2012-07-25

蓮の花を見やるのみぞ、いと涼しきここちする。

訳:蓮の花を見てる時だけなぁ~めっちゃ涼しい感じがすんねん

夏の暑い盛りに京に挑みます。

まさに挑む!!!あっついんです~~~万全の態勢で!!!


今回の課題
「宿坊に泊まる夏の京を訪れる舞少納言」




今日は祭りだ祭りだ~~~八坂神社の祗園祭り

皆さん祗園祭りは7月中旬じゃんと思っている方多いはず!
あれは山鉾巡行という祗園祭りの中の行事です。

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これですね~
実は祗園祭りは八坂神社の行事1カ月間の長期に催される京都最大規模の御祭りです。
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古くは祗園社と呼ばれた八坂神社は斉明女大王の時代に高句麗(今の北朝鮮にあった王朝)調進福使・伊利之使主(渡来して八坂造の姓を持つ豪族といわれている)が創建という定額寺の寺境内にあった天神堂が前身です。中世に最も信仰され京の信仰対象として大いに栄えていました。慶応4年に八坂神社と改められました。
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御祀神は素箋鳴尊(天照大神の弟)櫛稲田姫命(素箋鳴尊の妻)八柱御子神(素箋鳴尊の子供達)

素箋鳴尊は古事記によるとイザナギの神が筑紫の海で禊祓をした時、最後に生まれた神様でした。
ある日素箋鳴尊は父イザナギの神の怒り(黄泉の国に行った母にあいたいとだだをこねた)を買い、高天の原を追われ、母の国に行く途中に高天国を治める姉の天照大神を訪れ滞在していました。
しかし日々粗悪な振る舞いが多くなり、怒った姉が岩戸に隠れてしまいます。なんとか岩戸から外に出せたもののその責任をとわわれ、再び高天国を追放されます。
放浪する素箋鳴尊が訪れた出雲国で「八保の大蛇退治」を行い櫛稲田姫命を妻として出雲の国を建国したと伝えられています。

平安時代のはじめ頃、都に疫病が流行し多くの人々が死に絶えました。
この疫病を退散せしめることができるのは、素戔嗚尊のような乱暴者の神以外いないと祇園社に祀られているこの神に祈りました。

その神事は祇園社本録で、貞観11年(869)6月7日神泉苑に矛66本を立て、祇園社から神輿を送ることから始りました。
祗園祭りの始まりです。

神様の中で非常に霊力が強い神様は生前高貴な生まれでありながら不幸な死に方をした人物が多いです。
たとえば天神様、大国主(大物主)、御霊神社に祀られた天皇や皇后(崇徳上皇、後鳥羽上皇、井上内親王など)歴史的に政治に敗れ死んでいった人物、後年怨霊となって災害をもたらしたなど。

素箋鳴尊もその人柄が荒々しく高原の国、葦原中国を追われた敗者と考えれば納得です。
神話のお話ですが、歴史的にベースのある逸話を元にしたかも・・・・

祗園祭りは7月1日~5日の吉符入に始まり
7月1日長刀鉾町お千度
  2日くじ取式・山鉾連合会社参
  7日綾傘鉾稚児社参
 10日幣切・高橋町社参
 10日~13日鉾立
 13日長刀鉾稚児社参
 12日~13日鉾曳初
 12日~14日山建
 13日~15日舁初
 14日~16日宵山
 15日斎竹建
 16日日和神楽
 17日山鉾巡行・くじ改め・神幸祭・神輿渡御出発式
 20日宣状式
 24日花傘巡行
 24日還幸祭 
 28日神輿洗式
 29日神事済奉告祭
 30日疫神社夏越祭    

これは祗園真祭りの主だった行事を載せただけでほかにも舞奉納や行事は沢山行われます。
それだけ夏の疫病に恐れを懐いていたんですね~~~

今回は花笠巡行を見学しました。
山鉾巡行は以前、7月17日(前祭 山鉾20基)、7月24日(後祭 山9基)の2回にわかれていたのを昭和41年(1966)に後祭が17日に合流し、後祭の行事が喪失した替わりに始まったのが花傘巡行です。

10時から行列がスタートするので約1時間前に八坂の西楼門の階段で待機します。

この行列は芸能色が強いので時代衣裳や各地方の祭りの衣装などカラフルな衣装の人達が八坂神社から2時間市内を練り歩き、再び八坂神社に戻ります。
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花笠行列

