2013-05-03

舞少納言「奈良の都に現る」第三段

さて春の行楽シーズン盛んな奈良の古都「平城京」を散策します。


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いにしえの奈良の昔 平城京跡南北5キロ東西6キロ

710年藤原京から平城京へ遷都
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時は元明天皇の治世

今回は御題を挙げながら、春の「平城京」イベント天平祭の様子もあわせていろいろ草子してみます。

「呪われた青き血~ブルーブラッド~」

前篇「孝謙・称徳天皇」
後篇「三代斎内親王」
元明天皇が遷都の詔の宣言
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「平城京」和銅三年(710年)元明天皇の治世に藤原京から遷都した古都奈良の都です。

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遷都の詔・内侍から少納言へ詔の書が渡される。
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大極殿前庭にて中央が元明天皇、天皇の前後斜めに女官命婦、右に遷都の詔を読み上げる少納言
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左右の内側に侍従と外側に旗りの女嬬がいます。

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離れて左右に兵衛、左に技楽隊、右に内から右方向に氷高内親王、首皇子、皇子妃(安宿媛)、(阿倍皇女、だが史実ではまだ誕生していない)、(淳仁天皇だが史実ではまだ誕生していない)、白壁王

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その後に文武百官
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後ろに女官

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大極殿
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東院庭園
東院とは東宮ともいい皇太子の宮殿
近くには称徳天皇が迎賓館「東院玉殿」や光この東院跡に仁天皇が楊梅宮を建設しました。
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朱雀門

現在一部の建築物の再現と3つの資料館の建物が残る都の跡地です。
奈良は山城国現在の京都市へ遷都して以来没落の一途をたどりました。そのために現在では当時を知る文化財等も少なくまた平城京のほとんどの官庁の建物は平安京へ移築されてしまった為に野原だけとなってしまいました。
地下には遺構が残されており、それらを守る為にも平地のまま残されています。
ではその古都で起こった出来事を草子しましょう。

平城京の春のイベントで行われた「天平祭」


天平行列から
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孝謙・称徳天皇

①歴史的に有名な聖武天皇を父に光明皇后を母に持ちながら歴史に興味がいない人には?なのは何故か?
②天皇に二度も即位しながら、両親一族が眠る佐保山墳墓群とは離れた前方後円墳の墓に埋葬されたと伝承され  ているのは何故か?
③称徳天皇が病床にある時に歴代の天皇の病気の際に出される大赦や読経が行われなかったのは何故か?
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孝謙天皇は聖武天皇(父文武天皇。母不比等の娘藤原宮子)に皇太子時代に入内した光明子(父藤原不比等・母橘三千代)が養老2年(718年)に出産した皇族です。

幼名は不明ですが、父首皇太子(後の聖武天皇)即位後は阿倍内親王の名で知られます。
ちなみに前年に首皇太子には県犬養広刀自が第一王女(後の井上内親王)を出産しており、彼女は第二王女です。


では幼少期から彼女の取り囲む環境からご紹介しましょう。
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奈良天平時代の宮廷衣裳
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父首皇太子(後の聖武天皇)
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母安宿媛(後の光明皇后)

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どちらかというと飛鳥時代に近い宮廷衣裳

天平行列から元正天皇
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父方の伯母(元正天皇)

父は首皇太子、母は数名いる皇太子の妃の一人光明子、時の天皇は大伯母にあたる元正天皇、祖母は藤原宮子、橘三千代、幼児の時に祖父不比等と高祖母元明太上天皇が没します。

政治的に元正天皇は皇太子の即位を念頭に置きながら、皇族の長屋王(妹吉備内親王の夫)を太政官で重要な地位を与え、藤原不比等の4人の兄弟の内房前のみが内臣、参議として出仕するという環境にありました。
つまり皇親派(皇族と一族を支持する貴族のグループ)が大きく政権を担う時期でした。

阿倍内親王の周辺では母はまだ首皇太子妃の一人でしかなく、後宮には県犬養広刀自、おそらくは聖武天皇即位後に後宮入りしたと考えられる房前の娘北夫人、武智麻呂娘南夫人と橘古那可智、他の多くの女官の元で旧不比等邸(太政大臣邸現在の法華寺周辺)養育されていたと思われます。


同母弟は某王(皇太子)      727年~728年

異母姉は井上内親王(伊勢斎宮)  717年~775年(下記の3名の生母は県犬養広刀自)
異母妹 不破内親王(光仁天皇皇后)不明
異母弟 安積親王         728年~744年

彼女の幼少期の中で大きな転機となる政界の事件は下記の通りです。

天平行列から
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聖武天皇

724年       大伯母元正天皇が父聖武天皇に譲位
728年       母光明夫人腹皇子某王の誕生と死
729年2月     「長屋王の変」です。

この一連の出来事は連鎖しています。
元正天皇は甥の皇太子に生存中に皇位を譲る譲位を行い、聖武天皇の即位と同じく母光子は夫人の地位を得ます。
728年にようやく待望の藤原氏腹の皇子の誕生し、二ヶ月後に立太子にしました。
藤原氏腹の皇子を得た武智麻呂、房前、宇合、麻呂は某王の立太子に安堵していたと思われます。が、この皇太子は誕生1年後に病死してしまいます。
しかも皇太子の死と聖武天皇と橘広刀自夫人との間で新たに誕生した安積皇子は藤原一族を追い込むには十分でした。

そこで光明夫人の立后です。
当然藤原氏の中では予定されていた事ですから、時期を早めたと言っていいでしょう。
つまり安積親王がこの後成長しても、光明夫人が皇后になればその即位を防ぐ事も出来、又皇后が再び親王を産んだ際には皇后腹の皇太子として即位も出来るのです。
しかしその立后には大きな壁がありました。

注釈)臣下の娘で歴史上皇后になった例がありませんでした。
(葛城氏娘磐之媛は日本書紀で記録のある仁徳天皇の皇后です。しかし日本書紀は藤原不比等がかかわった可能性が高いので藤原氏の民間初皇后を立后させるための前例で作った架空の人物と思われるので排除)
皇親派の長屋王が立ちはだかります。

それは政治の舞台で聖武天皇の詔と律令の法の矛盾を長屋王が指摘した事で表面化します。

聖武天皇は即位後すぐに生母文武天皇夫人宮子の称号を大夫人と称するとした勅を発するも、長屋は公式礼ではその称号は存在せず、天皇に再度その矛盾を問うという行為に天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾したいざこざの事です。
これを聖武天皇への敵意と重く見た藤原4兄弟(但し房前は長屋王とは親しく消極的だったと言われています。)

長屋王の変とは
この行為を藤原一族は聖武天皇への反発ととらえ、当時藤原四兄弟は妹光明子の立后を望み長屋王は皇族以外の皇后の擁立に強く反対していた事もあり、これに乗じて下級役人の漆部造石足、中臣宮処漣東人が天皇の地位を狙い、「皇太子を呪祖して殺した」という偽の告発。「長屋王に謀反の心あり」と聖武天皇に直訴します。皇太子の死に失意の天皇はこの密告を信じ藤原宇合らがいち早く長屋王の邸宅を包囲、王は正妻吉備内親王とその腹の子供達と自殺した事件を言います。

当然謀反はでっちあげで正妻を皇族に持つ長屋王(父は高市皇子)妻は元明天皇と草壁皇子の次女、自身も皇位に近い人物であり、正妻も天皇の娘という血統が藤原四兄弟の危機感を狩り立てた果ての策略でした。

この事件は阿倍内親王の周辺にも大きな変化をもたらします。

天平行列から
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光明皇后

父は天皇、生母が724年夫人から729年に臣下の娘で歴史上初の皇后が誕生。

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ここに阿倍内親王が登場します。


おそらくは祖父不比等邸、祖母橘三千代邸(この二つは隣接していた現在の法華・海龍王寺辺り)で育った彼女は11、12歳母に起こった事件の影響は大きかったと想像出来ます。

順風満帆であった藤原氏の勢力図は突然、音もなく崩れ去ります。

737年帰国した遣新羅史の中に天然痘に感染した者がおり、九州から近畿に広がりついに朝廷の主だった参議以下太政官が病いに倒れます。
この中に4月に房前が、7月に麻呂、武智麻呂、8月に宇合が死亡します。
まだこの4兄弟の子供達は年長者の武智麻呂の長男で33歳父の死で兵部卿に昇進したばかり、弟31歳従五位下、房前の二男(正妻で長男)23歳の永手が従五位下、宇合の長男広嗣は20歳前後で従五位下、麻呂の長男に至っては13歳という若さでさすがの聖武天皇も朝廷の実権を渡す事は出来ませんでした。
そこで存命であった光明皇后の異父兄大納言橘諸兄と長屋王の弟鈴鹿王に知太政官事を任命し朝廷の体裁を整え、さらなる混乱を避けるために長く明らかにしてこなかった皇太子の任命を738年正月決定します。

今後光明皇后の妊娠が見込めない。
新たな夫人も妊娠しない。
唯一の直系親王安積は10歳を超え、この親王を時期皇太子にという貴族の動きも見逃せない。
藤原氏の血を濃く引く天皇の即位は必然。


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阿倍内親王が皇太子になり住んだ東院(再現 東院庭園)

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曲水の苑跡
人工の小川に杯を浮かべ、流れてくるまでに和歌を詠んだ後に杯の酒を飲み干す貴族の遊びでした。IMG_1037_20130503232200.jpg
隅楼
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天平時代の東院での歌会の様子

上記の理由で聖武天皇は女性皇族で初めて阿倍内親王の立太子を宣言します。
時に阿倍女皇太子21歳でした。
この時同時に橘諸兄に従二位右大臣に昇進させています。
即位に藤原氏一族は胸を撫で下ろしたものの、朝廷での地位は以前大きく橘諸兄に差をつけられ勢力は大きく後退していました。はなやかなはずの宮廷に突如風雲が巻き起こります。

前年宇合の長男である広嗣が大宰府大宰帥(九州にあける外交・防衛の責任者)に任ぜられ、同地に派遣されていましたが、当の本人はこの地位を左遷と認識し突然740年8月朝廷に当時聖武天皇の寵臣吉備真備(遣唐使として唐に留学後、当時は従五位 右衛士督)と玄昉(聖武天皇の生母宮子の病いを治したといわれる僧上)の処分を求める上表を送った後すぐに大宰府で挙兵しました。
藤原広嗣の乱です。
朝廷側は大軍を北九州に向かわせ、2か月後に藤原広嗣、乱に加わった綱手の二名は大野東人により唐津で斬られ反乱軍は鎮圧されます。

これに異常に反応したのは聖武天皇でした。

他の藤原一族が関与しなかったとはいえ同族とも頼りにしていた藤原氏の中での反乱に大きく動揺し、乱の鎮圧の報告も受けない時点で関東へ行幸すると平城京を離れてしまいます。

徘徊とも言えるその行程は
平城京→名張→東に進路→伊勢国→北東に進路→尾張国→北北西に進路→近江国→南南東に進路→恭仁京
に入ります。
これは実は大海人王子の壬申の乱のルートに驚くほど似ています。
では何故???

