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舞少納言の「独断!ヨーロッパ王室最も不幸な女王OR王妃」

またまた独断でUP
ヨーロッパ王室で不幸な女王と王妃は?草子

ヨーロッパと限定しても時代や国によって選定は困難
なので今回も舞的超独断で第10位までを!!!ざっとご紹介!!!

まず何を持って不幸とするか?ですが。
まずは女王OR王妃に限定し生い立ち、結婚、母として、そして死去にいたるまでトータル的不幸で考えてみました。
時代は中世~近代までとします。

①両親との関係
②恋人・夫との関係
③母子関係
④晩年と死去
を①~④の点数制で

日本で人気の不幸な王妃として名高いマリーアントワネットですが、舞的には生い立ち及び母としていう意味で?
なので除外しました。
母はオーストリア女帝マリアテレジア父は神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世というサラブレッド
幼少期に特別問題になる環境でもなく、また母としては4人の子供達に恵まれ、タンプル塔で幽閉されていた頃が一番家族的な生活が充実していたとも・・・・・マリアテレジアよりも家庭的であったと推測しています。
なので不幸な結婚や若くして処刑された悲劇を考えても選出しませんでした。
オーストリア皇后エリザベートも同様で夫に愛されていましたし、子供たちにも愛されていました。
その他の女王・王妃も悲劇性が大きくても幸福度数が高い場合除外しました。

では

第1位

スコットランド女王
メアリー・ステュアート


スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女
誕生後6日にして父ジェームズ5世と死に別れ、幼くしてイギリス王太子エドワード6世と婚約するものの1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、母の母国フランス王室へ非難します。
1558年フランス王太子フランソワと結婚し、1年後夫が即位するのに伴いフランス王妃となります。
2年後夫と死に別れ翌年祖国へ帰国します。
帰国後ヨーロッパ各国で火種となった宗教争いに悩まされながらもなんとか国政を行います。
1565年従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚します。母がヘンリー8世の姪という関係でこれにはイギリスのたるエリザベス1世、マリ伯(メアリーの異母兄)が強硬に反対するも強行に結婚してしまいます。
以前からイギリス王位継承権をめぐり(メアリーの父ジェームズ5世の母はイングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベス・オブ・ヨークの長女・ヘンリー8世の姉・エリザベスとは従姉妹に関係)エリザベス1世といさかいが絶えない両者の関係が浮き彫りになります。
この結婚当初は円満でしたが、ヘンリーに政治関与の兆候が現れると不仲になり始め、メアリーの熱も冷めてしまいます。
さらにマリ伯の反乱が失敗するもののメアリーの政治の根底が揺るぎ始めます。
そんな頃ヘンリーの息のかかった貴族達がメアリーの妊娠時、当時愛人と噂されたリッチオを(メアリーの)目の前で殺害した事件が起こします。
メアリーは無事に息子(ジェームズ1世)を出産しますが、この事件でヘンリーへの愛が一気に冷め、1567年エディンバラでヘンリーの死体が発見される事件が起こります。
これ幸いにと当時寵臣だったボスウェル伯がメアリーにプロポーズ、その数日後ダンバー城にメアリーを連行、結婚に踏み切らせ、5月15日に結婚します。
これではヘンリー殺害は二人が企てたと噂されるのには十分のように思いますが、証拠はありません。
ただしヘンリーは他のスコットランド貴族に嫌われしかもスコットランドの王位さえも狙っていたとも・・・・。謎ですね。
この結婚でメアリーに対するスコットランド貴族達両派の信頼を失い、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こし、メアリーは反乱軍に投降、廃位させられます。
1568年5月ロッホリーヴン城で監禁されていたメアリーは、復位に向けて軍を起こすもマリ伯に鎮圧されイングランドに亡命します。
イングランド内で各地を転々としながらも、度々イングランド王位継承権者としてエリザベス廃位の陰謀に関係したと言われています。
ついにバビントン事件の裁判でメアリーが関与した証拠が提示有罪・死刑を言い渡されます。
1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは44歳で処刑されました。

さて彼女の唯一のヘンリーとの間の息子ジェームズ1世ですが、乳児の際に母と生き別れ、幼くして王位に就きスコットランドの中で反メアリーの貴族達の中で教育を受けたためか?
スコットランドのめまぐるしい貴族間の闘争で陰鬱な生活が影響してか?
母メアリーの命乞いや保護にはまったく無関心で無視を通していました。


