2013-08-14

舞少納言の8.15草子する

暑い夏8月は広島、長崎の原爆投下記念日から始り終戦8.15を向かえ、御盆を過ぎると8月が終わる。

まさに死者への鎮護の月と言えます。

舞は歴史は大好きですが、主に奈良以前が得意分野、平安時代になると文学へ興味が変わり、戦国、安土桃山、江戸、幕末と興味の元は減少、近代史は特になんだかおどろおどろしい時代に思えさけて通ってきまていました。

しかし関東大震災、大不況、政権交代、阿倍首相の国防、憲法改正問題など今と重なるあの時代を草子する事も・・・。と思いアップしました。
この時代は資料が膨大にあり、且つ非常に難しいテーマなので、ある程度テーマを限定して出来るだけ分かりやすく草子していきたいと思います。


テーマ「あの戦争は何故起こったのか?」

御題

「アメリカから見た大日本帝国」
「大日本帝国の天皇制」

序章「大日本帝国憲法の問題点明治時代からの負の遺産」

幕末期から起こった倒幕の動きは薩摩長州藩の下級武士達が中心となり、これに朝廷の公家達が同調し明治天皇のカリスマ的君主の存在によって明治維新が達成され、文化、インフラ、行政、経済、産業革命が加速、近代東洋アジア史上初で唯一の帝国主義国の地位を固めます。

1889年大日本帝国憲法発布
1890年第一回衆議院総選挙開催(投票権限定付き)

最大の転機は

1902年の日英同盟

ヨーロッパ最大立憲君主国にして植民地帝国主義のグレートブリテンと同盟関係を締結する事はアジアで唯一の列強国として認めさせるには十分でした。

1904年の日露戦争
「日露戦争の勝利」この巨大帝国ロシアへの勝利が日本の地位を確固たるものにします。
が、その勝利には名目上「日本の勝利」ではあったものの、賠償金も0得たのはロシアからは東の極寒の地サハリンなど一部と朝鮮半島への支配権に留まります。
その権利は大量の戦死者の数と戦費に合うものではありませんでした。事実賠償内容に不満のある市民が日比谷焼打事件が発生したほどです。

しかし目に見えない勝利の一つに欧米に肩を並べる帝国の存在を証明できた事でしょう。
事実その後6年後不平等条約が撤廃され、翌年明治天皇の崩御により明治は終わり新しい時代「大正」をむかえます。

さてその成長の経緯を脅威として感じていた国こそ「アメリカ」でした。
日露戦争の終結に和解役として乗り出したアメリカですが、アジアの島国日本が大国ロシアに勝利したという事実に懸念を示していました。
実はアメリカとは明治の頃から日米間に小さい外交問題が存在してました。
当時アメリカはハワイを併合しようとしていましたが、日本とハワイが外交的にも民間的交流(ハワイへ移住する日系移民が多くいた為)がありアメリカがハワイの併合を快くしていなかった事が下記でわかると思います。

またアメリカ本土で新移民の受け入れを阻止する政治的な動きがあり特に移民の多い西部で日本人への偏見と差別的法律も可決されています。


1881年ハワイ王カラカウア一世来日
1893年アメリカ合衆国が強制的にハワイを合併しようとした際、日本の巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、
     アメリカの横暴を牽制した事があり、その影響でハワイ共和国の建国に留めた。
1894年同国の一周年記念式典の祝砲を東郷平八郎へ依頼するも拒絶され他国もこれに追随した。
1897年3月、テオドア・ルーズベルトは友人への手紙に「できることなら今すぐにハワイを併合し、、
        ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ日本を凌ぐ軍艦を建造したい。
        私は日本の脅威をひしひしと感じている
1898年アメリカ・スペイン戦争で東南アジア進出の足がかりにフィリピン、グアムを獲得します。

1894年アメリカ合衆国ハワイカルカウア王朝を廃しハワイ共和国建国させる。
1895年孫文広州での武装蜂起を企て失敗し日本へ亡命

1899年大統領就任後、パナマを独立させ運河建設に着手、
   ハワイの日系人の本土移住を禁止しハーストを利用反日キャンペーンを展開させて、日系人の子弟を学校か   ら締出す。
   土地所有を禁止し、市民権の取得も拒否しました。

1905年07月桂タフト協定 9月日露戦争で獲得した南満州鉄道の防衛を目的に関東軍の前身関東総督府設立

1906年ロシアから譲渡された鉄道を南満州鉄道として設立

1907年蒋介石日本の東京振武学校入学
1909年蒋介石大日本帝国陸軍陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校になる
1911年蒋介石退役
1913年蒋介石、孫文第二革命失敗で日本へ亡命
1917年広州軍政府樹立するも内部闘争に敗れ日本へ亡命

当時のアメリカ大統領はセオドア・ルーズベルト(あの桜の木を切って父親に正直に告白したという逸話で知られる愛称テディー)彼は親日家として知られていましたが、日露戦争後富国強兵国化を進める日本を脅威に感じ、きたるべき日に備え徐々に国際的な日本包囲網を作りあげてゆきます。

上記の桂タクト協定はまさに完全に日本を信用していない姿勢ともとれます。

何故なら国通しの約束なら条約が一般的もしくは他国に知られない様にするため密約でも可能です。
しかし協定とは単にメモ書き程度の約束事です。
しかもこの協定の日本側は桂首相兼任外務大臣がアメリカ側はタフト陸軍長官という格の差が歴然です。
もちろん内容はルーズベルト大統領も承認されはしていますが、約束事としての重みは低いでしょう。

内容は下記の通り

①日本が大韓帝国の指導者であるという立場を承認する。
②アメリカの植民地フィリピンを日本が脅かさない。
③極東の平和は日本、英国、アメリカの3国が事実上の同盟を約束する。
というものでした。

①は日本の有利にその為、大韓帝国の併合には列強からこれといった異論が出ないばかりか、極東の安定には必要という認識までありました。(日露戦争の発端は朝鮮半島の影響力の保持が原因の一つです)
その後併合を認めたはずの高宗が条約を締結しようとするハーグの会場に、密使を派遣し国際問題へ持ち込もうとした際にも各国の代表に門前払いされます。また高宗の特史尹承晩がルーズベルト大統領に謁見しようとした際には公式訪問者でないという理由で会見拒否に合うはめになったのです。

②は日本の植民地支配の巨大化の防止とアメリカのアジア拠点としての重要地域であったフィリピンの統治の確保が担保出来ます。

①と②は交換条件ですね。

③は意外と重要です。つまり、今まではアジアの決めごとに対して日本は英国だけを重要視していればよかったが、今後はアメリカの存在も考慮しないといけなくなったわけです。
これこそ脅威への圧力ですね。


