「三代斎王~斎宮物語記~」

斎宮「いつきのみや」とは伊勢国明和郡にある伊勢神宮に奉仕する為に置かれた役所斎宮寮とその祭事主の斎王が住まう宮殿が置かれた場所の総称です。
概ね遺構は奈良時代大伯皇女が斎であった頃の小規模な建築物から、井上内親王が斎の頃に区画整理され建物跡の調査でその規模の完成を完成させたという事がわかるそうです。

現在は跡地に「いつきのみや歴史体験館」「斎宮歴史博物館」「斎宮制限模型」などその遺構にふれる事が出来ます。が、大部分が跡地で一部近鉄線上にありこれからの研究が待たれます。

観光の情報は【こちら】【こちら】

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斎宮郡行に従う女官達
斎王の存在は史実上(古代の斎宮は確認が出来ていない為除外)天武天皇が「壬申の乱」の戦勝祈願の礼として、自身の皇女「大伯皇女」を伊勢神宮の最高神祇巫女に従事させた事に始まります。

天皇の即位、退位。又斎王の親族の忌、自身の病気、死亡をもって退出し交代していました。
但し前斎王の退出から新斎宮の決定までは数年の開きや即位しても選任されなかった場合があります。

斎は亀甲で占い、亀裂から未婚女性皇族から適任者が選ばれます。が、奈良平安初期時代延暦式律以前の選出方法は確立されていませんでした。

その後選ばれた女性皇族は住まいを出て、宮中に定められた初斎院で潔斎し更に野々宮(現在嵯峨野にある野々宮神社が有名)で斎戒生活を送り、神嘗祭に合わせて都を出て伊勢の斎宮に入ります。

伊勢国での生活は斎宮に住まい禊の日々を送り、伊勢神宮の行事のある年に3回だけ伊勢神宮に行列を作って赴むき神祇を行いました。

但し歴代の斎の中には伊勢へ赴任しない場合もあり又斎不在の次期もありました。
平安時代までは厳格に行われていましたが、鎌倉期から南北朝以降後醍醐天皇の皇女祥子内親王を最後に実質的に行われなくなりました。

その斎の中でも奈良、平安初頭時代に異彩を放つ祖母・母・娘の三代に至るまで斎王を勤めた三人の内親王を草子してゆきたいと思います。



では祖母である井上内親王をご紹介します。

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井上内親王は養老元年(717年)首皇子(後の聖武天皇)と夫人県犬養広刀自の間に生れた第一内親王でした。


養老5年(721)8月
乙卯。天皇御内安殿。遣使供幣帛於伊勢太神宮。以皇太子女井上王為斎内親王

井上女王が斎に決定します。

その彼女が父聖武天皇の斎宮にト定選ばれたのは養老5年(721年)9月11日
5歳の時です。

その様子は「政事要略」の官曹事類に記述が残っています。

儀式の後、右大臣長屋王と参議全員に侍従と孫王を率いて斎内親王の前に従い、その後に内侍女嬬が従います。斎内親王の輿を乳母と子女が囲んでその廻りをさらに葛城王(橘諸兄)と弟佐井王や神祇に従事する臣下が従い新宮への道のりを先導します。
斎が新宮に到着すると人々は平城京に戻り、斎宮で神事を司る役人が任命されました。

その日から彼女は俗世から隔離され北池辺新造宮で斎戒生活を送ります。

神亀4年(727)9月
壬申。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉

井上内親王が伊勢国へ向かいます。

神亀元年2月に元正天皇が首皇太子に皇位を譲位します。が、斎は新たに任命させません。
つまり、井上女王は元正天皇の斎ではなく、聖武天皇の斎と考えていいでしょう。

朝廷は聖武天皇(天武系+天智系の継承者)神祇はその娘が行い国を統べる意図がうかがえます。

そして神亀4年(727年)11歳で伊勢下向をし、伊勢国多気郡明和町に存在した斎王の宮殿で勤めを行いながら神事にあわせ伊勢に郡行し伊勢神宮で祭事を行うという繰り返しの日々でした。


俗世では生れ年は不明ですが、斎時代に同母妹である不破内親王が神亀5年(728年)同母弟である安積親王が誕生します。

しかし当の井上内親王には関係ありません。彼女は神に仕える女性として伊勢国の斎宮で乳母や御付きの女官、神祇の神官に囲まれ成長していきました。

奈良時代、皇子と皇女の養育は主に乳母の一族が行っていました
当時の皇族が〇〇親王(内親王)地方名や氏族名で呼ばれるのは(〇良、〇仁親王、〇子内親王と名付けられない)乳母の養育している氏族の姓を付ける事が多いのはその為です。嵯峨天皇以降親王は〇良や〇仁、内親王は〇子といかにも名前らしい名に改められます。

井上内親王も井上氏という氏族(渡来系河内国石川出身)がその養育を任されていたので、彼女自身斎王選出前でも母親と生活していたとは考えにくいのではないでしょうか?
しかもこの当時は天皇(又は皇太子)と妃といっても全ての皇族、貴族は通い婚です。

実はここ大事です。何故なら今でこそ家族は父母兄弟姉妹は一緒に暮らしてこそ家族の結束が固まるのであって、同居していない場合その関係が希薄にあるのは仕方のない事ではないでしょうか?

ここ覚えておいてください。


そんな神に生涯をささげたといってよい日々が続いていく。

天平14年(742)10月
冬十月癸未。禁正四位下塩焼王并女孺四人。下平城獄
戊子。塩焼王配流於伊豆国三嶋。子部宿禰小宅女於上総国。下村主白女於常陸国。川辺朝臣東女於佐渡国。名草直高根女於隠岐国。春日朝臣家継女於土左国

俗世では不破内親王の夫塩焼王(中務卿正四位上)が聖武天皇の不忠が原因で流刑されます。続日本紀には記述がありませんが、阿倍内親王が即位後に「不破内親王の父天皇への不忠があった」と言った事から父聖武天皇治世に不忠があり名親王の称号も剥奪されました。
この塩焼王の不忠は明らかにされていませんが、連坐されているのが宮中の下級女官であるので不義密通(関係を持った女官のうち聖武天皇の寵を受けた者がいた可能性がある)を行い宮中の風紀を乱した。という可能性が高いですね。

天平16年(744)閏正月
乙亥。天皇行幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王。民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂為留守。是日。安積親王、縁脚病従桜井頓宮還

難波宮に行幸する途中に弟安積親王が脚病の症状がひどくなり恭仁宮に還えります。

丁丑。薨。時年十七。遣従四位下大市王。紀朝臣飯麻呂等。監護喪事。親王、天皇之皇子也。母、夫人正三位県犬養宿禰広刀自。従五位下唐之女也

17歳で安積親王死去してしまいます。
訃報聞いた井上内親王は親族の忌により平城京へ帰還します。

この聖武天皇唯一の親王の死は疑惑の現在でも疑問視されます。確かに脚病は当時の貴族の病気ではあり、悪化すると心臓疾患をまねくものの続日本紀に安積親王の病気の記述がなく、しかも引き返した宮の留守役は藤原仲麻呂であるためです。
安積親王の即位を期待する一部の朝廷グループ(橘諸兄派といわれている)を除外するため仲麻呂が一服もったというのです。が、現在も死因については不明です。なんせ陵墓が宮内庁管轄なので発掘調査出来ません。

平城京へ戻って井上内親王を待っていたのは父親として愛情の薄い父聖武天皇、息子の死に打ちひしがれている母広刀自、そして一度も見た事のない妹不破内親王、異母妹である女皇太子阿倍内親王でした。

阿倍内親王の即位を願っていた聖武天皇にとってすでに元斎となった井上内親王は興味の対象外でした。
そのせいか天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により阿倍内親王が即位するまで独身のまま京中で過ごしていました。

天平17年(745)4月
壬寅。徴塩焼王令入京

不破の夫許されて平城京へ入京します。
しかしもはや孝謙天皇の次の天皇という可能性が皆無になります。
この後天平宝字元年(757年)に起こった橘奈良麻呂の乱で連坐の疑いを受けて逮捕尋問されるも証拠不十分で釈放させ、彼は臣籍降下し氷上真人塩焼を名のり3年後には中納言兼務式部卿に就任するなど実務型の政治家となりました。しかし・・・・・。

天平4年(754年)正月
丙申。御南苑  無位井上内親王二品

聖武天皇は思いだしたかのように29歳で無位だった井上内親王を二品に叙位して志貴皇子の王子49歳の白壁王に嫁ばせます。
この時すでに妻子がいた初老の男性(当時としては初老、貴族でも平均寿命50歳前後)に井上内親王はどう感じたのか?
上皇の父には当然拒否の出来ないこれは双方に言えます。

白壁王には当時糟糠の妻というべき和新笠(後の高野新笠)がいました。彼女は日本へ亡命した(百済王の子孫で帰化系の娘という事になってはいますが、百済系帰化人の娘ではあるが百済王だったかについては検証が必要)ですでに彼女の生んだ能登女王(21歳)、山部王(17歳)、早良王(4歳)が誕生しています。
白壁王の年を考えると他に妻や子がいたでしょう。

29歳の俗世も知らない、家族の愛情も知らない、知るのは神の世界のみのこの女性が初老の愛情を受けるのは難しいと思われます。
白壁王は父の志貴親王から父天智天皇と母天武天皇新田部皇女の親王ですから同時に両天皇の血を引くとも言えます。その王に井上内親王を嫁させたという?
もしも次世代の皇位を考えると道祖王(聖武天皇が遺言で皇太子に指名した王族)へ嫁がせたでしょう。
では何故白壁王?
おそらくは不破内親王のにのまえにしたくない。
あえて皇位に遠い人物をあてがったのではないしょうか?