以上の内容から

①誕生から父を亡くす不幸
②恋人・夫にも恵まれず。
③息子とも離れて暮らし見捨てられ。
④従姉妹に処刑される。


メアリー女王が第1位なのは納得いただけるかなと四苦ですね・・・・・。

肖像画を見る限り確かに綺麗美人です・・・・美人薄明・・・・・・・。


第2位

イギリス王妃
イザベラ オブ フランス

フランス王フィリップⅣ世とナバラ王国女王フアナ1世の第四子で長女、3人の兄はすべてフランス王に即位した生粋のブルーブラッドの王女さま
大変な美人でヨーロッパ宮廷で「佳人イザベラ」と呼ばれるほどでした。
当時の政略結婚で4歳にしてイギリス王家のエドワード王太子(後のエドワード2世)と婚約します。
イギリス王となったエドワード2世と13歳に結婚しイギリスに渡ります。
イギリス宮廷では王の寵臣(普通の寵臣ではなく男色の愛人)ピアーズ・ギャヴィストンと対立した事で、王との関係も悪化、しかしイザベラは反ギャヴィストンの貴族達を味方につけ、最終的に反ギャヴィストン派の貴族に殺害されます。

さらに息子エドワードを得てイザベルの時代が来たかと思うもそうはいきません。
スコットランド戦の大敗と宮廷派諸候派の主導権争いにイギリスは揺れ、王はその勢力の一端をになっていたイザベルをロンドン塔へ監禁してしまいます。
この監禁が思わぬ結果を生みます。
当時ロンドン塔では他の貴族も投獄されていてその中にロジャー・モーティマーという貴族がいました。
彼と親しくなったイザベラは王に懇願し断頭刑を終身刑に減刑させ、さらにフランスへ脱獄まで手助けしました。
この頃宮廷で王はディスペンサー父子を寵臣として台頭しまた同じように反ディスペンサー派を生むことになりました。
そんな1322年イザベラの兄シャルル4世が即位、イギリスは臣従の礼をとるため、王太子エドワードと王妃をフランスへ渡航させます。
さてイザベルはこのフランス宮廷への里帰りは思わぬ醜聞を暴くことになります。
当時シャルル4世王妃のブランシュ・ド・ブルゴーニュ、フィリップ5世王妃ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュ、ルイ10世王妃マルグリット・ド・ブルゴーニュが宮廷を抜け出すのを不審に思ったイザベラが監視「ネールの塔」で夫の不在時に学生や騎士たちを連れ込み、浮気をしていたんです。露見するとフィリップ5世王妃ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュのみが無罪となり宮廷に戻るも二人は幽閉されてしまいます。
イザベラって怖い~~~~~チクリ魔の典型・・・・・・・・・・・。

さて話戻し
このフランス渡航がエドワード2世の命とりになってしまいました。

王妃はさきに亡命していたモーティマーや諸侯達と王権の転覆策を練り、エノー伯の援軍をとりつけ、1326年9月24日イギリスサーフォークへ上陸、1か月で国内を制圧してしまいます。
国王と宮廷派の主要人物は逮捕後に監禁、処刑が行われます。
王妃は王が監禁されているだけではあきたらず、看守に密命を与えバークレイ城で暗殺させてしまいます。
息子が即位したとはいえ、王位経験者ですし、その後復位のクーデターも数回あったので当時のイギリスでの政治不安から行なったのでしょう。

1327年エドワード2世から「譲位書」を得たエドワードが即位します。
すると王妃とその愛人モーティマーが権力を握り、やはり同じように反王妃・モーティマー派を形成させてしまいます。
王も良く思わず、親政を開始するとすぐにモーティマーを逮捕処刑、王妃をライジング城へ幽閉します。
28年に及ぶ幽閉の間、モーティマーの処刑を思い出しては時折精神異常に陥ったといわれています。
1358年死去、遺言でモーティマーの眠るグレイ・フライアーズ僧院へ埋葬されました。

①恋人・夫に恵まれず
②イギリス貴族達には王妃としても嫌われ
③息子にも嫌われ
④最後も息子の命で監禁 悲惨


かろうじて愛人と同じ僧院に埋葬されたのですからメアリーよりはまぁましかなぁ?