この行程の過程伊勢国で聖武天皇は乱の鎮圧を知り、首謀者死亡の報告を受けながらも放浪の旅は続けられ、741年恭仁京への遷都が強行されました。
この京はあわただしい遷都に準備もいきわたらず、本当に遷都する大きな意思がまったく見えない規模の京でした。
この異常ともいえる反応はなんだったのか?
藤原広嗣の乱で藤原氏の軍事行為への恐れだったのでしょうか?

それは京の藤原氏からの反乱回避と現政権の安定=阿倍皇太子の基盤造とは考えられないでしょうか?

そもそもは橘諸兄の提案だったのではないでしょうか?
彼は近くに別荘を保有していました。
初めは諸兄は乱のさらなる拡大に天皇一族と朝廷を避難させるため、藤原氏派の勢力の反発を避ける為に主導した。

その案を聖武天皇が
これからも反発が考えられる藤原氏の一族への擁護(これは逆に有望株であろう藤原氏の子息の保護という意味)
皇后と皇太子への保護
現政権橘諸兄達への政権安定処置

藤原氏と現政権、しいては光明皇后と娘阿倍皇太子を守る唯一の手段とも取れ、更にその行程で天武天皇派の皇族達及び貴族に対して自身の後継者である阿倍皇太子への皇統譲渡の正統性を主張するためだった。と考えるのは深読みしすぎでしょうか?

乱の同年広嗣の上書に書かれた「下道真備」が東宮学士の任を受け阿倍皇太子の師となります。
下道真備とは吉備真備の事です。聖武天皇と孝謙・称徳天皇の寵臣として最後は藤原氏以外で大臣にまで出世した人物です。

阿倍皇太子はこの師にかなりの影響を受け、後に春宮太夫へとして漢書、礼記を学んだといわれています。

一旦京を出発したものの、場所を特定せずの遷都した為、恭仁京を都に置きながら当の聖武天皇は742年紫香楽宮への行幸が度か重なり落ちつきません。

そんな中、恭仁京の宮中で743年5月5日の節句に行われた行事は興味深いです。

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東院庭園での舞舞の様子
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元正太上天皇、聖武天皇、光明皇后と朝廷の重要人物の目の前で、皇太子に五節の舞を舞わせます。
これは単純に皇太子がただ踊ったというのではありません。
この舞は天武天皇が「礼と楽」とで天下統治を行う事を誓った際に天女によって舞われたという伝承のある舞です。
その舞を皇太子に舞う事でその皇統を継ぐ者=阿倍皇太子と臣下に認識させられるのです。
この行事の後各臣下へ叙勲がそれぞれに言いわたされます。

そう阿倍皇太子は上皇も認め、天武天皇の皇統も十分受け継ぐ者だから忠誠を誓わせる行為でもあったのです。

聖武天皇は臣下が恭仁京へ留まる事を希望したにもかかわらず、744年難波京へ遷都する為、恭仁京を捨て難波に遷都する詔がくだり、難波に行幸します。
この行程の途中で安積親王の急死がありました。

安積親王は行幸途中に体調不良をうったえ恭仁京へ戻ります。
その恭仁京で急死してしまいます。病名はかっけによる心臓病と続日本紀は伝えます。
この時に恭仁京に留守役として留まっていたのが武智麻呂の二男時の参議藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は光明皇后の信任が厚く次世代の藤原氏の有望株で橘諸兄政権時でも虎視眈眈と藤原政権奪還を目指していました。この新興勢力の急先鋒の人物がいる場所での親王病死、ここに安積親王の殺害仲麻呂説が成立しています。
しかしその当時仲麻呂に親王暗殺の疑いはかからず又確たる証拠もなく仲麻呂が捕らわれたり、罰せられたりはしませんでした。

聖武天皇の難波京行幸は安積親王の急死に変更される事もなかったものの、事実上の遷都をする事なく短期間で行幸を終え紫香楽宮に留まり745年紫香楽宮に事実上遷都したままでした。当時の紫香楽宮では頻繁に放火があります。放火は朝廷に対する反発の行為であり、この紫香楽宮は臣下の間でも民衆にもかなり不人気でした。一部の人々は元の平城京へ戻っていきます。
ようやく聖武天皇は地方への遷都を断念し、745年5月平城京に戻り都はようやく落ち着きます。
しかしその後難波京にたびたび行幸するんですが。

阿倍皇太子はこの聖武天皇の行動にどう感じたでしょう?

煮え切らない父の態度か?
逆に臣下に対して強硬に出る天皇の行動と感じたのでしょうか?
続日本記はなにも語りません。

平城京に戻った後も聖武天皇の難波行幸は続きます。
この難波で聖武天皇は病いを患い、一時重体に陥ります。平城京。恭仁京では戒厳令がしかれ、天皇の鈴、印も難波に運ばれ、天皇の枕元に重要王族が呼ばれます。
幸い病いは回復し無事に平城京に戻るのですが、この病気で聖武天皇の阿倍皇太子への譲位による準備は進み始めたと言えます。

玄坊法師を筑紫に左遷、恭仁京の兵器を平城京へ移します。
正四位藤原仲麻呂が式部卿に、少し遅れて正五位橘宿禰奈良麻呂(諸兄の長男)が民部大輔、左大臣従一位橘諸兄に大宰師(大宰府の長官)を兼任、中納言従三位藤原藤原豊成に東海道鎮撫使を兼任、参議式部卿正四位藤原仲麻呂に東山道鎮撫使を兼任させました。

橘氏と藤原氏で政治、軍事を公平に分担させ、ふたつの勢力を拮抗させようとする聖武天皇の意図が見えます。
以後多くの国分寺の建立、平城京東に巨大な瑠舎那仏像を建立し、朝廷では叙位、任官、大赦を行い元正太上天皇の崩御を経て再び叙位、任官、大赦を経て東大寺への行幸、と左大臣橘諸兄に正一位(臣下の位では一位)、大納言藤原豊成に右大臣に任命、寺院への施入を済ませた後薬師寺宮で出家し平城京を離れた直後譲位を宣言します。

749年女性天皇の即位が譲位という形式で実現します。

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即位式が行われた大極殿(再現)

秋七月甲午。皇太子受禅、即位於大極殿

譲位後の朝廷の主要人員は

正一位  橘諸兄     左大臣
従一位  藤原豊成    右大臣
正三位  藤原仲麻呂   大納言
従三位  石上朝臣乙麻呂 中納言

従四位上 橘宿禰奈良麻呂 参議
従四位下 藤原朝臣清河  参議
正四位下 大伴宿禰兄麻呂 参議(後に紫微中台 紫微大弼・正四位上) にと新たに加わります。

補足 吉備真備        従四位上昇進

この他にも新旧の氏族が均等に昇進しており新朝廷は権力の均等がはかられた物になっています。

又皇后宮を新たに「紫微中台」を設置し、官人任命が行われ仲麻呂が紫微令に任命されます。
紫微中台は光明皇后の為の為の役所で皇太后となった事で置かれた組織です。
阿倍の即位に対し光明皇后が聖武天皇亡き後後見出来る様にする為の組織と言われています。
ここに仲麻呂が長官に指名されたという事は光明皇太后の仲麻呂への期待が大きかったといえます。


その後この均等のバランスは徐々に崩れてゆきます。
その原因はまさに仲麻呂でした。即位後の孝謙天皇は皇太后の影響力を大きく受けて行動していきます。

仲麻呂は従4位上石川年足を紫微大弼に据え朝廷の中で皇太后の後ろ盾であり紫微中台という役職をよい事にをいいことに仲麻呂派を拡大させていきます。

正月己亥○己亥。左降従四位上吉備朝臣真備為筑前守。

まず750年に吉備真備を筑前守に左遷させ、自分は従二位に上がります。これは従兄弟の永手の位が従四位上に対して考えると大きな差がついています。

仲麻呂は吉備真備を左遷するだけにあきたらず遣唐使の唐副使として危険な船旅をさせ国外へ追いやります。

747年聖武天皇の発願で鋳造が開始され、749年に完成していた瑠舎那仏の「東大寺の瑠舎那仏開眼式」が開催されます。

四月乙酉○夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。
是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。


この大仏開眼式は752年孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后が臨席する中、大大的な国家行事としての華やかな式典でした。大仏は聖武天皇の時代から製作され、その統治下で完成していました。なので聖武天皇時代に開眼式を行う事も出来た訳です。しかし行わず孝謙天皇の時代に行った。
これは仏教国家として「統治の譲渡」を意味し、孝謙天皇の統治下では大変有効でした。

この国家的行事の後天皇はなんと仲麻呂の邸宅にしばらく滞在したのです。

天皇還御大納言藤原朝臣仲麻呂田村第。以為御在所

754年に大伴宿禰古麻呂に付き添われ、鑑真が来日します。
これに遅れて吉備真備が屋久島、紀伊潮岬を経て754年に帰朝するとすぐに大宰府の大宰大弐に赴任させ又も都落ちさせます。今度は後ろめたさからか正四位に昇進させますが、真備は同地でその任に務めます。

二月丙戌八歳春二月丙戌。左大臣正一位橘朝臣諸兄致仕。勅、依請許之

続日本記はさらりと流して書いていますが、実は橘諸兄は孝謙天皇時代はほとんど仲麻呂に押され、朝廷内では左大臣という地位だけは確保していたものの、実質的な朝廷運営な関わっていなかったと言われています。息子も仲麻呂の出世から考えても低いものでした。
756年自ら引退したと言われています。翌757年失意のうちに病死しています。

756年聖武上皇は崩御します。

太上天皇崩於寝殿。遺詔。以中務卿従四位上道祖王為皇太子

この遺言を諸兄死去後孝謙天皇はすぐに反古にしてしまいます。

三月 是日。廢皇太子以王歸第。

続日本記では道祖王が聖武上皇の喪中であるにもかかわらず、侍童と戯れ(男色し)民間に機密をもらすなどの素行が悪いので自身の邸宅へ戻したというのです。

では次皇太子はどうするのか?

