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飛鳥時代 「二つの襲撃事件 点と線の交差点」第一章 山背大兄王子襲撃の犯人

舞的歴史妄想草子

まずは今から草子する二つの飛鳥時代の事件を斜め45度の視点で分析・構築してみる。

舞が以前から日本書紀の記述には全体的に漂う奇異なところが多いということ。
がそもそもの始まり、以前もいろいろ草子したとこがありますが。

まず私見による日本書紀への考え方についての定義


①日本書紀は当時現存していた倭伝記の全てをまとめあるいは加筆した編集本である。

日本書紀の中では一書伝が多く記述していますが、そもそもこれらは諸家・個人所有の書・三国史記魏志倭人伝等を転記しています。
転記したあとこれらはどうなったのでしょうか?
返されたならどれかは現存したはずです。
しかし日本書紀・三国史記・魏志倭人伝以外現の書は今のところ存していません。

逆にいえば日本書紀に転記されたからこそ現存しなかったのではないか?

そう書き上げた後処分されていたとしたら?

何故そう考えるのか?

正史の中に入れることで倭=日本
すべての歴史書が日本書紀にまとめられる事でその中に含まれる出来事、話、そのすべてが日本の話だ。
と堂々と主張できるのでは?

こう考えるのは日本書紀はあくまで外国へ向けての史記であると考えるからです。
古事記は日本向けの天皇の正当性を主張する書

ゆえに日本書紀は漢文で古事記は万葉仮名風の倭風漢文で記述
話の内容も違い、特に日本書紀が一書曰くや天皇家の祖天照大神が違う名で記述されたりとするのに対して
古事記は物語、人物も断定系で記述されます。

だからこそ異説も全て載せて正史とした。
そうすることですべての記録は日本という主張が出来るという考えが出来る。

②日本書紀は段階的に編集され途中で改竄・捏造に近い創作を書き足されて編集された。
根拠
元嘉暦と儀鳳暦という二つの暦を併用

元々元嘉暦は宋から朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた暦

日本書紀では

14巻雄略天皇~21巻用明天皇
24巻皇極天皇~27巻天智天皇

で使用されている。

ところが
 
1神代~13巻允恭天皇
22巻推古天皇~23巻舒明天皇 
28巻~30巻天武天皇~持統天皇

儀鳳暦が使用されてます。

唐の儀鳳年間(天武天皇5年(676年)-同8年(679年))に日本に伝わり持統天皇治世段階的に元嘉暦と併用され、文武天皇元年(697年)から儀鳳暦が単独で用いられるのを定説としています。

よく見るとそう、新しい暦を使用した話に物語の始まりからスタートしているのに気がつきますね。

そう神代の話から古い話は後世書き加えられたのです。
こんなあからさまなミステイクをなぜ放置したのか?
書き換えるにはあまりに膨大な量で、完成を優先したのか?

これは唐・新羅へのアピールいわば国内よりも海外への外交関係に配慮しての結果

キチンと唐と新羅の暦を使用していますよ。
つまり日本書紀は外交に重要な役割があったのです。
日本という国はこんなに古く律令制国家としてふさわしい国であるという事の主張を優先した。

森博達氏による漢文の使い方による分析により編集作業が漢人倭人の違う章二つに分かれる。
漢人の章にあっても倭人の編集がみられる。
ようは改竄・捏造あり以下③で説明します。

森博達著 日本書紀の謎を解く ・日本書紀成立の真実を支持し
この本の主張を前提に進めていきます。

森氏は大阪外国語大学中国語学科・名古屋大学大学院修士課程中退・有名大学の講師を経て後に京都産業大学
教授古代中国語のエキスパート。
日本書紀にある漢文を音韻論・文章論・編集論に分け、明らかに漢人と倭人の記述者の違いを見抜いた。

例えば在を有・無を非・者を仮定条件から確定条件で使用している。所を動作直接間接しないといけない所で動作の主語にしている等々。逆に誤字誤認等のミスのほぼない文章を各整理し分析解析した結果が下記。

β群 倭人編集 
1神代~13巻允恭天皇
22巻推古天皇~23巻
舒明天皇 28巻~天武天皇30巻持統天皇

α群 漢人編集 
 14巻雄略天皇~21巻用明天皇  
 24巻皇極天皇~27巻天智天皇


面白いのはα群が雄略天皇から始まる点そう唯一考古学的に大王として実在が確定出来るワカタケル大王です。
さらに面白いのがα群に属する漢人が書いた24巻~25巻に多様な倭習がみられる点。


つまり改竄の跡がある。

そう皇極天皇巻と孝徳天皇巻です

その中で特に皇極紀の山背大兄王子襲撃事件・乙巳の変の改竄・孝徳紀の大化の改新部分の改竄が特徴


④日本書紀についての見解
続日本紀 元正天皇紀 

先ㇾ是一品舎人親王奉ㇾ勅修二日本紀一


日本書紀の編集責任者はこの記述により舎人親王届いてされています。
しかし舎人親王の一存ですべての編集及び改竄捏造がされたかというとそれは否定します。
何故なら倭の初めての史記です。
当然国内外に内容は大きな影響があります。

特に持統天皇は息子草壁皇子の死去後に孫の軽王を次期天皇として皇太子にさせたい。
しかし当時皇位継承は直系が継ぐのが大前提ではありません。
あくまでも候補者から太政官皇族の総意の元決定されるのです。

持統天皇治世では天武天皇系の皇子が多数存命中であり、孫への継承は安易に出来ない事情がありました。
それゆえ側近で政治的能力のたけた藤原鎌足の次男不比等の補佐を受け、直系継承を実現するために動きます。
日本書紀もその手段として大いに利用されました。

①天智天皇と藤原鎌足の地位向上を図り
皇極・孝徳天皇紀の一部を改竄する。
孫軽王を文武天皇として譲位した後、守護神のように天智天皇陵を当時都藤原京の北に移動させたのはこの時期です。

都の一番北にある陵墓
星座の中で一番北にあり、動くこのない星に一つ北斗七星になぞられます。
つまり天智天皇により守られた都絶対的存在にさせた。
持統天皇は孫首皇子の皇位継承にすべてを注ぎました。首皇子は天武天皇の孫ではありますが、叔父達が存命中は直系といえども皇位を継承するには当時としては弱かった。
しかも持統天皇は近江京に都を移した天智天皇の娘母方の祖父の地位を上げる必要があります。

その片腕に藤原不比等(藤原鎌足の次男で娘都を文武天皇元年(697年)8月、即位直後の文武天皇の夫人を大宝元年(701年)、首皇子の外祖父になる)と協議して二人の父の偉業を盛る必要がありました。

そこで日本書紀に改竄と捏造が必要でした。

②直系継承を名実ともにするために史記を利用する。
天照大神(ただし主導したのは高皇産霊尊)から皇孫の瓊瓊杵尊への豊葦原中国への降臨
持統天皇から軽王(孫)への皇位継承を正当化を主張

③天照大神という皇家の祖を生み出す

太陽信仰はどの国でもどこの地でも自然に出てくるのは当然
おそらく倭の国の中でも日神は名こそ違うが崇拝される存在唯一無二
3世紀崇拝されていたのは太陽の出る東にそびえたつ三輪山大物大神だったでしょう。

天武天皇が壬申の乱の時に勝利を祈ったのは当時の自身の養育部族の大海人の信仰する伊勢の神
遷宮は持統天皇治世で決められた祭事です。
この神様が名を天照大神として登場させた。

④神功皇后と応神天皇の神的な壮大な話
神功皇后に卑弥呼的な要素と皇后といいながら天皇のような存在と応神天皇の活躍
まるで持統天皇は神功皇后の再来といわんばかり。


上記の前提にたち話を進めてゆきます。

まず皇極紀の改竄一段
第一章 山背大兄王子襲撃事件の犯人


この書の記述の再確認でした。

上宮聖德太子傳補闕記
原文
日本書紀暦録并四天王寺聖德王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾

癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害【今見計名有廿五王】
山代大兄王蘇 殖栗王 茨田王 乎末呂王 菅手古女王 舂米女王膳  近代王 桑田女王礒部女王 三枝末呂古王膳
財王蘇 日置王 蘇片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘
孫 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王

于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王
倭訳

癸卯の年の十一月十一日丙戌亥の時。 宗我大臣并びに林臣入鹿・致奴王子の兒、名は輕王・巨勢德太古臣・大臣大伴馬甘連公・中臣鹽屋枚夫等六人、惡逆を發し太子が子孫を計るに至る。 男女廿三王、罪無くして害さる【今見て名を計るに廿五王有り】。時に王等皆山中に入りたまいて六箇日を經て、辛卯辰の時に、弓削王、斑鳩寺に在(ましま)す。 大狛の法師は手ずからこの王を殺す。


平安時代初頭におそらくは僧が記述した聖德太子傳補闕記
自身がなぜこの書を作成したかを序文に記載しています。
日本書紀と四天王寺聖德王傳は真実と違う記述がみるにたえず。
古い記を探し求めようやく調使と膳臣との家の記を手に入れ書を書き上げたと記述しています。

ここで現れる調使とは律令制において調・庸などを京に運ぶ任務を負った国司の職員の責任者いわゆる帳簿のスペシャリスト
膳氏はそう聖徳太子の妃の一人膳部菩岐々美郎女・妹の比里古郎女は久米王子妃を輩出した一族で、
古来から朝廷の食膳を管掌した伴造氏族の出身。軍事や外交などに活躍した人物も多い一族最も身近な氏族

そうかなり信ぴょう性が高いかなと・・・・・・・・。

上宮聖德太子傳補闕記での犯人


宗我大臣并びに林臣入鹿 蘇我入鹿

致奴王子の子 輕王→(後の孝徳天皇)
軽王
その名から軽里(現在大阪府羽曳野市軽里・ここは文武天皇の乳母犬養三千代の所縁の地)の一族が養育係についてきます。
なによりその後見は阿部内麻呂は王子時代から阿部氏の妃小足媛を与えています。
この阿部氏も和泉に勢力を持ちます。


巨勢德太古     →巨勢 徳多 蘇我入鹿の側近 
               乙巳の変時に復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直を説得
巨勢 徳多は蘇我氏の家来です。
その勢力は大和国 高市郡 巨勢郷 桜井屯倉 和泉の茅渟山屯 倉国毎(クニゴト)の田部 小墾田屯倉 国毎(クニゴト)の田部

 

大伴馬甘連公    →大伴 長徳 
大伴 長徳 
物部氏と共に朝廷の軍事親衛隊的な大伴氏を管掌していた氏族
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。
大伴の高師の浜(現在の高石市)大和国高市郡築坂邑に勢力があった。 この大伴氏の女が中臣鎌子の生母はい中臣氏と大伴氏繋がりました。

狛大法師:         大化の改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の
               「大化僧尼の詔」により十師に選出されています

ここにでてくる人物は入鹿以外みな孝徳天皇治世に重用された者ばかりです。

ここで重要なのは軽王と中臣鹽屋枚夫という山背大兄王子襲撃事件の共犯者という点

軽王は皇極天皇の同母弟
敏達天皇の孫 押坂彦人大兄皇子の王子の茅渟王の長男(つまり舒明天皇の甥)

父は大兄(王子の中で皇位継承の資格のある長男)ではあるが、軽王自身は蘇我氏の血統ではなく、皇位には遠いいわば傍流の王族の一人。

中臣鹽屋枚夫の名は初出
中臣鹽屋枚夫 
中臣氏はの京都市山科区中臣町付近の山階を拠点とし現在の高槻三嶋も勢力地だった

そう軽王と中臣鎌子の出会いになった稱疾退居三嶋 

しかしこの中臣鹽屋枚夫という人物、孝徳天皇治世でも高官になっているどころか正史に出てきもしません。
さらにゆうとこの書にしか出て来ていません。
実行部隊であり、血を流してなんの恩寵も与えられていない。
記紀からも排除せれている不思議??

