神で隠れている神様が何故か天照大神のいる高天原国にいてしかも子供𣑥幡千千姬、爾思金神のいます。

天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊は高皇産靈尊の娘𣑥幡千千姬との間に出来た天津彦彦火瓊瓊杵尊がいました。

この天孫に地上の葦原中乃国へ降臨させます。
そしてその降臨の際に出てくるのが天乃岩戸に隠れた際に出てくる八咫鏡が登場します。
しかしそれは日本書紀では一書として又古事記のみです。

日本書紀
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊、而祝之曰、吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡

古事記
此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉

これはどういう意図なんでしょうか?
天照大神が最大神という概念が壊れています。これでは天照大神と高皇産靈尊(神產巢日御祖命、高木ノ神)の共同支配が見てとれます。
しかも八咫鏡もなんだかしらじらしい出方です?????

さらに時代は神武天皇の時代に移り、丁度瓊々杵尊から彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姬の息子やはり三代目「神日本磐余彦天皇」が登場します。

ここでも奇妙な記述が連続していきます。
神武天皇の東征

昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國、而授我天祖彦火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧。故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤。遂使邑有君、村有長、各自分疆、用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁。曰、東有美地。青山四周。其中亦有乘天磐船而飛降者。余謂、彼地、必當足以恢弘大業、光宅天下。蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。諸皇子對曰、理實灼然。我亦恆以爲念。宜早行之。是年也、太歲甲寅。

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征

というわけで神武天皇は東へ移動します。
その後の平定に至る過程でも

日本書紀
忽夜夢、天照大神、謂武甕雷神曰、夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。武甕雷神對曰、雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。天照大神曰、諾。諾、此云宇毎那利。時武甕雷神、登謂高倉下曰、予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。高倉下曰唯々而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之。果有落劒、倒立於庫底板。卽取以進之。于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、予何長眠若此乎。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲。而山中嶮絶、無復可行之路。乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰、朕今遣頭八咫烏。宜以爲郷導者。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣。我皇祖天照大神、欲以助成基業乎

古事記
己夢云、天照大神、高木神、二柱神之命以、召建御雷神而詔、葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理。此十一字以音。我御子等、不平坐良志。此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國。故、汝建御雷神可降。爾答曰、僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音。汝取持獻天神御子。故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。

於是亦、高木大神之命以覺白之、天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。從其立後應幸行

その後大和国に進軍する過程の日本書紀のみの記述

夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土、香山、此云介遇夜摩。以造天平瓮八十枚、平瓮、此云毗邏介。幷造嚴瓮、而敬祭天神地祇

宜今當取天香山埴、以造天平瓮、而祭天社國社之神

天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也
時勅道臣命、今以高皇産靈尊、朕親作顯齋。顯齋、此云于圖詩怡破毗。用汝爲齋主、授以嚴媛之號

四年春二月壬戌朔甲申、詔曰、我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉

これって高皇産靈尊を主に祀り、しかも斎主道臣命は男ですが「厳媛」を設けたって言う事はつまり天照大神が主神でないと言っているようにしか聞こえないんですけど!
神を祀る際には斎主は女つまり神は男

神武天皇は舞的には当然架空の人物と考えています。だって時にすると縄文後期にこんな国の確立無理でしょ。考古学的になしです。
しかし祟神天皇は実在した可能性は高いと考えています。
何故なら、記紀の記述が鮮明で描写も実に詳細です。
つまり応神天皇と仁徳天皇が分かれて書かれた様に神武天皇と祟神天皇を二人に分けて記述したと考えます。

何故なら御間城入彦五十大王、古事記では御眞木入日子印惠命という名と出ています。
そう神武天皇が天高く木を祀った記述覚えてますか???
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高木の神は感な感じ
神武、祟神天皇(同一人物)は皇祖として「高木ノ神・高皇産靈尊」を祀ったのです。
当然男神に仕える巫女「斎宮は女」はい!確定!!!


