2012-08-12

異国詣を草子する

訳:海外旅行で思う事をいろいろ書いてみる

舞少納言は海外旅行いかないと自分が壊れてしまう病の末期患者!自分で宣言しちゃいます。
1年最低1回はいかないとイライラ止まらない!!!!!

でも!
でも関空に戻った瞬間はぁぁ~~~日本て素敵日本人でよかったと実感するんです。
なんでしょう???永遠の港を持たない舟にはなれない私

で考えてみた
なんで~~????
日本について

正式名称 「日本国」
言語    日本語
象徴天皇制を掲げ内閣総理大臣が国政を担う民主主義国(現在はである)
人工1億21千万人
民族モンゴロイド系単一民族
国土 日本列島を中心に東西南北に島々を持つ海に囲まれ、平野や盆地、山々に自然に富む風光明媚な国
   火山活動が続く地震大国でもある。
経済 自由主義経済で現在世界第3位の経済大国

おおまかはこんな感じ!すっごいおおまか
日本、日本人よく外国がいう特徴を記載してみた。

①短足胴長(平成生れあたりからは違うが)
②身長が短い(上記に同じ)
③大人しい感情起伏を面に表さない
④優柔不断
⑤安全(治安、交通全般においていえる2011年1一位・平和度第3位)
⑥優しい、親切である
⑦清潔好き(毎日風呂に入る、除菌好き)
⑧礼儀正しい
⑨忍耐強い
⑩争いや人との意見衝突を好まない
11勤労勤勉である
12自殺率が高い(第5位)
13外交が苦手である
14謙虚である(世界の好きな国別ランキングでも第3位)
15集団行動が得意もしくは好きである
16<平均を好む傾向がある
17家事、労動所要時間が長い(家事時間第1位・労働時間2011年第2位)
18男女共に幼稚さもしくは若さを好む傾向にある。
19発想力が苦手である
20意外と新しいものを受け入れやすい、又は好き
21平和好き

追記:この特徴はあくまでも敗戦前までの日本人の特徴であり、現在の日本人に照らしあてると一部違います。

これくらいにしておこう。日本にいるとあまり気つかないけれど海外にいると特有の緊張感が必要になります。
それこそ安全が担保されていない海外ならではの自衛策なんですね。

でもじゃあなんでそうなのか???

ここから壮大なテーマ

(1)人類の壮大な大移動に行きついた1つの最東端が日本列島

現在の人類は25万年前くらいに現れた霊長類で唯一生存している新人と呼ばれる種ホモサピエンスと呼ばれ、現在の東アフリカにその起源があるとされています。

人類誕生以前は自然豊かなアフリカの森に暮らしていた霊長類の一部(どうやら一つの集団ではなかったらしいが)が地球規模の自然変化にともない森を離れサバンナに二足歩行したことで大きな進化を遂げました。
いろんな人類が誕生し、最後に生存しているといわれているのが20万年前に誕生したといわれる新人が直接の私達の先祖です。(いわゆるアウステラロピテクスやネアンデールタール、ジャワ原人、北京原人は私達の直接の先祖ではありません。)

生存競争を生き抜き、約10万年前アフリカを北に移動またはその場に定住(黒人)しながらアラビア半島で大きく左右に分かれたのが4万年前西へ行ったグループが欧米人(白人)になりました。又東へ行ったグループ(黄色人種)は更に約5~6万年前東南アジアで大きく東に分かれアボリジニに、別のグループが北上し3万年前にシベリアへ又、中国(このグループがさらに1万5千年前東ベーリング海峡を渡り1万2千年前に北米のイヌイット、インディア、その後1千年かけ南米の先住民族になりました。
又東に移動した別グループに朝鮮半島、日本列島へ移動、移住していきました。この大移動の最終到達年は1万年前と言われています。
つまり、中国、朝鮮、日本人も枝葉を同じ、中国人から分かれたグループではありません。

日本列島にいわゆる日本人の祖先はいつ到達したのかは???何故なら人類の化石がきわめて残らない地理的原因が影響しています。
但しその時代はおおまか旧石器時代~1万6千年前にあたります。
この単一民族という特徴辺りは19にあらわれているかもです。多種多様な民族がいればいろんな価値観発想も生まれやすくなるでしょう。(北方のアイヌや南方の沖縄民族も元は縄文系の強い血を受け継いでいる)