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神饌花車
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児武者
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花車と行列
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児武者

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古墳時代、奈良時代、平安時代の装束
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京都織物卸業商業組合花傘

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祗園甲部お茶屋組合花傘
芸者衆ですね。

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宮川町お茶屋組合花傘

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鷺踊行列

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万灯踊り行列

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河原町へ向かう行列

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祗園ばやし
その後13時頃から境内の舞殿で奉納の舞などお披露目の行事が始まります。

観光の情報は【こちら】


長時間炎天下の中にいたので、近くの辻利さんの2階の茶寮で氷を頂きます。
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さすがに11時だと並んでいません。だれもいない3階席に陣取りました。
パフェが人気ですが、この暑さを吹き飛ばすには氷でしょう。お茶屋さんなので抹茶の氷をオーダーします。
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祗園祭りの時期だけの限定パフェ&抹茶氷セット!!!

氷美味しいです。
抹茶とこの夏蜜柑のゼリーめちゃ合います。酸っぱさと抹茶の苦みGOODJOB

帰る頃には階段に行列出来ていたさすが!!!
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四条大橋から賀茂川を望む。今は川床が沢山出ています。

涼んだ後はランチです。

2日間の食事は日本食をテーマにします。
あまり京にきても和食を食べる事が少ない!何故???
ん~~~意外とイタリアンフレンチ共に美味しいから、京の和食は高いのです~~~
でも今回はどっぷり京
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昼食は四条の大丸さんのすぐ近くの「割烹 なかじん」へ外装はいかにも京都らしい~~~
なかじんさんそうあのお蕎麦屋で名を馳せた名店のご主人が突然蕎麦アレルギーに!!!
お料理屋を始められ、これまた評判のお店です。
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突き出しは「ゆばと小松菜のおひたし」

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前菜3種盛り合わせ
「からし明太子のゆばまき・イタリアン豆腐・はもの南蛮漬け」

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季節のサラダ自家製紫蘇のドレッシングで

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天麩羅(ささみ、ズッキーニ、みょうが、アスパラガス、)

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ごはんとみそ汁、香の物

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ヨーグルトのシャーベット

全体的に薄味でいかにも京都の割烹、しかしリーズナブル~~~天麩羅私だめなんですが、ここのはOKだめなのに選んだ???まあいろいろありまして・・・

お店の情報は【こちら】


食後の八坂神社の奉納舞を楽しみます。
丁度後半で、まあ楽しみにしていた鷺踊りをする頃だったのでOK
津和野の踊りと思っていたら、ここが発祥で八坂神社の奉納舞が津和野藩に伝わり、近年祗園花傘巡行が行われなくなった際に一度消え、再び再興された際に津和野の鷺踊りを参考に復活した踊りだそうです。
子供がかわいい
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夕食はいつもの平安神宮さんと動物園のすぐ傍「山元麺蔵」を早めに訪問です。
少し饂飩屋のわりにお値段高めですが、まあこの仕事なら納得です。
意外と並んでなかったのでよかった~~~
期間限定の「肉と茄子の黒いつけ麺」にしました。
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饂飩のこしは前回より感じられないもののまあ美味しいです。
スープは黒ゴマベース、唐辛子と七味をいっぱいいれて頂きます。かつおだしで割ると美味しいです!!!!!

お店の情報は【こちら】

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夕方に再び河原町の御旅所を出発する「還幸祭」の始りです。
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八坂神社の3体の御神体がここから出発して洛中を神輿を担いで威勢よく駆け廻ります。
この行事で洛中にいる魑魅魍魎をこの3体の神様に退治してもらう行事です。
深夜に八坂に戻り、神社内の灯りを全て消して御神体は元の場所に戻ります。
三体とも時間をずらして出発するので夕食時でも間にあいました。