そう全面的に伊勢内宮を違う目で見ないといけなくなりました。

古事記
祟神天皇
五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣
六年百姓流離。或有背叛。其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑
仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭。然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭


七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰、昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意、今當朕世、數有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。蓋命神龜、以極致災之所由也。於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰、天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。天皇問曰、教如此者誰神也。答曰、我是倭國域內所居神、名爲大物主神。時得神語、隨教祭祀。然猶於事無驗。天皇乃沐浴齋戒、潔淨殿內、而祈之曰、朕禮神尚未盡耶。何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。是夜夢、有一貴人。對立殿戸、自稱大物主神曰、天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子、令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、以大田々根子命、爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市、爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辭、益歡於心。布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。對曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方天日方武茅渟祇之女也。天皇曰、朕當榮樂。乃卜使物部連祖伊香色雄、爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。
十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄、而以物部八十平瓮、作祭神之物。卽以大田々根子、爲祭大物主大神之主。又以長尾市、爲祭倭大國魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・國社、及神地・神戸。於是、疫病始息、國內漸謐。五穀既成、百姓饒之。
八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大神之掌酒。掌酒、此云佐介弭苔。

冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子、令祭大神。是日、活日自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、
許能瀰枳破、和餓瀰枳那羅孺、椰磨等那殊、於朋望能農之能、介瀰之瀰枳、伊句臂佐、伊久臂佐。
如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸大夫等歌之曰、
宇磨佐開、瀰和能等能々、阿佐妬珥毛、伊弟氐由介那、瀰和能等能渡塢。
於茲、天皇歌之曰、
宇磨佐階、瀰和能等能々、阿佐妬珥毛、於辭寐羅箇禰、瀰和能等能渡烏。
卽開神宮門、而幸行之。所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。


祟神天皇は倭を統合したものの、敗者「大物主、倭大国魂」といった怨霊に悩まされ続け、倭迹々日百襲姬命曰に憑依させます。この斎宮は高皇産靈尊の斎宮だったはずです。
しかし倭の怨霊達はその神さえ飲み込み、ついには自分の妻にしてしまいます。
ここで祟神天皇は皇祖神を置いて「大物主」を祀り始めます。
この時大物主の祭主となる人物こそ大三輪氏の祖となります。

一方古事記では
祟神天皇の妹
豐鉏比賣命者、拜祭伊勢大神之宮也

あれ??すでに伊勢???書紀には倭笠縫邑で倭をでていません。
どうやら伊勢天照大神設定は破綻をしていますね。

この時点でもおそらく天照大神は存在していないと考えていいです。まだ「高皇産靈尊」のままです。

垂仁天皇廿五年
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命託于倭姬命。爰倭姬命求鎭坐大神之處、而詣菟田筱幡。筱、此云佐佐。更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時天照大神誨倭姬命曰、是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也

この五十鈴川の名は神武天皇正妃媛蹈鞴五十鈴媛命に通じているような。
ちなみに彼女の父は大物主命(大国主の和魂)です。ここにも出雲系神が・・

何故伊勢国にいたい!と天照大神言ったと日本書紀は書いたのでしょうか?
元々伊勢に鎮座していたのをむりくり伊勢へ移したといいたそうな。

一云、天皇以倭姬命爲御杖、貢奉於天照大神。是以倭姬命以天照大神、鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之
しかし一書の伝記として倭媛を神が憑依する巫女としてさらに倭磯城にある神木に憑依させ祠に祀ります。
え~~~天照大神の御神体は鏡のはずです。わざわざ木に神を憑依させるのは???では???
天照大神と高木ノ神が合体したような~~~~??????

