舞少納言「奈良の都に現る」第四段

大和京草子編


今回「第66回正倉院展」で以前から展示されたらぜひもう一度見たいと思っていた「鳥毛立女屏風」が四点も出品、しかもそのうち2点は初出しとの事です。これは絶対見ないと~~~と大和京草子開幕~~~


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奈良まちにある「樫屋」さん!
評判の高い上質の和菓子がいただけます。
秋の定番栗きんとん、栗大福、蕨餅をGET

お店の情報は【こちら】
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その後お昼に麺喰さんへ。おうどん頂きます。
奈良町屋と呼ばれる古い家で奥に庭を眺めながら頂く手打ち饂飩~~~~
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晩秋レディースセットを注文
かま揚げ饂飩
春巻き
人参と豆のサラダ
大根と豚の煮もの
蕨餅
で1000円です。

お店の情報は【こちら】

食後は運動を兼ねて春日大社へ参拝説明なしでOKの奈良定番観光スポット
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藤原不比等が平城京遷都の際に藤原氏の氏神として鹿島の武甕槌命さまを迎えてお祀りしています。
藤の頃が特に有名ですね。
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近くの万葉植物園も行きます。
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もみじがいろずき初めていました。
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秋の花が少しですが咲いています。
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では本題の「正倉院展」が開催中の国立奈良博物館へ。

正倉院は奈良時代に建築された東大寺の校倉式保管庫で、聖武天皇の崩御77忌の後、光明皇太后が「天皇の愛用品を見るのは天皇を思い出し、つらくなるので東大寺へ宝物を奉納する」といい供養も兼ね寄進した品や寺院の宝物を約1200年間納めています。

北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品
中倉に東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品
南倉には大仏開眼の際に使用された縁の品が収められています。

まさに奈良時代のタイムBOX~~~

ネズミなどの害虫や風通しをよくする湿気をふせぐ構造の建築物で「ユネスコ世界遺産」その建物だけでも十分価値があります。

現在は修理中のため見学はできません。

平安京への遷都による奈良の衰退、台風、火事、落雷、信長の焼き打ちと難続きの東大寺にあり、現在も当時の貴重な品を私たちに見せてくれます。
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今年は天皇皇后両陛下の傘寿を慶祝する年のために華やかな宝物が揃っておめみえです。

鳥毛立女屏風 今回の大目玉です!!!
聖武天皇の内裏の寝室に飾っていたと言われる実際使用した調度品です。
6枚の唐時代の夫人が木の傍で優雅に立っている構図です。当時は洋服の部分が鶏の毛で覆っていたそうですが、時代と共にはがれてゆき、今は1双のみにわずかに残っているのだそうです。

紫檀木画挾軾

御床
聖武天皇愛用のベット
シーツが一つ奉納されているので二つのベットはぴったりとならべて使用されたと推測できるそうです。
この時代も普段は別居が基本なので2人は内裏と皇后宮という二つの宮殿で生活していました。
当時一夫多妻制だったので天皇は皇后の宮殿へ出向いて夜を過ごしていました。

性格の違うこの叔母と甥(聖武天皇の母は藤原不比等の娘で文武天皇夫人宮子・光明皇后の父は同じく不比等で、母は橘三千代)の結婚は唯一の皇太子の逝去、他の夫人腹の安積親王の誕生、長屋王の変という政変があったものの概ね良好だったと言われています。

衲御礼履

白瑠璃瓶
水さし
ガラスはシルクロードと日本が海で繋がっていたという証です。
西アジアから陸路で駱駝によってはるばる唐を経由海を渡りやってきたまさにロマンを感じる事が出来ます。

白石鎮子

鳥獣花背円鏡

桑木阮咸
4弦の楽器です。
ばちが当たる所に囲碁を楽しむ人の絵が描かれている正倉院には2本しかない貴重な楽器です。

金銀絵長花形几
仏さまにささげる供物を置く机です。
ヒノキ製緑色の着色をしています。
縁ふちは、紫むらさきがかった赤色に塗られ、金や銀を溶いた顔料で花喰鳥はなくいどりなどが描かれています
脚あしの部分は白く塗った上に、植物の葉脈をかいてあります。

黄金荘大刀

金銀平脱皮箱
蓋や側面に漆に金、銀で花のつるをくわえた「花喰鳥はなくいどり」の文様が優美な収納箱

衲御礼履
聖武天皇が大仏開眼式の際にはいたと言われる赤い儀式用の靴


観光の情報は【こちら】

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栗のお菓子達


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「三代斎王~斎宮物語記~」

斎宮「いつきのみや」とは伊勢国明和郡にある伊勢神宮に奉仕する為に置かれた役所斎宮寮とその祭事主の斎王が住まう宮殿が置かれた場所の総称です。
概ね遺構は奈良時代大伯皇女が斎であった頃の小規模な建築物から、井上内親王が斎の頃に区画整理され建物跡の調査でその規模の完成を完成させたという事がわかるそうです。

現在は跡地に「いつきのみや歴史体験館」「斎宮歴史博物館」「斎宮制限模型」などその遺構にふれる事が出来ます。が、大部分が跡地で一部近鉄線上にありこれからの研究が待たれます。

観光の情報は【こちら】【こちら】

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斎宮郡行に従う女官達
斎王の存在は史実上(古代の斎宮は確認が出来ていない為除外)天武天皇が「壬申の乱」の戦勝祈願の礼として、自身の皇女「大伯皇女」を伊勢神宮の最高神祇巫女に従事させた事に始まります。

天皇の即位、退位。又斎王の親族の忌、自身の病気、死亡をもって退出し交代していました。
但し前斎王の退出から新斎宮の決定までは数年の開きや即位しても選任されなかった場合があります。

斎は亀甲で占い、亀裂から未婚女性皇族から適任者が選ばれます。が、奈良平安初期時代延暦式律以前の選出方法は確立されていませんでした。

その後選ばれた女性皇族は住まいを出て、宮中に定められた初斎院で潔斎し更に野々宮(現在嵯峨野にある野々宮神社が有名)で斎戒生活を送り、神嘗祭に合わせて都を出て伊勢の斎宮に入ります。

伊勢国での生活は斎宮に住まい禊の日々を送り、伊勢神宮の行事のある年に3回だけ伊勢神宮に行列を作って赴むき神祇を行いました。

但し歴代の斎の中には伊勢へ赴任しない場合もあり又斎不在の次期もありました。
平安時代までは厳格に行われていましたが、鎌倉期から南北朝以降後醍醐天皇の皇女祥子内親王を最後に実質的に行われなくなりました。

その斎の中でも奈良、平安初頭時代に異彩を放つ祖母・母・娘の三代に至るまで斎王を勤めた三人の内親王を草子してゆきたいと思います。



では祖母である井上内親王をご紹介します。

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井上内親王は養老元年(717年)首皇子(後の聖武天皇)と夫人県犬養広刀自の間に生れた第一内親王でした。


養老5年(721)8月
乙卯。天皇御内安殿。遣使供幣帛於伊勢太神宮。以皇太子女井上王為斎内親王

井上女王が斎に決定します。

その彼女が父聖武天皇の斎宮にト定選ばれたのは養老5年(721年)9月11日
5歳の時です。

その様子は「政事要略」の官曹事類に記述が残っています。

儀式の後、右大臣長屋王と参議全員に侍従と孫王を率いて斎内親王の前に従い、その後に内侍女嬬が従います。斎内親王の輿を乳母と子女が囲んでその廻りをさらに葛城王(橘諸兄)と弟佐井王や神祇に従事する臣下が従い新宮への道のりを先導します。
斎が新宮に到着すると人々は平城京に戻り、斎宮で神事を司る役人が任命されました。

その日から彼女は俗世から隔離され北池辺新造宮で斎戒生活を送ります。

神亀4年(727)9月
壬申。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉

井上内親王が伊勢国へ向かいます。

神亀元年2月に元正天皇が首皇太子に皇位を譲位します。が、斎は新たに任命させません。
つまり、井上女王は元正天皇の斎ではなく、聖武天皇の斎と考えていいでしょう。

朝廷は聖武天皇(天武系+天智系の継承者)神祇はその娘が行い国を統べる意図がうかがえます。

そして神亀4年(727年)11歳で伊勢下向をし、伊勢国多気郡明和町に存在した斎王の宮殿で勤めを行いながら神事にあわせ伊勢に郡行し伊勢神宮で祭事を行うという繰り返しの日々でした。


俗世では生れ年は不明ですが、斎時代に同母妹である不破内親王が神亀5年(728年)同母弟である安積親王が誕生します。

しかし当の井上内親王には関係ありません。彼女は神に仕える女性として伊勢国の斎宮で乳母や御付きの女官、神祇の神官に囲まれ成長していきました。

奈良時代、皇子と皇女の養育は主に乳母の一族が行っていました
当時の皇族が〇〇親王(内親王)地方名や氏族名で呼ばれるのは(〇良、〇仁親王、〇子内親王と名付けられない)乳母の養育している氏族の姓を付ける事が多いのはその為です。嵯峨天皇以降親王は〇良や〇仁、内親王は〇子といかにも名前らしい名に改められます。

井上内親王も井上氏という氏族(渡来系河内国石川出身)がその養育を任されていたので、彼女自身斎王選出前でも母親と生活していたとは考えにくいのではないでしょうか?
しかもこの当時は天皇(又は皇太子)と妃といっても全ての皇族、貴族は通い婚です。

実はここ大事です。何故なら今でこそ家族は父母兄弟姉妹は一緒に暮らしてこそ家族の結束が固まるのであって、同居していない場合その関係が希薄にあるのは仕方のない事ではないでしょうか?

ここ覚えておいてください。


そんな神に生涯をささげたといってよい日々が続いていく。

天平14年(742)10月
冬十月癸未。禁正四位下塩焼王并女孺四人。下平城獄
戊子。塩焼王配流於伊豆国三嶋。子部宿禰小宅女於上総国。下村主白女於常陸国。川辺朝臣東女於佐渡国。名草直高根女於隠岐国。春日朝臣家継女於土左国

俗世では不破内親王の夫塩焼王(中務卿正四位上)が聖武天皇の不忠が原因で流刑されます。続日本紀には記述がありませんが、阿倍内親王が即位後に「不破内親王の父天皇への不忠があった」と言った事から父聖武天皇治世に不忠があり名親王の称号も剥奪されました。
この塩焼王の不忠は明らかにされていませんが、連坐されているのが宮中の下級女官であるので不義密通(関係を持った女官のうち聖武天皇の寵を受けた者がいた可能性がある)を行い宮中の風紀を乱した。という可能性が高いですね。

天平16年(744)閏正月
乙亥。天皇行幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王。民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂為留守。是日。安積親王、縁脚病従桜井頓宮還

難波宮に行幸する途中に弟安積親王が脚病の症状がひどくなり恭仁宮に還えります。

丁丑。薨。時年十七。遣従四位下大市王。紀朝臣飯麻呂等。監護喪事。親王、天皇之皇子也。母、夫人正三位県犬養宿禰広刀自。従五位下唐之女也

17歳で安積親王死去してしまいます。
訃報聞いた井上内親王は親族の忌により平城京へ帰還します。

この聖武天皇唯一の親王の死は疑惑の現在でも疑問視されます。確かに脚病は当時の貴族の病気ではあり、悪化すると心臓疾患をまねくものの続日本紀に安積親王の病気の記述がなく、しかも引き返した宮の留守役は藤原仲麻呂であるためです。
安積親王の即位を期待する一部の朝廷グループ(橘諸兄派といわれている)を除外するため仲麻呂が一服もったというのです。が、現在も死因については不明です。なんせ陵墓が宮内庁管轄なので発掘調査出来ません。

平城京へ戻って井上内親王を待っていたのは父親として愛情の薄い父聖武天皇、息子の死に打ちひしがれている母広刀自、そして一度も見た事のない妹不破内親王、異母妹である女皇太子阿倍内親王でした。

阿倍内親王の即位を願っていた聖武天皇にとってすでに元斎となった井上内親王は興味の対象外でした。
そのせいか天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により阿倍内親王が即位するまで独身のまま京中で過ごしていました。

天平17年(745)4月
壬寅。徴塩焼王令入京

不破の夫許されて平城京へ入京します。
しかしもはや孝謙天皇の次の天皇という可能性が皆無になります。
この後天平宝字元年(757年)に起こった橘奈良麻呂の乱で連坐の疑いを受けて逮捕尋問されるも証拠不十分で釈放させ、彼は臣籍降下し氷上真人塩焼を名のり3年後には中納言兼務式部卿に就任するなど実務型の政治家となりました。しかし・・・・・。

天平4年(754年)正月
丙申。御南苑  無位井上内親王二品

聖武天皇は思いだしたかのように29歳で無位だった井上内親王を二品に叙位して志貴皇子の王子49歳の白壁王に嫁ばせます。
この時すでに妻子がいた初老の男性(当時としては初老、貴族でも平均寿命50歳前後)に井上内親王はどう感じたのか?
上皇の父には当然拒否の出来ないこれは双方に言えます。

白壁王には当時糟糠の妻というべき和新笠(後の高野新笠)がいました。彼女は日本へ亡命した(百済王の子孫で帰化系の娘という事になってはいますが、百済系帰化人の娘ではあるが百済王だったかについては検証が必要)ですでに彼女の生んだ能登女王(21歳)、山部王(17歳)、早良王(4歳)が誕生しています。
白壁王の年を考えると他に妻や子がいたでしょう。

29歳の俗世も知らない、家族の愛情も知らない、知るのは神の世界のみのこの女性が初老の愛情を受けるのは難しいと思われます。
白壁王は父の志貴親王から父天智天皇と母天武天皇新田部皇女の親王ですから同時に両天皇の血を引くとも言えます。その王に井上内親王を嫁させたという?
もしも次世代の皇位を考えると道祖王(聖武天皇が遺言で皇太子に指名した王族)へ嫁がせたでしょう。
では何故白壁王?
おそらくは不破内親王のにのまえにしたくない。
あえて皇位に遠い人物をあてがったのではないしょうか?

新田部親王の王子塩焼王に不破内親王を嫁がせたのは聖武天皇が「阿倍内親王の後継」として塩焼王を考えていた
可能性があります。
実は兄が塩焼王、弟が道祖王。そう考えると自然です。
彼らの父は新田部親王です。天武天皇と藤原夫人と呼ばれた鎌足の娘五重娘との間に生まれた親王です。
そう塩焼王には自身に天武天皇と藤原氏の血、そしてこれに天智天皇系であり天武天皇系の不破内親王が嫁ぐ事で彼らに生まれる男子は皇位絶対条件を満たすのです。

結局この策は「自分たちが次世代の天皇家」と思いあがったがためか?
聖武天皇や阿倍内親王の不興をかい(阿倍内親王の一方的なという面はある。父親の関心は正統な相続人の自分へだけ向けられるのだという自負もあったかもしれないが、塩屋王の平城京追放は聖武天皇統治下なので問題があったのは事実でしょう。)本当の理由は不明ですが、聖武上皇が兄弟道祖王を皇太子にすると遺言した事実、そしてなによ阿倍内親王が強烈に不破内親王を嫌っているという事実に理由が見える気がします。


さて当の井上内親王の結婚生活は?というと。

井上内親王は天平勝宝6年(754年)37歳で酒人女王(後の内親王)を出産します。
今ではありですが、貴族でも平均寿命20代???というのも当たり前の奈良時代に高齢出産ですね。

この二人に誕生した女王こそ酒人女王こそ父の在位中に二代続く斎王となる人物です。

天平宝字3年(759年)夫白壁王が従三位に叙位されます。

天平宝字5年(761)10月

壬戌。二品井上内親王、十万束以遷都保良也。

遷都による贈米いわゆる転居手当の支給です。他の王族にも贈られていましが、当然警戒していない、もしくはお気に入りの相手に対して行われていたと考えていいでしょう。
孝謙。称徳天皇は井上内親王に対しては妹とはいとなり好意的な受け取り方をし、優遇していました。
父聖武天皇の斎内親王です、優遇して当然といえば当然。ここが不破内親王とは決定的に違う面です。


さらに7年後の天平宝字5年(761年)に45才で他戸王(後の皇太子)出産します。

二人とも高齢出産でもうけているので井上内親王にとってはさぞ可愛らしかったでしょう。
っていうか本当にタフ~~~母に似てますかね。
聖武天皇の少ない5人の子のうち広刀自は3人生んでいます。他に2人夫人がいましたがいずれも妊娠さえしませんでした。


翌年には夫白壁王が中納言に昇進します。

一方不破内親王の夫塩焼王は常に皇位に野心があったようで聖武上皇に不審を抱かれ一時期、王の名をはく奪され事が原因で道祖王廃太子の後立太子の話しが挙がるも孝謙天皇の反対で実現しませんでした。

天平宝字6年(762)10月に母夫人正三位県犬養宿禰広刀自が死去してしまいます。

井上内親王はその頃夫との関係は不明ではあるものの二人の子に恵まれ静かに暮らしていました。


しかし妹である不破内親王にはさらなる不幸が襲います。

天平宝字8年(762年)9月藤原仲麻呂の乱で仲麻呂によって天皇にと請われた不破内親王の夫塩焼王が孝謙上皇の軍との戦いで近江で戦死してしまいます。

しかもこの戦に姉の夫白壁王が参戦していました。つまり義理の兄弟で敵味方に分かれ、姉側が勝利しました。

勝者である姉井上内親王と敗者である妹不破内親王

不破内親王とその子供達が罪に問われる事はなかったものの、不破に姉への強烈な劣等感が芽生えてもおかしくありません。
その5年後神護景雲3年(767年)1月不破内親王犬養姉女、忍坂女王、石田女王と共に称徳天皇を呪咀したと密告を受け内親王称号剥奪の上、県厨真人厨女と改名され平城京へ追放となります。

一方井上内親王はどうでしょう。
夫白壁王は天平宝字9年(765年)に正三位に叙位、天平勝宝2年(766年)に大納言に昇進し彼女自身にも10月に大宰綿一万屯の賜がありました。

この続日本紀の記述順を考えると井上、不破内親王は同母姉妹でありながら大変仲が悪かった。
しかも始めは不破内親王は父から優遇させていたものの、夫と共に冷遇されそれとは摩逆で井上内親王が孝謙天皇に厚遇されます。

これは孝謙天皇が個人的に不破内親王夫妻を毛嫌いした事に加え、不破内親王の不快を買う為にわざと井上内親王を厚遇し、井上内親王もこれを好意として受けた。という構図が見えますね。
姉妹は同母姉妹であったものの、聖武天皇の血を受け継いだがために政争におのずと巻き込まれ、姉妹の間にも溝が出来き、それを利用されたのではないしょうか?

白壁王は順当に大納言にまで出世していましたが、称徳天皇の寵臣道鏡の勢いと聖武天皇の皇族粛正(不破内親王の呪詛・和気王の謀反)により、自ら防衛の為に酒に溺れる日々を送る様になりました。

称徳天皇に対して警戒していたわけです。
この人かなりの世渡り上手~~~それは称徳天皇の即位後は有能で忠実な臣下の姿勢を取り続け、とはいうものの常に天皇に対しては警戒していました。
始めに能力を見せた後(これは皇位に挙がり誠実に公務を行えると言う朝廷運営能力)、身が危なくなり始めると(自分しかほぼ皇位の継承者が残っていたい現実を確信しながら)警戒して酒に溺れているという役を演じてみせる~~~~まだ怖いの続きますよん。


時に49歳、娘酒人女王は12歳、他戸王5歳でした。

夫の不甲斐なさに憤慨していたでしょうか?
続日本紀はなにも記述していませんが、内親王で幼い頃から神の巫女であった彼女は白壁王に対して強い不満と軽蔑と俗世の無関心があったのではないでしょうか?
でなければその後の悲劇は想像出来なかったとは考えられません。

その白壁王に絶好の機会が訪れます。
称徳天皇が皇位の指名を行わず崩御したのです。

白壁王が天皇になるべく称徳天皇の遺言として皇太子に指名されます。

左大臣従一位藤原朝臣永手。右大臣従二位吉備朝臣真備。参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂。参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂。参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣。近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等。定策禁中。立諱為皇太子。」左大臣従一位藤原朝臣永手受遺宣曰。今詔。事卒爾有依、諸臣等議。白壁王諸王中年歯長。又先帝功在故、太子定、奏奏定給勅宣。」遣使固守三関

これは嘘の遺言です。崩御後、太政官の会議で「白壁王」が天皇に選出されました。
しかしこの時点で即位可能な王族は白壁王のみだったように思われます。
存命中で称徳天皇の道祖王を廃太子したさいに大炊王へ選出されるまで他の王族はけなされているからです。
つまり。白で聖武天皇の内親王の夫という文句のつけようながい肩書き
彼しかいなかったんです。


天皇諱白壁王。近江大津宮御宇天命開別天皇之孫。田原天皇第六之皇子也。母曰紀朝臣橡姫。贈太政大臣正一位諸人之女也。宝亀二年十二月十五日。追尊曰皇太后。天皇寛仁敦厚。意豁然也。自勝宝以来。皇極無弐。人疑彼此。罪廃者多。天皇深顧横禍時。或縦酒晦迹。以故免害者数矣。又嘗竜潜之時。童謡曰。葛城寺。前在。豊浦寺西在。於志。刀志。桜井。白壁之豆久。好璧之豆久。於志。刀志。然為。国昌。吾家良昌。於志。刀志。葛城寺の前なるや。豊浦寺の西なるや。おしとど。としとど。桜井に白壁しづくや。好き璧しづくや。おしとど。としとど。然しては国ぞ昌ゆるや。吾家らぞ昌ゆるや。おしとど。としとど。于時井上内親王為妃。識者以為。井則内親王之名。白壁為天皇之諱。蓋天皇登極之徴也。宝亀元年八月四日癸巳。高野天皇崩。群臣受遺。即日立諱為皇太子。
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光仁天皇(平城京春の天平行列より)
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即位式が行われた大極殿(再現)

宝亀元年(770)己丑朔宝亀元年冬10月己丑朔。即天皇位於大極殿。改元宝亀。
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61歳で即位します。

まれに見る老天皇であったとおう事が井上内親王の悲劇が始まるのです。

即位は光仁天皇が皇族の中で年長で且つ井上内親王を正妻にしているという事実がある為です。

光仁天皇は藤原氏と他の旧豪族達とバランスのとれた堅実な政治を行います。
そうこの人かなりの腹黒なんです。
まず皇太子時代に称徳天皇と道鏡の治世の政策を元に戻し、道鏡を左遷(処刑しない所がうまい)し道鏡の不快を買い左遷されていた人物を帰京もしくは官任していきます。

そして新太政官人事
授従一位藤原朝臣永手正一位。
従三位大中臣朝臣清麻呂。文室真人大市。石川朝臣豊成。藤原朝臣魚名。藤原朝臣良継並正三位。
従五位上奈紀王正五位下。無位河内王。従五位下掃守王並従五位上。
従四位上藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣雄田麻呂並正四位下。
従四位下阿倍朝臣毛人。藤原朝臣継縄。藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依並従四位上


この人事の後吉備真備の辞任要請が出ますが、中納言辞任のみ認め右大臣職は留保させ出仕を求めます。
これは真備が白壁王即位に反対していたという意味では大変寛容な処置です。

御春日宮皇子、奉称天皇。又兄弟姉妹、諸王子等、悉作親王、冠位上給治給。
以井上内親王定皇后宣天皇御命、衆聞食宣(中略)授従四位下諱四品。従五位下桑原王。鴨王。神王並従四位下酒人内親王三品 従四位下衣縫女王。難波女王。坂合部女王。能登女王。弥努摩女王並四品。無位浄橋女王。飽波女王。尾張女王並従四位下
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井上内親王に皇后の宣下がくだります。
東院庭園で再現された「天平の宴」にて

酒人内親王は他の内親王とは破格の扱い三品に。
光仁天皇の同母姉難波内親王と溺愛した能登内親王が四品ですから・・皇后腹ですから当然といえば当然。

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饗宴(当時の食事風景)


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皇后、皇太子が決まりわきたつ井上内親王の宮廷女官
宝亀2年(771)正月
辛巳。立他戸親王為皇太子
随法皇后御子他戸親王立為皇太子。

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杯を受ける井上皇后
皇后井上内親王腹の10歳の他戸親王が皇太子にたてられます。
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東院庭園(再現・皇太子宮殿の東宮殿跡にある)

式部大輔従四位上藤原朝臣家依為兼皇后宮大夫
大納言正三位大中臣朝臣清麻呂為兼東宮傅。
兵部卿従三位藤原朝臣蔵下麻呂為兼春宮大夫

しかしその皇后と皇太子の各所の要職には主に藤原氏の若手が・・・これがのちのち禍に・・・。
井上が皇后になったのは光仁天皇が即位に際に理由となった井上内親王の夫であるのだから皇后になるのは当然、又皇后の生んだ王子が皇太子になるのは当然でした。

しかしこれを当然と思ったのは左大臣永手でした。良継、雄田麻呂(後の百川)は光仁天皇の即位は望んでも井上皇后は望んでいなかった。

何故なら、光仁天皇が即位し井上皇后となれば、それは井上皇后自身に即位に可能性が生まれるからです。
やや古い時代になりますが、例として推古、皇極斉明、持統天皇が挙げられます。
確かに井上皇后は庶子「皇后腹」ではありませんが、聖武天皇の娘であり、しかも伊勢神宮の元斎王と言う事は神と政治が混合した政治が出来る可能性があります。称徳天皇の仏教政治を目指した為に道鏡の様怪僧を生ん過去の警戒があるためです。
そして光仁天皇はすでに高齢であり、皇太子の他戸親王はまだ幼く仮に崩御した場合中継天皇としての井上即位は現実的です。
特に宇合の息子たちはそれを恐れていました。

そんな頃井上皇后は自身のおかれていた立場を理解していたのでしょうか?
普通ならここでまだ若いですが藤原氏の娘(良継の娘乙牟濡・帯子・旅子)を皇太子妃に請うべきでした。しかしそんな婚姻はまったくありません。彼らは次の天皇候補に娘と嫁がせる気でいましたし、適齢期の娘たちは藤原氏の血の結束を謀るかのように傍流同士で婚姻を結んでいました。
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内裏に入宮した産子と曹司

光仁天皇は入宮の時期は不明なものの式家の娘産子、北家永手の娘曹司を後宮に入れていました。
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後宮跡

平城京跡資料館にて
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井上内親王が住んだ後宮と暮らしぶりです。


しかしそんな栄耀栄華は突然破綻をきたしていきます。

宝亀2年(771)2月
癸卯。左大臣暴病。詔大納言正三位大中臣朝臣清麻呂、摂行大臣事

永手の病いの魔の手が!!!

(中略)節幡之竿、無故自折。時人皆謂、執政亡没之徴也

なかり重病のようです。

宝亀2年(771)2月
己酉。左大臣正一位藤原朝臣永手薨。時年五十八

「定策遂安社稷者。大臣之力居多焉。及薨。天皇甚痛惜之

当時の光仁天皇の信頼ぶりが伺えます。

きっかけはこの永手の死でした。永手は房前の息子です。これで藤原四兄弟の筆頭は宇合が租の式家へ移ります。
当時は家の相続は年長の兄弟間で行われます。藤原北家→藤原式家に宗家の地位が替わりました。

次の叙位でそれは現実になります。

宝亀2年(771)3月

庚午。詔以大納言正三位大中臣朝臣清麻呂為右大臣。
授従二位。正三位藤原朝臣良継為内臣。
正三位文室真人大市。
藤原朝臣魚名並為大納言。
正三位石川朝臣豊成。従三位藤原朝臣縄麻呂為中納言。
四品諱為中務卿。(山部親王34歳)
従三位石上朝臣宅嗣為式部卿。
正四位下藤原朝臣百川〈本名雄田麻呂〉為大宰帥。右大弁・内竪大輔・右兵衛督・越前守並如故。

左大臣に昇格せずに内臣にいくところがいやらしい。
内臣とは正式な役職ではなく、どちらかというと天皇の内内の臣下という地位で、房前が元正天皇に仕えています。天皇の政務を補佐する地位で主に太政官で挙げられてきた案件にアドバイスする立場に良継いたという事です。
光仁天皇は内臣良継に地位は大納言並みの、報酬はそれ以上を約束しました。
永手の後非常に重用します。

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天平行列の女官列
阿部古美奈
しかも良継の妻は阿部古美奈は光仁天皇の後宮で女官尚侍・尚蔵女官でした。
これで内外で助言出来る訳です。

宝亀2年(771)5月己亥
従三位藤原朝臣蔵下麻呂為大宰帥に任官されます。彼は式家宇合の息子です。

この後光仁天皇は和気王の謀反ではく奪された王族を帰属させます。

宝亀2年(771)11月

乙巳。正四位下藤原朝臣百川。従四位上阿倍朝臣毛人為参議に任じます。


         12月
丁卯。勅。先妣紀氏未追尊号。自今以後。宜奉称皇太后。御墓者称山陵。其忌日者亦入国忌例。設斎如式

光仁天皇の生母で志貴親王の室であった故紀氏の皇太后の宣下がくだります。
紀氏という氏は大変古い氏族ですが、高位の貴族というわけではなくその娘が贈皇太后という称号を得たという事は光仁天皇の皇位の正統性を安定させたとも言えます。

宝亀3年(772)正月
庚寅。授無位藤原朝臣巨産子正四位上 従五位上久米連若女正五位上
この娘は藤原氏の娘ですどうやらここで光仁天皇の後宮に入宮したようです。他入宮時期は不明ですが曹司という藤原氏の娘も入宮します。
久米連若女は百川の妻です。
この女叙位の3か月後に突如

         2月
戊辰。幸右大臣第。授正二位

右大臣大中臣朝臣清麻呂の邸宅を訪問します。これどういう行幸だったのでしょうか?
この大中臣という姓の通り、中臣氏重鎮本来は神祇職に限られるんですが、称徳天皇以来朝廷の重鎮として以降重用されていました。
ん~~~「天皇の無言の意思」かな?これから起こる事に見て見ぬふりとという無言の圧力???

宝亀3年(772)3月

三月癸未。皇后井上内親王坐巫蠱廃

詔曰。天皇御命宣御命百官人等天下百姓衆聞食宣。今裳咋足嶋謀反事自首申。勘問申事度年経月。法勘足嶋罪在。然度年経月臣自首申勧賜冠位上賜治賜宣天皇御命衆聞食宣。辞別宣謀反事預隠而申奴等粟田広上安都堅石女随法斬罪行賜。然思大御心坐依而免賜奈太毎賜遠流罪治賜宣天皇御命衆聞食宣。」授従七位上裳咋臣足嶋外従五位下。

なんと井上皇后が光仁天皇が早く崩御するように呪姐を巫女に依頼したという容疑が密告されてしまいました。
何故???天皇に早く死なれても困るのは藤原式家です。
そうこれは明らかにでっちあげ!
何故なら、天皇呪姐しながら誰も死刑になっていない。&密告者が叙位され報酬を貰っている。&証拠がない。
つまり光仁天皇が井上皇后を庇えばなかった事件でした。
しかし光仁天皇は黙認しこれを信じ廃后する決定を下しました。
光仁天皇はこの密告を信じたのでしょうか?嘘と知りながら廃后にしたのでしょうか?
一つ言えるのはもしも光仁天皇は井上皇后を信頼していれば、政治的に朝廷運営に藤原氏がかかせないという事実は考慮しても再調査なり、井上皇后を守ったはずです。でも密告を信じた。

この時期を狙ったのは産子の入宮が夫妻の間に波紋を広げたのでしょうか?
藤原氏のどの娘かは不明ですが、やはり送りこまれた刺客その可能性は十分にあります。

光仁天皇63歳  井上皇后55歳  酒人内親王18歳 他戸皇太子11歳

子供達はどう感じていたでしょうか?もうわかる年齢です。
陰謀だとはいえ母が父を亡きものにしようと呪詛したというかなりの衝撃です。


宝亀3年(772)4月
庚午。以正四位下藤原朝臣楓麻呂。従四位上藤原朝臣浜足。並為参議

北家房前の息子楓麻呂と京家麻呂の息子浜足が昇進します。

宝亀3年(772)5月
乙巳。授四品難波内親王三品

この難波内親王は光仁天皇の同母姉です。この人キーパーソンです。
ここでこの時期に叙位?
難波内親王はどうやら藤原氏に加担していた。そして積極的に光仁天皇へ働きかけをしていた。
何故なら彼女の記述の前後に井上と他戸の運命が大きく変わるかわるからです。


丁未。廃皇太子他戸王為庶人

詔曰。天皇御命宣御命百官人等天下百姓衆聞食宣。今皇太子定賜他戸王其母井上内親王魘魅大逆之事一二遍不在遍麻年発覚。其高御座天之日嗣座非吾一人之私座所思行。故是以天之日嗣定賜儲賜皇太子位謀反大逆人之子治賜卿等百官人等天下百姓念恥賀多自気奈加以後世平安長全可在政不在神所念行依而他戸王皇太子之位停賜却賜宣天皇御命衆聞食宣

井上内親王の皇后の地位をはく奪してからの他戸皇太子の地位はく奪理由は「母が廃妃となったのだからいつまでも皇太子にするわけにはいかないので廃太子する。」

まず皇后の地位を先に降ろして、天皇の反応を見る。そして姉難波を使いさらに皇太子の処遇を決定させます。
藤原家伝百川伝では光仁天皇は他戸を嫌っていた、他戸皇太子は性格が悪いという書かれ方をしていますが、実はそうではなく藤原氏腹ではないというだけの理由です。
廃太子にする事で藤原氏の外戚として朝廷に君臨するというのが目的です。
井上、他戸ともに不必要どころかじゃまでした。

そして光仁天皇もそれに同意します。やはり我が子と言えどここはきっぱりと判断します。
繰り返しますが、現在よりも奈良時代の結婚、親子間特に夫婦、父と子女の関係は希薄でした。
同じ邸に住んでいる場合もあったでしょうが。たいていは通い婚です。
我子の優先順位をすでに成人し才能ある山部親王へ皇位をという案もあったのかもしれません。又廃后の息子を皇位に就けるのは以降の皇位の不安定も原因があったでしょう。 

元皇后と皇太子は同じ場所で隔離されていたと考えられますが、どこにいたのでしょうか?
平城京?もしくは?
後年桓武天皇治世に早良皇太子を謀反の疑いをかけ乙訓寺へ幽閉、桓武天皇の夫人藤原吉子と伊予親王が平城天皇治世で謀反の疑いで川原寺(飛鳥)に幽閉された事実を検証すると寺に幽閉させていた可能性は高いです。
ではどこ?
両者とも近からず遠いからずを考えると大和国内、官寺ではあるが人の出入りが少ない警備がしやすい場所。

同じ川原寺かもしくは元興寺(実はこの近くに桓武天皇の勅願寺井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社があり、またこの辺りに井上町という町名があります。)

後宮から追われる母と弟を酒人内親王は心細い日々を過ごしたでしょう。
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宝亀3(772)8月
甲寅。幸難波内親王第年

光仁天皇はまたも難波内親王の邸宅へわざわざ行幸します。
ここでなにが話されたのは不明ですが、廃妃廃太子した後の天皇の精神的な状態の確認と動揺を鎮め、酒人内親王の処遇そして井上内親王と他戸親王の今後か?といった事が話し合いされた?
どうもこの難波内親王という人物は井上皇后を心良く思っていなかったようです。何故なら彼女の名が続日本紀にでる度に井上皇后と他戸親王の身に害が及ぶのです藤原氏側と共に光仁天皇に働きかけた可能性が高いです。

同じ時期 是日異常風雨。抜樹発屋。卜之。伊勢月読神為祟

伊勢神宮の天照大神の弟神「月読神」が祟ったというのです。
伊勢神宮=斎王祟ったならこれを鎮めないといけません。

宝亀3年(772)11月
己丑。以酒人内親王為伊勢斎。権居春日斎宮

すでに18歳になっていた酒人内親王がこの時期斎王にト占され、すぐに春日斎宮に移され伊勢国へ向かう準備に入ります。
すでに成人していた内親王の斎王を決定してします。ト部といいながら作為を感じます。
しかしこれはこれから起こる悲劇が酒人内親王に影響されない防御とも取れます。


宝亀3年(772)12月
戊午。復厨真人厨女属籍
宝亀4年(773)正月
授無位不破内親王本位四品

ここで何故か妹不破内親王の身分が戻さ更に叙位がおこなわれます。なんか作為を感じます。
不破内親王も一枚かんでいたのでしょうか?姉のしうちに仕返しか?
でもこの人都合良いように使われているだけかも

光仁天皇が恩赦が出します。

宝亀4年(773)正月
癸未。勅曰。朕以寡薄忝承洪基。風化未洽。恒深納隍之懐。災祥屡臻。弥軫臨淵之念。今者初陽啓暦。和風扇物。天地施仁。動植仰沢。思順時令。式覃寛宥。宜可大赦天下。自宝亀四年正月七日昧爽已前大辟已下。罪無軽重。已発覚。未発覚。已結正。未結正。繋囚見徒。咸皆赦除。但八虐。強窃二盗。私鋳銭。常赦所不免者。不在赦限
この大赦たびたび出てくるのでこれからの記述はしません。

ここで罪を許すといっているのに廃皇后と廃太子はそのままです。まあ後者の除外に当たるんでしょうね。
この時期二人はどこに住んでいたのでしょうか?
平城京の井上内親王の元の邸でしょうか?おそらく護衛と称して衛兵が常勤していたでしょう。


宝亀4年(773)正月
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戊寅。立中務卿四品諱為皇太子

これが山部親王(後の桓武天皇・この時36歳)です。
母は身分の低い元異国人百済の血を引く帰化人の父(百済王の子孫とされていますが詳細は不明)生母は土師氏(元墳墓の葬祭を取り仕切った氏族)ではあるものの貴族の中では下級クラスです。
その彼が光仁天皇の第一親王である為皇太子に就いた事で藤原氏はその東宮殿に娘たちを東宮妃として入宮させます。
この生まれの低さがおいおい井上腹の子供達への厚遇につながります。
これで藤原式家の思い通りになりました。何故藤原式家がそんなに井上内親王腹の天皇を排除しようとしたのか?
他戸親王に嫁する年頃の女子がいなかった為に外戚政治が出来ない為か?
それとも若い天皇の統治下で藤原氏のさらなる安定政治が出来ないと解釈した為か?
井上内親王自身への警戒か?