新田部親王の王子塩焼王に不破内親王を嫁がせたのは聖武天皇が「阿倍内親王の後継」として塩焼王を考えていた
可能性があります。
実は兄が塩焼王、弟が道祖王。そう考えると自然です。
彼らの父は新田部親王です。天武天皇と藤原夫人と呼ばれた鎌足の娘五重娘との間に生まれた親王です。
そう塩焼王には自身に天武天皇と藤原氏の血、そしてこれに天智天皇系であり天武天皇系の不破内親王が嫁ぐ事で彼らに生まれる男子は皇位絶対条件を満たすのです。

結局この策は「自分たちが次世代の天皇家」と思いあがったがためか?
聖武天皇や阿倍内親王の不興をかい(阿倍内親王の一方的なという面はある。父親の関心は正統な相続人の自分へだけ向けられるのだという自負もあったかもしれないが、塩屋王の平城京追放は聖武天皇統治下なので問題があったのは事実でしょう。)本当の理由は不明ですが、聖武上皇が兄弟道祖王を皇太子にすると遺言した事実、そしてなによ阿倍内親王が強烈に不破内親王を嫌っているという事実に理由が見える気がします。


さて当の井上内親王の結婚生活は?というと。

井上内親王は天平勝宝6年(754年)37歳で酒人女王(後の内親王)を出産します。
今ではありですが、貴族でも平均寿命20代???というのも当たり前の奈良時代に高齢出産ですね。

この二人に誕生した女王こそ酒人女王こそ父の在位中に二代続く斎王となる人物です。

天平宝字3年(759年)夫白壁王が従三位に叙位されます。

天平宝字5年(761)10月

壬戌。二品井上内親王、十万束以遷都保良也。

遷都による贈米いわゆる転居手当の支給です。他の王族にも贈られていましが、当然警戒していない、もしくはお気に入りの相手に対して行われていたと考えていいでしょう。
孝謙。称徳天皇は井上内親王に対しては妹とはいとなり好意的な受け取り方をし、優遇していました。
父聖武天皇の斎内親王です、優遇して当然といえば当然。ここが不破内親王とは決定的に違う面です。


さらに7年後の天平宝字5年(761年)に45才で他戸王(後の皇太子)出産します。

二人とも高齢出産でもうけているので井上内親王にとってはさぞ可愛らしかったでしょう。
っていうか本当にタフ~~~母に似てますかね。
聖武天皇の少ない5人の子のうち広刀自は3人生んでいます。他に2人夫人がいましたがいずれも妊娠さえしませんでした。


翌年には夫白壁王が中納言に昇進します。

一方不破内親王の夫塩焼王は常に皇位に野心があったようで聖武上皇に不審を抱かれ一時期、王の名をはく奪され事が原因で道祖王廃太子の後立太子の話しが挙がるも孝謙天皇の反対で実現しませんでした。

天平宝字6年(762)10月に母夫人正三位県犬養宿禰広刀自が死去してしまいます。

井上内親王はその頃夫との関係は不明ではあるものの二人の子に恵まれ静かに暮らしていました。


しかし妹である不破内親王にはさらなる不幸が襲います。

天平宝字8年(762年)9月藤原仲麻呂の乱で仲麻呂によって天皇にと請われた不破内親王の夫塩焼王が孝謙上皇の軍との戦いで近江で戦死してしまいます。

しかもこの戦に姉の夫白壁王が参戦していました。つまり義理の兄弟で敵味方に分かれ、姉側が勝利しました。

勝者である姉井上内親王と敗者である妹不破内親王

不破内親王とその子供達が罪に問われる事はなかったものの、不破に姉への強烈な劣等感が芽生えてもおかしくありません。
その5年後神護景雲3年(767年)1月不破内親王犬養姉女、忍坂女王、石田女王と共に称徳天皇を呪咀したと密告を受け内親王称号剥奪の上、県厨真人厨女と改名され平城京へ追放となります。

一方井上内親王はどうでしょう。
夫白壁王は天平宝字9年(765年)に正三位に叙位、天平勝宝2年(766年)に大納言に昇進し彼女自身にも10月に大宰綿一万屯の賜がありました。

この続日本紀の記述順を考えると井上、不破内親王は同母姉妹でありながら大変仲が悪かった。
しかも始めは不破内親王は父から優遇させていたものの、夫と共に冷遇されそれとは摩逆で井上内親王が孝謙天皇に厚遇されます。

これは孝謙天皇が個人的に不破内親王夫妻を毛嫌いした事に加え、不破内親王の不快を買う為にわざと井上内親王を厚遇し、井上内親王もこれを好意として受けた。という構図が見えますね。
姉妹は同母姉妹であったものの、聖武天皇の血を受け継いだがために政争におのずと巻き込まれ、姉妹の間にも溝が出来き、それを利用されたのではないしょうか?

白壁王は順当に大納言にまで出世していましたが、称徳天皇の寵臣道鏡の勢いと聖武天皇の皇族粛正(不破内親王の呪詛・和気王の謀反)により、自ら防衛の為に酒に溺れる日々を送る様になりました。

称徳天皇に対して警戒していたわけです。
この人かなりの世渡り上手~~~それは称徳天皇の即位後は有能で忠実な臣下の姿勢を取り続け、とはいうものの常に天皇に対しては警戒していました。
始めに能力を見せた後(これは皇位に挙がり誠実に公務を行えると言う朝廷運営能力)、身が危なくなり始めると(自分しかほぼ皇位の継承者が残っていたい現実を確信しながら)警戒して酒に溺れているという役を演じてみせる~~~~まだ怖いの続きますよん。


時に49歳、娘酒人女王は12歳、他戸王5歳でした。

夫の不甲斐なさに憤慨していたでしょうか?
続日本紀はなにも記述していませんが、内親王で幼い頃から神の巫女であった彼女は白壁王に対して強い不満と軽蔑と俗世の無関心があったのではないでしょうか?
でなければその後の悲劇は想像出来なかったとは考えられません。

その白壁王に絶好の機会が訪れます。
称徳天皇が皇位の指名を行わず崩御したのです。

白壁王が天皇になるべく称徳天皇の遺言として皇太子に指名されます。

左大臣従一位藤原朝臣永手。右大臣従二位吉備朝臣真備。参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂。参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂。参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣。近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等。定策禁中。立諱為皇太子。」左大臣従一位藤原朝臣永手受遺宣曰。今詔。事卒爾有依、諸臣等議。白壁王諸王中年歯長。又先帝功在故、太子定、奏奏定給勅宣。」遣使固守三関

これは嘘の遺言です。崩御後、太政官の会議で「白壁王」が天皇に選出されました。
しかしこの時点で即位可能な王族は白壁王のみだったように思われます。
存命中で称徳天皇の道祖王を廃太子したさいに大炊王へ選出されるまで他の王族はけなされているからです。
つまり。白で聖武天皇の内親王の夫という文句のつけようながい肩書き
彼しかいなかったんです。


天皇諱白壁王。近江大津宮御宇天命開別天皇之孫。田原天皇第六之皇子也。母曰紀朝臣橡姫。贈太政大臣正一位諸人之女也。宝亀二年十二月十五日。追尊曰皇太后。天皇寛仁敦厚。意豁然也。自勝宝以来。皇極無弐。人疑彼此。罪廃者多。天皇深顧横禍時。或縦酒晦迹。以故免害者数矣。又嘗竜潜之時。童謡曰。葛城寺。前在。豊浦寺西在。於志。刀志。桜井。白壁之豆久。好璧之豆久。於志。刀志。然為。国昌。吾家良昌。於志。刀志。葛城寺の前なるや。豊浦寺の西なるや。おしとど。としとど。桜井に白壁しづくや。好き璧しづくや。おしとど。としとど。然しては国ぞ昌ゆるや。吾家らぞ昌ゆるや。おしとど。としとど。于時井上内親王為妃。識者以為。井則内親王之名。白壁為天皇之諱。蓋天皇登極之徴也。宝亀元年八月四日癸巳。高野天皇崩。群臣受遺。即日立諱為皇太子。
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光仁天皇(平城京春の天平行列より)
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即位式が行われた大極殿(再現)

宝亀元年(770)己丑朔宝亀元年冬10月己丑朔。即天皇位於大極殿。改元宝亀。
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61歳で即位します。

まれに見る老天皇であったとおう事が井上内親王の悲劇が始まるのです。

即位は光仁天皇が皇族の中で年長で且つ井上内親王を正妻にしているという事実がある為です。

光仁天皇は藤原氏と他の旧豪族達とバランスのとれた堅実な政治を行います。
そうこの人かなりの腹黒なんです。
まず皇太子時代に称徳天皇と道鏡の治世の政策を元に戻し、道鏡を左遷(処刑しない所がうまい)し道鏡の不快を買い左遷されていた人物を帰京もしくは官任していきます。