ない事の事実、ないからこその事実すなわちこの中臣鹽屋枚夫こそ中臣鎌子

だからその後の歴史に名がなく、中臣鎌子(鎌足?)唐突に日本書紀に出てきます。

いない人物ではなく違う人間が名を変えて存在する。

今でもやりますよね。姓名を違う字に入り、姓を変えて違う人物になりすます。平然と違う人物を演じる。

もしこれが鎌子でないなら、孝徳天皇治世に功労者として臣下に名が入るはずです。
個人的に調べてもこの名では不明でした。
しかし中臣氏で高官についたのは鎌子だけです。

この無実である王族襲撃というべき事件に藤原氏の立役者を犯罪人にするわけにはいきません。

つまり罪なき人物の殺害に関与したなど、断じてならないのです。
何故なら中臣鎌子→藤原鎌足は当時の太政官で律令制度を確立するために奔走していた藤原不比等の父であり。
文武天皇夫人のを入内させ首皇子(後の聖武天皇)の外祖父である高祖父血で手を染める大罪を犯してはいけないのです。


狛大法師 孝徳天皇治世十師に選出されています。


鎌子の初見を日本書紀を見てみましょう。

皇極天皇
三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。謂充舍人爲駈使也。舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅
入鹿とその下僕の単独犯をとっています。

山背大兄王子襲撃事件は入鹿の単独説ではない

不思議なのは当時の貴族たちが沈黙したという事実です。
秦氏や膳氏すら天皇へ奏上した形跡がありません。
奏上しても無理と分かっていたから?軽王は皇極天皇の同母弟です。

入鹿の父蝦夷が嘆いたくらいで、他の氏族は沈黙を守りぬきます。

何故???これは次の話でも出ますが、誰もいえない人物が実は黒幕いや黒幕というか
いわゆる忖度だあった。と仮定出来ないか


この王族の襲撃事件では犯人は特定されているのに処罰されてはいません。

何故?現天皇の弟軽王、蘇我氏の総領息子と大伴氏が犯人ならば処罰するのは難しいでしょう。
それだけでしょうか?

軽王は皇極天皇の同母弟です。
皇極天皇も知っていたがしらないふりを決め込んだ。
犯人隠避に走った。
いやむしろ容認した。


だからこそ首謀者、実行犯はいとも簡単に襲撃し、山背大兄王子は反撃できないとあきらめ一族もろとも自害したと納得出来ます。

軽王は皇極天皇に「このままだと山背大兄王子の皇位継承が確実で自分の子供葛城王子に皇位を継承できない」と。

それを実現するには邪魔者を排除しないといけない。
と襲撃事件の黙認を事前に伝えていたのでは?


軽王は山背大兄王子を撃つ事でどう転んでも+。

姉に恩を売って自身の政治家としての地位を確立できる、棚ぼたてきに即位できるかもという誘惑に乗った
 

そう点と線は繋がりました。

しかし日本書紀では

山背大兄王子の殺害は入鹿とその側近の単独説を主張しています。

日本書紀
十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟中略
有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行

でも古人大兄王子が入鹿に忠告しています。忠告しているということはあらかじめ知っていたということ。

日本書紀にみる山背大兄王子襲撃事件の全文

蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。是月、茨田池水還淸。十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等曰、如卿所、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。
有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰
觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。林臣、入鹿也。以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。
この中で森氏が書で指摘した場所を赤字でマーカーしてみた。
古代中国語としては形をなしていない。明らかな間違いで漢人ならミスするはずのないところなのだそうです。

これ実は後世の改竄という事実はほぼ定説

そしてなぜか日本書紀は山背大兄王子聖徳太子の息子だと記述していません。

紀が記述しているのは山背が蝦夷を叔父と呼びかけている事実だけです。
おそらく山背大兄王子が聖徳太子の子であることは事実であったでしょう。
逆に事実だったので書かなかった。
のではないか?
日本書紀でも聖人として記述されている王族の息子に日本書紀的には推古天皇の皇太子の息子です。
これをそのまま加筆した時代背景もやはり
持統上皇(同じ女帝だった)の皇太子を経た文武天皇に直結しいては文武天皇の子息首皇子という元皇太子の息子という同じような構成があります。そこはさけたかった。
つまり血族の構成があまりに似ていてそこを強調したくなかったととらえるのは考えすぎでしょうか?

またそんな聖人の血筋の王子を天皇が見殺しにした。
その実行部隊には当時新興勢力藤原氏の道筋を作った政治家としての祖というべき鎌足が参加している。
そんな事実が明らかになれば当時文武天皇の後宮に入り、後に首皇子を生んだその大切な血筋に傷がついては困るのです。
よってあえて書かなかった。


さて山背大兄王子をかたるうえで見逃されないのがそれより前項目にある。

推古天皇の末時期皇位継承の記述である。
ここは倭人による構成されています。
推古天皇の遺言

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。

推古天皇は二人の有力な天皇候補田村大兄王子、山背大兄王子を枕元に呼び助言を残します。
あくまで群臣の意見に求めに応じるようにと遺言します。

崩御後蝦夷は次の天皇継承をどうするか大夫達重臣に問います。

蝦夷九月、葬禮畢之、嗣位未定。
當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家
食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰
「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。

蝦夷は邸宅に重臣を集め宴会を行った後皇位の継承者について意見を求めます。
推古天皇の遺言とおり蝦夷は実行しようとしています。

誰も意見する様子がなくようやく

於是、大伴鯨連進曰
「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」
阿倍臣則問曰
「何謂也、開其意。」
對曰
「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」


時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、
四臣曰
「隨大伴連言、更無異。」

↑ものすごく創作的な展開のようにみえます。
予め台本ありその通り意見したように。


阿部内麻呂が主導し大伴鯨連が先導して田村大兄王子を担いだ。


許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰
「山背大兄王、是宜爲天皇。」
三名は山背大兄王を押し

唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰
「臣也當時不得便言、更思之後啓。」
この段階で蘇我氏の傍流である倉麻呂は意見を保留つまりどちらにも就かなかった。
この人後の蘇我倉石川麻呂の父です。そう乙巳の変で入鹿を裏切ったあの人物のです。

爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。

蝦夷は田村大兄王子の皇位継承を全員一致でおさめたかった。

さらに摩理勢に同意させようとしますが、はっきりと田村派につけとはいいません。
忖度してくてということでしょう。

是、大臣獨問境部摩理勢臣曰
「今天皇崩無嗣、誰爲天皇。」
對曰「舉山背大兄爲天皇。」


ついに重臣の皇位の見解を知った山背大兄王子は。

是時、山背大兄、居於斑鳩宮漏聆是議、卽遣三國王・櫻井臣和慈古二人、密謂大臣曰
「傳聞之、叔父以田村皇子欲爲天皇。我聞此言、立思矣居思矣未得其理。願分明欲知叔父之意。」
叔父蝦夷は田村大兄王子を次の天皇にしたいようだが本意を聞きたいと依頼します。

於是、大臣、得山背大兄之告而不能獨對、則喚阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等、仍曲舉山背大兄之語。既而便且謂大夫等曰、汝大夫等共詣於斑鳩宮、
當啓山背大兄王曰
「賤臣何之獨輙定嗣位、唯舉天皇之遺詔以告于群臣。群臣並言、如遺言、田村皇子自當嗣位、更詎異言。是群卿言也、特非臣心。但雖有臣私意而惶之不得傳啓、乃面日親啓焉。」

爰、群大夫等、受大臣之言、共詣于斑鳩宮。
使三國王・櫻井臣以大臣之辭啓於山背大兄。
時、大兄王、
使傳問群大夫等曰
「天皇遺詔奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、稱、天皇臥病之日、詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、愼以言之、不可緩。」次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉知之、且大王所察。」

蝦夷の使いで訪れた臣達は自分の皇位継承に対する意見を明確にはしません。
推古天皇の遺言通り臣の意見に従いなさいということでしょうか。
山背なかなか皇位に執着しているようでこの後襲撃される際には自決しそうな人物には思えませんが?

於是、大兄王、且令問之曰
「是遺詔也、專誰人聆焉。」
答曰「臣等、不知其密。」既而更亦令告群大夫等、
曰「愛之叔父、勞思、非一介之使遣重臣等而教覺、是大恩也。然、今群卿所噵天皇遺命者、少々違我之所聆。吾、聞天皇臥病而馳上之侍于門下。時、中臣連彌氣、自禁省出之曰、天皇命以喚之。則參進向于閤門。亦、栗隈采女黑女、迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王爲首、女孺・鮪女等八人、幷數十人侍於天皇之側。且、田村皇子在焉。時、天皇、沈病不能覩我。乃栗下女王奏曰、所喚山背大兄王參赴。卽天皇起臨之詔曰『朕、以寡薄久勞大業。今曆運將終、以病不可諱。故、汝本爲朕之心腹、愛寵之情不可爲比。其國家大基、是非朕世、自本務之。汝雖肝稚、愼以言。』
乃當時侍之近習者、悉知焉。
故、我蒙是大恩而一則以懼一則以悲、踊躍歡喜不知所如。仍以爲、社稷宗廟重事也、我眇少以不賢、何敢當焉。當是時思欲語叔父及群卿等、然未有可噵之時、於今非言耳。

自分の推古天皇の遺言とは違うと意見します。さらに

吾曾將訊叔父之病、向京而居豐浦寺。
是日、天皇遣八口采女鮪女、
詔之曰
『汝叔父大臣常爲汝愁言、百歲之後嗣位非當汝乎。故、愼以自愛矣。』既分明有是事、何疑也。然、我豈餮天下、唯顯聆事耳。則天神地祇共證之。
是以、冀正欲知天皇之遺勅。亦大臣所遣群卿者、從來如嚴矛嚴矛、此云伊箇之倍虛取中事而奏請人等也。故、能宜白叔父。」

前に蝦夷が次の皇位には自分を推挙しようという考えを女官を通じで聞いている。と弁明し蝦夷の本当の意見を求めています。

既而泊瀬仲王、別喚中臣連・河邊臣謂之曰

「我等父子並自蘇我出之、天下所知。是以、如高山恃之。願嗣位勿輙言。」

則令三國王・櫻井臣副群卿而遣之曰
「欲聞還言。」

時、大臣、遣紀臣・大伴連、謂三國王・櫻井臣曰
「先日言訖、更無異矣。然、臣敢之輕誰王也重誰王也。」

於是、數日之後、山背大兄、
亦遣櫻井臣告大臣曰
「先日之事、陳聞耳。寧違叔父哉。」
是日、大臣病動、以不能面言於櫻井臣。

徹底して蝦夷は山背大兄王子通り直接会わないし、山背も蝦夷の邸宅へ行こうとしない。
常に代理人に伝言するだけです。
これはどういう?すでに両者の間溝ができている?というここか?