全ての様な気がします。

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天平行列(後宮の女性達)
良継は阿部古美奈(尚侍・尚蔵女官)腹の娘乙牟濡、百川は藤原諸姉腹の娘旅子、帯子を東宮妃として入宮させました。
山部親王はすでに30代半ば、すでに妻子は存在していたでしょう。
父と同じで皇族の男子の中で皇位に遠い人物には良い婚姻は難しいという事でしょう。
まさに「棚ぼた」

宝亀4年(773)5月
丙戌。授四品不破内親王三品

さらに井上内親王の妹の叙位

宝亀4年(773)10月
丙辰。二品難波内親王薨。天皇同母姉也。

宝亀4年(773)10月
辛酉。初井上内親王坐巫蠱廃。後復厭魅難波内親王。是日。詔幽内親王及他戸王于大和国宇智郡没官之宅

つまり井上内親王が難波内親王を呪姐した為に死去したというのです。
しかし天皇の姉と言う事はこの死去の時点で70歳以上です。
どうもても老衰です。この年まで生きただけでも当時では快挙です。何故に呪詛???でっちあげ押印


しかしそんな事はおかまいなし井上内親王と他戸親王が宇智郡の没官の邸に幽閉させます。

このあたりは武智麻呂の墓もあり、彼の領地だった。南家といえば仲麻呂(武智麻呂の二男)の地でもあります。この邸は仲麻呂の持ち物であった可能性があります。しかし南家にとは明暗です。ここで式家の領地に幽閉なら当時でも???とされるでしょう。
南家なら藤原家で管理出来ながら後ろめたさも薄らぎます。


一人残される酒人内親王、初斎院に住んでいたと思われますが、母や弟を思い嘆き悲しみながら神に奉仕していあました。

井上内親王と他戸親王の排除をなしとげた藤原氏の叙位で守備固めされていきます。

宝亀5年(774)正月
丁未。天皇臨軒。授正三位藤原朝臣良継従二位。並従五位上。
正四位下藤原朝臣百川正四位上

戊申。授正四位下藤原朝臣楓麻呂正四位上。

己酉。授従四位上藤原朝臣浜成正四位下。

宝亀5年(774)五月
癸卯。正四位上藤原朝臣百川。藤原朝臣楓麻呂並授従三位」。以従三位藤原朝臣蔵下麻呂。正四位下藤原朝臣是公並為参議
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宝亀5年(774)8月
庚午。以斎内親王将向伊勢也(酒人内親王)


大嘗祭の神事の為に酒人内親王は伊勢国へ赴きます。

同時期に山部皇太子の元に入宮した藤原良継娘乙牟漏 第一王子安殿王を生みます。


宝亀5年(774)9月
庚子。大納言正三位藤原朝臣魚名為兼中務卿。従三位藤原朝臣継縄為兵部卿

宝亀6年(775)3月
辛亥。授正四位下藤原朝臣浜成正四位上

どんどん次世代の藤原氏族が昇進していく中

宝亀6年(775)4月
己丑。井上内親王。他戸王並卒

卒とは死去を意味します。同日に親子二人同時に死去は事故以外はありえません。
彼らは幽閉されていたのです。火災や天災でないのでこれは暗殺かもしくは自殺のいずれかです。
ではどちら?
もし藤原式家の暗殺なら廃后廃太子後にすぐ行ったはずです。
しかしこの井上内親王と他戸親王への陰謀の手口はじつに慎重です。
まず呪詛→廃后→廃太子→呪詛→幽閉です。藤原一族が関与したと言われている後の早良親王や吉子伊予親王の謀反の陰謀がが即幽閉した後に彼らは自殺という道を選んだ事も考慮するとここは自殺では?
但しその様な環境に持っていった可能性は十分あります。

井上内親王は自身の人生をどう振りかえったでしょうか?この人物の人となりを知る正確な書物はありません。
ただ意外と政治や自身のおかれていた立場や危険性をまったく感じない俗世とは隔離された究極のお嬢様ではあったでしょう。何故なら普通なら自身と息子の置かれたあの政争激しい奈良時代を生きていくという行動がありません。斎内親王のまさに神の巫女。井上内親王の人生は内親王でありながら家族の愛を知らずに育ち、それゆえに愛を与える事を知らず不幸な死を向かたそんな印象があります。


二人の死で斎王であった酒人内親王がその任をとかれ伊勢から帰京しますが、その時期はあきらかにされていません。
この年は都が騒然としていましたから、途中に建てられた頓宮でしばらく過ごしたかもしれません。



小難しいので、土サスペンス風に

「日本一古い名家の妾の子に生まれた次女が宗家の当主(前当主は長女の女性独身でなくなる)がなくなってしまい。番頭達は紆余曲折を経て後継ぎに傍流の養子を迎え、その妾の次女の夫にし、夫に家業を継がせる。二人の間に1男1女をもうけるも、夫は妾を次々に迎え、新しい大番頭はこの次女を疎ましく思い出す。しかも番頭たちは当主の連れ子に自分達の娘を妾にし次女を追いこんでいく。そんな中次女は番頭達と夫の姉の策略で夫婦なかもぎくしゃくされ、遂に次女は夫を殺害しようとしていると警察に告訴され、あらぬ証拠で逮捕。息子と共に獄中で死亡する。」

するとみじか???




さて話し戻し、ここから藤原氏と天皇家の罪悪感が思わぬ展開になってゆきます。
 
宝亀6年(775)5月
丙申。地震 癸卯。備前国飢。賑給之

乙巳。有野狐。居于大納言藤原朝臣魚名朝座←この狐は井上内親王と考えられてたようです。
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平城京はだだっ広い都です。でも少し外れると野です。そりゃ内裏に狐がいてもおかしくありません。
が、時が時です。太政官の魚名の席に狐が座っていたら藤原一族はビビるでしょうね。
彼らにはこの狐が井上内親王にみえたんでしょうね。

丙午。白虹竟天
これは国が乱れる予兆といわれていました。

         6月
甲申。遣使祭疫神於畿内諸国
         7月
丙申。参河。信濃。丹後三国飢。並賑給之
丁未。下野国言。都賀郡有黒鼠数百許。食草木之根数十里所
庚戌。雨雹。大者如碁子
         8月
八月丙寅。和泉国飢。賑給之
戊辰。有野狐。踞于閤門←この狐はどうやら井上内親王と考えられたようです。
         8月
癸未。伊勢。尾張。美濃三国言。九月日異常風雨。漂没百姓三百余人。馬牛千余。及壊国分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝数。遣使修理伊勢斎宮。又分頭案検諸国被害百姓。是日。祭疫神於五畿内
辛卯。大祓。以伊勢美濃等国風雨之災也
         9月
壬寅。勅。十月十三日。是朕生日。毎至此辰。感慶兼集。宜令諸寺僧尼。毎年是日転経行道
        10月
丙寅。地震
辛未。以従五位下笠朝臣名麻呂為斎宮頭(新斎宮決定か?)
己卯。屈僧二百口。読大般若経於内裏及朝堂。
甲申。大祓。以風雨及地震也。乙酉。奉幣帛於伊勢太神宮
        11月
丁酉。大宰府言。日向薩摩両国風雨。桑麻損尽。詔不問寺神之戸。並免今年調庸
宝亀7年(776)2月
二月甲子。陸奥国言。取来四月上旬。発軍士二万人。当伐山海二道賊。於是。勅出羽国。発軍士四千人。道自雄勝而伐其西辺。是夜。有流星。其大如盆
         4月
己巳。勅。祭祀神祇。国之大典。若不誠敬。何以致福。如聞。諸社不修。人畜損穢。春秋之祀。亦多怠慢。因茲嘉祥弗降。災異荐臻。言念於斯。情深慙〓。宜仰諸国。莫令更然
         5月
戊子。出羽国志波村賊叛逆。与国相戦。官軍不利。発下総下野常陸等国騎兵伐之。
乙卯。大祓。以災変屡見也
丙辰。屈僧六百。読大般若経於宮中及朝堂
         6月
六月庚申。太白昼見
己巳。参議従三位大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨
亥。播磨国戸五十煙捨招提寺
甲戌。大祓京師及畿内諸国。奉黒毛馬丹生川上神。旱也
         7月
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甲辰。震西大寺西塔
        10月
乙未。陸奥国頻経征戦。百姓彫弊。免当年田租
        11月
十一月丙辰。地震
庚辰。発陸奥軍三千人伐胆沢賊

宝亀8年(777)正月
丙辰。以内臣従二位藤原朝臣良継為内大臣
         2月
癸卯。讃岐国飢。賑給之
庚戌。遣使祭疫神於五畿内
         3月
辛未。大祓。為宮中頻有妖怪也 癸酉。屈僧六百口。沙弥一百口。転読大般若経於宮中
↑の妖怪は度々内裏で目撃され、「井上内親王」と考えられていたようです。
         4月
丙戌。雨雹
         6月
癸卯。隠伎国飢。賑給之
         7月
甲寅。伯耆国飢。賑給之 癸亥。震但馬国国分寺塔
乙丑。内大臣従二位藤原朝臣良継病 叙其氏神鹿嶋社正三位。香取神正四位上

丙寅。内大臣従二位勲四等藤原朝臣良継薨
専政得志。升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈従一位。

        10月
辛卯。正四位上藤原朝臣家依為参議 参議正四位上藤原朝臣是公為兼左大弁
 参議従三位藤原朝臣百川為兼式部卿
戊申。大赦天下。但八虐。故殺人。私鋳銭。強窃二盗。常赦所不免者。不在赦限。其入死者皆減一等

天災は祟りというのは???ですが、この天変地異と藤原氏主要メンバーの死亡に朝廷は騒然とし大赦や御祓い、奉納、読経ありとあらゆる手を使い井上内親王の怨霊を鎮めようとします。
しかし効き目なしどこか祟りはさらに広がりとうとう・・・・二人を死に追いやった人間にとって非常に恐怖、その恐怖が人の病気や死を呼びこんだとも考えられます。病は気からといいますね。
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        11月
十一月己酉朔。天皇不予(光仁天皇)

        12月
壬寅。皇太子不〓。(山部親王後の桓武天皇)遣使奉幣

ついに光仁天皇、山部皇太子にまで及ぶとさすがの朝廷もほっとくわけにはいきません。
        12月
乙巳。改葬井上内親王。其墳称御墓。置守冢一煙

もうこうなるとお手上げついに天皇は井上内親王の墳を御墓とし墓守がおかれます。

これかなりの譲歩ですよ。天皇を呪った人間を祀るんですから。もうでっちあげを世間に公表したも同然ですが、そうしてまでもこの時光仁天皇一家は危機的状態だったんですね

     
是冬。不雨。井水皆涸。出水宇治等川並可掲〓
でも日照りやっぱり祟るですね。

宝亀9年(778)正月
以皇太子枕席不安也

天皇は持ち直したようですがまだ皇太子はまだ予断出来ない状態だったようです。

丁卯。改葬故二品井上内親王

やはり皇太子の病状は良くならず、叙位を二品に戻し再び墓を改葬します。
これは免罪といえます。

宝亀9年(778)3月
丙寅。誦経於東大西大西隆三寺。以皇太子寝膳乖和也

山部皇太子の病気は持ち直したようです。改葬の結果でしょうか?

宝亀9年(778)3月
己酉是日。以大納言従二位藤原朝臣魚名為内臣

良継の後任に内臣魚名が就任します。

宝亀9年(778)3月
庚午。勅曰。頃者。皇太子沈病不安。稍経数月。雖加医療。猶未平復。如聞。救病之方。実由徳政。延命之術。莫如慈令。宜可大赦天下。自宝亀九年三月廿四日昧爽以前大辟已下。罪無軽重。未発覚。已発覚。未結正。已結正。繋囚見徒。咸赦除之。但八虐。故殺人。私鋳銭。強窃二盗。常赦所不免者。不在赦限。若入死者降一等。敢以赦前事告言者。以其罪罪之。」又為皇太子。令度卅人出家

宝亀9年(778)3月
癸酉。大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。」又於畿内諸界祭疫神

丙子。内臣従二位藤原朝臣魚名改為忠臣
 
         5月
癸酉。三品坂合部内親王薨。天皇為之廃朝三日。内親王天宗高紹天皇異母姉也

老衰でしょうが。これも祟りにせい???

丁卯。寅時地震  辛未。又震

         10月
丁酉。皇太子向伊勢。先是。皇太子寝疾久不平復。至是親拝神宮。所以賽宿祷也

皇太子の病気が少し持ち直し(この病気は精神的症状とされ井上内親王による罪悪感からくる鬱病的な傷病の可能性あり)、病気祈願をする為に伊勢神宮を訪れたといいます。
外出出来るくらいなのでおそらくは肉体的病気ではないと思われます。
そりゃその座に就いたら罪悪感でさいなまれるでしょうね。

さて光仁天皇治世から桓武天皇辺りで伊勢神宮を非常に重要視しだします。傍流家の負い目でしょうか?

皇太子の病気回復に酒人内親王がこの皇太子の病気本復に一役かったととは考えられないでしょうか?
酒人内親王が帰京した頃は天変地異や朝廷の重臣の死などあり、その最中に皇太子の元に入宮するとは考えにくい。
山部皇太子が病気になり、やや持ち直した頃、伊勢神宮の力斎宮としてそして母井上内親王への鎮魂を込めた婚姻ではなかったでしょうか?

酒人内親王が皇太子の妃になる事で伊勢神宮の加護と怨霊となった母を鎮める事が出来るのは残された彼女にしか出来ない。

山部皇太子の王子はすでに誕生しているので罪人の母を持つ酒人内親王は仮に親王を産んだとしても皇位を争う事はない。支障はないと考えたのです。
そう光仁天皇は理解した。
しかし母と弟を死に追いやった多くの妃を持つ33歳の男に嫁ぐ26歳の内親王はどういう気持だったでしょう。
彼女は斎王になるまで内親王として暮らしていました。幼い日から斎王として成長した母とは違います。ある意味で俗世なれしていたでしょう。しかも多くの悲劇を体験してきました。
確かに心中は複雑でしょう。しかしそれも受け入れ生きてゆく強さを感じます。
数年後誕生する娘はそれを十分に証明しています。

この結婚は意外と両者に良い印象を与えたようです。

続日本紀には酒人内親王と山部皇太子の関係をこう記述しています。
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酒人内親王

「廣仁天皇{光仁天皇}之皇女也。母贈吉野皇后也。容貌〓麗、柔質窈窕。幼配斎宮、年長而還。俄叙三品、桓武納之掖庭、寵幸方盛、生皇子朝原内親王。爲性〓傲、情操不修、天皇不禁、任其所欲。婬行彌増、不能自制。」

大変な美人で山部皇太子(後の桓武天皇)の寵愛を一番受け、その我ままと奔放ぶりも天皇は禁じることなく自由に振舞わせ、その立ち居振る舞いの優雅さや妖艶さを自ら自制する事はなかった。と記述されています。
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山部皇太子の酒人内親王への気つかいぶりがわかります。
山部自身彼女への罪悪感と自身がその怨霊に祟られたいう恐怖の思いと、魅力的な血筋の良い年頃の女性への興味その二つが酒人内親王へ愛情と敬愛をもって接したと思われます。
とうの彼女は山部皇太子に対して年長者への敬愛はあったでしょうが、母や弟の無念を考えた時彼女なりの抵抗がこの我儘と奔放という行動だったのでしょう。酒人内親王は自分の状況と立場を理解し柔軟な姿勢を示していたんでしょう。
常於東大寺、行萬燈之會、以爲身後之資、緇徒普之

東大寺で行う万燈会での浪費はせめてもの仕返しだったのでは?
万燈会とは先祖の供養に行われる寺の行事で、酒人内親王が行うといえば母井上内親王と他戸親王の供養です。


宝亀10年(779年月不明) 酒人内親王腹 第一皇女朝原内親王後の平城天皇妃生
三代斎王娘 朝原内親王の誕生です。

酒人内親王にようやく血のつながりの強い皇女の誕生、長い間一人であった彼女の存在は大きかったと考えられます。
この親子は非常に仲が良かったようです。それは後ほど。

            正月
以忠臣従二位藤原朝臣魚名為内大臣
光仁天皇の魚名の重用ぶりがわかります。

            7月
丙子。参議中衛大将兼式部卿従三位藤原朝臣百川薨。詔(中略)幼有器度。歴位顕要。所歴之職各為勤恪。天皇甚信任之。委以腹心。内外機務莫不関知。今上之居東宮也。特属心焉。于時上不予。已経累月。百川憂形於色。医薬祈祷。備尽心力。上由是重之。及薨甚悼惜焉。時年四十八。延暦二年追思前労。詔贈右大臣。

この百川は天皇や皇太子の信頼高く、特に山部が病床に合った際に力ずけた人物でもありました。

            12月
己酉。中納言従三位兼勅旨卿侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂薨
以累世家門頻歴清顕。景雲二年至従三位。宝亀初拝中納言。尋兼皇太子傅勅旨卿。式部卿百川薨後。相継用事。未幾而薨。時年五十一

宝亀11年(780)正月
庚辰。大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉

神祇官言。伊勢大神宮寺。先為有祟遷建他処。而今近神郡。其祟未止。除飯野郡之外移造便地者。許之
今度は伊勢神宮寺が祟っているので社を移したいと神祇官がいいます。もち即OK
          5月
壬辰。伊勢太神宮封一千廿三戸。随旧復之


天応元年春(781年)正月

伊勢斎宮所見美雲
伊勢斎宮に美しい雲が出たので改元します。

しかし光仁天皇、桓武天皇治世「伊勢神宮」の存在は重要でした。
天智天皇系とはいえ天武天皇の血は受けついでいない。しかも唯一の天武天皇系の井上内親王を排除してしまった。そのかわり天武天皇が重要した伊勢神宮の神祇をかいしての相続なのです。
皇統に遠い為、その聖地伊勢を深く祀り重視する事で皇統の忠臣が天智天皇・志貴親王系光仁天皇本流としての自負を作ろうとしていたのでしょう。


           2月
丙午。三品能登内親王薨

就第宣詔曰。天皇大命能登内親王告詔大命宣。此月頃間身労聞食伊都病止参入。朕心慰今日有明日有所念食待賜間安加良米佐如事於与豆礼年高成朕置罷聞食驚賜悔賜大坐如此在知心置談賜相見物悔哀云不知恋在。朕汝志暫間忘得悲賜之乃賜大御泣哭大坐。然治賜所念位一品贈賜。子等二世王上賜治賜労思。罷。道平幸都都事無宇志呂軽安通告召天皇大命宣

愛娘の死は高齢の光仁天皇に打撃を与えたようです。この愛娘の死が譲位への動きます。
光仁天皇が溺愛した高野新笠腹の第一内親王です。やはり高野新笠が一番信頼されていた後宮という事でしょう。

天応元年(781)7月
癸亥。駿河国言。富士山下雨灰。灰之所及。木葉彫萎

遂に富士山まで噴火

         4月
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遂に桓武天皇即位
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大極殿跡

辛卯。詔云(中略)宣。是日。皇太子受禅即位(山部親王即位桓武天皇)

遣使於伊勢大神宮告皇太子即位也

あまり良い環境でない頃の即位

          12月
丁未。太上天皇崩(光仁上皇)

桓武天皇の父であり、酒人内親王の父でもある光仁天皇が崩御します。
この人井上内親王の事どう思っていたんでしょうか?
自分より血筋と育ちが良い女とのほぼ強制といった結婚、気位の高い妻・・・しかも天皇の即位も可能性もあるいわば妻でありながらライバル。
井上内親王の謀略にどこまで藤原式家と関与していたのでしょうか?
ただ式家があれほど慎重に事を運んだ背景には井上皇后がいれこそ光仁天皇の即位が実現出来たという彼の妻へ負い目があったのは事実でしょうね。
ん~~~やはり疎ましい???かったんでしょうね。でも息子まで犠牲にしなくても・・・・。
この時代は今よりも親子関係は薄いのですし(基本同居しないので)政治的に藤原氏と組まないと朝廷の運営も難しいという事でしょう。
 

さて山部皇太子改め桓武天皇を待ち構えていたのは親族の反乱でした。

延暦元年(782)閏正月
丁酉。獲氷上川継於大和国葛上郡。詔曰。氷上川継潜謀逆乱。事既発覚。拠法処断。罪合極刑。其母不破内親王反逆近親。亦合重罪。但以諒闇之始山陵未乾。哀〓之情未忍論刑。其川継者。宜免其死処之遠流。不破内親王并川継姉妹者。移配淡路国。川継塩焼王之子也。初川継資人大和乙人私帯兵仗闌入宮中。所司獲而推問。乙人款云。川継陰謀。今月十日夜。聚衆入自北門。将傾朝廷。仍遣乙人召将其党宇治王以赴期日。於是。勅遣使追召川継。川継聞勅使到。潜出後門而逃走。至是捉獲。詔減死一等。配伊豆国三嶋。其妻藤原法壱亦相随焉。

辛丑。勅大宰府。氷上川継謀反入罪。員外帥藤原朝臣浜成之女為川継妻。思為与党。因茲解却浜成所帯参議并侍従。但員外帥如故。左降正五位上山上朝臣船主為隠伎介。従四位下三方王為日向介。以並党川継也

壬寅。左大弁従三位大伴宿禰家持。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。散位正四位下伊勢朝臣老人。従五位下大原真人美気。従五位下藤原朝臣継彦等五人。職事者解其見任。散位者移京外。並坐川継事也。自外党与合卅五人。或川継姻戚。或平生知友。並亦出京外。 
        6月
乙丑。左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名。坐事免大臣。其男正四位下鷹取左遷石見介。従五位下末茂土左介。従五位下真鷲従父並促之任。」宍人建麻呂之男女。神野真人浄主。真依女等十四人。弟宇智真人豊公。改偽真人従本姓。初建麻呂冒称仲江王。事発露而自経。其男女亦偽為真人。至是改正之。

不破内親王と塩焼王の息子で臣籍降下していた氷上川継が反逆を試みたと密告があり処分されます。
不破内親王とその娘と一緒に連坐又も流刑の身に・・・・・。不破内親王の口封じ???
この方その後淡路から和泉国に身柄を移されて消息不明になります。悲しい運命ですね~~~天皇の娘なのに~
聖武天皇すごく印象悪くなりました。

それにしてもここまで相対する姉妹は他には類がありません。どちらかが不幸になるとどちらかが幸せになる。
光と影の姉妹


さてそんな混乱する中で桓武天皇の斎王がト部されます。
なんと

延暦元年(782年)8月
朝原内親王斎王ト斎

祖母・母・娘三代に渡り斎王
これは極めて作為的、占いで三代続くなんて嘘まるだし。桓武天皇の盤石な治世への意欲が感じられます。
伊勢神宮の神の力を借りたいんだ!
怨霊や魑魅魍魎が疫病や飢饉、死をもたらすと信じていた時代の精神的な依存が見えます。

3歳の娘可愛いさかりです。
母酒人内親王の悲しみを見せたり御小言を言ったりしたでしょうが、さすがの桓武天皇も甘い顔しませんでしたが、一つの約束をしたようです。

朝原内親王は3歳で初斎院に入り、平城京で祈りの日々を過ごします。

延暦2年(783)4月
甲子。詔。立正三位藤原夫人為皇后

安殿親王の生母を皇后にします。
酒人内親王を立后しなかったのは、すでに光仁天皇の即位で桓武天皇の皇位は正統化している。且つ酒人内親王に親王がいないからでしょう。
安殿親王の立太子を確実にする為です。これで史上2番目の民間の出身の皇后立后します。


桓武天皇はここで遷都を行います。まずは長岡に
延暦3年(784)5月
勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。従三位藤原朝臣種継。左大弁従三位佐伯宿禰今毛人。参議近衛中将正四位上紀朝臣船守。参議神祗伯従四位上大中臣朝臣子老。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督従四位上佐伯宿禰久良麻呂。陰陽助外従五位下船連田口等於山背国。相乙訓郡長岡村之地。為遷都也。

桓武天皇にとって平城京は悪夢の都だったでしょうね。
井上内親王と他戸親王の怨霊、又称徳天皇時代から拡大続く奈良の寺院勢力から遷都の原因だったと言われています。

        11月
戊申。天皇移幸長岡宮

遷都は概ね建物を平城京から移築する事で工期と人件費を抑える事が出来ます。

延暦四年(785)4月
丁亥。従五位上紀朝臣作良為造斎宮長官
         8月
丙戌。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王斎居平城。至是斎期既竟。将向伊勢神宮。故車駕親臨発入。

この時朝原内親王は6歳です。なんと未だかつてない桓武天皇の朝原内親王の伊勢国への見送りのためだけに訪れた行幸です。
これは酒人内親王も同行していたでしょう。
これは異例の事です。天皇が斎王の伊勢国入りの郡行を見送るなんてなかったです。
酒人内親王と娘朝原内親王への愛情と敬意、厚遇ぶりがが伝わります。
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天平行列の女官列
         9月
己亥。斎内親王向伊勢太神宮。百官陪従。至大和国堺而還

遂に朝原斎内親王伊勢国に向かいます。が、天皇と100名ほどの官人が斎宮郡行を大和国の境まで見送ります。

この桓武天皇の平城京行幸の最中にあの藤原種継暗殺事件が起こります。

乙卯。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継被賊射薨。

この暗殺には桓武天皇の弟早良皇太子が関わったとして廃太子、弟を乙訓寺に幽閉した後、淡路に流刑にする途中早良親王は断食の影響で餓死してしまいます。

延暦4年(785)11月
丁巳。詔立安殿親王為皇太子

延暦13年(794)10月
廿三日。天皇自南京、遷北京。平安京遷都

桓武天皇は不吉な長岡京を捨て新宮へ遷都します。
というのも早良親王死去後、安殿新皇太子の病気、妃旅子、皇后の死、疫病や天変地異が起こった事でそれは早良親王の怨霊のしわざとされた為でした。
桓武天皇は都を更に怨霊から逃れ又怨霊に強い都「平安京」へ遷都します。

          12月
辛丑。斎宮寮獻物。曲宴。助正六位上三嶋眞人年繼、斎内親王乳母无位朝原忌寸大刀自授從五位下

斎宮の役所に賜物が下賜され朝原斎内親王の乳母が叙位させます。
離れていても厚遇、酒人内親王への配慮でしょうか?

延暦14年(795)12月
乙酉。配淡路國不破内親王、移和泉國。

不破内親王は淡路から本州の和泉国に移送されます。
これからの処遇への配慮でしょう。

延暦15年(796)2月
乙亥。斎内親王欲歸京。造頓宮於大和國

朝原内親王、異例のなにもないのに京へ大和国に滞在する為の頓宮を造営させます。

この時朝原内親王18歳
娘盛りです。今で言う御年頃「欲帰京」とあるので、当然桓武天皇の要請があったと見ていいでしょう。
では何故???
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延暦15年(796)2月
遣使奉幣於伊勢大神宮。以斎内親王退也
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任期を終えて伊勢国を後に退出、大和国で過ごさせた後、平安京入りさせます。
酒人内親王は大変よろこんだでしょう。 

          7月 
戊戌。幸南院。賜五位已上物有差。無品朝原内親王授三品
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喜ぶ朝原内親王邸
すると無位だった内親王に三品を叙位
桓武天皇の内親王の中で初めての叙位でした。やはり厚遇されています。

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         12月
辛未。巡幸京中。便御三品朝原内親王第。賜五位以上物。
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朝原内親王邸で饗宴する桓武天皇と朝原内親王
冬には桓武天皇は京内の娘朝原内親王の邸に行幸し五位以上の臣下に賜物をします。
後にも先にも娘の邸宅に行幸したのは続日本紀の記述では一度だけこの朝原邸のみです。


延暦16年(797)2月
甲戌。朝原内親王獻物。賜五位已上綿
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贈り物に喜ぶ女官
さらに朝原内親王が贈り物をすると臣下に賜物をします。

          6月
辛酉。三品朝原内親王、獻白雀。御監及家司等賜物有差。初見者伊勢直藤麻呂、獲者菅生朝臣魚麻呂、叙位一階

白い雀を献上するとまたも関係者に叙位


延暦17年(798年)9月
乙丑。越後國田地二百五十町、賜三品朝原内親王

三品朝原内親王が領地を賜ります。
安定的な生活をさせる為でしょう。父親らしい配慮です。


延暦19年(800年)7月
乙未詔曰 朕有所思宜故廃皇后井上内親王、追復称皇后其墓称山陵。大和国宇智郡戸一烟、奉守皇后陵。甲子遺散位従五位下葛位王等、以復位位事、告宇皇后陵

桓武天皇は自分は思う所があり、井上内親王を贈皇后にしてその墓を皇族に与え山陵と称し。さらに王族を使者にして「皇后になりましたよ」と報告しに行かせるという徹底ぶりでした。

桓武天皇の思う所とは?

それは後にはっきりとわかります。
桓武天皇は自分の死期をさとり、生存中もしくは死後遺言として実行されます。

延暦十九年八月以降大同元年五月迄
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安殿(小殿皇太子)への入宮でした。
酒人内親王の例にならったのです。この婚姻は二重の意味がありました。
小殿皇太子には元斎内親王の朝原を後宮に得る事は伊勢神宮の後見を得る、一方朝原内親王は小殿親王の妃になるという事は天皇妃という地位が得られるというメリットです。
御互いの安定が狙いでした。

大同元年(806年)3月
有頃天皇崩於正寢(桓武天皇)。春秋七十。皇太子哀號□踊。迷而不起
遂に父桓武天皇が崩御します。

70歳年の生涯の中で桓武天皇は歴史を知らない人でもその名を知る様な賢帝の一人でした。遷都を強行し、藤原氏の後押しを受けながら安定的な政権を築ずき新しい時代へと導いた人物です。但し同母弟の早良皇太子を排除し自分の皇統を継がせる冷徹さと女好き(皇后、夫人、女御以外に女官女嬬などの愛人が後宮子供は知られているだけでも30人以上いました。)という欠点はあるものの酒人、朝原内親王のよき保護者であり理解者でもありました。
二人は崩御を悲しんだでしょう。

酒人内親王52歳 朝原内親王26歳


          4月
己未。大和國葛上郡正四位上高天彦神預四時幣帛。縁吉野皇太后願也

井上皇后の縁の神社に奉納がされます。

平城天皇に井上皇后が祟らない様にするためでしょうね。

          5月
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辛巳。即位於大極殿
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小殿皇太子(平城天皇)が即位します。

平城天皇と朝原内親王の夫婦中はどうだったでしょうか?

実は平城天皇には思い人がいました。皇太子時代入宮した妃の同行した義母 東宮宣旨藤原薬子です。
皇太子は娘ではなく義母で藤原蔵下麻呂の息子縄主の室で種継の娘を寵愛しはじめたのです。
桓武天皇は暗殺された種継を高く評価し、その死後遺族を厚遇するため親族を東宮妃に入宮させたのでした。
しかしまさか義母と親密になるとは思いもよりませんでした。桓武天皇は薬子を非常に警戒し、その関係が明らかになると薬子の任を解き東宮御所から退出させます。

これは単に義母が皇太子に愛された事が許されなかったのではなく式家に大きな影響力を持たれない事が大きかったと言われます。桓武天皇にも百済明信という藤原継縄の室だった女官との間に庶子まで儲けていました。子供に文句はいえませんね。ただ薬子の野心を警戒したのだと思います。それは東宮がかなり真剣に寵愛していたんでしょうね。
              4月
典侍正三位藤原朝臣藥子兄妹招尤之兆

即位すると大同4年(809)正月
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己卯。正四位下藤原朝臣藥子授從三位。

              4月
平城天皇譲位上皇・嵯峨天皇即位
病気がちだった平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位し、自分は古都「平城京で静かに過ごしていました」
しかし!!!