そして新太政官人事
授従一位藤原朝臣永手正一位。
従三位大中臣朝臣清麻呂。文室真人大市。石川朝臣豊成。藤原朝臣魚名。藤原朝臣良継並正三位。
従五位上奈紀王正五位下。無位河内王。従五位下掃守王並従五位上。
従四位上藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣雄田麻呂並正四位下。
従四位下阿倍朝臣毛人。藤原朝臣継縄。藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依並従四位上


この人事の後吉備真備の辞任要請が出ますが、中納言辞任のみ認め右大臣職は留保させ出仕を求めます。
これは真備が白壁王即位に反対していたという意味では大変寛容な処置です。

御春日宮皇子、奉称天皇。又兄弟姉妹、諸王子等、悉作親王、冠位上給治給。
以井上内親王定皇后宣天皇御命、衆聞食宣(中略)授従四位下諱四品。従五位下桑原王。鴨王。神王並従四位下酒人内親王三品 従四位下衣縫女王。難波女王。坂合部女王。能登女王。弥努摩女王並四品。無位浄橋女王。飽波女王。尾張女王並従四位下
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井上内親王に皇后の宣下がくだります。
東院庭園で再現された「天平の宴」にて

酒人内親王は他の内親王とは破格の扱い三品に。
光仁天皇の同母姉難波内親王と溺愛した能登内親王が四品ですから・・皇后腹ですから当然といえば当然。

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饗宴(当時の食事風景)


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皇后、皇太子が決まりわきたつ井上内親王の宮廷女官
宝亀2年(771)正月
辛巳。立他戸親王為皇太子
随法皇后御子他戸親王立為皇太子。

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杯を受ける井上皇后
皇后井上内親王腹の10歳の他戸親王が皇太子にたてられます。
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東院庭園(再現・皇太子宮殿の東宮殿跡にある)

式部大輔従四位上藤原朝臣家依為兼皇后宮大夫
大納言正三位大中臣朝臣清麻呂為兼東宮傅。
兵部卿従三位藤原朝臣蔵下麻呂為兼春宮大夫

しかしその皇后と皇太子の各所の要職には主に藤原氏の若手が・・・これがのちのち禍に・・・。
井上が皇后になったのは光仁天皇が即位に際に理由となった井上内親王の夫であるのだから皇后になるのは当然、又皇后の生んだ王子が皇太子になるのは当然でした。

しかしこれを当然と思ったのは左大臣永手でした。良継、雄田麻呂(後の百川)は光仁天皇の即位は望んでも井上皇后は望んでいなかった。

何故なら、光仁天皇が即位し井上皇后となれば、それは井上皇后自身に即位に可能性が生まれるからです。
やや古い時代になりますが、例として推古、皇極斉明、持統天皇が挙げられます。
確かに井上皇后は庶子「皇后腹」ではありませんが、聖武天皇の娘であり、しかも伊勢神宮の元斎王と言う事は神と政治が混合した政治が出来る可能性があります。称徳天皇の仏教政治を目指した為に道鏡の様怪僧を生ん過去の警戒があるためです。
そして光仁天皇はすでに高齢であり、皇太子の他戸親王はまだ幼く仮に崩御した場合中継天皇としての井上即位は現実的です。
特に宇合の息子たちはそれを恐れていました。

そんな頃井上皇后は自身のおかれていた立場を理解していたのでしょうか?
普通ならここでまだ若いですが藤原氏の娘(良継の娘乙牟濡・帯子・旅子)を皇太子妃に請うべきでした。しかしそんな婚姻はまったくありません。彼らは次の天皇候補に娘と嫁がせる気でいましたし、適齢期の娘たちは藤原氏の血の結束を謀るかのように傍流同士で婚姻を結んでいました。
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内裏に入宮した産子と曹司

光仁天皇は入宮の時期は不明なものの式家の娘産子、北家永手の娘曹司を後宮に入れていました。
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後宮跡

平城京跡資料館にて
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井上内親王が住んだ後宮と暮らしぶりです。


しかしそんな栄耀栄華は突然破綻をきたしていきます。

宝亀2年(771)2月
癸卯。左大臣暴病。詔大納言正三位大中臣朝臣清麻呂、摂行大臣事

永手の病いの魔の手が!!!

(中略)節幡之竿、無故自折。時人皆謂、執政亡没之徴也

なかり重病のようです。

宝亀2年(771)2月
己酉。左大臣正一位藤原朝臣永手薨。時年五十八

「定策遂安社稷者。大臣之力居多焉。及薨。天皇甚痛惜之

当時の光仁天皇の信頼ぶりが伺えます。

きっかけはこの永手の死でした。永手は房前の息子です。これで藤原四兄弟の筆頭は宇合が租の式家へ移ります。
当時は家の相続は年長の兄弟間で行われます。藤原北家→藤原式家に宗家の地位が替わりました。

次の叙位でそれは現実になります。

宝亀2年(771)3月

庚午。詔以大納言正三位大中臣朝臣清麻呂為右大臣。
授従二位。正三位藤原朝臣良継為内臣。
正三位文室真人大市。
藤原朝臣魚名並為大納言。
正三位石川朝臣豊成。従三位藤原朝臣縄麻呂為中納言。
四品諱為中務卿。(山部親王34歳)
従三位石上朝臣宅嗣為式部卿。
正四位下藤原朝臣百川〈本名雄田麻呂〉為大宰帥。右大弁・内竪大輔・右兵衛督・越前守並如故。

左大臣に昇格せずに内臣にいくところがいやらしい。
内臣とは正式な役職ではなく、どちらかというと天皇の内内の臣下という地位で、房前が元正天皇に仕えています。天皇の政務を補佐する地位で主に太政官で挙げられてきた案件にアドバイスする立場に良継いたという事です。
光仁天皇は内臣良継に地位は大納言並みの、報酬はそれ以上を約束しました。
永手の後非常に重用します。

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天平行列の女官列
阿部古美奈
しかも良継の妻は阿部古美奈は光仁天皇の後宮で女官尚侍・尚蔵女官でした。
これで内外で助言出来る訳です。

宝亀2年(771)5月己亥
従三位藤原朝臣蔵下麻呂為大宰帥に任官されます。彼は式家宇合の息子です。

この後光仁天皇は和気王の謀反ではく奪された王族を帰属させます。

宝亀2年(771)11月

乙巳。正四位下藤原朝臣百川。従四位上阿倍朝臣毛人為参議に任じます。


         12月
丁卯。勅。先妣紀氏未追尊号。自今以後。宜奉称皇太后。御墓者称山陵。其忌日者亦入国忌例。設斎如式

光仁天皇の生母で志貴親王の室であった故紀氏の皇太后の宣下がくだります。
紀氏という氏は大変古い氏族ですが、高位の貴族というわけではなくその娘が贈皇太后という称号を得たという事は光仁天皇の皇位の正統性を安定させたとも言えます。

宝亀3年(772)正月
庚寅。授無位藤原朝臣巨産子正四位上 従五位上久米連若女正五位上
この娘は藤原氏の娘ですどうやらここで光仁天皇の後宮に入宮したようです。他入宮時期は不明ですが曹司という藤原氏の娘も入宮します。
久米連若女は百川の妻です。
この女叙位の3か月後に突如

         2月
戊辰。幸右大臣第。授正二位

右大臣大中臣朝臣清麻呂の邸宅を訪問します。これどういう行幸だったのでしょうか?
この大中臣という姓の通り、中臣氏重鎮本来は神祇職に限られるんですが、称徳天皇以来朝廷の重鎮として以降重用されていました。
ん~~~「天皇の無言の意思」かな?これから起こる事に見て見ぬふりとという無言の圧力???

宝亀3年(772)3月

三月癸未。皇后井上内親王坐巫蠱廃

詔曰。天皇御命宣御命百官人等天下百姓衆聞食宣。今裳咋足嶋謀反事自首申。勘問申事度年経月。法勘足嶋罪在。然度年経月臣自首申勧賜冠位上賜治賜宣天皇御命衆聞食宣。辞別宣謀反事預隠而申奴等粟田広上安都堅石女随法斬罪行賜。然思大御心坐依而免賜奈太毎賜遠流罪治賜宣天皇御命衆聞食宣。」授従七位上裳咋臣足嶋外従五位下。

なんと井上皇后が光仁天皇が早く崩御するように呪姐を巫女に依頼したという容疑が密告されてしまいました。
何故???天皇に早く死なれても困るのは藤原式家です。
そうこれは明らかにでっちあげ!
何故なら、天皇呪姐しながら誰も死刑になっていない。&密告者が叙位され報酬を貰っている。&証拠がない。
つまり光仁天皇が井上皇后を庇えばなかった事件でした。
しかし光仁天皇は黙認しこれを信じ廃后する決定を下しました。
光仁天皇はこの密告を信じたのでしょうか?嘘と知りながら廃后にしたのでしょうか?
一つ言えるのはもしも光仁天皇は井上皇后を信頼していれば、政治的に朝廷運営に藤原氏がかかせないという事実は考慮しても再調査なり、井上皇后を守ったはずです。でも密告を信じた。