この時期は世界的に丁度200万年前から始った氷河期(但し氷期、間氷期を繰り返す)にあたり、人類がナンマン象やマンモスを追いかけ、狩猟生活し移動しているうちにまだ大陸と陸続きだった南部分(もしくは北部から)から日本列島付近に到達、定住移動の繰り返す間に氷河期が氷河期と間期と呼ばれる比較的温暖な気候が続いていました。
えげつなくおおざっぱな解説です、しかもその他に異説もあり年代など流してくださいね~~~。
この時代は1万6千年前まで続き歴史的には旧石器時代と呼ばれます。
彼らは主に狩りをおこなう為集団で生活し、見晴らしのよい高台の洞窟、岩陰で居住していました。
遺跡から主に狩猟を生活の糧とし、又植物採取も行われていたといいます。

この時代で私達の特徴に影響を及ぼしているのはやはり①②の身体的なもの18の精神的な特徴でしょう。
小柄な日本人は幼さを装う事で女性は食を得て、男性は他のグループに警戒心を解きやすく又弱さを見せあう事で団結力が増すなんてかなり私見ですね~~~

氷河期は寒く又安定的食糧も確保が難しい。当然外見的な要素に現れてしまいます。しかも植物採取で得た食糧は食物繊維が多く消化するのにとても時間がかかります。よって腸の長さは長くなり、そのせいで胴は長くなります。
又勤労でなくては命の危険にさらされます。ここで11、15も同時にあらわれるでしょう。
身体的に弱いとあとは集団で大きな獲物を狙うしかありません。よって集団行動が得意な遺伝子も構築されていくでしょう。
でなければ即死あるのみです・・・・・・。だから集団スポーツはとても得意なんでしょうね。野球、バレー、サッカー、その他のスポーツも団体戦は得意だったりするでしょう。


そんな狩猟生活から一転日本人の大きな転機が訪れます。
地球の温暖化です。温暖になると海水が上昇するだけでなく、今までマンモスやナンマン象などの大型動物が姿を消して中型小動物がそのターゲットになります。するとそれらの動物の行動範囲はきわめて狭く人々は洞窟から洞窟へ転々と移動する生活から定住する生活へ変わってゆきます。
四季を経験すると冬を我慢すればやがて春がやってきて穏やかで実りの時期が訪れる4、9の特徴はこの辺りからからでしょうか。我慢すれがいずれは良い事がある。のを知っているのです。

この変化はだいたい1万650年前から3千年前まで続き、縄文時代と呼びます。
平地に竪穴式住居を作り、狩りをし、近くの森では木の実などの収集も行い生活をしていたと考えられます。
この頃ドングリや栗そのた加工の必要な木の実を煮たきしたり、又保存の目的から土器が各地に出現していきます。この仕上げに縄でならした跡があることから縄文時代と呼ばれる由縁です。
ここで当然この作業をしたのは女達、ここで日本人の特徴17家事労働時間が長いに結びつくんです。木の実、竹の子などアクの強い素材は下ごしらえが大変てまなのが特徴です。ドングルはなんどもなんどもゆでないと苦くて渋くて食べれたものではありません。まだまだ縄文時代から抜け出せない・・・・。

話しは戻し人々はただ狩猟するだけでなく、そのうち生産する事を覚えていきます。
狩猟するだけでは取れないときは命の保証がありません。なら育ててみよう!
意外ときっかけは単純だったかもしれません。たとえばゴミの穴にいろんな植物の残飯を埋めていたらある時芽が出て、あ~~~これってできるやん~~~的な発想だったかも。動物がとれない!!!じゃあ~~~育ててうませればいいじゃん~~~とか・・・・。
こうして大きな集団が各地で現れるんです。そのうち縄文晩期では水田稲作ではないものの陸稲もおこなわれ始めていきます。
こうして徐徐に弥生時代へと移行していくのでした。
3、15、16あたりの特徴が構築されていったのではないでしょうか?
小さな人間が今日を生きる為には集団生活を円滑にするため、性格に影響したとしても不思議ではありません。
なんせ性格は遺伝するのですから!!!

縄文晩期に行われた陸稲はさらに効率の良い水田稲作により、新しい時代を迎えます。
紀元前3世紀頃から紀元後3世紀あたりまで続いた弥生時代です。
弥生時代とは当時の土器の名からその呼ばれるようになりました。
この弥生時代で特徴的なのはなんといっても稲作の発展でしょう。初めこそ需要に生産が追いつかない状況で粟、ひえ、木の実、栗などでおぎなっていたもののその後生産性の高い水耕栽培による稲作は食糧確保に大きく貢献してゆきます。
日本人はほぼ飢餓の危機から回避出来る手段を手に入れたのです。
ただこの稲作方法実はどこからどのように伝来したかはわかっていません。
中国からというのは定説ですが、直接中国から船に乗り中国系渡来人たちが伝えたのか中国から間接的に朝鮮半島を通じて伝来したのかは稲作の遺伝的解析を用いてもはっきりしないのです。、
日本はいろんな遺伝子を持つ稲があり、特徴がないというのが原因ですが、これはいろんな方法で伝来したともいえるのではないしょうか?