その後日本はアメリカ外交を過小評価し、重要友好国という認識を持つ事が出来ません、しかも国内の政治体制に重点が置かれる様になる事件が続々と重なります。

当時は選挙による民主主義的な要素を入れながら(但し選挙権は納税額に応じ与えられていた)もその権力は未だ薩長派閥政治の元進められていました。


本当はそんな事をしてる場合ではありません。
何故なら明治時代の負にして最大の欠陥修復こそ急がなくてはならない課題が残っていたのです。
それこそ「大日本帝国憲法の改正」でした。

1889年大日本帝国憲法発布

大日本帝国憲法はヨーロッパですでに発布されていた憲法を外遊しながら審議を重ね「プロイセン憲法」を参考に立案され発布されました。

主に問題となる項目を挙げると下記の通りです。

第一章第一条
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第二章第二十九条
日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス
第四章五十五条
国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
第五十六条
樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス


関係図は下記の通り

表向きは国家元首は「天皇」
天皇が内閣、帝国議会、裁判所のメンバーを任命
内閣は天皇に国務の補弼(天皇の国事行為を補佐する)
帝国議会は立法の協賛(立法の行為を補佐する)
帝国議会は天皇が任命する貴族院と一部の臣民による選挙で選ばれた衆議院の議員により運営させる。
裁判所は天皇の代理で司法権を行司する
陸海軍の統率権は天皇にある。
元老院は天皇の国事行為に対して助言出来る。
枢密院は天皇の諮詢機関である。
臣民(国民)は法の適用範囲内で全ての行為を約束される。
臣民には兵役がある。

最大の問題点は「天皇による陸海軍の総帥権」でした。

当時の軍事組織

天皇→内閣(内閣内の位置は下記記述)
  →師団長
  →参謀本部(参謀総長)
  →教育総監部
  →海軍軍司令部
  →連合艦隊
と上記の様に横並びの関係でした。

内閣→総理大臣
  →外務大臣→外務省
  →海軍大臣→海軍省
  →陸軍大臣→陸軍省

となり陸軍は陸軍大臣(軍政・人事)、参謀総長(軍令・作戦・動員)、教育総監長(教育)が三長官と称し海軍は海軍大臣が海軍省を海軍司令部総長が独立した各組織を協議する関係でした。
しかも参謀本部は天皇の総帥権を行使するにも関わらず責任は問わない立場にいました。
この構図は軍隊であるにもかかわらず、天皇→内閣→陸海軍大臣→参謀総長ではなかったため各組織が個別化し統率出来ない組織になっていました。
 
軍部の暴走を止めるストッパーは唯一天皇のみというあやうい状況です。

せめて総帥権でも「内閣か帝国議会にゆだねていれば陸軍の暴走を止める事が出来た可能性が高く、日本の外交における矛盾、いわゆる二重外交を回避出来たはずでした。

しかしこの総帥権は一筋縄では改正出来なかったかもしれません。
その条件があまりにも厳しかった為です。

①改正には議会で2/3の賛成が必要。
②この改正には最大にして難所の「大正天皇」の強力な推進が必要。
しかし大正天皇は生まれながら虚弱で常に病気がちであり、明治天皇がはなったカリスマ性もありません。
この様な父の偉業を改正出来るほどの力はなかったのです。
③明治政府は国策として列強国と同等の地位を求めるにあたり、富国強兵を強力に推進した為に陸海軍の縮小や抑え込には非常に難しい事。
④明治天皇の治世で活躍した政治家、軍人がまだ生存していたので彼らの強固な反対が予想出来ます。

新しい時代大正でこの偉業を成し遂げていればあの戦争は回避出来たはずです。

しかし出来なかったこのつけを後で払うはめになるのです。

国内では新しい大正時代の幕開けと共にその政治体制に変化が起こります。

第一章「大正デモクラシーの光と影」


大正元年当時帝国議会が開催されていましたが、その実元老院の長老公家の西園寺公望、山縣有朋、松方正義、又山縣派の政治家衆議院議員の桂太郎らが中心となり政治を展開させ後世「園桂時代」と呼ばれていました。
中でも西園寺と山縣有朋は二大勢力として政治と軍事の中枢で支配していました。
しかも帝国議会の選挙は一部の裕福な納税者に特権として与えられていました。

そんな時内閣総理大臣西園寺公望に対して陸軍が二個師団増設を強行に要求し、これに西園寺は拒否します。
陸軍の最高指導者元帥の山縣有朋は高圧的な要求は返って陸軍の為にならないと考える様になり、西園寺と妥協しはじめます。
しかし当時内大臣兼侍従長であった桂太郎が政権奪還を狙い、陸軍大臣上原勇作に「増設反対に異論」を唱え始めます。
上原は1912年11月に陸相の辞任と陸軍も後任を推薦せず、当時陸軍の現役軍人しか大臣になれない規則の為に大臣不在という事態になり、西園寺内閣は総辞職せざるをえませんでした。

時期内閣は紆余曲折の末、元老院によって桂に推挙されるものの藩閥政治には変わりなく民衆は支持せず、又桂派を衆議院で確保出来なかった事もあり、政党政治を望む声に押し切られ解散せざるえをえませんでした。

1912年1月孫文中華民国臨時政府の臨時大統領に就任

1912年12月大正政変始まる 14日犬養毅他憲政擁護会結成・東京で憲政擁護第一回大会開催。地方へ拡大
    2月閥族打破・憲政擁護派が上野神田で集会を開催、群衆が国会議事堂へ押し寄せる。
清国皇帝溥儀廃位
      桂内閣解散を要求する群衆が警察署、新聞社を襲撃全国で普及
      大正政変で桂内閣解散終焉する。

桂太郎 長州・陸軍軍人
第三次桂 1212年12月21日~1213年2月20日 護憲運動混乱

山縣・井上・松方・大山・西園寺・桂など薩長出身者藩閥政治体制終焉
(但し後世も元老として総理大臣の任命に指名を行うなど影響力は保持していました)

1913年12新党立憲同志会結党 6月陸海軍省官制改正(ここで現役軍人以外への軍相の就任が可能になりますつまり軍の推薦を受けなくても元軍人・予備隊からも一本釣りできるようになりました)