この時期を狙ったのは産子の入宮が夫妻の間に波紋を広げたのでしょうか?
藤原氏のどの娘かは不明ですが、やはり送りこまれた刺客その可能性は十分にあります。

光仁天皇63歳  井上皇后55歳  酒人内親王18歳 他戸皇太子11歳

子供達はどう感じていたでしょうか?もうわかる年齢です。
陰謀だとはいえ母が父を亡きものにしようと呪詛したというかなりの衝撃です。


宝亀3年(772)4月
庚午。以正四位下藤原朝臣楓麻呂。従四位上藤原朝臣浜足。並為参議

北家房前の息子楓麻呂と京家麻呂の息子浜足が昇進します。

宝亀3年(772)5月
乙巳。授四品難波内親王三品

この難波内親王は光仁天皇の同母姉です。この人キーパーソンです。
ここでこの時期に叙位?
難波内親王はどうやら藤原氏に加担していた。そして積極的に光仁天皇へ働きかけをしていた。
何故なら彼女の記述の前後に井上と他戸の運命が大きく変わるかわるからです。


丁未。廃皇太子他戸王為庶人

詔曰。天皇御命宣御命百官人等天下百姓衆聞食宣。今皇太子定賜他戸王其母井上内親王魘魅大逆之事一二遍不在遍麻年発覚。其高御座天之日嗣座非吾一人之私座所思行。故是以天之日嗣定賜儲賜皇太子位謀反大逆人之子治賜卿等百官人等天下百姓念恥賀多自気奈加以後世平安長全可在政不在神所念行依而他戸王皇太子之位停賜却賜宣天皇御命衆聞食宣

井上内親王の皇后の地位をはく奪してからの他戸皇太子の地位はく奪理由は「母が廃妃となったのだからいつまでも皇太子にするわけにはいかないので廃太子する。」

まず皇后の地位を先に降ろして、天皇の反応を見る。そして姉難波を使いさらに皇太子の処遇を決定させます。
藤原家伝百川伝では光仁天皇は他戸を嫌っていた、他戸皇太子は性格が悪いという書かれ方をしていますが、実はそうではなく藤原氏腹ではないというだけの理由です。
廃太子にする事で藤原氏の外戚として朝廷に君臨するというのが目的です。
井上、他戸ともに不必要どころかじゃまでした。

そして光仁天皇もそれに同意します。やはり我が子と言えどここはきっぱりと判断します。
繰り返しますが、現在よりも奈良時代の結婚、親子間特に夫婦、父と子女の関係は希薄でした。
同じ邸に住んでいる場合もあったでしょうが。たいていは通い婚です。
我子の優先順位をすでに成人し才能ある山部親王へ皇位をという案もあったのかもしれません。又廃后の息子を皇位に就けるのは以降の皇位の不安定も原因があったでしょう。 

元皇后と皇太子は同じ場所で隔離されていたと考えられますが、どこにいたのでしょうか?
平城京?もしくは?
後年桓武天皇治世に早良皇太子を謀反の疑いをかけ乙訓寺へ幽閉、桓武天皇の夫人藤原吉子と伊予親王が平城天皇治世で謀反の疑いで川原寺(飛鳥)に幽閉された事実を検証すると寺に幽閉させていた可能性は高いです。
ではどこ?
両者とも近からず遠いからずを考えると大和国内、官寺ではあるが人の出入りが少ない警備がしやすい場所。

同じ川原寺かもしくは元興寺(実はこの近くに桓武天皇の勅願寺井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社があり、またこの辺りに井上町という町名があります。)

後宮から追われる母と弟を酒人内親王は心細い日々を過ごしたでしょう。
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宝亀3(772)8月
甲寅。幸難波内親王第年

光仁天皇はまたも難波内親王の邸宅へわざわざ行幸します。
ここでなにが話されたのは不明ですが、廃妃廃太子した後の天皇の精神的な状態の確認と動揺を鎮め、酒人内親王の処遇そして井上内親王と他戸親王の今後か?といった事が話し合いされた?
どうもこの難波内親王という人物は井上皇后を心良く思っていなかったようです。何故なら彼女の名が続日本紀にでる度に井上皇后と他戸親王の身に害が及ぶのです藤原氏側と共に光仁天皇に働きかけた可能性が高いです。

同じ時期 是日異常風雨。抜樹発屋。卜之。伊勢月読神為祟

伊勢神宮の天照大神の弟神「月読神」が祟ったというのです。
伊勢神宮=斎王祟ったならこれを鎮めないといけません。

宝亀3年(772)11月
己丑。以酒人内親王為伊勢斎。権居春日斎宮

すでに18歳になっていた酒人内親王がこの時期斎王にト占され、すぐに春日斎宮に移され伊勢国へ向かう準備に入ります。
すでに成人していた内親王の斎王を決定してします。ト部といいながら作為を感じます。
しかしこれはこれから起こる悲劇が酒人内親王に影響されない防御とも取れます。


宝亀3年(772)12月
戊午。復厨真人厨女属籍
宝亀4年(773)正月
授無位不破内親王本位四品

ここで何故か妹不破内親王の身分が戻さ更に叙位がおこなわれます。なんか作為を感じます。
不破内親王も一枚かんでいたのでしょうか?姉のしうちに仕返しか?
でもこの人都合良いように使われているだけかも

光仁天皇が恩赦が出します。

宝亀4年(773)正月
癸未。勅曰。朕以寡薄忝承洪基。風化未洽。恒深納隍之懐。災祥屡臻。弥軫臨淵之念。今者初陽啓暦。和風扇物。天地施仁。動植仰沢。思順時令。式覃寛宥。宜可大赦天下。自宝亀四年正月七日昧爽已前大辟已下。罪無軽重。已発覚。未発覚。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但八虐。強窃二盗。私鋳銭。常赦所不免者。不在赦限
この大赦たびたび出てくるのでこれからの記述はしません。

ここで罪を許すといっているのに廃皇后と廃太子はそのままです。まあ後者の除外に当たるんでしょうね。
この時期二人はどこに住んでいたのでしょうか?
平城京の井上内親王の元の邸でしょうか?おそらく護衛と称して衛兵が常勤していたでしょう。


宝亀4年(773)正月
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戊寅。立中務卿四品諱為皇太子

これが山部親王(後の桓武天皇・この時36歳)です。
母は身分の低い元異国人百済の血を引く帰化人の父(百済王の子孫とされていますが詳細は不明)生母は土師氏(元墳墓の葬祭を取り仕切った氏族)ではあるものの貴族の中では下級クラスです。
その彼が光仁天皇の第一親王である為皇太子に就いた事で藤原氏はその東宮殿に娘たちを東宮妃として入宮させます。
この生まれの低さがおいおい井上腹の子供達への厚遇につながります。
これで藤原式家の思い通りになりました。何故藤原式家がそんなに井上内親王腹の天皇を排除しようとしたのか?
他戸親王に嫁する年頃の女子がいなかった為に外戚政治が出来ない為か?
それとも若い天皇の統治下で藤原氏のさらなる安定政治が出来ないと解釈した為か?
井上内親王自身への警戒か?

全ての様な気がします。

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天平行列(後宮の女性達)
良継は阿部古美奈(尚侍・尚蔵女官)腹の娘乙牟濡、百川は藤原諸姉腹の娘旅子、帯子を東宮妃として入宮させました。
山部親王はすでに30代半ば、すでに妻子は存在していたでしょう。
父と同じで皇族の男子の中で皇位に遠い人物には良い婚姻は難しいという事でしょう。
まさに「棚ぼた」

宝亀4年(773)5月
丙戌。授四品不破内親王三品

さらに井上内親王の妹の叙位

宝亀4年(773)10月
丙辰。二品難波内親王薨。天皇同母姉也。

宝亀4年(773)10月
辛酉。初井上内親王坐巫蠱廃。後復厭魅難波内親王。是日。詔幽内親王及他戸王于大和国宇智郡没官之宅

つまり井上内親王が難波内親王を呪姐した為に死去したというのです。
しかし天皇の姉と言う事はこの死去の時点で70歳以上です。
どうもても老衰です。この年まで生きただけでも当時では快挙です。何故に呪詛???でっちあげ押印


しかしそんな事はおかまいなし井上内親王と他戸親王が宇智郡の没官の邸に幽閉させます。

このあたりは武智麻呂の墓もあり、彼の領地だった。南家といえば仲麻呂(武智麻呂の二男)の地でもあります。この邸は仲麻呂の持ち物であった可能性があります。しかし南家にとは明暗です。ここで式家の領地に幽閉なら当時でも???とされるでしょう。
南家なら藤原家で管理出来ながら後ろめたさも薄らぎます。


一人残される酒人内親王、初斎院に住んでいたと思われますが、母や弟を思い嘆き悲しみながら神に奉仕していあました。

井上内親王と他戸親王の排除をなしとげた藤原氏の叙位で守備固めされていきます。

宝亀5年(774)正月
丁未。天皇臨軒。授正三位藤原朝臣良継従二位。並従五位上。
正四位下藤原朝臣百川正四位上

戊申。授正四位下藤原朝臣楓麻呂正四位上。

己酉。授従四位上藤原朝臣浜成正四位下。

宝亀5年(774)五月
癸卯。正四位上藤原朝臣百川。藤原朝臣楓麻呂並授従三位」。以従三位藤原朝臣蔵下麻呂。正四位下藤原朝臣是公並為参議
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宝亀5年(774)8月
庚午。以斎内親王将向伊勢也(酒人内親王)