第3位

スペイン王妃
マリー・ルイーズ・ドルレアン

ルイーズの伯母にあたります。
オルレアン公(ルイ14世の実弟)ととヘンリエッタ・アン・ステュアート(イギリスチャールズ1世とフランス王女妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス王妃の子)の長女として誕生します。
この両親は政略結婚、しかも夫のオルレアン公は女装家の男色家で賭博、酒好きの道楽者で、ルイ14世も頭をかかえるほどの問題児でした。
当然夫婦仲は悪く、それでも王統を確保すべく子作りは行います。
満たされないヘンリエッタはその苦悩からなんと義兄ルイと愛人関係になるほど。
11歳の時にスペインハプスブルグ家のカルロス2世と結婚し、それなりにスペイン王室に受け入れられます。
しかしカルロスは誕生から身体と精神、知能、男性機能に障害があり、王妃になっても不幸な結婚の為に憂鬱症に苦しみ、病的なまでに肥満し26歳で急死してしまいます。

①両親は不仲
②不幸な結婚
③子供にも恵まれず姑からは憎まれ
④病気と急死


第4位

デンマーク王妃
イサベル・デ・アウストリア

ブルゴーニュ公フィリップ4世(父神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世・母ブルゴーニュ女公)とカスティーリャ女王フアナ(父アラゴン王フェルナンド2世母イザベル1世)の間の次女いわゆるロイヤル中のロイヤルファミリーの一人
母が精神疾患で子育てが出来なかったため伯母のマルグリットがネーデルナンドで養育されました。
14歳でデンマーク王のクリスチャン2世に嫁ぎデンマークへ渡ると、夫には平民のオランダ人の愛人に夢中、政務もその一族を重用するようになったいく。王妃は王から無視され冷遇を受け、子をなす為にだけの関係でした。
マクシミリアン1世がこの現状を非難するとクリスチャン2世は激昂、イザベルの女官長を解任し愛人の母にしてしまってイザベルの子ども達の養育も彼女の一族の手にゆだねてしまうほどでした。
そんな中愛人が急死するとクリスチャン2世の残忍さが顕著になり貴族達が一日で600人処刑する事態となり、ついに貴族達の反乱で破れ王位を廃され、フレゼリク1世が新王に即位します。
さて廃位されたクリスチャンとイサベルたちはネーデルラントに亡命まずガンで、そののち小さな町リエで静かに過ごしました。
が、夫はまだ復位に望みを残しノルーウェ王を宣言後フレゼリク1世にとらえられ幽閉し死去します。

さてフレゼリク1世はイサベルにはデンマークに戻るように勧めますが、彼女は夫の許に残り、ニュルンベルクの帝国議会でデンマーク王と認めるよう訴え夫の復位に尽くたものの努力は実りませんでした。
イザベルは自身の環境の変化かプロテスタント教に傾倒しその生活も食料品を買うために子供の物まで売り歩くほどの困窮していました。
これを見かねたマルグリットは、イサベルの子供ハンス、ドロテア、クリスティナをカトリックのもとで育て用とメヘレンに引き取ると、子供たちを奪われ、絶望したイサベルは1525年23歳の若さで死去してしまいます。
おそらくは鬱病による拒食による衰弱死かなと・・・・・・・。

①母は精神疾患父はすでに死去
②夫は残忍
③王妃の座も失い
④生活苦
⑤子供も取り上げられ衰弱死


第5位

スペイン王妃
ルイーズ・エリザベート・ドルレアン

フランスのオルレアン公爵(ルイ14世弟の家系)ととフランソワーズ・マリー・ド・ブルボン(ルイ14世と公娼モンテスパン侯爵夫人との庶子)との間に誕生した第五子。
ルイ15世の摂政となるも失政が重なり、たいしか成果も出せず浮気好きで浪費家の父と宮廷サロンを嫌い自室に籠りがちな地味な母両親共に愛情なく放置され満足な教育も与えられない幼少期を過ごします。
しかし1721年、12歳のルイーズはスペイン王室を継承する王太子ルイスの花嫁としてスペインのマドリード王宮で暮らし始めます。
当初からルイーズの足りない教育、人前を裸同然で歩く、げっぷをするといった奇癖の王太子妃を王宮の人々は嫌悪し、特に姑のエリザベッタ・ファルネーゼ王妃の憎悪の的でした。
1年後結婚するも状況は変わらず、1725年フェリペ5世が王太子に譲位すると王妃になるも、わずか7ヶ月後に夫ルイスは天然痘で死亡してしまいます。
寡婦となり子もいなかったルイーズの王宮での居場所がなくなりフランス政府は王妃の帰還要請しパリへ戻ります。
フランスでもだれからもかえりみられなくなり33歳でその生涯を閉じました。