今日の御宿は京都の宿坊です。
宿坊はお寺の中で宿泊出来る施設です。京都市内でも何箇所かあり、中にはホテル並みの所もあるようです。
今回はいくつかの中で翌日に法金剛院に行ける距離、で値段設定もリーズナブルな所を選びました。
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選んだのは洛中の「妙蓮寺」(写真は翌日撮影しています)
本門法華宗の大本山で日像上人を開基としています。永仁2年に柳屋仲興入道妙蓮法尼が、日像上人に帰依し西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのがこの寺のはじめです。永亨年間に、日存・日道・日隆・日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。
その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、今の地に移り天明の大火(1788)後の再建です。
秋から春にかけては御会式桜、春は茶道に好まれる妙蓮寺椿、5月の躑躅、夏から秋にかけては芙蓉の名所として知られています。
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宿坊の特徴はチェックイン・アウト・消灯は早め、朝のお勤め(自由参加が最近の主流)、備品はほぼなし
でも普段とは違う体験が出来ます。
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事務社内
この宿坊はお風呂がありません。しかし近くの銭湯を3か所のうちどれかに入れる銭湯券つきなので、汗ばんだまま就寝って事はありません。

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翌朝しったのですが、この障子を開けると下は墓地でした~~~
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夜はテレビもないし、静かに持参の写経をしてみます。
妙蓮寺さんの宿坊は綺麗でお部屋は旅館並みです。ただしお風呂はそとの公衆浴場で!

宿泊の情報は【こちら】

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朝の妙蓮寺さんの御庭

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ムクゲの花

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百合の花

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法金剛院に向かいバスの途中にみごとな百日紅の大木が咲き誇っていたので途中下車しました。
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この辺りは堀川で川の下は遊歩道になっています。ソウルの清渓川に似てますね。


今日のテーマは蓮を見に行きます。
京都の蓮の名所で有名なのは法金剛院を訪問しました。

元々は右大臣清原夏野が山荘として利用していたのを没後、雙丘寺と称し文徳天皇の勅願で天安寺となった後、平安末期には著しく荒廃していました。

その寺院を大治5年(1130年)鳥羽法皇の中宮待賢門院が再興した寺院です。阿弥陀堂と女院御所からなる建物の造営で始まり、後に三重塔、経蔵、北斗堂、など建築され、最盛期にはJR花園を超えた南部も境内でした。女院崩御後皇子の覚性入道親王、皇女上西門院が所有しその後仁和寺所有となっていました。
その後荒廃し円覚上人よって構成半分ほどに縮小されてから再興され残った禅宗寺院です。

庭は平安末期の浄土式庭園を今に伝える回遊式庭園、季節の花で四季折々楽しめますが、一番の見どころは7月後半から8月半ばの蓮の季節です。

本堂へ向かい小道には季節の花が見ごろを迎えています。
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百合の花

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桔梗の花

女院再興の頃は丁度五位山を北に配し、小高い山から流れる小さな滝「青女滝」があり、ほぼ中央に巨大な池を設け舟遊びに興じたといいます。
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現在の青女滝
当時は東側に女院御所のある寝殿「仁和寺の御所」、西に御堂、宝蔵、鐘楼、南の東に南御堂、西に経蔵、中央に築山やや西に五重塔という巨大な寺院でした。

現在はその四分の一もあるでしょうか?
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御堂と蓮
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紅八重茶碗
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西円寺青蓮
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待賢門院の女院御所は今はありませんが、こんな感じで庭を眺めていたでしょう。

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紅台蓮

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法金剛院蓮

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白君子蓮

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舞姫蓮
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法華寺蓮

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嘉祥蓮

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月の兎蓮

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百合の花

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紫陽花

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不忍池斑蓮

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ヤブミョウガ

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蓮池

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蓮池と五位山

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五位山山腹北西に待賢門院陵が、東側には後白河天皇の同母姉で仲の良かった美貌と才に恵まれた統子内親王(上西門院)の陵があります。
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待賢門院陵
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統子内親王(上西門院)陵
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仲良くよりそうムクゲの花、待賢門院と統子内親王のようですね。

さて待賢門院といえば今年の大河ドラマ「平 清盛」で壇れいさんが演じていますね。

せっかくなので平安末期待賢門院の生きた時代をご案内しましょう。

当時は堀河天皇治政の頃、といっても白河上皇院政の時代にありました。

平安時代の摂関政治は藤原氏が天皇の外祖父となるという絶対条件が成り立って成立してました。
しかし末期にはついに外祖父を持たない天皇の即位を迎えます。
後三条天皇の誕生です。
この天皇は藤原氏の勢力を弱める事で他勢力の登用と荘園の整理に力を入れ、皇室の財政基盤を強め摂関家の財政不安を起こさせます。
それにより皇室の力を強め、政治を皇室に返す事を目指しました。