桂の後を受け

山本権兵衛 薩摩・海軍軍人・立憲政友会
第一次山本1913年2月20日~1914年4月16日 シーメンス事件混乱

1914年1月シーメンス事件発覚

当時の海軍への商社からの不正賄賂事件、山本は海軍出身の為に議会で責任追及され辞任します。

後任
大隈重信 佐賀・教育者・立憲同志会
第二次大隅1914年4月16日~1916年10月9日  衆議院議席増加策

この大隅内閣の時あの第一次世界大戦が勃発します。

1914年7月第一次世界大戦参戦8月英国の要請に応じ日本参戦、南洋諸島11月に青島のドイツ領を占領します
   2月衆議院ニ個師団増設費否決後解散 
第二次世界大戦はヨーロッパを中心に展開した戦争、オーストリア帝国の皇太子夫妻がサラエボで暗殺された事件がきっかけでバルカン半島からヨーロッパ大陸に拡大した戦争です。
日本は英国の要請を受け参戦、当時の英国の敵であったドイツのアジア拠点に総攻撃をかけ占拠してゆきます。
が、アメリカはこの日本参戦に警戒を強め英国抱え込みという行動を起し始めます。

特にアメリカが更にヨーロッパ各国までも異議を唱えた中国に対しての二十一カ条条約が締結されます。
この要求は中国の民衆に大変不評な物で明らかに不平等条約であり、反日の気運を高めるに十分でした。

1915年1月二十一箇条要求を中華民国へ要求 5月受諾 

後半大戦景気に沸く

初めは最後の条項に日本の中国内政干渉まで盛り込んだ内容であったため、世界的に独立国にであった中国に対してあまりに属国的扱いの要求でした。さすが中国はこの条約の第五条を世界に向け暴露します。
にこの項目は世界的異論に考慮して外されたあと袁世凱の了承を取りつけ受諾されます。

またも日本の中国の進出の野心にアメリカはいかにブレーキをかけるかに重点を置き始めます。そしてこの条約要求こそ、とりわけ日英同盟に亀裂を生み出すきっかけとなってしまいます。


6月ニ個師団増設費含む追加予算公布
12月東京株式市場暴騰(大戦景気始まる)
大隅内閣は民衆の期待高く人気はありましたが、最初こそ山縣派にすり寄る政策を掲げていましたが最後に元老院や山縣派と対立し総辞職します。

12月袁世凱中華帝国初代皇帝即位するも3月退位失意の中死去

山縣はこれ見よがしに大本命寺内 正毅を推薦し海軍以外は全て山縣派といった内閣が誕生します。

寺内 正毅 長州・陸軍軍人
1916年10月9日~1918年9月29日 米騒動の引責辞任

1916年 7月日露協約調印
    10月立憲同志会、中正会、公友倶楽部合流後憲政会創立
1917年1月憲政会・国民党内閣不信任案提出衆議院解散 3月ロシア帝国消滅・ニコライ二世退位
     9月金本位制停止
     10月ロシア十月革命ボリシェヴィキ革命が起こる。ここにソビエト社会主義連合成立     
    11月石井ライジング協定締結

石井ライジング協定とは日本特史の石井菊次郎とアメリカ国務大臣ライジングとの間にかわされた協定
中国の東北部(満州・東部蒙古)への中国大陸全土に対してアメリカが表明していた中国政策の一般原則を認めつつ、満蒙に日本の権益を認めさせようとする妥協策をいう。但しその権益とは経済的を指すのかまた政治的に指すのかはあいまいにしたまま締結されました。
当時の中国は列強国からすると国内経済を生む大事なアジア拠点であり、不平等条約を締結し外国でありながら自国の治外法権的な地区がいくつもありました。つまり中国は列強の皆の共有する国益の国であり、同時にあくまで独立国だという認識でした。つまり日本だけが独占的に中国全土の利益を貪るのは阻止したいという意図があり、純粋に国として同等の立場とは認めてはいません。

この協定でアメリカは日本が中国を支配する事は許さないが、経済的に影響力を持つ事はやもうえないと考えていたと見ていいでしょう。

ここでも条約ではなく協定しかもトップ会談でないのが両国の微妙な温度差が出ています。


1918年  5月日華共同防敵軍事協定調印
     7月富山米騒動始まる
時代の波には勝てず米価の急激な値上がりに各地で暴動が起こります。

原敬 盛岡・外務省官僚・立憲政友会
1918年9月29日~1921年11月13日

     10月中国国内南北争乱の助長する借款を控える方針を決定

原は内閣を組閣後、中国関係を見直します。1920年には規約調印される。
日本は当時満州軍閥への借款を行い内政干渉の土台としていました。
これは中国国内の政治闘争を激化される要素があったため、原はアメリカが中国への関心を高めている事を承知していました。
アメリカへの関係の改善においても中国への政治内政干渉ととられる政策はひかえる重要性を理解していました。
     11月シベリア出兵数、シベリア鉄道占領の事案で抗議される。
       オーストリア帝国消滅・カール一世退位
       第二次世界大戦終結
やはり革命後もロシアとの戦争の中で英国の要請を受けシベリアへ出兵が決定、アメリカもロシアにいたチェコ軍の保護を目的とした平和的出兵が決まり、極東の日本へも出兵の要請を打診します。

しかしここでも小さな問題がおきます。アメリカはあくまで保護を目的とした出兵であるの対し、日本が出した兵数は格段に多いものでした。アメリカは日本の出兵数に抗議します。参謀本部は総帥権を盾に結局は出兵数を度々増やすものの大した成果も上がらず兵力を消耗しただけで1922年10月にようやく撤退します。

1919年1月パリ講和会議始まる。
2月日本が国際連盟で人種的差別撤廃提案するもアメリカ大統領の「全会一致提案」により否決

これは表向きは「人種差別」という大義名分名何故アメリカがハードルを挙げたか?
これは日本が人種差別を理由に強行に外交、もしくは各国に在留する日本人の権利を協力に主張するであろう警戒感の現れです。
第一次世界大戦で大きな利益を得たのはアメリカと日本でした。
ヨーロッパでの生産が出来ないかわりに輸入をこの二カ国に集中したためです。
経済が国力の原動力という訳です。
    2月普通選挙要求デモ、全国普選期成大会開催
    4月山東省におけるドイツ利権を日本が継承 
    5月赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治を日本に委託・6月ヴェルサイユ条約調印・国際連盟設立

