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後の舞少納言斎王群行を見物するの巻

ご注意事項今回の第一,三章目は舞少納言が斎王群行を紹介するという設定の為、言葉のいいまわしがいとなります。

第1章後の舞少納言斎王さまを待つ
丁度伊勢の斎王さまの恭子女王さまが伊勢に上られる群行があるというので、ご尊顔を拝することとなりました。

 まだ宮中にあがる前のお話です。私は父が近江の国の国司の任を賜った際、かの地で過ごしていたので勢多、甲賀に続き、斎王さまが宿泊される近江最後の垂水斎王頓宮で父は私がお供するのをお許しになり斎王さまをお待ちしておりました。
こちらの頓宮はとっても立派。
 注)国司とは現在の知事職にあたります。

 その後父は関白道隆様の加護を受け後に参議に昇進し、道隆さまの側近となりました。
 父は藤原家の出身ではなく中流貴族の一人に過ぎませんでした。
 近江国司時代の蓄財でその足掛かりを作り、道隆様の目にとまり、その縁で中宮定子様にお仕えしている訳。
 そうそう私が少納言を名のっているのは長兄が少納言だった事に由来します。
 注)参議は現在の政府機関の実務者かな?

話を戻して。

まずは斎王さまのお話。
斎王様は天皇さまの始祖をお祭りする伊勢本宮天照大御神に世の平安を祈るするお役目のお方。
わかりやすくいうと天皇家の始祖神様の巫女さま。
その意図から未婚の内親王(天皇さま正式な娘様の尊称。すべての女宮が貰う訳でなくかなり限られた姫宮にのみ与えられた。)さまや女王(親王さまの姫君の尊称)さまの中から、新しい天皇さまが即位される毎にト部で決定されました。
 ト部っていうのは占いの一つ。亀の甲羅を火であぶり、割れかたで占うんだけど、どう割れたら○○内親王、○○女○宮、○○女王さまなんてどう見るのかは?????
おそらくその時の政治体制など影響していると思われます。

崇神天皇さま御代(紀元前97年即位)から始まり、正式に制度として組織されたのは天武天皇さまの御代(673年即位)でした。斎王に選ばれた斎王は身を清める為、大内裏にある潔斎所で身を清め、さらに嵯峨野の野宮で身を清め終え、斎宮邸で過ごし、斎王決定3年後内裏で天皇様に謁見し御櫛の儀と発遣の儀を終え伊勢に向かいます。

御櫛の儀は宮中にお別れのご挨拶にこられた斎王さまに天皇さまが「都の方に赴きたもうな」といい櫛をさす儀式。
まあ俗世間とはわかれ神に奉仕しなさいねという意味あいでしょう。
ちなみにこの櫛は垂水頓宮で額からはずされ小箱に納められました。
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伝野々宮跡に建立された西院野々宮神社
ずっと伊勢にいるわけでなく何かの折に伊勢に赴くのだそうです。御代によりますがね。
ふだんは都の斎宮邸におられ、新しい天皇さまの即位後やその他の名目で、その名代として伊勢にある斎宮へ参られます。

その行列を群行といい、都から500人ほど供を引き連れ近江経由(勢多→甲賀→垂水→鈴鹿)で斎宮御所に赴き、ここで神事を行いながら、行事毎に伊勢神宮の神事をなさいます。
 その地位は天皇さまが崩御されたり、斎王さまの近親者が崩御されたり、ご本人が崩御されたり(ちなみに歴代2名の斎王さまが当地で崩御され伝斎宮墓も同地にございます。)したらその任をとかれて帰京されます。
 なにもない帰京は元のコースで、不幸事があった場合は大和から山城を行くコースで群行しました。

帰京後の斎王さまのその後はほとんどさだかではありません。
人知れず静かに寂しく生涯を過ごされたのでしょうが、時に時の天皇さまの女御さまとして入内することもありました。

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朱雀天皇さまの斎王で斎宮女御 微子さま。(字が少し違います。)

聡明な元斎宮の噂を聞き、望まれて宮中へ上がられました。

入内前村上天皇さまの斎宮女御さまを思って読んだ和歌。
 「吹く風の音にききつつ桜ばな目には見ずも過ぐる春かな」
  訳:噂に聞いた(風雅な重明親王の大姫でやはり聡明な元斎王女御の噂)美しいあんたを見れへんで過ぎた春
この二人は伯父 父宮と天皇が異母兄弟)のご関係。