①誕生から両親に愛されず
②嫁ぎ先で嫌われ
③夫は早死に子供も出来ず
④最後は皆に忘れられ寂しい晩年


夫との仲は不明ですが、まあぁ~~~嫁姑のバトルは今も昔も同じですね。
上位者より晩年がましでこの位置に



第6位

ブラジル帝国皇后
マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア

オーストリア帝国皇帝フランツ1世と皇后マリアテレジア(ナポリ王女)の第五子
ナポレオンの皇后で姉のマリアルイーゼと仲がよかった。
お人好しで優柔不断な父の元、宰相メッテルニヒの強い要望で、人格的に問題のあったブラジル皇帝ペドロ1世の婚儀が整えられて長く危険の伴う航海の後ブラジルで挙式皇后となります。
皇后となったレオポルディナは初めは夫ペドロと良好な関係を築き夫の不在時には摂政妃として信頼されポルトガル王国から独立を後押しさせた最大の功労者で1821年まで三人の子の母として充実した王宮生活を過ごしていました。
しかし1822年ジャヌアリア・マリアの誕生頃から愛人ドミティリアを公の王宮に入れ皇后の第一女官の地位を与え生まれた庶子を皇后の嫡出子と同じ王宮で育つ屈辱を受けます。
当然夫妻の喧嘩は度重なり、ついに皇帝はレオポルディナに手を揚げるようにようになりDVが始まります。
当時の苦悩を姉に訴える文章が残っています。
犠牲者の微かな助けを求める叫び声を聞いください…あなたから、復讐ではなく慈悲を求める叫び声を
1826年12月1日ペドロは夫婦げんかの際に、妊娠しているレオポルディナのお腹を多数蹴ろうとし、死産が起きその10日後他界してしまいます。

普通はこれで終わるのですが、このDV夫レオポルディナが亡くなると自分の行いを恥愛人も宮廷から追い出し幼い皇太子後のペドロ2世を抱きしめ涙したといいます。・・・・・・・身から出た錆・・・・・・・・・自分が悪いんでしょ!
ペドロ2世は後にブラジル帝国の混乱の責任をとる形で息子に譲位してポルトガルへ帰還する決意します。

①少女時代から弱い父と皇帝の様に振る舞う臣下に顔色をうかがいながら怯える。
②遠い異国であじわった一時の幸福と屈辱
③夫からの暴力
④悲惨な死


一時でも夫婦生活で幸せな時期があり、子供にも恵まれ2人の皇帝と女王の生母となりました。
分オルレアン家の公女よりはまし?かなぁ~~~


第7位

イギリス連邦王国 ジョージー4世王妃
キャロライン・アメリア・エリザベス・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントとジョージ3世の姉オーガスタ公妃の間に生まれた公女
従兄妹のイギリス王太子ジョージーは素行が悪く悩んだ両親が借金の肩代わりの条件に結婚を強要した事で嫁ぎます。
出会いから最悪でジョージーはキャロラインの強烈な体臭に面食らい、キャロラインもジョージーの肥満に大きく失望し、ジョージはやけくで酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて式に臨み、結婚当初から夫婦仲は最悪でした。
なんとか長女シャーロットを授かるもその仲は好転せず、別居が開始されるほどでした。
ジョージは生まれた王女をキャロラインから引き離し、自身は愛人と同棲してしまいます。
キャロラインは娘にも会えず、イギリスからも旅と称して、大陸を渡り会う生活を余儀なくされます。
娘の死にも会えず、ジョージーの戴冠式にも教会から締め出され王妃の戴冠も拒否されてしまいます。
最後は異国の地で死去し遺体はイギリスではなく実家の教会へ埋葬されました。