大嘗祭の神事の為に酒人内親王は伊勢国へ赴きます。

同時期に山部皇太子の元に入宮した藤原良継娘乙牟漏 第一王子安殿王を生みます。


宝亀5年(774)9月
庚子。大納言正三位藤原朝臣魚名為兼中務卿。従三位藤原朝臣継縄為兵部卿

宝亀6年(775)3月
辛亥。授正四位下藤原朝臣浜成正四位上

どんどん次世代の藤原氏族が昇進していく中

宝亀6年(775)4月
己丑。井上内親王。他戸王並卒

卒とは死去を意味します。同日に親子二人同時に死去は事故以外はありえません。
彼らは幽閉されていたのです。火災や天災でないのでこれは暗殺かもしくは自殺のいずれかです。
ではどちら?
もし藤原式家の暗殺なら廃后廃太子後にすぐ行ったはずです。
しかしこの井上内親王と他戸親王への陰謀の手口はじつに慎重です。
まず呪詛→廃后→廃太子→呪詛→幽閉です。藤原一族が関与したと言われている後の早良親王や吉子伊予親王の謀反の陰謀がが即幽閉した後に彼らは自殺という道を選んだ事も考慮するとここは自殺では?
但しその様な環境に持っていった可能性は十分あります。

井上内親王は自身の人生をどう振りかえったでしょうか?この人物の人となりを知る正確な書物はありません。
ただ意外と政治や自身のおかれていた立場や危険性をまったく感じない俗世とは隔離された究極のお嬢様ではあったでしょう。何故なら普通なら自身と息子の置かれたあの政争激しい奈良時代を生きていくという行動がありません。斎内親王のまさに神の巫女。井上内親王の人生は内親王でありながら家族の愛を知らずに育ち、それゆえに愛を与える事を知らず不幸な死を向かたそんな印象があります。


二人の死で斎王であった酒人内親王がその任をとかれ伊勢から帰京しますが、その時期はあきらかにされていません。
この年は都が騒然としていましたから、途中に建てられた頓宮でしばらく過ごしたかもしれません。



小難しいので、土サスペンス風に

「日本一古い名家の妾の子に生まれた次女が宗家の当主(前当主は長女の女性独身でなくなる)がなくなってしまい。番頭達は紆余曲折を経て後継ぎに傍流の養子を迎え、その妾の次女の夫にし、夫に家業を継がせる。二人の間に1男1女をもうけるも、夫は妾を次々に迎え、新しい大番頭はこの次女を疎ましく思い出す。しかも番頭たちは当主の連れ子に自分達の娘を妾にし次女を追いこんでいく。そんな中次女は番頭達と夫の姉の策略で夫婦なかもぎくしゃくされ、遂に次女は夫を殺害しようとしていると警察に告訴され、あらぬ証拠で逮捕。息子と共に獄中で死亡する。」

するとみじか???




さて話し戻し、ここから藤原氏と天皇家の罪悪感が思わぬ展開になってゆきます。
 
宝亀6年(775)5月
丙申。地震 癸卯。備前国飢。賑給之

乙巳。有野狐。居于大納言藤原朝臣魚名朝座←この狐は井上内親王と考えられてたようです。
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平城京はだだっ広い都です。でも少し外れると野です。そりゃ内裏に狐がいてもおかしくありません。
が、時が時です。太政官の魚名の席に狐が座っていたら藤原一族はビビるでしょうね。
彼らにはこの狐が井上内親王にみえたんでしょうね。

丙午。白虹竟天
これは国が乱れる予兆といわれていました。

         6月
甲申。遣使祭疫神於畿内諸国
         7月
丙申。参河。信濃。丹後三国飢。並賑給之
丁未。下野国言。都賀郡有黒鼠数百許。食草木之根数十里所
庚戌。雨雹。大者如碁子
         8月
八月丙寅。和泉国飢。賑給之
戊辰。有野狐。踞于閤門←この狐はどうやら井上内親王と考えられたようです。
         8月
癸未。伊勢。尾張。美濃三国言。九月日異常風雨。漂没百姓三百余人。馬牛千余。及壊国分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝数。遣使修理伊勢斎宮。又分頭案検諸国被害百姓。是日。祭疫神於五畿内
辛卯。大祓。以伊勢美濃等国風雨之災也
         9月
壬寅。勅。十月十三日。是朕生日。毎至此辰。感慶兼集。宜令諸寺僧尼。毎年是日転経行道
        10月
丙寅。地震
辛未。以従五位下笠朝臣名麻呂為斎宮頭(新斎宮決定か?)
己卯。屈僧二百口。読大般若経於内裏及朝堂。
甲申。大祓。以風雨及地震也。乙酉。奉幣帛於伊勢太神宮
        11月
丁酉。大宰府言。日向薩摩両国風雨。桑麻損尽。詔不問寺神之戸。並免今年調庸
宝亀7年(776)2月
二月甲子。陸奥国言。取来四月上旬。発軍士二万人。当伐山海二道賊。於是。勅出羽国。発軍士四千人。道自雄勝而伐其西辺。是夜。有流星。其大如盆
         4月
己巳。勅。祭祀神祇。国之大典。若不誠敬。何以致福。如聞。諸社不修。人畜損穢。春秋之祀。亦多怠慢。因茲嘉祥弗降。災異荐臻。言念於斯。情深慙〓。宜仰諸国。莫令更然
         5月
戊子。出羽国志波村賊叛逆。与国相戦。官軍不利。発下総下野常陸等国騎兵伐之。
乙卯。大祓。以災変屡見也
丙辰。屈僧六百。読大般若経於宮中及朝堂
         6月
六月庚申。太白昼見
己巳。参議従三位大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨
亥。播磨国戸五十煙捨招提寺
甲戌。大祓京師及畿内諸国。奉黒毛馬丹生川上神。旱也
         7月
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甲辰。震西大寺西塔
        10月
乙未。陸奥国頻経征戦。百姓彫弊。免当年田租
        11月
十一月丙辰。地震
庚辰。発陸奥軍三千人伐胆沢賊

宝亀8年(777)正月
丙辰。以内臣従二位藤原朝臣良継為内大臣
         2月
癸卯。讃岐国飢。賑給之
庚戌。遣使祭疫神於五畿内
         3月
辛未。大祓。為宮中頻有妖怪也 癸酉。屈僧六百口。沙弥一百口。転読大般若経於宮中
↑の妖怪は度々内裏で目撃され、「井上内親王」と考えられていたようです。
         4月
丙戌。雨雹
         6月
癸卯。隠伎国飢。賑給之
         7月
甲寅。伯耆国飢。賑給之 癸亥。震但馬国国分寺塔
乙丑。内大臣従二位藤原朝臣良継病 叙其氏神鹿嶋社正三位。香取神正四位上

丙寅。内大臣従二位勲四等藤原朝臣良継薨
専政得志。升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈従一位。

        10月
辛卯。正四位上藤原朝臣家依為参議 参議正四位上藤原朝臣是公為兼左大弁
 参議従三位藤原朝臣百川為兼式部卿
戊申。大赦天下。但八虐。故殺人。私鋳銭。強窃二盗。常赦所不免者。不在赦限。其入死者皆減一等

天災は祟りというのは???ですが、この天変地異と藤原氏主要メンバーの死亡に朝廷は騒然とし大赦や御祓い、奉納、読経ありとあらゆる手を使い井上内親王の怨霊を鎮めようとします。
しかし効き目なしどこか祟りはさらに広がりとうとう・・・・二人を死に追いやった人間にとって非常に恐怖、その恐怖が人の病気や死を呼びこんだとも考えられます。病は気からといいますね。
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        11月
十一月己酉朔。天皇不予(光仁天皇)

        12月
壬寅。皇太子不〓。(山部親王後の桓武天皇)遣使奉幣

ついに光仁天皇、山部皇太子にまで及ぶとさすがの朝廷もほっとくわけにはいきません。
        12月
乙巳。改葬井上内親王。其墳称御墓。置守冢一煙

もうこうなるとお手上げついに天皇は井上内親王の墳を御墓とし墓守がおかれます。

これかなりの譲歩ですよ。天皇を呪った人間を祀るんですから。もうでっちあげを世間に公表したも同然ですが、そうしてまでもこの時光仁天皇一家は危機的状態だったんですね

     
是冬。不雨。井水皆涸。出水宇治等川並可掲〓
でも日照りやっぱり祟るですね。

宝亀9年(778)正月
以皇太子枕席不安也

天皇は持ち直したようですがまだ皇太子はまだ予断出来ない状態だったようです。

丁卯。改葬故二品井上内親王

やはり皇太子の病状は良くならず、叙位を二品に戻し再び墓を改葬します。
これは免罪といえます。

宝亀9年(778)3月
丙寅。誦経於東大西大西隆三寺。以皇太子寝膳乖和也

山部皇太子の病気は持ち直したようです。改葬の結果でしょうか?