彼女の父宮重明親王さまが和歌、琴の名手、加えて外国が持参した献上品の質の悪い黒てんの毛皮を皮肉りわざと最上級の黒てんの毛皮を着てくる男前、風雅好きな村上天皇さまにも一目おかれていました。

斎宮女御さまは歌人として琴の名手として名高く三十六歌仙に数えられた女性5人のうちの一人でいらした方。
話を戻しちなみに三十六歌仙残りの4人は伊勢、小野小町、中務、小大君

この時代の美人の条件①和歌が上手、②楽器の演奏が上手。③長い黒髪
内裏や野宮で歌会を催される和歌サロンの女主。尊敬いたします。
舞は和歌が苦手で中宮さまにおちょくられています。

は結婚してようやく見れるのが当時の常識。男は歌や琴、琵琶の音、女房の噂で求婚していました。
すっごい妄想してたんですね、不細工だった時の嘆きようはいかほどか?
ただし今の美人基準とはまったく逆。小太り、下膨れの輪郭、おちょぼぐち、細い目。今とは逆。なにがって?
これ以上はコメントさしひかえます。


斎王さまの和歌
「世にふれば 又も越えたり 鈴鹿山 昔の今になるにやあるらん」
訳:長生きして昔越えた鈴鹿山をまた越えことになってんやん。タイムスリップしたんやろうか?
  この時女御さま40代後半。
私たちの平均寿命は40歳代。なんせ四十賀といってお祝いしたくらい。もう老人なんです。
 結婚は大体10代前半、成人が10代半ば、20歳で成熟した大人、20後半でおばさん・・・30代で初老・・・・。いやな時代でございます。

「琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ 」
訳:琴を弾いてたらその調べに誘われて、峰の松風の音が合奏しにきてん。一体この音色はどこからきてどのへんから響き始めて、ここまできてんやろう?

斎宮女御さまが御産の為、内裏を退出していた時の歌
村上天皇さまの歌
「天の原そこともしらぬ大空におぼつかなさを歎きつるかな」
訳:この大空の下のどこらへんにお前はいるんかな。見当つかへんから嘆き悲しくてその空に深いため息ついたわ。
「なげくらむ心を空に見てしがな立つ朝霧に身をやなさまし」
訳:嘆き悲しんでいるあんたの心をこの空にみて見たいわ。それか私が空にたちもめる朝霧になれたらいいのにな。

天皇さまとの初夜の後村上天皇さまが翌早朝にあなたを知らずにいた自分がいたなんて信じられないと歌うと、斎宮女御さまはそうかな夢見てたみたいなもの違う?って返歌してしまう逸話もあるなかなかな女性。
時の高貴な風流人として、名高い歌人が邸宅を訪問するなど書物に語られています。

注)斎宮女御さまは式部卿宮さまの娘さま。村上天皇には藤原家の中宮女御さま他沢山の妃がおられました。特に中宮さまは嫉妬深い方だったんです。(この方は斎宮女御さまの従姉妹にあたられます)強い後見人もいなかった女御さま天皇さまをめぐっての女達のバトル、天皇さまの女好きに疲れ果て(なんせ義母がライバルという事態になればね。)寵愛深かったんですが、ある時期からなんだかんだと理由をつけて内裏からドロップアウトする事多く・・実家で暮らしていました。

男宮出産後皇子さま崩御し実家で暮らした頃
「春には戻るいうてたのに、もう秋やで。」と手紙がくると、「ええっそう?あたしの気分は去年の秋やねん」
よっぽどいやだったんでしょね。内裏が・・・私は楽しいのですが。
決して天皇さまが嫌いだったんではないんですね。その証拠に天皇さまが崩御された後にこんな和歌を残しています。
「袖にさへ秋の夕べは知られけり消えし浅茅が露をかけつつ」
訳:私の着物の袖やって秋の夕暮れがわかるのに、浅芽の露のようにはなかく死んだあんたの事を思いだして泣いてんねんで

先に出た女御さまの御実家の東三条殿は二条南町の西と南北二町の大きな邸宅で特に木樹の景色の素晴らしさは群をぬきんでいて、桜や橘を宮中に移植したり、時の実力者に樹を贈与したりと殿上人達に羨まれてました。
ちなみにこの邸宅は一条天皇さまの御生母の御実家になりました。
何の因果か、そこは後に道長の屋敷になりました。
なんだかむかつきます。
その邸宅は父宮さまが崩御するや、荒れ放題になり、その姿を悲しんだ和歌
雨ならでもる人もなき我が宿は浅茅が原と見るぞかなしき
訳:雨漏りしてぇ主人のいない家は荒れ果てた原っぱに見えるやん。めちゃ悲しいやん。