この関係は現在の伊勢神宮に通じます。
現在は見えていませんが、本殿の地下には柱が埋め込まれているそうで、明治以前はその御柱に「月次祭」神様の食事をお供えしたそうです。
その柱は御心柱と呼ばれ、本殿の構造とは別になっており、用途不明なのです。
これこそ「鏡」が御神体ではないと言っているようです。
長い天に延びる柱=高木ノ神のイメージです。



古事記
倭比賣命者、拜祭伊勢大神宮也

日本書紀の倭姫命の天照大神の巡幸ルートはほぼ壬申の乱の開戦ルートとかぶっている
倭姫命巡幸路     倭(大和)→伊賀→淡海→美濃→桑名→伊勢各所
大海人皇子壬申の乱  吉野(大和)→伊賀→伊勢→美濃→淡海(2ルート有り)→大和

この話は完全な嘘ですね。
古くから皇室が天照大神を信仰していたという偽装です。


神様をすり替える為の小細工です。

どうしてこんな小細工が必要かといえば祟神天皇以降「天皇家を祀る神は祟り神に変わった」大国主、大物主神達敗者の神様に変わりました。統治が広がる毎に外の神が増え皇祖の神「高皇産靈尊ノ神」は隅に置かれて祭祀がおろそかになっていました。が、記紀にはそんな事は書けません。

記紀の編集者になった気分に思いめぐらせてください。
持統天皇を天照大神の様に崇拝し皇統を正当なものだとする絶対的な太陽神がどうしても必要なら歴史に偽造しないといけません。
しかし現実は皇祖高皇産靈尊ノ神はなかったかのように無視され続けられました。
天皇家は統治する為に政治と祭主を分け一方を放棄してしまったのです。しかも名をさらに分かりやすくかつ絶対的な唯一の神に変えられてしまうのです。

祟神天皇から景行天皇までの話しを差し込んで天照大神を大いなる皇祖神とする必要があったのです。


日本書紀
景行天皇
廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大神
四0年冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮。仍辭于倭姬命曰、今被天皇之命、而東征將誅諸叛者。故辭之。於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰

古事記
受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者
(倭健が伊勢へ倭姫を訪問した記述)

古事記
神功皇后
今如此言教之大神者、欲知其御名、卽答詔、是天照大神之御心者
日本書紀
神功皇后
三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、先日教天皇者誰神也。願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉

時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦

又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之。因以奏言、臣敢所以獻是物者、天皇如八尺瓊之勾、以曲妙御宇、且如白銅鏡、以分明看行山川海原、乃提是十握劒、平天下矣

日本書紀なんでこんな遠まわしに天照大神を名のられせているのでしょう。
しかし皇祖ならあなたは誰ですか?などと問うでしょうか?
しかもどこの???というくらいの遠まわしで名のるんでしょうか???

神代から雄略天皇前まで先に書いた通り奈良時代の加筆であり、いわば創作物語です。但しある程度古事記のすり合わせは必要で且つまったくない出来事を作ると正史として意味がありません。
記紀で何度も大和朝廷内でまた氏族の間で「史記・氏史」の存在は明らかです。
よってある程度伝わった昔話に存在しない架空の天皇や逸話を加筆したのだと推測しています。真実に嘘を混ぜる事で嘘は隠し続けられ歴史が流れる中で真実に同化していくという事です。

この神功皇后項こそその極みでしょう。
正確に名のらない天照大神、しかもその神の名に賢木(木を連想する神は高皇産靈尊、高木ノ神)を名のらせています。
この時代中国大陸で長く続いた大乱のせいで倭の正史が伝われず「空白の四世紀」と呼ばれた頃でした。
しかもその後の応神天皇の都は大和から河内に遷都され、しかも朝鮮半島へ進軍するなど軍事大国の倭へと豹変してゆきます。
なので天皇の皇統が女系継承を通じて大きな皇統の移行があったと推測出来ます。
そこで皇統が主流である様な「天照大神」「にせの三種の神器」の話しを出して入る様に思われます。

ここに完全に高木ノ神と天照大神の宗教合体は完結します。
元々日の神と信仰されていた皇祖の神が全国で同時多発的に発生していた太陽信仰の神との合体は絶対的唯一的な神!奈良時代前後に神の合体が成功しました。
それを裏つけずけるように伊勢神宮の本殿の下には御心柱があります。