宝亀9年(778)3月
己酉是日。以大納言従二位藤原朝臣魚名為内臣

良継の後任に内臣魚名が就任します。

宝亀9年(778)3月
庚午。勅曰。頃者。皇太子沈病不安。稍経数月。雖加医療。猶未平復。如聞。救病之方。実由徳政。延命之術。莫如慈令。宜可大赦天下。自宝亀九年三月廿四日昧爽以前大辟已下。罪無軽重。未発覚。已発覚。未結正。已結正。繋囚見徒。咸赦除之。但八虐。故殺人。私鋳銭。強窃二盗。常赦所不免者。不在赦限。若入死者降一等。敢以赦前事告言者。以其罪罪之。」又為皇太子。令度卅人出家

宝亀9年(778)3月
癸酉。大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。」又於畿内諸界祭疫神

丙子。内臣従二位藤原朝臣魚名改為忠臣
 
         5月
癸酉。三品坂合部内親王薨。天皇為之廃朝三日。内親王天宗高紹天皇異母姉也

老衰でしょうが。これも祟りにせい???

丁卯。寅時地震  辛未。又震

         10月
丁酉。皇太子向伊勢。先是。皇太子寝疾久不平復。至是親拝神宮。所以賽宿祷也

皇太子の病気が少し持ち直し(この病気は精神的症状とされ井上内親王による罪悪感からくる鬱病的な傷病の可能性あり)、病気祈願をする為に伊勢神宮を訪れたといいます。
外出出来るくらいなのでおそらくは肉体的病気ではないと思われます。
そりゃその座に就いたら罪悪感でさいなまれるでしょうね。

さて光仁天皇治世から桓武天皇辺りで伊勢神宮を非常に重要視しだします。傍流家の負い目でしょうか?

皇太子の病気回復に酒人内親王がこの皇太子の病気本復に一役かったととは考えられないでしょうか?
酒人内親王が帰京した頃は天変地異や朝廷の重臣の死などあり、その最中に皇太子の元に入宮するとは考えにくい。
山部皇太子が病気になり、やや持ち直した頃、伊勢神宮の力斎宮としてそして母井上内親王への鎮魂を込めた婚姻ではなかったでしょうか?

酒人内親王が皇太子の妃になる事で伊勢神宮の加護と怨霊となった母を鎮める事が出来るのは残された彼女にしか出来ない。

山部皇太子の王子はすでに誕生しているので罪人の母を持つ酒人内親王は仮に親王を産んだとしても皇位を争う事はない。支障はないと考えたのです。
そう光仁天皇は理解した。
しかし母と弟を死に追いやった多くの妃を持つ33歳の男に嫁ぐ26歳の内親王はどういう気持だったでしょう。
彼女は斎王になるまで内親王として暮らしていました。幼い日から斎王として成長した母とは違います。ある意味で俗世なれしていたでしょう。しかも多くの悲劇を体験してきました。
確かに心中は複雑でしょう。しかしそれも受け入れ生きてゆく強さを感じます。
数年後誕生する娘はそれを十分に証明しています。

この結婚は意外と両者に良い印象を与えたようです。

続日本紀には酒人内親王と山部皇太子の関係をこう記述しています。
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酒人内親王

「廣仁天皇{光仁天皇}之皇女也。母贈吉野皇后也。容貌〓麗、柔質窈窕。幼配斎宮、年長而還。俄叙三品、桓武納之掖庭、寵幸方盛、生皇子朝原内親王。爲性〓傲、情操不修、天皇不禁、任其所欲。婬行彌増、不能自制。」

大変な美人で山部皇太子(後の桓武天皇)の寵愛を一番受け、その我ままと奔放ぶりも天皇は禁じることなく自由に振舞わせ、その立ち居振る舞いの優雅さや妖艶さを自ら自制する事はなかった。と記述されています。
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山部皇太子の酒人内親王への気つかいぶりがわかります。
山部自身彼女への罪悪感と自身がその怨霊に祟られたいう恐怖の思いと、魅力的な血筋の良い年頃の女性への興味その二つが酒人内親王へ愛情と敬愛をもって接したと思われます。
とうの彼女は山部皇太子に対して年長者への敬愛はあったでしょうが、母や弟の無念を考えた時彼女なりの抵抗がこの我儘と奔放という行動だったのでしょう。酒人内親王は自分の状況と立場を理解し柔軟な姿勢を示していたんでしょう。
常於東大寺、行萬燈之會、以爲身後之資、緇徒普之

東大寺で行う万燈会での浪費はせめてもの仕返しだったのでは?
万燈会とは先祖の供養に行われる寺の行事で、酒人内親王が行うといえば母井上内親王と他戸親王の供養です。


宝亀10年(779年月不明) 酒人内親王腹 第一皇女朝原内親王後の平城天皇妃生
三代斎王娘 朝原内親王の誕生です。

酒人内親王にようやく血のつながりの強い皇女の誕生、長い間一人であった彼女の存在は大きかったと考えられます。
この親子は非常に仲が良かったようです。それは後ほど。

            正月
以忠臣従二位藤原朝臣魚名為内大臣
光仁天皇の魚名の重用ぶりがわかります。

            7月
丙子。参議中衛大将兼式部卿従三位藤原朝臣百川薨。詔(中略)幼有器度。歴位顕要。所歴之職各為勤恪。天皇甚信任之。委以腹心。内外機務莫不関知。今上之居東宮也。特属心焉。于時上不予。已経累月。百川憂形於色。医薬祈祷。備尽心力。上由是重之。及薨甚悼惜焉。時年四十八。延暦二年追思前労。詔贈右大臣。

この百川は天皇や皇太子の信頼高く、特に山部が病床に合った際に力ずけた人物でもありました。

            12月
己酉。中納言従三位兼勅旨卿侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂薨
以累世家門頻歴清顕。景雲二年至従三位。宝亀初拝中納言。尋兼皇太子傅勅旨卿。式部卿百川薨後。相継用事。未幾而薨。時年五十一

宝亀11年(780)正月
庚辰。大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉

神祇官言。伊勢大神宮寺。先為有祟遷建他処。而今近神郡。其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之
今度は伊勢神宮寺が祟っているので社を移したいと神祇官がいいます。もち即OK
          5月
壬辰。伊勢太神宮封一千廿三戸。随旧復之


天応元年春(781年)正月

伊勢斎宮所見美雲
伊勢斎宮に美しい雲が出たので改元します。

しかし光仁天皇、桓武天皇治世「伊勢神宮」の存在は重要でした。
天智天皇系とはいえ天武天皇の血は受けついでいない。しかも唯一の天武天皇系の井上内親王を排除してしまった。そのかわり天武天皇が重要した伊勢神宮の神祇をかいしての相続なのです。
皇統に遠い為、その聖地伊勢を深く祀り重視する事で皇統の忠臣が天智天皇・志貴親王系光仁天皇本流としての自負を作ろうとしていたのでしょう。


           2月
丙午。三品能登内親王薨

就第宣詔曰。天皇大命能登内親王告詔大命宣。此月頃間身労聞食伊都病止参入。朕心慰今日有明日有所念食待賜間安加良米佐如事於与豆礼年高成朕置罷聞食驚賜悔賜大坐如此在知心置談賜相見物悔哀云不知恋在。朕汝志暫間忘得悲賜之乃賜大御泣哭大坐。然治賜所念位一品贈賜。子等二世王上賜治賜労思。罷。道平幸都都事無宇志呂軽安通告召天皇大命宣

愛娘の死は高齢の光仁天皇に打撃を与えたようです。この愛娘の死が譲位への動きます。
光仁天皇が溺愛した高野新笠腹の第一内親王です。やはり高野新笠が一番信頼されていた後宮という事でしょう。

天応元年(781)7月
癸亥。駿河国言。富士山下雨灰。灰之所及。木葉彫萎

遂に富士山まで噴火

         4月
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遂に桓武天皇即位
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大極殿跡

辛卯。詔云(中略)宣。是日。皇太子受禅即位(山部親王即位桓武天皇)

遣使於伊勢大神宮告皇太子即位也

あまり良い環境でない頃の即位

          12月
丁未。太上天皇崩(光仁上皇)

桓武天皇の父であり、酒人内親王の父でもある光仁天皇が崩御します。
この人井上内親王の事どう思っていたんでしょうか?
自分より血筋と育ちが良い女とのほぼ強制といった結婚、気位の高い妻・・・しかも天皇の即位も可能性もあるいわば妻でありながらライバル。
井上内親王の謀略にどこまで藤原式家と関与していたのでしょうか?
ただ式家があれほど慎重に事を運んだ背景には井上皇后がいれこそ光仁天皇の即位が実現出来たという彼の妻へ負い目があったのは事実でしょうね。
ん~~~やはり疎ましい???かったんでしょうね。でも息子まで犠牲にしなくても・・・・。
この時代は今よりも親子関係は薄いのですし(基本同居しないので)政治的に藤原氏と組まないと朝廷の運営も難しいという事でしょう。
 

さて山部皇太子改め桓武天皇を待ち構えていたのは親族の反乱でした。

延暦元年(782)閏正月
丁酉。獲氷上川継於大和国葛上郡。詔曰。氷上川継潜謀逆乱。事既発覚。拠法処断。罪合極刑。其母不破内親王反逆近親。亦合重罪。但以諒闇之始山陵未乾。哀〓之情未忍論刑。其川継者。宜免其死処之遠流。不破内親王并川継姉妹者。移配淡路国。川継塩焼王之子也。初川継資人大和乙人私帯兵仗闌入宮中。所司獲而推問。乙人款云。川継陰謀。今月十日夜。聚衆入自北門。将傾朝廷。仍遣乙人召将其党宇治王以赴期日。於是。勅遣使追召川継。川継聞勅使到。潜出後門而逃走。至是捉獲。詔減死一等。配伊豆国三嶋。其妻藤原法壱亦相随焉。