さて村上天皇さま崩御後、彼女腹の規子内親王さまも円融天皇さまの斎王として伊勢に群行し、その中に彼女の姿もありました。皇女が心配だったのでしょう。円融天皇の制止も聞かず群行に同行しました。その逸話は源氏物語六条御息所と後の秋好中宮の伊勢群行のモデルになったといわれています。伊勢在住中にも都の貴人と和歌の交流を行っておられました。
娘と供に帰京後、崩御されます。
はっきりとしない人物像としての斎王さまの中で人柄がわかる方でいろんなや和歌を読むと浮かぶのは。
常に神に仕えた聖巫女としての威厳と感受性、美と聡明さ優しさ、奥ゆかしさ優雅さ、繊細さをもった貴人の方は優しい父宮と音楽、和歌があるだけでよかったのではなかったのかしらと思います。

 宮中での暮らしは華やかさとそのま逆にある女君の嫉妬と実家同士の政争。疲れきった上に父宮さまの死、皇子の死、天皇さまの死。憂いの俗世間を離れる口実に娘の伊勢行きは世間に汚された巫女の禊だったのでは?
帰京後の崩御がなにより物語ります。

最後に斎宮女御さまの2首
規子内親王様にお供して伊勢行きを決意した歌

きみがすむ 野にも山にも おもひやる こころかろくや ひとをわするる
訳:天皇さまがいてはる都と人達の事も忘れてめっちゃ野原や山越えて心軽くして伊勢にいくわ

をるひとも なきやまざとに はなのみぞ むかしの春を わするざりける
訳:摘んでまう人もいない山里に花だけやん昔の春を忘れてないんわ

斎宮女御さまにご興味の方は【こちら】

その他の逸話の残る歴代の斎王さまのお話をしましょう。
神話時代の斎王はおき。
 制度化した後の初めての斎王 天武天皇皇女大来皇女さま
彼女は帝位を狙ったと天武天皇さまの皇子にもかかわらず処刑された悲劇の皇子大津皇子の同腹姉にあたり、正妻の一姫さま。大津の死に関し悲しい歌は今も心に染みます。
「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
訳:無実の罪で処刑されてこの世にいいひん弟、残されて生きてるあたし。明日からはあんたのお墓のある二上山を弟と思う事にするわ。

 聖武天皇さまの皇女井上内親王さま
彼女は光仁天皇さまの皇后になりながら、夫の暗殺を謀ったとして捕えられ謎の死を遂げた女性です。背後には藤原氏との権力闘争に巻き込まれたからといわれいます。
このドロドロな因縁・・・・ドラマにもなった浅見光彦斎王の葬列思い出すです。
祟りジャー

文徳天皇さま皇女恬子内親王さま
伊勢物語の斎宮なりける人のモデルといわれています。
伊勢物語は平安前期に作者不明の恋愛短編集
歌人在原業平をモデルにしたプレイボーイが伊勢で斎王と関係した話が出てきます。
下記がその翌朝の斎王の和歌。

君やこし我やゆきけむ おもほえず 夢かうつつか寝てか覚めてか
訳:あんたが夜にあたしのとこにきたっていうけど。そうは思えん。夢やったんか。寝てたんか?おきてたんか?

ここで記憶にピンときた方!そう斎宮女御さまが初夜の翌朝の和歌。
この和歌を知っていて引用したんですね。さすがです。天皇さまもメロメロになるはず!