後者の朝鮮半島から伝来したという説ですが、実は朝鮮半島の稲を遺伝上検査するとb遺伝子を持つ稲が存在しないことがわかります。所が日本ではこのb遺伝子も存在するのです。そして日本はすべての遺伝子を持つ稲が存在するのです。しかもaは東北でbは西日本が多いそうです。中国では他に多くの遺伝子を持つ稲があるが一番多いのがbで次がaなのだそうです。
稲作は中国の揚子江下流がその最古といわれており、渡来系弥生人のDNA検査によると今の長江流域山東省から当時殷から周への支配移行する動乱でその地方に住んでいた人々が戦乱を逃れ大陸から北九州経由で日本に渡ったという事実が確認出来、各地に伝来したとも考えてよいのではないのでしょうか?
そう社会の時間で教わった朝鮮半島からの稲作伝来はそうとう怪しくなったんですね。

しかし大陸からの渡来人達の往来で日本人もゆるやかな大陸系と日本純潔種の混合が始まります。
但しそれは大規模なものではなく九州の北部、西日本くらいにあたるようです。

稲作の栽培は大きな転機の訪れでした。
まず、その農具は石器から同じく大陸から伝来した鉄器に変わり、青銅器は稲作の実りを願う祀事に使われる道具となり、いつしかその収穫の高い低いが貧富の差をうむ事になります。

ここに村という大集団が大きく発展して、部族集団の中で支配者と非支配者が出来あがり始めます。
この辺りの遺跡で有名なのが吉野ヶ里遺跡です。紀元前3世紀から3世紀まで発達した村から国に移行する弥生時代当時の集落を今に伝えています。

村はしだいに拡張していき、集落を形成し沢山の村が誕生すると今度は稲作を巡り、各村同士の争い事が起こり始めます。
稲作には水が必修条件です。その確保を巡り衝突が起こり始めると村同士の戦に発展、これが淘汰されやがて国の成り立ちが始まるのです。

ここで20もクリアになります。そして渡来人達は日本人に利をもたらしてきたのだから必然的に優しくなりますよねこれで6もクリアです。異人を受け入れる事で得をした!という考えが定着したのでは?
そういえば江戸時代に鎖国した後開国後にはさすがに異人に対しては偏見があったようですが、明治時期になるとなくなりどんどん受け入れたという歴史的事実がありますね。

さて日本にいつから国が出来たのか?
その答えは容易ではありません。何故ならその証拠を残す字の存在がなかったからです。そしてどんな条件がそろえば国といえるのか?
絵文字さえ遺跡に出てこない、唯一は土器や青銅器に描かれた絵くらいです。
残念ながら奈良時代に書かれた日本書紀の記述は信用出来ません。

但し現在の中国、朝鮮半島ではその記録が王朝毎に記録され断片的ではありますが、かろうじで知る事は出来ます。

中国大陸と朝鮮半島から見た日本?
実は日本という国名は奈良時代に当時の中国大陸の唐に朝献した際に日本の使者が「我国はこれから日本と呼びます。何故なら日の始りの本だからです。これからは日本と呼んでください。」と皇帝に朝献し中国大陸と朝鮮半島で日本と呼ばれ始めます。
それ以前は倭と呼ばれていまた。


朝鮮半島に存在した新羅の正史新羅本紀は赤色
百済本紀の正史は青色
高句麗の資料は桃色
中国大陸の正史は黒色で記述しています。
年代に多少前後します。

新羅は朝鮮半島の東側にあった国名、史実上は4世紀に登場し、高麗に滅ぼされる935年まで続きました。
百済は346年から660年まで朝鮮半島の西側にあった国、日本と非常に結びつきの強かった国、最後は唐と新羅の連合軍に敗れ滅亡しました。
高句麗は朝鮮半島北部にあった国名、紀元前37年から668年まで続いた国です。
この三国は同時期に繁栄し、互いに牽制し合っていました。
倭と呼ばれた日本とは非常に外交的にも文化的にも影響し合った国々です。

注)各書の記述は倭国又は倭兵に対してのものに限ります。(倭人の記述は省く)
   又歴史書はその時代の書いた書ではなく、時代がかなりくだり古い王朝の歴史書を後世の王朝が製作した物   であるという事もあわせてつけくわえておきます。つまりその内容はリアルタイムではありません。

中国、朝鮮が日本を倭と呼ぶ場所はあくまで今の日本の辺りという認識なんので、統一国家という見方はしていません。つまり沢山の国が存在し○○国とみずから宣言してもすべて「倭国」とみなされます。
又各国各時代毎に倭伝で重複する内容が多いのは前王朝の正史が当時の王朝の正史に影響を与えた為と思われます。
つまり、自分の建国した国の正史を編集させる際に前王朝の正史を参考にさせたためと考えられます。


