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京草子 雅な京都絵日記時々詣で 2013年11月

なにもなにも、ちひさきものは、みなうつくし。

訳:どんなもんでもなあぁ~ちいさいもんは全部美しいねん~~~

晩秋の京小さくて美しい物といえば紅葉です。
ちいさなもみじが重なり合うその風情は本当に美しいにつきます。



京のテーマは「都の紅葉と東福門院」
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後水尾上皇の中宮「東福門院 和子」様

東福門院とは慶長12年(1607年)二代将軍の秀忠と正室お江(お市の方と浅井長政の次女)の5女、徳川家康の孫娘(幼少期の名は松姫)三代徳川家光の妹であり、後水尾天皇の中宮、明正天皇の生母です。

優美な風景を見せてくれる仙洞御所も修学院離宮も和子の入内、中宮としての地位があってこそ出来たものと断定していいでしょう。

和子は武士階級からは平安時代末期平清盛の娘で高倉天皇の妃平徳子につぐ二番目のそして最後の中宮であり、徳川家では唯一の中宮(皇后と同意味で天皇の正妻)となった女性です。

生誕以来家康の意向でやがて天皇妃とし宮中に入る事を想定し大奥で大切に育てられ、14歳の年で江戸から京までの豪華な行列を従え二条城に入り、後に天皇より従三位の位を賜り、元和6年旧暦6月18日御水尾天皇の女御として入内します。
その際に幕府が用立てた費用は70万石(加賀前田家が俗に100万石と呼ばれるのでその額の大きさはわかります。)
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以前観賞した「時代祭」から
徳川幕府の権威を誇る為に豪華絢爛な行列はまず午前中に多くの輿入れ調度品が内裏へ運び出された後12時に女房衆が雑式、楽人が続き殿上人、武家衆の先道を受け和子は十二単姿で2頭立て紫糸毛網代車に乗っていました。
さらに武家衆、公家衆が二条城を出発し北へ進み、中立売の橋を渡って御所に到着しました。
しかし最後の行列はまだ内裏に到着していなかったといわれるほど豪華なもので現在「東福門院入内図屏風」で当時の様子を見る事が出来ます。


和子は重い宮中衣裳十二単衣と同じくらい我身に圧し掛かる「菊と葵の仲介役」としての役割の重さをひしひしと感じていたでしょう。

和子の衣裳十二単衣は十二枚きこむわけではなくて上に羽織る唐衣を入れても8枚くらい、平安時代には本当に十二枚着た女房がいたが重すぎて這いつくばって歩いて大笑いされたそうです。
奈良時代までは唐から絹が輸入されていたので重ねる必要がなかったのですが、唐の国力が低下し衰退すると遣唐使などの交流がなくなり絹が輸入されなくなりました。
すると寒さに耐えられなくなりどんどんきこむようになったそうです。
そしてその色の違いを競う様になり、季節と合わせてそれぞれがおしゃれをしていたそうです。
皆同じ姿ですから違いを競うとするとそうなりますよね。
その衣裳は哲学の道傍にある元門跡寺院であった霊鑑寺の所有です。

少女時代を武家社会で過ごした和子の日常衣裳は当然ながら小袖でした。そうあの大奥で見る衣裳です。十二単衣よりも袖と衣のすそが短い着物でした。
その後和子は宮中生活に武家の風俗も持ち込んだ「ファッションリーダ―」の役割を担います。
宮中、洛中の女性公家に小袖の着用を流行させていくのです。

入内後の和子の正装は当初とはやや異なり幾重にも重ねた着物、その上から袴を下に付け、五衣の着物の上に上着更に唐衣を着て柄模様の喪をつけた光雲寺の和子肖像画と木像でわかります。
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始めて入宮した郁芳門はなくその面影は現在の御所の北側にある朔平門に見る事が出来ます。
後世再建築された御所の南側に建てられた門は天皇の女御が始めて入内する際に使用される門です。

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飛香舎
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以前訪問した現存する飛香舎は女御入内で使用された建物です。
現在の御所にある建物のほとんどは安政2年(1855年)に再建されたものです。

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以前訪問した修学院離宮内
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旧女御御殿の奥対面所
和子の女御御所の一部は修学院離宮へ和子崩御後に移築され当時の面影は見ることは出来ます。
おそらくは父忠秀、弟家光が上洛した際に対面した時もこの建物の中でした。