パリ講和条約・ヴェルサイユ条約調印、国際連動はアメリカの主導で行われます。これは大戦でヨーロッパが荒廃し戦後の国力が低下した事を物語っています。
これは今までの世界標準が大きく変化する事を意味します。
アメリカは英国から独立戦争で勝利し建国した国です。確かに大国主義的には変わりはないでしょうが、ヨーロッパの様な帝国主義的な国際ルールが崩壊してくるあいずでもありました。
日本はこの変化に適応出来なかったのです。
いつまでも国が反映する為には富国強兵あるのみ。少なくても軍部は同調出来なかったのです。

国際連合はアメリカの肝いりで設立した世界で初めての国際組織です。いいだしっぺのアメリカは加わらずソ連、ドイツも参加を認められず国際組織としては結成当初から基盤の弱いものでした。

    11月駐米大使に外務次官幣原喜重郎を次官に墳原正直政務局長を昇進させる。

原は大隅内閣以前のアメリカ軽視の政策に危機感を抱いてました。
世界の時勢が帝国主義から民主主義へと移行し第二次世界大戦からヨーロッパの国力の衰えが激しく変わってアメリカが主導権を持つ事が明白でした。
そこでアメリカ通で時勢に敏感な幣原に白羽の矢が立てられました。


1920年1月全国普選期成連合会結成 全国へ広がる
     1月国際連盟発足・日本常任理事国入り 3月戦後恐慌始まる  5月日本発メーデー /
   11月宮中某重大事件
この事件は皇太子妃に決定した良子女王の母方に色盲異常の病気があり遺伝する可能性があると報告すると、
山縣が皇太子妃の内定取り消しに強硬な姿勢を見せて工作するも失敗に終わり、以降宮中においても政治的にも影響力が著しく低下した宮内の事件をいいます。
山縣は軍で大きな影響力がありましたから軍部内に危機感をあおるきっかけとなったと思われます。

1921年3月皇太子ヨーロッパ巡遊始まる  7月神戸三菱川崎造船所スト   7月毛沢東第一回中国共産党大会に出席 9月皇太子帰国 実業家安田善次郎国粋主義者に暗殺される

昭和天皇のこの皇太子時代の巡遊は後の立憲君主制の在り方に道筋をたてた旅になります。
しかし「君主は立つも民主主義に徹す」という考えがかえって禍してしまいます。
又あまりにヨーロッパしか見ていない旅程コース、当時のヨーロッパは多くの王室、公室が終焉し冷え切っていたアメリカこそ外遊にいれるべきでした。原首相は主張したようですが、宮内庁から反対の異論が出て訪問する事はなかったのです。 

11月原敬暗殺・大正天皇病状悪化に伴い皇太子摂政宮就任

平民首相といわれ庶民に人気のあった原の内閣は当時としては政党色の強い安定した政権でした。
が、大正時代は「老いも若きも、富ある者も貧しい者も政治に大きな関心と自身の生活向上心を行動で現した時代でした。その行動はしばしば強硬でテロ的な側面も出その刃は政治家経済界など民主的な者へも向けられる事もありました。
その一つが1921年11月東京駅で起こった原殺傷事件です。
犯人は鉄道で日雇い労働者として従事していた中岡良一でした。中岡は当時満鉄、阿片事件の政府対応に憤慨し国粋主義者の朝日が安田善次郎を暗殺した事で刺激を受け原を暗殺しようと強行にいきついたと言われています。
原は治療行為も行われたものの病院で道半ばで死去してしまいました。

政府がきにいらない政策をたてれば暗殺やもうえなし」という民主主義とは言えない行動が多発していく序章の事件です。
原の死はアメリカ対策の不十分さと山縣亡き後歯止めがきかなくなった軍部の独走を許す結果となりました。

高橋是清 仙台・文部省官僚・立憲政友会
1921年11月13日~1922年6月12日 閣内不一致

首相暗殺という事件で臨時内閣として成立します。
    ワシントン海軍軍縮会議開催 
     12月四カ国条約・日英同盟解消決定
1922年2月山縣有朋死去ワシントン海軍軍縮会議終結・日中間山東問題に関する条約調印・中国に対して九カ国条約締結

新たに世界基準国となったアメリカはアジアでの影響力の範囲の確認に四カ国条約を、表向きヨーロッパの復興の為に世界的な軍縮を提案します。
がこれは中国侵攻を脅威に感じた日本対策でもありました。日本は中国の山東地区での権益を返還し公有財産の無償返還、軍の撤退が決まりました。

四カ国条約の成立をもって日英条約は破棄されてしまいます。
ここは重要です。これでアメリカは日本の中国への強硬な政策を列強で抑制できるようになったのです。

ワシントン会議では中国に対しての九カ国条約が締結されます。
これは日本を含む各国が中国へ対しての国際ルールを定めた条約です。

①中国の主権、独立、領土保全(但し各国が現在保有している中国内の領土権利は継続)
②中国政府の維持の確保を十分に機会を与える。
③商工業上の均等の維持
④友好国の国民の特権を求めない。中国情勢を理由に友好国に害のある行動をしない。

つまり、これ以上中国に対してなんだかの政治的関与、経済的打撃利用、政治への介入を抑制する条約です。
ちなみにこの九カ国は日米英仏伊、中国、ベルギー、ポルトガル、オランダ国の事です。
アメリカはこのワシントン体制と呼ばれる新体制において、日本の中国進出を国際的に抑制しるう体制を保持できました。

加藤 友三郎 広島・海軍軍人・立憲政友会
1922年6月12日~1923年9月2日 首相病死

この後三代にわたり非政党内閣が続くことになります。背景には政党主義という新しい政治のあり方に保守派の危機感がありました。
    
    7月陸軍軍縮計画発表
ワシントン海軍軍縮会議ではシベリア出兵に失敗した軍部が世論に批判され影響力が下げるのを避けたいという思惑が重なり日本は賛同します。
1922年8月翌4月に陸軍大臣山梨により、陸軍の兵力削減、部隊の解体と合わせ新設備と新たな部隊の編成が行われます。いわゆる山梨軍縮です。

海軍も同等に軍艦14隻廃船、新軍艦の空母への変更と兵士、職工等の削減、合わせて海軍内の編成が行われます。


 7月日本共産党非合法に結成 
    11月犬養毅、尾崎行雄ら革新倶楽部結成
末中国山東省租借地を中国へ返還完了
1923年4月石井ライジング協定破棄
九カ国条約の締結をもって解消されました。

    9月関東大震災・大杉栄家族を憲兵大尉甘粕正彦らが殺害・朝鮮人中国人殺害起こる・震災不況始まる

この事件は共産主義者の大杉家族を憲兵大尉だった甘粕らが公衆の面前で任意同行した後殺害するという悲惨な事件です。
彼は立件され裁判にかけられたのにも関わらず後に釈放され陸軍からヨーロッパ研修という名目で留学までしています。彼こそ満州帝国の悪名高き関東軍参謀長だった甘粕です。  