(33年)九年 夏六月 倭兵攻陷沙道城 命一吉大谷 領兵救完之

(59年)夏五月 與倭國結好交聘

(35年)十一年 夏 倭兵來攻長峯城 不克

十二年(123年) 春三月 與倭國講和

建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬光武帝

中元二年(57年)の時代に朝献し志賀島で発見された「漢委奴國王」の印で存在が決定的になった北九州に存在した国です。

この奴国の印は1784年に志賀島という北九州の北部にある小さな島の農民が水田で発見しました。
では何故こんな小島で???
考えられる理由は2つ
①漢が滅亡したので、奴国王が離島に埋めた。
②奴国が滅亡したので政略王が離島に埋めた。
どちらも金印の価値はありません。そこで離島に埋めた。つじつまが合います。

安帝永初元年(106年)、倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見

上記の倭国、奴国はやはり北九州に存在した国と考えてよいと思います。
大陸の文献は倭国を沢山の国があり、皆王を名のっていると書いているのです。
九州は大陸に近いせいもあり、古くから農業、鉄器など最新の技術や文化がいち早く輸入された倭の文化技術発信の最前線の場所でした。
その証拠に弥生時代だけでも大きなもので吉野ヶ里、平原、板付、岡本、原の辻遺跡などが発掘されています。

よって紀元前から1世紀から2世紀始めの大陸の文献の記述は北九州の国々、そして他に挙げるとするなら古代出雲国(出雲、伯耆国)、吉備地方でしょう。

出雲という地域は荒神谷遺跡や田和田遺跡、加茂岩倉遺跡、妻木晩田遺跡、竹ヶ崎遺跡、柳遺跡と弥生時代に相当発展した国が存在したのは事実の通りです。
しかも位置的には新羅に近く、朝鮮半島北部楽浪郡や伽耶産の遺物が出土しています。又古事記では伊耶那美命の墓がある地であり、天高原国を追われた速須佐之男が

故是を以て、其の速須佐之男命、宮を造作るべき地を出雲国に求めき。爾くして、須賀といふ地に到り坐して、詔はく「吾、此地に来て、我が御心、すがすがし」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地は、今に須賀と云ふ。

速須佐之男から大国主神へ出雲統治を娘を正妻にする事で委任された国です。

「其の、汝が持てる生大刀・生弓矢以て、汝が庶兄弟をば坂の御尾に追ひ伏せ、亦、河の瀬に追い撥ひて、おれ、大国主神と為り、亦、宇都志国玉神と為りて、其の我が女須世理毘売を適妻と為て、宇迦能山の山本にして、底津石根に宮柱ふとりし、高天原に氷椽たかしりて居れ。是の奴や」といひき。
故、其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追い避りし時に、坂の御尾ごとに追い伏せ、河の瀬ごとに追い撥ひて、始めて国を作りき。

大国主と天照大神の国ゆずりの話しは有名ですね。

「僕が子等二柱の神が白す随に、僕は、違はじ。此の葦原中国は、命の随に既に献らむ。唯に僕が住所のみは、天の神御子の天津日継知らずとだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて、治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隠れて侍らむ。亦、僕が子等百八十の神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為て仕へ奉らば、違ふ神は非じ」と、如此白して、出雲国の多芸志の小浜に、天の御舎を造りて」古事記から

大和政権が必要以上に出雲大社(大国主を祀る神社)祟りを恐れ祀り、現在も本殿には天皇家の方も入れないという事実があります。
そして奈良時代に完成した出雲風土記は完成までに十数年を費やしています。
奈良時代までも出雲という土地は禁地だったのでしょう。大和朝廷と出雲はやはり元は敵対国とみていいでしょう。

また吉備国も重要です。当時の吉備は現在の範囲より大きく岡山、広島、香川、兵庫の一にまたがり、やはり楯築遺跡、百間川遺跡群、紫雲出山遺跡と近畿近郊で大きく繁栄していたことがわかります。
又位置的にも出雲と覇権争いをしていた可能性も高いと思われます。

正史ではこの項以外でも日本が新羅に侵攻した記述が非常に多いのに驚かされます。しかも高句麗本紀(広開土王の碑文には百済と倭国が攻め込んだ事が記述しています。)、百済本紀でも侵攻した記述はなく、百済にいたっては初期においては記述がないが、高句麗、新羅との戦いで劣勢に成り始めると倭国を講和し、軍事的にも文化的ににも友好関係がその王朝末期、飛鳥時代百済滅亡の危機に際しては皇極女大王が筑紫まで出向き援軍を百済に送るくらいの関係でした。