大覚寺にある和子女御御殿の宸寝殿が移築された建物です。江戸時代に建築されましたが、内裏にあるので古式である平安の寝殿造り様式で内装は寒さに備えて畳式で建てられています。


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以前訪問した大覚寺にある旧女御御所内装・複製品
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御殿の内装は女御御殿という事もあり、女性さしい華やかさがあります。
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現在の皇后門
和子外出する事はまれでしたが天皇のお召があった時や姑である中和門院を訪問したり二条城への御幸がありました。

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以前訪問した京都御所内
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女御御所へ入宮する和子女御

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女御御殿でくつろぐ和子女御

和子の入内は徳川家の外圧で実現したと言われますが、実の所朝廷から天皇への進言もなければ入内も難しいといえました。確かに後水尾天皇は徳川幕府の要望で即位した天皇です。
しかし天皇は度重なる徳川家の圧力に反発を覚えて始めていました。
天皇の望まぬ入内はその地位を確かにするために徳川家は避けたい。
何故なら和子の入内はひとえに徳川家の血を引く天皇の即位を実現したい為に他なりません。
その為に地ならしをするお役目が必要でした。

その一人が豊臣完子です。この方豊臣秀吉の姉と三好吉房の間に生まれた豊臣秀勝とお江の一人娘つまり和子の異父姉でした。
彼女は1604年に公家九条忠栄(後の幸家)の正妻となっていました。

今はありませんが御所の南にある九条家跡に建つ茶室と庭園は当時をしのばせます。邸宅の建築は完子の婚礼の為に建築されました。
この夫はこの婚姻関係で朝廷と幕府の仲介役を担い和子の入内には関白として尽力しました。
しかもその後明治時代に大正天皇の皇太子時代に妃となった貞子皇后はこの九条家の姫様です。
つまり現在の天皇家の血には織田、浅井のDNAが受け継がれているのです。すご~~~母はすごい!

さらに和子の入内に江戸から上洛する際に家康の晩年の側室阿茶局が御母儀行として同行します。
阿茶局は家康没後他の側室が剃髪する中、才を買われ出家を許されませんでした。
後水尾天皇から従一位民部卿局を賜り、江戸から京の旅路、二条城、宮中で和子の守役を務めた女性です。
和子が入内直後は京で過ごしていましたが、後に江戸へ下向秀忠が死去すると雲光院と称して剃髪し尼になりました。

もう一人の仲介役が現れます。
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後水尾天皇の実母である中和門院です。

中和門院は近衛の姫、後陽成天皇の女御でした。
後陽成天皇は我子に対して好き嫌いがかなり激しい人柄の様でした。秀吉の助言で第一皇子の良仁親王を皇太子に立て、その秀吉が没すると皇太子を廃し、弟の八条宮智仁親王を擁立しようとしますが徳川幕府と公家の反対にあいやもなく断念。
しかたなく良仁親王を仁和寺で出家させ第三皇子間政仁親王を皇太子に立てます。
このあたりが中和門院の和子擁護に影響したと思われます。影にあり光になり和子の宮中生活を支えたと言われています。

入内日の夜10時天皇との初めての対面となり、数日の内に姑中和門院との対面を済ませます。

入内すぐの七夕の節句の和歌

幾年をいざやながめん星合ひの 空に行きかふあまのはつ秋  後水尾天皇  御製

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和歌をしたためる和子女御
東にもけふや吹くらん星合いの 空もすずしき秋のはつ風   女御和子  後返歌

後水尾天皇は個人的に和子を気に入っていた様で終生二人はむつまじい仲であったそうです。
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天皇の御渡りでお化粧をされる和子女御

15歳の「脇附の祝い」では天皇と中和門院が儀式を密かに見物したり、翌日天皇と語り明かした事や入内3年後には天皇の女御御所御幸があったと記録に有り、穏やかな宮中生活を送った事がわかります。

元和9年(1623年)には父秀忠、兄家光が上洛し内裏で対面も実現し、同年11月19日17歳の時に女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生します。
この頃は幕府との表立った対立はなく和子も平穏な日々を過ごしていたと思われます。