普通選挙実施に対し高橋内閣の床次内相など保守派から批判を受け閣内不一致が発生し総辞職します。


山本権兵衛薩摩・海軍軍人・革新倶楽部
第ニ次山本
1923年9月2日~1924年1月7日 虎の門事件責任

この後の内閣は政党政治に危機感を持つ保守派政治家、海軍軍部により組閣された内閣でした。
この内閣は長続きせず、予期せぬ摂政宮暗殺未遂事件の責任を取り総辞職してしまいます。

12月虎の門事件(皇太子暗殺未遂事件)日英同盟失効


清浦 奎吾 肥後・司法官僚
1924年1月7日~1924年6月11日 選挙不支持責任
1924年1月政友会、憲政会・革新倶楽部内閣打倒運動開始
中国孫文による中国国民党、中国共産党による第一次共同合作実施
  5月護憲三派選挙圧勝

元老院西園寺は旧山縣系官僚出身の清浦に首相に推すると政党基盤を持つ政治家や普通選挙実施に向け高揚感のあった民衆を落胆させジャーナリストは内閣を一斉に攻撃しはじめました。
この好機を逃すまいと政党派の高橋是清、加藤高明、犬養毅の三人は三浦梧郎(山縣系長州出身陸軍人)の斡旋で「政党政治の確立護憲三派」を申し合わせ、清浦内閣の打倒を宣言します。
この運動により衆議院は解散され選挙により護憲三派は圧勝、再び政党政治が復活します。
これを第二次護憲運動といいます。


加藤 高明 尾張・外交官・憲政会~他
1924年6月11日~1926年1月30日 首相病死
 7月アメリカ合衆国排日移民法制定
この法律は日米間の民間レベルでの不信感を植え付けるきっかけになった法案です。
当時の外相は原内閣でも入閣した幣原で、外交面ではワシントン体制を強く支持し、中国をワシントン体制の中で秩序ある安定した政府の樹立を連携した中国を理想としていました。但し中国は早期の列強国からの領土返還、不平等条約の解消を強く主張していましたので、列強の中でも温度差がしだいに鮮明にあわわれてきます。
米英は中国の要求を無条件で受け入れたのに対して日本は日露戦争で得た満蒙租借地の利権の確保もあり、完全には受け入れられず、満蒙での軍閥闘争にも積極的に関与しました。
但し租借地内の事であり、世界的に内政干渉と避難されるまではいたりませんでした。

幣原外相対中国不干渉、満蒙権益擁護声明

1925年1月日ソ基本条約締結国交樹立・

2月溥儀日本の庇護の元紫禁城を出て日本租界地天津へ移る。

3月孫文死去により中国内軍閥闘争始まる

4月治安維持法、5月普通選挙法施行
・陸軍四個師団廃止(宇垣軍縮)

新しい加藤内閣が行った改革に普通選挙の実施があります。この今日では当然の国民の権利は明治以降特定の裕福な者にしか与えられない権利でした。
民衆は明治に列強国の仲間入りを目指すため、大きな変化と発展の為貢献していましたが、新しい時代の波と大正時代に起きた世界の変化に触発され自由平等といった民衆運動に敏感に反応していました。
世論には勝てず、独占的に政治支配してきた一部の権力者による政治支配は崩れ始めていました。

そして紆余曲折の後に5月普通選挙法が施行され本当の意味の民衆政治参加が実現しました。
しかし実はこの1ヵ月前に4月治安維持法も成立してしまいます。

当時労働者運動が過激になり全国的な暴動もあったためとソビエトの社会主義に触発された運動家も活動していたため、政治家はそれらを取り締まる為の法律の制定を決定しました。
事実以降は左翼主義共産党や社会党等の党員やデモなどに適用されていました。

但し以前にも立案されながらその特異性の高い法律のため廃案になったいわくつきの法律、当時の政治家がいかに民衆を信用していなかったか、政治は特権階級の物と自負していた証しと思われます。
この法律が太平洋戦争前後人々を恐怖を与えた悪法です。


若槻 禮次郎 松江・大蔵官僚・憲政会
1926年1月30日~1927年4月20日 金融恐慌の責任

1926年  3月労動農民党結成 
       7月中国国民党蒋介石軍を北伐へ進軍させ、北部の軍閥を打破。
       12月社会民社党結成 日本労農党結成
 大正天皇崩御 昭和天皇即位

国内内乱に混迷する中国に外相幣原はクーデターを起した蒋介石が置いた南京に政府を樹立、しかし中国共産党と国民左派が武漢に政府を置いていたので国内ふたつの政府が存在するようになってしまいます。




第二章 昭和天皇の戦争責任と太平洋戦争へ向かう軍部の暴走

大正天皇は12月に崩御し摂政宮皇太子裕仁が即位します。

昭和でよく論じられるのは昭和天皇の戦争責任です。大日本帝国憲法において天皇の発令は絶対的なものであり、日中戦争太平洋戦争では度々天皇の命令は利用されていましが、昭和天皇が御前会議において中国、アメリカへの宣戦布告に合意していたのは事実です。
もちろん不本意ではあったでしょうが、軍大臣の言葉を信用して合意した訳です。
なので責任はあった。
しかし、天皇という尊称を使用した天武天皇以降実は天皇が直接政治軍事経済に関与するのは極めて異例でした。
唯一天武天皇は臣下の大臣を置かず自分の息子たちに皇族親政を行いあらゆる決断を天皇が行い皇族が補佐していました。その他では後醍醐天皇の数年の親政のみ(斉明天皇、孝徳天皇、称徳天皇は政治に積極的に関与したと日本書紀にありますが臣下に補佐させていました明治天皇も形式上は政治に関与したかのようにとらえられますが実は内閣議会に相当関与していなかったといいます。のでグレーゾーン)で後は藤原氏や橘氏といった貴族、もしくは譲位した上皇、武士、各時代の幕府が政治を行い、天皇は神祇と文化面、血筋の保持のみに君臨していました。

つまり歴史上も「君臨すれど統治せず」が慣例となっていました。

この昭和という時代はたとえ昭和天皇が政治関与し、日中日米大戦を避けていたとしても国内にあったテロ的政治展開を打破できたとは言えません。

何故なら天皇家を分断して新たな天皇を担ぐというまさに内乱が勃発しなかったと言えないくらいの状況でした。
事実太平洋戦争末期、敗戦濃厚でポツダム宣言を受諾するまさにその前天皇を略奪し阻止する計画もあったと言います。