ただし各国初期では神話の時代(建国していたかさだかではない)です。しかも倭国ではなく倭人の記載ですから国として侵攻したのか、ただ単にいわゆる倭寇(倭人の海賊)なのか?不明なのですが21があてはまらないんです。
何故か?でも考えてみれば日本国内で戦いはどの時代でもありました。その代表が戦国時代!
比較的平和だった平安時代でも平城上皇の変、将門の乱、前九年の役、後三年の役、保元の乱平治の乱等々

これは嘘というか、最後の戦争の後遺症といっていいでしょう。大東亜戦争で大敗北!でもそのおかげで平和で経済大国へと成長出来た近年の日本人がつくり上げた神話といえます。


別記に面白い記述がありました。
脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里
ここで面白いのが新羅の第4代王脱解は今の丹波国で生まれたという記述とその後その国が倭の東北である事
これは???脱解が新羅と日本の女性とのハーフ?それとも質?謎!!!

さらに興味深いのはその後丹波国が倭の東と記述している点です。これはもし倭=日本が大和(奈良盆地)にあれば西北と書くはずです。でも東北という事はその時期の倭の中心都市は九州北部と考えられます。
それを示すように前記の倭の新羅侵攻が非常に多くまた、まるで陸続きと勘違いしそうなほどの近さで記述されています。すくなくとも新羅前期、倭は九州にあった。

又新羅本紀では倭人や倭兵の新羅への侵攻の記述がありますが、これは伽耶や新羅国内の倭人の反乱、又九州北部の新羅侵攻という考えでよいと思います。

卑弥呼以前、倭国大乱の時代ついて
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年
魏史倭人伝から

70年から80年ほど男王が支配していましたが、2世紀後半頃146年から189年(後漢書では具体的に年数が表記されていました。)倭では大乱が起こり国が乱れたと記述しています。

さてその男王は誰でしょうか?今の天皇家の開祖でしょうか?
実は舞はその謎を解く鍵はやはり古事記に出ていると思うのです。
そう大国主神と少名彦命が二人で始めた国造りを少名彦命が放棄して常世国に行った後、途方にくれる大国主の前に現れる神「大物主神」

是の時に、海を光して依り来る神有り。其の神の言ひしく、「能く我が前を治めば、吾、能く共与に相作り成さむ。若し然らば、治め奉る状は、奈何に」といひき。
「吾をば、倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といひき。
此は、御諸山の上に坐ます神ぞ。

そうこれは大国主に大和をくれ!と言っているようにしか聞こえないのは私だけでしょうか?
もちろん神様など存在しません。ここではもちろん人としてです。古事記の完成した当時の支配層の多くは神様の子孫と自負しています。現在の残る神社の多くはこうした支配者層の先祖を祀る社がある事、家伝書にも記述されているので出雲国の大和支配を大物主神を名のる人物に譲渡するという意図が見え隠れしています。
その初期倭国王の墓こそ纒向古墳群でしょう。初期の物で2世紀末から3世紀半ば以前の建造物といわれています。
但し現在の天皇家の先祖とはいいきえれませんが・・・そうですという証拠もない。
しかし現在姓を持たない日本人は天皇家の人々のみです。
単純に考えれば一度も支配されていない証拠でもあるかもしれません。但し婿養子的に血族に入ってしまえば別ですが・・・・・。謎説き~~~これキーワードですよん~~~。


さて大乱がどの程度の大乱だったかは遺跡での立証がされていませんので、いまだに論争の火種になっています。
しかしあえてこれは大和連合国と出雲国、九州の国々の全面戦争と言い切りましょう。

九州の国々は大陸から渡来人が帰化しやすい環境にあります。中には知識人や技術者集団もいたでしょう。大陸の内情に詳しいはずです。当然青銅器から鉄器の誕生で農業技術だけでなく軍事技術も発展し朝鮮半島にも出兵するほどの国に発展していったものの、各国の軍事力が拮抗したせいで共倒れの様相を展開していった。これを横目に近畿の国々(ここは現在の近畿ではなくかなり小規模な国例えば河内、大和、葛城、平群といった国というより群に等しいと解釈)は更に東へ移動した大陸系や朝鮮半島系の渡来人の技術をうまく利用しや大阪、河内、奈良の平野部の穀倉地帯で富を増やし、当時最先端の鉄器の確保、生産を行って権力集団に成長します。
渡来人達は大陸と北九州の内情を伝える事で彼らは防衛策として連合集団国家への道を進むことになったのではないでしょうか?