寛永元年(1624年)18歳で和子は中宮に冊立され、翌年9月女二宮顕子内親王が誕生します。

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和子の宮中生活はやはり飛ぶ鳥の勢いのあった徳川家の後見に女官達も表だって陰湿ないじめなどはなかったでしょうが、和子自身のきめ細やかな気配りと大らかな性格も手伝い、華やかな宮中生活を送る事が出来ました。
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中宮殿付きの女官達
権大納言局(橋本秀宗女)
高倉局(鷲尾隆量女)
綾小路局(西洞院時直女)
新大典侍局(久我通堅女)
積房小路局(万里小路雅房女)
中納言局(下冷泉為将女)といった藤原家の分家筋の娘達が中心でした。

和子が京へ到着した際の滞在場所であった元離宮二条城を訪問です。

女御時代に天皇家族と共に二条城行幸しました。まあ別邸御里帰りかなぁ~~
当然招いたのは父秀忠と家光です。

二条城は「戦いの為の城」ではなく徳川家康が豊臣氏や西大名達への監視、上洛の際の滞在所などを理由に築城された珍しいお城です。
本丸、天守閣は火災で消失し、現在二の丸のみが当時の荘厳な建築が見ることが出来ます。
家康、家光の将軍の上洛、和子の入内や後水尾天皇の行幸、さらに時代を経て家茂の上洛と死去、慶喜の将軍職就任と大政奉還もこの場所でした。

明治以降離宮として整備されます。


東大手門

唐門
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二の丸車寄せ

大広間
こちらで大政奉還を宣言した場所でもあります。

黒書院、白書院と豪華な内装が見えます。
和子が入内した際に滞在した建物は本丸か二の丸かは不明です。
ただ内装の豪華さは二の丸で十分想像出来ます。
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天皇、天皇生母、女御、姫宮の御幸の際に行われた二条城での宴
この二条城行幸に伴い城内に天皇御所と女御御所、姫宮御所が新しく建築されたそうです。
現在は現存しません。

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以前、又別日に訪問した御所、大覚寺
宴に催された雅楽、舞楽


撮影禁止なので写真なしそのかわりお庭

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二の丸庭園
この二の丸庭園は改修がされてはいるものの、当時の行幸に合わせ庭の廻りを囲むように御所が建築された雅な情景を想像させてくれる優美さがあります。


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本丸御殿と庭園
現在の本丸御殿は明治に桂宮家の御本宅を移転したもので特別公開期以外は非公開です。

     
観光の情報は【こちら】                        


寛永3年の二条城行啓の年、ようやく20歳で11月13日高仁親王誕生します。

天皇家と徳川家の血筋が入った初めての親王は将来の天皇の地位を約束されていました。幕府は早くも譲位を見越して院御所と女院御所の造営を計画し始めます。
しかし誕生から2年後この親王は病の為、逝去してしまいます。
しかもこの親王がいなくなると両家の状況は悪化してゆきます。
発端は紫衣事件が起こるのです。

これは簡単にいうと幕府が定めた「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」と「禁中並びに公家御法度」で禁止されていた「朝廷が幕府の許可なく僧籍の者に地位や位を授けてはならない」と規定違反でした。

朝廷が最高位をしめる禁色「紫」の法衣を授けた事を幕府が問題視し大徳寺、妙心寺が反発し、最終的に僧達が流刑になった事件を指します。

天皇はこの事件に大きく反応し譲位の動きを加速させてゆきます。
幕府に「譲位」という切り札をちらつかせるという緊張状態をあおるのです。
幕府としては和子に親王が誕生してから譲位させたいという思惑がありました。

しかし天皇は内内に和子を通し幕府に内諾させようとします。
問題は9月に和子が第二親王のを生んだ事で緩和していくのかといえばそうでなくこの若宮も数日で死去してしまいます。

翌年には女三宮昭子内親王が誕生するも天皇の譲位熱は冷めず、さらに無位である家光の乳母ふくの天皇拝謁要求がその気持ちに拍車をかけ、天皇は徳川幕府の了承を得ずに女一宮興子内親王への譲位を決定してしまいます。

徳川幕府も和子の娘が即位するのであるから反発もなく、途中延期になっていた院御所の再造営を始めます。

ここに和子は24歳で国母となり名も東福門院と称されました。

名ずけ親は夫後水尾上皇その人です。
「東から来た福という意味だそうです。」
さら後水尾天皇譲位後の女院となった東福門院和子の世界へGO
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この季節以前は良く事前拝観予約をして訪れていた「仙洞御所」に訪問していましたが、現在その見学は非常に狭き門となっています。