まあ歴史の分岐点で違う道を選択していればというのは沢山ありますから。

敗戦後マッカーサーは天皇の戦争責任を避ける事が日本の再生に必要と判断し、天皇に戦争責任はないという結論を考出したのでしょう。
その為皇族は軍に所属していたにも関わらず誰ひとり東京裁判で有罪となり死刑台へ送られ責任追求される事はありませんでした。
これは「皇族に責任あり」というと事になると「天皇にもある」とアメリカ本土で天皇の戦争責任問題が挙がる事を懸念してのことだと思われます。


では話を戻し昭和へ昭和は大正より以前の日本が抱えていた多くの問題が押し寄せた時代でもありました。

1927年戦後金融恐慌始まる
     陸軍内に「桜会」と称する軍政治結社設立以降「二葉会」
    3月南京事件発生
    中国蒋介石国民革命軍、南京に入城日本や英国領事館、アメリカ系大学を襲撃した事件
    4月上海クデーターで国共合作崩壊、国民政府派主流派となる。
国内では護憲三派は普通選挙で合意し実施確実となると政策の違いが鮮明に出て対立関係が表面化し内閣は思う様に政策を実施出来なくなり金融恐慌のあおりを受けて総辞職します。
この時から徐々に政党政治に亀裂が入り始め、日本の民主主義は崩壊してゆきます。

田中義一 退役陸軍軍人立憲政友党   
1927年4月20日~1929年07月02日

政友会総裁の地位ではありましたが、田中は政治経験なしの元陸軍軍人でした。
何故西園寺が田中を推薦したのかは推測の域を超えないのですが、やはり軍部のコントロール役にと考えての事かもしれません。しかし事実は田中が軍部特に中国満蒙に拠点を持つ関東軍や満鉄のトップ達と人脈を通じて中国への内政干渉を激化させていくきっかけになってゆきました。
金融恐慌については臨時で高橋是清を指名し、銀行に支払い停止命令を出し金融不安を安定させることに成功します。

 4月モラトリアム施行(銀行の支払い停止命令)

 5月第一次山東出兵 

外交面で特に対中国において強硬な態度で示し元はドイツから譲渡された租借地であった山東に蒋介石の北伐が近ずくという理由で在留日本人保護を名目に関東軍へ兵を送りました。しかし蒋介石の一時国内監禁により撤兵したものの結局中国国内で抗日活動を助長するだけに終わりました。

この頃になると米英は中国における経済的利益よりに中国へ行っていた債権回収を重要視するようになっていった。
つまり激化する中国国内の政争に債権を回収する方が先と判断しました。中国関税自主権利を与財政面に安定をもたらすほうが自国の利益にあたるとして関税権を中国に返還していきます。
しかし日本は未だ経済的利益を優先するあまり断固反対の姿勢を示しまたも孤立し始めます


6月憲政会、政友本党合併立憲民正党創立

1928年 3月蒋介石上海南京占領南京政府樹立中国国内で二政府状態となる。

    6月満州某重大事件・治安維持法改正公布  パリ不戦条約調印
    7月米中関税条約調印
    11月蒋介石の国民党政府アメリカの承認を受ける
1929年 5月 「二葉会」「桜会」が合併「一夕会」発足  6月中国国民政府正式承認  世界恐慌始まる


濱口雄幸 大蔵官僚・立憲民政党
1929年07月02日~1931年4月14日 暗殺未遂殺傷により死亡

実はあまり一般的に知られていませんが、日本の民主主義の第一の砦であった人物こそこの浜口首相です。
まずとりわけ陸軍に積極的に政治に関わりを持たせた田中が退陣すると、浜口は堅実実行内閣といえる強固な人材を入閣させます。

まず中国アメリカ問題に幣原喜重郎外務大臣
選挙通安達謙蔵内相
財務通井上準之助蔵相
陸軍軍縮を成功させた宇垣陸相
財部彪海相

浜口は対華外交刷新・軍縮促進・財政整理・金解禁立

    10月ニューヨーク株式市場大暴落世界恐慌始まる

1930年 1月金解禁実施・ロンドン海軍軍縮会議開催  4月ロンドン条約調印  総帥権干犯問題発生

ロンドン海軍軍縮会議の調印を受け、帝国議会で議論される事になると、海軍の強行派から「総帥権の事項である兵力量に係わる条約の調印は天皇の総帥権の干犯」と衆議院で野党政友会、強行派、枢密院が倒閣を謀るもここは浜口が強気に出て憲法学者の意見を盾に逃げ切ります。その後海軍トップの更送までに行われましたが、軍と右翼派の強い不満が暴走し始めます。


    11月濱口首相狙撃 日本昭和恐慌始まる
濱口を銃撃したのは無名の玄洋社系右翼団体愛国社の党員の青年でした。
私達が現在認識している右翼という団体と当時の組織とはだいぶ違っていました。

当初明治の自由民権運動の一環でいわゆる国家主義いわゆる保守派の政治組織を目指した政治結社が右翼と呼ばれていました。
明治に特に有名な組織が「玄洋社」です。
玄洋社は旧福岡藩士平岡光太郎、杉山茂丸、頭山満らによって1884年に大アジア主義を唱えた団体です。

理念に
皇室を敬載すべし
本国をア愛重すべし
人民の権利を固守すべし

この政治結社には表と裏の顔が非常に大きい側面があり、時代と共に見える奇妙な行動をとっています。
裏では1889年大隅重信の暗殺事件や日清日露、世界大戦時に情報収集や裏工作など行い政界軍部とも関わりを深めてゆきます。
表では大アジア主義の考えの元、ガンジー、タゴール、ネルー、孫文、蒋介石を金銭的に援助、また亡命支援したり、朝鮮末期の革新派金玉均を支援し、ヨーロッパアメリカの植民地下での独立運動も支援していました。
戦後日本では戦前の日本軍の行為は全て悪というレッテルをはられ全てのアジア民族を武力で制圧したと思われていますが、インド、インドネシア、ビルマ等ヨーロッパの植民地支配に抵抗した独立運動に協力していた過去もあり現在でもこれらの国は日本びいきとして知られています。歴史って複雑ですね。

濱口を襲った右翼青年は濱口が天皇の総帥権をおかしたから狙撃したと裁判で言いながら「総帥権」とはなにかまったく答えられなかった人物でした。
社会ムードの中で行った犯行なのか???
この狙撃が以降の日本の混迷をより大きなものにしてゆきます。