日本書紀の原文加筆修正なしと推測出来、尚且つ史実に最も近い天皇雄略天皇の項は非常に興味深いです。

日本書紀
雄略天皇  
更名𣑥幡娘姬皇女。是皇女侍伊勢大神祠

三年夏四月、阿閉臣國見、更名磯特牛。譖𣑥幡皇女與湯人廬城部連武彦曰、武彦姧皇女而使任身。湯人、此云臾衞。武彦之父枳莒喩、聞此流言、恐禍及身。誘率武彦於廬城河、偽使鸕鷀沒水捕魚、因其不意而打殺之。天皇聞遣使者、案問皇女。皇女對言、妾不識也俄而皇女齎持神鏡
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詣於五十鈴河上、伺人不行、埋鏡經死
。天皇疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓。乃於河上虹見如蛇、四五丈者。掘虹起處、而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍。割而觀之、腹中有物如水。水中有石。枳莒喩、由斯、得雪子罪。還悔殺子、報殺國見。逃匿石上神宮

七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連蜾蠃曰、朕欲見三諸岳神之形。或云、此山之神爲大物主神也。或云、菟田墨坂神也。汝膂力過人。自行捉來。蜾蠃答曰、試往捉之。乃登三諸岳、捉取大蛇、奉示天皇。天皇不齋戒。其雷虺々、目精赫々。天皇畏、蔽目不見、却入殿中


時有伊勢采女、仰觀樓上、怪彼疾行、顚仆於庭、覆所擎饌。饌者、御膳之物也。天皇便疑御田姧其采女、自念將刑、而付物部。時秦酒公侍坐。欲以琴聲、使悟於天皇。
横琴彈曰、
柯武柯噬能、伊制能、伊制能奴能、娑柯曳鳴、伊裒甫流柯枳底、志我都矩屢麻泥爾、飫裒枳瀰爾、柯拕倶、都柯陪麻都羅武騰、倭我伊能致謀、那我倶母鵝騰、伊比志拕倶彌皤夜、阿拕羅陀倶彌皤夜。
於是、天皇悟琴聲、而赦其罪。

古事記又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰、莫殺吾身。有應白事、卽歌曰、

麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆

故、獻此歌者、赦其罪也

爾大后歌。其歌曰、

夜麻登能 許能多氣知爾 古陀加流 伊知能都加佐 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 曾賀波能 比呂理伊麻志 曾能波那能 弖理伊麻須 多加比加流 比能美古爾 登余美岐 多弖麻都良勢 許登能 加多理碁登母 許袁婆
卽天皇歌曰、
毛毛志記能 淤富美夜比登波 宇豆良登理 比禮登理加氣弖 麻那婆志良 袁由岐阿閇 爾波須受米 宇受須麻理韋弖 祁布母加母 佐加美豆久良斯 多加比加流 比能美夜比登 許登能 加多理碁登母 許袁婆

此三歌者、天語歌也。故、於此豐樂、譽其三重婇而、給多祿也

大嘗祭の宴の出来事ですが、雄略天皇が大嘗祭を屋外でしかも大きな木の下で行っています。
この時酒をついだのは伊勢國之三重婇という伊勢の豪族のむすめです。
雄略天皇と伊勢の関係が見受けられます。

十八年秋八月己亥朔戊申、遣物部菟代宿禰・物部目連、以伐伊勢朝日郎。朝日郎聞官軍至、卽逆戰於伊賀青墓。自矜能射、謂官軍曰、朝日郎手、誰人可中也。其所發箭、穿二重甲。官軍皆懼。菟代宿禰、不敢進擊。相持二日一夜。於是、物部目連、自執大刀、使筑紫聞物部大斧手、執楯叱於軍中、倶進。朝日郎乃遙見、而射穿大斧手楯二重甲。幷入身肉一寸。大斧手以楯翳物部目連。目連卽獲朝日郎斬之。由是、菟代宿禰、羞愧不克、七日不服命。天皇問侍臣曰、菟代宿禰、何不服命。爰有讚岐田蟲別、進而奏曰、菟代宿禰怯也、二日一夜之間、不能擒執朝日郎。而物部目連、率筑紫聞物部大斧手、獲斬朝日郎矣。天皇聞之怒