どうやらテレビで紹介された事で知られ、この数年複数名の申し込みが抽選となったためと見学案内係の方に拝観しずらくなったとおっしゃっていました。

ラッキー~~~久しぶりの訪問です。十年位前までは京都の紅葉は最高でしたが、この数年の温暖化のせいで毎年無残な姿を見る事が多くなりました。
自然環境はどうしようもないですよね。

今年の仙洞御所の紅葉はどうでしょうか?
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仙洞御所の入り口門を目指してGO

仙洞御所とは退位した天皇(上皇と称します)の住まいである御所をいいます。
由来は「仙人の住み処」からきています。
御所同様に歴代の上皇の御所は定まっておらず、概ね里内裏(上皇の母の実家、自身の生誕である寝殿)があてられていた事が多かったと言われています。

現在の仙洞御所は1627年後水尾天皇が明正天皇に譲位した後に住まう院(後水尾上皇)と女院(東福門院徳川和子)の宮殿として造営された御殿跡です。
正式には仙洞御所跡というかもしくは仙洞御所庭園が正しいのかも知れません。


仙洞御所の当たりは古く殿上人である貴族の寝殿があった場所で、後世豊臣秀吉の太閤御所がその後正室おね(高台院)が住すみ、後陽成上皇の御所があった一部を徳川幕府が院御所として造営しました。

その御殿も後水尾上皇から光格天皇までの歴代上皇の住まいとされ消失再建を繰り返し1854年落雷による大火の時、当時上皇は存在していなかったので御殿は再建されませんでした。
当時の御所跡は現在松林群の中にありました。

よって現在御殿はありませんが7万5千M2ヘクタールという美しい大回遊式庭園と茶室が残っています。
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隣にある大宮御所は仙洞御所と共に消失した大宮御所跡に孝明天皇が女御の九条夙子の為に再建させた御常御殿が建築されています。

明治天皇の東京遷都を機にその役割を終えますが、京都へ訪問する皇室の方の宿泊場や国賓の宿泊場として利用されていました。近年は耐震性の問題で補強工事が進行中で宿泊時は隣の「京都迎賓館」へ向かわられるそうです。

この上皇御殿造営の造園には上皇の意見は反映されず、当時徳川幕府のお抱え庭師といえる作事奉行であった小堀遠州作らが中心となり完成しました。

但し時代に合わせ現在の仙洞御所は創建当時の姿ではありません。歴代上皇好みに作りかえられてきました。
今見る仙洞御所の庭は東福門院の見た風景ではありませんが、その風情は十分に味わえます。
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大宮御所
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南庭と御常御所の一部
奥に見える鶴亀の庭、奥は立ち入り禁止です。
侵入禁止です。
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お庭口
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北池・女院御所の庭の一部でした。
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舟遊びをされる東福門院さま
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女院御所正門のイメージ・御所車寄せ

女院御所では東福門院主催の和歌会、茶会、花道会、香道、能や狂言、踊りの会など芸能を楽しまれていました。
また中宮時代にはままならなかった御幸にも度々外出していました。
岩倉、修学院、長谷といつも家族で外出を楽しんでいたようです。

しかし穏やかな生活を過ごせればめでたしめでたしなのですが、そうはいきません。
紫衣事件以来天皇家と徳川幕府の関係は和子の仲介がかかせなくなっていたからです。
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昭子内親王と近衛尚継
女院御所に移ってからすぐに女五宮賀子内親王が誕生し、昭子内親王が近衛尚継に降下し、寛永13年(1636年)には女二宮は近衛尚継へ嫁ぎます。

しかしまもなく後水尾上皇と典侍との間に八重宮を更に唯一の皇子素鷺宮が誕生すると、自身の養子として将来の天皇の後見役を買います。以降上皇は身近な女官に手をつけて続続に子を作ります。
まあ親王の誕生が無いのですから早く皇統を保障したい上皇の気持ちはわからないでもありません。
お手付きの女官達も東福門院よりも年長の身近な女性でした。