ゆえにその連合を強める一番の結束力が「神」=宗教その地こそ三輪山でした。
だからこそ宗教色の強い国家出雲を武力制圧ではなく武力威嚇により併合し、その後もその神通力を異常なほど恐れたと言えるでしょう。

倭大乱の後、魏志倭人伝で倭国の首都邪馬台国に着くまで沢山の国の名を挙げることがなかったでしょう。「邪馬台国」のみを記述すればいいのですから、大乱は兵力の強大な九州北部の奴国、狗奴國と出雲国、そして河内、大和の各国の王はそのうち共倒れの様相が見えまじめる闘いに危機感を覚えました。
そこでゆるやかな連合を模索すると共に大陸への玄関口「九州」への進出を狙ったのでは?

その中心に三輪山の神の巫女卑弥呼が誕生した。
まだこの時代は弥生晩期にあたります。がそろそろ大形古墳が各地に登場し始めた頃、古墳時代までもう一息~~~って感じです。

(173年)二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘国
この年代には他に異論あり!遣魏使を派遣する50年以上前とても卑弥呼とは思えない。明らかな年代記述ミスでは?

【雑】日本からの参考書は今回は「古事記」を採用します。
古事記(フルコトフミ)の神武天皇から開化天皇までは当然架空の人物と考えていいでしょう。
この書は元は天武天皇統治時代 稗田阿礼が誦習した「帝皇日継」と「先代旧辞」を太安万侶が書き記し、編集し和銅五年正月廿八日に元明天皇に献上した日本最古の書物です。日本の正史「日本書紀」とは逸話がなかったり、別の逸話だったり、又天皇在位年代等記述が違うのが特徴です。それゆえ本居宣長が世にだすまでは存在さえ一般的でない書でした。
日本書紀が唐や新羅に対し外交向けの歴史書に対して古事記はどちらかというと天皇が神の子孫であり、神話的私的天皇家と国内向けの歴史書という側面が大きい書物です。


正五位上勲五等太朝臣安万侶
焉に、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯へるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔はく、「稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰ひ録して献上れ」とのりたまへば、謹みて詔旨の随に、子細に採り摭ひつ。
大抵記せる所は、天地の開闢けしより始めて小治田の御世に訖る。故、天御中主神より以下、日子波限建鵜草不合命より以前をば、上の巻と為、神倭伊波礼毘古天皇より以下、品陀の御世より以前をば、中つ巻と為、大雀皇帝より以下、小治田大宮より以前をば、下つ巻と為。併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安万侶、誠に惶り誠に恐み、頓々首々。



漢書(後漢の時代に編集された前漢の歴史書)
楽浪中有倭人、分為百餘国、以歳時、来献見云。

魏220年から265年まで存在した曹操が建国した三国時代の国の一つ
魏志倭人伝から(斉時代の魏書実は正史としてはこの魏志倭人伝が一番古い/黒色で記載した内容はこの書の記述)
注)魏志倭人伝

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。(中略)國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。(中略)其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。
(中略)景初二年六月(238年)、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹①、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。① 臣松之以為地應為綈、漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳寫者誤也。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」正治元年(240年)、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年(243年)、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年(245年)、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授 其八年(247年)、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。


後漢書倭人伝から(宋の時代の歴史書)
倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。(中略)國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。(中略)建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。(中略)桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。(中略)自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。(中略)

晋265年から420年続いた王朝
晋書 倭国伝から
倭人在帶方東南大海中、依山島為國。地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫(中略)國多婦女、不淫不妒。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

上記二史は魏志倭人伝から写されたと思われる箇所も多いので重複は最小限にしています。
概ねどの書も倭人は嫉妬、淫行を知らず、訴訟事も犯罪も少ないと記述されています。日本人の特徴を良く伝えていますね。また気候が良いという点は作物に困りのくい=安心=安全⑤がクリア

卑弥呼は2世紀末から3世紀に即位した邪馬台国の女王として大陸の歴史書に登場します。
その名の通り卑弥呼ヒミコつまり「日の巫女」つまりは神の巫女シャーマンでした。
神の啓示を受け、その内容を弟に伝言し弟はその啓示通り大夫達と共に政治を行う。
卑弥呼の普段は人にあわず、宮殿に一人過ごし一人の男だけが身の回りの世話をしていたと魏志倭人伝は伝えます。

日の巫女=日の神の巫女
日の神で私達がピンとくるのはあの天照大神
天照大神とはそう現天皇家の祖

舞はこの邪馬台国は大和にあったと解釈しています。
邪馬台国の音はヤマトに通じます。
遺跡の多さは他にありませんし、渡来人の往来も近畿内という悪条件(外海に遠い)でありながら多かった事実は否定できません。
卑弥呼の墓の候補は箸墓古墳と考えられており、大陸の卑弥呼の墓の大きさもほぼ一致します。
その場所は纒向遺跡からもすぐ近くです。この遺跡は3世紀に発展した催事用の遺跡と言われ、その遺物西日本から東日本の一部にまたがるほどの産地の物が出土すている事から当時の倭の支配圏がわかります。また三輪山を背に多くの大王墳墓もあります。
おそらく卑弥呼や臺與の宮殿跡ではないでしょうか?住居跡はあまりなく高床式の建物、祭祀場所、土器、水路、
そして柵もめぐらされていました。
「神の宮殿」に相応しいのではないでしょうか?
そして海路を確保し大陸へ朝献が可能だったのではないでしょうか?
西日本のほとんどが邪馬台連合国だった。そしてその女王の宮殿こそ三輪山周辺の纒向だった。