伊勢の豪族朝日郎の反乱に鎮圧した雄略天皇は伊勢を重要拠点と考えたと見ていいでしょう。

しかも項目は前後していますが、強権政治を敷いていた彼も大物主におののいたのなら祟りを恐れていなかったのか?という疑問が生まれます。

それなら三輪氏の祀る大神神社を厚く加護すればいいのでしょうが、そうすると倭の豪族が大きな力を持つとも限りません。

雄略天皇は伊勢の守護として大物主=大国主の伊勢の神に注目し当時まだ祠の規模ではあったのですが、斎宮として奉仕させたのではないかと推測します。
つまり最初から天照大神を祀っていたのではなく雄略天皇治世に自身の娘を伊勢の地方神として巫女を仕えさせていた。
つまり豊受大神も男神だったんです。

日本書紀
継体天皇
元年生荳角皇女。荳角、此云娑佐礙。是侍伊勢大神祠

欽明天皇
二年春三月其二曰磐隈皇女。更名夢皇女。初侍祀於伊勢大神後坐姧皇子茨城解
敏達天皇
七年春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女、侍伊勢祠。卽姧池邊皇子。事顯而解

池邊皇子とはこの時期この名を名乗る皇族は一人後の「用明天皇」と考えられます。斎宮と関係を持ちながらお咎めなし所か、後に天皇に推挙されています。これは???

欽明、敏達天皇治世に二度の斎宮強姦事件が起きますが、何故か斎宮を解任されただけで皇子達には処罰がありません。
しかも巫女を犯すなど大罪祟りが怖くないのか??何故???
古代の昔は男女の性行為は「豊穣の行為」として信仰の儀式でもありました。つまり子供が出来る行為を豊作の行為と同じと見られました。
古事記でも神と交わる媛の話が多くあります。斎宮も神と交わるという儀式があったのかもしれません。
しかもその事は不明で、もしかしたら「神様と」などという妄想が変に皇子達にあったのかもしれません。
そんな事で犯されるのもふざけるんじゃないといいたいです。


用明天皇
壬申、詔曰、云々。以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮、奉日神祀。是皇女、自此天皇時逮乎炊屋姬天皇之世、奉日神祀。自退葛城而薨。見炊屋姬天皇紀。或本云、卅七年間、奉日神祀。自退而薨。

大海人皇子(後の天武天皇)

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神

さて伊勢の天照大神信仰はまさに天武天皇が始まりといえるでしょう。
壬申の乱時に三重を進軍していた大海人皇子は馬上から天垂大神に祈ります。

見事勝利を手にし即位した天武天皇は自分の長女である大來皇女を斎宮にして神に奉仕させます。
彼こそその後1000年以上続く伊勢斎宮制度を決定した人物です。

天武天皇
二年夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也
三年冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自泊瀬齋宮向伊勢神宮
四年丁亥、十市皇女・阿閉皇女、參赴於伊勢神宮
朱鳥元年丙申、遣多紀皇女・山背姬王・石川夫人於伊勢神宮
五月庚子朔戊申、多紀皇女等至自伊勢

天武天皇治世では伊勢の話が多くなり、又多くの女性皇族を伊勢へ向かわせます。史実上間違いなく天武天皇が伊勢を皇統の祖とし祀ろうとした証しではと思われます。天武天皇は兄天智天皇の近江朝廷から権力を奪い取った訳ですから自身の宗教観を確立する必要性がありました。
この時の伊勢神宮は外宮「大物主=大国主」つまり男神、なので天武天皇の行幸はない。
天皇の行幸は出雲系の神様大国主へはありません。出雲大社は現在も天皇家方も本殿には入れません。

当然天皇の行幸はあるはずありません。

持統天皇

この天皇こと天照大神を皇祖とし性別も女に変え外宮から神を乗っ取った人物と考えています。
日本書紀
朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師六年丁酉

四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劒鏡於皇后。皇后卽天皇位

さて数多い天皇の即位において鏡が即位の礼で出てくるのは持統天皇が初です。
何故でしょうか?三種の神器だからでしょ?と言われるかも知れません。
しかし三種の神器を持って即位した天皇は記紀に出てきません。つまり天皇の即位=三種の神器はまさに持統天皇に始まるのです。
この姿に記紀に出てくる天照大神を想像する人は少ないないはずです。
ここは逆の法則で持統天皇をモデルに天照大神を創作します。後の人は思うでしょう。天照大神に似せたのだと。
これこそ持統天皇とその陰の側近藤原不比等の罠なんです。