東福門院にも寛永10年に菊宮が誕生しますが、半年後死去します。

しかし上皇の女官腹出産は続き、東福門院は以降懐妊したものの流産されこれを最後に懐妊しなくなります。
東福門院は上皇の好色を諌めたり幕府へ助言を求めたりせず、女院としてまるで母の様に上皇の良き理解者となりました。
それどころかお手付き女官や皇子や皇女達への贈り物をしたり、金銭的援助を行ったり、婚姻の仲人をしたりと気配りをかかせませんでした。

寛永20年(1643年)には明正天皇は譲位し、素鷺宮が後光明天皇として即位します。

女五宮賀子内親王が正保2年(1645年)に二条綱平に嫁ぎます。

その後しばらくは八条宮邸、岩倉、長谷と行幸し、承応3年(1654年)に後光明天皇が疱瘡で崩御した後、仲継天皇として良仁親王が選ばれ、幼児の富貴宮(後水尾上皇の親王)が成人した後へ譲位するという後水尾法皇の希望を実現の為に東福門院は幕府へ説得役をかいます。
そのかいあり良仁親王は東福門院の養子となり後西天皇として即位します。
後水尾法皇は沢山の親王の内で富貴宮をたいそう慈しみ、いずれ天皇にと思い後光明天皇の養子にして、東福門院も後見役を買います。

又後水尾法皇の修学院離宮の造営費も幕府から調達出来るよう働きかけ、後水尾上皇は湯水の様にその金を離宮へ注ぎます。

女院御所は寛文元年(1661年)から始まる大火で焼け、以降延宝元年(1673年)、4年(1676年)の大火で女五宮邸に避難しました。何度も焼けた女院御所の火災の為に仮女院御所と再建女院御所の移動を余儀なくさせられた生活は大きな心労となりました。
その間に娘女三宮(昭子内親王)が死去したことで心痛が重なった72歳の延宝4年(1676年)6月から体調を崩し食が細くなった所で落雷の影響で以降急速に床に臥す事が多くなりました。


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北池舟着き場
現在の天皇陛下も皇后陛下を連れ舟を操り遊ばれるそうです。雅ですね~~~
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紅葉が見事です。
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阿古瀬淵と六枚橋
ここは紀貫之邸宅跡という伝承があり、又太閤御所の庭園の名残をとどめると言われています。

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流線的な曲線が柔らかい北池沿い
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土橋
鷺島(中島)へ渡る束橋、西に鷺の森へ東に向東山と呼ばれました。
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石橋
三條白川橋の石材
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雌滝
平安朝庭園の遣水の趣があります。

このあたりは藤原道長の寝殿造土御門邸があった場所と伝承され、平安風庭園跡の面影が残っていると言われています。
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鷺の守

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紅葉橋
北南池は造営当時は分かれていましたが大宮御所を造営する際に繋げられました。

紅葉橋が掛かる堀割は元は南北の池が以前が分かれていたものを繋げで出来ました。
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紅葉山

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蘇鉄山
島津家献上の蘇鉄、当時蘇鉄は南の国にしかなかったので都の貴族の間で珍重されていました。桂離宮にも島津家は献上していますね。
島津家は特に近衛家と縁組していたので朝廷とも人脈を保っていた証ですね。
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八橋
八橋には藤棚が作られ5月の初旬に藤の花が大変美しいです。
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紅葉橋を望む
昔は個別であった池を繋げて橋を掛けかけています。
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眺めが素晴らしい雄滝草紙洗いの石
小野小町と大伴大黒の和歌盗作事件の現場という伝説があります。
小町が盗作された料紙をこの岩の上で水に浸し、見破ったというのです。この辺りは藤原道長の土御門第跡なのでそんな伝承もありそうですね。
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出島
東岸から見える出島、八橋
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土佐橋
山内家が献上した橋
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出島の石組み
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北池の舟着き場

南池の付近は仙洞御所の南側が後水尾上皇の院御所の庭園です。
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八ツ橋と反橋付近霞島・中島
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今はありませんが池を背にした場所に院御所がありました。
後水尾上皇は退位はしても、「院政」を行い明正、後西、霊元天皇を補佐し朝廷内で強固な地位を築いていました。

譲位し上皇になると仙洞御所を一大宮中文化サロンの場にしてゆきます。

この院御所で学問、芸能、文学、茶道、華道、香道、音楽、能、狂言、さらには歌舞伎まで古式ゆかしい平安の遊びや行事が脈々と継承されていきます。
しかし文化的な継承だけならよかったのですが、和子女御入内以来なかった女食癖も始まり