しかし道半ばで崩御、後を継いだ白河天皇が即位すると、父の方針を受け継いだ弟である東宮が死去します。
すると息子(清盛の正妻平時子の甥)を東宮にすえ、すぐ譲位して上皇になり院政を行います。

院政とは天皇が生前譲位して位を降りた天皇に与えられる位です。上皇は独自で宣旨が下せ、白河上皇はこれに地方の受領達といった中産階級や源、平氏といった武士の登用「北面の武士」を積極的に行い天治の君として三天皇の長きにわたり権力を持ち続けます。上皇は内親王死去後、世を嘆き出家し法皇となりますが、上皇時代とかわらず権威を維持し俗世に生きます。


待賢門院は権二位権大納言藤原公実と左中弁藤原隆方の娘光子の間に康和3年の1101年に出来た娘本名「璋子」といいます。

大納言といえば上から5番目の官位です。天皇の后や国母も輩出しているのでまあまあな血統ですかね。

但し同じ藤原氏でもいわゆる摂関家とは違い傍流の藤原家閑院流の姫の身分で誕生しました。
しかしその最大の後見人の父を7歳で亡くし、母は堀河、鳥羽天皇の乳母として宮中出仕していました。

将来を閉ざされかけたその時、この窮地を救った人物がいます。
時の治天の君「白河法皇」でした。白河法皇はこの娘の存在を知り、時の寵妃祗園女御に養育をまかせます。祗園女御とは身分さだかでない法皇の寵愛を受けていた女性で、その邸の場所と女御のように権威を持ったという意味で祗園女御と呼ばれていました。
当然法皇は彼女の元に幼い可愛らしい少女璋子は身近な存在、しかも小さな女の子を養育する役はまるで源氏物語の「若紫」(紫の上)を連想させます。しかも可愛らしい幼い少女を法皇は溺愛します。寝所では共寝し璋子の足を懐に入れさせていたと当時の記録にあります。
近臣者もこれを示唆して上皇の祗園女御の養女璋子と法皇は親子を超えた仲という噂を信じていたようです。

これは法皇が時の関白忠実にその息子忠通と璋子の結婚を示唆した際に「璋子の素行に問題がある」と言い吉日をえんえんのばされた法皇はついに激怒、忠実は政界を追われます。真実ははっきりしないが義夫娘の愛の噂は信じられていた。という事ではないでしょうか?

腹を立てた法皇は関白に与えられる内覧の地位をはく奪し、忠実の娘で鳥羽天皇の后として入内打診があっつた忠実の長女泰子を拒ばみ崩御後も入内を許さない!という陰湿な嫌がらせが行われます。

法皇は婚期を向かえた璋子をなんと孫の鳥羽天皇の后に押す為、正式に自分の養女にします。

ついに永久5年(1117年)16歳で女御として入内し、彼女はすぐに正式に中宮の地位につきます。
ちなみに鳥羽天皇の生母堀河天皇女御の藤原苡子叔母にあたりつまり二人はいとこ同士という関係です。
入内すると翌年には鳥羽天皇の第一皇子を出産し、以降鳥羽天皇との間に五男二女を産みます。一后に五親王という多産の后に当時でも珍しいと言われていました。璋子の宮中生活に障害はまったくありません。
これはもちろん法皇と生母鳥羽天皇の乳母光子の威光によるものと考えられます。
璋子は出産においても異例でした。産まれた子のへその緒を自ら切り、初乳も行ったと伝えられます。意外と気丈な性格だったんでしょうね。

さて入内後の白河法皇、鳥羽天皇、中宮璋子のトライアングル関係とっても奇妙です。
中宮璋子はことあるごとに白河法皇の院御所に里帰りと称して内裏を離れますし、法皇は中宮が妊娠するたびお腹の父親のごとく大規模な安産祈願をしたり、又院御所に里帰りする璋子の御所車を極秘に垣間見たりと尋常でない溺愛ぶり。とうの鳥羽天皇は不快な態度や言動も0どころか容認??ともとれる行動もありました。
当時の大鏡という読み物の中では白河上皇、鳥羽天皇、中宮璋子は同じ邸に住み、行幸する時も同じ車に乗り移動したり、当時流行した熊野詣も三人で同行しています。
三人の心況はどうだったのでしょうか???いつも三人一緒・・・・・。
白河上皇と璋子はわかりませんが、鳥羽天皇ははっきりしていました。
そのことはのちほど・・・。