さらに譲位に際しさらなる布石を打ちます。

朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日、將幸伊勢 
是日中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言、諫爭天皇、欲幸伊勢、妨於農時

三月丙寅朔戊辰於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝。重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢

一般的にこの持統天皇の伊勢行幸が式年遷宮の初めとされ、南北朝の混乱期や戦時中といった時期を省くとほぼ20年毎に建て替えられてきました。

この初めての遷宮こそ以降の天照大神の概念を確立させたと考えています。
つまり、現在の外宮を「豊受大神」として、新たに内宮「天照大神」を作り、鏡を御神体にした大神作り上げました。
持統天皇は天武天皇の皇統を孫軽皇子に継がせる為、縁の吉野行幸や天武天皇が信仰した廣瀬大忌神與龍田風神を厚く信仰します。その延長線上に「日神信仰」を継承し皇祖として祀る行為を継承し、内宮を大中臣氏に外宮を度会氏祭主として祀られた。当然中臣氏は持統天皇派であるので依存はなく、度会氏はすでは天皇家の繁栄は間違いなく反抗できない。
記紀で祟神天皇から雄略天皇前期までを天照大神の偽造を行い、持統天皇の治世に当然にしてしまう。当然以降歴史が流れる度に本質はわからなくなり、それが当然になってしまい、嘘は真実に変貌します。
はあ~~~恐ろしや~~~~


話戻り大三輪氏といえば大物主の子孫です。彼がこうも反対したのは何も農耕時期に天皇の行幸が良くないと言っているように思えません。それは表向きの様に映ります。

つまり中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂は伊勢にある出雲系神様の交代は現実の世界ですでに天皇支配があるので容認はした。しかし慣例通り、天皇が出雲系の神様のいる伊勢に行くのは大反対だったのでどうしても行かせたくなかった。
大物主を祀る祭主である大三輪氏の長である高市麻呂です。当然といえば当然。
しかしすでに皇統を孫に譲る気でいる持統天皇は天武天皇の業績を引き続ぐ者への担保として三重地方の豪族への優遇は必然です。天武天皇の彼らの支持がなければ皇位は継承出来なかったわけですから、その彼らを孫への忠誠を必然にしておきたかったのです。

壬午、賜所過神郡、及伊賀・伊勢・志摩國造等冠位。幷免今年調役、復免供奉騎士・諸司荷丁・造行宮丁今年調役。大赦天下。但盜賊不在赦例。甲申、賜所過志摩百姓、男女年八十以上、稻人五十束。乙酉、車駕還宮。毎所到行、輙會郡縣吏民、務勞賜作樂。甲午、詔免近江・美濃・尾張・參河・遠江等國供奉騎士戸、及諸國荷丁・造行宮丁今年調役。詔令天下百姓、困乏窮者稻。男三束、女二束
行幸の際に施した多くの事柄がその事をうらずけます。
ちなみに天皇は伊勢には行幸したものの神宮には行っていません。

この遷宮で現在の天照大神=女神で天照大神=皇祖神という常識が完成しました。

聖武天皇
天平十二年(七四〇)十月壬午○行幸伊勢国

聖武天皇も母が臣下の出(藤原不比等と賀茂氏の娘賀茂媛の長女宮子と文武天皇の息子)皇統も不安定しかも皇統を娘阿倍内親王(父藤原不比等・母県犬養三千代)に繋げたいと考えています。
よって持統、天武天皇の後継者という位置ずけを必要としたので伊勢まで行幸した。
しかし神宮へは行幸した記述はありません。

後の桓武天皇
宝亀九年(七七八)十月丁酉【廿五】》○丁酉。皇太子向伊勢。先是。皇太子寝疾久不平復。至是親拝神宮。所以賽宿祷

皇太子時代とはいえ病気平願に伊勢神宮を参拝するのは異例中の異例、実はこの経緯には陰謀により不遇の死をとげた彼の義母故井上内親王の怨霊が原因とされていました。彼女が伊勢斎宮であった事もあり、祟りを恐れての行動と考えてよいでしょう。

