2017-03-02

枕草子の謎「平安時代後宮女房の姿」

平安文学の中で源氏物語と二分するベストセラー枕草子をチョコっと草子

枕草子

①なんで枕草子なのか?
文中にヒントとなる一節があります。

 宮の御前に、内大臣の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。うへの御前には、史記といふ文を書かせ給へる」などの給はせしを、「枕にこそはし侍らめ」と申ししかば、「さば得よ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、つきせずおほかる紙の數を、書きつくさんとせしに、いと物おぼえぬことぞおほかるや。

つまり、内大臣(この内大臣が誰かはおいておりて)が中宮定子に紙を献上したので、中宮が清少納言に何を書いたらいいかと相談した所、清少納言が「枕草子」がいいでしょう。と言った事に由来します。
では枕とは?何を意味したのでしょうか?
いろいろな説がありますが、その前の「史記」(歴史書)からひっかけた説
つまり史記→敷き⇒枕
その他に夜に日常のあれやこれやを書いたそのままずばりの枕説などいろいろあります。

「世の中のはらだたしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、いづちもいづちも行きうせなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清らなる、よき筆、白き色紙、檀紙など得つれば、かくても暫時ありぬべかりけりとなん覺え侍る。
本文に清少納言が「いやな事があっても良い紙と良い筆があれば気が晴れる。」的なニュアンスが含まれているので定子も清少納言の文学すきを知って下賜したと思われます。

さて源氏物語が物語であるのに対して枕草子は随筆集です。
なので文体に連続性はありません。
それゆえに各項目がいつ頃、記述されたのかあいまいさが残ります。
つまり、記述順番が年代ではなく、その内容も連続性がありません。

作者の感性がそのまま文体にあらわれ、あった出来事を記述したり、回想したりてんでバラバラです。


春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕日のさして山端いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。(いとあはれなり。)
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。

頃は、正月、三月、四・五月、七・八月、九・十一月、十二月。すべてをりにつけつつ。一年ながら をかし。

と最初にある所を見れば
史記」→「四季 を意識したものとわかります。

②書かれたのはいつごろか?
また回想録としての記述が多いのも興味深いです。
もしこの草紙がまだ中宮定子の恵まれた環境であった後宮時代ならもっと栄華の時代を記述したように感じますが、なんとなく苦しい境遇の頃の話が多いのが気になります。
つまり中宮から下賜された紙はすでに中関白家が没落した後と推測されるのではと思わせるのです。
そうなると紙を献上した内大臣が伊周ではなくなる可能性があります。
清少納言の殿上人の記述は官職名が中心で本名で登場する人物は極めて少ない。
殿上人は年と共に出世して官職が上がるので、同じ官職でも違う人を指す可能性あります。
となると内大臣が誰か?

誰もが定子の近辺にいる内大臣はすぐに伊周だと確定するのですが、実は違う説も出てきます。

この草紙は、目に見え、心に思ふ事を、人やは見んずると思ひて、徒然なる里居のほどに、書き集めたるを、あいなく、人のため便なきいひ過しなどしつべき所々もあれば、きようかくしたりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ。
清少納言が実家に里帰りしている頃に書いた。とあります。

伊周が内大臣であった頃は
正暦5年(994年)8月28日~長徳2年(996年)4月24日という極めて短い間です。
かつ草子の内容がどちらかといえば栄光の頃が回想の様に記述されているのでやはり伊周が政争に敗れた後とするのが妥当な気もします。
では内大臣は誰かというと
その後に長期間官職にあった藤原公季ではないでしょうか?
長徳3年(997年)7月5日~長和6年(1017年)3月4日
この時期ですと中宮定子が二条宮、職の御曹司に入った頃から梅壺へ移った時期や大進生昌邸で出産した頃で合うように思います。

③何故超自慢話が多いのか?
紫式部が嫌った清少納言
「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」
これは紫式部日記にある清少納言の評価です。ちなみにこの二人は同時に内裏にいたわけではありません。
紫式部が内裏へ上がった頃には清少納言はすでに出仕をやめていました。
なので式部は内裏での噂や枕草子などの話を聞き、そう評価したと推測出来ます。
この二人の女性の性格はどうやらまったく反対の様で、唯一の共通点は主人が特に重用していたという所でしょう。

わが心にもめでたくも思ふことを、人に語り、かやうにも書きつくれば、君の御ためかるがるしきやうなるも、いとかしこし。

では清少納言は何故こんなに自慢話を記述したのでしょうか?これはやはり確かに性格的な事もあるでしょうが、当時の定子のおかれた状況も大きくかかわっていると思われます。
後宮で一条天皇のみをたよりにしないといけない環境、中宮から皇后へ理不尽な扱いを受ける様子を清少納言は彼女なりに自慢話をあげる事で定子の内裏での華やかさを演出しようとしたのではないでしょうか?