夏四月辛巳。天皇召群臣問曰。當立誰王以爲皇嗣。右大臣藤原朝臣豊成。中務卿藤原朝臣永手等言曰。道祖王兄塩燒王可立也。攝津大夫文室眞人珍努。左大弁大伴宿祢古麻呂等言曰。池田王可立也。大納言藤原朝臣仲麻呂言曰。知臣者莫若君。知子者莫若父。唯奉天意所擇者耳。勅曰。宗室中。舍人。新田部兩親王。是尤長也。因茲。前者立道祖王。而不順勅教。遂縱淫志。然則可擇舍人親王子中。然船王者閨房不修。池田王者孝行有闕。塩燒王者太上天皇責以無礼。唯大炊王。雖未長壯。不聞過惡。欲立此王。於諸卿意如何。於是。右大臣已下奏曰。唯勅命是聽。先是。大納言仲麻呂招大炊王。居於田村第。▼是日。遣内舍人藤原朝臣薩雄。中衛廿人。迎大炊王。立爲皇太子

臣下が意見したものの、孝謙天皇は仲麻呂の私邸田村第に滞在していた大炊王を召して皇太子に指名します。
出来すぎです。

わざわざ仲麻呂は皇太子の名を指名せずに孝謙天皇の一存と演出、しかも偶然ではありえない仲麻呂邸にいた大炊王を指名する。

実は大炊王は仲麻呂の長男真従の元妻(粟田諸姉)を妃にしていました。

そう皇太子レースは出来レースだったんです。
当時の仲麻呂は皇太后の後ろ盾、正妻は孝謙天皇の尚蔵兼内侍だった宇比良古(房前の娘)が後押し破竹の勢いでした。
同族の豊成、永手もまったく反論出来ない状況でした。

仲麻呂はさらに政敵である橘奈良麻呂の失脚に乗り出します。
話しは前後しますが、先の左大臣橘諸兄の辞任の際の経緯は下記の通りです。

甲辰。先是。去勝宝七歳冬十一月。太上天皇不予。時、左大臣橘朝臣諸兄祗承人佐味宮守告云。大臣飲酒之庭。言辞無礼。稍有反状云云。太上天皇優容不咎。大臣知之。後歳致仕。既而勅、召越前守従五位下佐伯宿禰美濃麻呂。問、識此語耶。美濃麻呂言曰。臣未曾聞。但慮。佐伯全成応知。於是、将勘問全成。大后慇懃固請。由是、事遂寝焉。

この事原因で橘氏の朝廷内での勢力は一気に仲麻呂はとって変わられます。諸兄の長男奈良麻呂は当然将来に悲嘆します。それは聖武天皇生前時にもクーデター計画を思案するなどし徐除に朝廷勢力藤原仲麻呂へのしいては天皇家へのクーデターを画策していきます。

757年橘奈良麻呂の乱
至是、従四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀囲田村宮。正四位下大伴宿禰古麻呂亦知其情

山背王が上奏します。橘奈良麻呂が田村第(当時おそらく天皇の内裏)を兵で襲うつもりです。この企ては大伴宿禰古麻呂も承知しています。

これに天皇
秋七月戊申。詔曰。今宣頃者、王等・臣等中、無礼逆在人在而計大宮将囲云而、私兵備聞看而、加遍加遍所念。誰奴朕朝背而然為人一人将在所念。随法不治賜。雖然、一事数人重奏賜、可問賜物将在所念。慈政者行安為此事者天下難事在者、狂迷頑奴心慈悟正賜物在所念看如此宣。此状悟而人見可咎事和射。如此宣大命不従将在人、朕一人極而慈賜、国法不得已成。己家家、己門門祖名不失勤仕奉宣天皇大命、衆聞食宣。」

さらに皇大后詔曰。汝諸者吾近姪。又竪子卿等者、天皇大命以汝召而屡詔。朕後太后能仕奉助奉詔。又大伴・佐伯宿禰等、自遠天皇御世、内兵為而仕奉来。又大伴宿禰等吾族在。諸同為為而皇朝助仕奉時如是醜事者聞。汝不能依如是在。諸以明清心皇朝助仕奉宣皇太后

橘奈良麻呂は皇太后の甥であり、天皇の従兄弟にあたります。
親族である故になんとか事を表ざたにさせない様に配慮している様子が伝わります。
しかし奈良麻呂への反逆の密告はこの後も続続とは直接仲麻呂に入り、もはや黙認出来きない事態となりました。
仲麻呂は直接高麗朝臣福信に小野東人(藤原広嗣を撃ちとった人物)と答本忠節を逮捕させます。
東人は尋問されますが、これを拒否します。

事これにいたっても皇太后は謀反人と名を挙げられた者を最後の懇願をします。
召塩焼王。安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂五人。伝太后詔宣曰。塩焼等五人人告謀反。汝等為吾近人。一吾可怨事者不所念。汝等皇朝者己己太久高治賜、何怨止志弖加然将為。不有所念。是以、汝等罪者免賜。今徃前然莫為宣。詔訖、五人退出南門外。稽首謝恩。

しかし拷問に耐えかねた東人がついに謀反の全容を語り、

安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。多治比犢養。多治比礼麻呂。大伴池主。多治比鷹主。大伴兄人。
将以七月二日闇頭。発兵囲内相宅。殺劫、即囲大殿。退皇太子。次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣、将使号令。然後廃帝。簡四王中、立以為君

全員が尋問される事になり、拷問杖打ちの刑で獄死するもの、流刑される者が相次ぎ朝廷と宮中は長く混乱する事態になります。
仲麻呂はこの事態に更に自分の地位を挙げる為、そのクーデターの仲間と親しかった豊成の息子乙縄を出し乙縄も日向国に左遷、兄豊成も大宰員外師に左遷させます。さすがの豊成もこれには憤慨し難波の別荘に籠ってしまいます。仲麻呂としては朝廷から追い出せばよいだけなので目標は達成できたわけです。

この橘奈良麻呂の乱は永く天皇家、朝廷に大きな衝撃を与え758年になっても動揺を鎮めたり、飲酒宴会の開催を禁じる詔を出したりと火消しにやっきの様子が見えます。

【この時点での男子王族の家系・赤は死亡 黄は流刑 青は存命中
書物に記述のない、存命のはっきりしない、もしくは天武天智天皇系以外の王族又臣籍降下した王族は除外】

天武天皇系
長親王系 栗栖王 
舎人親王系三原王 大炊王 船王 三島王 池田王 厚見王
親田部親王系塩焼王 道祖王 
高市皇子・長屋王系安宿王 黄文王 山背王 

天智天皇系
志貴皇子系白壁王  


仲麻呂の乱以降動乱を避ける事に成功した朝廷ですが、その後皇太后が発病します。
すると

然皇坐天下政聞看事者、労重事在。年長日多此座坐、荷重力弱不堪負荷。加以、掛畏朕婆婆皇太后朝人子之理不得定省、朕情日夜不安。是以、此位避間人在如理婆婆仕奉所念行日嗣定賜皇太子授賜宣天皇御命、衆聞食宣。是日。<
span style="color:#0000ff">皇太子受禅、即天皇位於大極殿。詔曰。

天平行列から
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淳仁天皇

孝徳天皇は子の道理として、天皇の職務と母の介護は両立出来ないと皇位を皇太子大炊王に譲位します。
この理由が後後政変に大きなしこりとして残る事になるのです。
天皇は主に母の介護に尽くし、政治は藤原仲麻呂が主導し、廃帝(淳仁天皇)の手にゆだねられます。

淳仁天皇は故聖武上皇の継承者として故草壁皇子、故聖武上皇、孝徳上皇、光明皇太后に尊号を奉し孝徳上皇側に配慮する傍ら、政治では忠臣仲麻呂に大保(右大臣)の任にあたらせ、名も「恵美押勝」と改名させます。
政治的には唐の影響を大きく受けた仲麻呂の政策が前進官庁の名を唐風に改めたり、唐以外渤海国と外交を通じたり又新羅討伐を進めたりと大きな改革に舵をとります。

ここに孝徳上皇の影響が大きく減退するのですが、当の上皇はどう思っていたのかは続日本紀は記述がありません。しかし新天皇即位時に年号を改めなかったり、天皇の父が天皇の贈り名(尊号)を辞退する様に上皇が進言したり、これを皇太后がさとしようやく父舎人親王を崇道尽敬皇帝、母に大夫人、兄弟姉妹を親王にする詔が出されるという経緯を考えても上皇の譲位が本人の意思とは言い難い様な気もします。

760年正月丙寅○丙寅。高野天皇及帝御内安殿。授大保従二位藤原恵美朝臣押勝従一位。

表ざたになる事なく、仲麻呂は順当に昇格し、ついに天皇、上皇臨席の元、従一位さらに大師(太政大臣)に側近の中納言正三位石川朝臣年足に御史大夫(大納言)に任じられます。
淳仁天皇治政前半は上皇と大きな衝突はなく両者そろい仲麻呂邸に行幸したり、臣下に叙位を行っています。
ここで仲麻呂の室で上皇の高位女官袁比良を正三位に叙位します。上皇後宮内からも仲麻呂の影響が伺えます。

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采女(内裏の食事を担当する女官・地方豪族の娘が任命・時に天皇寵人となる事もありました)

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実有嘉焉。是日。高野天皇及帝幸太師第

己巳。高野天皇及帝御閤門

759年に6月に皇太后が病死します。
ここに仲麻呂と淳仁天皇、孝徳上皇の綱が切れ、徐除にではありますが、両皇に溝が出来始めます。
危機感がます仲麻呂は自身の政権の地盤固めに動きます。
大和、平城、三国の軍事を固めるために
二男従四位上藤原恵美朝臣真先為兼美濃。飛騨。信濃按察使
三男に従四位下藤原恵美朝臣久須麻呂為大和守に派閥の従四位上藤原朝臣御盾を授刀督兼伊賀近江若狭按察使に任官させ、更に自身の影響力の強い地近江に保良京に遷都の造成を急がせます。

762年乙酉。遣参議従四位上藤原恵美朝臣真先

二男参議に昇格四男朝狩を東海道節度使に任させ、二月に藤原恵美朝臣押勝が最高位正一位に叙位され、9月に近江保良京に遷都出来ます。

しかし762年この保良京で藤原恵美朝臣押勝はおもいもよらぬ形で危機が訪れます。
それは孝謙上皇と淳仁天皇との不和が公然と行われた事で始まりました。

辛丑。高野天皇与帝有隙。於是。車駕還平城宮。帝御于中宮院。高野天皇御于法華寺

平城京の改修工事が済むと上皇天皇共帰還しますが、両者とも内裏には戻らず、天皇は中宮院、上皇は実家法華寺へ入ります。

孝謙上皇の退位の理由は母皇太后の看病です。
今その皇太后が亡くなった時、朝廷に関与するという意思は聖武天皇の直子としては当然かもしれません。

皇太后没後はすぐに態度に示さず表向きは天皇と押勝に同調していた上皇を政治の世界へかり立てたのは一人の僧でした。

道鏡の登場です。保良京に滞在時、病気をした際にその治療を担当したのが、彼でした。

宮子(孝謙の祖母)と玄坊、光明皇后(母)と行信といい藤原氏の血を引く女性はどうやら僧に弱いようです。

病気が回復した孝謙上皇はそれ以来道鏡に傾倒し始め、その仲を臣下の間で噂なっていたのを淳仁天皇は何度を諌めたようです。

この事で両者の間で蟠りが出来それは徐々に孝謙対押勝に移行してゆきます。

六月庚戌。喚集五位已上於朝堂。詔曰。太上天皇御命以卿等諸語宣朕御祖大皇后御命以朕告、岡宮御宇天皇日継、加久絶為。女子継在欲令嗣宣、此政行給。加久為今帝立須麻久間、宇夜宇也相従事無、斗卑等仇在言、不言辞言。不為行為。凡加久伊波朕不在。別宮御坐坐時、自加得言。此朕劣依、加久言念召、愧伊等保念。又一朕応発菩提心縁在良之止母奈母」念。是以、出家仏弟子成。但政事、常祀小事今帝行給。国家大事賞罰二柄朕行。加久状聞食悟宣御命、衆聞食宣。