弘仁元年(810)9月
癸卯。依太上天皇命擬遷都於平城

突然上皇が遷都の命令を出し政治への意欲を見せ始め弟嵯峨天皇への武力制覇を計画します。
しかし警戒していた嵯峨天皇の事前防御の結果その反乱は数日で終了します。以前は薬子の変、現在は平城上皇の変といそうです。
結果薬子は自殺。平城上皇は出家して平城京で残りの生涯を送ります。


己酉。太上天皇至大和國添上郡越田村。即聞甲兵遮前。不知所行。中納言藤原朝臣葛野麻呂。左馬頭藤原朝臣眞雄等先未然雖固諌。猶不納。催駕發進焉。天皇遂知勢蹙。乃旋宮剃髮入道藤原朝臣藥子自殺。藥子。贈太政大臣種繼之女。中納言藤原朝臣繩主之妻也。有三男二女。長女。太上天皇爲太子時。以選入宮。其後藥子以東宮宣旨出入臥内。天皇私焉。皇統彌照天皇慮婬之傷義。即令駈逐。天皇之嗣位。徴爲尚侍。巧求愛媚。恩寵隆渥。所言之事。无不聽容。百司衆務。吐納自由。威福之盛。熏灼四方。屬倉卒之際。與天皇同輦。知衆惡之歸己。遂仰藥而死。




弘仁3年(812)5月
癸酉。妃二品朝原内親王辭職。許之

朝原内親王が平城上皇の妃である事を辞する旨を告げ許されます。しかし平城上皇が遷都を決め出兵しようとした際には同行せず、平城京から平安京に戻ったと考えていいです。まあ事実別居中から正式離婚成立という事です。


平城上皇は精神的にも肉体的には病弱でした。
保護者的な父とは違う平城天皇を受け入れるには困難だったでしょう。
その為に二人の間は相性の良い関係ではなかったといいます。しかし朝原内親王には十分な冨がありましたので、妃を辞しても問題ありません。


朝原内親王は乱後平安京に戻り、平城上皇は平城宮にある宮殿で余生を過ごし、唯一甘南美内親王は(腹種継の娘)薬子の姪の為妃のまま上皇の元で過ごしていました。
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京に戻った朝原内親王との再会を喜ぶ酒人内親王

弘仁8年(817)4月
乙未。賜二品朝原内親王度六人

病床になった朝原内親王の為に嵯峨天皇は僧に命じ読経させます。
嵯峨天皇も酒人内親王家に敬意をはらっていたという事です。
しかし
甲寅。二品朝原内親王薨。遣使監護喪事。親王者、皇統彌照天皇第二之女也。母曰酒人内親王。年卅九

しかし病気は悪化して39歳で死去してしまいます。

その人となりは遺言で良くわかります。 


「父桓武天皇と母酒人内親王の為に東大寺に大般若経・美濃国厚見庄・越前国横江庄・越後国土井庄などを施入してほし

残された母は愛娘の遺言を実行します。自分の死後も父母の心配をする大変心優しい女性だったんですね。



その後母酒人内親王は長生きし、弘仁年間には二品を叙位させます。
その母も75歳で永眠します。


天長6年(829)8月
丁卯。二品酒人内親王薨。廣仁天皇{光仁天皇}之皇女也。母贈吉野皇后也

その遺言書を空海に代筆させています。
当時桓武天皇の遺児を3名猶子(養子)にしています。

吾、式部卿大蔵卿安勅三箇親王告。 夫道本虚無。終無、始無。陰気陽気構 尤霊起。起生名、帰死稱。 死生分、物大帰。吾齢、従心気力倶尽。 況復、四蛇、身府相闘、両鼠、命藤争伐。 既夢蝶我非知還神谷忽休驚。又夫提親、遠追子
吾一箇瓊枝有、不幸露先此顧悢悢。顧命人無猶子義礼家 貴所。所以三箇親王取男女。 終慎道、 一、三子任。吾百年後、荼毘願非。 明器雑物一省約従。此吾願。 追福斎存日修了。若事已得。 春日院七七経転。 周忌東大寺。所有田宅林牧等類、 三箇親王及眷養僧仁主班。自外労随 家司僕孺等分給。亡姑告。弘仁十四年正月廿日」

我、式部卿と大蔵卿と安勅内親王の三人の親王に遺言する。
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「人間の行く道は本より虚無である。終わりも始めもない。陰陽の気が 組み合わされて人間が生まれる。気の起こるをば生と名づけ、 帰るをば死という。生も死も一つである。我が齢七十にして気魄も力も 共に尽き果てた。病は体内に相闘い、月日は容赦なく我が命を断ち切らんとする。夢現の人生、己に帰る頃には死が待っている。
子を育てるのは二親の務めである。親の終わりを見取り弔うものは子という。我には愛しき姫が一人恵まれた。しかし、不幸にして露と先立ってしまった。これを思えば悲しみに胸をかきむしる。死に臨み後事を託したくも子は既に無い。 儒家は兄弟の子は我が子と同じと教える。故に三人の親王をもって 我が子となし、わが喪のことを三子にゆだねる。 我は荼毘を願わず。屍は塚に封じて土に帰すに任せよ。 共に葬る遺愛の品は最小に止められよ。これは我の願いである。 我がための追善の行は在りし日にすべて終えたり。もしやむを得ざる ときは、四十日の中陰の経は春日の院興福寺において、 一周の忌は東大寺において行え。 我が所有の田宅林牧等の類は、三人の親王と我に仕えし仁主に分かち与える。その他は永年にわたり我に仕えし家司、侍女らに分かち与えるものとす。
亡き姑の告ぐ。
弘仁十四年正月二十日」

酒人内親王の生涯を集約させた遺言だなと思いました。
あんなに寵愛された桓武天皇の子達を夫の子とは言わず兄妹の子をしたところ、酒人内親王の桓武天皇への関係がわかりますね。
やんちゃな妹でしょ!!!って感じな夫婦間な感じはしますね。

 
さて今回は前篇後篇で平城京から平安京での出来事を中心に草子しました。
今は遠い昔の御話ですが、広いなんいもない(大極殿と東院庭園、朱雀門は再現されていますが平城京でそんなおどろしい事があったとは想像も出来ません。


長屋王の変、橘奈良麻呂の乱、仲麻呂の乱、不破、井上内親王の呪詛、平城上皇の乱。
艶やかな天平時代とは対照的な政治的には陰謀が取り巻く混沌とした時代そんな都も今はただ野があるだけです。

では「天平祭を楽しみましょう!」

東市、西市にはイベントで奈良名産が味わえます。

華やかな公演の演目

天平衣裳体験館
奈良時代の女性装束
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え!!!酒人内親王?
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え!!!朝原内親王?

じゃないで~~~~す・・・・・・。
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黄菖蒲

今は静かな平城京

さてそんな平城京の最寄り駅「西大寺」で注目の人気パティスリーガトーポワを訪問しました。
こちらは奈良ではNO1と言ってよいケーキ店です。







舞少納言「奈良の都に現る」第三段

さて春の行楽シーズン盛んな奈良の古都「平城京」を散策します。


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いにしえの奈良の昔 平城京跡南北5キロ東西6キロ

710年藤原京から平城京へ遷都
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時は元明天皇の治世

今回は御題を挙げながら、春の「平城京」イベント天平祭の様子もあわせていろいろ草子してみます。

「呪われた青き血~ブルーブラッド~」

前篇「孝謙・称徳天皇」
後篇「三代斎内親王」
元明天皇が遷都の詔の宣言
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「平城京」和銅三年(710年)元明天皇の治世に藤原京から遷都した古都奈良の都です。

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遷都の詔・内侍から少納言へ詔の書が渡される。
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大極殿前庭にて中央が元明天皇、天皇の前後斜めに女官命婦、右に遷都の詔を読み上げる少納言
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左右の内側に侍従と外側に旗りの女嬬がいます。

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離れて左右に兵衛、左に技楽隊、右に内から右方向に氷高内親王、首皇子、皇子妃(安宿媛)、(阿倍皇女、だが史実ではまだ誕生していない)、(淳仁天皇だが史実ではまだ誕生していない)、白壁王

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その後に文武百官
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後ろに女官

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大極殿
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東院庭園
東院とは東宮ともいい皇太子の宮殿
近くには称徳天皇が迎賓館「東院玉殿」や光この東院跡に仁天皇が楊梅宮を建設しました。
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朱雀門

現在一部の建築物の再現と3つの資料館の建物が残る都の跡地です。
奈良は山城国現在の京都市へ遷都して以来没落の一途をたどりました。そのために現在では当時を知る文化財等も少なくまた平城京のほとんどの官庁の建物は平安京へ移築されてしまった為に野原だけとなってしまいました。
地下には遺構が残されており、それらを守る為にも平地のまま残されています。
ではその古都で起こった出来事を草子しましょう。

平城京の春のイベントで行われた「天平祭」


天平行列から
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孝謙・称徳天皇

①歴史的に有名な聖武天皇を父に光明皇后を母に持ちながら歴史に興味がいない人には?なのは何故か?
②天皇に二度も即位しながら、両親一族が眠る佐保山墳墓群とは離れた前方後円墳の墓に埋葬されたと伝承され  ているのは何故か?
③称徳天皇が病床にある時に歴代の天皇の病気の際に出される大赦や読経が行われなかったのは何故か?
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孝謙天皇は聖武天皇(父文武天皇。母不比等の娘藤原宮子)に皇太子時代に入内した光明子(父藤原不比等・母橘三千代)が養老2年(718年)に出産した皇族です。

幼名は不明ですが、父首皇太子(後の聖武天皇)即位後は阿倍内親王の名で知られます。
ちなみに前年に首皇太子には県犬養広刀自が第一王女(後の井上内親王)を出産しており、彼女は第二王女です。


では幼少期から彼女の取り囲む環境からご紹介しましょう。
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奈良天平時代の宮廷衣裳
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父首皇太子(後の聖武天皇)
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母安宿媛(後の光明皇后)

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どちらかというと飛鳥時代に近い宮廷衣裳

天平行列から元正天皇
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父方の伯母(元正天皇)

父は首皇太子、母は数名いる皇太子の妃の一人光明子、時の天皇は大伯母にあたる元正天皇、祖母は藤原宮子、橘三千代、幼児の時に祖父不比等と高祖母元明太上天皇が没します。

政治的に元正天皇は皇太子の即位を念頭に置きながら、皇族の長屋王(妹吉備内親王の夫)を太政官で重要な地位を与え、藤原不比等の4人の兄弟の内房前のみが内臣、参議として出仕するという環境にありました。
つまり皇親派(皇族と一族を支持する貴族のグループ)が大きく政権を担う時期でした。

阿倍内親王の周辺では母はまだ首皇太子妃の一人でしかなく、後宮には県犬養広刀自、おそらくは聖武天皇即位後に後宮入りしたと考えられる房前の娘北夫人、武智麻呂娘南夫人と橘古那可智、他の多くの女官の元で旧不比等邸(太政大臣邸現在の法華寺周辺)養育されていたと思われます。


同母弟は某王(皇太子)      727年~728年

異母姉は井上内親王(伊勢斎宮)  717年~775年(下記の3名の生母は県犬養広刀自)
異母妹 不破内親王(光仁天皇皇后)不明
異母弟 安積親王         728年~744年

彼女の幼少期の中で大きな転機となる政界の事件は下記の通りです。

天平行列から
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聖武天皇

724年       大伯母元正天皇が父聖武天皇に譲位
728年       母光明夫人腹皇子某王の誕生と死
729年2月     「長屋王の変」です。

この一連の出来事は連鎖しています。
元正天皇は甥の皇太子に生存中に皇位を譲る譲位を行い、聖武天皇の即位と同じく母光子は夫人の地位を得ます。
728年にようやく待望の藤原氏腹の皇子の誕生し、二ヶ月後に立太子にしました。
藤原氏腹の皇子を得た武智麻呂、房前、宇合、麻呂は某王の立太子に安堵していたと思われます。が、この皇太子は誕生1年後に病死してしまいます。
しかも皇太子の死と聖武天皇と橘広刀自夫人との間で新たに誕生した安積皇子は藤原一族を追い込むには十分でした。

そこで光明夫人の立后です。
当然藤原氏の中では予定されていた事ですから、時期を早めたと言っていいでしょう。
つまり安積親王がこの後成長しても、光明夫人が皇后になればその即位を防ぐ事も出来、又皇后が再び親王を産んだ際には皇后腹の皇太子として即位も出来るのです。
しかしその立后には大きな壁がありました。

注釈)臣下の娘で歴史上皇后になった例がありませんでした。
(葛城氏娘磐之媛は日本書紀で記録のある仁徳天皇の皇后です。しかし日本書紀は藤原不比等がかかわった可能性が高いので藤原氏の民間初皇后を立后させるための前例で作った架空の人物と思われるので排除)
皇親派の長屋王が立ちはだかります。

それは政治の舞台で聖武天皇の詔と律令の法の矛盾を長屋王が指摘した事で表面化します。

聖武天皇は即位後すぐに生母文武天皇夫人宮子の称号を大夫人と称するとした勅を発するも、長屋は公式礼ではその称号は存在せず、天皇に再度その矛盾を問うという行為に天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾したいざこざの事です。
これを聖武天皇への敵意と重く見た藤原4兄弟(但し房前は長屋王とは親しく消極的だったと言われています。)

長屋王の変とは
この行為を藤原一族は聖武天皇への反発ととらえ、当時藤原四兄弟は妹光明子の立后を望み長屋王は皇族以外の皇后の擁立に強く反対していた事もあり、これに乗じて下級役人の漆部造石足、中臣宮処漣東人が天皇の地位を狙い、「皇太子を呪祖して殺した」という偽の告発。「長屋王に謀反の心あり」と聖武天皇に直訴します。皇太子の死に失意の天皇はこの密告を信じ藤原宇合らがいち早く長屋王の邸宅を包囲、王は正妻吉備内親王とその腹の子供達と自殺した事件を言います。

当然謀反はでっちあげで正妻を皇族に持つ長屋王(父は高市皇子)妻は元明天皇と草壁皇子の次女、自身も皇位に近い人物であり、正妻も天皇の娘という血統が藤原四兄弟の危機感を狩り立てた果ての策略でした。

この事件は阿倍内親王の周辺にも大きな変化をもたらします。

天平行列から
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光明皇后

父は天皇、生母が724年夫人から729年に臣下の娘で歴史上初の皇后が誕生。

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ここに阿倍内親王が登場します。


おそらくは祖父不比等邸、祖母橘三千代邸(この二つは隣接していた現在の法華・海龍王寺辺り)で育った彼女は11、12歳母に起こった事件の影響は大きかったと想像出来ます。

順風満帆であった藤原氏の勢力図は突然、音もなく崩れ去ります。

737年帰国した遣新羅史の中に天然痘に感染した者がおり、九州から近畿に広がりついに朝廷の主だった参議以下太政官が病いに倒れます。
この中に4月に房前が、7月に麻呂、武智麻呂、8月に宇合が死亡します。
まだこの4兄弟の子供達は年長者の武智麻呂の長男で33歳父の死で兵部卿に昇進したばかり、弟31歳従五位下、房前の二男(正妻で長男)23歳の永手が従五位下、宇合の長男広嗣は20歳前後で従五位下、麻呂の長男に至っては13歳という若さでさすがの聖武天皇も朝廷の実権を渡す事は出来ませんでした。
そこで存命であった光明皇后の異父兄大納言橘諸兄と長屋王の弟鈴鹿王に知太政官事を任命し朝廷の体裁を整え、さらなる混乱を避けるために長く明らかにしてこなかった皇太子の任命を738年正月決定します。

今後光明皇后の妊娠が見込めない。
新たな夫人も妊娠しない。
唯一の直系親王安積は10歳を超え、この親王を時期皇太子にという貴族の動きも見逃せない。
藤原氏の血を濃く引く天皇の即位は必然。


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阿倍内親王が皇太子になり住んだ東院(再現 東院庭園)

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曲水の苑跡
人工の小川に杯を浮かべ、流れてくるまでに和歌を詠んだ後に杯の酒を飲み干す貴族の遊びでした。IMG_1037_20130503232200.jpg
隅楼
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天平時代の東院での歌会の様子

上記の理由で聖武天皇は女性皇族で初めて阿倍内親王の立太子を宣言します。
時に阿倍女皇太子21歳でした。
この時同時に橘諸兄に従二位右大臣に昇進させています。
即位に藤原氏一族は胸を撫で下ろしたものの、朝廷での地位は以前大きく橘諸兄に差をつけられ勢力は大きく後退していました。はなやかなはずの宮廷に突如風雲が巻き起こります。

前年宇合の長男である広嗣が大宰府大宰帥(九州にあける外交・防衛の責任者)に任ぜられ、同地に派遣されていましたが、当の本人はこの地位を左遷と認識し突然740年8月朝廷に当時聖武天皇の寵臣吉備真備(遣唐使として唐に留学後、当時は従五位 右衛士督)と玄昉(聖武天皇の生母宮子の病いを治したといわれる僧上)の処分を求める上表を送った後すぐに大宰府で挙兵しました。
藤原広嗣の乱です。
朝廷側は大軍を北九州に向かわせ、2か月後に藤原広嗣、乱に加わった綱手の二名は大野東人により唐津で斬られ反乱軍は鎮圧されます。

これに異常に反応したのは聖武天皇でした。

他の藤原一族が関与しなかったとはいえ同族とも頼りにしていた藤原氏の中での反乱に大きく動揺し、乱の鎮圧の報告も受けない時点で関東へ行幸すると平城京を離れてしまいます。

徘徊とも言えるその行程は
平城京→名張→東に進路→伊勢国→北東に進路→尾張国→北北西に進路→近江国→南南東に進路→恭仁京
に入ります。
これは実は大海人王子の壬申の乱のルートに驚くほど似ています。
では何故???

この行程の過程伊勢国で聖武天皇は乱の鎮圧を知り、首謀者死亡の報告を受けながらも放浪の旅は続けられ、741年恭仁京への遷都が強行されました。
この京はあわただしい遷都に準備もいきわたらず、本当に遷都する大きな意思がまったく見えない規模の京でした。
この異常ともいえる反応はなんだったのか?
藤原広嗣の乱で藤原氏の軍事行為への恐れだったのでしょうか?

それは京の藤原氏からの反乱回避と現政権の安定=阿倍皇太子の基盤造とは考えられないでしょうか?

そもそもは橘諸兄の提案だったのではないでしょうか?
彼は近くに別荘を保有していました。
初めは諸兄は乱のさらなる拡大に天皇一族と朝廷を避難させるため、藤原氏派の勢力の反発を避ける為に主導した。

その案を聖武天皇が
これからも反発が考えられる藤原氏の一族への擁護(これは逆に有望株であろう藤原氏の子息の保護という意味)
皇后と皇太子への保護
現政権橘諸兄達への政権安定処置

藤原氏と現政権、しいては光明皇后と娘阿倍皇太子を守る唯一の手段とも取れ、更にその行程で天武天皇派の皇族達及び貴族に対して自身の後継者である阿倍皇太子への皇統譲渡の正統性を主張するためだった。と考えるのは深読みしすぎでしょうか?

乱の同年広嗣の上書に書かれた「下道真備」が東宮学士の任を受け阿倍皇太子の師となります。
下道真備とは吉備真備の事です。聖武天皇と孝謙・称徳天皇の寵臣として最後は藤原氏以外で大臣にまで出世した人物です。

阿倍皇太子はこの師にかなりの影響を受け、後に春宮太夫へとして漢書、礼記を学んだといわれています。

一旦京を出発したものの、場所を特定せずの遷都した為、恭仁京を都に置きながら当の聖武天皇は742年紫香楽宮への行幸が度か重なり落ちつきません。

そんな中、恭仁京の宮中で743年5月5日の節句に行われた行事は興味深いです。

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東院庭園での舞舞の様子
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元正太上天皇、聖武天皇、光明皇后と朝廷の重要人物の目の前で、皇太子に五節の舞を舞わせます。
これは単純に皇太子がただ踊ったというのではありません。
この舞は天武天皇が「礼と楽」とで天下統治を行う事を誓った際に天女によって舞われたという伝承のある舞です。
その舞を皇太子に舞う事でその皇統を継ぐ者=阿倍皇太子と臣下に認識させられるのです。
この行事の後各臣下へ叙勲がそれぞれに言いわたされます。

そう阿倍皇太子は上皇も認め、天武天皇の皇統も十分受け継ぐ者だから忠誠を誓わせる行為でもあったのです。

聖武天皇は臣下が恭仁京へ留まる事を希望したにもかかわらず、744年難波京へ遷都する為、恭仁京を捨て難波に遷都する詔がくだり、難波に行幸します。
この行程の途中で安積親王の急死がありました。

安積親王は行幸途中に体調不良をうったえ恭仁京へ戻ります。
その恭仁京で急死してしまいます。病名はかっけによる心臓病と続日本紀は伝えます。
この時に恭仁京に留守役として留まっていたのが武智麻呂の二男時の参議藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は光明皇后の信任が厚く次世代の藤原氏の有望株で橘諸兄政権時でも虎視眈眈と藤原政権奪還を目指していました。この新興勢力の急先鋒の人物がいる場所での親王病死、ここに安積親王の殺害仲麻呂説が成立しています。
しかしその当時仲麻呂に親王暗殺の疑いはかからず又確たる証拠もなく仲麻呂が捕らわれたり、罰せられたりはしませんでした。

聖武天皇の難波京行幸は安積親王の急死に変更される事もなかったものの、事実上の遷都をする事なく短期間で行幸を終え紫香楽宮に留まり745年紫香楽宮に事実上遷都したままでした。当時の紫香楽宮では頻繁に放火があります。放火は朝廷に対する反発の行為であり、この紫香楽宮は臣下の間でも民衆にもかなり不人気でした。一部の人々は元の平城京へ戻っていきます。
ようやく聖武天皇は地方への遷都を断念し、745年5月平城京に戻り都はようやく落ち着きます。
しかしその後難波京にたびたび行幸するんですが。

阿倍皇太子はこの聖武天皇の行動にどう感じたでしょう?

煮え切らない父の態度か?
逆に臣下に対して強硬に出る天皇の行動と感じたのでしょうか?
続日本記はなにも語りません。

平城京に戻った後も聖武天皇の難波行幸は続きます。
この難波で聖武天皇は病いを患い、一時重体に陥ります。平城京。恭仁京では戒厳令がしかれ、天皇の鈴、印も難波に運ばれ、天皇の枕元に重要王族が呼ばれます。
幸い病いは回復し無事に平城京に戻るのですが、この病気で聖武天皇の阿倍皇太子への譲位による準備は進み始めたと言えます。

玄坊法師を筑紫に左遷、恭仁京の兵器を平城京へ移します。
正四位藤原仲麻呂が式部卿に、少し遅れて正五位橘宿禰奈良麻呂(諸兄の長男)が民部大輔、左大臣従一位橘諸兄に大宰師(大宰府の長官)を兼任、中納言従三位藤原藤原豊成に東海道鎮撫使を兼任、参議式部卿正四位藤原仲麻呂に東山道鎮撫使を兼任させました。

橘氏と藤原氏で政治、軍事を公平に分担させ、ふたつの勢力を拮抗させようとする聖武天皇の意図が見えます。
以後多くの国分寺の建立、平城京東に巨大な瑠舎那仏像を建立し、朝廷では叙位、任官、大赦を行い元正太上天皇の崩御を経て再び叙位、任官、大赦を経て東大寺への行幸、と左大臣橘諸兄に正一位(臣下の位では一位)、大納言藤原豊成に右大臣に任命、寺院への施入を済ませた後薬師寺宮で出家し平城京を離れた直後譲位を宣言します。

749年女性天皇の即位が譲位という形式で実現します。

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即位式が行われた大極殿(再現)

秋七月甲午。皇太子受禅、即位於大極殿

譲位後の朝廷の主要人員は

正一位  橘諸兄     左大臣
従一位  藤原豊成    右大臣
正三位  藤原仲麻呂   大納言
従三位  石上朝臣乙麻呂 中納言

従四位上 橘宿禰奈良麻呂 参議
従四位下 藤原朝臣清河  参議
正四位下 大伴宿禰兄麻呂 参議(後に紫微中台 紫微大弼・正四位上) にと新たに加わります。

補足 吉備真備        従四位上昇進

この他にも新旧の氏族が均等に昇進しており新朝廷は権力の均等がはかられた物になっています。

又皇后宮を新たに「紫微中台」を設置し、官人任命が行われ仲麻呂が紫微令に任命されます。
紫微中台は光明皇后の為の為の役所で皇太后となった事で置かれた組織です。
阿倍の即位に対し光明皇后が聖武天皇亡き後後見出来る様にする為の組織と言われています。
ここに仲麻呂が長官に指名されたという事は光明皇太后の仲麻呂への期待が大きかったといえます。


その後この均等のバランスは徐々に崩れてゆきます。
その原因はまさに仲麻呂でした。即位後の孝謙天皇は皇太后の影響力を大きく受けて行動していきます。

仲麻呂は従4位上石川年足を紫微大弼に据え朝廷の中で皇太后の後ろ盾であり紫微中台という役職をよい事にをいいことに仲麻呂派を拡大させていきます。

正月己亥○己亥。左降従四位上吉備朝臣真備為筑前守。

まず750年に吉備真備を筑前守に左遷させ、自分は従二位に上がります。これは従兄弟の永手の位が従四位上に対して考えると大きな差がついています。

仲麻呂は吉備真備を左遷するだけにあきたらず遣唐使の唐副使として危険な船旅をさせ国外へ追いやります。

747年聖武天皇の発願で鋳造が開始され、749年に完成していた瑠舎那仏の「東大寺の瑠舎那仏開眼式」が開催されます。

四月乙酉○夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。
是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。


この大仏開眼式は752年孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后が臨席する中、大大的な国家行事としての華やかな式典でした。大仏は聖武天皇の時代から製作され、その統治下で完成していました。なので聖武天皇時代に開眼式を行う事も出来た訳です。しかし行わず孝謙天皇の時代に行った。
これは仏教国家として「統治の譲渡」を意味し、孝謙天皇の統治下では大変有効でした。

この国家的行事の後天皇はなんと仲麻呂の邸宅にしばらく滞在したのです。

天皇還御大納言藤原朝臣仲麻呂田村第。以為御在所

754年に大伴宿禰古麻呂に付き添われ、鑑真が来日します。
これに遅れて吉備真備が屋久島、紀伊潮岬を経て754年に帰朝するとすぐに大宰府の大宰大弐に赴任させ又も都落ちさせます。今度は後ろめたさからか正四位に昇進させますが、真備は同地でその任に務めます。

二月丙戌八歳春二月丙戌。左大臣正一位橘朝臣諸兄致仕。勅、依請許之

続日本記はさらりと流して書いていますが、実は橘諸兄は孝謙天皇時代はほとんど仲麻呂に押され、朝廷内では左大臣という地位だけは確保していたものの、実質的な朝廷運営な関わっていなかったと言われています。息子も仲麻呂の出世から考えても低いものでした。
756年自ら引退したと言われています。翌757年失意のうちに病死しています。

756年聖武上皇は崩御します。

太上天皇崩於寝殿。遺詔。以中務卿従四位上道祖王為皇太子

この遺言を諸兄死去後孝謙天皇はすぐに反古にしてしまいます。

三月 是日。廢皇太子以王歸第。

続日本記では道祖王が聖武上皇の喪中であるにもかかわらず、侍童と戯れ(男色し)民間に機密をもらすなどの素行が悪いので自身の邸宅へ戻したというのです。

では次皇太子はどうするのか?

夏四月辛巳。天皇召群臣問曰。當立誰王以爲皇嗣。右大臣藤原朝臣豊成。中務卿藤原朝臣永手等言曰。道祖王兄塩燒王可立也。攝津大夫文室眞人珍努。左大弁大伴宿祢古麻呂等言曰。池田王可立也。大納言藤原朝臣仲麻呂言曰。知臣者莫若君。知子者莫若父。唯奉天意所擇者耳。勅曰。宗室中。舍人。新田部兩親王。是尤長也。因茲。前者立道祖王。而不順勅教。遂縱淫志。然則可擇舍人親王子中。然船王者閨房不修。池田王者孝行有闕。塩燒王者太上天皇責以無礼。唯大炊王。雖未長壯。不聞過惡。欲立此王。於諸卿意如何。於是。右大臣已下奏曰。唯勅命是聽。先是。大納言仲麻呂招大炊王。居於田村第。▼是日。遣内舍人藤原朝臣薩雄。中衛廿人。迎大炊王。立爲皇太子

臣下が意見したものの、孝謙天皇は仲麻呂の私邸田村第に滞在していた大炊王を召して皇太子に指名します。
出来すぎです。

わざわざ仲麻呂は皇太子の名を指名せずに孝謙天皇の一存と演出、しかも偶然ではありえない仲麻呂邸にいた大炊王を指名する。

実は大炊王は仲麻呂の長男真従の元妻(粟田諸姉)を妃にしていました。

そう皇太子レースは出来レースだったんです。
当時の仲麻呂は皇太后の後ろ盾、正妻は孝謙天皇の尚蔵兼内侍だった宇比良古(房前の娘)が後押し破竹の勢いでした。
同族の豊成、永手もまったく反論出来ない状況でした。

仲麻呂はさらに政敵である橘奈良麻呂の失脚に乗り出します。
話しは前後しますが、先の左大臣橘諸兄の辞任の際の経緯は下記の通りです。

甲辰。先是。去勝宝七歳冬十一月。太上天皇不予。時、左大臣橘朝臣諸兄祗承人佐味宮守告云。大臣飲酒之庭。言辞無礼。稍有反状云云。太上天皇優容不咎。大臣知之。後歳致仕。既而勅、召越前守従五位下佐伯宿禰美濃麻呂。問、識此語耶。美濃麻呂言曰。臣未曾聞。但慮。佐伯全成応知。於是、将勘問全成。大后慇懃固請。由是、事遂寝焉。

この事原因で橘氏の朝廷内での勢力は一気に仲麻呂はとって変わられます。諸兄の長男奈良麻呂は当然将来に悲嘆します。それは聖武天皇生前時にもクーデター計画を思案するなどし徐除に朝廷勢力藤原仲麻呂へのしいては天皇家へのクーデターを画策していきます。

757年橘奈良麻呂の乱
至是、従四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀囲田村宮。正四位下大伴宿禰古麻呂亦知其情

山背王が上奏します。橘奈良麻呂が田村第(当時おそらく天皇の内裏)を兵で襲うつもりです。この企ては大伴宿禰古麻呂も承知しています。

これに天皇
秋七月戊申。詔曰。今宣頃者、王等・臣等中、無礼逆在人在而計大宮将囲云而、私兵備聞看而、加遍加遍所念。誰奴朕朝背而然為人一人将在所念。随法不治賜。雖然、一事数人重奏賜、可問賜物将在所念。慈政者行安為此事者天下難事在者、狂迷頑奴心慈悟正賜物在所念看如此宣。此状悟而人見可咎事和射。如此宣大命不従将在人、朕一人極而慈賜、国法不得已成。己家家、己門門祖名不失勤仕奉宣天皇大命、衆聞食宣。」

さらに皇大后詔曰。汝諸者吾近姪。又竪子卿等者、天皇大命以汝召而屡詔。朕後太后能仕奉助奉詔。又大伴・佐伯宿禰等、自遠天皇御世、内兵為而仕奉来。又大伴宿禰等吾族在。諸同為為而皇朝助仕奉時如是醜事者聞。汝不能依如是在。諸以明清心皇朝助仕奉宣皇太后

橘奈良麻呂は皇太后の甥であり、天皇の従兄弟にあたります。
親族である故になんとか事を表ざたにさせない様に配慮している様子が伝わります。
しかし奈良麻呂への反逆の密告はこの後も続続とは直接仲麻呂に入り、もはや黙認出来きない事態となりました。
仲麻呂は直接高麗朝臣福信に小野東人(藤原広嗣を撃ちとった人物)と答本忠節を逮捕させます。
東人は尋問されますが、これを拒否します。

事これにいたっても皇太后は謀反人と名を挙げられた者を最後の懇願をします。
召塩焼王。安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂五人。伝太后詔宣曰。塩焼等五人人告謀反。汝等為吾近人。一吾可怨事者不所念。汝等皇朝者己己太久高治賜、何怨止志弖加然将為。不有所念。是以、汝等罪者免賜。今徃前然莫為宣。詔訖、五人退出南門外。稽首謝恩。

しかし拷問に耐えかねた東人がついに謀反の全容を語り、

安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。多治比犢養。多治比礼麻呂。大伴池主。多治比鷹主。大伴兄人。
将以七月二日闇頭。発兵囲内相宅。殺劫、即囲大殿。退皇太子。次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣、将使号令。然後廃帝。簡四王中、立以為君

全員が尋問される事になり、拷問杖打ちの刑で獄死するもの、流刑される者が相次ぎ朝廷と宮中は長く混乱する事態になります。
仲麻呂はこの事態に更に自分の地位を挙げる為、そのクーデターの仲間と親しかった豊成の息子乙縄を出し乙縄も日向国に左遷、兄豊成も大宰員外師に左遷させます。さすがの豊成もこれには憤慨し難波の別荘に籠ってしまいます。仲麻呂としては朝廷から追い出せばよいだけなので目標は達成できたわけです。

この橘奈良麻呂の乱は永く天皇家、朝廷に大きな衝撃を与え758年になっても動揺を鎮めたり、飲酒宴会の開催を禁じる詔を出したりと火消しにやっきの様子が見えます。

【この時点での男子王族の家系・赤は死亡 黄は流刑 青は存命中
書物に記述のない、存命のはっきりしない、もしくは天武天智天皇系以外の王族又臣籍降下した王族は除外】

天武天皇系
長親王系 栗栖王 
舎人親王系三原王 大炊王 船王 三島王 池田王 厚見王
親田部親王系塩焼王 道祖王 
高市皇子・長屋王系安宿王 黄文王 山背王 

天智天皇系
志貴皇子系白壁王  


仲麻呂の乱以降動乱を避ける事に成功した朝廷ですが、その後皇太后が発病します。
すると

然皇坐天下政聞看事者、労重事在。年長日多此座坐、荷重力弱不堪負荷。加以、掛畏朕婆婆皇太后朝人子之理不得定省、朕情日夜不安。是以、此位避間人在如理婆婆仕奉所念行日嗣定賜皇太子授賜宣天皇御命、衆聞食宣。是日。<
span style="color:#0000ff">皇太子受禅、即天皇位於大極殿。詔曰。

天平行列から
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淳仁天皇

孝徳天皇は子の道理として、天皇の職務と母の介護は両立出来ないと皇位を皇太子大炊王に譲位します。
この理由が後後政変に大きなしこりとして残る事になるのです。
天皇は主に母の介護に尽くし、政治は藤原仲麻呂が主導し、廃帝(淳仁天皇)の手にゆだねられます。