園国子(新中納言局)逢春門院に3皇女、5皇子(麗元天皇)
園光子(京極局)  壬生院に2皇子3皇女(後光明天皇) *ちなみにこの園氏に後年明治天皇手付き女官
櫛笥隆子(御匣局) 新広義門院に5皇子2皇女(後西天皇)  となり内親王を生んだ女官がいました。
他の女官2人に2皇子1皇女、1皇子1皇女

合計1633年から1654年の21年間に誕生させます。

最後の子供は42歳の時、江戸時代の42歳は今でいうと軽く60歳過ぎくらいの想定・・・・・なんで。


実は後水尾上皇は天皇位にあった際和子入内前には四辻御両人腹に1皇子、1皇女がいたものの入内後は上皇になるまで女官腹の子供達は誕生していません。
この好色の夫を諌めるでなく、お手付きの女官を嫉妬するでなくまるで数家族の様に接したそうです。

上皇とてから続続と誕生する子供たちに細川忠興の書簡で忠利宛の文では

「御局衆のはらに宮様達いか程も出来申し候を、おしころし、又は流し申し候」

つまり後水尾天皇即位中は和子以外の皇子皇女が誕生しなかったのは生まれても殺してしまうか、流産させるからだと書いています。

細川家は外様大名の中で徳川家に取り入ながら宮中にも深い人脈を持つ家柄の長です。言葉の意味は重いです。

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南池・院御所の池
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中島
中島にはかつて釣り殿と滝殿がありました。
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洲浜
丸石を砂浜に見立てられたこの石は光格天皇へ小田原城主からの献上品です。
一升の米と換え揃えたので一升石ともいいます、池を海に見たてています。
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醒花亭
茶室
後桜町天皇の時代1808年に再建された茶室です。
こけら葺き数寄屋造りの簡素さがら趣向のある建物です。後桜町天皇は18世紀後半に即位した最後の女性天皇、桃園天皇崩御後皇太子がまだ幼少であった為仲継天皇として即位されました。
譲位後も甥である後桃園天皇を加護し、書道、和歌など文化面でも才能があったといわれています。

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反り橋
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目の前には洲浜と南池、桜の馬場
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加藤清正伝朝鮮燈籠
正直韓国に行ってもオシャレな年代物の燈籠など見た事ありませんし、全国に清正奉納の朝鮮灯篭は山の様にあります。おそらく清正=朝鮮というイメージが先行してそう伝来したのだと思います。
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悠然台跡
物見あぐらがあった院御所の高台です。上皇様はここから洛中のみならず修学院、伏見、大阪までも眺めていたそうです。でも祇園祭を非常に楽しんだそうです。

茶を楽しみながら桜を愛でる。
昔の人は交通が不便で特に高貴な人物はそうそう行幸など出来ませんでした。しかも徳川時代は財政も幕府に握られ経費もままなりません。
海に行きたいと思ってもいけない、ならば御殿に!と思うのもわかりますね。
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サザエ石
貴人の古墳といわれていますが不明です。

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院御所跡今は松林で何もありません。
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柿本社
柿本人麻呂の神社は雷よけの社
火災の被害で何度も再建された仙洞御所にかきのもとのひとまろ=火(か)の元を避けるとされ火災防止の社とされたそうです。

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又新亭と外越掛
以前は御所内にもう一つ茶室がありましたがやはり火災で焼失明治になり近衛家から献上された茶室です。

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最後に北池

観光の情報は【こちら】


和子の最後はまさに彼女の人柄が忍ばれるものになります。

危篤となった和子の女院御所には多くの後水尾法皇の子供達や近親者が見舞いに訪れました。
特に奈良に移住した梅宮円照寺宮文智光照院宮尊賀、女五宮が終日付き添い忠を尽くし、法皇、二上皇(明正・御後西上皇)、がそして法皇の皇子であった法親王・親王、院宮、皇女、後光明天皇の皇女まで一族の見舞いを受けたと法親王の日記にあります。

文智女王は和子入内の直前に後水尾天皇が女官(四辻御両人)に誕生させた皇女であった為、幕府からうとまれ出家され、修学院で草庵を結ばれた後奈良の円照寺へ移り住職となられた皇女です。
そんな皇女にも東福門院は奈良の円照寺へも安定的な財政を保てるよう領地を保持させるように働きます。
尼宮の奉仕はその恩に報いる為でもあったのでしょう。本当の母の様に慕ったのだと思われます。