山背大兄王子自身身の危険が予測されたということか?
叔父と会いたいが自分から飛び込まない。蝦夷も直接話をしたいと言うが決して山背邸を訪問しない。
病にあったというので訪問したくても出来ないというのが答えとも思えるが。

明日、大臣喚櫻井臣、卽遣阿倍臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣・大伴連、啓山背大兄言「自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者、群卿皆賢哲也。唯今、臣不賢、而遇當乏人之時誤居群臣上耳。是以、不得定基。然、是事重也、不能傳噵。故、老臣雖勞、面啓之。其唯不誤遺勅者也、非臣私意。」

さらに蝦夷は山背大兄王子に臣を代理人にして皇位のことは蒸し返すなと遠回しの言い方で、はっきりさせません。

しかし叔父にはあからさまに意見を変えるように再三天皇には誰がいいか問いただします。


既而大臣、傳阿倍臣・中臣連、更問境部臣曰
「誰王爲天皇。」
對曰
「先是大臣親問之日、僕啓既訖之。今何更亦傳以告耶。」
乃大忿而起行之。
ついに切れた摩理勢は兄の墓の造営作業を止めてしまい、蘇我の別宅に籠ってしまいます。

適是時、蘇我氏諸族等悉集、爲嶋大臣造墓而次于墓所。
爰、摩理勢臣壞墓所之廬、退蘇我田家而不仕。
時、大臣慍之、遣身狹君勝牛・錦織首赤猪而誨曰
「吾知汝言之非、以干支之義、不得害。唯他非汝是我必忤他從汝、若他是汝非我當乖汝從他。是以、汝遂有不從者、我與汝有瑕。則國亦亂、然乃後生言之吾二人破國也。是後葉之惡名焉、汝愼以勿起逆心。
」然、猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮。
 さらに臍をまげて泊瀬王の屋敷に転がり込みます。

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。


卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。


於是、大臣益怒、乃遣群卿、請于山背大兄曰
「頃者、摩理勢違臣、匿於泊瀬王宮。願得摩理勢欲推其所由。」
爰大兄王答曰
「摩理勢、素聖皇所好、而暫來耳。豈違叔父之情耶、願勿瑕。」則謂摩理勢曰「汝、不忘先王之恩而來甚愛矣。然、其因汝一人而天下應亂。亦先王臨沒謂諸子等曰、諸惡莫作諸善奉行。余承斯言以爲永戒。是以、雖有私情忍以無怨。復我不能違叔父。願、自今以後、勿憚改意、從群而無退。」

泊瀬王宮に避難した摩理勢に山背大兄王子が戻るように説得し自宅へ帰りますが、

是時、大夫等、且誨摩理勢臣之曰、
不可違大兄王之命。
於是、摩理勢臣、進無所歸、乃泣哭更還之居於家十餘日、泊瀬王忽發病薨。
爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。

なんと後見人の泊瀬王がなくなってしまいます。後見人がいなくなり、自分の身に危険が及ぶことを不安になり。
しかもこれ以降山背大兄王子は皇位継承権の主張を二度と口にしなくなります。

大臣、將殺境部臣而興兵遣之。境部臣聞軍至、率仲子阿椰、出于門坐胡床而待
。時軍至、乃令來目物部伊區比以絞之、父子共死、乃埋同處。唯、兄子毛津、逃匿于尼寺瓦舍、卽姧一二尼。於是、一尼嫉妬令顯。圍寺將捕、乃出之入畝傍山。因以探山、毛津走無所入、刺頸而死山中。

すると蝦夷が摩理勢を撃ってしまいます。
時人歌曰、
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟

蘇我家の内紛はこの時から始まります。
一族の分断は滅亡の始まり。
以降山背大兄王子は蘇我の傍流である摩理勢を失い皇位を諦めたようです。

この前提の元山背大兄王子の襲撃事件があった。

舒明天皇亡き後、 蘇我宗家は古人大兄王子
            皇極天皇派は山背大兄王子の排除にもくろむ。

からの襲撃事件
そしてこの暗殺未遂事件で山背系の王族の血の排除は実現するも、しょせん最終皇位継承を誰にするか。
当然その目的が違うのですから
必然のクーデターが勃発するのは当然

乙巳の変

入鹿と古人大兄王子の排除
皇極天皇派の反撃による入鹿暗殺事件へ続く


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平安時代の気になる貴族女性

平安時代は桓武天皇が平城京から都を長岡京に遷都した延暦13年(794年) -から政権が源頼朝率いる鎌倉幕府へ移った時期のき文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃までの時代変遷の一つ

平安初期は唐の律令制度や政治形態をそのまま継承しつつ藤原氏の外戚政治が本格的に始まります。
天皇の外祖父という立場に関白や摂政の地位につき政太政官で権力をつけ意のままの政治を行う。
太政官は政治の中枢をなす今の政府にあたり、ここをおさえられると天皇ですらやりたいことを出来ない状況になってしまいます。
律令は法律で国家運営する方法ですが、時に外戚政治に不利益な律令があると当然不都合が出ます。

すると律令制度は崩壊し、延喜式を最後に施行されなくなります。

また政治体制が藤原氏と天皇家の子孫のみで政治を行う中、手本としていた唐が崩壊の危機にさらされ始めてから日本固有の文化風俗がもてはやされいわゆる国風文化が花開いた時代でした。

でこの時代で気になる貴族女子をいろいろ草子していきます。

藤原 元子

平安時代中期、左大臣藤原顕光の長女。母は盛子内親王(村上天皇皇女)一条天皇女御承香殿女御
長徳2年(996年)11月14日一条天皇に入内、同年12月2日女御宣下

栄花物語みはてぬゆめ
女御の御おぼえ御承香殿は勝りたまふやうにて、はかなう月日も過ぎもてゆく。

定子が内裏を去った後彰子が入内するまでの期間、一条天皇に三人の公卿の娘が女御として内裏へ参入します。
一条天皇は三人のうち元子を気にいります。

長徳3年(997年)10月、懐妊の兆候があり同年暮れに堀河院へ退出

はかなく冬にもなりぬるに承香殿ただにもあらぬ御気色なれば、父大臣いみじううれしきことに思しまどふ。
中略
弘徽殿の細殿を渡らせたまふほどに細殿の御簾を押し出しつつ女房こぼれ出てつつ見れば、この女御の御供の童女いたう馴れ4たすが、「簾の身もはらみたるかな」と言ひていくを弘徽殿の女御「あなねた。何しに見つらむ」など言ひける。

その時に公任娘義子の女房が御簾が膨れんばかりに元子の退出を見ようとしたのを、元子の童女が「簾のみ孕みたるか」
と侮辱したため反感をかう。

かかるほど残るなく病みののしるしにかの承香殿女御御生月も過ぎさせたまひて、いとあやしく音なけでばよろずせさせたまへども、思いあまりて六月ばかりに太秦に詣りて、中略水つきせずに出て来て、御腹ただしひれにしひれて、例の人の腹よりもむげにならせたまひぬ。
寺の僧どもあさましう言ふ思ふ。

しかし翌長徳4年(998年)6月、体内から水のみが出てきただけでしかし妊娠ではなかった。

妊娠ではなかったのは確かですが、実際に水がでてきのかどうか?
①想像妊娠噂話で「赤子のかわりに水が出た」が広まった
②婦人科系の病だった。


恥ずかしさに内裏へ出仕をやめがちに里に過ごす、翌長保元年(999年)9月7日に一条院の天皇のもとに参入
長保2年(1000年)には堀河院へ
退出寛弘3年(1006年)2月25日に再び東三条院の天皇のもとに参入し未明に退出。
後内裏に上がらず、一条天皇が崩御

この後元子の初めての恋愛が始まります。

一条天皇の死後、為平親王の次男である源頼定と密通

承香殿女御に故式部卿宮の源宰相頼定の「君忍びつつ通ひきこえたまふほどに、右大臣聞きたまいてまことそらごとあらはし聞こえんと思ひしるほどに、御目にまことなりけりとみたまうてけでば、いみじうむつからせたまひて、さばかりうつくししき御髪を、手ずから尼になしたてまつりまたふに、憂きこと数知らず見えたりどに、
この現場を父顕光が元子と一緒にいる頼定を見つけたことで発覚怒りにかられた顕光は元子の髪を切ってしまいます。
これは出家を意味します。


その後もなほ忍ぶびてかよひたまひければ、そのたびは「いずちも いずちも おはしねとあれば女御の御乳母とあるは実誓僧都のいふ人の車宿りなり。
その家に渡りたまひぬ。
るべきにこそと思ひつつおろそかならず通ひきこひぬ。

しかしその後も元子と頼定の関係は続き顕光は元子を勘当します。

普通当時の姫君は父親に知られた段階で完全に傷心し、最悪体調を崩して病の後死去してもおかしくありません。
しかし元子はそうはならなかった。
この時元子は初めての恋愛に出会ったのです。一条天皇との間は父の意図であり元子の意思や気持ちはなかった。
だからこそ人の中傷や妬みに耐えられずに妊娠事件後は内裏から疎遠になります。

しかし頼定とのことは大胆に行動します。

元子は乳母子の実誓律師の車宿に住まい頼定との間に二人の娘を儲けます。

寛仁2年(1018年)に元子は堀河院に戻り頼定ここにも住みます。妹延子の死去の際には一時邸宅を離れるも後日さらに戻ります。
平穏な結婚をおくり落ち着いた生活を過ごしていきます。

しかし頼定は寛仁4年(1020年)病に倒れ死去、元子は出家します。その後は歴史から姿を消し他の平安貴族の女性に同じに死去した年場所も不明です。

娘の一人は後朱雀天皇の中宮である嫄子女王(敦康親王女、藤原頼通養女)の御匣殿別当として内裏に出仕しました。

元子の前半は父の思い通りになる娘で一条天皇も気にいった魅力的な女性だったようです。
当時元子の他に二人公卿の娘が女御として出仕していましたが暗部屋女御と呼ばれた藤原道兼の長女、公任の娘義子は寵愛されていなかったので、天皇の女性の好みは尊重されていたと考えていいでしょう。

当時は男が女の屋敷に通う結婚形式でしたが、親の了承をえないといけません。
また結婚は三夜通わないと成立しませんでした。
女は家の奥に住み世間とは隔離して育ちます。
男は自分の関係者から好みの女の噂を聞き、仲立ちをいらして和歌をやりとりします。
その後両親の了解と仲立人との交渉でやっと結婚します。
この手順をふまないと密通となり愛人関係になります。

娘を出した右大臣は
堀河院には音に聞く御有様を本意なげに思さるれど承香殿の今は宰相のかくものしたまふを口惜しう見たてまつりたまへど、今はこの女御の御有様にぞ、よろず思い慰めめける。
宰相のお子どもなども出て来たまへれば、かの水のりを思し合わせ心憂し。



結構好き!!!
平安時代超男尊女卑の世界。
貴族女性は」身分が高いほど屋敷の奥深く人前にすら出ない、自分ではなにもしない、いや出来ない。
食べる行為も恥であり年中栄養失調状態そんな中で出産、感染症病気の脅威にさらされる。
その中で自我を持ち行動する女性共感できます。



狂斎院 娟子内親王
第67代後朱雀天皇第2皇女。母は皇后・禎子内親王。賀茂斎院
後朱雀上皇の崩御により退下。
その後は禎子内親王の下で生活していたが天喜5年(1057年)、3歳年下の源俊房と密通し、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまう。
俊房は伯母・隆姫女王が藤原頼通の正妻、母は頼通の異母妹尊子弟の東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂ったものの処分することができなかった。その後は俊房正室として厚く遇され80歳で薨去


この女性の時代の少し前三条天皇の時代に内親王の密通事件がありました。
当子内親王
母は藤原済時の娘、皇后・娍子。伊勢斎宮
父三条天皇が譲位後、帰京した長和5年(1016年)、当子内親王に藤原道雅が密通しているという噂が発つと父三条上皇は激高して道雅勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放内親王は生母に引き取られ病を得て落飾6年後に短い生涯を閉じる。
当時父の意に背く行為は大罪考えがという一般的で、このケースが平安時代のセオリーでした。
つまり元子や娟子内親王当時非常識な女性だった。



嫥子女王
村上天皇第7皇子具平親王の三女。母は為平親王の次女後一条天皇時の斎宮、後に藤原教通の正室

後一条天皇の即位に伴い、斎宮に卜定される。寛仁2年(1018年)伊勢に群行
彼女の行動で事件が勃発
長元4年(1031年)、酒乱に乗じて伊勢神宮の荒魂と称して託宣を下し宮権頭藤原相通夫妻の不正、朝廷の斎宮祭祀軽視を非難する(斎王託宣事件)


「さかづきにさやけき影のみえぬれば ちりのおそりはあらじとをしれ」

長元9年(1036年)4月17日、後一条天皇の崩御により退下後非難されることなく教通の正妻になります。


藤原璋子
父は正二位行権大納言・藤原公実、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子
鳥羽・天皇皇后、崇徳・後白河両天皇の母
白河法皇とその寵姫・祇園女御の養女
永久5年(1117年)12月13日、白河院を代父に父方の従弟・鳥羽天皇に入内、4日後には女御の宣旨
1ヶ月ばかり経った永久6年(1118年)正月26日、立后中宮を号す。
崇徳天皇  禧子内親王  通仁親王  君仁親王 統子内親王 後白河天皇 覚性法親王
4親王2内親王にめぐまれる。

子供には深い愛情があり、通仁親王君仁親王は障害者でしたが、二人を深い愛で育てたといいます。
白河上皇の存命中はその後見で時めいた中宮だったが、上皇崩御後は鳥羽上皇の院政とj上皇と崇徳天皇との対立、藤原得子の寵愛と不運に巻き込まれ最後は出家今の金剛法院を建立して落飾します。
さて鳥羽上皇は璋子を愛していなかったのでしょうか?