淳仁天皇は故聖武上皇の継承者として故草壁皇子、故聖武上皇、孝徳上皇、光明皇太后に尊号を奉し孝徳上皇側に配慮する傍ら、政治では忠臣仲麻呂に大保(右大臣)の任にあたらせ、名も「恵美押勝」と改名させます。
政治的には唐の影響を大きく受けた仲麻呂の政策が前進官庁の名を唐風に改めたり、唐以外渤海国と外交を通じたり又新羅討伐を進めたりと大きな改革に舵をとります。

ここに孝徳上皇の影響が大きく減退するのですが、当の上皇はどう思っていたのかは続日本紀は記述がありません。しかし新天皇即位時に年号を改めなかったり、天皇の父が天皇の贈り名(尊号)を辞退する様に上皇が進言したり、これを皇太后がさとしようやく父舎人親王を崇道尽敬皇帝、母に大夫人、兄弟姉妹を親王にする詔が出されるという経緯を考えても上皇の譲位が本人の意思とは言い難い様な気もします。

760年正月丙寅○丙寅。高野天皇及帝御内安殿。授大保従二位藤原恵美朝臣押勝従一位。

表ざたになる事なく、仲麻呂は順当に昇格し、ついに天皇、上皇臨席の元、従一位さらに大師(太政大臣)に側近の中納言正三位石川朝臣年足に御史大夫(大納言)に任じられます。
淳仁天皇治政前半は上皇と大きな衝突はなく両者そろい仲麻呂邸に行幸したり、臣下に叙位を行っています。
ここで仲麻呂の室で上皇の高位女官袁比良を正三位に叙位します。上皇後宮内からも仲麻呂の影響が伺えます。

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采女(内裏の食事を担当する女官・地方豪族の娘が任命・時に天皇寵人となる事もありました)

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実有嘉焉。是日。高野天皇及帝幸太師第

己巳。高野天皇及帝御閤門

759年に6月に皇太后が病死します。
ここに仲麻呂と淳仁天皇、孝徳上皇の綱が切れ、徐除にではありますが、両皇に溝が出来始めます。
危機感がます仲麻呂は自身の政権の地盤固めに動きます。
大和、平城、三国の軍事を固めるために
二男従四位上藤原恵美朝臣真先為兼美濃。飛騨。信濃按察使
三男に従四位下藤原恵美朝臣久須麻呂為大和守に派閥の従四位上藤原朝臣御盾を授刀督兼伊賀近江若狭按察使に任官させ、更に自身の影響力の強い地近江に保良京に遷都の造成を急がせます。

762年乙酉。遣参議従四位上藤原恵美朝臣真先

二男参議に昇格四男朝狩を東海道節度使に任させ、二月に藤原恵美朝臣押勝が最高位正一位に叙位され、9月に近江保良京に遷都出来ます。

しかし762年この保良京で藤原恵美朝臣押勝はおもいもよらぬ形で危機が訪れます。
それは孝謙上皇と淳仁天皇との不和が公然と行われた事で始まりました。

辛丑。高野天皇与帝有隙。於是。車駕還平城宮。帝御于中宮院。高野天皇御于法華寺

平城京の改修工事が済むと上皇天皇共帰還しますが、両者とも内裏には戻らず、天皇は中宮院、上皇は実家法華寺へ入ります。

孝謙上皇の退位の理由は母皇太后の看病です。
今その皇太后が亡くなった時、朝廷に関与するという意思は聖武天皇の直子としては当然かもしれません。

皇太后没後はすぐに態度に示さず表向きは天皇と押勝に同調していた上皇を政治の世界へかり立てたのは一人の僧でした。

道鏡の登場です。保良京に滞在時、病気をした際にその治療を担当したのが、彼でした。

宮子(孝謙の祖母)と玄坊、光明皇后(母)と行信といい藤原氏の血を引く女性はどうやら僧に弱いようです。

病気が回復した孝謙上皇はそれ以来道鏡に傾倒し始め、その仲を臣下の間で噂なっていたのを淳仁天皇は何度を諌めたようです。

この事で両者の間で蟠りが出来それは徐々に孝謙対押勝に移行してゆきます。

六月庚戌。喚集五位已上於朝堂。詔曰。太上天皇御命以卿等諸語宣朕御祖大皇后御命以朕告、岡宮御宇天皇日継、加久絶為。女子継在欲令嗣宣、此政行給。加久為今帝立須麻久間、宇夜宇也相従事無、斗卑等仇在言、不言辞言。不為行為。凡加久伊波朕不在。別宮御坐坐時、自加得言。此朕劣依、加久言念召、愧伊等保念。又一朕応発菩提心縁在良之止母奈母」念。是以、出家仏弟子成。但政事、常祀小事今帝行給。国家大事賞罰二柄朕行。加久状聞食悟宣御命、衆聞食宣。


この上皇の詔は淳仁天皇への痛烈な批判と出家して政治は自分が神祇と簡単な政務は淳仁天皇が行うという宣言

しばらくは上皇も押勝を直接刺激する行動には出なかったものの両者拮抗するような政治体制が続きます。
672年押勝に衝撃的な報告がありました。
7月に押勝の妻で上皇の尚蔵袁比良も死亡したのです。
又7月に三位紀朝臣飯麻呂が死亡、9月右腕だった御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足も死亡し、押勝は大きな主柱を失います。

あせった押勝は12月の任官で正四位上藤原恵美朝臣真先を大宰師に従四位下藤原恵美朝臣訓儒麻呂と朝狩を娘婿の弟貞や石川年足の弟豊成を参議に入れ、派閥の拡張を目指し白壁王を中納言に、中臣清麻呂を参議にと太政官に本人と息子4人という親族5人という異常な政権を強行します。

一見仲麻呂政権の安定が図られた様に見えますが、764年娘婿同士の藤原御楯が死去します。

9月 癸卯。遣使於山階寺。宣詔曰。
       少僧都慈訓法師。行政乖理。不堪為綱。宜停其任。依衆所議。以道鏡法師為少僧都
前年の763年、孝謙上皇は慈訓を首にして、道鏡を少僧都の地位につけます。

又764年正月には大宰府にいた吉備を呼び戻し正四位下吉備朝臣真備に造東大寺の長官に任命しています。

この時期頃から日本中で飢饉が発生し、そのために物価が異常に上昇し庶民の暮らしが苦しくなり始めます。
これも押勝の悪政と上皇派が酒波長歳、淡海三船、佐伯三野の反押勝派の任官が続きにわかに勢力を巻き返します。

同年7月道鏡の弟が授刀少志従八位上弓削連浄人賜姓弓削宿禰に叙位されます。

同年9月丙申、太師正一位藤原恵美朝臣押勝が四畿内三関近江丹波播磨等国習兵事使という護衛隊の長、都督使に就任します。

この役所は表向き新羅の遠征軍組織で押勝が長官を任命されていますが、押勝の軍事掌握権の確保に過ぎません。



764年9月、この護衛隊を活用し、兵を増強する為に無断で太政官符の偽造を行います。

戊戌。御史大夫従二位文室真人浄三致仕。詔報曰。今聞。汝卿、一昨拝朝帰家。乃知。年満懸車。依礼致仕。窃思此事。憂喜交懐。一喜功遂身退能守善道。一憂気衰力弱返就田家。古人云。知止不殆。知足不辱。卿之謂也。丹懇難違。依其所請。仍賜几杖并新銭十万文。将以弘益勝流、広励浮俗。因書遣意、指不多云。

この事件の数日前、御史大夫従二位文室浄三辞任が認められ恩賞を賜ります。
これって表向きは高齢が理由であるといいますが、押勝をみかぎったとも言えます。

同年9月18日大外記高丘比良麻呂、懼禍及己。密奏其事
仲麻呂がクーデターを起こすと事前に上皇側に密告され挙兵します。

乙巳。太師藤原恵美朝臣押勝逆謀頗泄高野天皇、遣少納言山村王。収中宮院鈴・印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。将曹牡鹿嶋足等。射而殺之

上皇は山村王に淳仁天皇が持つ鈴印(駅鈴と天皇印)を抑えようとし、押勝側はそこへ三男訓儒麻呂を送り込むも衝突で三男は銃撃戦の上死亡します。天皇と鈴印も抑えてしまいます。
孝謙上皇側に淳仁天皇の中宮院を奪われ「天皇の意思」という最大の大義を失います。
平城京にいる押勝軍は本拠地近江を目指しますが、これも上皇側に事前に先廻りされ、琵琶湖の東側を南北に右往左往し、最後は勝野鬼江で上皇の追撃軍と対戦して戦死します。

この間数日、まさに追い込まれての反逆でした。上皇は押勝を踊らさせるだけ踊らせて最後は締める。なかなかの策士です。

それが道鏡の案かはたまた吉備真備の案かは?

孝謙上皇は押勝戦死前に

太師正一位藤原恵美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。

押勝の親族官位を取り上げ、完全勝利宣言の様に功労者に叙位を詔を発布します。

正三位藤原朝臣永手
従三位下吉備朝臣真備
従四位下藤原朝臣縄麻呂従四位下
従三位藤原朝臣真盾正三位

押勝戦死後功労賞の叙位を詔

正五位上淡海真人三船
従五位上上佐伯宿禰三野
正四位石川朝臣豊成←この人なびかなかったんですね~~~
正七位上大津連大浦従四位上 大津連大浦大津宿禰←押勝の陰陽師ですが、押勝に乱の発起の吉凶を占ったと上皇に密告した人物
外従五位下高丘連比良麻呂←押勝が役所の文書を改竄した事を密告した人物
従七位上牡鹿連嶋 牡鹿宿禰←中宮院を包囲した人物
坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸←同上

従五位下淡海真人三船正五位上(元船王)

従八位上弓削宿禰浄人←道鏡の兄

前大納言文室真人浄三。先縁致仕。職分等雑物減半者。宜改先勅
辞職した文室にも恩賞が・・・やはり裏切ってたんですね。

主要人物のみ記載他にも叙位あり。

9月戊申以大宰員外帥正二位藤原朝臣豊成(仲麻呂の兄)が右大臣として復帰します。

ようやく乱終結
壬子。軍士石村村主石楯斬押勝伝首京師。押勝者


討賊将軍従五位下藤原朝臣蔵下麻呂等凱旋献捷

討伐軍凱旋し平城京へ戻り、押勝打倒終結宣言した後。

此道鏡禅師大臣禅師位授事諸聞食宣。」復勅、天下人誰君臣不在。心浄仕奉、此実朕臣在。夫人己先祖名興継比呂不念不在。是以明浄心以仕奉氏氏門絶治賜勅御命、諸聞食勅。又宣。仕奉状随冠位阿気賜治賜宣。


764年以道鏡禅師。為大臣禅師。所司宜知此状。職分封戸准大臣施行

道鏡は大臣禅師に叙位されます。
道鏡の孝謙上皇の寵臣ぶりがわかります。天皇も出家しているのだから、僧の大臣があってよい。
すごい理屈・・・。


さらに叙位は続きます。
正二位藤原豊成従一位
従四位上和気王 正五位下山村王 共に従三位
正五位上藤原朝臣百能従三位
従五位下藤原朝臣蔵下麻呂従三位

丙辰。勅。逆人仲麻呂執政。奏改官名。宜復旧焉
すべての中国風の呼び名を元に戻します。

官任

従五位下吉備朝臣由利


正四位上文室真人大市 民部卿
従四位下藤原朝臣魚名 宮内卿
従四位上大津宿禰大浦 左兵衛佐

孝謙上皇はどうやら押勝一族排除を念頭にいれはしていたものの藤原一族全ての排除とは考えていないというのが叙位に現れています。
押勝のあまりの独断政治に他の藤原一族もその勢力の衰退を願っていたのでしょう。

壬戌。勅曰。今月廿八日、覧大臣禅師譲位表。具知来意。唯守沖虚。確陳退譲。然欲隆仏教。無高位則不得服衆。勧獎緇徒。非顕栄。則難令速進。今施此位者。豈煩禅師以俗務哉。宜昭斯意。即断来表。所司一依前勅施行

すると当然道鏡辞任表明します。
さすがに朝廷の中心にいては心地悪かったのか、孝謙との仲を噂されていたたまれなくなったのか?
表向きは仏の世界に政治は不要という事らしいんですが、見事に孝謙に退けられますが。

更に押勝の乱の動揺を治めようとします。

癸亥。勅。逆賊恵美仲麻呂。為性凶悖。威福日久。然猶含容冀其自悛。而寵極勢凌。遂窺非望。乃以今月十一日。起兵作逆。掠奪鈴・印。窃立氷上塩焼為今皇。造偽乾政官符。発兵三関諸国。奔拠近江国。亡入越前関。官軍賁赫。分道追討。同月十八日。既斬仲麻呂并子孫。同悪相従氷上塩焼。恵美巨勢麻呂。仲石伴。石川氏人。大伴古薩。阿倍小路等。P4096剪除逆賊。天人同慶。宜布告遐邇。咸令聞知。」又勅曰。逆臣仲麻呂、奏右大臣藤原朝臣豊成不忠。故即左降。今既知讒詐。復其官位。宜先日所下勅書・官符等類悉皆焼却。是日。充八幡大神戸廿五煙。」以陸奥守従四位下田中朝臣多太麻呂為兼鎮守将軍。

さらに叙位が続きます。

従四位下藤原朝臣宿奈麻呂正四位上  大宰帥

庚午。詔、加賜親王・大臣之胤。及預討逆徒諸氏人等位階。無位諱〈今上。〉



そして淳仁天皇の処罰
壬申。高野天皇遣兵部卿和気王。左兵衛督山村王。外衛大将百済王敬福等。率兵数百囲中宮院。時帝遽而未及衣履。使者促之。数輩侍衛奔散、無人可従。僅与母家三両人。歩到図書寮西北之地
孝謙上皇は軍隊を率いて淳仁天皇の中宮院を囲んで、うろたる天皇一家に山村王が詔を発布します。


山村王宣詔曰。挂畏朕天先帝御命以朕勅天下朕子伊末之授給。事云、王奴成、奴王云、汝為。仮令後帝立在人、立後汝無礼不従奈売在人帝位置不得。又君臣理従、貞浄心以助奉侍帝在得勅。可久在御命朕又一二竪子等侍聞食在。然今帝侍人此年己呂見其位不堪。是不在。今聞、仲麻呂同心窃朕掃謀。又窃六千兵発等等乃、又七人関入謀。精兵押壊乱、罰滅云。故是以、帝位退賜、親王位賜淡路国公退賜勅御命聞食宣。事畢。将公及其母。到小子門。庸道路鞍馬騎之。右兵衛督藤原朝臣蔵下麻呂。衛送配所。幽于一院。勅曰。以淡路国賜大炊親王。国内所有官物調庸等類。任其所用。但出挙官稲、一依常例。」又詔曰。船親王九月五日仲麻呂二人謀、書作朝庭咎計将進謀。又仲麻呂家物計書中仲麻呂通謀文有。是以親王名下諸王臣隠岐国流賜。又池田親王此夏馬多事謀所聞。如是在事阿麻多太比所奏。是以親王名下賜諸王土左国流賜詔大命聞食宣。」

この流刑先に従五位下坂本朝臣男足を隠岐守に、従五位下佐伯宿禰助を淡路守に監視役として下向させます。

天武天皇系
長親王系 臣籍降下した為王家としては消滅 
舎人親王系大炊王 船王 池田王 
親田部親王系 塩焼王は押勝の乱で殺害された為、二世が臣籍降下された為消滅
高市皇子・長屋王系安宿王 山背王 

天智天皇系
志貴皇子系白壁王 

減っていきますね。
この時期皇位を継げる男子王族の数が激減します。
女性天皇であるため、皇位争いが激化したのでしょう。


孝謙上皇は淳仁天皇を廃位した後、こんどは皇太子を定めないという詔を出します。

然今間此太子定不賜在故(中略)天不授所得在人、受全坐物不在、後壊(中略)人授依不得。力以競物不在。猶天由流授人在念定不賜(中略)今間念見定天授賜所漸漸現念定不賜勅御命、諸聞食勅

なんかもっともらしい事を言っているような・・・ようは相応しい者を選んでもその地位に甘んじ、相応しくなくなる。天が定めた相応しい者がいないので皇太子を定めない。私が独占するために立てないのではない。時がくれば天により選ばれた相応しい者があらわれるだろうだそうです。淳仁天皇でうんざりしたという事でしょうか?

重ねて、諸王、臣下に
(中略)復勅。人人己比岐比岐此人立我功成念君位謀、窃心通人伊佐奈須須莫。己不成事謀先祖門滅継絶。自今以後明貞心以可仁可久念事奈教賜奉侍勅御命、諸聞食勅

自分の栄耀栄華を極める為に皇位を揺るがす反逆行為は祖先から築いた地位と名成を滅ぼすのでしてはいけないと戒めています。

まあ淳仁天皇と押勝への戒めですね。自身への反省課題でしょうね。
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さらに叙位と官任を行い遂に孝謙上皇、再即位後年称徳天皇と称されます。

天平神護元年春正月癸巳朔。御南宮前殿受朝

孝謙上皇以来称徳天皇は初めての僧天皇、しかも前回の即位以降父聖武天皇、光明皇太后に後見をうけながら統治していました。
それが全て取り除かれ、誰も助言を行えない状態が出来たのはこれ以降、称徳天皇独断政治が思いもしない方法へと誘導されていきます。

改元の後叙位

正四位上文室真人大市
従四位下藤原朝臣魚名正四位下
従三位和気王。山村王

正三位藤原朝臣永手。藤原朝臣真楯
従三位吉備朝臣真備。藤原朝臣蔵下麻呂

正五位上吉備朝臣由利

癸亥。授従四位下弓削御浄朝臣浄人従四位上 癸未 上総守
丁己。従五位下弓削宿禰薩摩 下野員外介 ←後にでてきます。

765年乙亥。勅淡路国守従五位下佐伯宿禰助。風聞。配流彼国罪人。稍致逃亡。事如有実。何以不奏。汝簡朕心。往監於彼。事之動静。必須早奏。又聞。諸人等詐称商人。多向彼部。国司不察。遂以成群。自今以後。一切禁断

淳仁廃帝が逃亡を企てようとするがばれて監禁されます。

764年3月王臣之中、執心貞浄者。私家之内、不可貯兵器

王族、臣下の武器の所有を禁止する詔を出します。
やはり皇太子を置かない影響してか、にわかに皇位問題があがっていたのでしょう。

又も称徳天皇は詔を宣言

天下政、君勅在、己心比岐比岐、太子立念功欲物不在。然此位、天地置賜授賜位在。故是以、天地明奇授賜人出在。猶今間、明浄心以、人伊佐奈、人止毛奈於乃於乃貞能浄心以奉仕詔己止、諸聞食詔。復有人、淡路侍坐人率来、佐良帝立天下治念在人在念。然其人、天地宇倍奈由流授賜人不在。何以知、志愚、心不善天下治不足。然不在。逆悪仲末呂同心朝廷動傾謀在人在。此人復念。自今以後如此念謀止詔大命聞食宣。

天の意思がまだ皇太子を示していないのだから自ら皇太子を立てたり廃帝を再度皇位につける謀り事をしてはならないと戒めています。

その後すぐに田を与えています。
ん~~~なんにもしてはだめよと言う事か?もしくは恩賞か?

辛丑。賜従三位和気王功田五十町。従四位上大津宿禰大浦十五町

甲辰 吉備国藤野郡の人正六位下藤野別真人広虫女・右兵衛少将従六位上藤野別真人清麻呂 姓吉備藤野和気真人   賜

しかし結局和気王は皇位を狙ったという理由で逮捕されます。

同年八月庚申朔。従三位和気王坐謀反乃誅
今和気勅。先奈良麻呂等謀反事起在時、仲麻呂忠臣侍。然後逆心以朝庭動傾兵備時、和気申在。此依官位昇賜治賜。可久仲麻呂和気後猶逆心以在。復己先霊祈願書見云在、己心念求事成給、尊霊子孫遠流在京都召上臣成云。復、己怨男女二人在。此殺賜云在是書見謀反心方明見。是以法治賜宣。」和気者。一品舍人親王之孫。正三位御原王之子也。勝宝七歳、賜姓岡真人。任因幡掾。宝字三年。追尊舍人親王。曰崇道尽敬皇帝。至是。復属籍、授従四位下。八年、至参議従三位兵部卿。于時、皇統無嗣。未有其人。而紀朝臣益女以巫鬼著。得幸和気。心挟窺〓。厚賂幣物参議従四位下近衛員外中将兼勅旨員外大輔式部大輔因幡守粟田朝臣道麻呂。兵部大輔兼美作守従四位上大津宿禰大浦。式部員外少輔従五位下石川朝臣永年等。与和気善。数飲其宅。道麻呂、時与和気密語。而道麻呂佩刀、触門屏折。和気、即遺以装刀。於是。人等心疑。頗泄其事。和気知之。其夜逃竄。索獲於率河社中。流伊豆国。到于山背国相楽郡。絞之埋于狛野。又絞益女於綴喜郡松井村

なんかお酒で嵌められたっぽいですね。和気王は流刑の途中で絞殺、同じく益女も絞殺されています。
他の者は左遷ですんですが、道麻呂夫婦は左遷先で死亡、大津大浦は日向守に、石川朝臣永年は左遷先で自殺。
悲惨です。
事が称徳天皇と道鏡の事です。二人とも今回は流刑だけではすまなかったようです。
これははめられた感はあるものの和気王の逆襲ですね。自責の念というべきか、度々淡路を脱走している事が心理上の変化を起こしたと思われます。

9月正四位下石川朝臣豊成従三位にした後。
行宮を大和、河内、和泉国に造宮させ、従二位藤原朝臣永手、正三位吉備真備を御装束司長官に任ずる

10月庚辰。淡路公、不勝幽憤。踰垣而逃。守佐伯宿禰助。掾高屋連並木等、率兵邀之。公還明日、薨於院中

またも脱走を試みた廃帝が捕まりどうやら二人に殺された様な・・・廃帝淡路で没す。
本当に淳仁天皇は不幸続き、しかし道鏡が現れなくても結果は同じかも。


この頃称徳天皇は行幸をたて続きに行います。
紀伊国、大和小治田宮、大原、長岡を行幸し一度平城京に帰るも草壁皇子陵、鎌垣行宮、岸村行宮、深日行宮、
新治行宮、丹比行宮、弓削行宮。

弓削行宮に行幸した後すぐに弓削寺に恩賞がありました。
閏十月己丑朔。捨弓削寺食封二百戸。智識寺五十戸。

実は弓削は道鏡の生誕地彼の俗世名は「弓削氏」でした。
この行幸は聖武天皇の奈良麻呂の乱後の遷都への行幸に似ています。
称徳天皇のこの行幸中に皇位相続の一つの目的がきめられた様に思うのです。


庚寅。詔曰今勅。太政官大臣奉仕人侍坐時、必其官授賜物在。是以、朕師大臣禅師朕守助賜見、内外二種人等置理慈哀過無奉仕念可多良能利言聞、是太政太臣官授敢念。故是以、太政大臣禅師位授勅御命、諸聞食宣。復勅、是位授申必不敢伊奈宣念、不申是太政大臣禅師御位授勅御命、諸聞食宣。」詔文武百官、令拝賀太政大臣禅師。事畢、幸弓削寺礼仏。奏唐・高麗楽。及黒山・企師部舞。施太政大臣禅師綿一千屯。僧綱及百官番上已上。至直丁・担夫、各有差。内竪・衛府特賜新銭。亦有差。

遂に道鏡を太政大臣禅師にしちゃった!
しかも道鏡には内緒で!これって道鏡自身には政界の野心なしとも取れます。いわゆる称徳天皇の即断。
そして河内和泉国の税免除、道鏡の評判を揚げる???

癸酉。先是。廃帝、既遷淡路。天皇重臨万機。於是。更行大嘗之事
今勅。今日大新嘗猶良比豊明聞行日在
朕依上方三宝供奉。次天社国社神等為夜、次奉親王臣百官人等、天下人民諸愍賜慈賜念還復天下賜仏御弟子菩薩戒受賜在
神等三宝離不触物人念在。然経見、仏御法護尊諸神伊末。故是以、出家人白衣相雑供奉豈障事不在念、本忌如不忌、此大嘗聞行宣御命、諸聞食宣。

かなり矛盾したいいわけに聞こえます。
仏に仕える身で神祇を行う、すごく矛盾しています。が、称徳天皇はこの矛盾に当然の様に思っていたのかもしれません。
天に与えられて仏に与えられる二重の保護の様に考えたのかもしれません。

そして11月新嘗祭を法天皇が太政大臣禅師道鏡の臨席する中強行します。

新嘗祭って神事です。
それを異神仏教の僧が行い、僧が臨席する。
異常です。
しかしこれを実行出来た事が神(天皇家)と仏(仏教)の平行統治が実現出来るという確信が出来てしまったのではないでしょうか?
それが不幸の始まり。


その11月甲申。右大臣従一位藤原朝臣豊成薨
藤原家長が死去します。

朝廷の新体制強化の叙位

766年二年春正月甲子
以大納言従二位藤原朝臣永手為右大臣。
中納言正三位諱。藤原朝臣真楯並為大納言。
参議正三位吉備朝臣真備為中納言。
右大弁従四位上石上朝臣宅嗣為参議。

癸酉。幸右大臣第、授正二位
永手を正二位にします。

押勝の乱の功勲者に田を与える。
賜従三位山村王功田五十町
正五位上淡海真人三船廿町

3月に大納言藤原真盾が亡くなり、中納言正三位吉備朝臣真備が大納言に昇進します。

4月丙申。奉八幡比〓[口+羊]神封六百戸。以神願也



甲寅。有一男子。自称聖武皇帝之皇子。石上朝臣志斐氏之所生也。勘問、果是誣罔。詔、配遠流

聖武天皇の子を名のる男子が現れて流刑にされます。
称徳天皇の地位がいかに流動的なものか如実に現れた出来事です。

右大弁兼越前守従四位下藤原朝臣継縄並為参議


甲申。授無位大神朝臣田麻呂外従五位下。為豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮禰宜大神朝臣毛理売時。授以五位。任神宮司。及毛理売詐覚。倶遷日向。至是復本位


10月の叙位
辛丑。授正四位下藤原朝臣縄麻呂正四位上
   正六位上弓削御浄朝臣塩麻呂従五位下

甲申。授無位大神朝臣田麻呂外従五位下。為豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮禰宜大神朝臣毛理売時。授以五位。任神宮司。及毛理売詐覚。倶遷日向。至是復本位

数日後の壬寅。奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺

法華寺の隅にある寺の毘沙門像から舍利が現れたと報告を受けると称徳天皇はこれを吉兆と喜び、何故か
太政大臣朕大師法王授勅天皇御命、諸聞食宣
円興禅師法臣位授←大納言の給料相当
基真禅師法参議大律師冠正四位上授←参議同等

これは完全にやらせです。
後に嘘がばれて報告した者は処罰されますが、道鏡の法王就任は取り消されません。

しかし舎利が出てきたら道鏡の「法王」叙位や僧の叙位にになるのでしょうか?
この狂気は序章にしかありません。王とは「僧の王」つまり王族と等しい事です。それは皇位に近ずいたともいえます。
称徳天皇が何をもって王にしたのか?
この舎利でっちあげ事件の頃から法王決定くらいから称徳天皇は道鏡の欲が異様に大きくなるのに危機感を持ち始めてた。だからこそでっちあげ事件を公にした。けれど認めるほど称徳天皇に一人で政治を行う意欲はなかったのではないでしょうか?

(精神的)に愛する男の希望をむげにはできない。できないほど称徳天皇は強くはなかった。
道鏡は就任に対して辞退していません。権力欲が出てきた祥子ですね。

甲申。右大臣従一位藤原朝臣豊成薨

更に朝廷の人事も新たにします。
右大臣藤原朝臣左大臣位授賜
吉備朝臣右大臣之位授賜
従三位弓削御浄朝臣浄人正三位。為中納言
正四位下道嶋宿禰嶋足正四位上


11月にも叙位
正四位上藤原朝臣宿奈麻呂
正四位下藤原朝臣魚名並授従三位


称徳天皇の政治は法と政治の共同統治を目的にしています。
自分と道鏡が表(朝廷)と裏(仏教)が統治し、それをそれぞれの太政官と僧が運営管理する。
それがこの当時の理想としていたと考えていいでしょう。
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12月癸巳。幸西大寺
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境内の躑躅とこでまり
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西大寺は押勝の乱の平定を願って発願され、天平神護元年に造営が始まり四天王像を安置するための寺院です。
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現在は創建当時の建物はなく、小さな寺院、礎石が残る天平の残照な様な寺ですが、創建当時は東の東大寺におとらない大寺院でした。
称徳天皇崩御後、火災などで規模が小さくなり、山城国へ遷都してからは更に衰退が進み現在は再建された本堂と当時の繁栄を物語る五重塔の跡が残るのみです。

その寺への行幸はさぞは華やかでしたでしょう。今は面影もありません。

正五位下藤原朝臣雄田麻呂為兼右兵衛督
この人物藤原百川です。

その後767年寺への行幸は東大寺、山階寺、東院、元興寺、西大寺法院、大安寺、薬師寺と続きます。

正五位上淡海真人三船為兵部大輔

この任官から3カ月後何故か

癸未。勅。東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍従勲三等淡海真人三船禀性聡恵、兼明文史。応選標挙。銜命巡察。諸使向道之時、受事雖一。省風還報之日。政路漸異。存心名達。検括酷苛。以下野国国司等、正税未納并雑官物中有犯。然独禁前介外従五位下弓削宿禰薩摩。不預釐務。亦赦後断罪。此陳巧弁。其理不安。既乖公平。宜解見任用懲将来。又比年法吏。但守文句。不顧義理。任意決断。由是。薩摩訴状不得披心。清白吏道。豈合如此。自今以後。不得更然。若有此類。随法科罪。

押勝の功労者を処罰ししゃいました。
これは薩摩が道鏡の同族で不正を行ったのを淡海真人三船が罰した事に対し、他の者も不正をしているのに薩摩のみ罰したのは不公平だという事による解任です。???

「ほらほらあなたの味方はどんなに忠誠を尽くす臣下でも処罰しますよ」と言う悲しい女の性が見えます。

任官を行った後、法王宮職を設置します。

辛亥。従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂為豊前介
この人重要人物です。

乙丑。始造八幡比売神宮寺。其夫者便役神寺封戸。限四年令畢功

叙位で道鏡の弟されに出世します。
以正三位弓削御浄朝臣浄人為卿

吉備真備の親族由利
命婦正四位下吉備由利正四位上

768年叙位
癸巳。以正三位弓削御浄朝臣清人為大納言
従三位中臣朝臣清麻呂為中納言
   大蔵卿従三位藤原朝臣魚名為参議
   従五位下弓削御浄朝臣塩麻呂為左兵衛督

甲午。授無位弓削御浄朝臣浄方従五位下

9月にはさらに由利が従三位授く

叙位10月従四位下尼法均

11月の叙位には
大納言衛門督正三位弓削御浄朝臣清人為兼大宰帥
ここ大事です。大宰帥とは九州大宰府の長官
従三位石川朝臣豊成為宮内卿
兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂為兼造法華寺長官
藤原雄田麻呂中務大輔

己亥。是日。以正三位弓削御浄朝臣清人為検校兵庫将軍。従四位下藤原朝臣雄田麻呂為副将軍



壬辰。設新嘗豊楽於西宮前殿。賜五位已上禄各有差
秋に行われる新嘗蔡です。

十二月甲辰。先是山階寺僧基真。心性無常。好学左道。詐呪縛其童子。教説人之陰事。至乃作毘沙門天像。密置数粒珠子於其前。称為現仏舍利。道鏡仍欲眩耀時人。以為己瑞。乃諷天皇。赦天下。賜人爵。基真賜姓物部浄志朝臣。拝法参議。随身兵八人。基真所作怒者。雖卿大夫。不顧皇法。道路畏之。避如逃虎。至是。凌突其師主法臣円興。擯飛騨国。

12月に山階寺の僧基真が左道を好んで師匠を惑わしたとして飛騨国に追放されます。
僧の権力争い激化


769年の新年
壬申。法王道鏡居西宮前殿。大臣已下賀拝。道鏡自告寿詞
丙子。御法王宮。宴於五位已上。道鏡、与五位已上摺衣人一領。蝦夷緋袍人一領。賜左右大臣綿各一千屯。大納言已下亦各有差

道鏡の祝宴って内心複雑だったでしょうね。左大臣以下の公卿達は・・・。

二月壬寅。幸左大臣第、授従一位

永手邸に天皇が行幸した際の叙位です。
称徳天皇は藤原の人事も優遇しています。まあ吉備と道鏡弓削氏だけでは政治は出来ないです。それほど藤原氏は政界で大きな役割を担っていたという事でしょう。
自身も藤原氏の血を引いているのですから。

癸亥。幸右大臣第。授正二位
ついで吉備真備邸に行幸しています。左右の大臣をねぎらっての事でしょうか?


5月またしても事件が発覚します。
壬辰。詔曰。不破内親王者。先朝有勅。削親王名。而積悪不止。重為不敬。論其所犯。罪合八虐。但縁有所思。特宥其罪。仍賜厨真人厨女姓名。莫令在京中。又氷上志計志麻呂者。棄其父塩焼之日。倶応相従。而依母不坐。今亦其母悪行弥彰。是以、処遠流。配土左国。

押勝の乱で死亡した塩焼王の正室で聖武天皇皇女不破内親王が息子の即位を策略し県犬養姉女、忍坂女王、石田女王と謀って称徳天皇を呪ったというのです。彼女は内親王の位を取り消され、平城京外へ移住。息子は土佐国へ流刑となります。
これは称徳天皇の策略のような・・・後年この密告は嘘だったと冤罪されていますから。
彼女は聖武天皇内親王ながら、追いやられた不運な皇女です。
丙申。県犬養姉女等坐巫蠱配流

事件が一段落すると王族や臣下に忠誠を誓わすように詔を出しています。

現神大八洲国所知倭根子挂畏天皇大命、親王・王・臣・百官人等、天下公民、衆聞食宣。犬部姉女内奴為冠位挙給根可婆禰改治給。然物反逆心抱蔵己為首忍坂女王・石田女王等率、挂畏先朝依過棄給厨真人厨女許窃往乍岐多奈悪奴結謀。傾奉朝庭、乱国家、岐良比給氷上塩焼児志計志麻呂天日嗣為謀挂畏天皇大御髪盗給、岐多奈佐保川髑髏入大宮内持参入来、厭魅為三度。然盧舍那如来、最勝王経、観世音菩薩、護法善神梵王・帝釈・四大天王不可思議威神力、挂畏開闢已来御宇天皇御霊、天地神護助奉力依、其等穢謀為厭魅事皆悉発覚。是以、検法皆当死刑罪。由此、理法岐良給在。然慈賜為一等降、其等根可婆禰替遠流罪治賜宣天皇大命、衆聞食宣。

しかし天皇は出家しているのですからその髪を盗むって事が出来たんでしょうか?まず下した髪は内裏に保管されていたのでしょうか?
じゃあ誰が盗んだというのでしょうか?
本当に???話です。呪術がらみはほとんどでっち上げの場合が多いので、これはでっちあげの事件とみていいでしょう。
では誰が?道鏡がからんでいる!そう推理します。何故?不破内親王は皇位の可能性がないわけではない。彼女にさらに王族の夫をつければいいのですから。

その後すぐに和気清麻呂に宿禰姓を授与しています。藤野→輔治能真人

和気清麻呂(尼法均の弟)輔治能真人政を与える。
これは政治を治める聖人という風な意味合いの姓、地方豪族が与えられるのは極めて異例。

769年
秋七月乙亥。賜厨真人厨女封〓二戸。田十町。」始用法王宮職印
道鏡管轄の法王宮が不破内親王の生活費の為の田を与えたんです。
これ超でっちあげの証しではないでしょうか・道鏡は嘘であるのを知っていたいやそう画策した。。なので罪悪感から費用を捻出した!