この上皇の詔は淳仁天皇への痛烈な批判と出家して政治は自分が神祇と簡単な政務は淳仁天皇が行うという宣言

しばらくは上皇も押勝を直接刺激する行動には出なかったものの両者拮抗するような政治体制が続きます。
672年押勝に衝撃的な報告がありました。
7月に押勝の妻で上皇の尚蔵袁比良も死亡したのです。
又7月に三位紀朝臣飯麻呂が死亡、9月右腕だった御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足も死亡し、押勝は大きな主柱を失います。

あせった押勝は12月の任官で正四位上藤原恵美朝臣真先を大宰師に従四位下藤原恵美朝臣訓儒麻呂と朝狩を娘婿の弟貞や石川年足の弟豊成を参議に入れ、派閥の拡張を目指し白壁王を中納言に、中臣清麻呂を参議にと太政官に本人と息子4人という親族5人という異常な政権を強行します。

一見仲麻呂政権の安定が図られた様に見えますが、764年娘婿同士の藤原御楯が死去します。

9月 癸卯。遣使於山階寺。宣詔曰。
       少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪為綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師為少僧都
前年の763年、孝謙上皇は慈訓を首にして、道鏡を少僧都の地位につけます。

又764年正月には大宰府にいた吉備を呼び戻し正四位下吉備朝臣真備に造東大寺の長官に任命しています。

この時期頃から日本中で飢饉が発生し、そのために物価が異常に上昇し庶民の暮らしが苦しくなり始めます。
これも押勝の悪政と上皇派が酒波長歳、淡海三船、佐伯三野の反押勝派の任官が続きにわかに勢力を巻き返します。

同年7月道鏡の弟が授刀少志従八位上弓削連浄人賜姓弓削宿禰に叙位されます。

同年9月丙申、太師正一位藤原恵美朝臣押勝が四畿内三関近江丹波播磨等国習兵事使という護衛隊の長、都督使に就任します。

この役所は表向き新羅の遠征軍組織で押勝が長官を任命されていますが、押勝の軍事掌握権の確保に過ぎません。



764年9月、この護衛隊を活用し、兵を増強する為に無断で太政官符の偽造を行います。

戊戌。御史大夫従二位文室真人浄三致仕。詔報曰。今聞。汝卿、一昨拝朝帰家。乃知。年満懸車。依礼致仕。窃思此事。憂喜交懐。一喜功遂身退能守善道。一憂気衰力弱返就田家。古人云。知止不殆。知足不辱。卿之謂也。丹懇難違。依其所請。仍賜几杖并新銭十万文。将以弘益勝流、広励浮俗。因書遣意、指不多云。

この事件の数日前、御史大夫従二位文室浄三辞任が認められ恩賞を賜ります。
これって表向きは高齢が理由であるといいますが、押勝をみかぎったとも言えます。

同年9月18日大外記高丘比良麻呂、懼禍及己。密奏其事
仲麻呂がクーデターを起こすと事前に上皇側に密告され挙兵します。

乙巳。太師藤原恵美朝臣押勝逆謀頗泄高野天皇、遣少納言山村王。収中宮院鈴・印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。将曹牡鹿嶋足等。射而殺之

上皇は山村王に淳仁天皇が持つ鈴印(駅鈴と天皇印)を抑えようとし、押勝側はそこへ三男訓儒麻呂を送り込むも衝突で三男は銃撃戦の上死亡します。天皇と鈴印も抑えてしまいます。
孝謙上皇側に淳仁天皇の中宮院を奪われ「天皇の意思」という最大の大義を失います。
平城京にいる押勝軍は本拠地近江を目指しますが、これも上皇側に事前に先廻りされ、琵琶湖の東側を南北に右往左往し、最後は勝野鬼江で上皇の追撃軍と対戦して戦死します。

この間数日、まさに追い込まれての反逆でした。上皇は押勝を踊らさせるだけ踊らせて最後は締める。なかなかの策士です。

それが道鏡の案かはたまた吉備真備の案かは?

孝謙上皇は押勝戦死前に

太師正一位藤原恵美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。

押勝の親族官位を取り上げ、完全勝利宣言の様に功労者に叙位を詔を発布します。

正三位藤原朝臣永手
従三位下吉備朝臣真備
従四位下藤原朝臣縄麻呂従四位下
従三位藤原朝臣真盾正三位

押勝戦死後功労賞の叙位を詔

正五位上淡海真人三船
従五位上上佐伯宿禰三野
正四位石川朝臣豊成←この人なびかなかったんですね~~~
正七位上大津連大浦従四位上 大津連大浦大津宿禰←押勝の陰陽師ですが、押勝に乱の発起の吉凶を占ったと上皇に密告した人物
外従五位下高丘連比良麻呂←押勝が役所の文書を改竄した事を密告した人物
従七位上牡鹿連嶋 牡鹿宿禰←中宮院を包囲した人物
坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸←同上

従五位下淡海真人三船正五位上(元船王)

従八位上弓削宿禰浄人←道鏡の兄

前大納言文室真人浄三。先縁致仕。職分等雑物減半者。宜改先勅
辞職した文室にも恩賞が・・・やはり裏切ってたんですね。

主要人物のみ記載他にも叙位あり。

9月戊申以大宰員外帥正二位藤原朝臣豊成(仲麻呂の兄)が右大臣として復帰します。

ようやく乱終結
壬子。軍士石村村主石楯斬押勝伝首京師。押勝者


討賊将軍従五位下藤原朝臣蔵下麻呂等凱旋献捷

討伐軍凱旋し平城京へ戻り、押勝打倒終結宣言した後。

此道鏡禅師大臣禅師位授事諸聞食宣。」復勅、天下人誰君臣不在。心浄仕奉、此実朕臣在。夫人己先祖名興継比呂不念不在。是以明浄心以仕奉氏氏門絶治賜勅御命、諸聞食勅。又宣。仕奉状随冠位阿気賜治賜宣。


764年以道鏡禅師。為大臣禅師。所司宜知此状。職分封戸准大臣施行

道鏡は大臣禅師に叙位されます。
道鏡の孝謙上皇の寵臣ぶりがわかります。天皇も出家しているのだから、僧の大臣があってよい。
すごい理屈・・・。


さらに叙位は続きます。
正二位藤原豊成従一位
従四位上和気王 正五位下山村王 共に従三位
正五位上藤原朝臣百能従三位
従五位下藤原朝臣蔵下麻呂従三位

丙辰。勅。逆人仲麻呂執政。奏改官名。宜復旧焉
すべての中国風の呼び名を元に戻します。

官任

従五位下吉備朝臣由利


正四位上文室真人大市 民部卿
従四位下藤原朝臣魚名 宮内卿
従四位上大津宿禰大浦 左兵衛佐

孝謙上皇はどうやら押勝一族排除を念頭にいれはしていたものの藤原一族全ての排除とは考えていないというのが叙位に現れています。
押勝のあまりの独断政治に他の藤原一族もその勢力の衰退を願っていたのでしょう。

壬戌。勅曰。今月廿八日、覧大臣禅師譲位表。具知来意。唯守沖虚。確陳退譲。然欲隆仏教。無高位則不得服衆。勧獎緇徒。非顕栄。則難令速進。今施此位者。豈煩禅師以俗務哉。宜昭斯意。即断来表。所司一依前勅施行

すると当然道鏡辞任表明します。
さすがに朝廷の中心にいては心地悪かったのか、孝謙との仲を噂されていたたまれなくなったのか?
表向きは仏の世界に政治は不要という事らしいんですが、見事に孝謙に退けられますが。

更に押勝の乱の動揺を治めようとします。

癸亥。勅。逆賊恵美仲麻呂。為性凶悖。威福日久。然猶含容冀其自悛。而寵極勢凌。遂窺非望。乃以今月十一日。起兵作逆。掠奪鈴・印。窃立氷上塩焼為今皇。造偽乾政官符。発兵三関諸国。奔拠近江国。亡入越前関。官軍賁赫。分道追討。同月十八日。既斬仲麻呂并子孫。同悪相従氷上塩焼。恵美巨勢麻呂。仲石伴。石川氏人。大伴古薩。阿倍小路等。P4096剪除逆賊。天人同慶。宜布告遐邇。咸令聞知。」又勅曰。逆臣仲麻呂、奏右大臣藤原朝臣豊成不忠。故即左降。今既知讒詐。復其官位。宜先日所下勅書・官符等類悉皆焼却。是日。充八幡大神戸廿五煙。」以陸奥守従四位下田中朝臣多太麻呂為兼鎮守将軍。

さらに叙位が続きます。

従四位下藤原朝臣宿奈麻呂正四位上  大宰帥

庚午。詔、加賜親王・大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階。無位諱〈今上。〉



そして淳仁天皇の処罰
壬申。高野天皇遣兵部卿和気王。左兵衛督山村王。外衛大将百済王敬福等。率兵数百囲中宮院。時帝遽而未及衣履。使者促之。数輩侍衛奔散、無人可従。僅与母家三両人。歩到図書寮西北之地
孝謙上皇は軍隊を率いて淳仁天皇の中宮院を囲んで、うろたる天皇一家に山村王が詔を発布します。


山村王宣詔曰。挂畏朕天先帝御命以朕勅天下朕子伊末之授給。事云、王奴成、奴王云、汝為。仮令後帝立在人、立後汝無礼不従奈売在人帝位置不得。又君臣理従、貞浄心以助奉侍帝在得勅。可久在御命朕又一二竪子等侍聞食在。然今帝侍人此年己呂見其位不堪。是不在。今聞、仲麻呂同心窃朕掃謀。又窃六千兵発等等乃、又七人関入謀。精兵押壊乱、罰滅云。故是以、帝位退賜、親王位賜淡路国公退賜勅御命聞食宣。事畢。将公及其母。到小子門。庸道路鞍馬騎之。右兵衛督藤原朝臣蔵下麻呂。衛送配所。幽于一院。勅曰。以淡路国賜大炊親王。国内所有官物調庸等類。任其所用。但出挙官稲、一依常例。」又詔曰。船親王九月五日仲麻呂二人謀、書作朝庭咎計将進謀。又仲麻呂家物計書中仲麻呂通謀文有。是以親王名下諸王臣隠岐国流賜。又池田親王此夏馬多事謀所聞。如是在事阿麻多太比所奏。是以親王名下賜諸王土左国流賜詔大命聞食宣。」

この流刑先に従五位下坂本朝臣男足を隠岐守に、従五位下佐伯宿禰助を淡路守に監視役として下向させます。

天武天皇系
長親王系 臣籍降下した為王家としては消滅 
舎人親王系大炊王 船王 池田王 
親田部親王系 塩焼王は押勝の乱で殺害された為、二世が臣籍降下された為消滅
高市皇子・長屋王系安宿王 山背王 

天智天皇系
志貴皇子系白壁王 

減っていきますね。
この時期皇位を継げる男子王族の数が激減します。
女性天皇であるため、皇位争いが激化したのでしょう。


孝謙上皇は淳仁天皇を廃位した後、こんどは皇太子を定めないという詔を出します。

然今間此太子定不賜在故(中略)天不授所得在人、受全坐物不在、後壊(中略)人授依不得。力以競物不在。猶天由流授人在念定不賜(中略)今間念見定天授賜所漸漸現念定不賜勅御命、諸聞食勅

なんかもっともらしい事を言っているような・・・ようは相応しい者を選んでもその地位に甘んじ、相応しくなくなる。天が定めた相応しい者がいないので皇太子を定めない。私が独占するために立てないのではない。時がくれば天により選ばれた相応しい者があらわれるだろうだそうです。淳仁天皇でうんざりしたという事でしょうか?