中宮璋子の輝かしい頃はまさに鳥羽天皇、息子崇徳天皇が即位していた宮中生活、そして国母として「待賢門院」と号され、白河法皇も健在であった時代でしょう。

鳥羽天皇の後宮は白河法皇の報復を恐れてか、初め璋子以外の妃はいませんでした。中宮として又鳥羽天皇譲位後は崇徳天皇生母として内裏に君臨しました。この頃の璋子のゆうつといえば第二皇子と第三皇子の身体障害だけだったと思われます。第二皇子は目宮と呼ばれ失明していましたし、第三皇子も萎宮と呼ばれ生まれながらに脊髄に異常があり又口がきけなかったといいます。璋子の閑院流藤原氏の長期間の近親婚の弊害でしょうか。
この二人を含む5人はあまり生きられませんでした。
当時後白河天皇と上西門院の二人が長生きで後の子供達は10代で死去しています。

後白河天皇は治天の君として栄華を誇り、上西門院は公卿の記録でその美貌を褒め称えられ、和歌にも精通する文化サロンを開花させた才女でした。崩御した姉の死を後白河上皇は非常に悲しんだと言われます。

璋子の子供達

元永2年(1119年)5月28日第一皇子 後の崇徳天皇
1122年第一皇女 後の賀茂斎院
1124年第二皇子 通仁親王(目宮)
1125年第三皇子 君仁親王(萎宮)
1126年第二皇女 統子内親王(上西門院)賀茂斎院
1127年第四皇子 雅仁親王 後の後白河天皇
1129年第五皇子 本仁親王 後の仁和寺総法務覚性入道親王

初めに出産が18歳、最後は28歳の頃です。
そんな輝かしい時代の終焉は突然やってきます。

義父白河法皇の崩御です。

当時は妊娠中でそんな最中の訃報に困惑したに違いありません。世間にどう思われようが信頼する義父の死に打ちのめされたでしょう。

没後一年には花園に当時荒廃していた天安寺を復興し鳥羽上皇、息子崇徳天皇の同席の中、華やかな法要が営まれたのも白河法皇への鎮護の意味もあったでしょう。その後も待賢門院、鳥羽法皇、崇徳天皇の法金剛院の行幸が何度も行われています。
法皇崩御後4年間は両院(鳥羽上皇と待賢門院)の関係は表だって深い亀裂はなかったようで大治五年(1130年)から保延六年(1138年)までに両院はそろって熊野を7回詣ています。又共だって法金剛寺に行幸され、院御所も同じくされる事やお互いの院御所を行幸する事もありました。
白河法皇没後、両院は信仰を通じて御互いの親交を深めていた様に感じます。夫婦間を超越した仲???
しかし確実に法皇の死は待賢門院の没落につながっていくのです。

何故なら白河法皇の死をきっかけに鳥羽上皇が院政を敷き始め政治を手にしたからです。
まず左遷されていた忠実を呼び戻し院御所に中断していた長女泰子を入内させ皇后と宣旨します。上皇は摂関家の力を強め政治を統率し、白河法皇の側近を排除して受領達の力を弱めていきました。この忠通は白河法皇の関係悪化が影響して待賢門院よりも美福門院よりの側近となり、反して頼長は後に待賢門院寄りの公卿となります。
このあたりが保元の乱に影響してしまったようです。

鳥羽上皇は勲子を義理で入内させただけで彼女が高齢で出産出来ず、このみでもなかったので寵愛しませんでした。それにも関わらず待賢門院はその地位を脅かされます。

そう別の寵妃が現れるのです。

名を藤原得子といい権中納言長実、母左大臣源俊房の娘です。こちらも摂関家の傍流藤原氏で待賢門院よりも少し劣る家柄の藤原氏(但し母方からは臣籍降下された天皇家の血筋が入っている)です。こちらも父から「ただの人にはえゆるさじ」と言われ溺愛されるも頼りの父が病死、死後二条万里小路亭で過ごしていた17歳の頃、同邸を院御所として使用していた所から鳥羽上皇の目にとまり、寵愛を受けます。すると内親王を保延5年(1139年)には遂に待望の皇子体仁親王を出産します。鳥羽上皇はこれを逃がすまいと3カ月後の冬崇徳天皇の皇太子にしてしまいます。
崇徳天皇の胸中どうだったでしょう。
崇徳天皇には中宮ではない女房の一人兵衛佐局腹の第一皇子重仁親王がいました。しかもすでに彼を寵妃得子は養子に迎えていました。なのに異母弟の体仁親王を崇徳天皇の皇太子にしてしまう。