ここに不破内親王の呪いと和気清麻呂の待遇そしてその不破に道鏡の印

そして


乙丑 吉前国藤野郡改和気郡
わざわざ和気姓を清麻呂の出身地につける。


769年9月称徳天皇統治で最大の事件が勃発
それは天皇の逆鱗の詔から当然始まります。

己丑。詔曰。天皇御命詔。夫臣下云物君随浄貞明心以君助護、対無礼面無後謗言無、姦偽〓曲心無奉侍物在。然物、従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂、其姉法均甚大悪姦妄語作朕対法均物奏。此見面色形口云言猶明己作云言大神御命借言所知。問求、朕所念在如、大神御命不在聞行定。故是以、法退給詔御命、衆諸聞食宣。復詔、此事人奏在不在。唯言其理不在逆云。面無礼、己事納用念在。是天地逆云此増無。然此諸聖等・天神・地祇現給悟給在。誰敢朕奏給。猶人不奏在、心中悪垢濁在人必天地現示給物。是以、人人己心明清貞謹奉侍詔御命、衆諸聞食宣。復此事知清麻呂等相謀人在所知在、君慈以天下政行給物伊麻慈愍給免給。然行事重在人法収給物。如是状悟先清麻呂等同心一二事相謀人等心改明貞在心以奉侍詔御命、衆諸聞食宣復清麻呂等奉侍奴所念姓賜治給。今穢奴退給依、他賜姓取弖部成給、其名穢麻呂給法均名広虫売還給詔御命、衆諸聞食宣。復明基広虫売身二在、心一在所知、其名取給同退給詔御命、衆諸聞食宣。」

なんの事???称徳天皇が激昂して憤慨している様子の詔ですが、全然理論的でない。
なんだかか我儘お嬢様がへんな罰を与えていう印象のこの命令。
へんな名前に変えて平城京から追放
どうしてこんな事になったのか?
これこそ歴史に残る宇佐八幡神宣事件です。


経緯説明は下記の通り

始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負


大宰主神習宜阿曾麻呂が道鏡にこびるため、宇佐八幡の神が道鏡を皇位に就けば天下太平になると言い出し、これを聞いた道鏡が喜んで「自分は天皇に相応しと思いあがった事が発端でした。



天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発

天皇はこれを聞き、和気清麻呂を呼んで「ある晩に宇佐八幡の神が夢に出て伝えたい事があるので使いをよこすよう」にと言われた。
姉の尼法均に頼みたいが長い旅になるので弟の清麻呂を使者にたのみました。

道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。

その後、道鏡は清麻呂に「このお告げは自分の即位の事にちがいないので、良い返事を持って帰れば官位を与える。」と買収行為にでます

清麻呂行詣神宮。

大神詫宣曰。
我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。
清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

清麻呂は宇佐神宮へ行き神託を受けて帰京し、宇佐八幡「我国は国が始まった時より、天皇と臣下は決まっている。天皇は必ず皇族の者を継がせよ。道にない者は排除せよ。」というものでした。
ようは道鏡を天皇にしてはいけない上に朝廷から退けよと言ったというのです。

清麻呂が持ち戻った神託ですが、その神託を受けようとした際に神は何故か数度も拒みます。
これを清麻呂が怪しんで再三神託を願い出て巫女が呼びだすと神が現れて清麻呂に上記の神託をつたえたというのです。
これは宇佐八幡内部に道鏡に媚びて利益を貪るとするグループとそうではないグループの内紛が見てとれます。
巫女に神が乗り移るなんて現在では???宇佐八幡の道鏡派と反道鏡派(天皇の皇統を守る)が神託に影響していると考えるのが妥当です。

それが称徳天皇の激昂の詔となったのです。

では真相は?
①称徳天皇は道鏡を皇位に就ける首謀説
限りなく白に近いグレー

もし本当に天皇に就ける覚悟があるなら
皇族全てを排除したはず(白壁王は存命・他二、三世もわずかに存命)
神託も伊勢神宮であるべき。
一度宇佐八幡の出た神託に更に確認の上に神託の再確認させる行為もないはず。

しかし道鏡の皇位略奪の意欲は感じていた。しかし皇位を渡すつもりはない。しかし道鏡に去られる又処罰も出来ない。
称徳天皇は道鏡の野望を認識し、脅威を感じていた。しかしそれを信じたくないという気持ちもある。
苦肉の策が道鏡にほどほどの権力を与えながら、片方で忠臣和気清麻呂を優遇しながらいざという時に切り札にしようとしていた。
任官や叙位は天皇、上皇のみに許される特権、これは道鏡が清麻呂を買収しようとした際、重要な官位を与えると言った事でもわかります。

清麻呂に道鏡の野心を阻んだまではよかったけれど、道鏡を追放させるまでは思っていなかったからこそ、清麻呂と反道鏡派へに怒り大だった。
みがってこのうえないですね。しかし空気を道鏡に与えたという意味でも彼女の罪は重い。

②道鏡首謀説
ほぼ黒
まず宇佐八幡の神託までは半信半疑だった。
ひょっとしてと思い始めたのは法王と定められた頃から、この神託で出来るかもと思い清麻呂買収にでた。
という事では限りなく黒
しかし称徳天皇崩御後、処刑されなかた事も考えると首謀者まではいかない。

③大宰府の弓削浄三と大宰主神習宜阿曾麻呂と宇佐八幡の一部首謀説

実行犯。
但し、証拠を残さない様に自ら実行犯とはわからない様に行った。
これも光仁天皇即位後、処刑されず左遷に留めたのが証明しています。
大宰府と言えば道鏡の弟弓削浄人が太宰帥として掌握している場所です。

この宇佐八幡は豊前国(大分)にあり、そう中臣習宜阿曾麻呂が以前守として就任していた地方です。
豊国国一宮で創建については諸説あり、始めがはっきりしない式内社です。
祀神は八幡大神(応神天皇)
   比売神←でも神殿の中央には姫神が?
   神功皇后
朝廷との結びつきは奈良時代から強く、広嗣の乱で大野東人が必勝祈願をし、又東大寺建立の際に神託がおりた神でもあります。
拝礼方法も二礼、四拍手、一礼と出雲大社と同じで大社ですが謎の多い神社です。

④藤原氏やらせ説

そんな恐ろしい賭けあの巧妙な策史がするばずはありません。
一度目で称徳天皇が譲位すると宣言してしまえば終わりです。

どうやら、まさに道鏡の勢力に乗っかって出世しようとした者に道鏡一派がのっかったのいう場当たり的な事件だったのではないのでしょうか?

称徳天皇の激昂は道鏡の怒りを和らげる為に行い、又道鏡を朝廷から追い出すという行為を神託ではなく、それを利用して道鏡を追い出す臣下に激昂しているのです。

そこまで道鏡を頼りにしていた彼女すごく孤独な感じしますね。

そしてこの事件を終結させます。
《神護景雲三年(七六九)十月乙未朔》○冬十月乙未朔。詔曰。

夫君位願求以得事甚難云言皆知在、先人謀乎遅奈、我能都与謀必得念種種願祷、猶諸聖・天神・地祇御霊不免給不授給物在、自然人申顕、己口以云、変身滅災蒙終罪己人同致。因茲天地恨君臣怨。猶心改直浄在、天地憎君捨不給福蒙身安。生官位賜昌、死善名遠世流伝。是故先賢人云在。体灰共地埋、名煙共天昇云。又云。過知必改。能得莫忘。然物口我浄云心穢天不覆地不載所成。此持称致、捨謗招。猶朕尊拝読誦奉最勝王経王法正論品命。若造善悪業、今於現在中、諸天共護持、示其善悪報。国人造悪業。王者不禁制。此非順正理。治擯当如法命在。是以汝等教導。今世世間栄福蒙忠浄名顕。後世人天勝楽受終仏成所念諸是事教給詔御命、衆諸聞食宣。復詔。此賜帯多麻波、汝等心等等能直朕教事不違束治表此帯賜詔御命、衆諸聞食宣。」其帯。皆以紫綾為之。長各八尺。其二端。以金泥書恕字。賜五位已上。其以才伎并貢献叙者。不在賜限。但藤原氏者。雖未成人。皆賜之。

称徳天皇は皇位を願う者に対して戒めを解いています。
さらに臣下にその忠誠心を確認させるため、布を結ぶ帯を下賜します。
しかも藤原氏には老いも若きも全員に、これは道鏡失脚影の首謀者は藤原氏にあると考えての事でしょう。

この詔は同時に皇位を願った道鏡の野心を打ち砕くものでした。称徳天皇は道鏡の機嫌を取るかの様に行幸を重ねます。

「ごめんね。天皇の位は渡せないけど、あんたの事はすっごく大事」という意思の表れ。

己酉。車駕幸飽浪宮

そして弓削氏の拠点河内に

辛亥。進幸由義宮

癸丑。以従四位下藤原朝臣雄田麻呂為河内守。左中弁・右兵衛督・内匠頭並如故
この人藤原百川、道鏡の拠点の守に就けたという事は称徳天皇は百川を道鏡肯定派と見ていたと考えられます。
ものすごい策師なんですがね。

甲子。詔以由義宮為西京。河内国為河内職。賜高年七十已上者物。免当国今年調。大県。若江二郡田租。安宿。志紀二郡田租之半。又当国犯死罪已下

由義宮を西京に決め、河内国から職へ格上げ河内国人へほどこしもします。すごい優遇です。

更に関係者を叙位

仍賜弓削御浄朝臣清人等。并供事国郡司・軍毅爵一級。
授正三位弓削御浄朝臣清人従二位。
従四位下藤原朝臣雄田麻呂従四位上。
従五位上弓削御浄朝臣広方。葛井連道依並正五位下。
弓削御浄朝臣秋麻呂。
弓削御浄朝臣塩麻呂並従五位上。
無位弓削御浄朝臣広津従五位下。
従五位上弓削御浄朝臣美努久売。

従四位上藤原朝臣雄田麻呂為河内大夫。

弓削氏総叙位です。無位の者まで・・・・


770年
二月丙辰
破却西大寺東塔心礎。其石大方一丈余。厚九尺。東大寺以東。飯盛山之石也。初以数千人引之。日去数歩。時復或鳴。於是。益人夫。九日乃至。即加削刻築基已畢。時巫覡之徒。動以石崇為言。於是。積柴焼之。灌以卅余斛酒。片片破却。棄於道路。後月余日。天皇不〓。卜之、破石為崇。即復拾置浄地

西大寺の東塔の心礎の石が祟っ天皇が病気になるという記述ですが、すでに称徳天皇の病いが出てきました。突然の発病ではなかったんです。

それでも行幸をやめません。

庚申。車駕行幸由義宮

辛卯。葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。をとめらに をとこたちそひ ふみならす にしのみやこは よろづよのみや其歌垣歌曰布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。ふちもせも きよくさやけし はかたがは ちとせをまちて すめるかはかも毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。時詔五位已上。内舍人及女孺。亦列其歌垣中。歌数〓訖。河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段。綿五百屯。

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行幸の宴に様子を再現(平城京東院東宮御殿跡)庭園にて)
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由義宮で饗宴が行われ、雄田麻呂が大和舞まで披露します。
ちょっと百川よいしょしすぎでは?

丁酉。詔造由義寺塔諸司人及雑工等九十五人。随労軽重。

戊戌。車駕至自由義宮

庚子。賜弓削氏男女物有差。

癸卯。従五位上弓削宿禰牛養等九人賜姓弓削朝臣。外従五位下弓削連耳高等卅八人宿禰

弓削氏が恩恵を受け続けた後、称徳天皇の病いは悪化してしまいます。


辛丑。初天皇、自幸由義宮之後。不予経月


称徳天皇の不調は明らかになります。

すると
天皇、自幸由義宮。便覚聖躬不予。於是。即還平城。自此積百余日。不親視事。群臣曾無得謁見者。典蔵従三位吉備朝臣由利。出入臥内。伝可奏事

病気をわずらいすぐに平城京に還ります。
その後はずっと病床にあって臣下の前には現れず、また人の出入りは典蔵吉備朝臣由利だけが行い、天皇の命令を伝言していました。

すなわち道鏡も謁見出来なかったと言う事です。

称徳天皇は自分が政治を行うには道鏡がいないといけない。
けれど死が身近に感じた時、決別の意思が決まった。

ずいぶんかってな女ですよね。


その日に永手に命じ
勅左大臣。摂知近衛事。外衛事。左右兵衛事。右大臣知中衛。左右衛士事

6近衛府の兵士を左右大臣に統括させて軍事権の管理と統括を徹底させます。道鏡と他王族の不穏な動きを封じます。

乙亥○乙亥。勅曰。朕荷負重任。履薄臨深。上不能先天奉時。下不能養民如子。常有慚徳。実無栄心。撤膳菲躬。日慎一日。禁殺之令立国。宥罪之典班朝。而猶疫気損生。変異驚物。永言疚懐。不知所措。唯有仏出世遺教応感。苦是必脱。災則能除。故仰彼覚風。払斯〓霧。謹於京内諸大小寺。始自今月十七日。七日之間。屈請緇徒。転読大般若経。因此。智恵之力忽壊邪嶺。慈悲之雲永覆普天。既往幽魂。通上下以証覚。来今顕識及尊卑而同栄。宜令普告天下。断辛肉酒。各於当国諸寺奉読。国司・国師共知。検校所読経巻。并僧尼数。附使奏上。其内外文武官属。亦同此制。称朕意焉。

飢饉と天変地異により疲弊した国民の為に読経を命じます。
まあ実益はない行為ではありますが、優しさが出てきてますね。

癸未。太政官奏。奉去六月一日勅。前後逆党縁坐人等。所司量其軽重奏聞者。臣曹司且勘。天平勝宝九歳逆党橘奈良麻呂等并縁坐惣四百〓三人。数内二百六十二人。罪軽応免。具注名簿。伏聴天裁。奉勅、依奏。但名簿雖編本貫。正身不得入京。

奈良麻呂の乱の残党と罪人に免罪や軽罪、京へ帰還させたりします。

八月 癸巳。天皇崩于西宮寝殿。春秋五十三。

遂に称徳天皇平城京の西宮で53歳の生涯を閉じます。


その後は?

①皇位は?

左大臣従一位藤原朝臣永手。
右大臣従二位吉備朝臣真備。
参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂。
参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂。
参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣。
近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等。定策禁中。立諱為皇太子。」

左大臣従一位藤原朝臣永手受遺宣曰。今詔。事卒爾有依、諸臣等議。白壁王諸王中年歯長。又先帝功在故、太子定、奏奏定給勅宣。」遣使固守三関。」

これは太政官の主要メンバーで極秘会議の上次期天皇の皇太子を決定します。
しかも永手が遺言書を訓読します。
え~~~~遺言書???

本当に遺言書があれば由利が持参したという記述があってしかるべし。なぜなら天皇の言葉を伝言し続けたのは由利だけ。
何故永手、何故真備でないのか?

これこそ遺言書はなかった証拠です。
さすがに太政官で天皇を決定したのでは次期天皇の皇位に傷がつきます。

白壁王は唯一の天智天皇系志貴親王の王子、しかも正妻は聖武天皇皇女井上内親王(元伊勢斎宮)、子女に正妻腹酒人女王(内親王・伊勢斎宮)、他戸親王、高野新笠腹に能登女王、山部王、早良王がおりすでに皇統に問題ありません。
しかもこの人とても慎重で思慮深い。

仲麻呂の乱の際には功績を挙げ大納言に昇進するも皇統の粛正が始まると「酒に溺れ皇位にまったく興味のない王族」を演じ続け、皇位を手にします。

しかも人望を高める事に終始気にかけます。

②道鏡はその後どうなったか?

庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。窃挟舐粳之心。為日久矣。陵土未乾。姦謀発覚。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野国薬師寺別当発遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿禰今毛人。弾正尹従四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。」
従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂為多〓嶋守

道鏡法師奉梓宮。便留廬於陵下

光仁天皇項では772年

四月○丁巳。下野国言。造薬師寺別当道鏡死。道鏡。俗姓弓削連。河内人也。略渉梵文。以禅行聞。由是入内道場列為禅師。宝字五年。従幸保良。時侍看病稍被寵幸。廃帝常以為言。与天皇不相中得。天皇乃還平城別宮而居焉。宝字八年大師恵美仲麻呂謀反伏誅。以道鏡為太政大臣禅師。居頃之。崇以法王。載以鸞輿。衣服飲食一擬供御。政之巨細莫不取決。其弟浄人。自布衣。八年中至従二位大納言。一門五位者男女十人。時大宰主神習宜阿曾麻呂詐称八幡神教。誑耀道鏡。道鏡信之。有覬覦神器之意。語在高野天皇紀。〓于宮車晏駕。猶以威福由己窃懐僥倖。御葬礼畢。奉守山陵。以先帝所寵。不忍致法。因為造下野国薬師寺別当。逓送之。死以庶人葬之

とあります。群馬で庶民として死去したんですね。


道鏡は称徳天皇の陵に留まっていた所を密告され捕まり、群馬の小さい薬師寺へ左遷された後失意のうちに没します。神託を悪用した阿曾麻呂も左遷させます。

ここうまいです。処刑しては称徳天皇の治世も否定してしまいます。
天武天皇系直系を否定する事は皇族で傍系の白壁王には出来ません。

壬子。是日。授従四位上坂上大忌寸苅田麻呂正四位下。以告道鏡法師姦計也

道鏡を密告した狩田麻呂を叙位します。

8月、、9月政策をどんどん道鏡前に戻します。

乙卯。河内職復為河内国。」以慈訓法師。慶俊法師復為少僧都。
乙丑。徴和気清麻呂。広中於備後・大隅。詣京師

しかも即位後年数をかけて清麻呂の叙位や任官を行ったり、不破内親王や和気王の復権をおこなったりします。

人事にもやはり慎重で新政権後、吉備真備が辞任を示唆するも右大臣としては留任させ、再度吉備が辞任を示唆するまでその忠誠心を高く評価します。

770年10月丙申。先是。去九月七日。右大臣従二位兼中衛大将勲二等吉備朝臣真備上啓。乞骸骨曰。側聞。力不任而強者則廃。心不逮而極者必〓。真備自観。信足為験

真備は高齢により右大臣辞任を表明します。
今度は天皇も認め、その後の真備の消息は不明ですが、政治に関わることなく静かに晩年を過ごしたと思われます。続日本紀に悪い記述がないのが証拠です。真備は奈良時代地方下級豪族の出身者ながら大臣にまで出世した逸材の人物です。

彼は白壁王の天皇擁立に難色を示し、臣籍降下していた文室浄三を推挙したという説があります。
この行動で否定まではなくても異論を唱えたとは考えられます。

こんなに公平な天皇でしたが、正妻井上内親王が光仁天皇の呪咀事件の際には妻を見限り子の他戸親王もろとも見殺しにするというのは最後頂けない行動でしたね。
この話しは後篇へ

吉備由利は?
称徳天皇崩御後も内裏で女官と仕えており、
774年月○壬寅。尚蔵従三位吉備朝臣由利薨
とあります。叙位官位もそのままです。真備同様天皇の忠臣だったんですね。

和気清麻呂ですが光仁天皇即位後、平城京へ戻された後時期を見て官位を戻され、美作備前国の国造りに願い出同地で善政を行います。彼が特に有名なのは平安京の遷都の造営大夫として尽力した人物という点です。桓武天皇に覚え高かったからでしょうね。
姉広虫も帰京後官位も戻り叙位もうけています。この方は孤児の養育を行い貧民にも厚く慈悲を行った人物です。


さて称徳天皇の最後は?

崩御の後、天皇崩御の後にならい、

以従三位文室真人大市。高麗朝臣福信。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。従四位下藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依。正五位下葛井連道依。石川朝臣垣守。従五位下太朝臣犬養。六位十一人。為御装束司。

従三位石川朝臣豊成。従五位上奈癸王。正四位下田中朝臣多太麻呂。従四位上佐伯宿禰今毛人。従四位下安倍朝臣毛人。従五位上安倍朝臣浄成。従五位下小野朝臣石根。六位已下八人。為作山陵司。従五位下石川朝臣豊人。外従五位下高松連笠麻呂。六位二人、為作路司。
外従五位下佐太忌寸味村。外従五位下秦忌寸真成。判官・主典各二人。宮内。大膳。大炊。造酒。筥陶。監物等司各一人。

為養役夫司。興左右京、四畿内。伊賀。近江。丹波。播磨。紀伊等国役夫六千三百人。以供山陵。

お葬式の準備と墓の建造が始まります。

丁酉。是日、自天皇崩於東西大寺誦経

称徳天皇の遺体が焼かれます。

乙巳。二七。於薬師寺誦経。
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丙午。葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵
この墓は佐紀古墳にある前方後円墳を宮内庁は指定います。
これはその時代に合った天皇陵が見あたらない苦肉の策と思います。
何故なら6300人を地方から動員したとはいえ、古墳製作しなくなって100年近く経過しています。
神祇に精通した神祇官がいたとはいえ技術がなくなった後年にあの様な巨大な古墳を造営する事が出来たのか?

はなはだ疑問です。しかも称徳天皇と古代の天皇の共通点なし、称徳天皇の目指したのは仏教国家としての日本大王時代を還る見る治世を理想とはしていませんでした。

では何故か?
佐紀には造営された陵に該当する墓がないのです。
しかも前方後円墳の造営には10年単位の造営期間は必要です。天皇の死から陵に埋葬するまで13日間絶対無理です。続日本紀には生前から陵の造営を行わせたという記述がないのも不思議です。
しかもこの古墳造営年代が大きく後退しています。

ここから2つの案が推理出来ます。

①称徳天皇の陵は実際には小さな墓で時代の変成とともに消滅した。
 明治時代の宮内省はしかたかくこの陵を指定した。
 
これは彼女の治世を早く終わらせたい。両親や一族の眠るなら山に葬るには罪を犯し過ぎたと藤原氏と光仁天皇は考えた。よって天皇の葬儀としては体裁を整えたにすぎない。

②すでにある前方後円墳の中に天皇を葬祭した。

これは平城天皇陵に指定されている前例もあるとされ考えられなくもないのですが、その人夫の数と日数を考えるとこれはあるかもしれない。

天皇は初病以前以降まで遺言というべき物は残していないと考えていい。しかも続日本紀にも生前から墳墓の造営を命じたものはない。なので巨大墳墓を準備する時間と人出はないとすると上記の案が打倒かもしれません。
病以降恩赦の命が多いにもかかわらず、そんな作業を庶民に課した(当時建築造営は一般庶民の義務でした。)とは考えにくい。


己未。四七。於大安寺設斎焉

丙寅。五七。於薬師寺設斎焉

癸酉。六七。於西大寺。設斎焉

辛巳。七七。於山階寺。設斎焉

壬午。停一年服期。天下従吉

国は1年の喪中に入り、新しい皇統の時代へと進みます。
さて最後になりましたが

①聖武天皇と光明皇后の娘として生まれながら、その影に隠れてしまっていた。
 
②藤原氏によって意図的に排除された。又当時は天皇陵といっても造営後は所在不明の墓も多くこれは平安以降も続きます。墓の重要性がとわれるのはもっと後世になります。

③この時、天皇に近い親族は0、今まで上皇、天皇、皇太子、皇后といった親族が恩赦や読経を行っていました。
 なのでそれがないのは当然。しかし理由は違いますが本人は恩赦や読経、神社に奉納もしています。
 形式上行わせています。一部臣下も個人的に寺へ寄進、読経、経を奉納しています。

なんだか哀れで孤独な日本一の名家のお嬢様~~~


追記:天平祭で行われた「天平行列」は11時から朱雀門から大極殿をゆっくり歩き、12時に大極殿に到着し、遷都の詔の宣言を再現しました。終了は13時でした。



では後篇へ




猿澤の池は、采女の身投げたるをきこしめて、行幸などありけむいみじうめでたけれ。

訳:(むかし)天皇の寵愛を受けてたなぁ~采女さんはその寵が失った事を嘆き悲しんでなぁ~投身自殺しはった       猿沢の池(いにしえの奈良の都にある池)に~
       (その話を聞きはった)天皇さんがなぁ御出掛しはるから素晴らしいやん~~~

今日は奈良町と開催中の「正倉院展」に奈良へ散策です。

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まずは近鉄奈良駅で徒歩「猿沢の池」へ。
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ここからの興福寺の五重の塔の眺めはさすが奈良八景です。
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昔天皇の寵愛が薄れた采女(地方の豪族の娘が宮中に仕えた女官の地位・主に食事の配膳を担当する女官)が悲しみのあまり投身自殺したという伝説が残る事で有名です。もちろん史実ではないようであくまで伝説ですが、この池は天平二十一年といいますから設定としては749年から794年まで聖武天皇、敦仁天皇、光仁天皇、桓武天皇のいずれかが候補に挙がりますかね。

脇には入水する際に衣を柳に掛けた衣掛けの木があります。


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池の横には投身自殺したといわれる采女を祀る采女神社があり、この神社の本殿の正面は池と向かい合わない様に反対側に建てられています。采女への配慮だそうです。
その昔旅の僧が奈良春日明神に参拝した折、一人の里女が来てはこの神社の由来を語り僧をこの猿沢の池に誘いました。女はそこで自分はその采女の幽霊だと言い池に入っていきます。僧は哀れに思って経を読んでやると再び采女が現れ成仏し歌舞を奉じて池に戻ったという大和物語に由来します。
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ここでお弁当タイム

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金木犀
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途中の興福寺の五重塔
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メインイベント「正倉院展」へ!!!!!
今年は瑠璃高杯が出品されると知り奈良国立博物館を訪問します。
正倉院は始め聖武天皇の崩御後七七忌の際に光明皇后が東大寺に遺愛の品を奉納した品や大仏開眼の際に使用した品、又平安中期に東大寺が所有していた別の倉の品を納めた東大寺所有の校倉造の蒼庫です。鼠が入らない様な構造になっていて1400年近く保存が可能なまさに奈良時代のタイムカプセルです。
当初は東大寺の所有でしたが、現在は宮内庁が管理しています。

普段は未公開ですが、秋の虫干しの際に開けられその期間奈良国立博物館で展示され、合わせて正倉院も公開されます。但し今回は修復工事の為に非公開でした。残念です!!!
天平時代は異文化の交流が最も盛んだった時代、唐を経由してペルシャやインドなどの文化の影響を受けました。
なので毎年の正倉院展では文化交流の足跡を感じることが出来ます。


今回のメインの数々は北倉聖武天皇の縁の品が展示されます。

①瑠璃高杯
平成6年以来18年ぶりの出陳となる瑠璃坏コバルトブルーのうっとりするような輝きにワイングラスを思わせる器形が特徴です。シルクロードの果てにある遠い異国を想い起こさせる一品でも意外と小さいグラスです。

②螺鈿紫檀琵琶
螺鈿の模様がほどこされた琵琶は聖武天皇遺愛の品
紫檀で作られた琵琶、螺鈿で花、雲、人面鳥などの細工が施されています。
この琵琶を聖武天皇が奏でていたと想像すると素敵

③木画紫檀双六局
奈良時代の双六の台これも聖武天皇遺愛の品
これで双六して遊んではったんやな~

④銅薫炉
細工の鮮やかな香炉

⑤密陀彩絵箱
黒漆塗りの木箱。白とだいだい色の顔料で鳳凰、唐草、雲など細やかな細工の献物箱です。香木の収納箱だそうです。

⑥銀平脱八稜形鏡箱
八つの花弁形の鏡箱。動物の皮を漆で塗り固めた素材にクジャクや花の模様が細工された箱。

⑦赤地鴛鴦唐草文錦大幡脚端飾
聖武天皇の一周忌法要で使われたのぼりのとめ飾り、中央の鴛鴦の文様が聖武天皇と光明皇后のようですね。

聖武天皇は文武天皇と藤原不比等の娘宮子との子供、光明皇后は藤原不比等と橘三千代の子供つまり二人は伯母と甥の関係でも年は同い年です。幼い頃からまじかに感じていたでしょう。三千代は聖武天皇の乳母でしたので。性格はずいぶん正反対でしたが、お互い強く仏教を信仰しておられ仲は良かったようです。
正倉院にはその思いが沢山残っています。
光明皇后は聖武天皇崩御後、遺愛の品を奉納するに至る経緯を天皇の思いでとなる品を手元に置くにはあまりに悲しいので縁の東大寺に贈る」と記載させ目録まで作らせます。

まあでも聖武天皇には他に四人の夫人がいわしましたけれど。

奈良時代は唐からの影響を受けて天平文化と称される華麗な時代でもありますが、実は疫病や天変地異が原因で飢饉が続き混乱していました。
その混乱を聖武天皇、光明皇后は仏教という宗教を通じて人民をまとめ天下泰平を実現しようとしていました。

さて二人が仏教にすがり国家安泰を願う思いはそう簡単には実現しません。
娘孝謙天皇(称徳天皇)は同じ様に仏教に傾倒しますが、橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱、淳仁天皇の廃位、従道鏡を寵愛しはては天皇に即位させようと画策しようとした矢先に崩御します。
その後藤原永手、百川らが強引に白壁王を即位させ光仁天皇の即位します。
不思議な事に聖武天皇光明皇后の陵それ以前の元明、元正天皇陵は確定されていますが、娘で女性で最後の権力を持った孝謙天皇(称徳天皇)高野陵は宮内庁が指定している陵では年代に問題があると研究者はいいます。
そう当時の埋葬方法が円墳(または八角墳)のはずが前方後円墳なのです。
思うにあまりの道鏡寵愛が過ぎた彼女を藤原氏の一族は快く思っていなかった。
「ようやく自分たちの朝廷が復活出来る」安堵と彼女への無関心もちくは無視
及び光仁天皇は彼女の直接の縁者ではない事で新天皇も前天皇への関心も薄い
よって埋葬もいいかげんだったのではないでしょうか?なにせ病いの際の処置も???だったようなので。
なんか寂しい生涯ですね。両親超有名なのに~~~
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出口にある日本庭園

観光の情報は【こちら】


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そこから奈良町に向かいます。奈良町は古い町屋が残る地区でいにしえの庶民の生活を感じる事が出来ます。
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奈良町にある今西家書院を訪れます。
興福寺大乗院家の坊官を努められた福智院氏の居宅(元大乗寺の建物とも伝承)を大正十三年に今西家が譲り受け、室町中期の書院造りの最も古い遺構を残しているといわれるものの江戸、昭和に大規模改修が行われ、現在は重要文化財酒造メーカー春鹿が所有されている邸宅です。
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正面玄関

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土間
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書院
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書院から見える庭園
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書院の外側、この感じは平安時代の寝殿造りの名残!室町時代の建築物ってなるほど!です。

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入母屋造軒唐破風

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庭に出てみる

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ツワブキ
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ほととぎす
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秋明菊

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村田珠光好みの茶室
天井には龍の文字
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煤竹の間


観光の情報は【こちら】

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隣の春鹿酒造
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利き酒これが一番好き!!!ワインみたいなフル―ティーで軽い味、女性が好きそう!
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奈良町散策続行です。
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奈良町格子の家は伝統的な奈良町家を無料で見学出来ます。
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土間ひろ~いおくどさんが~~~

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みせの間
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みせの間から中の間
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箱階段で二階へ
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素敵な大和町家やっぱいいですね日本建築

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街角に咲く花

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庚申堂さん
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街角の花
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観光の情報は【こちら】

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帰宅の前に西大寺で「ガトードポア」さんで洋菓子GET
奈良では大人気のケーキ店です。

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焼き菓子

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アンブロワジ―
91年「クープ・ド・モンド・パティスリー」日本人初のグランプリ受賞

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モンブラン


お店の情報は【こちら】


では帰宅の途へ

舞少納言斑鳩の地に現るの巻

今回は春の「奈良版京草子」の続編で、斑鳩の里を訪れます。
斑鳩といえば聖徳太子、そういえば旅行に行って必ずといって出あうのは聖徳太子、行基、弘坊大師の三人のお話
や縁の地である事が多いです。
聖徳太子は飛鳥時代の王族、行基は奈良時代地方を廻りお布施を集め大仏建立に貢献した僧、弘坊大師は平安時代の僧空海で真言宗の宗祖です。

前回は「鎌足」を主人公にいろいろ草子しましたが、今回は「山背大兄王と長屋王」を主人公にこの法隆寺の謎にせまって妄想してみたいと思います。

御題:聖徳太子が法隆寺を建てたんじゃな~~~い!!!