面白い話があります。
久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだと記述があります。

世間の噂を気にして見舞いに来たのはわかりますが、涙したというのかやはり好意をよせていた。それほど魅力のある女性だったと思います。
彼女の家系は美形が多く兄弟も美しかったといわれていますのでそうとうな美人だったでしょう。

源氏物語の女君

最近久方ぶりに古典を読もうといくつか読んでいるけど、ますこれでしょ「源氏物語」というが。
実はあんまり好きではない。確かにド鉄板の王朝物で確かに優美で風雅でいかにも平安時代の宮廷文学物。

本当に個人的な感想で多くの人はわかってないといわれるであろうが・・・・・・・・・・。
でも現在平成も終わろうとしている今源氏を自分の夫と考えてみてみよう。
家柄・地位・名誉・財産・教養・美貌・趣味あらゆる完璧な男
そう女好きで浮気しょうで囲っている愛人多数(昔の妾)外にも愛人、屋敷の中の女中にも手をつける旦那
どう????と考えると・・・・・・・・・・・。まあ現在の常識をあてはめる事態ナンセンスといえばそれまでだけど。

では源氏からではなくて登場人物の女君をいくつかの分類に分けてみてみよう。

まず源氏誕生以前

理想的な女性
①桐壺更衣
美人薄命の母亡き大納言と母は皇室の血を持つが後見人に恵まれず桐壺帝に寵愛されるも他の女御更衣に嫉妬され心痛のあまり他界する。
源氏の女くせの悪さはマザーコンプレックスから始まる。

②藤壺女御
桐壺更衣亡き後入内する前帝の皇女
桐壺帝に寵愛されつつ後に源氏と関係し、冷泉帝を産んだ後源氏との関係を絶ち出家
桐壺帝にとっては都合のいい女だったかも。

①②は源氏にとって最愛の人であり、手に入れる事が出来ない女

嫉妬深い女

③弘徽殿女御(皇太后)
右大臣の長女・東宮の母
大変な嫉妬心と気位の高い
妹の四の君も嫉妬深く頭中将を悩ませる。

④葵の上
左大臣の長女源氏の最初の正妻
気位が高く頑な夫婦仲に冷え切っている。

⑤六条御息所
前東宮の妃
源氏の愛人
ある意味最も源氏を深く愛し源氏が恐れた女
嫉妬から生霊になる。

都合のいい理想的な女

⑥紫の上
藤壺女御の姪、童女の時に見初め誘拐
二条邸で養育し理想的な妻に育てる。女三宮降嫁前までは正妻格の地位
藤壺女御の形代として手元に置くが生前より亡き後源氏が執着した女君。
ある意味死と引き換えに源氏の最大の愛を勝ち取ったともいえる。

⑦明石の君
須磨明石へ隠棲時の妻いわゆる現地妻。
生れ以外は申し分なく源氏の長女も出産。
後に父から譲られた財産で孫たちの後見を任される。
妻というよりも姫君の母として生きた。
生れのコンプレックスから控えめな清楚な美人


⑧夕顔
身分は低いが元頭中将の愛人、二人の間には後の玉鬘がいる。
惟光の母の病気見舞いの際に知り合い六条御息所との恋愛の窮屈さと藤壺女御への慕情から安らぎを求めて惹かれる。
いつしか密かに通う。源氏は身分を告げることなく関係を持つ、女君もあえて聞こうとしない。
ある廃邸で源氏と一夜をあかすも中六条御息所の生霊に会いあえなく死去。
源氏の思い出女

⑨花散里
元大臣の娘桐壺帝の麗景殿女御の妹
若い頃偶然出会い時々通っていた愛人
後に源氏に引き取られ夕霧や玉鬘の養母となる。容姿にコンプレックスがあり源氏に対しても一歩引いている大人しいおっとりした女性。紫の上亡き後夕霧の養母という事もあり源氏の正妻格になる。

当時の典型的な妻の姿平安あるある

⑦八の宮中の君
匂宮の妻
元宇治で父と姉と暮らしていたが薫の手引きで匂宮に夜這いされ強引に結婚してします。
しかし匂宮に愛され本宅へ引き取られる。
最初は後見人の不在から不安定な自分の存在に不安を抱きながら薫の横恋慕に戸惑いながらも匂宮の若君を出産してからは落ち着いた結婚生活を送る。
当時の典型的な妻の姿平安時代はこれはこれで幸せのうちに入るんだな。

⑧朱雀院女二の宮
最初頭中将の長男柏木の正妻になるも柏木の女三の宮への慕情に結婚生活は華々しくない。
物語の後半は地味に登場、しかし柏木亡き後夕霧に懸想(一方的に思われ)、生母の死去もあり周囲に押し切られ夕霧と結婚。
最後は正妻として夕霧と惟光の娘藤典侍の六の君を養女にしてそれなりに夫婦円満に過ごす。
これも典型的な平安時代夫婦像かも。

⑨玉鬘
頭中将と夕顔の娘、乳母の九州で育つも都に出ていつしか源氏の養女に実父とも再会を果たし結婚相手に奔走するも源氏は冷泉帝の内侍に入内を決めるもその矢先黒髭大将にレイプされて強引に邸へ連れ去られる。
後に公卿の正妻として落ち着いた生活を送る。
まあこれぞ平安時代の貴族の娘のある意味典型。

⑩雲居の雁
頭中将と離婚した現在の按察大納言の北の方の娘
両親が離婚後は大宮に引き取られ夕霧と共に暮らす。幼馴染幼いうちに結婚を約束するが、当時の東宮に入内をもくろむ頭中将に阻まれるも、夕霧が宰相中将になった後に許されて結婚し三条殿で幸福な新婚生活を送る。
多くの子供に恵まれるが女二宮との結婚に一時は里へ帰り別居、夕霧は他に惟光の娘とも愛人関係で多くの子に恵まれる。夕霧は当時まめびと(律儀で真面目)として最後は夕霧が二人の間を平等に通いもとのさやに納まる。


自我の強い女性

⑪朝顔の姫君・斎院
桃園式部卿宮の正妻の娘、源氏の従兄妹
若い頃から源氏と文通するなかだが男女の関係はない。
生母の女としての生き方に苦悩して男女の関係を断つ人生を選択する。強い源氏の求婚にも応じなかった。
ある意味物語の中で特異な存在。

⑩②八の宮大君
宇治で隠棲している八の宮の長女当時としては婚期を逃した年齢
八の宮の屋敷に香りが通っているうちに垣間見して恋心を抱かせる。
何度か薫の夜這いに会うが頑として関係を持たない。
最後は元々からだが弱く妹の中の君に匂宮の足が遠ざかるのを悲観して病んだ後死去

⑩③朧月夜六の君(右大臣末娘・弘徽殿女御の妹・朱雀帝の内侍)

源氏が弘徽殿に忍び込んだ際に出会い一夜の関係を持つ。
身分の高さと右大臣に溺愛されて育ったせいか華やかで奔放な気丈な今様的な女性。
源氏との結婚よりも朱雀院への入内を選択、朱雀院に寵愛されるも源氏との関係も続く、しかし父に知られ源氏が宮廷を追われた原因に。源氏が再び出仕後は関係を断ったものの。後年朱雀院が出家すると里へ下がる。
源氏が忍んでくると、再び愛人関係になる。
源氏より先にさっさと出家してしまう。
作品中唯一好きかも

⑩④空蝉(中納言兼衛門督の娘)
紀伊守邸に方違で訪れた際に一夜の関係を持つ人妻
夫は下位の父ほどの年の差婚だったが後見人も死亡してしかたなく後妻になる。
二度目に源氏が忍んできた際に衣を残して去るものの終生源氏の思い出に浸る。出家後源氏に引き取られ仏門に励む。
自分から身を引いたのに最後まで精神的には源氏ラブで未練タラたら~~こういう中途はんぱな女嫌い




かわいいだけの女

⑩⑤女三宮
朱雀院の第三皇女母は藤壺中宮の異母妹である藤壺女御
母も亡く後見人もいない皇女の将来を心配して出家直前源氏へ降嫁させる。源氏も藤壺女御の縁の女性という誘惑にかられ承諾。紫の上はこの行為に打ちのめされはかない最後を遂げる原因となるも本人はまったくの感じておらず、猫や人形を愛するぼーとした女性。しかし柏木に夜這いされ不義の子薫を産むと若干精神面での成長が見られ源氏の関心も増すものの
出家後、宇治十帖では薫の母として登場する。


⑩⑥末摘花ただし性格が・・・・・・・・・・・・
亡き常陸宮の姫君高貴な生まれだが両親は他界後見人がおらず、貧しい暮らしにあえいでいた所源氏の愛人となる。
極端に人見知りで古風な教育を受け頑固で一途、おとなしく実直な純真だが異色の不美人
しかし源氏は須磨への隠棲後も源氏を待ち続けた一途さに引き取り妻の一人としている。

⑩⑦浮舟
八の宮の浮気でできた未認知の末娘
邸宅で仕えていた八の宮の正妻の姪中将の君が生んだ娘
容姿は大君にそっくりだが田舎で育っていたので垢抜けずおっとりしていて女としては隙だらけ。
匂宮に薫と偽って関係を持ち両方の愛を受け女に目覚める。
苦悩して自殺するも死にきれず、横川僧都の妹に引き取られ小野に隠れるがその後出家
出家後薫に知られるも、かたくなに会う事を拒み続けて小野で修業三昧の日々を過ごす。
 

番外編
近江の君
頭中将の御落胤として連れてこられるも上流貴族の生活に結局なじめず邸を後に去る。


個人的にはやはり朧月夜が好き
異論は勿論認めます。

早稲田「待賢殿一般向け「有職故実講座」受講生募集


「早稲田・待賢殿有職故実講座」受講生募集 」

毎月1回、年間12回の有職故実講座を開講するそうです。

少人数制で知識と実技が学べる有職故実講座

公家文化と着付けの体験が同時に学べる講座はそうはないです。

関東周辺の方がメインとなるでしょうが、この機会に学んでみてはいかがでしょうか?

詳細はこちら

待賢殿

雑草子「平安時代 雅なんかじゃない現実」

平安時代以前の歴史好きですが、平安時代には生まれたいとは思わない。
実は平安時代は超が数十字書かないといけないほどの超格差社会

平安時代の人口は律令制の崩壊で戸籍が存在せず不明
かろうじて田積数をもとに算出された総人口はおよそ500~600万人この数字も説であり実数は不明
文献上の人口は
聖武天皇の奈良時代748年
8,631,770

一つの仮説として平安時代の人口は600万

1279年
4,989,658

この500年で人口が半分近くいなくなる状態に陥ります。


平安京の都の人口はどうだったか?
京都産業大学の井上満郎教授の論文による算出では平安京の構成する1136町(「町」は京を構成する単位である40丈[約120メートル]四方の区画を職人たちが住む諸司厨町四一町、一般市民居住区452・5町、東西両寺などの「特別区」42・5町に同規模の集落があったと仮定して、
貴族・官人12273人☜最大でという数字 実際はこの半分以下か
諸司厨町の人口15033人
一般市民90066人と算出した。
+実数の不明確な天皇・皇族・奴婢などを加えると、合計12万人前後~13万人と仮定している。
但平安京ないで同規模の居住地が点在しているというのはやや多すぎでは???


貴族とは五位以上の官位がある身分いわゆる殿上人を指します
とりあえず地方の国司の数は入っていないのを考慮してもおよそ1000人程度?