しかしさすがに自分でも書きすぎたなと思ったのか、
されど、この草子は、目に見え心に思ふことの、よしなくあやしきも、つれづれなるをりに、人やは見むとするに思ひて書きあつめたるを、あいなく人のため便(びん)なき言ひ過ごしつつべき所々あれば、いとよく隠しおきたりと思ひしを、涙せきあへずこそなりにけれ

あんまり書きすぎたので、隠していたのに思いがけずに外に出てしまったと書いています。

左中将のいまだ伊勢の守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさし出でし物は、この草子も乗りて出でにけり。まどひ取り入れしかども、やがて持ておはして、いと久しくありてぞかへりにし。それより染めたるなめりとぞ。

これが内裏に出た理由です。


④清少納言の里帰りの秘密

内裏の女房が里下がりをするのはよくある話で、清少納言も頻繁に里帰りをしています。
しかしかなりの長期間に渡って内裏に帰らない時期がありました。

故殿などおはしまさで、世の中に事出でき、物さわがしくなりて、宮又うちにもいらせ給はず、小二條といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里に居たり。御前わたりおぼつかなさにぞ、猶えかくてはあるまじかりける。

例ならず仰事などもなくて、日頃になれば、心細くて打ちながむる程に、長女文をもてきたり。「御前より左京の君して、忍びて賜はせたりつる」といひて、ここにてさへひき忍ぶもあまりなり。人傳の仰事にてあらぬなめりと、胸つぶれてあけたれば、かみには物もかかせ給はず、山吹の花びらを唯一つ包ませたまへり。それに
いはで思ふぞ
と書かせ給へるを見るもいみじう、日ごろの絶間思ひ歎かれつる心も慰みて嬉しきに、まづ知るさまを長女も打ちまもりて、「御前にはいかに、物のをりごとに思し出で聞えさせ給ふなるものを」とて、「誰も怪しき御ながゐとのみこそ侍るめれ。などか參らせ給はぬ」

世の中騒がしくなりなんとなく定子から離れて里下がりが長引いている頃の話
実は関白道隆亡き後伊周が左遷されると太政官は道長が制します。
なんと定子の周りの女官の噂で清少納言が道長にとりいっているというが流れたんです。
これは道長の猶子源 経房(道長の妻の一人源明子の弟)と親しく交際していた事もあって時期も悪くて宮中にいずらくなったと思われます。
ちなみに枕草子を宮中に広めた人物がこの人です。

たんなるやっかみか陰謀か?主人の定子は清少納言に絶大な信頼を寄せていたので以降も大いに頼りにしたといいます。

三條の宮におはしますころ、五日の菖蒲輿など持ちてまゐり。藥玉まゐらせなどわかき人々 御匣殿など、藥玉して、姫宮若宮つけさせ奉りいとをかしき藥玉ほかよりも參らせたるに、あをさしといふものを人の持てきたるを、青き薄樣を艶なる硯の蓋に敷きて、「これませこしにさふらへば」とてまゐらせたれば、
みな人は花やてふやといそぐ日もわがこころをば君ぞ知りける
と、紙の端を引き破りて、書かせ給へるもいとめでたし。

⑤清少納言の和歌下手世説

枕草子では和歌にちなむ逸話が多く出てきます。
白き色紙(しきし)おしたたみて、「これに、ただ今覚えん古き事、一つづつ書け」と仰せらるる。

外に居給へるに、「これは、いかが」と申せば~

~などさは臆せしにか、すべて面(おもて)さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。


その月、何のをり、その人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひきこえさせ給ふを、かうなりけり、と心得たまふも、をかしきものの、ひがおぼえをもし、忘れたるなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなう思し乱れぬべし。

「何か、この歌すべて詠み侍らじとなん思ひ侍るものを、物のをりなど人のよみ侍るにも、よめなど仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なんし侍る。いかでかは、文字の數知らず、春は冬の歌をよみ、秋は春のをよみ、梅のをりは菊などをよむ事は侍らん。されど歌よむといはれ侍りしすゑずゑは、少し人にまさりて、そのをりの歌はこれこそありけれ、さはいへどそれが子なればなどいはれたらんこそ、かひある心地し侍らめ。露とり分きたるかたもなくて、さすがに歌がましく、われはと思へるさまに最初に詠みいで侍らんなん、なき人のためいとほしく侍る」などまめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらばただ心にまかす。われは詠めともいはじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は歌のこと思ひかけ侍らじ」などいひてあるころ、庚申せさせ給ひて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。
夜うち更くるほどに題出して、女房に歌よませ給へば、皆けしきだちゆるがし出すに、宮の御前に近くさぶらひて、物啓しなど他事をのみいふを、大臣御覽じて、「などか歌はよまで離れゐたる、題とれ」とのたまふを、「さる事承りて、歌よむまじくなりて侍れば、思ひかけ侍らず」「異樣なる事、まことにさる事やは侍る。などかは許させ給ふ。いとあるまじき事なり。よし異時は知らず、今宵はよめ」など責めさせ給へど、けぎよう聞きも入れで侍ふに、こと人ども詠み出して、よしあしなど定めらるるほどに、いささかなる御文をかきて賜はせたり。あけて見れば、
もとすけが後といはるる君しもやこよひの歌にはづれてはをる
とあるを見るに、をかしき事ぞ類なきや。いみじく笑へば、「何事ぞ何事ぞ」と大臣ものたまふ。
その人の後といはれぬ身なりせばこよひの歌はまづぞよままし。
「つつむ事さふらはずば、千歌なりとも、これよりぞ出でまうで來まし」と啓しつ。

清少納言は和歌が苦手説があります。
苦手というかおそらく和歌の得意な一族としてのプレッシャーがあったのではないかなとおもいます。
父は梨壷の五人と呼ばれ、高祖父は夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむで知られる歌人。
下手な和歌は詠めない。

ただ文中にこれは旨く詠めたという和歌もあります。
一番有名なこれ!
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ
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