重ねて、諸王、臣下に
(中略)復勅。人人己比岐比岐此人立我功成念君位謀、窃心通人伊佐奈須須莫。己不成事謀先祖門滅継絶。自今以後明貞心以可仁可久念事奈教賜奉侍勅御命、諸聞食勅

自分の栄耀栄華を極める為に皇位を揺るがす反逆行為は祖先から築いた地位と名成を滅ぼすのでしてはいけないと戒めています。

まあ淳仁天皇と押勝への戒めですね。自身への反省課題でしょうね。
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さらに叙位と官任を行い遂に孝謙上皇、再即位後年称徳天皇と称されます。

天平神護元年春正月癸巳朔。御南宮前殿受朝

孝謙上皇以来称徳天皇は初めての僧天皇、しかも前回の即位以降父聖武天皇、光明皇太后に後見をうけながら統治していました。
それが全て取り除かれ、誰も助言を行えない状態が出来たのはこれ以降、称徳天皇独断政治が思いもしない方法へと誘導されていきます。

改元の後叙位

正四位上文室真人大市
従四位下藤原朝臣魚名正四位下
従三位和気王。山村王

正三位藤原朝臣永手。藤原朝臣真楯
従三位吉備朝臣真備。藤原朝臣蔵下麻呂

正五位上吉備朝臣由利

癸亥。授従四位下弓削御浄朝臣浄人従四位上 癸未 上総守
丁己。従五位下弓削宿禰薩摩 下野員外介 ←後にでてきます。

765年乙亥。勅淡路国守従五位下佐伯宿禰助。風聞。配流彼国罪人。稍致逃亡。事如有実。何以不奏。汝簡朕心。往監於彼。事之動静。必須早奏。又聞。諸人等詐称商人。多向彼部。国司不察。遂以成群。自今以後。一切禁断

淳仁廃帝が逃亡を企てようとするがばれて監禁されます。

764年3月王臣之中、執心貞浄者。私家之内、不可貯兵器

王族、臣下の武器の所有を禁止する詔を出します。
やはり皇太子を置かない影響してか、にわかに皇位問題があがっていたのでしょう。

又も称徳天皇は詔を宣言

天下政、君勅在、己心比岐比岐、太子立念功欲物不在。然此位、天地置賜授賜位在。故是以、天地明奇授賜人出在。猶今間、明浄心以、人伊佐奈、人止毛奈於乃於乃貞能浄心以奉仕詔己止、諸聞食詔。復有人、淡路侍坐人率来、佐良帝立天下治念在人在念。然其人、天地宇倍奈由流授賜人不在。何以知、志愚、心不善天下治不足。然不在。逆悪仲末呂同心朝廷動傾謀在人在。此人復念。自今以後如此念謀止詔大命聞食宣。

天の意思がまだ皇太子を示していないのだから自ら皇太子を立てたり廃帝を再度皇位につける謀り事をしてはならないと戒めています。

その後すぐに田を与えています。
ん~~~なんにもしてはだめよと言う事か?もしくは恩賞か?

辛丑。賜従三位和気王功田五十町。従四位上大津宿禰大浦十五町

甲辰 吉備国藤野郡の人正六位下藤野別真人広虫女・右兵衛少将従六位上藤野別真人清麻呂 姓吉備藤野和気真人   賜

しかし結局和気王は皇位を狙ったという理由で逮捕されます。

同年八月庚申朔。従三位和気王坐謀反乃誅
今和気勅。先奈良麻呂等謀反事起在時、仲麻呂忠臣侍。然後逆心以朝庭動傾兵備時、和気申在。此依官位昇賜治賜。可久仲麻呂和気後猶逆心以在。復己先霊祈願書見云在、己心念求事成給、尊霊子孫遠流在京都召上臣成云。復、己怨男女二人在。此殺賜云在是書見謀反心方明見。是以法治賜宣。」和気者。一品舍人親王之孫。正三位御原王之子也。勝宝七歳、賜姓岡真人。任因幡掾。宝字三年。追尊舍人親王。曰崇道尽敬皇帝。至是。復属籍、授従四位下。八年、至参議従三位兵部卿。于時、皇統無嗣。未有其人。而紀朝臣益女以巫鬼著。得幸和気。心挟窺〓。厚賂幣物参議従四位下近衛員外中将兼勅旨員外大輔式部大輔因幡守粟田朝臣道麻呂。兵部大輔兼美作守従四位上大津宿禰大浦。式部員外少輔従五位下石川朝臣永年等。与和気善。数飲其宅。道麻呂、時与和気密語。而道麻呂佩刀、触門屏折。和気、即遺以装刀。於是。人等心疑。頗泄其事。和気知之。其夜逃竄。索獲於率河社中。流伊豆国。到于山背国相楽郡。絞之埋于狛野。又絞益女於綴喜郡松井村

なんかお酒で嵌められたっぽいですね。和気王は流刑の途中で絞殺、同じく益女も絞殺されています。
他の者は左遷ですんですが、道麻呂夫婦は左遷先で死亡、大津大浦は日向守に、石川朝臣永年は左遷先で自殺。
悲惨です。
事が称徳天皇と道鏡の事です。二人とも今回は流刑だけではすまなかったようです。
これははめられた感はあるものの和気王の逆襲ですね。自責の念というべきか、度々淡路を脱走している事が心理上の変化を起こしたと思われます。

9月正四位下石川朝臣豊成従三位にした後。
行宮を大和、河内、和泉国に造宮させ、従二位藤原朝臣永手、正三位吉備真備を御装束司長官に任ずる

10月庚辰。淡路公、不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿禰助。掾高屋連並木等、率兵邀之。公還明日、薨於院中

またも脱走を試みた廃帝が捕まりどうやら二人に殺された様な・・・廃帝淡路で没す。
本当に淳仁天皇は不幸続き、しかし道鏡が現れなくても結果は同じかも。


この頃称徳天皇は行幸をたて続きに行います。
紀伊国、大和小治田宮、大原、長岡を行幸し一度平城京に帰るも草壁皇子陵、鎌垣行宮、岸村行宮、深日行宮、
新治行宮、丹比行宮、弓削行宮。

弓削行宮に行幸した後すぐに弓削寺に恩賞がありました。
閏十月己丑朔。捨弓削寺食封二百戸。智識寺五十戸。

実は弓削は道鏡の生誕地彼の俗世名は「弓削氏」でした。
この行幸は聖武天皇の奈良麻呂の乱後の遷都への行幸に似ています。
称徳天皇のこの行幸中に皇位相続の一つの目的がきめられた様に思うのです。


庚寅。詔曰今勅。太政官大臣奉仕人侍坐時、必其官授賜物在。是以、朕師大臣禅師朕守助賜見、内外二種人等置理慈哀過無奉仕念可多良能利言聞、是太政太臣官授敢念。故是以、太政大臣禅師位授勅御命、諸聞食宣。復勅、是位授申必不敢伊奈宣念、不申是太政大臣禅師御位授勅御命、諸聞食宣。」詔文武百官、令拝賀太政大臣禅師。事畢、幸弓削寺礼仏。奏唐・高麗楽。及黒山・企師部舞。施太政大臣禅師綿一千屯。僧綱及百官番上已上。至直丁・担夫、各有差。内竪・衛府特賜新銭。亦有差。

遂に道鏡を太政大臣禅師にしちゃった!
しかも道鏡には内緒で!これって道鏡自身には政界の野心なしとも取れます。いわゆる称徳天皇の即断。
そして河内和泉国の税免除、道鏡の評判を揚げる???

癸酉。先是。廃帝、既遷淡路。天皇重臨万機。於是。更行大嘗之事
今勅。今日大新嘗猶良比豊明聞行日在
朕依上方三宝供奉。次天社国社神等為夜、次奉親王臣百官人等、天下人民諸愍賜慈賜念還復天下賜仏御弟子菩薩戒受賜在
神等三宝離不触物人念在。然経見、仏御法護尊諸神伊末。故是以、出家人白衣相雑供奉豈障事不在念、本忌如不忌、此大嘗聞行宣御命、諸聞食宣。

かなり矛盾したいいわけに聞こえます。
仏に仕える身で神祇を行う、すごく矛盾しています。が、称徳天皇はこの矛盾に当然の様に思っていたのかもしれません。
天に与えられて仏に与えられる二重の保護の様に考えたのかもしれません。

そして11月新嘗祭を法天皇が太政大臣禅師道鏡の臨席する中強行します。

新嘗祭って神事です。
それを異神仏教の僧が行い、僧が臨席する。
異常です。
しかしこれを実行出来た事が神(天皇家)と仏(仏教)の平行統治が実現出来るという確信が出来てしまったのではないでしょうか?
それが不幸の始まり。


その11月甲申。右大臣従一位藤原朝臣豊成薨
藤原家長が死去します。

朝廷の新体制強化の叙位

766年二年春正月甲子
以大納言従二位藤原朝臣永手為右大臣。
中納言正三位諱。藤原朝臣真楯並為大納言。
参議正三位吉備朝臣真備為中納言。
右大弁従四位上石上朝臣宅嗣為参議。

癸酉。幸右大臣第、授正二位
永手を正二位にします。

押勝の乱の功勲者に田を与える。
賜従三位山村王功田五十町
正五位上淡海真人三船廿町

3月に大納言藤原真盾が亡くなり、中納言正三位吉備朝臣真備が大納言に昇進します。

4月丙申。奉八幡比〓[口+羊]神封六百戸。以神願也



甲寅。有一男子。自称聖武皇帝之皇子。石上朝臣志斐氏之所生也。勘問、果是誣罔。詔、配遠流

聖武天皇の子を名のる男子が現れて流刑にされます。
称徳天皇の地位がいかに流動的なものか如実に現れた出来事です。

右大弁兼越前守従四位下藤原朝臣継縄並為参議


甲申。授無位大神朝臣田麻呂外従五位下。為豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮禰宜大神朝臣毛理売時。授以五位。任神宮司。及毛理売詐覚。倶遷日向。至是復本位


10月の叙位
辛丑。授正四位下藤原朝臣縄麻呂正四位上
   正六位上弓削御浄朝臣塩麻呂従五位下

甲申。授無位大神朝臣田麻呂外従五位下。為豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮禰宜大神朝臣毛理売時。授以五位。任神宮司。及毛理売詐覚。倶遷日向。至是復本位

数日後の壬寅。奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺

法華寺の隅にある寺の毘沙門像から舍利が現れたと報告を受けると称徳天皇はこれを吉兆と喜び、何故か
太政大臣朕大師法王授勅天皇御命、諸聞食宣
円興禅師法臣位授←大納言の給料相当
基真禅師法参議大律師冠正四位上授←参議同等

これは完全にやらせです。
後に嘘がばれて報告した者は処罰されますが、道鏡の法王就任は取り消されません。

しかし舎利が出てきたら道鏡の「法王」叙位や僧の叙位にになるのでしょうか?
この狂気は序章にしかありません。王とは「僧の王」つまり王族と等しい事です。それは皇位に近ずいたともいえます。
称徳天皇が何をもって王にしたのか?
この舎利でっちあげ事件の頃から法王決定くらいから称徳天皇は道鏡の欲が異様に大きくなるのに危機感を持ち始めてた。だからこそでっちあげ事件を公にした。けれど認めるほど称徳天皇に一人で政治を行う意欲はなかったのではないでしょうか?