しかし平穏だった邪馬台国に一大事が起こります。卑弥呼が死去したのです。
葬儀後、倭男王が即位するも皆これに従わず再び戦乱が続きます。この戦乱の時期や年数、規模もはっきりとはしません。

しかし大陸の歴史書にその乱の死者が千餘人と書いている所を見ると日本列島をまたぐような大規模な戦ではないようです。おそらく卑弥呼に仕えた大夫達が卑弥呼の血統に継ぐ男系の王に従わなかったと見てよいでしょう。

おそらくは卑弥呼の外交の活躍から宗女臺與の即位まで50年は経っていないと考えてよいでしょう。又その規模も「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」と魏志倭人伝で伝わるように敵対する国との戦であるならもっと兵士の死亡があってよいはずです。

なので邪馬台国の内乱と考えてよいと思います。その内乱も臺與の即位をもって鎮圧され再び平穏が続きます。


(295年)三年 春正月 與倭國交聘
国として二度目の外交(臺與統治時代)

臺與はこの記述をもって中国の王朝の混乱からか歴史の舞台から突然姿を消します。ただし晋王朝は西晋に分かれ匈奴に脅かされ国内は混乱ていたとはいえ、王朝は存在し朝献しようと思えば出来なくはない。しかしそうしてまでも、晋に力がなかったといえば事実です。力のない国に使者を送ってもメリットはないですから。

その17年後には新羅本紀では倭王の外交の記述が見えます。
臺與死亡後、前例の卑弥呼死亡後の混乱を教訓に、臺與生前から男王への即位を準備していたとしたら、乱は起こっても小規模ですみます。

臺與も当然シャーマンで巫女となるとやはり親族の男(実際にまつりごとを行う政治補佐)がいたでしょう。
ここ男こそ御真木入日子印恵命(崇神王)三輪王朝の開祖としたらどうでしょうか?
(この時代天皇という言葉はまだない)古事記では

此の天皇の御世に(実際の政治は弟が行っていたので)、疫病多た起りて、人民尽きむと為き。爾くして、天皇の愁い歎きて神牀に坐しし夜、大物主神、御夢に顕れて白ひしく、「是は、我が御心ぞ。故、意富多々泥古を以て、我が前を祭らしば、神の気、起らず、国に亦、安らけく平けくあらむ。」といひき。
御物主神の子孫を探し当て
即ち意富多々泥古を以て、神主と為て、御諸山にして、意富美和之大神の前を拝み祭りき。
(中略)此に因りて、役の気、悉く息み、国家、安らけく平けし。
故、其の御世を称へて、初国を知らず御真木天皇と謂ふぞ。」

何故か突然三輪山の大物主神が祟るのです。そう唐突にしかももっと自分の子孫に自分を祀られろに要求するのです。これはいわゆる乗っ取りの痕跡では?大物主神は大国主の和魂でも、和魂というのは神の善の部分で祟りません。のはずが祟るのです。なんで???それは大物主神が大国主神ではないからです。
大国主神は少名彦命が共に国造りをしている際に突然常世国に行ってしまいます。嘆く大国主神の前に現れたのが、この大物主神。大国主神が名前を問うと「汝の和魂」と答えます。
じゃあ祟らないですよね。和魂は祟らないのですから。

なら元々三輪山を勢力とする大和を治める王がいた。卑弥呼即位前70~80年続いた王朝の祖ではないでしょうか?そう今の纒向古墳群に眠っている王達です。

御真木入日子印恵命は直接の卑弥呼の一族ではなかったいわゆる婿養子的(后は大毘古命の王女御真津比売命)に三輪山信仰を乗っ取った。故に三輪王朝で実在する王の后は王族という血の交わり(前王朝との血縁関係)を重要視した証拠であり、彼らの墓も近くの柳本古墳群や大和古墳群があるのです。

元々三輪山信仰の中心巫女=神ではなく。王=神としての存在にあげた。

この3世紀半ばから7世紀末を指す時代区分を古墳時代と呼びます。、
この時代に権威の象徴である王や首長の墓が多く出現した事に由来しています。

その王の家系は伊久米理毘古伊佐知命(垂仁天皇)、倭建命の英雄伝説(架空の人物であるが各地の反乱を軍をもって平定したと考えてよいでしょう。)に残る倭の三輪王朝の地位を確固たるものにした大帯日子淤斯呂和天皇(景行天皇・この天皇からみことではなくすめらみことの記述)のみを実在の人物として挙げます。