醍醐天皇さま皇女雅子内親王さま
上の西院野々宮を使用した彼女は恋人と引き離され西四条斎宮と呼ばれ伊勢に発ちました。引き離された二人の悲しい和歌が残っています。
匂い薄く 咲ける花をも 君がため 折とじをれば いろまさりけり 藤原 敦忠
訳:匂いが薄くて 咲いてる花をな あんたのために 折ったらあたしのあんたを思う気持ちが花にうつって色が鮮や  かになったんやで
その返歌は
折りざりし 時より匂ふ 花なれば わがため深き色とやにみる 西四条斎宮
訳:折った時から匂う花やったらあたしのために鮮やかになったんやね
別れた後も敦忠は多くの恋歌が残っています。
斎宮は帰京後なんと彼の従兄弟に降嫁します。なんだかね・・・

村上天皇さま皇孫せん子女王さま
異色の斎王さま暴風のさなか行われた内宮の儀式の直前、トランス状態になり神がかりし酒を飲みながら伊勢神宮を軽視する朝廷と神に奉仕する部下を非難し、「賀茂の斎院ばかり大事にしてな、私がお祀りしている伊勢の大神さまをじゃけんにしたら天皇家は滅びるねんからな。なめたらかんでえ」なんて言ったか言わずか??
所が本人には一切おとがめなし、斎王退任後、道長の子後の関白に降嫁しちゃう。元々関白道長系に関わりがある方。しかも神様の神託を受けた方軽く扱うと祟りが・・・・怖い??

三条天皇さま皇女当子内親王さま
三条天皇さまが溺愛した皇女さまで天皇さまは皇女が心配で、ついつい振り返ってはならないのに群行の後を振り返ってとあります。そんな皇女ですが、斎王を退いた後に藤原雅道(この方は中宮さまの甥御様の松君さま。枕草子にも登場された方。家の不幸はその後の人生を大きくかえますね。)と密通したと責められ、恋人と手引きをしたとお咎めをうけた乳母を離され、父の失望を失った悲しみで落飾してしまいます。

白川天皇皇女提子内親王
政権を藤原氏から取り返し院政を強いた剛腕天皇にして大の女好きの遊び院の皇女さま。
最愛の中宮さまの第一皇女にして美しく優しい、舞の好きな彼女を溺愛。なにせ野宮まで同行してしまうほど。
帰京後も堀川天皇さまの義理の母にして後見人にしてしまうほど。老後の心配したんでしょう。でも20歳で白川院より先に崩御されました。ショックで出家され白川法皇さまと名のられました。

後嵯峨天皇皇女子内親王
亀山天皇さまの斎王さま後、異母兄後深草院さまと関係したことが書物に残っています。その後西園寺実兼とも関係したと言われた恋多き元斎王。
ちなみにとはずかたりを執筆した二条はこの二人の愛人でした。
後の時代の中世貴族社会乱れ切っていますね。
中世以前兄妹の観念は同腹。つまり母親が同じ時のみ。聖徳太子の両親も、孫も異腹妹が正妻。推古天皇も桓武天皇様も同じく。藤原鎌足の二男も異腹妹を妻の一人にしていました。一緒に暮らす事がなかった事、母系家族社会の名残と、一族の結束などが理由でしょう。天皇家へ公卿の娘達の入内が増えたり、武家社会になるとなくなりました。

天皇家の息女さまはその高貴な血筋から、簡単に臣下に降嫁出来なかったんです。
婚姻相手クラスが天皇家となるとなかなかいないものでしょう。
だから出家したり独身で生涯を終えられるのです。そこで重要なのが、実力者の後見人がいるか。天皇さまに寵愛されているか。官位が高いか。財力があるかどうかでその後が決まります。
なんせ家は長女が継ぐ時代。家と荘園の管理、使用人の給料、催し事と出費は果てしない。
独身でも人生をおおかされたんが都鳥羽天皇さまと美福門院の御息女あき子内親王さま
両親の寵愛を一身に受け、その財産のほとんどを相続、かの平清盛も無視出来なかったと言うからよっぽどです。
いつの頃もお金しだいなんんですね。

平安時代を体験したい方詳細はこちら

第二章 垂水頓宮のある近江垂水(現在の土山)のお話

坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る鈴鹿馬子唄

後の土山は滋賀県甲賀市。JR草津から単線に乗り換え貴生川下車、あいくるバスに乗り換え向かいます。
近郊の観光地を紹介しながら、御案内しましょう。
バスの時間まで和菓子屋へ直行。工場のお店でGET
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左上が苺大福、桜大福、ラムレーズン大福美味しかったです。
羽二重餅に白餡にそれぞれ甘い苺、桜の塩漬けしょっぱあま!、チーズにラムレーズン
右上がチーズ和菓子とチョココーティングの栗入り白庵和菓子。
お店の情報は【こちら

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野洲川。斎王さまもこの川で禊をされました。

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さて斎王の里「頓宮」の碑文
左には灯篭が。鈴鹿越えする旅人の道しるべ。早朝や夕刻は真っ暗です。大切な役割をしていました。