(精神的)に愛する男の希望をむげにはできない。できないほど称徳天皇は強くはなかった。
道鏡は就任に対して辞退していません。権力欲が出てきた祥子ですね。

甲申。右大臣従一位藤原朝臣豊成薨

更に朝廷の人事も新たにします。
右大臣藤原朝臣左大臣位授賜
吉備朝臣右大臣之位授賜
従三位弓削御浄朝臣浄人正三位。為中納言
正四位下道嶋宿禰嶋足正四位上


11月にも叙位
正四位上藤原朝臣宿奈麻呂
正四位下藤原朝臣魚名並授従三位


称徳天皇の政治は法と政治の共同統治を目的にしています。
自分と道鏡が表(朝廷)と裏(仏教)が統治し、それをそれぞれの太政官と僧が運営管理する。
それがこの当時の理想としていたと考えていいでしょう。
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12月癸巳。幸西大寺
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境内の躑躅とこでまり
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西大寺は押勝の乱の平定を願って発願され、天平神護元年に造営が始まり四天王像を安置するための寺院です。
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現在は創建当時の建物はなく、小さな寺院、礎石が残る天平の残照な様な寺ですが、創建当時は東の東大寺におとらない大寺院でした。
称徳天皇崩御後、火災などで規模が小さくなり、山城国へ遷都してからは更に衰退が進み現在は再建された本堂と当時の繁栄を物語る五重塔の跡が残るのみです。

その寺への行幸はさぞは華やかでしたでしょう。今は面影もありません。

正五位下藤原朝臣雄田麻呂為兼右兵衛督
この人物藤原百川です。

その後767年寺への行幸は東大寺、山階寺、東院、元興寺、西大寺法院、大安寺、薬師寺と続きます。

正五位上淡海真人三船為兵部大輔

この任官から3カ月後何故か

癸未。勅。東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍従勲三等淡海真人三船禀性聡恵、兼明文史。応選標挙。銜命巡察。諸使向道之時、受事雖一。省風還報之日。政路漸異。存心名達。検括酷苛。以下野国国司等、正税未納并雑官物中有犯。然独禁前介外従五位下弓削宿禰薩摩。不預釐務。亦赦後断罪。此陳巧弁。其理不安。既乖公平。宜解見任用懲将来。又比年法吏。但守文句。不顧義理。任意決断。由是。薩摩訴状不得披心。清白吏道。豈合如此。自今以後。不得更然。若有此類。随法科罪。

押勝の功労者を処罰ししゃいました。
これは薩摩が道鏡の同族で不正を行ったのを淡海真人三船が罰した事に対し、他の者も不正をしているのに薩摩のみ罰したのは不公平だという事による解任です。???

「ほらほらあなたの味方はどんなに忠誠を尽くす臣下でも処罰しますよ」と言う悲しい女の性が見えます。

任官を行った後、法王宮職を設置します。

辛亥。従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂為豊前介
この人重要人物です。

乙丑。始造八幡比売神宮寺。其夫者便役神寺封戸。限四年令畢功

叙位で道鏡の弟されに出世します。
以正三位弓削御浄朝臣浄人為卿

吉備真備の親族由利
命婦正四位下吉備由利正四位上

768年叙位
癸巳。以正三位弓削御浄朝臣清人為大納言
従三位中臣朝臣清麻呂為中納言
   大蔵卿従三位藤原朝臣魚名為参議
   従五位下弓削御浄朝臣塩麻呂為左兵衛督

甲午。授無位弓削御浄朝臣浄方従五位下

9月にはさらに由利が従三位授く

叙位10月従四位下尼法均

11月の叙位には
大納言衛門督正三位弓削御浄朝臣清人為兼大宰帥
ここ大事です。大宰帥とは九州大宰府の長官
従三位石川朝臣豊成為宮内卿
兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂為兼造法華寺長官
藤原雄田麻呂中務大輔

己亥。是日。以正三位弓削御浄朝臣清人為検校兵庫将軍。従四位下藤原朝臣雄田麻呂為副将軍



壬辰。設新嘗豊楽於西宮前殿。賜五位已上禄各有差
秋に行われる新嘗蔡です。

十二月甲辰。先是山階寺僧基真。心性無常。好学左道。詐呪縛其童子。教説人之陰事。至乃作毘沙門天像。密置数粒珠子於其前。称為現仏舍利。道鏡仍欲眩耀時人。以為己瑞。乃諷天皇。赦天下。賜人爵。基真賜姓物部浄志朝臣。拝法参議。随身兵八人。基真所作怒者。雖卿大夫。不顧皇法。道路畏之。避如逃虎。至是。凌突其師主法臣円興。擯飛騨国。

12月に山階寺の僧基真が左道を好んで師匠を惑わしたとして飛騨国に追放されます。
僧の権力争い激化


769年の新年
壬申。法王道鏡居西宮前殿。大臣已下賀拝。道鏡自告寿詞
丙子。御法王宮。宴於五位已上。道鏡、与五位已上摺衣人一領。蝦夷緋袍人一領。賜左右大臣綿各一千屯。大納言已下亦各有差

道鏡の祝宴って内心複雑だったでしょうね。左大臣以下の公卿達は・・・。

二月壬寅。幸左大臣第、授従一位

永手邸に天皇が行幸した際の叙位です。
称徳天皇は藤原の人事も優遇しています。まあ吉備と道鏡弓削氏だけでは政治は出来ないです。それほど藤原氏は政界で大きな役割を担っていたという事でしょう。
自身も藤原氏の血を引いているのですから。

癸亥。幸右大臣第。授正二位
ついで吉備真備邸に行幸しています。左右の大臣をねぎらっての事でしょうか?


5月またしても事件が発覚します。
壬辰。詔曰。不破内親王者。先朝有勅。削親王名。而積悪不止。重為不敬。論其所犯。罪合八虐。但縁有所思。特宥其罪。仍賜厨真人厨女姓名。莫令在京中。又氷上志計志麻呂者。棄其父塩焼之日。倶応相従。而依母不坐。今亦其母悪行弥彰。是以、処遠流。配土左国。

押勝の乱で死亡した塩焼王の正室で聖武天皇皇女不破内親王が息子の即位を策略し県犬養姉女、忍坂女王、石田女王と謀って称徳天皇を呪ったというのです。彼女は内親王の位を取り消され、平城京外へ移住。息子は土佐国へ流刑となります。
これは称徳天皇の策略のような・・・後年この密告は嘘だったと冤罪されていますから。
彼女は聖武天皇内親王ながら、追いやられた不運な皇女です。
丙申。県犬養姉女等坐巫蠱配流

事件が一段落すると王族や臣下に忠誠を誓わすように詔を出しています。

現神大八洲国所知倭根子挂畏天皇大命、親王・王・臣・百官人等、天下公民、衆聞食宣。犬部姉女内奴為冠位挙給根可婆禰改治給。然物反逆心抱蔵己為首忍坂女王・石田女王等率、挂畏先朝依過棄給厨真人厨女許窃往乍岐多奈悪奴結謀。傾奉朝庭、乱国家、岐良比給氷上塩焼児志計志麻呂天日嗣為謀挂畏天皇大御髪盗給、岐多奈佐保川髑髏入大宮内持参入来、厭魅為三度。然盧舍那如来、最勝王経、観世音菩薩、護法善神梵王・帝釈・四大天王不可思議威神力、挂畏開闢已来御宇天皇御霊、天地神護助奉力依、其等穢謀為厭魅事皆悉発覚。是以、検法皆当死刑罪。由此、理法岐良給在。然慈賜為一等降、其等根可婆禰替遠流罪治賜宣天皇大命、衆聞食宣。

しかし天皇は出家しているのですからその髪を盗むって事が出来たんでしょうか?まず下した髪は内裏に保管されていたのでしょうか?
じゃあ誰が盗んだというのでしょうか?
本当に???話です。呪術がらみはほとんどでっち上げの場合が多いので、これはでっちあげの事件とみていいでしょう。
では誰が?道鏡がからんでいる!そう推理します。何故?不破内親王は皇位の可能性がないわけではない。彼女にさらに王族の夫をつければいいのですから。

その後すぐに和気清麻呂に宿禰姓を授与しています。藤野→輔治能真人

和気清麻呂(尼法均の弟)輔治能真人政を与える。
これは政治を治める聖人という風な意味合いの姓、地方豪族が与えられるのは極めて異例。

769年
秋七月乙亥。賜厨真人厨女封〓二戸。田十町。」始用法王宮職印
道鏡管轄の法王宮が不破内親王の生活費の為の田を与えたんです。
これ超でっちあげの証しではないでしょうか・道鏡は嘘であるのを知っていたいやそう画策した。。なので罪悪感から費用を捻出した!

