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京草子 雅な京都絵日記時々詣で 2012年08月

舞少納言いとおかし姫、宮を草子

舞少納言外国の姫、宮様方を草子する。

最近アメリカのアマゾンで買い物をしました。その商品は
「フランツヴィンーハルタ―ヨーロッパナショナルギャラリー」

と題した19世紀末のヨーロッパの王侯貴族の肖像画を紹介した画集です。
彼は日本で歯あまり知られていません。いやドイツでも正直???しかし私達がヨーロッパを旅行し宮殿や美術館を訪れた際必ず目にしている絵の画家です。
1805年現在のドイツでバーデン大公国シュヴァルツヴァルトの小さな村メンツェンシュヴァルトで農民の6子で生を受けます。
彼は少年のうちに芸術家を目指すべくドイツ国内の工房や大学で学び、1828年バーデン大公レオポルト1世の公妃ゾフィーの絵画教師になり社交界に入り、大公夫妻の肖像画を描き、宮廷画家の地位を得ます。
バーデンでの地位に満足せず、パリに出て各国王侯やその妃や娘達の肖像を手掛けます。
彼の描く肖像画はモデル当人の要容貌を過剰に描くことなかった。しかしその描き方は彼らの望む崇高な姿を民衆に与えるに十分でした。
フランスに限らずイギリス、スペイン、オーストリア、ベルギー等々彼の訪問を望み多額の報奨金を得ていました。
晩年はドイツカールスル―エで暮らし、1873年にチフスにかかり病死しました。

彼の作品集を見ながら
19世紀末 ヨーロッパでもっとも美しいNO3を決定!!!

舞的条件

①フランツ・ヴィンタ―ハンターが描いた肖像画に描かれた女性
②皇族王族の女性、もしくは貴族の女性に限る


第一位

オーストリア皇后
IMG_1995.jpg

「エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ」

バイエルン公爵マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの第2子として1837年12月24日に首都の公爵邸で誕生しました。あのルードヴィッヒ2世バイエルン王の従姉弟にあたります。
公爵は当時としては革新的自由主義の考えの持った王族で旅や趣味にその多くを費やし庶民に愛され、母ルドゥヴィカは人生のほとんどを子供達の養育にそそぎました。夫婦は政略結婚で気難しいマクシミリアンの性格もありあまり幸せなものではありませんでしたが、多くの子供に恵まれ暮らしていました。そ彼女は通称シシと呼ば多くの兄妹姉妹と共に郊外の城ポッシー(通称)で自然ので中産階級の様な生活を楽しんでいました。

しかしその彼女に転機がおとずれます。姉ヘレーネと従兄のハプスブルグの皇帝フランツヨーゼフ1世とのお見合いするため訪れたバートイシュルで、シシに皇帝が一目ぼれをしてしまいます。
母ゾフィーの反対にもかかわらず、皇帝はがんとしてエリザベートと結婚すると言ってききません。これは最初で最後の母への反抗と言われています。
結局バイエルン家の婚礼にかわりなく、しぶしぶゾフィー大公妃は許可します。当のエリザベートは始めこそ喜びますがお后教育が始まるとたちまち反抗しノイローゼやヒステリーを起こし周囲を不安にさせます。
ウィ―ンにおいてもゾフィーがエリザベートを完璧な皇后を必要に強要、高圧な態度で接する内、彼女は体調を崩しマデイラ島やイタリアで静養と称して長く滞在し宮廷によりつかなくなります。
しかたなくゾフィーがおれ、宮廷に戻るとその美貌を武器に一時皇后の職務につき決して王宮を訪れることのない客人が訪問するとさえいわれるほどその美貌は最高潮に達します。

彼女もその美貌をキープするため美容や髪の手入れ、食事などに拘り、王宮に小さなジムで運動をしたり、1男3女(うち1女は幼児期に死亡)を得、皇太子ルドルフを出産すると夫との同きん拒否します。ただしハンガリー王国樹立の際にはハンガリーの為に子供をもうける事を希望し最後の子供マリーヴァレリーを出産するも二度とベットを同じくしませんでした。

ゾフィー王太后が死去した後もウィ-ン宮廷によりつかずハンガリーの独立(軍事以外)を支援する以外はまたもヨーロッパ各国に別荘や旅行、乗馬に明けくれ「カイゼリン」ではなく「ライゼリン」(皇后ではなく旅人)と揶揄されるほどでした。

172CMにウエスト50CM体重50Kをキープするため行った絶食で脅迫神経症を患います。せっかくの美貌も登山と異常な競歩でシミやしわがめだち、扇や傘で顔を隠し後年はあれほどとらせた写真や肖像画を残させませんでした。(50代後半と晩年に撮らせた2枚のみが現存しますが、白黒の為その美貌の判断は不可能です。ただ同じ年齢の女性と比べれば確かに綺麗な初老の貴婦人には間違いありません)

息子ルドルフが愛人と自殺するといっそうウィーンによりつかず海外を旅行し、ついに1898年9月10日ジュネーブのレマン湖畔でイタリア人アナーキストに刺殺され客死します。