1931年1月松岡洋右が満蒙生命線を演説
松岡はアメリカ留学経験があり知米家でありながら、日米交渉に水をさし日米開戦へ追い込んだ人物です。

3月陸軍幹部候補「桜会」のグループ宇垣内閣樹立を画策クーデター未遂事件起こる。

4月濱口狙撃の傷がもとで死去し内閣総辞職


若槻 禮次郞  松江・大蔵官僚・憲政会
1931年04月14日~1931年12月13日 閣内不一致

浜口の死は大きく振り子が左に振れた後の降り戻しでおこる右振れが一気におきそれはふりきれていきます。

まず動いたのが陸軍でした。特に中間層の次世代幹部候補達でした。
彼らは中国の満蒙にある租借地での政治的権力の確立を目的とし、内閣の対中国外交にたいして不満から陸軍による満蒙の実質支配を念頭に強硬な行動をしてゆきます。

1931年1月上海事変

1931年9月満州事変

満州事変とは1931年9月18日奉天近郊の柳条湖付近で関東軍による満鉄の爆破工作事件です。関東軍はこれを中国軍によるものと北大営を攻撃した事件です。
もちろん日本政府は関与しておらず、暴走する関東軍と一部朝鮮半島の陸軍部隊の仕業です。内閣は一時は不拡大大路線の姿勢を打ち出すも強行派に太刀打ちできずに関東軍の侵攻を支援してしてしまいます。
もはや陸軍の政治的立場は大きなものになっていました。 

   10月国際連盟期限付き兵撤退を可決
   10月桜会などの一部陸軍クーデター未遂事件発覚
   11月中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立、毛沢東主席となる。


犬養毅 政治家
1931年12月13日~1932年5月16日

そして民主主義最後にして最大の第二の砦犬養毅登場!!!
彼の後日本は確実に国際的に孤立しますます軍部の政治関与を放任し太平洋戦争への突き進みます。
犬養毅はこの時77歳という高齢ながら元老院西園寺の後押しを受け総理大臣に就任するも実はほぼ事実上政界引退しており、不本意ながら首相の地位をつきます。当時懸案事項の知華派と知られ頭山とも昵懇である犬養に白羽の矢があたったのでした。
まず自身の基盤の弱さを補う為に総選挙を断行し政友会が第一党となり、新内閣の組閣を行います。
犬養は首相、及び外務大臣兼任(一時期)
大蔵大臣高橋是清→大蔵大臣といえばこの人歴代大蔵大臣経験者1位でしょうね。不況の救世主
文部大臣鳩山一郎→あの「宇宙人総理」のお父さん
内務書記官長森格→この人当時の軍部に強い影響力を持った政治家、犬養は一政治家に置いておくのは危険と内閣に引き入れたものの結局あだとなります。
陸軍大臣荒木貞夫
海軍大臣大角 岑生

まずは高橋が昭和恐慌の不況を金輸出再禁止と兌換停止を断行し、同時に積極財政へと転換して回復に向かわせます。この成長過程は世界的に先んじており世界恐慌に一早く抜け出せる事ができました。

もう一つ懸案事項である中国対策には犬養はある程度妥協の道筋を作ろうとしていました。蒋介石や孫文とも頭山を通し付き合いを持っていたので勝算はあると考えていたのでしょう。
「中国の満州での領有権は中華民国であるのを認めつつ、実質的には日本の経済支配圏に取り込もうという」という案を萱野長知(孫文派)を上海へ特使として派遣しました。交渉がある程度本格化した際に森に知られ上海の萱野からの電報を握られ交渉ははたせませんでした。又軍部の若手強行派幹部を更迭しようとした際も同じく森に妨害され、総帥権の侵害と大きく揺さぶれらます。

犬養が中国寄りととった海軍中尉古賀清志の元若手将校らが1932年5月15日首相官邸、内務大臣官邸、政友党本部を襲撃した暗殺事件を言います。
この時いやわせた犬養を海軍中尉三上卓や黒岩らが狙撃、しばらくは息があったものの絶命して死去してしまいます。


この暗殺を持って日本の政党政治は壊滅状態になたといっていいでしょう。以降特に軍部の色の強い内閣でないと機能しなくなるといったおぞましい政治が始まります。
尚以降日中戦争及びアメリカ関係を中心に草子します。



11月毛沢東中華ソビエト共和国臨時政府樹立宣言

共産党対国民党の内戦突入
 
1932年前大蔵大臣井上準之助暗殺される 3月満州事変終わり満州国建国・元清国皇帝溥儀満州国皇帝即位

    3月国際連合リットン調査団満州へ事件の調査により入国する。9月日本の自衛行為以上の行動を報告

1932年 五一五事件 犬養毅他陸軍将校襲撃により死去

高橋是清 仙台・文部省官僚・立憲政友会
1932年5月16日~5月26日 臨時就任

斎藤実 退役陸軍軍人
1932年5月26日~1934年7月8日 帝人事件責任

1933年国際連盟脱退

結局日本の満州支配は国際的に認められず、これに抗議する行動として脱退してしまいます。

岡田啓介 退役海軍軍人

1934年7月8日~1936年3月9日 ニニ六事件

   10月中国共産党軍赤軍、国民革命軍による攻撃長征で内戦状態へ
   11月士官学校事件
陸軍統制派と皇道派の対立事件
統制派とは陸軍大臣を中心とした政治関与を実行しようとする陸軍内派閥組織、これに対して天皇の親政を実現するため強硬策もやむなしとする過激派が皇道派と呼ばれます。

1936年ニニ六事件
陸軍皇道派若手将校が中心となり、元老重臣を殺害し天皇親政を中心とし政財界の変革農村の困窮を打開するというグループの暗殺団が起したクーデターです。
これを持って陸軍内の皇道派は壊滅状態に追い込まれました。

殺害 高橋是清蔵相
   斎藤實内大臣
   渡辺錠太郎教育総監
  
このクーデターは失敗し、首謀者は全員厳重処分されたものの、この事件以降軍部幹部は若手将校の暴走を盾に内閣へ圧力をかけ軍事政治への道をつき進むとこになります。
広田内閣以降軍の政治関与が大きく関わり、結果戦争への道を突き進む事になります。