①夫と不仲・公然と不倫され唯一の娘にも会えず
②事実上の国外追放
③王妃として戴冠式も行えず。
④異国で客死




第8位

スペイン王妃
ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ

バッテンベルク家の公子ヘンリー・モーリス(バッテンベルグ家は現フィリップ王配エジンバラ公の実家)と、イギリス女王ヴィクトリアの末娘ベアトリスの間の長女で、イギリスヴィクトリア女王の近くで育てられました。
1905年結婚相手を探すために訪れたスペインのアルフォソン13世と出会い王の人目惚れから、宗派の違い父方の身分の低さと将来の王位継承者がヴィクトリア女王の血友病遺伝子を受け継ぐ危惧など結婚には障害があったものの1906年結婚します。
その結婚式で王宮へ帰る途中で、暗殺未遂事件が起こります。
この事件は王妃としての多難な人生を暗示していました。
ヴィクトリアはスペインで不人気で、1907年に誕生した王子アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグは血友病で、この後ほぼ1年毎に誕生する子供達の内末息子ゴンサーロ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグも同じく血友病でした。
2人の女子は血友病遺伝子を受け継ぐ事はなかったのですが、二男のハイメ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグは手術の失敗で聾唖になり、三男は死産、唯一正当王位継承者とみなされたフアン・カルロス・テレサ・シルベストレ・アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグのみとなりました。
二人の息子は血友病が原因で大量出血で死去、不安定な系統を王妃のせいにしたかは不明ですが、夫婦仲は非常に険悪なものになり、王は不倫を繰り返し王妃の従姉ガリエラ公爵夫人にも手を出そうとしさえしました。
1931年スペインでも共和制の成立を宣言すると一家はフランス、イタリアへと亡命その後王とも別居するようになり、イギリススイスと転居しました。
1969年、ローザンヌで没し離婚はしていないので遺体は夫アルフォンソ13世の隣に安置されています。

血友病はその病で亡くなる事はありませんが、一度出血すると血がかたまらないのでそのままショック死してしまいます。
ヴィクトリア女王は突然変異と思われるこの遺伝子の保有者であり、不思議な事にこの遺伝的な病の場合女子には遺伝せず、女子を通じて男子に遺伝する確率があるのだそうです。但し全ての男子に遺伝するわけではありません。
有名なのはロマノフ王朝の最後の皇太子アレクセイ(母がヴィクトリアン女王の娘)が母を通じてこの保有者でした。

①結婚式の最後で暗殺しかかり
②息子達は持病が原因で死去
③夫は浮気を繰り返し別居
④王妃の座を失い。
⑤別居した夫の隣りに安置される。



第9位

ハンガリー王妃

エリザベタ・コトロマニッチ(ハンガリー語:コトロマニッチ・エルジェーベト)