ここに不破内親王の呪いと和気清麻呂の待遇そしてその不破に道鏡の印

そして


乙丑 吉前国藤野郡改和気郡
わざわざ和気姓を清麻呂の出身地につける。


769年9月称徳天皇統治で最大の事件が勃発
それは天皇の逆鱗の詔から当然始まります。

己丑。詔曰。天皇御命詔。夫臣下云物君随浄貞明心以君助護、対無礼面無後謗言無、姦偽〓曲心無奉侍物在。然物、従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂、其姉法均甚大悪姦妄語作朕対法均物奏。此見面色形口云言猶明己作云言大神御命借言所知。問求、朕所念在如、大神御命不在聞行定。故是以、法退給詔御命、衆諸聞食宣。復詔、此事人奏在不在。唯言其理不在逆云。面無礼、己事納用念在。是天地逆云此増無。然此諸聖等・天神・地祇現給悟給在。誰敢朕奏給。猶人不奏在、心中悪垢濁在人必天地現示給物。是以、人人己心明清貞謹奉侍詔御命、衆諸聞食宣。復此事知清麻呂等相謀人在所知在、君慈以天下政行給物伊麻慈愍給免給。然行事重在人法収給物。如是状悟先清麻呂等同心一二事相謀人等心改明貞在心以奉侍詔御命、衆諸聞食宣復清麻呂等奉侍奴所念姓賜治給。今穢奴退給依、他賜姓取弖部成給、其名穢麻呂給法均名広虫売還給詔御命、衆諸聞食宣。復明基広虫売身二在、心一在所知、其名取給同退給詔御命、衆諸聞食宣。」

なんの事???称徳天皇が激昂して憤慨している様子の詔ですが、全然理論的でない。
なんだかか我儘お嬢様がへんな罰を与えていう印象のこの命令。
へんな名前に変えて平城京から追放
どうしてこんな事になったのか?
これこそ歴史に残る宇佐八幡神宣事件です。


経緯説明は下記の通り

始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負


大宰主神習宜阿曾麻呂が道鏡にこびるため、宇佐八幡の神が道鏡を皇位に就けば天下太平になると言い出し、これを聞いた道鏡が喜んで「自分は天皇に相応しと思いあがった事が発端でした。



天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発

天皇はこれを聞き、和気清麻呂を呼んで「ある晩に宇佐八幡の神が夢に出て伝えたい事があるので使いをよこすよう」にと言われた。
姉の尼法均に頼みたいが長い旅になるので弟の清麻呂を使者にたのみました。

道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。

その後、道鏡は清麻呂に「このお告げは自分の即位の事にちがいないので、良い返事を持って帰れば官位を与える。」と買収行為にでます

清麻呂行詣神宮。

大神詫宣曰。
我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。
清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

清麻呂は宇佐神宮へ行き神託を受けて帰京し、宇佐八幡「我国は国が始まった時より、天皇と臣下は決まっている。天皇は必ず皇族の者を継がせよ。道にない者は排除せよ。」というものでした。
ようは道鏡を天皇にしてはいけない上に朝廷から退けよと言ったというのです。

清麻呂が持ち戻った神託ですが、その神託を受けようとした際に神は何故か数度も拒みます。
これを清麻呂が怪しんで再三神託を願い出て巫女が呼びだすと神が現れて清麻呂に上記の神託をつたえたというのです。
これは宇佐八幡内部に道鏡に媚びて利益を貪るとするグループとそうではないグループの内紛が見てとれます。
巫女に神が乗り移るなんて現在では???宇佐八幡の道鏡派と反道鏡派(天皇の皇統を守る)が神託に影響していると考えるのが妥当です。

それが称徳天皇の激昂の詔となったのです。

では真相は?
①称徳天皇は道鏡を皇位に就ける首謀説
限りなく白に近いグレー

もし本当に天皇に就ける覚悟があるなら
皇族全てを排除したはず(白壁王は存命・他二、三世もわずかに存命)
神託も伊勢神宮であるべき。
一度宇佐八幡の出た神託に更に確認の上に神託の再確認させる行為もないはず。

しかし道鏡の皇位略奪の意欲は感じていた。しかし皇位を渡すつもりはない。しかし道鏡に去られる又処罰も出来ない。
称徳天皇は道鏡の野望を認識し、脅威を感じていた。しかしそれを信じたくないという気持ちもある。
苦肉の策が道鏡にほどほどの権力を与えながら、片方で忠臣和気清麻呂を優遇しながらいざという時に切り札にしようとしていた。
任官や叙位は天皇、上皇のみに許される特権、これは道鏡が清麻呂を買収しようとした際、重要な官位を与えると言った事でもわかります。

清麻呂に道鏡の野心を阻んだまではよかったけれど、道鏡を追放させるまでは思っていなかったからこそ、清麻呂と反道鏡派へに怒り大だった。
みがってこのうえないですね。しかし空気を道鏡に与えたという意味でも彼女の罪は重い。

②道鏡首謀説
ほぼ黒
まず宇佐八幡の神託までは半信半疑だった。
ひょっとしてと思い始めたのは法王と定められた頃から、この神託で出来るかもと思い清麻呂買収にでた。
という事では限りなく黒
しかし称徳天皇崩御後、処刑されなかた事も考えると首謀者まではいかない。

③大宰府の弓削浄三と大宰主神習宜阿曾麻呂と宇佐八幡の一部首謀説

実行犯。
但し、証拠を残さない様に自ら実行犯とはわからない様に行った。
これも光仁天皇即位後、処刑されず左遷に留めたのが証明しています。
大宰府と言えば道鏡の弟弓削浄人が太宰帥として掌握している場所です。

この宇佐八幡は豊前国(大分)にあり、そう中臣習宜阿曾麻呂が以前守として就任していた地方です。
豊国国一宮で創建については諸説あり、始めがはっきりしない式内社です。
祀神は八幡大神(応神天皇)
   比売神←でも神殿の中央には姫神が?
   神功皇后
朝廷との結びつきは奈良時代から強く、広嗣の乱で大野東人が必勝祈願をし、又東大寺建立の際に神託がおりた神でもあります。
拝礼方法も二礼、四拍手、一礼と出雲大社と同じで大社ですが謎の多い神社です。

④藤原氏やらせ説

そんな恐ろしい賭けあの巧妙な策史がするばずはありません。
一度目で称徳天皇が譲位すると宣言してしまえば終わりです。

どうやら、まさに道鏡の勢力に乗っかって出世しようとした者に道鏡一派がのっかったのいう場当たり的な事件だったのではないのでしょうか?

称徳天皇の激昂は道鏡の怒りを和らげる為に行い、又道鏡を朝廷から追い出すという行為を神託ではなく、それを利用して道鏡を追い出す臣下に激昂しているのです。

そこまで道鏡を頼りにしていた彼女すごく孤独な感じしますね。

そしてこの事件を終結させます。
《神護景雲三年(七六九)十月乙未朔》○冬十月乙未朔。詔曰。

夫君位願求以得事甚難云言皆知在、先人謀乎遅奈、我能都与謀必得念種種願祷、猶諸聖・天神・地祇御霊不免給不授給物在、自然人申顕、己口以云、変身滅災蒙終罪己人同致。因茲天地恨君臣怨。猶心改直浄在、天地憎君捨不給福蒙身安。生官位賜昌、死善名遠世流伝。是故先賢人云在。体灰共地埋、名煙共天昇云。又云。過知必改。能得莫忘。然物口我浄云心穢天不覆地不載所成。此持称致、捨謗招。猶朕尊拝読誦奉最勝王経王法正論品命。若造善悪業、今於現在中、諸天共護持、示其善悪報。国人造悪業。王者不禁制。此非順正理。治擯当如法命在。是以汝等教導。今世世間栄福蒙忠浄名顕。後世人天勝楽受終仏成所念諸是事教給詔御命、衆諸聞食宣。復詔。此賜帯多麻波、汝等心等等能直朕教事不違束治表此帯賜詔御命、衆諸聞食宣。」其帯。皆以紫綾為之。長各八尺。其二端。以金泥書恕字。賜五位已上。其以才伎并貢献叙者。不在賜限。但藤原氏者。雖未成人。皆賜之。

称徳天皇は皇位を願う者に対して戒めを解いています。
さらに臣下にその忠誠心を確認させるため、布を結ぶ帯を下賜します。
しかも藤原氏には老いも若きも全員に、これは道鏡失脚影の首謀者は藤原氏にあると考えての事でしょう。

この詔は同時に皇位を願った道鏡の野心を打ち砕くものでした。称徳天皇は道鏡の機嫌を取るかの様に行幸を重ねます。

「ごめんね。天皇の位は渡せないけど、あんたの事はすっごく大事」という意思の表れ。

己酉。車駕幸飽浪宮

そして弓削氏の拠点河内に

辛亥。進幸由義宮

癸丑。以従四位下藤原朝臣雄田麻呂為河内守。左中弁・右兵衛督・内匠頭並如故
この人藤原百川、道鏡の拠点の守に就けたという事は称徳天皇は百川を道鏡肯定派と見ていたと考えられます。
ものすごい策師なんですがね。

甲子。詔以由義宮為西京。河内国為河内職。賜高年七十已上者物。免当国今年調。大県。若江二郡田租。安宿。志紀二郡田租之半。又当国犯死罪已下

由義宮を西京に決め、河内国から職へ格上げ河内国人へほどこしもします。すごい優遇です。

更に関係者を叙位

仍賜弓削御浄朝臣清人等。并供事国郡司・軍毅爵一級。
授正三位弓削御浄朝臣清人従二位。
従四位下藤原朝臣雄田麻呂従四位上。
従五位上弓削御浄朝臣広方。葛井連道依並正五位下。
弓削御浄朝臣秋麻呂。
弓削御浄朝臣塩麻呂並従五位上。
無位弓削御浄朝臣広津従五位下。
従五位上弓削御浄朝臣美努久売。

従四位上藤原朝臣雄田麻呂為河内大夫。

弓削氏総叙位です。無位の者まで・・・・


770年
二月丙辰
破却西大寺東塔心礎。其石大方一丈余。厚九尺。東大寺以東。飯盛山之石也。初以数千人引之。日去数歩。時復或鳴。於是。益人夫。九日乃至。即加削刻築基已畢。時巫覡之徒。動以石崇為言。於是。積柴焼之。灌以卅余斛酒。片片破却。棄於道路。後月余日。天皇不〓。卜之、破石為崇。即復拾置浄地

西大寺の東塔の心礎の石が祟っ天皇が病気になるという記述ですが、すでに称徳天皇の病いが出てきました。突然の発病ではなかったんです。

それでも行幸をやめません。

庚申。車駕行幸由義宮

辛卯。葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。をとめらに をとこたちそひ ふみならす にしのみやこは よろづよのみや其歌垣歌曰布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。ふちもせも きよくさやけし はかたがは ちとせをまちて すめるかはかも毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。時詔五位已上。内舍人及女孺。亦列其歌垣中。歌数〓訖。河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段。綿五百屯。

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行幸の宴に様子を再現(平城京東院東宮御殿跡)庭園にて)
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由義宮で饗宴が行われ、雄田麻呂が大和舞まで披露します。
ちょっと百川よいしょしすぎでは?