その中でも
太政大臣、左大臣、右大臣「公」

三位以上の貴人や参議の官「」と呼ばれる公卿

三公は各一人で三名(但太政大臣は空席になる場合あり)
大納言は定数二名(但 後世権大納言職が出来ると定数が無実化される)
中納言は定数二名(但 後世増員される)
参議 四位以上の位階 参議の数も定数は?
    +下記のいずれかの条件を満たすもの
      蔵人頭・左右大弁・近衛中将(長年務めた場合のみ)・左中弁・式部大輔(侍読を務めた場合のみ)
      五ヶ国の国司を無事に務め上げた者
      三位の位階を持つ者(従三位に相当する官職としては、大宰帥、弾正尹、中納言、左右の近衛大将

国政は上記の公卿で執り行われますのでどう考えても十数人かなぁ。

しかもその中で公の第一の人

「関白・天皇が成人でない場合は摂政」
「内覧:天皇にあがる上奏文をあらかじめ拝謁できる権利・いわゆるここで握り潰せる権利を持つ」
道長は左大臣でこの内覧の権利を得ていたので関白にはなったことがありません。それほど重要な行為でした。
「藤氏長者:政治的な藤原氏の存立基盤整備、氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社などの管 理を束ねる者」

概ね天皇に最も近い近親者で年長の者が指名される。

実質最高権力は一名のみになってしまいます

その地位を得るまでの条件が超過酷

①父親もしくは義父(養子になっているかもしくは婿)が生存し、現在進行形で権力を把握している。かもしくは自身がすでに権力を把握している。

父親が最高権力者であっても死亡していたり、有力な後ろ盾を持っていないと地下(蔵人の六位以外の六位以下の貴族は内裏へも上がれない場合がある。)といって貴族であるが貴族扱いされない。


②母が正妻
当時は一夫多妻制度通い婚が普通その他に愛人、妾、家女房(召使のお手付き女房)あり。
自分の子供であっても正妻の産んだ子とその他の妻以外の子は出世に大きく差をつけられる。
子供間格差が当たりまえ
正妻は一人だけ、多くの妻の中で実家が権威のある家柄の者か多くの子女に恵まれた者がその地位に就くことが多い。

正妻に子供のない場合は例外だが
叉は養子が後継ぎとして定めた場合を除き、長男であってもだだの妻の子は後継者になれない。



ものすごいコアな確率が必要です。

つまりすごい超ラッキーがないと簡単に手に入れられない第一の人

これは天皇に即位、東宮に立つ条件も同じです。

となると

天皇 一人
関白か摂政・内覧 一人(親子関係の場合はいずれかも可)
東宮 一人
                        計三名

しかも上記の身分になっても絶対的な存在にならない場合もある。

では平安時代の人物を紹介しながらいかに当時が貴族社会の中でも格差社会だったのか検証してみましょう。
天皇すら絶対的でなく時にその地位を意図的に退位させられたりしました。


平安時代前期の天皇

陽成天皇

父清和天皇と正三位藤原 長良を父に持つ女御藤原高子の第一親王

貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位され、皇位を継承母方の伯父・藤原基経が摂政に就任
しかし清和天皇の臨終の頃からその関係が悪化してゆき、たびたび基経が出仕しなくなる事態をまねき政局が混乱してゆく。
基経は高子とは同母兄妹ですが、基経は幼少期に叔父の養子になっているので疎遠だだったのでしょう。その理由を現在は生母高子と基経の権力の中枢にいた二人の関係悪化があげられ、後宮にも誰一人妃がいないという前代未聞な状態が続く。

これらはあきらかに基経の陽成天皇と生母高子への嫌がらせであり、基経は貞観2年(860年)、藤原氏宗と結婚して同年8月、従五位上に叙され清和天皇の宮廷に出仕し続けていた異母妹の淑子に接近

同じ後宮内に異母姉妹が接触していたのです。
そもそも内輪もめですね・・・・・・・・・そんな緊張感のあるなかついに事件が!!!

基経出仕拒否後に陽成天皇の乳兄弟源益殴殺事件が起きます。しかも天皇の近習していた時でした。
事件はむやむやにされますが、宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、さらに禁中で禁止されていた馬の飼育が発覚、基経は公卿の賛同を取り付けて陽成天皇に退位をせまり、天皇はしぶしぶ譲位を承諾。

なんせ味方となる権力者がだれもいませんから。当時は天皇といえど政治は臣下が決定したいたので、何も決めれません。

基経はここで自分の孫異母弟・貞辰親王(女御・佳珠子の所生)を帝位につけるかと思いきや、仁明天皇の子供で一品に叙せられ親王の筆頭である母方の従兄弟にあたる光孝天皇を担ぎ上げます。

実はこれには淑子が一著かみしていまして、即位後淑子は尚侍に任じられ、光孝天皇の息子定省王を猶子にしていました。
この光孝天皇意外と律儀な人で、即位後基経は甥である貞保親王に皇位を継承させるだろうと考え。
自分の子女たちを全員臣籍降下させまくりました。
その光孝天皇が重病になると基経なんと「源定省の臣籍降下を撤廃 親王復位」をさせるウルトラCをしちゃいます。

仁和3年8月25日親王に復位翌8月26日に立太子、同日に天皇は崩御、定省親王が践祚して宇多天皇即位。

さて 後に陽成天皇は、宇多天皇即位の際には「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言ったという話が大鏡にあるようになんともいえない心情だったでしょうね。

陽成天皇の崩御は949年で81歳崩御、朱雀天皇治世の頃ですから4世代に生きたんですね。

さて生母の藤原高子皇太后はというと。
ふんだり蹴ったり寛平8年(896年)宇多天皇治世、東光寺の座主善祐と密通疑いをかけられ、皇太后を廃されてしまいます。
翌年天皇の生母班子女王が皇太夫人から皇太后にあがります。
延喜10年3月24日に没後の天慶6年(943年)に朱雀天皇の詔によってようやく復位されました。
権力者の父と兄を持って、親王も生んだにも関わらず虐げられる場合もあったのです。

しかしこの基経かなりの策略者です
。それまで北家では房前以来穏健な人が多かったのにここにきて、血なまぐさい闘争が激化してゆきます。
貞観8年(866年)に起こった応天門の変では応天門が放火され炎上する事件の首謀者とされる首謀者伴善男は右大臣・藤原良相に対して源信が犯人であると告発します。
藤原良相は源信の捕縛を命じて兵を出し、邸を包囲する事態に発展。
しかし当時参議の藤原基経がこれを義父太政大臣・藤原良房に告げ、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実とされ、後日その犯人は伴善男とされ伴氏は紀氏と共に流刑になり都を追われます。
残ったのは藤原氏のみ。
この事件は藤原氏の他氏排斥ともいわれています。


平安時代中期の天皇
三条天皇

冷泉天皇の第二皇子  母摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子

外祖父関白兼家の鍾愛を受けて育ち、兄花山天皇の退位後に円融天皇の東宮(生母詮子兼家の娘・孫 一条天皇)が即位した際にその東宮に就きます。
つまり天皇の方が東宮より年下
外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道兼が関白に就任していた頃はまだ安泰でしたが、入内していた関白の娘たちが相次ぎ死去してしまい、妃は時済の娘せい子のみという後見が薄くなっていました。

寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位します。
皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王が立ちます。
さてその頃の実力は道長で説明なしで可ですよね。
血縁関係の薄い道長が次女研子を入内させますが、誕生したのは娘禎子内親王のみでこうなると

娘彰子の親王の即位を見たい道長得意の圧力が!!!

長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患います。
今でいう緑内障でしょうかね。

道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫り、更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失当時は天変地異と同じ内裏出火も天皇の徳がないのが原因と言われていました。
病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い譲位し後一条天皇が即位、翌寛仁元年(1017年)4月に出家後すぐに崩御してしまいます。
直接の死因は不明です。


さて余談ですが、後一条天皇の東宮に敦明親王は、当然父への不敬を見ていた彼は自分に分がないのが十分わかったのか。
道長に東宮位を辞退したいと申し出、承諾され彼は即位していないが太上天皇に準ずとされ小一条院と名乗り、道長の明子所有の娘寛子を女御に迎えて邸も高松殿で生活します。

ここでも悲劇
平安時代中期東宮妃
藤原延子

小一条院の妃は右大臣だった藤原 顕光の次女 延子と堀河殿で生活し二人には子供に恵まれていましたが、道長の権威におされた小一条院は堀河殿を出て高松殿で生活すると延子の元へ通う事がなくなります。
延子は失意のうちに心身症を患い寛仁3年4月10日静かに息を引き取ります。
栄花物語からおそらく精神的ダメージによるうつ病かと・・・・。

この藤原顕光も立派な関白の子供です。
関白藤原兼通と正妻元平親王娘・昭子女王との長男です。
本来なら関白を就任してもおかしくないのですが、貞元2年(977年)兼通は病に倒れ死去。
叔父たちが歴代関白を就任した以降官職が止まり、新関白となった兼家の子(道隆、道兼、道長)に追いこされます。
この人の場合は「出仕以来、万人に嘲笑され通しだ」と学識人の藤原実資の揶揄されるだど能力がなくその器などでなかったようです。
しかし権力者にとって無能な貴人も必要なようで、疫病による要職に似合った人物が続々死去したために最終左大臣まで登ります。あるいみ運だけで来た人。
でもスキャンダルとは無縁とはいえず。
娘元子が一条天皇の女御となるも婦人系の病を妊娠と錯覚して「「水を生んだ」と人々から笑われ、一条天皇崩御後に元子と参議・源頼定が密通を犯して勘当したりと。
頼りの息子重家は寛弘の四納言と呼ばれた(藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の4名)の実力を知り羞恥心から出家し父を悲しませます。
貴公子でも運、実力なければダメな社会だったのね。


平安時代後期 超幸運な天皇
後白河天皇
父親 鳥羽上皇 母親中宮・皇太后藤原璋子

第四子に生まれるも、当時は祖父で後ろ盾になったであろう白河上皇が崩御しており、一生親王で終わるはずが異母弟近衛天皇の急死により鳥羽上皇と美福門院が養子の守仁親王(二条天皇)に皇位を継がせる目的で即位。
即位後すぐに譲位して上皇となります。
始めは芸能に興味があり、政治には無関心だったのですが、鳥羽上皇崩御後、当時の関白がまだ若く藤原内部紛争や皇位継承の対立などが重なりなす。
また武士の断頭も目立ち始め院政を行い度々幽閉や政治的危機に立つも権力を把握し、初めて院政をしいて受領(中産階級の貴族五位や六位)や北面の武士を重用して権力を把握した上皇となります。

有力な後見があれば東宮や天皇に即位出来たのか?
実はそうでもありません。

平安時代中期皇族
為平親王

父村上天皇母中宮藤原安子(右大臣藤原師輔の長女)の間に生まれた第二親王・正妻の産んだ第一子
兄は冷泉天皇、村上天皇も目をかけていたのに順位でいくと安子の次男なので東宮に就いてもおかしくないのですが、東宮は弟の守平親王(円融天皇)が立ちます。
左大臣源高明の娘を娶って源氏の外戚で既に一上の地位を得ていた高明がさらなる権力を得ることに対する藤原氏側の危惧があったといわれています。(この頃師輔はすでに死去長男藤原 伊尹はまだ大臣にさえ就任していません。)
その後、源高明は冷泉天皇を退位させようとしているとの風説で大宰府に左遷された安和の変で失脚、京へ戻っても不遇の暮らしを強いられます。
ちなみに彼の娘は藤原道長の第二妻の源明子叔父の養女となってから詮子の後見で彼と結婚したとされます。

第一親王・中宮腹であってもまったく後見がいなくて立太子出来なかった親王

平安時代中期皇族
敦康親王
父一条天皇 母皇后藤原定子(父藤原道隆・母高階貴子)
后腹の第1皇子当時外祖父である中関白藤原道隆は既に亡く、伯父伊周孝家の長徳の変で失脚で没落し、中宮彰子の養子になったものの、彰子に敦成親王・翌年、敦良親王が誕生すると皇位継承権から除外されます。
風雅に生き20歳で薨去悲劇の親王ですね。