注釈:①「隠された十字架」法隆寺論 梅原猛氏著を支持しながら若干の異論も交え展開します。
   ②聖徳太子と記載せず廐戸王子として記載し、あくまでも斑鳩寺、宮創建者いう立場で展開させ、山背大兄王の父として脇役として登場させます。
   ③時代背景、人物関係等も合わせて記載し、出来る範囲で資料も現文使用を心がけます。
   ④天皇、大王、皇子皇女、王子王女の記載の違いは天武期以降を皇と以前を王に区別して記載します。
    又蝦夷、入鹿といった後世の名を使用せず、当時使用されたと思われる呼び名で記載します。
⑤紹介する建物、及び宝物は創建当時、及び宝物する国宝美術品に限定する。

学生時代に行ったきり、縁遠く二十年ぶりの斑鳩はどう変わっているでしょうか?
今回は夢殿「救世観音立像」の特別拝観に合わせての訪問です。

JR法隆寺駅前から全然関係ないですが、いきなりお菓子屋に目を奪われて入店しました。
奈良祥楽さんです。和菓子、洋菓子を扱われているとの事です。
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大和茶のバームクーヘンと大仏まんじゅう購入しました。

お店の情報は【こちら】

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バスで1キロ弱国道25線を左折して右手に法隆寺参道が真っすぐ延びているのが見えてきます。
法隆寺のiセンターで情報をGETしてからまずはレンタサイクルを借りてグル~~と周辺を散策していきます。
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藤ノ木古墳斑鳩にある古墳の中でも注目度NO1の古墳です。
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埋葬者は特定されていないものの、2体の遺骨、埋葬品などいまだ誰が埋葬されているのかわからない墳墓です。
法隆寺では10月3日に崇峻天皇と山背大兄王子忌日を藤ノ木古墳に参拝する行事があります。
法隆寺は厩戸王子の縁のお寺、その寺が藤ノ木古墳の埋葬者が崇峻天皇と山背大兄王子と考えている為なのでしょうか?藤ノ木古墳が厩戸王子の縁の地斑鳩にあるというのは偶然でしょうか?
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石室内部はガラス越しに見えます。
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近くに咲くコスモスはまだ見頃

藤ノ木古墳
昔より「ミササギ」と周辺では言われていた古墳です。未盗掘で近年発掘された珍しい古墳その規模と造営年から崇峻天皇墓との見解が有力と言われています。
不思議なのは一つの石棺に二体の男子の遺骨があった事、その規模のわりに内部が雑な事、しかもここは崇峻天皇の甥の厩戸王子のコロニー内である事を考えてもかなり高い確率で御陵ではないでしょうか?
厩戸王子の母間人皇后(穴穂部皇女)は崇峻天皇と穴穂部皇子(間人皇后とはどうやら双子の可能性あり)の同母妹です。穴穂部皇子は物部氏と関わりが深く当時蘇我氏と対立的な立場を取っていました。しかも皇位を狙っていたので馬子は何度となく皇子に忠告しますが、これを拒否したため馬子の部下に殺害されてしまいます。
厩戸王子は母の嘆きの為に斑鳩の地にその埋葬を行い、次にやはり馬子の部下に暗殺された崇峻天皇を埋葬したのではないでしょうか?
ちなみに11月3日には法隆寺では崇峻天皇と山背大兄王子の忌日として藤ノ木古墳を参拝するそうです。
法隆寺では藤の木古墳をやま背大兄王子の墓と考えているのでしょうか?

西里と呼ばれる旧市街地の道を通過します。法隆寺の大工や職人さん達が暮らしたエリアだそうで古い町並みを今に残しています。
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菊が綺麗に咲いています。

その後法輪寺(別名三井寺)と法起寺を訪ねます。
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法輪寺は厩戸王子が崩御した後、山背大兄王が供養の為に建立したという説と斑鳩寺火災の後百済の僧達により建立された説がある寺院ですが、創建以来の建築物は残っていません。三重塔も戦前落雷にあい消失してしまいました。今の三重塔は昭和50年に再建されたものです。
現在は薬師如来坐像、虚空蔵菩薩像という伝飛鳥時代の仏像を所有しています。が、この2体法隆寺の物にくりそつ、出来は法隆寺に及びませんが。本堂は焼けたのに何故仏像は飛鳥時代といいきれるのでしょうか?僧が火災の際に持ち出した???発掘調査によるとこの寺院の全体図は法隆寺の三分二の縮小版との事、法起寺建立グループとは別に再建法隆寺を計画した僧の中で創建に際し、意見が分かれたグループによって創建されたのではないでしょうか?よって法隆寺伽藍と同じ且つ規模も縮小版、所有する薬師如来像も法隆寺のそれに似ています。すくなくても金堂完成前後に分かれたのではないでしょうか?

ちなみに寺院の地下層には飛鳥時代のなんだかの建物跡が確認出来ているそうです。厩戸王子縁の地には違いないでしょう。厩戸王子の妃の一人膳妃が住んだ邸があったとも伝承されているそうです。IMG_8957.jpg
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寺のすぐわきで咲いていたサザンカの花。
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ススキの穂がたなびいて風流な光景でした。

法輪寺の情報は【こちら】

さらに法起寺に向かいます。
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その縁起は厩戸王子が法華経を講説した岡本宮を厩戸王子の遺言で山背大兄王が建立したという説、六三八年に僧が厩戸王子の為に建立し奈良時代に完成した寺という説があります。
ほぼ法隆寺の三分の二の構造をした建築物で、おそらく法隆寺の建立後に携わった技術者達による物と建築推測されています。
またその下層にはさらに後世の建物跡があり、ここになんだかの宮があったのはほぼ間違いないと言われています。
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境内のさざんかの大木です。
ちなみに厩戸王子の妃で山背大兄王の生母蘇我馬子の娘刀自古郎女の邸跡とも伝承されています。でも普通は通い婚です何故に馬子の邸は明日香です。なんで娘が斑鳩に?馬子と厩戸王子は
仲たがいしていたというのでしょうか?

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法隆寺の五重塔にくりそつ、いや同じといっていい・・・。
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現存する三重塔は最古の物もの法隆寺近郊世界遺産に指定されています。
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まだまだ見頃のコスモスです。

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ランチは柿の葉すし!!!

法起寺の情報は【こちら】


斑鳩はまさに厩戸王子、山背大兄王の鎮護の地という感想です。

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さあでは法隆寺向かいます。道の突き当りが法隆寺南門。

中門には左右に日本一古い阿吽の仁王像がたっています。奈良時代和銅4年の作といいます。門前にあるため風や雨が直撃しますので、傷みがひどく何度も修復されているそうです。
すぐに境内に入らずに手前、右折して若草伽藍跡付近を散策します。

第一章「斑鳩寺創建と山背大兄王子の悲劇」

法隆寺(元斑鳩寺)が初めて歴史に登場するのは推古十四年秋七月です。
因以納二于斑鳩寺一。

厩戸王子(皇太子)が岡本宮(今の法起寺)で法華経の講義をした功積に額田部大王は播磨国の領地を与えました。厩戸王子はその経典を縁の斑鳩寺に納めました。
という程度の記述ですが、斑鳩寺の建立、完成についてはまったくふれていません。

昭和14年以前斑鳩に現在建つ法隆寺が厩戸王子の建立した斑鳩寺であるというのが定説でした。

しかし昭和14年遺跡調査で普門院や実相院の庭付近辺りの北西20度傾斜に四天王寺式伽藍の遺構が発掘され、また平成16年に西南隅から平安時代に瓦礫を撤去し埋め立てた溝から焼けた瓦、壁画多数発見され、斑鳩寺が火災で消失し、その遺構から飛鳥時代の百済式唐草文様の瓦や九弁蓮華文軒丸瓦が発見され旧斑鳩寺の存在が世に知られました。
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厩戸王子の建立伝承の残る寺院調査では四天王寺式伽藍が採用されており、好きな様式だったんでしょうか?
様式は南北に南から南大門、中門、塔、金堂、講堂、そして中門から講堂までを左右に廻廊で囲うもので四天王寺が始まりだといわれます。そしてこの伽藍様式に建てられた寺院はほぼ厩戸王子の縁の寺院なのです。

ここは後世法隆寺仏花栽培園だった場所にちなみ通称若草伽藍と呼ばれています。
当初発掘調査前は塔礎石だけが古くから露出していたそうで、この石も明治に北畠男爵家庭石に、後に兵庫県住吉区久原邸へ渡り、昭和14年以降元の地に戻されたというこの悲劇の寺院に相応しい逸話があります。
その場所は丁度子院の庭にあたるので公開されていませんので写真はありません。残念です。
元斑鳩寺に纏わるお話でかかせないのが、蘇我(林太郎鞍造)入鹿による「山背大兄王一族襲撃殺害事件」です。

日本書紀、藤氏家伝、聖徳太子伝、聖徳太子伝補闕記を元にまずは斑鳩寺で起こった惨事を紹介してゆきます。
*全て後世記録された伝記で真実性は多少疑問が残るものの資料が少ないのでしかたがないですね。

日本書紀

於是山背大兄王子等自レ山還入二斑鳩寺一。軍將等即以レ兵圍レ寺。
於是山背大兄王、使二三輪文屋君一謂二軍將等一曰、吾起レ兵伐二入鹿一者、其勝定之。然由二一身之故一、不レ欲レ殘二百姓一。是以吾之一身、賜二於入鹿一、終興二子弟妃妾一。一時自緇俱死也。于時五色幡蓋等、種々伎樂二灼空於一、臨二乗於寺一。衆人仰觀稱嘆、照變為、黒雲一。由レ是入鹿不レ能レ得レ見。蘇我大臣蝦夷、聞三山背大兄王子等被レ亡二於入鹿一、
而嗔曰、口意入鹿、極甚愚癡、専行暴悪、儞之身命、不レ亦殆一乎。
山背大兄王子等憁被不レ亡レ於入鹿一而嗔曰、口意。

聖徳太子伝補闕記
山代大兄王子率諸王子 出自山中 入斑鳩寺塔内 立大誓願曰 吾暗三明之智 未識因果之理 然以佛言推之 吾等宿業于今可賽 吾捨五濁之身 施八逆之臣 願魂遊蒼旻之上 陰入淨土之蓮(中略)賊臣滅太子子孫 後乃告於大臣 大臣大驚曰 聖太子子孫無罪 奴等専輙奉除 我族滅亡其期非遠 未幾大臣合門被誅 亦如其言 可何奇

聖徳太子伝
大兄王謂左右曰 我以一身 豈煩万民乎 不欲使言後丗之人由吾故而喪父子兄弟 還斑鳩宮 遂與子弟等 自絞而死(中略)大臣聞入鹿弑大兄王等 歎曰 我亡不久(中略)
父大臣 大臣大驚 拍手曰 聖太子子孫無罪 奴等專輙奉除 我族滅門 其期非遠者 後年合門被誅 亦如其言一何可奇

概ね三書とも634年林太郎鞍造(入鹿)は山背大兄王を亡きものにしようと斑鳩宮に家来の軍を送り襲撃しようとするも、気付いた山背大兄王一族は家来と共に生き延び生駒山で潜んでいました。家来が「深草に行き東国の乳部の民と共に戦えば勝てます。」と進言するのを王子は襲撃犯と戦うことより民衆を巻き添えに出来ないと言い、隠れていた生駒山から斑鳩寺に戻り、斑鳩寺で一族共々自害した。(補闕記では五重塔で火をつけて亡くなったと伝えます。)豊浦大臣は息子の行為をひどく怒り自分達の運命も滅亡するだろうと嘆きました。

但しどうやら斑鳩寺は中大兄王子即位後にも存在していたらしく、後年落雷により一屋も残らず消失しました。
詳しくは後項で!


【余談1】

何故信憑性にとぼしいのか?聖徳太子伝はもちろん厩戸王子がどんなに聖人だったかをPRした伝記ですから過剰聖人を物語る書でしょうし、補闕記は比較的信用しても良いと印象に残る書ですが、出所がはっきりしません。特に国家の正記たる日本書紀の完成は養老4年元正天皇(草壁皇子と元明天皇の長女)期。
藤原不比等(鎌足の二男)、舎人親王(天武天皇皇子)が編集に大きく関わったと言われていますから当然都合の悪い事は記述しませんし、都合の良い事は大きく記述しています。もちろん嘘もまじえて。

しかし各書が語るのは養老以前に厩戸王子を賛美する傾向がすでに国家の手で完成していたと見てよいでしょう。
何故かは飛鳥時代の歴史を知る人なら誰でも知っているように、仏教は朝鮮半島から百済、高句麗、新羅を通じて蘇我馬子が率先し、国教化(もちろん八百万の神も同等に信仰対象でしたが)へと導いた歴史があります。つまり蘇我=仏教のイメージが強い為、国家事業としての仏教推進するには馬子以外にそれにかわる人物の存在が必要になります。
また蘇我宗家を滅亡させた張本人に軽大王、巨勢徳太、中臣鎌子もいたとすると蘇我馬子、蝦夷、入鹿の怨霊封じもしないといけません。しかし直接蘇我氏を祀るなどできるはずもなく、間接的にその血筋の王族を信仰しなくては呪われてしまいます。

その人物こそ磐余池辺雙槻(用明)大王と穴穂部間人王女の長男厩戸王子だった。

その聖人の息子であり、上宮王家の長である山背大兄王の死はその聖人の思想を忠実に守り抜いた立派な人物でなくてはならない。その願望と意思が大きく感じられる違和感のある記述だと思います。
ただしただしがつきます。それは後半のお楽しみ!ひと休み~~


第二章「東伽藍と光明皇后(山背大兄王と長屋王の悲劇)」

【夢殿は聖徳太子の姿に変えた長屋王の墓である】

そんな飛鳥の残照を感じながら南門から先に建立がはっきりしている今本尊特別公開中の東院伽藍の通称「夢殿」に向かいます。
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東院の南門、通称開かずの門
門なのに封印する様に古くから閉められていたそうです。しかも夢殿を囲う様に回廊が封鎖しています???
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東院の入り口、層用の門だった所です。
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夢殿
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伝法堂

夢殿は現在八仏堂(夢殿)、伝法堂(聖武天皇橘夫人邸宅)、絵殿、舎利殿、仏殿、鐘楼がその構成です。

創建当初は八仏堂(夢殿)と回廊、南大門が、しばらくして伝法堂(聖武天皇橘夫人邸宅)、他に2棟建物で構成されていました。

厩戸王子の邸宅跡地に奈良時代739年に律師に任じられた僧の行信が荒れ果てた斑鳩宮跡を憂い、阿倍女皇太子と房前に願い出て建立された寺院「上宮王院」が始まりと東院伽藍縁起は語ります。

但し続日本記にはその記述はありません。
しかもその年には房前は死亡しているので、信用性は?なんですが、行信が創建したのは間違いな事実です。

続日本紀から

(天平十年閏七月)行信法師為、二律師一。

この僧は義淵の弟子で遣唐使の一団に参加し唐で仏教を学んだ後帰国、日本に仏教経典を持ち帰り、普及活動し僧の3番目に高い律師になったのです。
(後に筑紫の観世音寺に左遷された薬師寺の同名の僧と同じ人物かどうか?)

この行信は聖人の居住跡「斑鳩宮跡」の荒廃ぶりを嘆き、その時すでに建立されていた西院伽藍とは別に法隆寺東伽藍の建立皇室に進言し、天平11年(739年)4月10日「上宮王院」を完成させたと伝えられています。

これも不思議なのですが、上宮王院の発願、着工にいたっては年も不明ではっきりわかっていません。
つまり行信がその為に律師に抜擢されたのか、律師になったので念願の上宮王院を建設したのかどちらか不明なのです。

ただ天平八年(736年)二月廿十二日に法隆寺で厩戸王子の太子忌日を行信が法華経講会を開催させ、光明皇后も多くの仏具品を施入しました。
それを翌年に施入を上宮王院に変更しているので、その年にすでに建築の提案は受け入れられていたと解釈して、太子信仰の功により律師になり、さらに新たな建築物の建立に乗り出したといっていいでしょう。

今日でも会社の実績はなくても設立前に名称だけ先に届け実際の経営はその後という事は良く有る事です。
では行信は自身の功積を高めるという野心があり、偉業をなしとげようと東院伽藍建立を願ったのはわかります。では何故それに光明皇后は貢献したのでしょうか?

奈良天平聖武天皇時代は華やかな仏教文化の時代とは相対して非常に天災や疫病に悩まされた飢餓の時代でもあり
ありました。シルクロードの終着点であった倭国がほぼ初めて公に他国との交流を深めた結果、多くの人々の渡倭は多くの伝染病もはやらせる事にもなりました。免疫の少ない日本人には致命的だったでしょう。
特に天平九年(737年)の疱瘡の大流行は多くの太政官が死亡し、国家存亡の危機におちいっていました。

(天平九年)是年春、疱瘡大発。初自二筑紫一来、経レ夏渉レ秋。
公卿以下天下百姓、相継没死、不レ可二勝計一。近代以来、未二之有一哉。
天平九年四月参議民部卿正三位藤原房前薨
大宰府の管内諸国、疱瘡流行。
大宅朝臣大国、小野朝臣老、長田王、多治比真人県守、大野王卒、
七月参議兵部卿従三位麻呂藤原朝臣麻呂薨。百済王郎虞卒、左大臣藤原武智麻呂薨
八月中宮大夫兼右兵衛率生四位下橘宿禰佐為卒。
八月参議式部卿兼大宰師正三位藤原朝臣宇合薨。 
更疱瘡筑紫流行。 

それでもなんとか朝廷人事を立て直し天平十年(738年)阿倍内親王(父聖武天皇、母光明皇后)が立太子し、政務は右大臣橘諸兄(橘三千代の前夫美努王の間の長子)左大臣不在、正三位知太政官事鈴鹿王(高市皇子の二男長屋王の弟)遣唐使から帰国した玄坊(前年に聖武天皇の生母藤原宮子の産後鬱病を治した当時僧正)、吉備真備(当時従五位上右衛士督)、が聖武天皇、光明皇后の寵臣として辛うじて政権を維持します。

しかし各地で疫病や気候不安で不安定な治世はおさまらず、彼らは特に唐の最先端の仏教や知識に傾倒し、仏教国家を確立する事で国家の平定を行おうとしていました。まさにそういう不安定な時期に行信により斑鳩宮跡に寺院建立が提案されたのです。

国家側の関与は誰だったのか?

候補①阿倍内親王 上宮王院(東院伽藍資材帳)資財帳は春宮と房前の後見との関わりを示唆していますが、当時女皇太子になったばかりか、なる直前、房前は完成前死亡している。
  ②聖武天皇  確かにかなりの仏教傾倒者。でも規模がその割に小さい。
  ③光明皇后  個人的に一番可能性の高い人物。仏教傾倒者であり、長屋王の犠牲の上に一氏族の娘が皇后になり前年に親族を相次いで亡くしたばかり。心中穏やかなはずはありません間違いない人物。東院伽藍に行信と共に多くの経典を奉納した記録が「東院資材帳」に記載があり行信、光明皇后がその建立に関わった事は確かです。

では何故でしょうか?なぜこの僧に皇后はそんなに聖徳太子信仰に傾倒したのでしょうか?

光明皇后、元は聖武天皇の夫人という地位でした。

これは彼女が時の権力者藤原不比等を父に県犬養三千代を母に持つ(美努王の元妻、文武天皇乳母にして、内命婦の高女官没後正一位橘大夫人)長女(元の名は安宿媛)とはいえ臣下の娘が皇后にはなれない慣例に従った人事でした。
彼女は一男一女をもうけながら、しばらくは夫人という地位にありました。

聖武天皇の後宮は異常な状態にありました。
妃に皇族出身者がおらず、夫人は光明子の他に県犬養広刀自(安積皇子、井上内親王、吉備内親王の母)、橘古那可智(三千代の孫)、藤原武智麻呂と房前のそれぞれ娘(それぞれ南夫人、北夫人と称された)のみ。
他の妃に皇子が出来るのを極力おさえたい藤原不比等の意向が色濃く出ているといっていいでしょう。

しばらくは夫人の地位にいましたが、藤原四兄弟はあらっぽい策を講じて皇后という地位を獲得させます。
いわゆる長屋王の変です。

長屋王は天武天皇の長男高市皇子(太政大臣)と中大兄王子の娘御名部皇女(元明天皇の同母姉)の長男しかも正室に吉備内親王(草壁皇太子と元明天皇の娘、元正太上天皇の妹)を持ち、藤原不比等(長屋王の舅でもあります。娘長我子は長屋王の妃)、四兄弟(特に房前・義理の兄弟)と左右を分ける実力の持ち主で、元明天皇崩御の際は枕元に長屋王と房前を呼び二人に元正天皇の政務を良く補佐する様に遺言を残すほどでした。
で>神亀年代には左大臣という要職にありました。
また正義感強く義と理を貫く人物だと言われていました。それは続日本記に起こった朝廷内の出来事でも十分わかります。

 (神亀元年三月)辛巳、左大臣正二位長屋王言伏見二二月四日勅一藤原夫人天下皆称二大夫人一者。臣等謹検二公式令一、云二皇太夫人一。欲レ依二勅号一。応レ皇字一。欲レ須二令文一、恐作二違勅一。不レ知レ所レ定。伏聴二進止一。詔曰、宜下文則皇太夫人、語則大御祖、追二収先勅一、頒中下後号上。

これは聖武天皇の正母宮子夫人の名が皇太夫人(法律で決められた身分)を贈られたのに、皆太夫人(天皇の命令で決められた身分)といって令と違っている。令(法律)と詔(天皇の命令)のどちらにも忠実でない改めるべきだと長屋王が進言した所、字は皇太夫人と書いて言葉を大御祖と言う事で修めた。という記述があります。

また神亀四年二月左大臣正二位長屋王勅でも
民の願望に背いた政治が行われているので正しく改めさせると宣言。諸司長官に役人達の勤務態度を査定し、管理させたりと今でいう能力制を取り入れた人物です。又三世一身の法も要職にあった際、取りきめられた法律です。三世代になって耕された土地は自分の物とする。って法律、学校で習いましたよね。

しかし皇親と藤原家の均等は不比等の死と神亀4年の光明子(安宿媛)腹の皇太子の死で大きく崩れます。

それは藤原四兄弟に激震をもたらしました。又他の北夫人南夫人とも懐妊しないので、皇位継承は長屋王が吉備内親王の夫という立場で親王を称され、その存在が大きくなったのです。(昭和旧デパートそごう奈良店の建築の際に長屋王邸跡が確認出来、長屋親王と記載された木簡が出土していた事で彼がただの王族でないことは確かでした。

又続日本記にはそれ以前霊亀元年丁丑、勅以三品吉備内親王男女皆入皇孫之例焉と記述が出てきます。(父方では4世、母方では三世)母が天皇の娘なので皇孫にするというのです。男子の皇位候補者は安積皇子と長屋王だけになってしまったのです。

唐突に続日本記は伝えます。
  天平元年二月辛未、左京人従七位下漆部造君足、無位中臣宮処連東人等告レ密称、左大臣正二位長屋王私学二左道一、欲レ傾二国家一。其夜、遣レ使固守二三関一。(中略)将二六衛兵一、囲二長屋王宅一。(舎人親王、新田部親王、参議以下)就二長屋王宅一、窮二問其罪一。○癸酉、令二王自尽一。其室二品吉備内親王、男従四位下膳王、無位桑田王、葛木王、鉤取王等、同亦自経。(中略)○甲戌、遣レ使葬二長屋王、吉備内親王屍於生馬山一(中略)長屋王者依レ犯伏レ諜。雖レ准二罪人一。莫レ醜二其葬一埃。

朝廷に長屋王が天皇の地位を狙って謀反を起こそうとしていると二人が朝廷に名のり、軍が差し向けられ邸は包囲されます。さらに親王(天武天皇皇子、長屋王の伯父達)と公卿がその罪状を問いに現れると、長屋王は正妻(吉備内親王)とその腹の王達だけと共に首つり自殺してしまいます。

その後が?その遺体を天武天皇の孫という理由で丁重に生駒山に葬り(ちなみにその墓は推定ですがなんと法隆寺と目と鼻の先平群の村にひっそりと残っています。これって偶然???その墓は違うという異説もありますが、生駒と斑鳩は地理的に近いです。)
と勅命を出し、吉備内親王は無罪、生き残った他の親族は無罪放免にせよ!という命令といい、(もちろん不比等の娘とその子供達は無罪放免)
ようはあきらかにでっちあげだったわけです。

その証拠に集まって密談する事を禁じた詔が出されたり、同年四月に異端、厭魅呪詛者は処罰の詔が出て、長屋王の近親者が異変を起こさない様に釘を刺した訳です。殺害出来ないなら呪って殺そうなんて気はおこしちゃだめっ!!!ってね。
しかも実弟の鈴鹿王は公卿が揃って死亡した後に三番目に高い地位につきます。

その後の不審度はさらに高まります。天平十年六月密告者の一人東人が事件に巻き込まれて死亡します。
長屋王と親しかった大伴子虫と密告者東人が碁を打ちながら遊んでいた際に、話が長屋王の事件に発展した。お互いを罵り合い、大伴子虫が刀で中臣宮処東人を殺害したが、子虫は罪には問われなかったんですね。これって???ですよね。

長屋王は元明・元正天皇治世では藤原氏の不比等や房前と並び公卿の勢力図を左右うまく均等を取るため天皇の娘吉備内親王を正妻に持ち政治の上でも優遇されていました。しかし聖武天皇治世では彼自身の存在が聖武天皇、藤原家一門に取り、邪魔な存在になってしまったのです。
他の皇族舎人親王や新田部親王(母は鎌足の娘、天武天皇夫人で後の不比等夫人藤原五重媛)も大友皇子、大津皇子の皇位の正統性や謀反事件に記憶のある者ばかり。自分の一族を犠牲にしてまで彼を救う事より藤原家についた方が善作と決めたのでしょう。

この時元正上皇の心中はどうだったのでしょうか?当時同腹腹の姉妹は同じ母方の家で養育されていたかどうか確証はないものの(乳母の氏族の家で養育された可能性もあるので)元正上皇と長屋王と共に自害した吉備内親王は同母姉妹です。妹の死に動揺する事はなかったのでしょうか?もちろんそんな事に日本書紀はふれません。
が、気になりますよね・・・・・。知りながらしれんふりしてしまった・・・そんな自責の念はなかったのでしょうか?

この事件後、とってつけたように年代を天平と改め、
(天平元年)○戌辰、詔立二正三位藤原夫人一為二皇后一。
舎人親王にその理由を詔までさてて言わせています。
長い間皇后不在で政務が滞り、皇太子母であった藤原夫人が適任。元正太上天皇に許可ともとれる天皇への詔をだします。聖武天皇は臣下の皇后は葛城氏の娘磐之媛命がいると、実在さえあやぶまれる皇后の名を出して長々と言い訳の続く立后宣言でした。

しかも天平以降、干害、台風、橘三千代(皇后母)の死、皇后の病い、大地震、日食、新田部親王、賀茂朝臣比売(皇后外祖母)、舎人親王達の死が、疱瘡流行が続き、太上天皇(元明天皇)の病い、疱瘡再び続く。
と災難続きです。

【余談2】
以前「正倉院展」で光明皇后直筆の「楽毅論」を見た事があります。筆にはその人の性格が出るとも言われ筆跡鑑定で性格をあてる事も出来るのだそうです。その書の筆跡は一糸乱れぬ几帳面さがありながら一字一字に力強さがあり、良く言えば豪快で強い信念の持ち主のように見え、悪くいえば信念の為には他をかえりみない傲慢さもあるように感じました。又、最後に藤三娘と記してあるように藤原家の娘である事を自負していたようです。不比等と三千代の強力な遺伝子のそのままを受け継いだ人物のように思います。
しかしさすがの光明皇后も近親者の死去で気弱になってきた所、病がちになっていたようです。

そんな皇后の元に行信の「太子信仰」東院伽藍の建立話しが持ち込まれれば皇后はそりゃそれに飛び付くでしょう。

その内容とはどんなものだったでしょうか?

実はこの夢殿の付近は以前斑鳩宮跡でした。正確には夢殿の北部部分、殿自体にはその遺構はかかっていません。わざとかけなかったのかそれとも偶然かは不明です。

斑鳩宮で起こった事件こそ光明皇后を恐怖に陥れる出来事の原因の再現そのままだったのです。
その事件とは?
本題から少し時代を遡りましょう日本書紀は語ります。

【余談3】

九年春二月、皇太子初興二宮室于斑鳩一。
(十三年)冬十月、皇太子居二斑鳩宮一
廿九年春二月己丑朔癸已、半夜廐戸豊聆耳皇子命、薧二于斑鳩宮一。

これは額田部大王治世時に厩戸王子が斑鳩に宮殿を造営した。次にそこに移住した。その後年、その宮殿で死亡したという程度の記載です。
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【余談4】

厩戸王子は王都飛鳥を離れてどうして斑鳩などという地に本拠を移したのでしょうか?
古くは伊何屢俄と呼ばれる地、西に竜田、生駒山を抜けて河内平野を抜けると難波津に出る竜田ルート古代の交通網の1つでした。物部本流を滅ぼした後、河内、渋川、志紀は渡来系文化圏内であり、外国(特に朝鮮半島)からのいち早い文化をもたらす位置にあり、又この地は妃の一人と言われる皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した膳氏の関係する地一族に伊何屢俄という名の人物が記述されています、又隣接する平群の軍事豪族の平群臣の関係する地でした。
この二族は物部氏との戦いの際に厩戸王子と親交が深まったと言われています。
厩戸王子がなんでそんな遠い土地に?斑鳩?と疑問が大きくなるのです。ただ単純に王族が新しい仏教文化をいち早く知りたい。政治と離れたい仏教という世界に専念したいと思えばそんなに疑問はなくなるのです。
しかしそれは同時に難波湾から飛鳥への道竜田ルートをおさえるという事は=外交ルートを手にいれる

これが山背大兄王子の悲劇に至る理由ともいえるのです。朝鮮半島の三国(百済・新羅・高句麗)、隋(唐)と通じる窓口が「飛鳥」と「斑鳩」という二重外交ともいえ、三国に倭の内政干渉を受けるすきがあったとも言えます。そうとう危険な場所であったのです。

飛鳥:額田部大王、田村大王、宝大王

斑鳩:厩戸王子、山背大兄王子

これに
百済
高句麗

新羅


しかし個人的に斑鳩の里のイメージは「死」がつきまとっている様に思います。

三人の連続した死母穴穂部大后、膳妃、厩戸王子、山背大兄王の自害、そして藤ノ木古墳(埋葬者は厩戸王子の二人の叔父(母の同腹兄弟)とも言われています。母思いの厩戸王子が側に墳墓を造営させたのでしょうか?、そして長屋王、吉備内親王の生駒陵、そんなに遠くない二上山にある大津皇子墓、付近のお寺も生前住んでいた邸を死後寺に改めた縁起がほとんどでなんだか~~~なんです。


厩戸王子の父は日本書紀では
崇峻九月甲寅朔戌牛、天皇即天皇位。宮二於言磐余一。名曰二池邊雙槻宮一。

そこは桜井市で明日香ではありません。
つまり父、池邊雙槻大王の宮も明日香を離れていたのです。
これは池邊雙槻宮大王自身も倉梯柴垣宮(泊瀬部)大王を馬子が暗殺する事件の為に偶然王位をついだに過ぎなかった。しかも病で即位後すぐに崩御し、その在位は非常に短いものでした。

なので皇太子となり厩戸王子が額田部大王と馬子と共に政治を行えたかは疑問です。
馬子はともかく額田部大王にとって自分の子供達が健在の際は政敵でもあったはずです。その相手をその子供達が死亡したからといってわだかまりがなくなったといえるでしょうか?
しかも当時皇太子という地位が確立されていたというには疑問も残ります。
更に摂政についたといわれるには20歳にもならない王族とはいえはなはだ疑問です。

飛鳥時代、田村大王(舒明)の父の押坂彦人大兄王子は水派宮王家という宮家を明日香離れた地で営んでいました。

その事を考えても厩戸王子が皇太子でも摂政でもなく普通の王族の一員だとすれば別段深くとらえる事ではないと思います。斑鳩寺、四天王寺、斑鳩宮を建築出来るほどの財力を父母から相続出来た裕福な王族だったと考えられます。

ただ厩戸王子と血筋の関係者の墳墓はほとんど明日香とはなんの関係もない河内の磯長にあります。訳語田幸玉大王(敏達)、額田部大王(推古)、池邊雙槻宮(用明)、小野妹子、もちろん厩戸王子、穴穂部大后(厩戸の母)、妻膳妃の三人合葬墓。しかも(聖徳太子)そこはなぜか、いや必然的聖武天皇開基伝と言われる叡福寺が墓守しているんです。

この一族は継体大王と大和朝廷の大王の直系王女との血族です。田村大王は継体大王と最初の妻との間できた血族です。血統はやはり大和朝廷直系血族が優勢でしょう。
ここがそもそもの大王即位争いの出発点でしょう。

この墳墓は後世に改葬された物のようです。(個人的には藤原不比等政権下と思えてなりません。)何故か軽大王(孝徳)も?まあ戦前宮内庁が書紀を元に定めたものなので、信憑性は?ですが・・・話しを戻し、更に時代をさかのぼらせます。

話し戻し
厩戸王子死後、額田部大王が病に臥せ、もはや崩御も時間の問題という時期に次の大王候補と目されていた二人の王族を枕元に呼びます。

則召二田村皇子一謂之曰、昇二天位一而經二綸鴻基 不レ可二輜言一、馭二萬機一以亭二育黎元一、本非二輙言一。恆之所レ重。故汝愼以察之。
即日、召二山背大兄一教之曰、汝。肝稚之。若雖二心望一、而匆二諠言一。必侍二群臣言以宜レ従

これは堅く身を慎むようにと言った程度の内容で王位継承者のどちらに即位させるか明言していません。
受け取りようで、両方ともに王位を与えたいと受け取れるのです。

額田部大王が崩御すると、豊浦大臣(馬子の息子蝦夷)は王位について悩みます。

嗣位未レ定。當二是時一蘇我蝦夷臣為二大臣一。獨欲レ定二嗣位一。顧畏二、群臣不レ従。則興二阿部麻呂臣議、而聚二群臣一、饗二於大臣家一
中略 今誰為二天皇一。時群臣嘿之。中略 於是大伴鯨連進曰、既従二天皇遺命一耳。更不レ可レ侍二群言一。阿部臣則問曰、何謂也。中略 詔二田村皇子一、曰三天下大任也 中略
皇位既定。誰人異言。時采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連禰気、難波吉士身刺、四臣曰く、隨二大伴連言一更無レ異。許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、三人進曰、山背大兄王、是宣レ為二天皇一。唯蘇我倉麻呂臣獨曰、臣也當時、不レ得二便言一。更思之後啓。
中略 先、是大臣獨問二境部摩理勢臣一曰、今天皇崩無レ嗣。誰為二天皇一。
對曰、擧二山背大兄一為二天皇一。

まず自分(豊浦大臣)には決まった大王がいるが皆が従わないと困る。どうしたらよいかまず阿倍麻呂(これは後の軽王の側近で阿倍内麻呂)に相談します。阿倍麻呂は蘇我大臣家で夕食会を開きその後に誰が適任者かと問うよう進言います。
ここで

大伴臣、鯨采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連禰気、難波吉士身刺は田村王子派
許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、境部摩理勢臣は山背派

蘇我倉麻呂臣は保留
5対4で全員一致はしませんでした。

これって?不思議
①当時の大臣の地位にいた蘇我宗家がどうして豪族の意見を聞いて同意を求めようとするのか?
②阿倍麻呂は誰を押したか書いていません。そしてなにより、
③豊浦大臣と阿倍麻呂の二人の話も書いていません。

ここで読み取れるのは
①当時大王の選出は先大王の意思や指名でなく豪族の意見から選出される多数決によるものといえるでしょう。
 だから額田部大王が次期大王の名を告げないのは当然といえるのです。
②豊浦大臣は当時豪族の中で大きな権力を保持していないか、もしくはあっても保持しなかった。
嶋大臣から直系相続という当時珍しい継承を手にした豊浦大臣には後ろめたさの様な物があったのかもしれない。
③阿倍麻呂の沈黙と蘇我倉麻呂の保留の不気味さです。
すでに阿倍麻呂は軽王という御旗を手にしていたが、感ずかれたくないのであまり王位について積極的だと見られないように装っていた。蘇我倉麻呂は豊浦大臣と阿倍麻呂の様子を覗っていたように思えます。