辛丑。勅大宰府。氷上川継謀反入罪。員外帥藤原朝臣浜成之女為川継妻。思為与党。因茲解却浜成所帯参議并侍従。但員外帥如故。左降正五位上山上朝臣船主為隠伎介。従四位下三方王為日向介。以並党川継也

壬寅。左大弁従三位大伴宿禰家持。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。散位正四位下伊勢朝臣老人。従五位下大原真人美気。従五位下藤原朝臣継彦等五人。職事者解其見任。散位者移京外。並坐川継事也。自外党与合卅五人。或川継姻戚。或平生知友。並亦出京外。 
        6月
乙丑。左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名。坐事免大臣。其男正四位下鷹取左遷石見介。従五位下末茂土左介。従五位下真鷲従父並促之任。」宍人建麻呂之男女。神野真人浄主。真依女等十四人。弟宇智真人豊公。改偽真人従本姓。初建麻呂冒称仲江王。事発露而自経。其男女亦偽為真人。至是改正之。

不破内親王と塩焼王の息子で臣籍降下していた氷上川継が反逆を試みたと密告があり処分されます。
不破内親王とその娘と一緒に連坐又も流刑の身に・・・・・。不破内親王の口封じ???
この方その後淡路から和泉国に身柄を移されて消息不明になります。悲しい運命ですね~~~天皇の娘なのに~
聖武天皇すごく印象悪くなりました。

それにしてもここまで相対する姉妹は他には類がありません。どちらかが不幸になるとどちらかが幸せになる。
光と影の姉妹


さてそんな混乱する中で桓武天皇の斎王がト部されます。
なんと

延暦元年(782年)8月
朝原内親王斎王ト斎

祖母・母・娘三代に渡り斎王
これは極めて作為的、占いで三代続くなんて嘘まるだし。桓武天皇の盤石な治世への意欲が感じられます。
伊勢神宮の神の力を借りたいんだ!
怨霊や魑魅魍魎が疫病や飢饉、死をもたらすと信じていた時代の精神的な依存が見えます。

3歳の娘可愛いさかりです。
母酒人内親王の悲しみを見せたり御小言を言ったりしたでしょうが、さすがの桓武天皇も甘い顔しませんでしたが、一つの約束をしたようです。

朝原内親王は3歳で初斎院に入り、平城京で祈りの日々を過ごします。

延暦2年(783)4月
甲子。詔。立正三位藤原夫人為皇后

安殿親王の生母を皇后にします。
酒人内親王を立后しなかったのは、すでに光仁天皇の即位で桓武天皇の皇位は正統化している。且つ酒人内親王に親王がいないからでしょう。
安殿親王の立太子を確実にする為です。これで史上2番目の民間の出身の皇后立后します。


桓武天皇はここで遷都を行います。まずは長岡に
延暦3年(784)5月
勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。従三位藤原朝臣種継。左大弁従三位佐伯宿禰今毛人。参議近衛中将正四位上紀朝臣船守。参議神祗伯従四位上大中臣朝臣子老。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督従四位上佐伯宿禰久良麻呂。陰陽助外従五位下船連田口等於山背国。相乙訓郡長岡村之地。為遷都也。

桓武天皇にとって平城京は悪夢の都だったでしょうね。
井上内親王と他戸親王の怨霊、又称徳天皇時代から拡大続く奈良の寺院勢力から遷都の原因だったと言われています。

        11月
戊申。天皇移幸長岡宮

遷都は概ね建物を平城京から移築する事で工期と人件費を抑える事が出来ます。

延暦四年(785)4月
丁亥。従五位上紀朝臣作良為造斎宮長官
         8月
丙戌。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王斎居平城。至是斎期既竟。将向伊勢神宮。故車駕親臨発入。

この時朝原内親王は6歳です。なんと未だかつてない桓武天皇の朝原内親王の伊勢国への見送りのためだけに訪れた行幸です。
これは酒人内親王も同行していたでしょう。
これは異例の事です。天皇が斎王の伊勢国入りの郡行を見送るなんてなかったです。
酒人内親王と娘朝原内親王への愛情と敬意、厚遇ぶりがが伝わります。
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天平行列の女官列
         9月
己亥。斎内親王向伊勢太神宮。百官陪従。至大和国堺而還

遂に朝原斎内親王伊勢国に向かいます。が、天皇と100名ほどの官人が斎宮郡行を大和国の境まで見送ります。

この桓武天皇の平城京行幸の最中にあの藤原種継暗殺事件が起こります。

乙卯。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継被賊射薨。

この暗殺には桓武天皇の弟早良皇太子が関わったとして廃太子、弟を乙訓寺に幽閉した後、淡路に流刑にする途中早良親王は断食の影響で餓死してしまいます。

延暦4年(785)11月
丁巳。詔立安殿親王為皇太子

延暦13年(794)10月
廿三日。天皇自南京、遷北京。平安京遷都

桓武天皇は不吉な長岡京を捨て新宮へ遷都します。
というのも早良親王死去後、安殿新皇太子の病気、妃旅子、皇后の死、疫病や天変地異が起こった事でそれは早良親王の怨霊のしわざとされた為でした。
桓武天皇は都を更に怨霊から逃れ又怨霊に強い都「平安京」へ遷都します。

          12月
辛丑。斎宮寮獻物。曲宴。助正六位上三嶋眞人年繼、斎内親王乳母无位朝原忌寸大刀自授從五位下

斎宮の役所に賜物が下賜され朝原斎内親王の乳母が叙位させます。
離れていても厚遇、酒人内親王への配慮でしょうか?

延暦14年(795)12月
乙酉。配淡路國不破内親王、移和泉國。

不破内親王は淡路から本州の和泉国に移送されます。
これからの処遇への配慮でしょう。

延暦15年(796)2月
乙亥。斎内親王欲歸京。造頓宮於大和國

朝原内親王、異例のなにもないのに京へ大和国に滞在する為の頓宮を造営させます。

この時朝原内親王18歳
娘盛りです。今で言う御年頃「欲帰京」とあるので、当然桓武天皇の要請があったと見ていいでしょう。
では何故???
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延暦15年(796)2月
遣使奉幣於伊勢大神宮。以斎内親王退也
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任期を終えて伊勢国を後に退出、大和国で過ごさせた後、平安京入りさせます。
酒人内親王は大変よろこんだでしょう。 

          7月 
戊戌。幸南院。賜五位已上物有差。無品朝原内親王授三品
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喜ぶ朝原内親王邸
すると無位だった内親王に三品を叙位
桓武天皇の内親王の中で初めての叙位でした。やはり厚遇されています。

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         12月
辛未。巡幸京中。便御三品朝原内親王第。賜五位以上物。
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朝原内親王邸で饗宴する桓武天皇と朝原内親王
冬には桓武天皇は京内の娘朝原内親王の邸に行幸し五位以上の臣下に賜物をします。
後にも先にも娘の邸宅に行幸したのは続日本紀の記述では一度だけこの朝原邸のみです。


延暦16年(797)2月
甲戌。朝原内親王獻物。賜五位已上綿
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贈り物に喜ぶ女官
さらに朝原内親王が贈り物をすると臣下に賜物をします。

          6月
辛酉。三品朝原内親王、獻白雀。御監及家司等賜物有差。初見者伊勢直藤麻呂、獲者菅生朝臣魚麻呂、叙位一階

白い雀を献上するとまたも関係者に叙位


延暦17年(798年)9月
乙丑。越後國田地二百五十町、賜三品朝原内親王

三品朝原内親王が領地を賜ります。
安定的な生活をさせる為でしょう。父親らしい配慮です。


延暦19年(800年)7月
乙未詔曰 朕有所思宜故廃皇后井上内親王、追復称皇后其墓称山陵。大和国宇智郡戸一烟、奉守皇后陵。甲子遺散位従五位下葛位王等、以復位位事、告宇皇后陵

桓武天皇は自分は思う所があり、井上内親王を贈皇后にしてその墓を皇族に与え山陵と称し。さらに王族を使者にして「皇后になりましたよ」と報告しに行かせるという徹底ぶりでした。

桓武天皇の思う所とは?