摂政や関白の地位にもれた子息・天皇の血筋の貴公子たちははどうしたのか?
まず直系の子息はそれぞれの母親の地位と誕生順に基ずいて官職に就きます。
後はその当時の最高権力者にどう采配されるか。
側近として公卿を目指すか。
それとも敵対勢力として排除されるか。

側近として重用された

兵安時代中期公卿
藤原 行成 
(祖父の摂政・藤原伊尹の猶子・父藤原義孝母源保光娘)
生れてすぐ伊尹・父義孝も死去して備前守だった祖父の源保光の養子となったので青年時代まで地下でした。
長徳元年(995年)親友源俊賢の推挙によって従四位下の殿上人から一条天皇の蔵人頭に抜擢、一条天皇の信頼を得て確実に出世、道長の重用もあり、最終官位権大納言になります。実務者として有能で洞察力に優れ冷静沈着、書家としても有名でした。

彼の息子はたたき上げの父の様に才能がなく、また道長に多くの子息がいたために官職を望めないと思ったのか、受領一筋の地位に徹してひたすら財を築いたようです。
贅沢しすぎて肥満のために家人に支えられないと歩くことも困難だったようです。
受領はいまでいう知事&地方警察庁長官&地方最高裁判所所長を兼ね中央から税の徴収もしていまいましたが、横領や蓄財も認められていて中央の公卿に賄賂などを贈ってはさらに財をなしていました。
院政時代には大きな勢力となっていきます。


藤原 公季
父藤原師輔 母醍醐天皇十四皇女・康子内親王
しかも幼少期から村上天皇の内裏で過ごしていた超セレブ、東宮だった円融天皇から「まるで親王の様にふるまっている」
と憤慨されたほど。
成人すると時の関白に近ずいてそれなりの地位にいてとくに道長執政下伊周失脚後その後任の内大臣に就任しました。
後一条朝には老臣として治安元年(1021年)太政大臣に昇進し、死後正一位の極位に。
嫡孫・公成の娘・茂子(藤原能信養女)の生んだ皇子が白河天皇として即位して以降天皇家に血を残します。


藤原公任
父藤原頼忠 母代明親王娘・厳子女王
祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務めた超セレブしかし藤原兼家が摂政となり昇進が止まる。

長徳元年(995年)の赤斑瘡の大流行や長徳2年(996年)の長徳の変を経て執政の座は藤原道長に移る。
長徳5年(999年)公任は14年ぶりに昇叙されて従三位になりの頃より公任は道長に接近、寛弘6年(1009年)に藤原斉信と共に権大納言に昇進する。
和歌に優れ道長も人目おく風流人、自分の官位が思うようにならない時には籠って辞表を出して固辞し逆に昇進させる裏技をやっていました。当時和歌に優れ、道長としてはぜひともほしい人材だったようです。

この人超苦手いけすかん感じ
今は昔、一条天皇の御時に、上東門院が始めて参内させ給ひけるに、御屏風を新くせさせ給て、色紙形に和歌を書かん料に、歌人共に仰せ給て、「歌読て奉れ」と有けるに、四月に藤の花の趣深く咲きたる家を絵に書たりける屏風の一帖が公任大納言に当てられ、歌読み給けるが、既に其の日に成て、人々の歌は皆持ち参たりけるに、此の大納言の遅く参り給ければ、使を以て、遅き由を関白殿より度々遣しけるに、行成大納言は此の和歌を書くべき人にて、早く参て、御屏風を給はりて、書くべき由申し給ければ、殿、いよいよ苛立ち居て待たせ給ける程に、大納言、参り給へれば、人皆、「歌人共がはかばかしく歌も読み出でぬに、然りとも此の大納言の歌は、よも拙き様は非じ」と期待したりけるに、御前に参るや否や、殿、「いかに歌は遅きぞ」と仰せられければ、大納言、「はかばかしくも、更に作り得ず。拙くて奉たらんに、奉らぬには劣たる事也。其の中にも歌人共のいと勝れたる歌共も候はざめり。其の歌共取り上られず、我のはかばかしくも非ぬが書かれて候はん、公任が永くの汚名に候ふべし」と、強く辞退を申し給けれども、殿、「他の人の歌は無くても有なん。汝の御歌無くば、総て色紙形を書くまじき事也」と、真剣に責め申し給ひければ、大納言、「実に困り候ふ態かな。此の度は、凡そ誰も誰も歌を読出でぬ事にこそ候めれ。中にも高遠のをこそ優れし、と、然りとも、其の歌を期待し候つるに、此く「きしのめやなへ(岸の芽柳?)」と読て候へば、いと異様に候ふ。然れば、此の人々だに此く読み損ひ候へば、まして公任は読み得ず候も理なれば、尚免し給ふべき也」と、様々に逃げ申し給へども、殿、強ちに頻りに頻りて責させ給へば、大納言、極じく思ひ煩て、大に溜息して、「此れは末代迄の汚名残す事かな」と打云て、懐より陸奥紙に書たる歌を取出て、殿に奉り給へば、殿、此れを取て、御前に開きて置給ふに、御子の左大臣宇治殿、同二条大臣殿より始めて、多の上達部、殿上人、「然れども、此の大納言は無下に故無くは作り給はじ」と期待して、除目の大間書を殿上の間に開きたる時の如くに、皆人、寄り集りて見騒ぐに、殿、声を高くして読上給ふを聞けば、

  紫の雲とぞ見ゆる藤の花
いかなるやど(家)の兆しなるらん
    
(紫雲は吉兆、藤の花は藤原氏の象徴。藤原氏繁栄の予祝)

と。多の人、皆、此れを聞て、胸を叩て「素晴し」と讃め騒けり。大納言も、人々の皆「素晴し」と思たる気色を見てなん、「今ぞ胸は落着き居る」とぞ、殿に申し給へる。
此の大納言は、万の事皆優れける中にも、和歌読む事を自も常に自賛し給けり
わざわざ遅く着てさらにもったいぶってひけらかす

平安時代中期 公卿
源 雅信
父敦実親王、母藤原時平の娘
宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖
朱雀天皇 → 村上天皇 → 冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇 → 一条天皇と天皇が変わるが順調に出世
円融天皇治世で特に重用され藤原氏に排除されることなく左大臣までのぼり詰め、993年薨去します。
彼は生前娘倫子を后にと一条天皇の後宮に送りこもうと正妻に相談した所、当時はまだ年少で成人した倫子とでは不釣り合いでかつ関白をゆうする藤原氏に対抗する事への恐れから「猛反対」
正妻は当時倫子に懸想していた道長に出世の望みのほうが可能性があると主張して、強引に夜這いさせて結婚させてしまいます。
後年これは大正解~~~残念ながら雅信はそれ以前に死去してしまいますが、死後に天皇の外祖父となります。



では立ち回れなかった人は?

平安時代中期 公卿
藤原 道雅
父 藤原伊周母 源重光娘
祖父の中関白道隆に溺愛されて育つも祖父の死後父と叔父のしでかした長徳の変がたたり中関白家は没落、春宮権亮の頃敦成親王の従者暴行して謹慎その三年後長和5年(1016年)に蔵人頭に昇進するも数日で更迭、9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通が発覚して三条上皇に仲を引き裂かれる。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見さらた事件に容疑者として法師隆範を捕縛すると道雅の命で皇女を殺害したと自白。
しかし自首犯が突如現れ事件はむやむやに。
2年後万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されます。
万寿4年(1027年)に路上で乱闘事件を起こし、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま天喜2年(1054年)7月10日に出家10日後に死去
ついたあだ名が世上荒三位、悪三位


藤原 兼綱
父藤原道兼 母藤原遠量または藤原国光娘
養父:藤原道綱
関白右大臣として執政の座にあった藤原道兼の三男として誕生するが、長徳元年(995年)に道兼が薨去した後、叔父・藤原道綱の養子となる。
寛弘2年(1005年)正月の踏歌節会に際して、源朝任・藤原兼貞・藤原忠経・藤原経通・藤原資平と共に蔵人に暴行を加えて、節会で踏歌を行う女性らが使用するはずだった簪や櫛を取り上げてしまうとの事件を起こします。
他の5名と共に謹慎処分
兼綱は10年以上左近衛中将に止まり、結局公卿昇進を果たせずに生涯を受領に終わり死去


平安時代中期 公卿
源 高明
父 醍醐天皇 母源唱女・周子
臣籍降下して実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て政界で活躍するも両名が死去すると源氏の勢力が拡大することをおそれた右大臣藤原師尹は高明が失脚するように策をねります。
諸門を閉じて諸公卿と廷議を開き、関白藤原実頼が謀反の疑いをかけて太宰府に左遷。
安和の変の犠牲者となる。翌天禄2年(971年)に罪を赦されて翌年4月に帰京するも、政界に復帰することなく隠棲
有職故実の西宮記の作者、道長の高松殿の実夫として知られます。


反抗しつつもそれなりに出世した

平安時代中期 公卿
藤原 能信
父藤原道長 母盛明親王養女・高松殿
いわゆる二番目の妻の子供なので倫子所有の子息よりも出世は遅かった。
道長に似て勝気な性格でよく乱闘事件や暴行事件、強姦事件の協力をおこす問題児
一方正妻腹の頼通にすりよる事なく、後三条天皇に仕え後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするように進言しかなえられる。
また自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ妃がいないという状態を防いだ。
同母兄の右大臣・藤原頼宗の急死で大臣への道が開かれたその僅か6日後死去
延久4年12月(1073年1月)に茂子所生の皇子である白河天皇が即位
翌延久5年(1073年)5月の後三条天皇崩御直前には能信は死後正一位・太政大臣を賜る白河天皇は能信について必ず大夫殿と尊称しました。


藤原 実資
父藤原斉敏、母藤原尹文娘
養父:藤原実頼
藤原北家嫡流・小野宮流の相続者、有職故実に精通した当代一流の学識人で藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫いた。
最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた小右記の作者
道長の娘の彰子が入内する際にその調度品の一つとして四尺の屏風を作らせ実資にも和歌を所望したがそんな例はないと断固固辞した。常に一条天皇や三条天皇によりそい義を通したが。あからさまに道長に反抗したわけでなく筋の通らない事はNOという人物だったようで、大きな衝突はあえて起こさず、ただ通りにあわない事は正論を立てて反発したという事でしょう。
道長の長男頼通には頼りにされたらしく、双方円満に政治を行っていました。



女性皇族・貴族

中宮になっても親王を産まないと不動の地位ではありません

平安時代中期 中宮
藤原 遵子
父関白藤原頼忠の次女・母代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王

円融天皇は第一皇子の懐仁親王を産んだ詮子ではなく彼女を中宮にしたのには藤原氏の勢力分散が目的だったのですが、この行為で詮子とその父兼家の恨みを買いました。
立后の日、弟の公任は詮子方に「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのかなといらない一言を言ったため後世に慎重な姿勢で政局を生きなければなりませんでした。姉が親王を産まなかったためです。
逆に一条天皇の即位で詮子が皇太后になった際、公任は詮子の女房から「姉君の素腹の后はどちらにおいでで?」と皮肉られたそうです。
譲位後は里邸の四条第で暮らし仏道に専念しつつ公任の娘を養女にして余生を送った寂しい中宮でした。


玉の輿皇后
平安時代初期 皇后
橘嘉智子

父親橘清友 母親田口三千媛
嵯峨天皇が親王の時に入侍、即位後の大同4年(809年)6月に夫人正四位下に叙される。
翌弘仁元年(810年)11月、従三位となり、当時藤原氏一門に適齢期の女性貴族がいなかったことと。桓武天皇の皇女で高津内親王が後宮にいた。
藤原氏は皇族の皇后を立后することを危惧したのか、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位とともに妃に立てられるが、間を置かずして廃妃になり息子業良親王も無品の親王で終わらせ強引に弘仁6年(815年)7月13日、立后させます。
嵯峨天皇の間に2男5女をもうけ、藤原氏の子女を息子に娶らせて皇太后・太皇太后となり、淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)のきた廃太子を伴う承和の変にも大きく関わって仁明天皇の直系皇統を実現しました。

中宮皇后になれなければ栄花を極められなかったか?
女性に求められた役割に出産があります。特に天皇家では皇統を継続していくには必然
なので中宮だから皇后だから男子を産めるとは限りません。
そりゃそうです。

平安時代中期 女御
藤原 詮子
父摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女 母摂津守藤原中正の娘時姫
した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟です。
第64代円融天皇に入内し三年後唯一の第一皇子懐仁親王(のちの一条天皇)を生むも、円融天皇が兼家のみの権力集中を回避させたい為に中宮の地位を関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われます。
その後実家に籠ったきり、へそを曲げて入宮しなかったといいます。
一条天皇が即位すると国母として政治にも介入し始め、藤原実資に「国母専朝」と非難される。
末の弟道長をかわいがっていたため、後にその出世に大きく貢献する人物です。

東宮を産み高貴な家柄にもかかわらず、後見を受けられずに隠棲しつつ後に栄花を極めた人は?