それ誰??というくらいマイナーな王妃ですが、なかなか波乱万丈な人生でした。
ボスニア太守のスティエパン2世とポーランド王ヴワディスワフ1世の姪孫エルジュビェタの一人娘で、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘カタリンの曾孫であり母親を通じ、ハンガリー王妃フェネンナの姪孫でもありました。
ハンガリー王室と極めて近い血縁でした。
ハンガリー王ラヨシュ1世の母親エルジュビェタの招きもあり幼いエリザベタはハンガリー王室で育ち、その後ハンガリー王ラヨシュ1世の後妻となりハンガリー王妃となります。
1370年エリザベタは長女カタリン(幼い時に死去)を翌1371年には次女マーリアが、1373年には三女ヘドヴィグが誕生します。
ハンガリーは女王の支配を認めていましたのでエリザベタの地位は安定してゆきます。
1382年、ラヨシュ1世の死に伴ってマーリアが10歳でハンガリー女王に即位すると母公エリザベタが摂政として政務を取り仕切ります。
するとポーランドはマーリア女王の支配を嫌い(婚約者ジギスムントと母公エリザベタの影響力)三女ヘドヴィグがポーランドの統治者として1384年11月に国王として戴冠、リトアニアのヨガイラ大公と結婚し共同統治となりました。
ハンガリーでは婚約者ジギスムント、その兄のローマ王・ボヘミア王ヴェンツェル(ヴァーツラフ4世)と多くのハンガリー貴族達がエリザベタと宮中伯ガライによる恐怖政治に反発し、さらには、義理の伯母ジョヴァンナ女王を殺してナポリ王となったジギスムントとマーリア双方の親戚にあたるドゥラッツォ公カルロはジギスムントと破談しマーリアとの結婚かマーリアを廃位し王位を自分に渡すようでなければハンガリーを侵略すると脅してきました。
するとエリザベタは1384年、エリザベタはフランス王シャルル5世と交渉を開始、フランス王の息子のオルレアン公ルイとマーリアとの結婚を模索し始め代理結婚まで行われたが、4カ月後、ジギスムントはハンガリーに侵攻し、エリザベタの反対を無視してエステルゴム大司教に自分とマーリアの結婚式を執り行いました。
このまま平穏に統治されるのかと思いきや、ジギスムントが1385年の秋故国ボヘミアへ一時的に帰国した後、一部の貴族がナポリ王カルロをハンガリー王に選びエリザベタとマーリアはカルロ(カーロイ2世)のハンガリー王戴冠式に出席させられました。
戴冠式の2カ月後、エリザベタはカルロを自分の館に呼び寄せると、自分の面前でカルロを殺させました。
エリザベタは直ちにマーリアをハンガリー女王に復帰させ、自分を支持した者に褒賞を与え、摂政に復帰したエリザベタに対する反乱は続発していましたが、この反乱を支援していたのはエリザベタの従兄でもありました。
1386年、エリザベタは宮中伯ガライ・ミクローシュ1世に付き添われて、マーリアとともにナポリ王カルロの遺児ラディズラーオを支持して反乱を続ける、クロアチアの有力貴族ホルヴァート家を説得するためクロアチアへの訪問旅行に出かけました。
ヤン・ホルヴァート率いる一団の攻撃を受け、女王一行の随行員たちは全員殺され、エリザベタとマーリアは逮捕・投獄女王とその母はアドリア海沿岸に連行され、ノヴィグラードに監禁1387年1月16日、エリザベタは監視役でトヴルトコ1世の同盟者でもあったイヴァニシュ・パリジュナの命令により、マーリアの目の前で絞め殺されました。

エリザベタの死の直前、ジギスムントは妻と姑を救出すべく行動を開始します。
エリザベタが殺されてまもなく、マーリアは夫の差し向けた軍勢によって助け出されジギスムントはエリザベタ殺害の報復として、暗殺者たちを処刑し、その家族を抹殺しました。
リザベタの遺体はザダルの聖フリソゴヌス教会に密かに埋葬されていたが、3度目の命日である1390年1月16日にセーケシュフェヘールヴァールの王家の地下納骨堂に移されました。
マーリアは妊娠に伴う体調の悪化で、ヘドヴィグは難産で娘のエルジュビェタと一緒に亡くなりました。


①幼いうちに母国を離れ、親族達は血で血を洗う権力闘争
②夫は早く死去たよりは娘だけ
③臣下に恵まれず
④娘の前で絞殺される





第10位

イングランド女王(イギリス史上9日間の女王とも言われる)
初代サフォーク公爵令嬢

レディージェーン・グレイ

初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン母方の祖母はがヘンリー8世の妹メアリー・テューダー
王家の血統に繋がる所に目をつけたウォリック伯野心から息子ギルフォード・ダドリーと結婚させ、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せて病床の王からジェーンへの王位継承を指示する勅令を手に入れます。
当時王位継承権に最も近いと思われたメアリー王女は狂信的なカトリック教徒であったため、危惧した貴族がジェーンを説き伏せエドワード6世死去後女王へ即位させました。
しかしメアリーの身柄拘束に失敗しロンドン塔を王宮として政権をとるもすぐにメアリーの反乱にあい、ジェーンとギルフォードは逮捕、ダドリー一族も拘束され約7ヶ月後ロンドン塔内で処刑されます。
メアリー女王は最初改宗すればジェーンを許すつもりでしたが、臣下や母の母国で自身の婚約者フィリップ王太子の婚約破棄をちらつかされて刑が決行されます。
処刑後、遺体は夫ギルフォードと共にセント・ピーター教会に葬られました。

①野心の強い貴族に利用され
②女王に即位するも9日間で罪人
③最後は処刑される。


ものすごく悲劇ですが、自身の意思の弱さからもあるし・・・・・・。この位置になりました。

第10位
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