実はこの鳥羽と崇徳の間には大きなわだかまりがありました。

実は当時崇徳天皇の父は鳥羽上皇ではなく、白河法皇という噂が実しやかに流れていました。
当の鳥羽上皇はそれでなくても白河法皇へのわだかまりがあります。まだ若い年で譲位させられ息子である崇徳天皇の父として治天の君の地位を奪われ世を憐れんだ男の性はその存在がなくなった時に大きく爆発していきます。

次に我子を皇太子につけた後、騙すようにして崇徳天皇に譲位させます。
口述では上皇は崇徳天皇の中宮聖子の養子となっていた皇太子に譲位させれば院政を行えるニュアンスを口にします。
しかし宣下では「皇太弟」を記載させます。
子供なら崇徳は院政を行えますが、弟となると行えません。院政はあくまで父が行えるのです。
鳥羽上皇は祖父白河法皇への報復を崇徳天皇に行うのです。
崇徳天皇は不満も口に出来ず、鳥羽田中殿に隠棲し和歌の世界に没頭していきます。

これでますます肩身の狭い待賢門院にあらぬ疑いがかけられます。
この体仁親王即位とその生母得子の皇后冊立の前後、呪詛事件が起こります。この呪詛の黒幕が待賢門院という噂にいたたまれなくなった彼女は崇徳上皇が法金剛院に行幸した後、康安元年(1142年)俗世を捨て、身近な女房と共に復興した法金剛院に入寺し落飾してしまいす。

入寺後は静かに功徳し、時折法皇や上皇が訪れ、まれに洛中の娘上西門院の御所に行幸するくらいでほとんどこの寺で過ごし俗世の縁を断ち切ります。

そして落飾3年後待賢門院が病いの為、実兄実行の邸三条高倉第に居た頃、それを聞いた鳥羽上皇は邸に駆けつけ行幸し女院を看取り、臨終の際は磬を打ちながら大声で泣き叫んだと台記という公卿頼長の日記に記載が見えます。
久安元年8月22日(1145年9月10日)に女院は死去します。廟は遺言により五位山の山中に土葬されました。

ふる里にけふこざりせば時鳥たれと昔をこひて鳴かまし       信法法親王

君こふるながきのしげき山里はただ蜩ぞともに鳴きける       堀河尼

限ありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな      崇徳上皇

散り散りに別るる今日の悲しさに涙しもこそまらざりけれ      堀河尼妹 上西門院兵衛

女院崩御後に法要がもようされ亡き女院の縁の人々が詠んだ歌

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女官堀河の和歌の碑

待賢門院は意外と本当に鳥羽上皇に愛されていたのかもしれません。
それゆえ白河法皇への怨念が強く、また政治的配慮からどうしても待賢門院は冷遇されたのでしょう。はけ口が二人に向けられたのかもしれません。
男女の関係はいつの世にも複雑です。

待賢門院の波乱に満ちた人生もてあそんだかもてあそばれたか???どちらともいえますね~~~愛に溺れた者はその愛におぼれさせられる運命かぁ~~~
女としてどちらの運命がよいのでしょうか?待賢門院か美福門院か???
早くなくなりよかったのかもしれません。何故ならさらに惨たらしい俗世を見なくてはいけなかったからです。