広田弘毅 外務省官僚
1936年3月9日~1937年2月2日 閣内不統一


1936年5月軍部大臣現役武官制復活
旧軍人、予備隊からの大臣選出は軍部による政治介入及び軍部大臣辞任に伴う陸海軍からの推薦を阻止出来る制度でした。この制度の復活は「選挙により選出された国会議員による内閣」を軍部が後任大臣推薦拒否により内閣総辞職においやる事の出来る禁じてを与えたのです。広田内閣最大の悪点です。

    8月首相、外務大臣、陸・海相、大蔵大臣の五相で「国策の基準」を決定
    9月陸海相「行政機構、議会制度改革案」首相に提出
    11月日独防供協定調印
  12月事前にロンドン軍縮会議脱退を宣言した日本はワシントン海軍軍縮条約失効
     蒋介石西安事件で監禁、南京施府幹部および毛沢東らと和解により抗日運動を全面戦争へ突入

林銑十郎 陸軍軍人
1937年2月2日~6月4日 解散理由不明

1937年毛沢東中国共産党中央軍事委員会代表に選出全権把握する。

近衛文麿 公家・貴族院議員
1937年6月4日~1939年1月5日 総辞職
盧溝橋事件・日中戦争開始
中国北京西南部周辺盧溝橋で起きた関東軍と中国国民革命軍第二十九軍との偶発的戦闘事件です。
がこれを持って日中戦争が始まります。

しかしどうして日本は中国の満蒙などを手中にしたかったのか正直???です。
中国大陸で他民族の侵略を受け政権を持ったとしても最後はその王朝毎領土を拡大してきた歴史を知るならそんな事は馬鹿すぎてしないのがいいと思わなかったのでしょうか?
元、清共に他民族、その後に漢民族に破れ領土を根こそぎ持っていかれた事実。
知らないほど怖いものはありません。

9月中国国際連盟へ日本軍の中国侵攻を提訴・国際連盟日本軍の行為を非難決議採択

10月国際連盟日本の条約違反と採択する。
同時期アメリカのルーズベルト大統領「侵略国」と名指しで非難します。

11月九カ国条約違反として日本を非難する宣言採択

12月長江で日本軍がアメリカの砲艦パナイ号を沈没させた事件で関係悪化

1938年中国に日本支援による汪 兆銘南京政府樹立

4月国家総動員法施行

7月日米通商航海条約をアメリカが破棄



平沼 騏一郎 司法官僚
1939年1月5日~8月30日 外交問題

阿部信行 陸軍軍人
1939年8月30日~ 1940年1月16日 外交問題

米山光政 陸軍軍人 1940年1月16日~7月22日

1940年7月社会党解散以降政党が解散してゆく

近衛文麿 公家・貴族院議員
1940年7月22日~ 1941年10月18日

1940年日独伊三国同盟成立

   10月アメリカ鉄くず鉄鋼輸出禁止する。大政右翼賛会発足
   11月南京政府と日華基本条約調印・共同宣言
       

1941年2月日本の駐米大使が開戦阻止に向け日米和解調整に尽力するも寸前で松岡外相に阻まれ決裂する。

    4月日ソ中立条約調印・日米交渉始まる
    7月アメリカ国内日本資産凍結。日本を敵国とみなしアメリカ国内の日本資金を凍結します。
    8月アメリカ対日輸出大幅抑制日本を含む関係国へ石油輸出を実施

    東條英樹 陸軍軍人 1941年10月18日~1944年7月22日

    対米交渉乙・甲案「帝国国策遂行要領」決定、その後アメリカこの案を拒否
  11月アメリカ国務大臣ハルが暫定協定案を提示(通称ハルノート)日本大使へ手交す。


1942年10月米英中国国内の治外法権を放棄

1942年11月から翌5月までアメリカ大統領の支援を受けて蒋介石夫人宋美麗が中国支援を演説、支持を受ける。
 

12月8日大東亜戦争開始

舞の印象では日米の関係悪化から開戦までアメリカは直接軍事行動を取るまで年数をかけた事がとても意外でした。原因となった日中戦争(盧溝橋事件から)から自重を促す経済的封鎖から段階を踏んで開戦へ移行していることが年表からもわかります。
これはアメリカ国内世論がアジアの事はアジアで解決させ、アメリカは直接軍事行動には出ないというモンロー主義の浸透がいわれています。しかも国の規模から違う戦いで「圧倒的勝利」を信じてうたがわないアメリカ国民に日本との開戦など国益にならないとも考えていても当然でしょう。
アメリカ政府、及び大統領周辺はこの世論を宗美齢という中華民国のスポークスマンを使い日本への開戦支持をうったえ後は開戦支持に大きく方向を切りました。
ルーズベルト大統領はアジアの指導者を帝国主義的な大日本帝国よりは中華民国に託し、次世代のアメリカ主導のアジアを推し進めようとしたと言う事でしょう。
結局ルーズベルトから大統領職を引き継いだトルーマン大統領から見放された中華民国は共産党との内戦に破れ蒋介石国民党は台湾に政府を移すのでした。

これが開戦まで至る歴史なのですが、正直あの偉大な明治維新とうたっていた政治改革が思わぬ欠点を見逃し、しかもその問題は四半世紀近くまで先送りにし、それに「偉大な明治時代」という名の元に時代と共に変化出来ない日本の欠点が浮かび上がってきました。
今の不況にも良くにています。
「決められない」「責任をとらない」「過去の栄光や繁栄に固執するあまり換えられない」

あ~~~歴史って本当にいろんな所に通じます。

最後あの戦争は何故起こったのか?の総論

①大日本帝国憲法の不備により軍部の断頭を防げず、しかも政党主義へ完全に移行出来なかった。
②世界主導権が交代した(英国から米国へ)にも関わらず旧帝国主義から脱皮出来なかった。
③幹部軍人のアメリカ留学の少なさ
④中国大陸及び朝鮮半島の指導者へ外交姿勢がとれなかった。(孫文、蒋介石、金玉均など日本の発展を模範として支持していた人材を生かせなかった。もしくは反日へ向けてしまった。朝鮮半島など旨味の少ない併合などしなければ良かったのです。結局後世にも遺恨を残す結果になったのですからね。)
⑤明治の自由民権運動は政党政治への移行を実現したのものの同時に思想の偏った国粋主義者も誕生させました。「国の為天皇の為なら上下関係、立場、手段を選ばず」下剋上的な集団が出来上がり、幹部や上層部でさえ阻止静止できない状況をつくりあげてしまいました。

でしょうか。結果論ですからなんともですが・・・・・。


追記:今回の草子はテーマが大きい為、焦点を限定して記述しています。
   又年表は前後したり一部の欠落等あると思います。



















                            
 

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