夫皇帝がこの訃報を聞いた際、側近に
「どんなにか私がエリザベートを愛していたか誰にもわかるまい」と語ったと言われています。

彼女は生前別荘に埋葬してほしいと語っていましたが、今ウィーンにある帝室墓地のカプチーナ教会の地下に皇帝と皇太子と共に永遠の眠りについています。

あれほど一に見られる事をいやがった家彼女はきっと嘆いているでしょうね。


エリザベートの紹介は【こちら】


第二位

ロシアの貴婦人
IMG_1990.jpg

バルブ・ドゥ・リムスキー=コルサコフ夫人

残念ながらロシアの貴婦人でロシア宮廷で美貌の誉れが高かったとしかわからない美人です。
少し若かりし頃の名取裕子さんに似ています。紹介するほどの経歴がないのでこの絵が描かれたロシア王室の余談を紹介します。この絵は1864年製作されました。当時のロシア皇帝はアレクサンドル二世の時代まさにロシアが改革の嵐が始まろうとしていた激動の時代の第一章の皇帝の時代でした。
この皇帝の皇后はヘッセン大公女(実は母大公妃が不倫の末もうけた末娘)マリー、皇帝の一目ぼれで皇后になったものの内向的でモードに興味がなく、話題も少ないのでロシア宮廷では人気がなく、しかも呼吸器系が弱く病気がちになっていました。皇帝との間には8人もの子供に恵まれたものの夫との中は冷えたものになってしまいます。皇帝は皇后が病気がちであることを理由に浮気を重ね私生児まで作っていました。
この1864年スモーリヌイ女学院を訪問した際皇帝が少女の頃に出会ったエカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァを見染めます。二人は何度となく会ううちに惹かれあいますが、エカチェリーナは皇后の存在があり、肉体関係は強く拒んでいました。ただの愛妾で終わりたくなかったのでしょう。
しかし皇帝の早急な改革に反対する勢力の暗殺未遂事件でエカチェリーナ―は態度を軟化させ、二人は離宮で結ばれます。皇帝は彼女を皇后付きの女官として宮廷に出入りさせ4人の子供達も認知しました。そして1880年肺炎で皇后が死去するとすばやく周囲の反対を押し切り、貴賎結婚してしまいます。しかし幸せな結婚生活は長続きせずに1881年ポーランド人革命家の手で暗殺され死去しました。エカチェリーナは皇帝亡き後子供達とロシアを離れパリやリヴェラで小さなサロンの女主人として生活し財産を使い果たして死去しました。

第三位

フランス皇后
IMG_1989.jpg
マリア・エウへニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック
ウジェニー・ド・モンティジョ

テバ・モンティホ伯爵、アルガバ侯爵、ペニャルダ公爵の称号を持つスペイン貴族ドン・シプリアーノ・デ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロと裕福な実業家の娘マリア・マヌエラ・キルクパトリックの間に1826年5月5日に誕生した第2子でした。幼少期からパリの修道院で生活し、成人するとパリの社交界でデヴューすると父親譲りの勇敢さに彼女の美貌はフランスのみならず、ヨーロッパ各国へ伝わって各国の王侯貴族から求婚されますが断り続けやがて鉄の処女と言われるようになります。

その彼女が出会ったのが当時のフランス大統領ルイ・ナポレオン・ボナパルトでした。すでに初老にかかったこの男は持ち前の浮気くせにウジェニーとデートを重ねますが、当のウジェニーはデートにはおおじるものの肉体関係は拒み続きます。しかし当のナポレオンは皇帝に即位してもウジェニーを妻にするという約束に応じません。母とウジェニーはついに強硬手段にでます。ナポレオンが求婚しないならパリを離れるといいだしたのです。
これにさすがのナポレオンも側近の反対を押し切り折れて、1853年ノートルダム寺院で結婚式を挙げ皇后になりました。
ウジェニー皇后はナポレオン3世の全盛期には政治的介入はなくもっぱらその美貌とモードに注目されヨーロッパの最先端の貴婦人の一人となります。
特にクリノリンと呼ばれる肩と胸を大きく見せ、腰から下を大きなバルーンの様なスカートを特徴とするドレスが流行ると専属のデザイナーに多くのドレスを作らせてその美しい白い肌に身につけ優雅に着こなしました。又王妃マリーアントワネットに大きく傾倒し彼女の遺品を収集するほどでした。パリの街を乗馬で散歩する事もあり市民には人気がありました。しかし夫婦間は度重なる流産と夫の浮気に冷え切っており、1856年ようやく息子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルトが誕生すると離婚する意思もなくなり皇后の職務を優先していき、度々摂政として政治に関わる事もありました。しかし1871年普仏戦争の敗戦でナポレオンが失脚するとイギリスに亡命します。夫婦関係は落ちついたものになり、1873年夫がイギリス郊外のハンプシャーで病気で死去すると息子の教育に専念します。またも彼女を悲劇が襲います。軍属していた息子が1879年アフリカで戦死したのです。以後財産的に裕福だったので、お金に困る事はありませんが、孤独のうちに外国で暮らし1940年故郷のスペインで幼馴染のアルバ公爵邸を訪問した後風邪をこじらせ死去しました。遺体はハンプフャーへ戻され夫、息子と共に眠っています。

ウジェニーの紹介は【こちら】




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