待賢門院の死後に保元の乱が勃発します。

体仁親王は即位し近衛天皇となりましたが、従来病弱な男子でした。鳥羽上皇も美福門院となった得子も皇統に一抹の不安がありました。まるで安全策をとるかの様に崇徳上皇の息子仁親王と雅仁親王(鳥羽上皇と待賢門院の第4皇子)の息子守仁親王を美福門院の養子を迎えていました。
これで崇徳上皇は我子の即位、自分が上皇として院政をおこなうのを夢見ながら過ごしていました。
そして1155年ついに近衛天皇が崩御してしまいます。
すると鳥羽上皇は崇徳上皇の期待とは裏腹になんと雅仁親王を即位させるのです。
この雅仁親王こそ後白河天皇その人です。この擁立には鳥羽上皇もかなりの藤原忠通と美福門院そして雅仁親王の乳母を妻にしていた信西らに無理押しされての即位でした。雅仁親王はかなりの遊び人でその遊びも品がなく、ただ今様を熱狂的に愛していたからです。今様というのは踊りながら流行歌を歌うものて当時京ではやっていました。主に白拍子という半分遊女の役割をした女性が踊る事が多かったので、貴族階級の遊びというより、流行りものの大衆娯楽でした。
そんな遊びを愛した雅仁親王は変人扱いでした。
美福門院は雅仁親王の皇子守仁親王を可愛がっていました。幼いうちから飼いならせば大人になっても操りやすいとみたのでしょうか?
実は守仁親王の即位を押すには近臣達や美福門院がまず父親を即位させてからという意見を聞いての誕生だったのです。

この美福門院とってもドライです。ライバルの待賢門院の産んだ子供を帝位に就かせるなんて並みの女じゃ出来きないですね。しかもその子達の子を養子にして飼いならす。自分が政権から追われない様に恩をきせるなんて・・すごい計算高い女性~~~しかもこの後鳥羽法皇の政治顧問である藤原通憲別名出家後信西と共謀して保元の乱を有利に展開させていきます。こわ~~~いこの人夫鳥羽法皇が死去後安楽寿院の墓に親子そろって入る様に遺言していたにもかかわらず、高野山に埋葬する様に遺言し今墓は高野山にあります。そうあの女人禁制のあの高野山にです・・・・・。

待賢門院の産んだ二人の皇子の闘いの火ぶたは切っておとされます。

保元元年7月2日(1156年7月20日)鳥羽上皇崩御

雅仁親王の即位で完全に院政の望みを打ち砕かれた崇徳上皇と降ってわいて来た天皇の地位を確実なものにしたい後白河天皇の拮抗する糸は鳥羽上皇の崩御という事態に完全に切れてしまいます。
一時期は同じ院御所で過ごしていたこともある兄弟ですが、元々気が合わなかったんでしょう。

そしてそれぞれの思惑に乗ろうと他の勢力達の動きも活発になっていきました。

摂関家は時を前後して相続問題に大きく揺さぶられていました。白河法皇院政時に左遷され鳥羽上皇院政下で政界に復帰していた忠実、その長男忠通弟頼長と対立していました。忠実は長く長男に恵まれない忠通に弟頼長の関白直系相続を強要していました。両者は悉く反面し合い対立していましたが、鳥羽法皇の崩御で表面化します。
忠通は美福門院の後押しを受け、頼長は「近衛天皇の崩御は頼長の呪詛した為」という噂になんとか鳥羽法皇の不快を解こうと姉高陽門院に仲介役に鳥羽法皇に接近するも姉の死を受け朝廷内で孤立してゆきます。誤解も解けずに鳥羽法皇は崩御、残っているのはその噂話しを信じて疑わない美福門院とその側近の忠通、信西でした。
崇徳上皇は中宮を忠通の娘を迎えていたのですから力を借りればよかったのですが、実は中宮聖子に後継者がなくしかも崇徳は女官に皇子を産ませていました。それが両者を離した最大の理由だったようです。
更にこの両者に北面の武士集団の長達が相乗りしていきます。
源為義(父)・為朝(弟)平忠正(叔父)頼長派忠通派頼長に平清盛(甥)、義朝(長男・兄)が武装対立します。

鳥羽上皇崩御3日後「崇徳上皇が兵を東三条殿に集め後白河天皇の内裏高松殿を窺っている」という噂を後白河天皇派が流し、ここでそく天皇側が兵を動かせ東三条殿を没収します。5日になると崇徳上皇が兵を集めるとその動きにそなえ内裏高松殿を武士に警護させ、上洛する兵の通行を禁止します。