これは推測ですが、当時の豊浦大臣はなにかと引き合いに王位の選択を譲ったのではないでしょうか?
それは林太郎鞍造(入鹿)の本家相続と引き換えに阿倍麻呂の押す田村王子を即位させるつもりなのでは?
豊浦大臣は馬子から宗家を相続出来ましたが、それは当時の馬子の絶対権力と大王の信任によるものです。
兄弟相続があたりまえの時代、親子相続を二代に続けるには相続が難しいと考え、阿倍麻呂の密談に応じたのではないでしょうか?又山背大兄王が叔父と呼んでいる所、豊浦大臣の妹が厩戸王子の妻であるのは事実のようです。(但し日本書記は厩戸王子が山背大兄王の父親だとは明確に記述していません。
これには巧妙なトリックが隠されているのです
。)
田村王子にも妹を嫁がせて古人王子も誕生していたら、そしてすでに山背大兄王の母である妹はすでに死去し、居住エリアも圧倒的に斑鳩と明日香では距離があり、親近感も薄かったのではないでしょうか?
要は今の大王というより、次の大王の即位を願ったとの取れるのです。そして、阿倍麻呂としては田村王子が即位したほうが、その后宝媛の弟軽王の皇位もあがる訳です。のらない訳がありません。
又国際政治外交で山背大兄王が豊浦大臣や大夫、田村王子とは違う考えを持っていたとしたら、飛鳥朝廷で山背に浮いた存在だったでしょう。確実に大王即位には不適格と考えられたとして不思議ではありません。

さて話しを戻しましょう。
この話を人ずてに聞いた山背大兄王は黙って沈黙しませんでした。

是時山背大兄、居二於斑鳩宮一、漏二聆是議一。即遣二三國王 櫻井臣和滋古二人一、秘謂二大臣一曰、傅聞之、叔父以二田村皇子一、欲レ為二天皇一。我不レ能二獨對一。立思矣居思矣、未レ得二其理一。願分明欲レ知二叔父之意一。於是大臣得二山背大兄之告一、而不レ能二獨對一。
則渙二阿部臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等一、仍曲擧二山背大兄之語一。既而便且、謂二大夫等一曰、汝大夫等、共詣二於斑鳩宮一。當啓二山背大兄一曰、賤臣何之獨諏定二嗣位一。唯擧二天皇之遺詔一、以告二于群臣一。々々並言、如二遣言一、田村皇子、自當二嗣位一。更詎異言。是群卿言也。特非二臣心一。但雖レ有二臣私意一而惶之、不レ得二傅啓一。乃面日親啓為。爰群大夫等、受二大臣之言一、共詣二斑鳩宮一。使下三國王・櫻井臣以二大臣之辭一啓中於山背大兄上。
時大兄王、使レ傅問群大夫等一曰、天皇遺詔奈之何。對曰、臣等不レ知二其深一。唯得二大臣語爿犬、稱、天皇臥病之日詔二、田村皇子一曰、非三輕輙言二來國政一。是以爾田村皇子、愼以言之。不二可緩一。次詔二大兄王一曰、汝肝稚。而勿二諠言一。必宜レ従二群臣言一。是乃近侍諸女王及采女等悉知之。且大王所レ察。於是大兄王、且令レ問之一曰、是遺詔也、専誰人聆為。答曰、臣等不レ知其密一。既而更亦、令レ告二群大夫等一曰、愛之叔父勞思、非二一介之使一、遣二重臣等一而教覺。是大恩也。然今群卿所レ噵天皇遣命者、少々違二我之丁聆。
吾聞二天皇臥病一、而馳上之侍二于門下一。時中臣連禰気、自二禁省一出之曰、天皇命以喚之。
則参進向二于閤門一。亦栗隈采女黒女、迎二於庭中一、引二入大殿一。於是近習者栗下女王為レ首、女嬬鮪女等八人、荓敷十人、侍二於天皇之側一。且田村皇子在焉。時天皇沈病、不レ能レ覩レ我。之栗下女王奏曰、所喚山背大兄王参赴。即天皇起臨之詔曰、朕以二寡薄一、久勞二大業一。今暦運レ將レ終。以病不レ可レ諱。故汝本為二朕之心腹一。愛寵之婧、不レ可レ為レ比。其國家大基、是非二朕世一。自レ本務之。汝雖二肝稚一、愼以言。乃當時侍之近習者悉知為。故我蒙二是大恩一、而一則以懼、一則以悲。踊躍歓喜、不レ知二所如一。仍以為社稷宗廟重事也。我眇小以不賢。何敢當焉。當二是時一思三欲語二叔父及群卿等一。然未レ有二可レ噵之時一、於今非レ言耳。吾曾將レ訊二叔父之病一、向レ京而居二豊浦寺一。是日、天皇遣二八口采女鮪女一、詔之曰、汝叔父大臣、常為レ汝愁言。百歳之後、嗣位非レ當レ汝乎。故愼以自愛矣。即分明有二是事一。何疑也。然我豈餮二天下一。唯顯二聆一耳。則天神地祇共證之。
是以冀生欲レ知二天皇之遣勅一。亦大臣所遣群卿者、從來如二嚴矛取レ中事一、而奏請人等也。
故能宜レ白二叔父一。既而泊瀬仲王、別喚二中臣連・河邊臣一緭之曰、我等夫子、並自二蘇我一出之。天下所レ知。是以如二高山一恃之。願嗣位勿二輙言一。則令二三國王・櫻井臣一、副二群卿一而遣之曰、欲レ聞二還言一。時大臣遣二紀臣・大伴連一、緭二三國王・櫻井臣一曰、先日言訖。更無レ異矣。然臣敢之、輕二誰王一也、重二誰王一也。於是敷レ日之後、山背大兄、亦遣二櫻井臣一、告二大臣一曰、先日之事、陳レ聞耳。寧違二叔父一哉。是日、大臣病動、以不レ能三面言二於櫻井臣一。明日、大臣喚二櫻井臣一、即遣二阿部臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣・大伴連一、啓二山背大兄一言。自二磯嶋宮御宇天皇之世一、及二近世一者、群卿賢哲也。
唯今大臣不賢、而遇當二乏レ人之時一、誤居二群臣上一耳。是以不レ得レ定レ基。然是事重也。不レ能二傳一。故老臣雖勞面啓之。其唯不レ誤二遣勅一者也。非二私意一。

即而大臣、傳二阿部臣・中臣連一、更問二境部臣一曰、誰王為二天皇一。對曰、先レ是大臣親問之日、僕啓即言乞之。
今何更而傳以告耶。乃大忿而起行之。適二是時一蘇我氏緒族等悉集、為二嶋大臣一造レ墓、而次二于墓所一。爰摩理勢臣、壊二墓所之蘆一、退二蘇我田家而不レ仕。時大臣慍之、遣二身狭君勝牛・錦織首赤猪一而珻曰、吾知二汝言之非一、以二于支之義一不レ得レ害。唯他非汝是、我必忤レ他從レ也。若他是汝非、我當乖レ汝從レ也。是以汝遂有レ不レ從者、我興レ汝有レ瑕。則國亦亂。然乃後生言之、吾二人破レ國也。是後葉之悪名焉。汝愼以勿レ起二逆心一。然猶不レ從、而遂赴二于斑鳩一、佳二於泊瀬王宮一。於是大臣益怒、乃遣二群卿一、請二于山背大兄一曰、頃者摩理勢違レ臣、匿二於泊瀬王宮一。願得二摩理勢一、欲レ推二其所由一。爰大兄王答曰、摩理勢素聖皇所レ好。而暫來耳。豈違二叔父之情一耶、願勿瑕。則謂二摩理勢一曰、汝不レ忘二先王之恩一、而來甚愛矣。然其因二汝一人一、而天下應レ亂。亦先王臨沒、謂二諸子等一曰、諸悪莫作。諸善奉行。余承二斯言一、以為二永戒一。是以雖レ有二私情一、忍以無レ怨。
復我不レ能二レ違二叔父一。願自レ今以後、勿レ憚改レ意。從レ群。而无レ退。是時、大夫等且誨二摩理勢臣一之曰、不レ可レ違二山背大兄王之命一。於是摩理勢臣、進無レ所レ歸。乃泣哭更還之、居二於家一十餘日。泊瀬王怱發レ病薧。爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。大臣將レ殺二境部臣一、而興レ兵遣之。境部臣聞二軍至一、率二仲子阿椰子一、出于門一坐二胡床一而待。
時軍至乃令二來目物部伊區比一以絞之。父子共死。

叔父である豊浦大臣に大王即位について抗議し事実と違うので、大臣の本心を知りたいと使者を送るも、大臣はこれに答えず、山背大兄王は再三使者を送るも同様に返され、豊浦大臣は明言をさけます。が、山背も頼みの綱は蘇我宗家のみとばかりになお返答を求めます。が、やはりはっきりとした返事はもらえません。そんな駆け引きの中、豊浦大臣は境部臣摩理勢になおも次期大王に適任者は誰かと問いかけます。
(どうやらあとの三人は説得出来たようです)
怒った摩理勢は嶋大臣の墓造の指示を放棄するだけでなく墳墓建築施設を破壊した後、厩戸王子の弟泊瀬王の宮殿に行っていました。しかしその後頼みの王は死去してしまい。後ろ盾を失った摩理勢は山背大兄王子に泣きつくも、促され泣きながら自宅に戻ります。ここぞとばかりに怒った豊浦大臣は摩理勢邸に軍を差し向け親子ともども殺害します。

ここに皇位がさだまったのです。
豊浦大臣の希望は全員一致での田村大王即位だったようです。

所が田村王子は即位するもの治世半ばで崩御、今度はその妻宝大后が即位し、豊浦大臣が病で政務を取れず息子林太郎鞍造に大臣の地位を譲ったまさにその直後事件は起こります。

何故かここでは山背大兄王は自身の即位について豊浦大臣に追求していません沈黙するのみです。
不思議ですあれほどじたばたして抗議していたのに、大臣に見捨てられたと自覚したのでしょうか?無策のまま時を過ごしていたようで書紀にも記述がありません。

壬子、蘇我大臣蝦夷、縁レ病不レ朝。
私授二紫冠於子入鹿一、居擬二大臣位一。(中略)
戌牛、蘇我臣入鹿獨謀、將下癈二上宮王等一而立二古人大兄一、為中天皇上。
林太郎鞍造は病気の父から勝手に大臣の地位を貰い、古人大兄王子を即位させる為に山背大兄王を単独殺害計画という暴挙に出るのです。

日本書記には
十一月丙子朔、蘇我臣入鹿遣二小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連一、山背大兄王子等於斑鳩一。於是奴三成興二敷十舎人等一、出而拒戦。土師娑婆連、中レ箭而死。群衆恐退。軍中之人、相請之曰、一人當千、請二三成一歟。山背大兄、仍取二馬骨一、投二置中寝一。遂率二其妃、荓子弟等一、得レ間逃出、隠膽駒山一。三輪文屋君・舎人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅緇従焉。小徳巨勢徳太臣等焼二斑鳩宮一。灰中見レ骨、誤請二王死一、解レ圍退去、由レ山背大兄等、四五日間、淹二留於山一、不二得喫飯一。三輪文屋君、進而勸曰、請、移二向於深草屯倉一、従レ玆乗レ馬詣二東国一、以二乳部一為、本、興レ師還戦。其勝必矣。山背大兄等封曰、如二卿所∇導、其勝必然。但吾情冀、十年レ役二百姓一。以二一身之故一、豈煩二勞萬民一。
又於後世、不レ欲丁言丙由二吾之故一喪乙己父母甲。豈其戦之後、方言二大夫一哉。夫損レ身固レ國、不二亦大夫一者歟。
有レ人遙見二上宮王等於山中一。還噵二蘇我臣入鹿一。々々聞而大懼。速發二軍旅一、述二王レ所一在於高向臣國押一曰、速可三向レ山求二捉彼王一。國押曰、僕守二天皇宮一、不レ敢出∇外。入鹿即將二自徍一。丁時古人大兄皇子、喘息而來問、向二何處一。入鹿具説二所由一。古人皇子曰、鼠伏レ穴而生、失レ穴而死。入鹿由レ是止レ行。遣二軍將等一、求二膽駒一。竟不レ能レ崽。

藤氏家伝では
後崗本天皇二年歳次癸卯 冬十月 宗我入鹿與諸王子共謀 欲害上宮太子之男山背大兄等曰
上宮聖徳法王帝説では
十一月 入鹿臣 獨遣小巨勢臣太等 欲率兵弑山背大兄王等於斑鳩宮 於是 大兄王奴三成率數十人距戰 出於万死 鋒不可當 然而大兄王 即取獸骨 投置内寢 率子弟 從間道出 隱膽駒山 軍衆燒斑鳩宮 見骨灰中 軍衆皆謂 王已死 解圍退去 

聖徳太子伝補闕記(伝知恩院)
日本書紀暦録并四天王寺聖王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾
癸卯年十一月11日丙戌亥時、宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輜王、巨勢徳太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣盬屋枚夫等六人 發悪逆至太子子孫 男女廿三王無罪被害山代大兄王蘇 殖栗王 茨田王 乎末呂王 菅手古女王 春米女王 膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王。  

日本書紀上宮聖徳法王帝説は概ね同じで林太郎鞍造が家来を使い、単独で山背大兄王を襲撃し、王子はいち早く家族と家来と共に動物の骨を身代りに宮殿に火をつけて生駒に逃れ、しばらく隠れ家来の深草の屯倉に行き軍備を整えて東国の乳部の者と共に挙兵して戦おうと進言するも、民を犠牲に出来ないと覚悟して一族と共に斑鳩寺に戻り、一族ともに火をつけて自殺します。その様は天女や極楽の音楽に迎えられて浄土に向かう美しい様子を描いています。
藤氏家伝は林太郎鞍造と王達が山背大兄王子を襲ったと記述しています。要は他の王族も共謀していたというのです。


聖徳太子伝補闕記は具体的に共謀者を挙げて林太郎鞍造の単独説を否定しています。
この書はかなりいわくつきの書で長く知恩院の書庫にあり長く世に出ていなかったようです。
が文書の初めから手厳しい

日本書紀暦録并四天王寺聖王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾」

日本書記と四天王寺聖徳太子伝記はまったくもって事実を記していない。はなはだ不快なので、古書を探した所、調使家(具体的に家名はありません。調という当時の税金の管理を任されていた一族だと想像出来ます。)と膳家(厩戸王子の舅の家系、山背大兄王子の正妻の実家)の家伝書を手に入れる事が出来たのでこれを持って記する。と言ってるのです。作者不明ながら僧であり、かなりの学識があり、知恩院とも関係の深い人物のようです。

聖徳太子伝補闕記
宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輜王、巨勢徳太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣盬屋枚夫等六人

蘇我豊浦元大臣、林太郎大臣、軽王(そう後の孝徳)そして中臣氏のこの人は誰なのか?

そうこ中臣盬屋枚夫こそ「中臣鎌足だ!」といえばどう思いますか?
この説、そんなに嘘くさくないんです。

何故なら日本書紀にその後の実行犯は巨勢徳太と大伴馬飼の二人軽王が即位したあと大出世するんです。

しかもその後の中大兄大王(天智)治世でもです。
しかも聖徳太子伝補闕記では一族が自殺した後、生き残った弓削王を僧であるはずの大狛法師(この人物も軽大王(孝徳)治世、十師に選ばれる高僧です。)が斑鳩寺で絞殺したというのです。

僧がそこまでして厩戸王子の血を残さないという意思は相当な事です。わざわざ刺殺しなくてもただ密告するだけでいい訳ですから。

一王族の大王継承者の完全全滅が目的だった。

そしてその日本書記も沈黙し林太郎単独犯だと記述しながら

入鹿即將二自徍一。丁時古人大兄皇子、喘息而來問、向二何處一。入鹿具説二所由一。古人皇子曰、鼠伏レ穴而生、失レ穴而死。山背大兄王が生き延びて生駒に居る事を知って、高向に再襲撃を命令するも拒否、単独で軍を動かそうとするも、古人大兄王子が引きとめます
え~~~!!!単独説じゃないじゃん。なんで古人大兄王子一緒にいる。しかも鼠の穴ってどこ?

私達日本書紀の大虚にまんまとしてやられているんです。

山背大兄王子襲撃事件の背後には「磯城島金刺宮(欽明)大王」から分かれた二家の大王相続権抗争だったのです。

蘇我氏腹妃の血筋磐余池辺雙槻宮(用明)大王家 対 磐余玉穂宮(継体)大王の先妃の孫娘石姫腹の血筋訳語田幸玉宮(敏達)大王家
  山背大兄王      対        田村王子 

しかもこれに外交問題がからんだ複雑な問題だったので更に深刻です。

朝鮮半島が軍事状況の中、倭でもその影響を受けずにはいかなかった。三国共倭の大王が誰になり大臣大夫達を自国へ優位に働きかけをしていたので更に複雑です。

百済は田村、宝女王、軽王派(後に新羅や唐派と思われる行動が多い)であり同時に蘇我宗家が支持していました。 
この隙を高句麗、新羅が自国の優位に大王継承権に首をはさんでもおかしくありません。

この襲撃明らかに皇位継承権王族同士の争いに豪族達が関わっていたのです。しかも飛鳥の豪族、王族達は何もせず、沈黙して山背大兄王達上宮王家の滅亡を容認してしまっています。

日本書紀に立派な人物のしかも皇太子の地位にいた者の息子などと書いたなら、その人物を大王にせず、しかも田村王子の子供達こそ当時の天皇家の一族(元明、元正、首皇太子(聖武)天皇)なのです。自分の先祖の皇位が不当などととられる記述は出来ません。しかも見殺しにしたなど到底書けません。なのでなんとなくボかして書いているのです。
上宮王家当主であり、蘇我豊浦大臣を叔父と呼この人物はどう考えてみても厩戸王子の子です。

この一族誠に奇妙です。
山背大兄王の正妻は厩戸王子と膳氏女の大姫春米女王、その子の妻は祖母穴穂部間人王女と義理の息子(用明の王子)田目王子の娘を妃にしています。他から豪族の妃を持っていません。蘇我氏の強い血筋を引いた斑鳩に一族のコロニーを持つ裕福ではあるものの非常に孤立した王族であったのでしょう。

総合的に考え、豊浦大臣は他の首謀者と共に林太郎鞍造の山背大兄王殺害を持ちかけられ、消極的に参加するものの良心がとがめられたのでしょう。

一族の血がそうさせたのか?山背大兄王子に知らせたのではないでしょうか?そうでなければ小さな子や女達が輿に乗りながらとはいえ斑鳩から生駒山まで簡単には歩けません。なにより、数十日も生駒に隠れていないでしょう。豊浦大臣は逃がすつもりはあったものの、積極的に助けるつもりはなかったのでしょう。もし助けるつもりなら救いの手を出したでしょう。生駒から深草、太秦の秦氏か膳氏に手助けさせたでしょう。山背大兄王はおそらく豊浦大臣が助けてくれると思い、山中に長く潜伏していたものの、誰の手助けも受けられず、飲食にも困りはてもう自殺するしかなかったのでしょう

一族を連れて山を降り、弟、妃、妾(妾の存在は不明)、子供達と斑鳩寺で自殺してしまいました。


そんな話しをもし行信がして「こんな時だからこそ聖徳太子様を祀りしないといけないのです!」と光明皇后に進言したら、皇后は恐怖で震えあがり、聖徳太子を大切に祀ったでしょう。

なぜならもう10年前の話しとはいえ長屋王の事件そのままなのです。

しかも光明皇后の母は県犬養橘宿禰三千代、そう犬養氏族といえば入鹿暗殺犯グループにも参加していた氏族、そしてあの山背大兄王子襲撃の黒幕「軽王(孝徳)」の拠点は県犬養氏の拠点軽里という説があるのです。なぜなら彼女は草壁皇太子と阿閇皇女の子「軽王子(文武)」の乳母なのです。皇子、皇女の名は乳母の出身地が付けられました。そう父方と母方二重の十字架を背負った光明皇后はかなりの衝撃を受け、東院伽藍の完成に尽力したでしょう。

東院伽藍の中心通称「夢殿」しかしなんで夢殿?じ~といて夢でも見て静かにしていてくださいましな聖徳太子様って事かしら???

八角円堂のこの御堂、通常この形状の御堂は個人を祀る為の御堂で、当時不比等や房前などの公卿が死亡した後縁者によって建立する事が多かったようです。
つまりは供養塔のような建物です。しかし八角は別の意味で共通する建造物があります。
天皇や皇族などの古墳の形状がまさに八角なのです。
東院に関しては圧倒的に梅原氏の隠された十字架を指示します。そのお堂をまずは四方を回廊で囲み、屋根の中心には宝珠と言ってますが、その形は舎利物の物に非常に似ています。

又南に不明門いわゆる開かずの門で封印します。

その八角円堂の中にはあの有名な「救世観世音菩薩像」が祀られているのです。

正式には尊上宮王等身観世音菩薩木像壱躯金薄押というそうであくまでも厩戸王子が菩薩になった像なのだそうです。この像なぜかその様式から飛鳥時代製造が定説です。けれど東院伽藍が建立されたのは奈良天平時代です。
どこからパクってくたというのでしょうか?西院からというのでしょうか?西院には釈迦三尊像があります。これも厩戸王子の姿を釈迦にした像同じような像が二体あったというのも???考えにくいでしょう。あんなりっぱな像が他の厩戸王子縁の寺にあったのでしょうか?

飛鳥時代でまさか厩戸が生きていた頃に製作されたとは考えられません。というとやはり死後、「聖徳太子」という冠を付けられてからと解釈すれば、山背大兄王子生前でも無理があるでしょう。自分の父が仏になる=自分も仏と解釈されかねません。というとやはり飛鳥時代では無理があるでしょう。

これは推測ですが、やはり改めて像を製作したというのが、正解ではないでしょうか?
飛鳥時代といつわりその姿だけを飛鳥様式にする。
当時の名工の中でも際立って優れた若い仏師に行信が細部に渡るまで製作に関与したとは思えないでしょうか?
そしてその魔を内に秘めた美しい楠製の恐ろしい像を製作した。その方が自然の様に思えます。

外観は観世音菩薩にその実、巧妙に仕掛けられた呪いの封印。


菩薩の手に燃え上がる舎利を持たせ、中は空洞、しかも崇拝対象の像の頭に後輪を打ちつけるなんぞは尋常な方法ではありません。
これは聖徳太子といいながら、その実長屋王自身ではないでしょうか?

長屋王が無実である事は十分承知している。

けれどこの時代まだ公に謀反人を祀慣習がなく、またそれをすると自身の正統性を批判する事です。
だから聖徳太子像と言いながらその実は長屋王像の供養仏でもあった。
だからこそこの像は非仏として布でグルグル巻きに何十もされ、封印し「開封すれば寺が滅亡する」まで伝承を残させたのではないでしょうか?
そう思いながら拝観すると実に恐ろしい場所です。
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この夢殿の周りを回廊で囲っている南門は通称「開けず門」と伝承しています。門なのに開けない。???
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後年夢殿の丁度、北側に奈良時代の建築物 瓦葺講堂一間 通称「伝法院」が移築されます。

ここは丁度斑鳩宮があった場所でおもいっきり敷地にかかって奈良時代に移築されました。

この建物、橘宿禰佐為の娘聖武天皇夫人「橘古那可智」の邸宅を東院に施入し、院側が仏殿として改築した痕跡のある建物です。この行為も見逃せません。なぜなら彼女の父も藤原四兄弟と共に同年疱瘡で死去しているからです。かさねてやはり熱心な仏教徒だといわれています。これは彼女の邸宅であり、又父佐為の邸宅であったのではないでしょうか?
この年の疱瘡の流行が長屋王の祟りと噂されていたというのであれば、この東院の建築に係わった光明皇后とは従姉妹で同じ後宮にいた橘古那可智が縁の建物を施入した事実はやはり

聖徳太子=長屋王の鎮護寺の創立
と見た時、さらに真実味を浴びてくるのです。

その他に「東院資財帳」に檜皮葺屋三間、瓦葺僧房二間の記述がありますが、現在絵殿、舎利殿、鐘楼、門外に太子殿、北室院、本堂が存在しています。

光明皇后はこの東院の完成の頃、続日本記の記述では大病を患っており、相当精神的にまいっていたのでしょう。

この東院は完成一年前に立太子をした阿倍内親王を守る意味でも彼女の名を縁起に残すほど重要であった思いのあらわれだと思われます。

その後、光明皇后は東大寺や天平十七年(745年)には父不比等邸で自身の皇后宮を総国分尼寺「法華滅罪之寺」通称法華寺を創建します。しかもこの後の移動場所がなんと長屋王邸跡。発掘調査で王邸跡近くから皇后宮の木簡資料等の発見があり、その後光明皇后が宮殿として使用した痕跡が残っているのです。そりゃ滅罪だわね~~~ので、法隆寺奉納、施入はひと段落したと思った様で親族の橘夫人にその代行をされる様に今度は橘夫人名義で法隆寺に奉納が始まります。

【光明皇后と法隆寺の関連年表】
大宝元年701年安宿媛(後の光明皇后)、同年首皇子(後の聖武天皇)誕生
霊亀二年716年安宿媛、首皇太子妃となる。
養老二年718年阿倍内親王誕生。
  四年720年父不比等死去
神亀四年727年基皇子誕生。
  五年728年同皇子死去。
天平元年729年長屋王の変同年八月立后する。
  二年730年施薬、悲田院を置く。
  五年733年母三千代死去。法隆寺に阿弥陀仏奉納。
        皇后病む
  六年734年皇后回復す、法隆寺に宝物施入。
  八年736年光明・牟漏姉妹法隆寺に鏡を奉納。行信法隆寺で法華経講会催す。
  九年737年仏具奉納同年藤原四兄弟相次いで死去。皇后上宮王院へ施入を変更
  十年738年阿倍内親王立太子。法隆寺に食封二百戸、財宝施入。行信律師に任命される。
 十一年739年皇后病む。行信東院伽藍「通称夢殿」完成。

その後、平安前期の僧道詮が山城国へ遷都後、荒廃する東院を再興させ、夢殿は現在私達が目にする姿に改築されました。

第三章「西院伽藍」 

【法隆寺は怨霊鎮護寺だ】

さて本題の西院伽藍。難しい御題です。

日本書記、続日本記に出る法隆寺の記述は極めて少ないのが現状です。何故ならその他に同時期の寺院の建築物が存在せず、比較の対象が出来ない最大の理由があります。

学者の間でも、美術、建築、その他の知識人でも西院の説明はつじつまが合わず、法隆寺の謎は深まるばかりです。

若草伽藍は山背大兄王の惨事から後も、存在していたといってよいでしょう。
それは軽大王が難波に遷都した大化3年法隆寺資材帳に「合食封参佰戸大化三年歳次戌申九月廿一日己亥、許世徳陀高臣宣命納賜」とあるからです。

この人そう山背大兄王を襲撃した張本人巨勢徳太です。
軽大王に願い法隆寺に食封三百戸施入したというのです。政権が落ち着いたので罪滅ぼしのつもりでしょうか?
とにかく斑鳩寺は施入を受け小規模であったろうが存在しました。しかし!

日本書記から
天智九年夏四月癸卯朔壬申、夜半之後、災二法隆寺一。一屋無レ餘。

今の若草伽藍の出火の結果法隆寺は全壊していまったと記述しています。
前年の出火の記事もあり、どうやら自然災害には勝てなかったようです。その後の様子は諸説によると

聖徳太子伝補闕記
預言太子子孫滅亡之讖 斑鳩寺被災之後 衆人不得定寺地 故百濟入師率衆人 令造葛野蜂岡寺 令造川内高井寺 百濟聞師 圓明師 下氷君雜物等三人合造三井寺

聖徳太子伝記
庚午年四月三十日夜半 灾斑鳩寺 而暦録不記 此年是推古天皇十五年矣 又説曰 寺被灾之後 衆人不得定寺處 故百濟入法師率衆人 令造楓野蜂岡寺 又造河内國井田寺 又百濟開法師・圓明法師・下冰君新物等三人 合造三井寺矣

これは中大兄王子即位後の9年目、都はすでに大津に遷都された後の話しです。なので、普通に考えて壬申の乱~天武天皇即位し飛鳥への遷都をした後の話しと理解しないといけません。でないと、焼け野原にどこが斑鳩寺かわからないなどと人々がうろたえるはずはないのです。

上記2記は斑鳩寺がどこにあったか見当もつかなかったので、百済法師が、百済開法師、圓明法師・下冰君新物の三人が葛野蜂岡寺、高井田寺、三井寺(法輪寺)を建立したと記述されています。

この文章では斑鳩寺の再建についてはきわめてあいまいです。


1項 法隆寺の七不思議

①法隆寺の南大門には蜘蛛が巣をかけない。
②南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある。
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③五重塔の上に鎌がささっている。
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④不思議な伏蔵がある。
⑤法隆寺の蛙には片目がない。
⑥夢殿の礼盤(僧が座る台)
⑦雨だれが穴を空けるべき地面に穴が空かない。

なんだか怪談じみた話しです・・・・・・・
①そんな事ないです~~~
②は元々の南大門の位置はもっと北だった訳で、中世に子院の増築で移築して今の位置にあるのでそんなに気にする事ではと思います。鯛石は一説に竜田川の氾濫による水限を現したともいわれているそうです。
③避雷針用ともいいますが、それなら他の寺院でも継承されていてもおかしくありあせんが、この鎌は法隆寺のみに限られます。
④金堂の隅に石盤がはめ込まれ、仏法が滅亡した時に封印を解けといわれているそです。
⑤そんな事ないです~~~
⑥確認出来ません~~~
⑦そんなことないです~~
やはり怪談じみています。法隆寺とはそんな謎にみちたおどろおどろしい様な気がしてきました。

2項 法隆寺再建

これはかなり困難な課題です。

火災のあったという日本書紀の年は通常考えて近江に都があった時期です。
信仰深い人々が斑鳩に集まれる環境とはいえず、その1年後に壬申の乱の内乱が起こります。再建はやはり天武天皇が飛鳥淨御原宮で即位し、都が飛鳥に戻ってからと考えるのが妥当でしょう。
では誰が?

やはり山背大兄王子への自責の念と厩戸王子への信仰に係わった者達
創建当初国家関与はないと考えてよいでしょう。

天武天皇は百済大寺(父田村大王か創建、宝大王も建築するも未完の巨大寺院)、山田寺(持統天皇の祖父蘇我倉石川麻呂の氏寺の再建)、薬師寺の建立(持統天皇の病気平願の為に建立された)、しかも藤原京の遷都も計画中なので、法隆寺までは手はまわらない。
なんせ「租庸調」の財源は決まっているので放題に使用出来ません。

しかも天武天皇は己卯年(679年)に食封を停止させました。

建築途中の法隆寺に最大の危機が訪れます
。官寺なら絶対ない対応です。

それなら膳氏、山部氏、秦氏、平群氏といった斑鳩の地に関係し厩戸王子の縁の者が複数で法隆寺再建に関与したと考えてみてもいいのではないでしょうか?
しかしやはり中心となったのは厩戸(聖徳太子)王子信仰を唱える旧斑鳩寺の僧達だったと言ってよいでしょう。

また山背大兄王を見捨てた斑鳩近隣の厩戸王子と関わりのある豪族達はその時代の変化と遷都が続いて罪悪感が薄らいでいたが、再び飛鳥の地に遷都され、帰った事で罪悪感が増してくる。しかもその罪なき者を鎮める寺がなくなっている。

特に斑鳩の支配権及び近隣の豪族は後ろめたかったに違いありません。かといって法隆寺を公に支援するという行為も出来ないでしょう。
なんといっても天武天皇の血筋はその山背大兄王の敵であった田村王子なのですから。そこで建立を後方から支援したのではないでしょうか?
では創建はどう始められたのでしょうか?

創建場所は元斑鳩寺跡がわからないほど荒れ果てていたはずです。しかも当時、天武天皇による土地整備の為、斑鳩条里は変形され畑化して景観もおもがわりしていたでしょう。
後世の発掘調査では溝を造り若草伽藍跡のがれきをそこに撤去したという発見からもおおよその位置は把握していたものの確信がもてずあえて違う場所に再建したとみていいでしょう。
ここで法隆寺再建計画に携わった僧の間で意見が分かれ後にその一派は法起寺、法輪寺などの建立に関与したと推測出来ます。

新地再建論派はなんとか土地整備を行えば建立出来る場所が現在の法隆寺西院位置だったのでしょう。

しかも近くに生駒山から材木の伐採が可能ですし、整備して削り取った岡の土は像を製作する際の材料にも有効でしょう。現在跡地は池に治しています。瓦も近くの三井瓦窯がありますから、あとは木材を切り出す林業師、仏師、建築家、大工、工芸師など匠を揃えたのでしょう。
時代的にも唐との関係も改善され、朝鮮半島は新羅が統一していましたから、斑鳩という地理的位置からもいち早く技術や文化が入った事でしょう。その後高句麗も滅亡し渡来した高句麗人も見逃せません。

当時、寺院建立が国家事業として活発に建立、再建されるなか、その事業からはずれた一部の相当優れた仏教美術建築技術者達が関わったのはないでしょうか?

なので法隆寺式伽藍といわれる様式がこの地にだけあるのだと考えられます。

通説では寺院は百済建築様式が飛鳥時代の典型的な様式で建立されていました。今はない元興寺の五重塔の江戸時代の絵図が残っていますが、その百済式そのものでした。今韓国扶余にある百済文化団地の五重塔はそれとくりふたつ。

しかし法隆寺の物とはあまり似ているとはいえません。

三国時代の百済、新羅、高句麗は民族的には同じツングース系ではありますが、文化的に少し違いが見えます。
中国と敵対していたもののいち早く仏教を取り入れた北魏派の高句麗と南魏派百済、新羅はこの二大国に戦術でおされぎみになり後年唐軍を受け入れ朝鮮半島を統一します。

つまり再建法隆寺の建築には高句麗が唐により滅亡させられた後、亡命した高句麗の技術者が大きく貢献したと想像しても良いのではないでしょうか?

しかも厩戸王子の仏教の師は高句麗人「恵慈」(但し本当にそうだったとはいいきれません。なぜなら旧斑鳩寺には百済式が採用されていて、高句麗式ではないからです。)です。四天王寺、斑鳩寺の各建築物が高句麗様式で建築されていたと考えても不思議ではありません。むしろ自然かもしれません。

また法隆寺式伽藍は山田寺の変形バージョン更には法起寺の逆変形バージョンである可能性があります。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が建立し、後に謀反の罪で同仏殿で自決した後、贖罪の意味であろう中大兄王子が即位後再建をさせ、天武天皇期に完成した寺院です。

法起寺は父厩戸王子の遺言により、岡本宮を寺にあらためたという縁起の残る縁の寺院であり、法隆寺の塔と金堂が左右逆という配置のお寺です。

山田寺の伽藍では丁度塔と金堂を反転させ建築したものが法起寺では左右にふったものが法隆寺式といえ、今旧大安寺跡とされる吉備池廃寺跡は法隆寺式に極めて似ています。もし吉備池廃寺が百済大寺跡であるなら又この大寺も田村大王、宝女大王が建立にたずさわった天智、天武天皇が父母の鎮護目的に建立された官寺。

丁度伽藍が変わる編成期に再建が始まったと言え、ともに鎮護寺という意味でも興味深い共通点です。

再建年の基準となる材木伐採年輪から算出された数値によると、まずは金堂、五重塔、廻廊中門の順で再建され和銅四年法隆寺西院伽藍帳に仁王門の阿吽の像の完成の記述があるのでその頃に完成したと解釈していいようです。天武期からとしても足掛け30年近くすごいなが~~~すぎる造営ですよね。

初めは順調に進んだ再建途中の法隆寺に最大の危機が訪れます。

前項で述べた天武天皇期の食封停止です。この危機を奇才を使い切り抜けます、詳細は次項で!