それは後にはっきりとわかります。
桓武天皇は自分の死期をさとり、生存中もしくは死後遺言として実行されます。

延暦十九年八月以降大同元年五月迄
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安殿(小殿皇太子)への入宮でした。
酒人内親王の例にならったのです。この婚姻は二重の意味がありました。
小殿皇太子には元斎内親王の朝原を後宮に得る事は伊勢神宮の後見を得る、一方朝原内親王は小殿親王の妃になるという事は天皇妃という地位が得られるというメリットです。
御互いの安定が狙いでした。

大同元年(806年)3月
有頃天皇崩於正寢(桓武天皇)。春秋七十。皇太子哀號□踊。迷而不起
遂に父桓武天皇が崩御します。

70歳年の生涯の中で桓武天皇は歴史を知らない人でもその名を知る様な賢帝の一人でした。遷都を強行し、藤原氏の後押しを受けながら安定的な政権を築ずき新しい時代へと導いた人物です。但し同母弟の早良皇太子を排除し自分の皇統を継がせる冷徹さと女好き(皇后、夫人、女御以外に女官女嬬などの愛人が後宮子供は知られているだけでも30人以上いました。)という欠点はあるものの酒人、朝原内親王のよき保護者であり理解者でもありました。
二人は崩御を悲しんだでしょう。

酒人内親王52歳 朝原内親王26歳


          4月
己未。大和國葛上郡正四位上高天彦神預四時幣帛。縁吉野皇太后願也

井上皇后の縁の神社に奉納がされます。

平城天皇に井上皇后が祟らない様にするためでしょうね。

          5月
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辛巳。即位於大極殿
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小殿皇太子(平城天皇)が即位します。

平城天皇と朝原内親王の夫婦中はどうだったでしょうか?

実は平城天皇には思い人がいました。皇太子時代入宮した妃の同行した義母 東宮宣旨藤原薬子です。
皇太子は娘ではなく義母で藤原蔵下麻呂の息子縄主の室で種継の娘を寵愛しはじめたのです。
桓武天皇は暗殺された種継を高く評価し、その死後遺族を厚遇するため親族を東宮妃に入宮させたのでした。
しかしまさか義母と親密になるとは思いもよりませんでした。桓武天皇は薬子を非常に警戒し、その関係が明らかになると薬子の任を解き東宮御所から退出させます。

これは単に義母が皇太子に愛された事が許されなかったのではなく式家に大きな影響力を持たれない事が大きかったと言われます。桓武天皇にも百済明信という藤原継縄の室だった女官との間に庶子まで儲けていました。子供に文句はいえませんね。ただ薬子の野心を警戒したのだと思います。それは東宮がかなり真剣に寵愛していたんでしょうね。
              4月
典侍正三位藤原朝臣藥子兄妹招尤之兆

即位すると大同4年(809)正月
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己卯。正四位下藤原朝臣藥子授從三位。

              4月
平城天皇譲位上皇・嵯峨天皇即位
病気がちだった平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位し、自分は古都「平城京で静かに過ごしていました」
しかし!!!

弘仁元年(810)9月
癸卯。依太上天皇命擬遷都於平城

突然上皇が遷都の命令を出し政治への意欲を見せ始め弟嵯峨天皇への武力制覇を計画します。
しかし警戒していた嵯峨天皇の事前防御の結果その反乱は数日で終了します。以前は薬子の変、現在は平城上皇の変といそうです。
結果薬子は自殺。平城上皇は出家して平城京で残りの生涯を送ります。


己酉。太上天皇至大和國添上郡越田村。即聞甲兵遮前。不知所行。中納言藤原朝臣葛野麻呂。左馬頭藤原朝臣眞雄等先未然雖固諌。猶不納。催駕發進焉。天皇遂知勢蹙。乃旋宮剃髮入道藤原朝臣藥子自殺。藥子。贈太政大臣種繼之女。中納言藤原朝臣繩主之妻也。有三男二女。長女。太上天皇爲太子時。以選入宮。其後藥子以東宮宣旨出入臥内。天皇私焉。皇統彌照天皇慮婬之傷義。即令駈逐。天皇之嗣位。徴爲尚侍。巧求愛媚。恩寵隆渥。所言之事。无不聽容。百司衆務。吐納自由。威福之盛。熏灼四方。屬倉卒之際。與天皇同輦。知衆惡之歸己。遂仰藥而死。




弘仁3年(812)5月
癸酉。妃二品朝原内親王辭職。許之

朝原内親王が平城上皇の妃である事を辞する旨を告げ許されます。しかし平城上皇が遷都を決め出兵しようとした際には同行せず、平城京から平安京に戻ったと考えていいです。まあ事実別居中から正式離婚成立という事です。


平城上皇は精神的にも肉体的には病弱でした。
保護者的な父とは違う平城天皇を受け入れるには困難だったでしょう。
その為に二人の間は相性の良い関係ではなかったといいます。しかし朝原内親王には十分な冨がありましたので、妃を辞しても問題ありません。


朝原内親王は乱後平安京に戻り、平城上皇は平城宮にある宮殿で余生を過ごし、唯一甘南美内親王は(腹種継の娘)薬子の姪の為妃のまま上皇の元で過ごしていました。
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京に戻った朝原内親王との再会を喜ぶ酒人内親王

弘仁8年(817)4月
乙未。賜二品朝原内親王度六人

病床になった朝原内親王の為に嵯峨天皇は僧に命じ読経させます。
嵯峨天皇も酒人内親王家に敬意をはらっていたという事です。
しかし
甲寅。二品朝原内親王薨。遣使監護喪事。親王者、皇統彌照天皇第二之女也。母曰酒人内親王。年卅九

しかし病気は悪化して39歳で死去してしまいます。

その人となりは遺言で良くわかります。 


「父桓武天皇と母酒人内親王の為に東大寺に大般若経・美濃国厚見庄・越前国横江庄・越後国土井庄などを施入してほし

残された母は愛娘の遺言を実行します。自分の死後も父母の心配をする大変心優しい女性だったんですね。



その後母酒人内親王は長生きし、弘仁年間には二品を叙位させます。
その母も75歳で永眠します。


天長6年(829)8月
丁卯。二品酒人内親王薨。廣仁天皇{光仁天皇}之皇女也。母贈吉野皇后也

その遺言書を空海に代筆させています。
当時桓武天皇の遺児を3名猶子(養子)にしています。

吾、式部卿大蔵卿安勅三箇親王告。 夫道本虚無。終無、始無。陰気陽気構 尤霊起。起生名、帰死稱。 死生分、物大帰。吾齢、従心気力倶尽。 況復、四蛇、身府相闘、両鼠、命藤争伐。 既夢蝶我非知還神谷忽休驚。又夫提親、遠追子
吾一箇瓊枝有、不幸露先此顧悢悢。顧命人無猶子義礼家 貴所。所以三箇親王取男女。 終慎道、 一、三子任。吾百年後、荼毘願非。 明器雑物一省約従。此吾願。 追福斎存日修了。若事已得。 春日院七七経転。 周忌東大寺。所有田宅林牧等類、 三箇親王及眷養僧仁主班。自外労随 家司僕孺等分給。亡姑告。弘仁十四年正月廿日」

我、式部卿と大蔵卿と安勅内親王の三人の親王に遺言する。
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「人間の行く道は本より虚無である。終わりも始めもない。陰陽の気が 組み合わされて人間が生まれる。気の起こるをば生と名づけ、 帰るをば死という。生も死も一つである。我が齢七十にして気魄も力も 共に尽き果てた。病は体内に相闘い、月日は容赦なく我が命を断ち切らんとする。夢現の人生、己に帰る頃には死が待っている。
子を育てるのは二親の務めである。親の終わりを見取り弔うものは子という。我には愛しき姫が一人恵まれた。しかし、不幸にして露と先立ってしまった。これを思えば悲しみに胸をかきむしる。死に臨み後事を託したくも子は既に無い。 儒家は兄弟の子は我が子と同じと教える。故に三人の親王をもって 我が子となし、わが喪のことを三子にゆだねる。 我は荼毘を願わず。屍は塚に封じて土に帰すに任せよ。 共に葬る遺愛の品は最小に止められよ。これは我の願いである。 我がための追善の行は在りし日にすべて終えたり。もしやむを得ざる ときは、四十日の中陰の経は春日の院興福寺において、 一周の忌は東大寺において行え。 我が所有の田宅林牧等の類は、三人の親王と我に仕えし仁主に分かち与える。その他は永年にわたり我に仕えし家司、侍女らに分かち与えるものとす。
亡き姑の告ぐ。
弘仁十四年正月二十日」

酒人内親王の生涯を集約させた遺言だなと思いました。
あんなに寵愛された桓武天皇の子達を夫の子とは言わず兄妹の子をしたところ、酒人内親王の桓武天皇への関係がわかりますね。
やんちゃな妹でしょ!!!って感じな夫婦間な感じはしますね。

 
さて今回は前篇後篇で平城京から平安京での出来事を中心に草子しました。
今は遠い昔の御話ですが、広いなんいもない(大極殿と東院庭園、朱雀門は再現されていますが平城京でそんなおどろしい事があったとは想像も出来ません。


長屋王の変、橘奈良麻呂の乱、仲麻呂の乱、不破、井上内親王の呪詛、平城上皇の乱。
艶やかな天平時代とは対照的な政治的には陰謀が取り巻く混沌とした時代そんな都も今はただ野があるだけです。

では「天平祭を楽しみましょう!」

東市、西市にはイベントで奈良名産が味わえます。

華やかな公演の演目

天平衣裳体験館
奈良時代の女性装束
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え!!!酒人内親王?
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え!!!朝原内親王?

じゃないで~~~~す・・・・・・。
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黄菖蒲

今は静かな平城京

さてそんな平城京の最寄り駅「西大寺」で注目の人気パティスリーガトーポワを訪問しました。
こちらは奈良ではNO1と言ってよいケーキ店です。







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