崇徳上皇は九日に鳥羽田中殿を出て白河先斎院御所に入り10日には白河殿に入り、頼長も合流し白河殿を本拠地にします。するとまちかねたように11日天皇軍がその白河殿を夜襲、明方には火に覆われ上皇軍の敗退が明らかになります。頼長は戦死、当の崇徳上皇は白河殿を抜けだし弟のいる仁和寺に仲介を頼むが断られ、遂には投降し捕えられ讃岐に流刑後、崇徳についた武士達は悉く処刑されました。崇徳はその後かの地で崩御します。
この京都の乱はあっというまの出来事だったそうです。

乱後は後白河天皇、二条天皇治政下、信西(平家物語で崇徳上皇の寵妃阿波内侍の父親です。)を中心とした政治政策がとられていきます。特に荘園整備に力を入れまた北面の武士の平清盛を遇じていました。
すると政権は信西一門、後白河上皇派、二条天皇派、平氏一門に分かれ、内部崩壊を始めます。
ます信西の政策に反発していた藤原信頼が保元の乱で恩賞を多く受けられなかった源氏の処遇に不満を持つ源義朝が近ずき、天皇家は後白河上皇派と二条天皇(守仁親王皇太子)派でわかれます。

平治元年12月9日(1160年1月19日)には平治の乱がおこります。

藤原信朝と源義朝ら武士が後白河上皇の院御所三条殿を襲撃、後白河上皇と姉内親王、二条天皇を内裏に監禁、信西は奈良に逃亡後自殺しクーデターはひとまず成功したように思えましたが、熊野詣で留守中の清盛はこの知らせを受けた後に京へ帰還し義朝打倒に兵を動かせます。

すると後白河上皇が25日仁和寺へ脱出、26日天皇も清盛の六破羅邸に移り、合戦は六破羅で行われましたが、清盛の敵でなくあっさり信朝、義朝は敗戦します。義朝らは殺害され源氏は散りじりになり平氏にその主導権を完全ににぎられます。信頼は処刑、成親は流刑これに係わった者も処罰されました。

これで朝廷内は御互いの重臣達を失い、二条天皇と後白河上皇派勢力は拮抗状態になっていくのと反対に平清盛が大きく前進し「平氏にあらずば人にあらず」平家の時代へと移行していくのです。
歴史の1ページですね~~~
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街並みに咲くむくげ

しょうざんに行く為に千本丸太町でバス乗り換えをしようとしたら、バス停傍に大極殿跡という碑を発見しました。
現在の御所を中心とした洛中は桓武天皇が遷都した平安京ではありません。初めて山城京ともいわれた平安京は現在の京都御苑より西に位置していました。
今は二条城や神泉苑を中心とした所です。火災によって内裏が移動するのとともないこの辺りはさびれてしまったんですね。
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大極殿跡
内裏の中心御所の辰寝殿にあたります。イメージとしては平城京にある大極殿と同じ建物がありました。
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ここにもムクゲが咲いています。

北山のしょうざんに昼食に向かいます。
ここは昭和26年京都の西陣織物業に貢献した松山政雄が三万五千坪の庭園に日本建築を移築させ、季節を楽しむ食事処を兼ね備えた京の奥座敷、涼を楽しみに来ました。
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入口近くの紙屋川
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竹林とヤブミョウガ
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紫陽花

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今日はここで川床の会席を頂きます。
入口

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下にあります。

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川床の清涼感あふれる~~~素敵!
予約してないので川際ではなかったですが、角だったので川と滝がしっかり見れています。
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青笑う~~~

お料理は会席
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前菜

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お造り盛り合わせ

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冷たい煮物

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鮎の塩焼き

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山菜の炊き込みご飯と汁もの、香の物

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西瓜これ全然甘くないイマイチでした。

まあお料理としては~~~純日本食ですから、でもこのロケーションで4000円はいいでしょう。
貴船ならせいぜい同値段でそうめん定食ですからね。

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市内とは違いまったりとして川のせせらぎが-イオンのシャワーとってもほっこり~~~

お店の情報は【こちら】

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市内に戻り和スイートほっこり茶寮の紫野和久傳堺町店を訪問します。

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下の壷庭が綺麗です。

個人的にここのグループある事情の為あまり好きではないので訪問をさけていましたが、茶寮ぐらいならと気をとりなおし訪問しました。
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金時とほうじ茶のソルベと蓮根餅を頂きます。
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この金時とても美味しいです。透明感のある餅~~プルンプルン~~~夏らしい


お店の情報は【こちら】

今日の京はこれで終了です~~~帰宅~~~
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