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旧東海道杉並木
後世江戸時代に整備された江戸から京都にいたる主力本線。人、物資が行き来して経済に大きな活力になりました。
斎王群行ならぬ大名行列もこの道を通りました。また土山は鈴鹿峠手前の宿場町として栄えました。

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土山宿本陣跡
大名行列の宿泊地跡
家光公が上洛の際の本陣跡。いまも住宅として利用されています。
明治天皇様もご利用されました。
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頓宮大茶園
国道1号線の両側に点在する茶畑のうち大きな茶園
土山の名産茶は」常明寺の僧純翁が京都の大徳寺から茶の実を持ち帰って寺で栽培したのが起源
頓宮でいただきましたが美味しいですよ。あっ室町時代に栽培されたので私たちの時代にはなかったですね。


土山茶はこちらこちらこちらから。
近江製茶でいただきました。傍が焙煎工場か甘い香ばしい香りがしてました。
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自宅で陶庵さんの器で

田村神社征夷大将軍・坂上田村麻呂公と嵯峨天皇および倭姫命を祀り神とする神社
蝦夷を攻略した武人、嵯峨天皇さまの詔で鈴鹿の悪鬼を退治した縁で祀神に。
険しい鈴鹿峠に近い事もあり、交通安全に御利益があります。

なんといっても垂水斎王頓宮跡
伊勢に向かう斎王の群行の仮宿泊所である頓宮跡の一つ。土手や井戸跡が残っていますが、鳥居、祠、碑石があるだけ杉並木に囲まれとても静か。建物の跡土の凹みさえありません。
ここは言われている頓宮のなかで唯一確認出来国からの指定されている頓宮跡地。
頓宮は滞在後はあとかたもなく取り壊された為、ほとんど後世に忘れられた地でした。土山の人々は「ここは神聖な場所だった」と後世に伝えたおかげで今日まで大切に守られてきました。
時代により頓宮が建てられた為近くにも頓宮跡と碑文がありました。
ここのように茶園、田中さんち。とか鈴木さんちになっていたかも。

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IMG_3649.jpgお昼は旧東海道のお蕎麦屋へ
手打ちで本格的、蕎麦菓子、蕎麦茶、とろろ膳をいただきました。
もちもち、しこしこおしゅうございました
お店の情報は【
こちら

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かもしか温泉
道の駅「あいの土山」

山に囲まれた自然豊かな所です。もう少し行くと鈴鹿峠、三重県!
土山観光の情報はこちら
甲賀市観光情報はこちら

ではしばしかの昔のひと時へ

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斎王恭子さまは御年5にではございますが成人のお姿にて描いております。
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禊式をされる斎王さま。
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途中休憩で道中舞の披露をいたしました。

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休憩される斎王さまとお着きの者

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頓宮お着きになりお着き舞の披露と呈茶の儀
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頓宮に到着された斎王さまと童女達
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斎王さまを頓宮で拝見でき、絵にまでしていただき光栄、明日からの旅お気をつけて!

尚今回の絵の数々は修行中絵師 ム部 弓君作でございました。
 
今回恐れおおいので頓宮には宿泊しませんで、宿はこちらあや乃旅館さま
民宿ですが、清潔で過ごしやすくフレンドリー親戚の家にいるようなここちよさ。
食事もおいしかったです。ぜひお越し
お宿は【こちら

あいの土山斎王群行に参加希望、問い合わせはこちら】 

お祭りはどこもそうですが、裏方の手助けなしにはありえません。
この度の斎王群行に参加した者としてその方々にお礼申し上げます。
実行委員局の皆さま、祭りに御協賛いただいた企業の方々、化粧や装束着付け南先生(この先生は京都で葵祭りやいろんな時代祭り、ドラマなどの製作にもかかわられるかかせないとても高名な先生です。)舞指導の北林、雪乃両先生。お茶をたててくださった井上先生。雅楽会の方々、そのた会場や催しを手だすけしていただいた方々、警備の方、ボランティアでお世話していただいた方々ありがとうございました。
さらなる土山の発展と皆様のご健勝を願っております。

他にも斎王群行は明和町の斎王まつり嵯峨野夢斎宮群行。実は葵祭りも賀茂の斎院の群行(同じブログ内年中行事で紹介しています。)   
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