丁酉。詔造由義寺塔諸司人及雑工等九十五人。随労軽重。

戊戌。車駕至自由義宮

庚子。賜弓削氏男女物有差。

癸卯。従五位上弓削宿禰牛養等九人賜姓弓削朝臣。外従五位下弓削連耳高等卅八人宿禰

弓削氏が恩恵を受け続けた後、称徳天皇の病いは悪化してしまいます。


辛丑。初天皇、自幸由義宮之後。不予経月


称徳天皇の不調は明らかになります。

すると
天皇、自幸由義宮。便覚聖躬不予。於是。即還平城。自此積百余日。不親視事。群臣曾無得謁見者。典蔵従三位吉備朝臣由利。出入臥内。伝可奏事

病気をわずらいすぐに平城京に還ります。
その後はずっと病床にあって臣下の前には現れず、また人の出入りは典蔵吉備朝臣由利だけが行い、天皇の命令を伝言していました。

すなわち道鏡も謁見出来なかったと言う事です。

称徳天皇は自分が政治を行うには道鏡がいないといけない。
けれど死が身近に感じた時、決別の意思が決まった。

ずいぶんかってな女ですよね。


その日に永手に命じ
勅左大臣。摂知近衛事。外衛事。左右兵衛事。右大臣知中衛。左右衛士事

6近衛府の兵士を左右大臣に統括させて軍事権の管理と統括を徹底させます。道鏡と他王族の不穏な動きを封じます。

乙亥○乙亥。勅曰。朕荷負重任。履薄臨深。上不能先天奉時。下不能養民如子。常有慚徳。実無栄心。撤膳菲躬。日慎一日。禁殺之令立国。宥罪之典班朝。而猶疫気損生。変異驚物。永言疚懐。不知所措。唯有仏出世遺教応感。苦是必脱。災則能除。故仰彼覚風。払斯〓霧。謹於京内諸大小寺。始自今月十七日。七日之間。屈請緇徒。転読大般若経。因此。智恵之力忽壊邪嶺。慈悲之雲永覆普天。既往幽魂。通上下以証覚。来今顕識及尊卑而同栄。宜令普告天下。断辛肉酒。各於当国諸寺奉読。国司・国師共知。検校所読経巻。并僧尼数。附使奏上。其内外文武官属。亦同此制。称朕意焉。

飢饉と天変地異により疲弊した国民の為に読経を命じます。
まあ実益はない行為ではありますが、優しさが出てきてますね。

癸未。太政官奏。奉去六月一日勅。前後逆党縁坐人等。所司量其軽重奏聞者。臣曹司且勘。天平勝宝九歳逆党橘奈良麻呂等并縁坐惣四百〓三人。数内二百六十二人。罪軽応免。具注名簿。伏聴天裁。奉勅、依奏。但名簿雖編本貫。正身不得入京。

奈良麻呂の乱の残党と罪人に免罪や軽罪、京へ帰還させたりします。

八月 癸巳。天皇崩于西宮寝殿。春秋五十三。

遂に称徳天皇平城京の西宮で53歳の生涯を閉じます。


その後は?

①皇位は?

左大臣従一位藤原朝臣永手。
右大臣従二位吉備朝臣真備。
参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂。
参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂。
参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣。
近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等。定策禁中。立諱為皇太子。」

左大臣従一位藤原朝臣永手受遺宣曰。今詔。事卒爾有依、諸臣等議。白壁王諸王中年歯長。又先帝功在故、太子定、奏奏定給勅宣。」遣使固守三関。」

これは太政官の主要メンバーで極秘会議の上次期天皇の皇太子を決定します。
しかも永手が遺言書を訓読します。
え~~~~遺言書???

本当に遺言書があれば由利が持参したという記述があってしかるべし。なぜなら天皇の言葉を伝言し続けたのは由利だけ。
何故永手、何故真備でないのか?

これこそ遺言書はなかった証拠です。
さすがに太政官で天皇を決定したのでは次期天皇の皇位に傷がつきます。

白壁王は唯一の天智天皇系志貴親王の王子、しかも正妻は聖武天皇皇女井上内親王(元伊勢斎宮)、子女に正妻腹酒人女王(内親王・伊勢斎宮)、他戸親王、高野新笠腹に能登女王、山部王、早良王がおりすでに皇統に問題ありません。
しかもこの人とても慎重で思慮深い。

仲麻呂の乱の際には功績を挙げ大納言に昇進するも皇統の粛正が始まると「酒に溺れ皇位にまったく興味のない王族」を演じ続け、皇位を手にします。

しかも人望を高める事に終始気にかけます。

②道鏡はその後どうなったか?

庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。窃挟舐粳之心。為日久矣。陵土未乾。姦謀発覚。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野国薬師寺別当発遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿禰今毛人。弾正尹従四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。」
従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂為多〓嶋守

道鏡法師奉梓宮。便留廬於陵下

光仁天皇項では772年

四月○丁巳。下野国言。造薬師寺別当道鏡死。道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禅行聞。由是入内道場列為禅師。宝字五年。従幸保良。時侍看病稍被寵幸。廃帝常以為言。与天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。宝字八年大師恵美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡為太政大臣禅師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飲食一擬供御。政之巨細莫不取決。其弟浄人。自布衣。八年中至従二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐称八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀。〓于宮車晏駕。猶以威福由己窃懐僥倖。御葬礼畢。奉守山陵。以先帝所寵。不忍致法。因為造下野国薬師寺別当。逓送之。死以庶人葬之

とあります。群馬で庶民として死去したんですね。


道鏡は称徳天皇の陵に留まっていた所を密告され捕まり、群馬の小さい薬師寺へ左遷された後失意のうちに没します。神託を悪用した阿曾麻呂も左遷させます。

ここうまいです。処刑しては称徳天皇の治世も否定してしまいます。
天武天皇系直系を否定する事は皇族で傍系の白壁王には出来ません。

壬子。是日。授従四位上坂上大忌寸苅田麻呂正四位下。以告道鏡法師姦計也

道鏡を密告した狩田麻呂を叙位します。

8月、、9月政策をどんどん道鏡前に戻します。

乙卯。河内職復為河内国。」以慈訓法師。慶俊法師復為少僧都。
乙丑。徴和気清麻呂。広中於備後・大隅。詣京師

しかも即位後年数をかけて清麻呂の叙位や任官を行ったり、不破内親王や和気王の復権をおこなったりします。

人事にもやはり慎重で新政権後、吉備真備が辞任を示唆するも右大臣としては留任させ、再度吉備が辞任を示唆するまでその忠誠心を高く評価します。

770年10月丙申。先是。去九月七日。右大臣従二位兼中衛大将勲二等吉備朝臣真備上啓。乞骸骨曰。側聞。力不任而強者則廃。心不逮而極者必〓。真備自観。信足為験

真備は高齢により右大臣辞任を表明します。
今度は天皇も認め、その後の真備の消息は不明ですが、政治に関わることなく静かに晩年を過ごしたと思われます。続日本紀に悪い記述がないのが証拠です。真備は奈良時代地方下級豪族の出身者ながら大臣にまで出世した逸材の人物です。

彼は白壁王の天皇擁立に難色を示し、臣籍降下していた文室浄三を推挙したという説があります。
この行動で否定まではなくても異論を唱えたとは考えられます。

こんなに公平な天皇でしたが、正妻井上内親王が光仁天皇の呪咀事件の際には妻を見限り子の他戸親王もろとも見殺しにするというのは最後頂けない行動でしたね。
この話しは後篇へ

吉備由利は?
称徳天皇崩御後も内裏で女官と仕えており、
774年月○壬寅。尚蔵従三位吉備朝臣由利薨
とあります。叙位官位もそのままです。真備同様天皇の忠臣だったんですね。

和気清麻呂ですが光仁天皇即位後、平城京へ戻された後時期を見て官位を戻され、美作備前国の国造りに願い出同地で善政を行います。彼が特に有名なのは平安京の遷都の造営大夫として尽力した人物という点です。桓武天皇に覚え高かったからでしょうね。
姉広虫も帰京後官位も戻り叙位もうけています。この方は孤児の養育を行い貧民にも厚く慈悲を行った人物です。


さて称徳天皇の最後は?

崩御の後、天皇崩御の後にならい、

以従三位文室真人大市。高麗朝臣福信。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。従四位下藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依。正五位下葛井連道依。石川朝臣垣守。従五位下太朝臣犬養。六位十一人。為御装束司。

従三位石川朝臣豊成。従五位上奈癸王。正四位下田中朝臣多太麻呂。従四位上佐伯宿禰今毛人。従四位下安倍朝臣毛人。従五位上安倍朝臣浄成。従五位下小野朝臣石根。六位已下八人。為作山陵司。従五位下石川朝臣豊人。外従五位下高松連笠麻呂。六位二人、為作路司。
外従五位下佐太忌寸味村。外従五位下秦忌寸真成。判官・主典各二人。宮内。大膳。大炊。造酒。筥陶。監物等司各一人。

為養役夫司。興左右京、四畿内。伊賀。近江。丹波。播磨。紀伊等国役夫六千三百人。以供山陵。

お葬式の準備と墓の建造が始まります。

丁酉。是日、自天皇崩於東西大寺誦経

称徳天皇の遺体が焼かれます。

乙巳。二七。於薬師寺誦経。
IMG_0851_20130503203512.jpg
丙午。葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵
この墓は佐紀古墳にある前方後円墳を宮内庁は指定います。
これはその時代に合った天皇陵が見あたらない苦肉の策と思います。
何故なら6300人を地方から動員したとはいえ、古墳製作しなくなって100年近く経過しています。
神祇に精通した神祇官がいたとはいえ技術がなくなった後年にあの様な巨大な古墳を造営する事が出来たのか?

はなはだ疑問です。しかも称徳天皇と古代の天皇の共通点なし、称徳天皇の目指したのは仏教国家としての日本大王時代を還る見る治世を理想とはしていませんでした。

では何故か?
佐紀には造営された陵に該当する墓がないのです。
しかも前方後円墳の造営には10年単位の造営期間は必要です。天皇の死から陵に埋葬するまで13日間絶対無理です。続日本紀には生前から陵の造営を行わせたという記述がないのも不思議です。
しかもこの古墳造営年代が大きく後退しています。

ここから2つの案が推理出来ます。

①称徳天皇の陵は実際には小さな墓で時代の変成とともに消滅した。
 明治時代の宮内省はしかたかくこの陵を指定した。
 
これは彼女の治世を早く終わらせたい。両親や一族の眠るなら山に葬るには罪を犯し過ぎたと藤原氏と光仁天皇は考えた。よって天皇の葬儀としては体裁を整えたにすぎない。

②すでにある前方後円墳の中に天皇を葬祭した。

これは平城天皇陵に指定されている前例もあるとされ考えられなくもないのですが、その人夫の数と日数を考えるとこれはあるかもしれない。

天皇は初病以前以降まで遺言というべき物は残していないと考えていい。しかも続日本紀にも生前から墳墓の造営を命じたものはない。なので巨大墳墓を準備する時間と人出はないとすると上記の案が打倒かもしれません。
病以降恩赦の命が多いにもかかわらず、そんな作業を庶民に課した(当時建築造営は一般庶民の義務でした。)とは考えにくい。


己未。四七。於大安寺設斎焉

丙寅。五七。於薬師寺設斎焉

癸酉。六七。於西大寺。設斎焉

辛巳。七七。於山階寺。設斎焉

壬午。停一年服期。天下従吉

国は1年の喪中に入り、新しい皇統の時代へと進みます。
さて最後になりましたが

①聖武天皇と光明皇后の娘として生まれながら、その影に隠れてしまっていた。
 
②藤原氏によって意図的に排除された。又当時は天皇陵といっても造営後は所在不明の墓も多くこれは平安以降も続きます。墓の重要性がとわれるのはもっと後世になります。

③この時、天皇に近い親族は0、今まで上皇、天皇、皇太子、皇后といった親族が恩赦や読経を行っていました。
 なのでそれがないのは当然。しかし理由は違いますが本人は恩赦や読経、神社に奉納もしています。
 形式上行わせています。一部臣下も個人的に寺へ寄進、読経、経を奉納しています。

なんだか哀れで孤独な日本一の名家のお嬢様~~~


追記:天平祭で行われた「天平行列」は11時から朱雀門から大極殿をゆっくり歩き、12時に大極殿に到着し、遷都の詔の宣言を再現しました。終了は13時でした。



では後篇へ




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