平安時代後期 中宮・皇后
禎子内親王

父第67代三条天皇の第3皇女 母藤原研子(道長の次女)
万寿4年(1027年)、皇太子敦良親王に入内、長元2年(1030年)良子内親王を、同5年(1032年)娟子内親王を出産したのち、同7年(1034年)尊仁親王を出産
しかし長元9年、夫の皇太子敦良が即位(後朱雀天皇)。同10年2月(1037年)、中宮に冊立されるが、3月嫄子(藤原頼通養女)の立后で皇后宮に変えられると、当時両親も死亡叔母で姑の彰子も死去しており彼女は道長の外孫といいつつすでに親王を産んでいたため頼通にとって邪魔な存在でした。入宮も出来ずに所有の親王も冷遇されていました。
しかし後朱雀天皇の妃に他の親王が誕生しなかったためと異母弟で中宮大夫だった能信がすすんで尊仁親王を立太子させることを上訴したため親王は後三条天皇として即位国母となることが出来きました。

平安時代末期中宮
藤原忻子
父徳大寺公能 母藤原豪子
後白河天皇即位と共に従四位上女御となる。保元元年(1156年)、中宮に冊立後譲位後皇后のち皇太后
寵愛が薄く子もなかった。
絶大な権力であった後白河上皇の前では中宮であっても後宮では寂しい存在だったんです。


平安時代末期 シンデレラガール
平滋子
父兵部権大輔・平時信 母中納言・藤原顕頼娘 祐子

後白河上皇の女御・女院
父は鳥羽法皇の近臣、滋子も法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)の女房時代に後白河院の寵愛を受ける。
20歳で第七皇子(憲仁)を出産、仁安元年(1166年)立太子後仁安3年(1168年)2月、後白河院は当初の予定通りに六条天皇を譲位させ、憲仁親王即位。皇太后に後女院となります。34歳でにきみ(腫物)おそらく腫瘍かもしくは腫瘍の外傷による破傷風?により崩御するまで後白河院の寵愛を得ていました。


概ね平安時代中期の人物を中心にしてかつ藤原道長・菅原道真・等の有名な人物や有名な藤原氏の抵抗勢力排斥の事件の犠牲者は外しています。


生きるという現在の価値観で間違いない常識がかなり危うい。
簡単に病気にかかりあっけなく死んでしまう世界

現在の常識とはかけ離れた生活習慣と価値観と無知

まず医学知識が0

典薬寮はあったものの民間療法や中国からの医学書(こちらも医学書とよべるほどの物ではないレベルの書)に近い薬草やお灸や鍼が医療行為として行われていたので治るはずはなくかえって悪化することも多い。
平安時代に病気の治らないものは悪霊や魑魅魍魎が原因とされていました。
治らない物は除霊や加持祈祷などで祓う=病気が治るという認識でした。

②食生活が無茶苦茶
まず一日二食
食事回数が少ないほど人の体は飢餓状態で血糖値が急上昇して糖尿病のリスクがあがります。

加糖体質の食生活
白米のご飯山盛り、これに酢塩醤酒などの調味料を加えおかずは干した魚介類・海の物は塩漬け・刺身・焼いた川魚・鳥で
デザートは果実や小麦粉で揚げた唐菓子というお菓子が出ます。これに酒や祝いの席では餅

女性貴族に至っては「食べる行為そのものが卑しいという認識で常に栄養失調状態」


男子貴族は常に飲酒しており、平安時代の酒は現在の物よりも糖分が高かったといわれています。
その酒に塩分の高い魚、海藻をあてにしていたのでそれはやばいでしょ。

完全に炭水化物中毒&塩分過多&少タンパク質&食物繊維不足
これを毎日していたらそりゃ生活習慣病地獄ですね。

③運動は少な目
ほぼ戦争のなかった平安時代(内戦は省きます)、貴族は運動といっても庭で軽くいまでいうプチサッカーをするくらい。
女性にいたっては歩くことすらまれ、膝行が一般的で物をとるにも高貴な姫君・夫人は女房に手渡ししてもらっていました。
これも生活習慣病の元です。

④生存競争によるストレス
貴族たちは極めて近しい親族のみで構成されています。
当時の藤原氏が、その他に天皇の血筋を継ぐ源姓、その他の少数貴族(橘氏・菅原氏・中臣氏・大江氏・紀氏・清原氏・高階氏)
その中でも生存競争をかけた裏工作や政争など巧みな駆け引きが必要で親子間でも場合によると敵対したり、気がおけなかったりしました。
近親者で構成される社会では「恥」がなにより勝ります。

平安時代は恥が最大級の虚栄心になり、時には殺人事件も起こされたりします。

貴族の死因実例

①ダントツに多いのが糖尿病の合併症による死亡

地下・殿上人とわず貴族の病気といえばこれ
一番有名な人物は藤原道長
中期
後一条天皇  輔仁親王   藤原 伊尹 道隆 伊周 家長 
後期
藤原 公実 徳大寺 実能 藤原家成

有名人物で上記

遺伝型の二型糖尿病といえるか?でも当時の貴族には多い病気でした。
いわゆるインスリン不足で栄養がいきわたらない合併症を伴う病気で死亡します。
脳梗塞・脳卒中・心不全・壊疽・失明・腎臓不全等免疫力が著しく低くなり肺炎やちょっとした傷が化膿して熱が出て感染で死亡したりします。

脚気が原因の胸病

直接の死因は心不全
庶民はあわやひえなどの雑穀を主食として食べましたが、貴族は白米です。
しかも副菜から栄養をとっていないのでビタミンB不足倦怠感や手足のしびれ・むくみなどから始まり、末梢神経の麻痺進行すると心臓衰弱をまねく。
皇族や貴族など上層階級を中心に脚気を発症している。
近代でもNO3に入るくらい国民病といわれていた。

現在の肺炎や結核も胸病とされたので現在では判定が難しい
有名な人物では
藤原超子冷泉天皇の女御
藤原兼家の長女 母藤原中正の女・時姫
居貞親王(三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王の三男一女を産んで栄花を極めようとするも天元5年(982年)急死。
庚申待の明け方、脇息に寄りかかったまま眠るようにしていつの間にか息絶えました。心不全ですね。

③感染症(赤痢・瘧マラリア・赤疱瘡はしか・疱瘡天然痘・風風邪及びインフルエンザ・しはぶき)
衛生状態の非常に悪い時代しかも生活習慣病や栄養不足等で一旦流行すると貴賎を問わず爆発的に感染する。

瘧マラリア
平安時代末期平氏武士
平清盛
父平忠盛 母白河院女 房義母祇園女御
後白河院に童子の頃から仕え側近として頭角をあらわす。武士の身分で初めて娘徳子が高倉天皇の中宮になって自身も太政大臣にまで登りつめるも。後年後白河院と源頼朝らと対立し平家討幕の機運の中、瘧に感染して病死したといわれています。

平安中期 疱瘡
藤原  挙賢
     義孝
 
父藤原伊尹  母代明親王娘・惠子女王
死去

藤原朝光 
インフルエンザ?
父藤原兼通  母有明親王娘・能子女王
大納言 死去

平安時代中期 
赤疱瘡 現在の麻疹
藤原嬉子
父藤原道長 母源倫子 後朱雀天皇の東宮妃
万寿2年(1025年)8月3日王子(親仁親王、後冷泉天皇)を出産するも2日後に薨去
栄花物語に病状が出てきますが、まさにはしかの病状にドンピシャ


疱瘡
藤原威子
研子の同母妹
甥の後一条天皇に入内4月に女御宣旨を受け、10月中宮に冊立夫の死後半年で39歳で崩御
入内時9歳年長の妃年上でかつ幼い時から知る甥の妃になるのを恥じる様子が栄花物語にある。
しかし二人の内親王にしか恵まれず、後一条天皇に姪が入内する話が持ち上がると里へおりようとする態度に出て結局摂関政治に終止符を打つ事にも。
子女は章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)だが二人とも子に恵まれずに二人の皇統は途絶えます。


④女性に多いのが妊娠中毒症及び出産による死去

康子内親王(嵯峨天皇の内親王)

藤原安子(村上天皇中宮)

藤原定子(一条天皇皇后)

関白道隆四の君御くしげ殿(定子の妹)

藤原忯子(花山天皇女御)

藤原 嫄子(父一品式部卿敦康親王 母具平親王次女)
頼通の養女後冷泉天皇中宮

藤原永頼娘四の君
藤原頼通の子を産むも母子死亡

藤原公任娘(藤原教通室)
出産後死去


もののけ
概ね異常行動や言動が原因とされる病はすべてもののけとされる。現在ではおそらく総合失調症・躁鬱病・神経症等の精神的疾患や発達障害やアスペルガー・更年期障害・知能障害身体障害等によるものと思われる。

藤原明子(染殿后・文徳天皇女御清和天皇の生母)
冷泉天皇(村上天皇・中宮安子)
道隆の三の君
通仁親王、君仁親王(鳥羽天皇・中宮 璋子)
藤原寛子(父藤原道長三女 母 源明子)
小一条院の女御
小一条院の妃延子とその父右大臣藤原顕光の霊による病で死去とされている。
精神的過労?

鬱病による餓死

栄養不良と過度なストレスがかかる平安時代書物でこれは絶対に鬱病による食欲不振からくる餓死といっていいのではという記述が見えます。
女性に多いのはやはり暗い邸の中にいて、太陽に浴びない為にセロトニンがうまく作れず、運動もしないからだと。

源国盛
道長から第一国越前守を命じられていたのにもかかわらず、藤原為時が一条天皇に「淡路国守任命」を奏上する詩を送った所天皇がその素晴らしさに為時に同情して涙する。これを見ていた道長がおそらく自身が決めた国盛の任地越前を為時に譲るように命じた後、越前は為時、淡路は国盛に決定するも意気消沈した国盛は床に臥せ翌年の播磨守就任も受けるも死去します。

高階貴子(道隆正妻)
長徳の変で目の前で伊周が検非違使に捕らわれ、連れ去られる様子を見てそのまま床につき病みます。
その後伊周が密かに京へ戻り再会するも本服することなく死去

藤原延子
(父右大臣藤原顕光 母村上天皇皇女・盛子内親王)
三条天皇の第一皇子である敦明親王と婚姻し、敦貞親王、敦昌親王、栄子内親王の二男一女をもうけるも、道長の嫌がらせで三条天皇は譲位、夫敦明親王が東宮になり未来があるように見えたが、敦明親王は即断で東宮を辞退小一条院と称して道長の明子腹の寛子を女御にむかえ高松殿で同居する。
以降院にみ捨てられたように堀河殿で孤独に病で死去