1678年6月15日72歳で女院御所で夫後水尾上皇と明正上皇、後西上皇の見舞いを受けた後、訪れた近親者を遠のけて円照寺文海尼ともに観音経を読誦しながら崩御されました。



辞世の句

武蔵野の 草葉の末に やどりしか みやこの空に かへる月かげ   和子


かかる時 ぬれぬ袖やは ありそ海 浜のまさごの 天の下人   和子崩御の際に後水尾法皇の詠んだ句 

女院御所内法皇休息所で待機していた法皇は和子の死に落胆した様子を法親王の日記に「御愁傷以外之御躰也」とあります。


6月26日和子は御寺 東涌寺へ葬送され、壮大な法要が営まれた後、荼毘にふされ陵は「月輪陵」の一角に設けられました。

一連の法要の後、縁の人々に「形見の品」が贈られ故人を偲ばれました。

和子には浪費家としての側面がありました。
しかしそれは宮中で生きてゆく糧であり、必要不可欠な物でした。

それらは徳川幕府からの和子の化粧代や父からの遺産金は莫大な額に登り、その潤沢な資金で多くの芸術を生み出しました。

後水尾天皇と共に仏教信仰の深い持ち主でありました。
自身の菩提寺に光雲寺(非公開)を摂津から移築再興します。
元は南禅寺を開山した無関普門禅師(大明国師)が弘安3年(1280)に開創しその後戦乱で荒廃した寛文年間南禅寺の英中禅師から自身の「女院の菩提寺」として紹介を受け南禅寺北側に再興した寺です。
再建当初は七堂伽藍をもった大寺院でしたが、火災にあった後は規模を縮小され、現在は南禅寺禅道場研修センターとして使われています。通常は非公開、禅体験を希望される場合のみ予約して「禅体験」が出来ます。

文化面では茶道に深く千利旦を宮中に招き茶会を催し、野々村仁清に京焼を作らせ、京の呉服商雁金屋尾形光琳に豪華な小袖を多く注文(これらは自身のためだけではなく皇族や女官達にも下賜されていました。)内裏、院御所に小袖を流行させました。一級の芸術家のパトロンであり夫と共に寛永文化の担い手でした。

彼女自身も手先の器用さから押花を数多く後世に残しています。「梅図」「在原業平図」「小野小町図」など特に花や歌仙が多く作られ現在も寺院や千家に伝えられています。

宮中で存在感を増し「菊と葵の和に全人生を捧げた人和子、運命を受け入れながら困難も克服出来た強い女性」

以降幕府は将軍家の娘を入内させる事がありませんでした。
和子は最後の武家出身の中宮、女院となりました。
すでに朝廷の力が弱まり天皇の権威も弱くなっていった。
維持費に金がかかりすぎる。
将軍の正室腹の適齢期の姫がいなかった。
いろいろ理由があったでしょうがかりにいたとしても和子の様には生きられなかったでしょう。



追記:和子を想像して添付している十二単姿は1012年、2013年の井筒さん、京都市観光協会さん、大覚寺、紫式部顕彰会さんの企画イベント「紫の縁」の際に舞少納言を撮影しています。
なので更に服装が平安モードです。和子の着用したものとは少し違いがありと思いますのであしからず!

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京都御苑の銀杏

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今日のランチは京都市役所前の押小路にある「さらさ押小路」でランチパンケーキを頂きます。
デザートとして思い浮かべますが、意外としょっぱいソーセージやハムと合うんです。
しょっぱあまの美味しいの哲学です。

しかしここは厨房が丸見えなんですが、シェフがソーセージ盛り付け、もう一人はパンケーキを手ずかみ
しかもマスタード、ケチャップをつけてみてと食べ方のレクチャーがあるのに両方ともなし!!!
だめでしょ~~~~次回はリピなし

お店の情報は【こちら】

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カフェはミディアプレミディさんでフロールとカフェを頂き!
こちら栗のタルトとなんと久々登場のフィナンシェが復活していました。
やった~~

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最後に京都プチおみや巡り

京都大丸、伊勢丹、でGET
そして御存じ仙太郎さんへ大好きな和菓子をいくつか頂きます。

京都は洋菓子も美味しいいつものパティスリーSさんでいろいろGET
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