以降当然のように天皇の行幸はなく、斎宮のみが慣例の様に行われその斎宮も天皇家が権威を失うと共に消滅し、天皇家とは一線を引き信仰されていきます。
その信仰が再び変革されるのは明治時代です。

初めて明治天皇の伊勢神宮行幸が実施されます。
これは明治時代それまで天皇の権威が落ちていたのを戻す為に伊勢神宮を天皇家の皇祖、日本総氏神の頂点とする為です。
なにも知らない薩長の指しがねですね。
これから以降大正昭和現天皇又他の皇族は伊勢神宮へなにかにつけて参拝するようになり、祭主も皇族に限る様になります。

なんか歴史って人の手で簡単に変えられるんですね。怖い~~

平安中期の延長五年(927年)延喜式神名帳から
宮中式内23坐
神産祭神八坐
神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神(豊受大神と同一神ともされる出雲系食物穀物神)・事代主神(出雲大国主命の子供)
座摩巫祭神
生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須神
御門巫祭神
櫛石窓神・豊石窓神
生島巫祭神
生島神・足島神
この時期宮中では天照大神はもちろん大国主、大物主命も祀られていません。
という事は平安前期以前も宮中には祀られていなかったといえます。
ここでは高木ノ神が祀られています。

雄略天皇以前の天照大神信仰は記紀の中での嘘、伊勢には大国主を祀る伊勢の神が鎮座していました。
雄略天皇は大物主の一件で恐れをなし伊勢の大物主を神とした伊勢の神(今の豊受大神)を祀る。
天武天皇は一時絶えていた伊勢の神を三重の地方豪族から聞き、再信仰へ構築する構想を立てるも道半ばで崩御します。
持統天皇は伊勢の神を皇祖として祀る事を実行し、伊勢の神を豊受大神という別の名を与え、元々伊勢の神の座を
新たに天照大神という「皇祖神」を造りあげてしまいます。

そんな事を考えながらも長い歴史の中で確立していくと自然に威厳は出てくる様で境内は荘厳にして静寂です。
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宇治橋
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さざんか
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御手洗場
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五十鈴川を利用した禊の場、徳川家綱生母桂昌院寄進しました。
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御正宮までの道にはまさに杜の森
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内宮(皇大神宮)
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御稲御倉
正宮とほぼ同じ形式で作られた神が食べるお米を保管する倉庫
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荒祭宮
天照大神の荒魂を祀る神社
ここだけ個人的なお願いが出来ます。
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旧荒祭宮
さて拝観が終われば「おかげ横丁」へグルメ&ショッピングです。

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おかげ横丁は、第61回神宮式年遷宮の年、1993年7月16日に、伊勢神宮内宮門前町「おはらい町」の中ほどで、
お伊勢さんの「おかげ」という感謝を込めて「赤福」が主導で展開したお買い物お食事所です。
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内宮店限定「ぜんざい」

楽しい江戸情緒たっぷりの通りです。「おかげ参りで流行った江戸時代の賑わいを体感出来ます」


観光の情報は【こちら】



で最後に始めの疑問の舞的回答

①元々雄略天皇時代にお祀りしていた伊勢大神(今の豊受大神・実は大物主命)を利用し、太陽信仰「天照大神」を当時倭国重要拠点東国(伊勢)で太陽の昇る東であるので持統天皇が整備したため。

②元々大物主命を祀った神宮なので敗者の神社を拝観する慣例がない為、出雲大社も現在でも皇室の方の参拝は本殿では出来ません。それと同じしかし明治時代に皇室崇拝をあおる為政府が伊勢神宮の優位性を主張した為です。

③天照大神は想像神であり、宮中祭事の神は創造神(人物化していない、自然崇拝神)が主であるので祀られていないのは当然。現在は後年天照大神を御神体「鏡」をお祀りしまいます。
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