当子内親王

父三条天皇母藤原母皇后娍子
父から鍾愛された内親王で伊勢斎宮に群行する際に「別れの櫛」儀式時三条天皇は悲しみのあまり、本来はいけないのだが振り返ってしまい、道長に非難されたほどでした。
伊勢において三条天皇の長い治世を大神に神託させたりとしたがおもいかなわず、譲位に。
帰京後、母の殿では狭いという理由で別居していた時、乳母の仲立ちを受け道雅と密通していると噂され、三条天皇は激昂道雅を勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母・娍子のもとに引き取られ裂かれてしまう。
自ら落飾して6年後に短い生涯を閉じました。
精神的ストレスですね。

風病
現在の風邪ではなく、風邪及び脳梗塞、脳卒中、パーキンソン病等中枢神経疾患など広く扱われる病気

平安初期
藤原師輔 右大臣
父藤原忠平 母源能有娘・昭子
栄花物語で風病で死去


藤原実頼 摂政
父藤原忠平 母宇多天皇皇女・源順子

あやしふ風起こりがちにておはしまして、・・・・・・うせままふと栄花物語にあり

 平安時代中期
藤原研子
父藤原道長 母源倫子 三条天皇中宮
妍子は道長の娘達の中でも特に美しく派手好き、道長と三条天皇の間の関係に終始悩まされた。
当時でいう風病で享年34で崩御する。

出来物・二禁
現在のニキビとは違う意味、おそらく悪性腫瘍や皮膚病が悪化して感染症で死亡したと思われる。
藤原詮子 一条天皇生母 皇太后
父 藤原兼家 母摂津守藤原中正娘時姫
ものねさせたまひて悩ましうとある。

花山上皇
父冷泉天皇母兼通娘超子
出来物が腫れて熱が出回復せず崩御

急性ストレス性出血死
藤原原子(父関白藤原道隆・母高階貴子)
三条天皇の東宮時代の妃
父母姉兄妹を続けてなくし、後ろ身のない東宮妃となる。
父崩御後は東宮に寵愛されることなく突然血を吐いて死亡した。


女性はとても生きずらい世の中でした。これがそこそこの身分の女性ならなおさら、女中がいるそれなりの家の娘はかしずかれながら育ち、結婚適齢期に婿を得て両親に養われながらそして婿の面倒は両親と自分が経済的精神的にみました。
妻の地位は絶対ではなく、両親の後見がその死亡や経済的破綻になると命にかかわる事態になります。
それは古典の「今昔物語」でしられます。勿論史実ではない部分もありますが、当時の世相やものの考え方は引きついでいるのでこういう現実もあったと考えるのが妥当です。




通い婚で婿の面倒を妻の実家でみる平安時代では家は娘が相続します。
ただしその職業は長男が継ぎいわば男女両方いないといけない。
両親が死ぬと男は婿取りされればなんとか食べるのにはことかかないが、女の場合はそうもいえない。
夫との間に多くの子に恵まれれば「このように子だくさんなのは前世からの宿命なのだ」と考えていたのでそのまま妻の面倒は夫がみる事があっても絶対ではないようで。


両親が死んだ場合
Aパターン
財産が多く運よく親戚もよい人ばかりで遺産を女性が相続でき、うまく運用出来ている

気楽にその後の人生を送り実子がいればその子の面倒、いない場合養子でももらえばよい。

Bパターン
財産はあって再婚する場合
財産目当てでそれなりの男と再婚する。

Cパターン
財産がそこそこあるかもしくはあまりない、またそれを維持出来る事が難しい場合

内裏・宮へ出仕
概ね五位以上四位以下の娘か妻
中臈の女房
紫式部 大弐三位
和泉式部 小式部内侍
清少納言
伊勢
相模
待賢門院堀河

Dパターン
大臣クラスの娘だが親が死亡したため上臈女房として出仕

上臈女房(天皇・中宮・内親王・斎院等話相手や和歌の技量を見込まれた父が大納言以上の上級の女房)
二条殿御方(父関白道兼) 藤原威子女房
内大臣伊周の娘 
藤原繁子(父関白師輔)典侍一条天皇の乳母
藤原登子(同)村上天皇内侍で愛人・冷泉天皇母替わり
藤原豊子(父藤原道綱) 上東門院女房 後一条天皇乳母
太皇太后令子内親王宣旨 父師通 母家女房丹後 太皇太后令子内親王宣旨

その他にも女房名〇〇少納言・〇〇大納言・侍従の君・大夫の君・宣旨の君・衛門女房など親族の役職名で女房と仕えている。
女房の中に大事件が
花山院の皇女 遺体を犬に食われる
上東門院 女房

花山院のは出家したにもかかわらずに子女がいました。その中に中務とその子平平子(平祐忠女、母は中務) を同時に妊娠させました。その娘の子供の一人が藤原彰子の女房にあがります。
その女房が洛中で殺され遺体となり発見されます。
しかも遺体は野犬に食い荒らされめちゃめちゃかろうじて衣で身元が判明した。
検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)3月容疑者として法師隆範を捕縛、拷問道雅の命で皇女を殺害したと自白
7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首を申し出、各種記録に残っておらずむやむやに。
翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されている
そもそもよくわからない事件。犯人は道雅なのか?ほかのだれかなのか?
皇女が殺され事件が抹殺されたのは事実


Eパターン財産がなく夫に捨てられる。
中務大輔の娘近江郡司の婢と成る語第四
中務大輔は官人で一娘がいた。貧しくはあったが、兵衛佐の婿を迎えて出来るだけのお世話をしていた。
しかし父が死に母が病死して邸にいた使用人も女童だけが残り夫の世話さえできなくなった。
娘は世話が出来ず夫の勤務にも差し障るので、分かれてほしいと強く懇願し、時々通えってくればいいとほだされ別れた。
男は別の女と一緒になってこの娘の元には来なくなった。
屋敷はどんどん荒れ果て、最後の女童もいなくなり、部屋を間貸ししていた尼の手土産でなんとか生きていた。
そんな時尼の元に近江の郡司の息子が来て、女を世話してほしいと言われ。娘の事を話、仲立ちをすることになった。
娘は初めは断ったが、一人住まいの恐ろしさを感じてこの男と暮らすことにした。男は京の女を知らなかったので気に入り。
国に共に帰るが、この夫の国の妻がひどく嫉妬して女を実家の郡司に置いていた。
郡司はただ飯は食わせないと女を京のとなずけて下働きの下女にした。
そんな日々新しい国司がやってきて、そのもてなしの席で京のを知ると寝所の世話をするように郡司に頼みます。
京のを綺麗にさせてある夜国司に夜の相手をさせます。国司はどこかで会った気もすると気になり、たびたび寝所に召していた。
そんな夜に国司は京のにどんないわれがあるのか尋ねると京のは自分の身を語りだした。
なんと国司は以前の夫だった。国司は自分が元夫だと教えると、京のの体は冷えて死んでしまう。
夫にこんな暮らしをして簡単に身を任してしまった過去を知られてショックのあまり死んでしまった。

今昔物語筑前守源道済の侍の妻最後に和歌を詠みて死ぬる語第五十
源道済に仕える侍の男が主人が越前に下る時、新しい妻を召して以前に通っていた妻を京に置いていってしまう。
京の妻はショックのあまり病床につき、嘆き悲しいもういくばかりの命と思い、和歌を童女に託すとなくなってします。
男はその和歌を見ようともせずに捨てると、同僚の侍がこれを拾って同情して主人に見せる。
主人はことのさまをその侍に問いただすと京の妻を捨てて来たことを知り、非情な侍を置いておけないと解雇。
男は失業し今の妻にも捨てられなくなく京に帰った。
主人の守は京の男の妻を懇ろに葬ったというお話

人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語 今昔物語集巻二七第廿四
身分の低い侍が何某守に出世した人と知り合いになりその家人になる。当時侍には美人で気立てや性格はよいが貧しい妻がいた。この侍は丁度いい時期と羽振りのよい違う妻を連れて任地へいってしまった。
妻はそのまま京で残された。
田舎で過ごした侍は京の妻のことが気になりだして帰京したら会いに行こうと決めた。
無事帰京して今の妻を家に届け旅姿で前の妻の家にいくと、女は恨み事一つ言わずに嬉しそうに夫を迎えた。
そのまま一晩共寝して朝がくると朝が来て隣を見ると遺体が
隣の住人に話を聞くと「遠国に出かけた後、嘆き悲しんで病に陥りましたが、看病する人もなく、この夏亡くなりました、埋葬するものもいないので、まだそのままになっています、それ故誰もがはばかって近寄らず、家は荒れる一方です。」
哀れさがこみ上げてきて、いたし方もなく帰っていった。

六宮姫君夫出家する語
六の宮という人の兵部の大輔を父に皇族の母を持つ姫君が人付き合いのしていないお堅い両親に大切に育てられていました。この姫君はあまりに両親に大切にされすぎて乳母にもうちとけていません。そんな世に忘れられているような生活をしているうちに両親が死に侘しい日を過ごしていると、さすがに生きていくには資産がなくて乳母の口ききで国司になれる身分の息子と結婚します。
そのうち男は父の赴任先に着いていくことになり、結婚したことすら父に言えず。姫君を置いて国に下ってします。
そのうち父の口ききで別の妻をめとるものの、京の姫君が忘れられずに数年過ごし、ようやく京にかえるとすぐに姫君の住む邸に向かいます。しかし屋敷は建物さえなくひどい広大な庭だけが残って勿論姫君もいません。偶然以前邸にいた尼と出会い。姫君達が行方知れずとしります。都中を探し回り、西の大門で乞食姿の女二人を見つけます。なんとそれが姫君でした。
男は姫君を抱きしめますが、姫君はその姿を見られたことを恥じてそのままショック死してしまいます。
男は出家して山に籠り姫義気の菩提を弔います。

Fパターン
大納言の娘内舎人に取らるる語第八
ある大納言に大変自慢の美しい姫君がいました。大納言はいずれ帝の妃にと育てていましたが、この邸に出入りしていた内舎人がこの姫に懸想しすぎて体を病み病床にあった時、どうせ死ぬのだから思いを果たそうと女房に嘘をついて姫を邸からさらって東国に逃げた。取り次いだ女房は口を閉ざし、大納言は必死に探したが見つからない。
森に庵を作くり、姫を庵に置いたまま食を求めて里と庵を行ったり来たり。
そのうち姫が妊娠し、男が4・5日帰ってこない日に水に浮かんだ自分の顔があまりにひどいのに衝撃を受けてそのまま思いつめすぎて死んでしまった。庵に戻った男は死んだ姫の亡骸に共に臥して死んでしまった。


まだDパターンまではいい生きていけるんだから。
悲惨なのは財産もなく、それまで両親に不十なく育てられすぎて一人ではなにも出来ない女性


そりゃ悲惨 最餓死 遊び女(遊女)・下衆の妾・へたをすると乞食

今回の今昔物語の史料に盗闘史というのがのせてあった。
平安時代は死刑もなく文学や公家文化が盛んな文化的な時代なんて妄想というか別の顔というのがわかる。

ほぼ毎年毎月一回おそらく公的な事件が主なので庶民階級の事はこれ以上・・・・・。歴史って貴族だけのもの・・・・・・。

御所・公卿の邸。寺に強盗が入り放火、人殺しまで行い。
地方はもとより、京でも殺人・殺人未遂事件・強奪・強盗・放火が日常と化している。
貴族や下衆の乱闘騒ぎ・暴行事件・殺人事件

のオンパレードです。
雅に相対する物それは???
こんな時代に生まれなくてよかった!!!
平安好きでも生きるのはいまがいい


追記:いろいろ調べてみると平安時代は李朝朝鮮時代・現在の韓国や北に社会構造や思想、思考なんかとても似ている。


一部の特権階級がすべてを詐取し、その他はひたすら詐取される側
豊かな貧しいか

男は本能のまま生きられるが女性に人権がない。
そして貴族でも誕生から死去まで年齢が判明している男女の平均寿命

男60歳弱
女50歳

医療が低レベル

喜怒哀楽が著しく激しい

あえて文化面では平安時代の方がかなり優れている。貴族達は舞も楽器も演奏するが、両班は詩以外嗜なまない。
舞も演奏も下人がするもの。李朝朝鮮時代は文化を作る工芸者が人以下扱いなので育たない。


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