続日本記の記述に
和銅四年に再建法隆寺が建立されるとその四年後食封が再び開始されます。
和銅八年(715年)鵤寺食封二百戸。

霊亀元年(715年)癸亥、設I二斎於弘福寺・法隆寺二寺一。
(中略)於レ是、未レ経二数日一、澍雨滂沱。時人以為、聖徳感通所レ到焉。

#和銅八年と霊亀元年は同年元明天皇の譲位と元晴天皇即位が重な年号が変わった為、両年共に同じ。
法隆寺で雨乞いの行事を行った所、にわかに雨が降り、時の人々は「これはさすがに聖徳太子様の力だ」と感心した。という記述です。この頃には官寺につぐ霊源新たかな寺「聖徳太子の御寺」と時の朝廷の賛美を受けています。

又合食封参佰戸。右養老六年歳次壬戌、納平城宮御宇天皇者
722年食封も再会されます。

又も神亀四年歳次丁卯年停止
(726年)律令に定まれた通り食封停止されます。

合食封弐佰戸。右天平十年歳次戌寅四月十二日、納平城宮御宇 天皇者

またも聖武天皇期738年に食封が始まります。
こう見た際まさに東院といい西院といい法隆寺はその創建期より奈良時代に黄金期を向かえるといって良いでしょう。

3項 金堂

【釈迦にされた聖徳太子】

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現金堂は内部一層、外観二層に裳階付きの建築物で斑鳩付近の7世紀仏教建築物の中では最古の建築物と言われています。(アジアでも最古の木造建築)軒を支える組物に雲形、上層部に卍崩し高欄など独特な建築様式を持つ特異な金堂です。裳階は製作途中で足された様ですし、後年の度重なる修復のせいで元の建築が私達が目にする現在の金堂とはかなり違いがあると思います。
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材木の年輪伐採は677年に伐採され、又部分材に伐採年輪年代668年、650末~660、673年代が見受けられています。
という事はそれ以前に岡を平らに整地し、金堂様に生駒山から杉や檜を伐採しました。しかしこの再建法隆寺に最大の危機が訪れます。天武天皇8年の食封停止です。財源を取られては計画に支障がきたします。

この危機を転材という奇策で乗り切ります。

又はやはり厩戸王子の建立寺院の再建建築というだけに縁の建物の部材を転用されたという可能性も考えられます。周辺地域は厩戸王子縁の王宮が点在していました。しかも朝廷は斑鳩に無関心だったので、放置状態だったので建築物はそこそこ残っていたでしょう。それらを厩戸王子の寺院を建築するのです。使用してなんの問題があるでしょうか?

一隻二兆な訳です。
木材伐採には近隣の豪族の支援もあったでしょう。特に山部氏は山林を管理する地位にある氏族です。ここで手を貸したに違いありません。部分材を使用しなくてはいけない金堂のなんとなく感じる歪つ感はそのせいでしょうか?

この斑鳩の地には天武・統持天皇の統治期にすぐ傍の竜田大明神の祭祀が厚く信仰をうけ朝廷から天皇の使者が訪れたと日本書記に記述されています。
そのすぐそばで建築されていた法隆寺の話しは天皇にも届いたのでしょう。

持統天皇時代には金堂で開催された「仁王会」の為に仏具の施入があり、この時期に金堂の建築出来た様です。
但し内部の色彩や壁画は完成に満たない状態ではないかと推測します。なにせ持統天皇期にも食封がありませんから。壁画はかなりそう和銅8年に遡ってもいいかも知れません。絵画は古典的に描ける物ですし、壁画を見る限り唐時代の影響を十分に受けている完成度をしています。

但し内部の装飾に、問題が発生していきます。金堂自体は天武期の完成を見たものの、その中に安置されている天蓋の年輪測定した結果、中の間のそれは606年から654年。西の間のそれは663年から670年というものでした。ここでも古い木材の転用がされていたのです。
それは天蓋に限らず、仏像3体の下の台座は中央の台座が一番古飛鳥時代七世紀前半、左右はそれよりは若干時代が下るが飛鳥後期時代と言われています。

そしてさらに中央の安置された御本尊釈迦三尊像、西の間に安置された第二の御本尊ともいえる薬師如来像第三の東の間に安置された阿弥陀如来像(この像と東の間の天蓋に関しては後世の作なのでこれ以上ふれません。様は台座だけが再建じ金堂に安置されていた)がありますが、両像共に北魏様式が採用されたといわれる釈迦三尊像は飛鳥時代作、薬師如来像は白鳳時代作という歪な金堂が出来あがったので、更に?????なるのです。つまり器が新しいのに中身が古い。

これが法隆寺の謎を深めている原因です。

像の光背にその作の経緯が記しているのですが、非常に??????なのでここではふれません。
つまり作風は釈迦三尊像の方が古いのにも関わらず、由来は薬師如来像の方が古いのです。しかもこの薬師如来像は左手に薬壷をもたず、しかもその手の印は釈迦そのものなのです。
つまり、薬師如来像といいながらその実は釈迦如来像なのです。??????

ここからはじき出される物それは!!!!!

金堂は転材を用いながら、天武期から元明期に飛鳥時代に建立された様にその外側を完成させた。

釈迦像と台座のバランスの悪さからはじけだされるのもそれは他の縁の寺院の統合により古い仏具を手にいれた法隆寺は古い仏具を金堂に配置し、その上に転材を使用して製作された天蓋を取り付けます。
時代は下りますが元正天皇(氷高内親王)治世に尼僧令という命令が発布されます。

様は当時各寺院は荒れ放題で尼僧達が寺を荒らし放題にしておいて朝廷には施入をせがむ事を叱責し、寺院の管理、統合、財産整理等を厳しく監視する法令を出したのです。
私達が考える寺院とは建築物、内装、安置仏具、本尊、脇像等が完成して初めて建立と考えていますが、そうではなく財政困難な法隆寺では建築物は完成出来ても、食封がない時代には内部までは完成していなかった。と考えてもよいのではないでしょうか?

仏具の古さはやはり縁の橘寺かもしくは中宮寺から持ち込まれたのではないでしょうか?
法輪寺、法起寺はほぼ同時期の建立寺ですし、なにより天武期にこの尼寺の坊はほとんど出火の為に消失しています。
数点法隆寺でも縁の品々が納められて今でも法隆寺にあります。

中宮寺の天寿国繍帳も元は法隆寺に保管されていた物を鎌倉時代の中宮寺の尼が寺に戻したという説話からも聖徳太子縁の寺院間の物の移動は意外と安易だったと推測出来ます。
後は仏像を待つばかりです。

仏像の製作した仏師はいわゆる止師ではなく(飛鳥大仏の名工ですが時代が下りすぎでそれはないでしょう。)高句麗亡命系の技術者、古来高句麗は北魏と国境をかいしていましたし、調遣していた事実も判明しています。百済滅亡後、しばらくして高句麗も滅亡します。その際倭に亡命したとしても可笑しくありません。その中の集団に仏師や仏教関連の技術者が斑鳩でその技術を発揮したとしても不思議ではありません。厩戸王子と高句麗僧恵慈の師弟関係は承知の事実です。

その仏像製作前、寺の将来に暗雲が立ち込めます。さらに聖徳太子信仰を高め、聖徳太子=釈迦という人物崇拝をさせる必要があり時の権力者の血の染める行為を鎮護出来、且つ怨霊封じが出来るほどのまさに仏教とはま逆の「魔」の仏世界の長の像が必要となりました。

その歴史自体を天皇家と大きな関わりを持たせる必要性があるように宣伝する為にも、又聖徳太子の崩御を壮大な一幕にするために3人の死というシナリオ作成します。

母穴穂部王女(間人大后)の死、膳氏の妃の死、そして聖徳太子自身の死を3身1体として金堂に3体の仏像を安置することにします。

まず聖徳太子の釈迦三尊像の製作、二台の天蓋、台座も古い転材を使用し、作業を急ピッチで行います。


この厩戸王子の姿を移した風変わりな釈迦像自体は短期間で製作出来たのですが、脇の二体が間に合わない。そこで法隆寺の僧は工人にすでにあった数体の観音像の中からを左右アシンメトリーな手の印を持つ二体の像を添え付けさせました。この像実は製作年間に若干のずれがあり、そのため左の菩薩像の保存状態が良いのではないでしょうか?
その釈迦像の工人達は、いや法隆寺の僧は像のあまりの出来のよさに恐ろしささえ感じ始めます。

そう仏の世界で人界で血の染めた強者に加担し、世に未練の残る弱者を仏界に封印する役割の像の完成は自らのそれに加担するという事です。
僧でありながら人界の血を流す役割をさせる像と自分自身。自分にもその怨念が降り注ぎはしないかと?
そしてしてしまうのです。

釈迦という名の持つ厩戸王子の額に白毫に見せかけたピン打ちを。そして本来の釈迦如来像(今は薬師如来像と呼ばれる像)は西に移され、台座も橘寺から用意させその名も薬師如来像と変えられ用明天皇にゆわれの像と冠をつけられます。御本尊となった聖徳太子化した釈迦三尊像はその縁起を偽造されあたかもずっと飛鳥時代からいましたよといわんばかりに鎮座しています。(いやさせられています。)

ちなみに現在中央に安置された釈迦三尊像の光背の外側には沢山の飾りがあったそうですが、安置の際に全て落っこちてしまったそうです。

この釈迦三尊像の台座東側裏には毛筆でこう記載されているそうです。

相見 陵面楽識心陵了時者

陵の面に相まみえよ、陵に葬られている死者の魂をしずめるためには。とい意味だそうです。

陵とは墓の事です。
この陵とは誰の墓の事でしょうか?穴穂部王子?泊瀬部大王?聖徳太子?山背大兄王子一族?大津皇子?長屋王・吉備内親王?

死者の魂を鎮めなくてはいけない。

この台座は飛鳥時代後期をくだらないと言われています。では厩戸王子と深い関わりのある敗者でというと穴穂部王子では?
すくなくとも台座の本来の安置場所は鎮護寺「中宮寺」か「橘寺」であったでしょう。厩戸王子の生母は同腹の乳母の氏も同じ穴穂部王女(又の名を間人大后)同母腹の兄を実の叔父に殺された母の思いを厩戸王子は仏教という思想で弔いを行ったのでは?と想像してみるのも一案です。

法隆寺はその創建の本来の意味の建立とは関係なく巨大鎮護寺となるのです。

時の権力者が大鉈をふるい暴挙に出る度に、死霊封じを生業にして紆余曲折はあったにせよ巨大な地位をその時代時代に応じて現存する事の意味を。教えてくれているようです。

初め法隆寺は単に上宮王家鎮護の寺として再建されたが→建立中に目的が変えられた。→聖徳太子を祀る寺として政治的敗者の怨霊を封じ込める霊源新たかな寺院へと変更された。→故に全体的に歪感のある謎の多い寺院に変貌した。

そして少し時を置きようやく残りの台座天蓋2体もそっくりに製作し、左右に阿弥陀如来像、薬師如来像(本来は釈迦如来像だがここで用明大王の名を出す事で更に官寺の重みをもたせます)を安置します。
その事でこの金堂は他に例の見ない本堂に3体の御本尊という形態が出来あがります。

ちなみに聖徳太子の墓と伝承されている河内の墓には江戸時代の内部を詳細に記載された書物によるとやはり中央に1両脇に左右二の石棺が安置されていたそうです。後年の捏造のような・・・・・・・匂いしますね。
3にこだわる法隆寺。

4項 五重塔
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【聖徳太子の一族の墓】
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さて金堂の建立があらかたすんだ頃、大工達は五重塔の建立を始めます。
いきなり難問です。
2001年2月に奈良文化財研究所で発表された法隆寺五重塔中心柱の伐採年数は五九四年でした。
そうその創建時期よりそして、火災し全焼したはずの年代よりも以前の数値がでたのです。

この年は飛鳥寺(元興寺)より建立後、大王が各豪族に寺院建立を指示し、山林から木材を伐採したと日本書記に記述のある年にドンピシャなのです。
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その他の木材の伐採年代が670年以降と出ているので、心注部分だけが古いのは594年まで置いていたとは考えにくく、どこからか心注を持ってきたとしか考えらずそのれがどこからなのかも?なのです。やはり五重塔も転材使用されたと見てよいでしょう。しかもその様式は金堂よりもかなり緩やかな形状をし、またその材もB級等の使用や加工されることなく無垢のまま使用される事もありこの時期も相当金銭的に苦労した痕跡がこのります。

さて心注が何故古いのかですが、考えられるのは旧若草伽藍からの移動です。しかし斑鳩寺は全焼しているので、可能性は低い。では付近の寺はどうでしょう。中宮寺、法起寺(元は五重塔だったとして)、法輪寺(同)、橘寺、です。ここからの転用は考えられなくもないです。すでに廃寺同然なら、縁の寺に同化した方が得策なのではと考えたのではないでしょうか?

またその心注の下は大正十五年四月の調査で須箕弥山と四方に釈迦の生涯を塑製で製作した塑像の下に仏舎利孔の上に銅盤、その下には何重にも重ねられた碗に舎利壺発見するも水にとけなにもない舎利壺唐代海獣葡萄鏡発見、その上は空洞地下の密閉空間で湿気の為心中柱の下が腐りほぼ地面から浮いている状態だった。と記録されています。

又そこはうぶのまま(創建以来手をつけられていない)でだあったそうで、唐代海獣葡萄鏡があったという事は唐との直接外交があった証拠であり、やはり五重塔も白鳳期後期以降の建築と認めざる得ないでしょう。

意外でしょうが、この中心柱は五重塔とはまったく構造を同じくしていません。様は上の飾りを支える物で塔を支える物ではありません。
しかしこれこそが地震大国日本で生き延びた理由なのです。
お互いを支え合い組まれた材木は、地面が動けばそれに同調して揺れながらバランスを保ちます。さすがに老朽化には勝てず、何度の改修の結果やはり当時の姿ではありませんから全体的にも歪感があるのはしかたない事ですがやはり美しい塔には違いありません。
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五重塔は仏教施設では釈迦の骨を祀る墓ストゥーバ
だから法隆寺の五重塔そのもののが非業の死を遂げた厩戸王子の子孫達の供養塔と言えるでしょう。

入鹿と呼ばれた林太郎鞍造さえ管理していた土地にはいまでも入鹿神社という社があり、地元の方がいまでも大切に祀りされています。
なぜに無実の山背大兄王達には墓や祀る寺社がないのでしょう。

まあ墓はあったにせよ現在までここであるという確証のある墳墓は発見されていません。一族二十数名といいます。
死者の魂は「鎮護」しなければ祟られます。???

その替わりにされたのがこの五重塔ではないでしょうか?

「これだけ供養したのですから、どうぞ祟らないでください。」という願いが鎌を飾ったのかもしれません。
又龍は雨と雷とも関わり深いので、日本書紀に宝大王期に起こった奇怪な事件龍の出現=蘇我林太郎鞍造から災難を避ける意味もあるかもしれません。

この塔の完成も何度も工事が泊まり長い歳月をかけざるおえません。
ようやく完成したのは元明天皇期頃和銅期よりも少し前と考えてもよいでしょう。

四項 中門と回廊
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さて再建法隆寺の建設は中門とそれを囲む廻廊を建築完成します。
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この中門も謎の一つ、まずその構造がきわめて金堂に似ている事、そして最大の謎門であるにもかかわらず中心に柱が一本まるで道をとうせんぼしている事です。また中門の周りの壁が左右に一軒分左がたりないのです。
まず構造は入母屋造の外見二階建、正面柱間は4間、奥行きは3間正面という大変珍しい間の取り方をしています。手前は門ですが、その奥がまるで部屋の様に広いのです。

その材木の伐採年輪年代690年代末、いえば建築後期の作です。
しかも通常あるはずの講堂が創建当初の法隆寺にはなく、その場には食堂があったそうです。

そう考えると、この中門は講堂も兼ねていたのではないでしょうか?建築を急いだのか?もしくは財源が少なくなってしまったのか?理由はそのどちらかと考えていいでしょう。
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梅原猛氏が気にした左右一軒差のある廻廊の南側。
ゆえに真ん中に柱があってもそんなに問題はないでしょう。中門付き講堂、さらに真ん中に柱を造る事で一軒たらない壁との調和がなんとか取れるのです。
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そして廻りの回廊も後期の改修工事で廻廊の改造がなされています。当初は金堂、塔を囲み、食堂がその外にあったと調査の結果あきらかになりました。

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僧房
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東大門、創建当時は南門に平行して僧用の門があったが後世移築された門、今の門は室町時代の物です。
今でこそ大変りっぱな寺院ですが、和銅年間頃は南大門、東大門、中門、廻廊、金堂、五重塔、食堂、そして僧坊があるだけのこじんまりしたお寺と考えればよいのではないでしょうか?

奈良時代元明天皇、元正天皇、光明皇后、聖武天皇夫人橘夫人など朝廷の女性達によって「聖徳太子信仰」の名の元除除に大寺院の体裁を整えたといっていいでしょう。
女性の方が宗教にハマりやすいといいます。奈良時代は私達が考えている以上に混沌とした不安定な時代だったといえるでしょう。

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絶対変ですこの御寺!
歪感このうえない!
建物!中の美術品、仏像バランス悪すぎです~~~気持ち悪いです~~

【法隆寺と時代背景年表】
593年  四天王寺着工
596年  法興寺完成
601年  厩戸王子斑鳩宮造営
605年  厩戸王子斑鳩宮移住
 ?    厩戸王子斑鳩寺建立
618年  隋滅亡唐建国
622年  厩戸王子崩御
628年  唐中国統一
626年  蘇我馬子死去
628年  額田部大王崩御・皇位継承争う
629年  田村大王即位
630年  百済大寺建立開始
641年  田村大王崩御・蘇我倉山田石川麻呂山田寺造営開始
642年  宝大王即位
643年  山背大兄王襲撃事件一族死亡、斑鳩宮焼失
645年  乙已の変蘇我宗家滅亡
  軽大王即位、大化改新開始、蘇我倉山田石川麻呂山田寺建立開始
647年  斑鳩寺に三百戸食封施入

649年  蘇我倉山田石川麻呂が謀反罪により山田寺仏殿で自殺
653年  軽大王を難波宮に残し、宝上大王、皇族、重臣飛鳥に戻る。
654年  失意のうちに軽大王崩御
655年  宝大王再即位する 
660年  百済、唐新羅軍に滅亡する。
661年  宝大王筑紫で崩御、中大兄王子皇太子のまま政務をとる。
663年  白村江の戦いで敗戦、百済人等と共に帰国する。山田寺塔完成
667年  大津宮へ遷都
668年  中大兄王子葛城大王即位・高句麗、唐軍に滅亡。
669年  中臣鎌子死去
670年  斑鳩寺全焼
672年  壬申の乱起こる
673年  天武天皇即位・百済大寺を高市大寺に再建。
679年  法隆寺食封停止
680年  橘寺失火
684年  法起寺建造開始
686年  天武天皇崩御・大津皇子謀反罪で死亡
690年  持統天皇即位
693年  法隆寺に経台他を施入
694年  藤原宮遷都・法隆寺に金光明経を下賜
697年  文武天皇即位、持統天皇太上天皇として譲位
698年  薬師寺完成
702年  持統太上天皇崩御
706年  法起寺完成
707年  文武天皇崩御・元明天皇即位
708年  法隆寺詔により造る
710年  平城京遷都
711年  法隆寺完成
715年  斎、法隆寺に設ける。元明譲位元正天皇即位
716年  大官大寺、大安寺(旧高市大寺)を移転
718年  法興寺、薬師寺、新都に移転
719年  法隆寺に唐から舎利、壇像一具施入
720年  日本書紀天皇に献上・藤原不比等死去。
721年  元明上皇崩御
722年  法隆寺に財宝、食封百戸施入
724年  元正天皇、聖武天皇に譲位
727年  法隆寺食封停止
729年  長屋王の変、安宿媛夫人から皇后に立つ。
      仁王会により聖武天皇仁王経、供養具施入
732年  聖武天皇仏3像と仏画施入
733年  橘三千代死去
734年  法隆寺に財宝施入
737年  藤原四兄弟疱瘡で死去
738年  法隆寺に食封二百戸、聖武天皇浄寺奴一口施入
739年  東院造営
740年  藤原広継の乱
746年  朝廷より資材帳勘録の製作を命じられる
747年  法隆寺資材帳完成・新薬師寺建立
748年  行信 聖霊会始行・元正上皇崩御
749年  聖武天皇、孝謙天皇譲位、法隆寺に施、綿、布、稲、懇田地施入
754年  太皇太夫人宮子崩御
756年  聖武上皇崩御遺品法隆寺施入
760年  光明皇太后崩御
770年  百萬小塔完成、十大寺に分置される。

第四章「法隆寺の国宝美術品」
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①伝橘夫人厨子念持仏
個人的にえ~~橘夫人って本当に橘三千代の事?と疑っていました。
だって県犬養橘宿禰三千代は生前は正三位まで死後は正一位大夫人の称号を持った内命婦(後宮の女官)です。
確かに藤原不比等夫人でしたが、夫人というにはあまりにも独立した人物だったので、東院伽藍にある伝法院の元の持ち主従三位橘宿禰古那可智夫人とばかり・・・
でも調べていくと、製作年が大宝~和銅年間(天武から元明天皇の頃)まだ古那可智が生まれるかなり前である事と元明上皇の発病を期に出家したという事実。
これまた平城京の県犬養門近く、不比等邸の西側の発掘調査で阿弥陀浄土院の遺構跡が発見され、又彼女の遺品の経典に西家経と記されている所から三千代が阿弥陀仏信仰者であったのは間違いないようです。

また須弥座下框の板に「光明后母公阿弥陀座」と鎌倉時代の墨跡があり、聖徳太子伝私記にも記載が「光明皇后の母橘大夫人の造る所也」後世で考えられていた事をふまえて、この様な美術品として国宝級の厨子を持つにふさわしい橘夫人という女性が白鳳、天平時代にいない以上真実と受け止めなくてはいけないでしょう。

(但しもう一人平安初期にもいましたが、はい嵯峨天皇皇后橘嘉智子実は元夫人の称号で入内しました。ん~~~ど~なんでしょう・・・・・)

県犬養三千代は東人を父に持ち、宮中に出仕中に始め美努王に嫁ぎ、諸兄、佐為両王と牟漏女王(後房前夫人)を産み、後に藤原不比等の妻となり安宿媛(後の光明皇后)を産んだ時代的には天武、持統、元明、元正、聖武天皇時代を生きた宮廷女官です。この人今でいうかなりのキャリアウーマンでししたたかな女でした。
持統天皇の信頼深く、草壁皇子の遺児軽皇子の乳母に抜擢され、さらに軽皇子の母後の元明天皇の大きな信頼おも勝ち取り、後に元明天皇が病床にあった際は元正天皇の許可を得て出家するほどどっぷりとした関係を築き上げます。
又夫が大宰府に赴任中に藤原不比等と結婚します。

ただおそらく夫の大宰府赴任中の統治は持統天皇期です。これは憶測ですが、二人は宮中で知り合ううちに意気投合、それを感じた持統天皇が遠い大宰府へ美努王を都から遠ざけたのでしょう。持統天皇は軽皇子を即位させたい意向がありました。しかし天武天皇の皇子達が何人も存命しており、天皇の皇子でない軽皇子の即位は容易ではありませんでした。
そこで朝廷の懐刀不比等と後宮の懐刀三千代の婚姻を後押ししたのでしょう。そのかいあって軽皇子は高市皇子の後押しもありましたが、無事に即位して文武天皇となります。

しかし二人の仲はそれだけではありません。

偶然か必然かかなりのこじつけか入鹿暗殺時にもクーデター立案者鎌足とクーデター実行犯同じ(県と海の差はあるが)犬養姓のメンバーもいましたね。
そして不比等の長女賀茂氏の娘宮子と文武天皇の長男首皇子(後の聖武天皇)に不比等と三千代の長女安宿媛(後の光明皇后)を入内させます。
さらに不比等と故蘇我娘娼子の二男房前には三千代の前夫の子牟漏女王を嫁がせ、その子を聖武天皇の北夫人として、又前夫との子佐為王の娘古那可智も入内させます。この房前を選ぶ所さすがです。
房前は不比等に似ていて優れた参議でした。特に元正天皇の内臣として寵臣で四兄弟のなかでも将来有望株だったからです。
またさらにそれだけではありません。前夫との子の諸兄に不比等の娘をもらい後年諸兄から二世後に嵯峨天皇の橘大后を誕生させるのです。

阿閉皇女(後の元明天皇)が特に橘という姓を授けたほどの後宮の大物でした。
確かにここは素直を認めましょう。
しかしどうしてこれがここ法隆寺にあるのか?
やはり光明皇后の施入でしょう。母が亡くなり、遺品を受け継いだ光明皇后が東大寺に施入した様に法隆寺にもこの厨子を施入したと見て間違いないでしょう。
三千代は何も願って阿弥陀仏を信仰していたのでしょうか?自身と子供達の繁栄でしょうか?故元明天皇の安らかな浄土の世界の生活をでしょうか?それとも娘の栄華の為に黙認した長屋王と吉備内親王(吉備は元明の娘なので同時に元明天皇への贖罪も兼ねる事になります。)の贖罪の為の供養でしょうか?
出家後は平城京西不比等邸の西側の私邸で観無量寿堂で経典の写本、阿弥陀如来像を信仰する尼という生活を経て天平五年正月に亡くなります。

②玉虫厨子(伝飛鳥時代七世紀前半作)

先の伝橘夫人厨子念持仏は実は法隆寺に施入する際、又は施入後、四面に扉と壁を付属させて、この玉虫厨子の反対側の金堂に安置されていた。
つまり厨子念持仏が施入される前にすでに玉虫厨子は金堂にあったわけです。

この厨子は額田部大王が礼拝していた仏像を安置し唱えられていたいう伝承のある檜製飛鳥時代の厨子と言われています。
が、この厨子も誰が、いつ、どこで、なぜ、どのような経緯で法隆寺にあるのかはまったくわかっていない。

構造は上層部が宮殿部、その下に須弥座、更に台脚部を持つ仏を安置する仏壇です。
完成時には内部は霊鷲山浄土図を描き、阿弥陀如来三尊像が中に安置されていたというが、その後盗難に合い、在は金銅観音像が入れられています。
高さ233CM、宮殿部分の屋根は入母屋造、尾垂木、雲肘木など法隆寺の金堂部分にほぼ近い構造で表扉部分に武装神将像、二菩薩像、を描がき全体に黒漆が塗られています。

その下須弥座の扉に有名な捨身飼虎図、施身問偈図、舎利供養塔が描かれています。前者2図は共に釈迦の前世の行いを絵柄にしたもので、自らの身を犠牲にして他を救う慈悲の深い姿を描いています。
この絵がこの法隆寺にある事の重要性は前文の山背大兄王子の悲劇を思わせる上で重要な様に思えます。
しかもその図は金堂の下に描かれているのです。
台座部分の金具の彫刻も美しく、完成当時はその名の由来となった玉虫の羽がその金具に張り付けられていたといいます。
この厨子で興味深い事は、その宮殿建物の構造が山田寺の金堂跡の柱を復元した様式を持つという点です。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂建立の氏寺であり、又中大兄王子暗殺容疑をかけられた際、その寺内で自殺した悲劇の場所でもあります。事件後、長く荒廃していましたが、中大兄王子即位2年目に再創建が始まり、その後天武天皇が皇后(後の統持天皇)の祖父に当たる石川麻呂の鎮護の為に再建したという逸話の残るお寺です。
しかもその下に石川麻呂や山背大兄王子の自虐行為を賛美するかのように描かれた図。法隆寺=鎮護寺のイメージにバシッとハマるのです。

誰の厨子だったのか?本当に額田部大王だったのでしょうか?

やはり構造が軽大王時代の前後もしくは飛鳥時代最晩期と考えるなら、これほどの宮殿式仏壇を持てる人物は限られます。おもいあたるとするなら。かなりの憶測ですが・・・

①蘇我倉石川麻呂娘 中大兄大王妃「姪娘」父、親族蘇我宗家への供養
宝女大王 蘇我林太郎鞍造の贖罪への供養、建王(中大兄王子と蘇我倉石川麻呂娘「遠智娘」の男子)への病気平願と供養
個人的には宝大王の様に思えます。何故なら山背大兄王や蘇我豊浦大臣、林太郎鞍造親子への謝罪。孫建王は生まれつき病弱で言葉が話せないハンディがあり、幼くした他界するといった不幸。彼女の周りにある影が際立って見えるのです。

③夢違観音立像 八世紀初頭
「不吉な夢を吉夢に変えてくれる三観音(百済・救世観音と共に)の一像」
その所有が資材帳に明らかでない江戸中期の「古今一陽集」宝永7年(1710年)に東院絵殿の内陣の仏壇に安置されたという記述が所見のやや奈良に近い少女らしい柔らかな体位で白鳳時代の特徴が良く出ていながら天平芸術の特徴も出始めている名観音立像です。
さあ誰が悪夢にうなされていたのでしょうか?
この時代で芸術的にも秀でた仏像の所有が認められ、更に悪夢にうなされる人物とは?
候補者① 持統天皇
   ② 大来皇女
   ③ 斉明天皇
   ④ 元明天皇
①は母方の祖父蘇我倉山田石川麻呂の供養(父に殺された祖父)甥大津皇子のぬれぎぬをきせた罪悪感から息子草壁皇子の早死などの理由があるものの死亡時期が製作年と存命期間が合わないので却下。
②弟の供養の為に製作するもこれも①と同じ理由で却下。
③は孫建皇子の供養の為とするも更に時代が遡るので却下。
④この辺りが妥当かも、元明天皇の祖父は蘇我倉山田石川麻呂夫草壁皇子は大津皇子を犠牲にしたにも関わらず早死、悪夢を身近で見てきたでしょう。
厨子に入れて拝す姿も想像しやすいですね。
又死亡後に仮説ですが。縁の山田寺に寄進されて中世移行荒廃した寺の仏像が法隆寺にあってもおかしくありません。
なんせその寺の本尊の頭が興福寺の僧により略奪されるのですから。
まああくまで仮説です。

④四天王立像4体
この像も天平十九年(747年)の資材帳の記録になく、嘉承元年(1106年)七大寺日記が所見とされています。出所不明な仏像です。
「太子伝私記」と「別尊雑記」に記載のある厩戸王子が建立した四天王寺の絵図の像が良く似ていたと伝承されている事実を踏まえ、無動の四天王像があってもおかしくはなく、しかも當麻寺(厩戸王子の弟の子孫が建立)では七世紀末に無動の四天王像が安置されています。
時代につれ流動感あふれる様式がこのまれたと解釈してよいように思います。
ただし資材帳に記載がないおよび、しかも奈良時代の四天王像と違い動きがなく、しかも下の邪鬼も大人しく四天王と邪鬼のバランスの悪さ、またも光背と像を繋げるのに頭に杭を打ち込んでいる事実をふまえてこの立像には全体的に違和感を感じます。

仮説四天王立像は飛鳥元興寺にあった物を平城京の宮が移転した後、荒廃し保有していた四天王立像を当時四天王立像を保有していなかった法隆寺に資材帳完成後に転売された。って説はいかがでしょう?
購入した法隆寺はその縁起の手前、元興寺が蘇我馬子の氏寺という事実と、法隆寺が山背大兄王子がその孫林太郎鞍造に殺害されたという事実を考慮し、再び法隆寺内で惨劇が起こらない様に、山背大兄王子が激昂して災いをおこさない様にその頭に杭を打ち付け、像を四方に配置したという説はどうでしょうか?

⑤百済観音立像 伝飛鳥時代

【百済観音像は吉備内親王像】

虚空蔵菩薩像とも言われ、江戸時代中の所見に百済(朝鮮半島にあった国、日本とも文化交流がなされ特に仏教伝来は百済からと言われている。)観音菩薩像と初めて法隆寺にあらわれる。やはり出所不明の菩薩像。
非常に女性的で極めて救世観世音菩薩立像に似ているが、それより似ているのは法輪寺の菩薩像、くりそつ!
しかし完成度ではこちらの方が遥かに上。時代的にも飛鳥時代でいいのか?と思えるほど。
下半身は空洞で、楠木の一本彫りで頭に冠を掲げて、左手に持つ水瓶は惜しみない幸水を人に与える慈悲深い仏の象徴なだそうです。

意外と法輪寺の観世音菩薩の完成盤、というか法輪寺の菩薩像に似せさらなる完成盤を製作されたのかなあ~でしょう?と言いたい法隆寺の仏像の中でも人気の高い仏像です。
非常に痛みが激しいのが残念です。
伝飛鳥時代というけれどはたして???どうかなあ~~~
無理やりですが、夢殿の観世音菩薩立像が長屋王のように、この像は無実の罪で自害させられた彼の妻、「吉備内親王」という説いかがでしょうか?
これで二体の供養仏完成させ、法隆寺ではなく中宮寺【厩戸王子を長屋王にすげかえた様に、厩戸王子の母穴穂部大后を吉備内親王にすげかえて】に安置されていたが江戸の時を経て、縁の法隆寺金堂に安置された。
なので、奈良時代に製作された法隆寺資材帳には記載がない。当然奈良時代は法隆寺は官寺といって良いでしょう。だからこそ資材帳の記載を義務化されたのですから、その資材帳に記載がないのは当時なかったと断言していいでしょう。但し縁の寺院にあった。だからこそその寺院が廃寺になった際に関連のある法隆寺に安置されたともいえるでしょう。
な~~んてのはどうでしょうか?


追記:丁度法隆寺資材帳縁起が完成した当初は法隆寺は官寺級の扱いであったが、平安時代都が奈良に離れるとそうはならず資材帳もいい加減になっていったと想像出来ます。なので、完成後後世に法隆寺にもたらされた国宝級の宝の縁起がわからなくてもなんだ不思議はないでしょう。

法隆寺の情報は【こちら】

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クッパのお店「一平ちゃん」に来店です。ここのご主人が本場のオモニから伝授だれた韓国スープをお持ち帰り
です。
お店の情報は【こちら】

帰宅後お茶しました。
美味しいわ~~
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次回京草子本編は11月25日更新予定です!
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