しかも三輪山信仰を徐々に切り離し、卑弥呼、臺與を天照大神と豊受大神として信仰する伊勢へ信仰の場所を変えていきます。

卑弥呼(日の巫女)=天照大神(日の神皇大神宮)、臺與(日の巫女)=豊受大神宮を祀り、伊久米理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の娘「倭比売命」を初代斎宮として確立し現在の天皇家の氏神「伊勢神宮」と続いています。

【雑】古事記は天皇が縄文時代に即位した神武天皇から始っています。これはさすがに無茶ぶりです。
実在の王と各地に伝承する神話を元に天皇家の正統性を記述した書に過ぎません。また各家系の家系史が残っていれば新しい古墳時代の背景を知ることが出来たのでしょうが。奈良時代元正天皇の時代に書を焼く様に詔のせいで史実が消された大罪は大きいですね。


舞の見解によると三輪王朝は短命に終わります。
それは三輪王朝の後継者の不在、もしくは武力制圧による政権交代か?三輪信仰は衰退し、それとほぼ同時期に近郊の王墓の建築も行われなくなりました。
そのかわり現在の平城京の北側に巨大な墳墓が何基も登場します。
佐紀古墳群です。現在の所は伝神功皇后、垂仁天皇、成務天皇など天皇家の墳墓と宮内庁はさざめていますが。どうでしょう?

ちなみに古事記では神功皇后、その夫仲哀天皇、成務天皇とも架空の人物というのが一般的見解です。仲哀天皇が神の啓示を行わなかった為死去したとか、神功皇后が新羅まで侵攻したとか、出産を大幅に遅れさせたとか???成務天皇はしかもいきなり滋賀の近江に遷都とかもう????な話しばかりです。

しかもその古墳群の中で100M級の前方後円墳の後ろ全てが平城京の遷都建築に際し、破壊されているのです。
これって???いくらなんでも、この辺りが天皇陵に関わる地域なのは藤原京時代当時の人も知っていたはずです。なのに新京の為に破壊???
これは三輪王朝の首都邪馬台国の戦乱をさけて王墓を佐紀に移したとも考えられます。古事記にはその事を書けず替わりに神功皇后、その夫仲哀天皇、成務天皇の物語を創作したと断言します!

三輪王朝は戦に敗れ、王座を追われ3世紀末祭事が優先する政治は終焉し、三輪王朝の王家の王族を正后にしてお家を乗っ取り河内王朝が樹立、武力による軍事政権による倭国が誕生しました。
この河内王朝の倭王は伊勢神宮を信仰していたと思われる古事記の記載がありません。なので本質的には違い王家を見て良いのではないのでしょうか?

三輪王朝は滅亡し(男系が途絶えたという意味で母系へは継承されていると解釈します。)新たな河内王朝の誕生です。

河内王朝の祖は品陀和気命(応神天皇)です。妃品它真若王の娘(おそらく三輪王朝の血を受け継ぐ者)を3人も后にしています。これはやはり大婿養子そのもの。
但し品陀和気命は倭王としてではなく、あくまで河内王朝の祖とします。この王朝は極めて軍事政権の王朝であり、武力による国の統率が徹底された頃ではあるが、やはりその反発も強く歴代王の暗殺や反乱も古事記には頻繁に出てきます。

世代大雀命になると大和の地を離れます。これは完全に大和、倭を掌握していたからこそ出来る行為、又その皇后は大和の有力豪族葛城の姫石之日売命を正后に立てた事。その最大の貢献を大和の古い力のある豪族葛城氏を味方につけた。
そして外交を最大の政治として利用した王だったからです。


下記朝鮮外交で倭の王の記述が始まります。
この年代は丁度大雀命(仁徳天皇)の治世にあたりますが、大雀命が異常な長寿という事も考え品陀和気命の外交といいきります。海外的には倭王を名のり、国内的には即位まではいたらないと解釈します。

(312年)三年 春三月 倭國王遣使 爲子求婚 以阿急利女送之

(344年)三十五年 春二月 倭國遣使請婚 辭以女既出嫁

上記の王族に新羅の国の王族を迎えたという史実は古事記、日本書記にもありません。が、新羅と倭が和解の外交をしていようとしたのは間違いないでしょう。

(345年)三十六年 二月 倭王移書絶交

(346年)三十七年 倭兵猝至風島 抄掠邊戸 又進圍金城急攻 王欲出兵相戰 伊伐康世曰 賊遠至 其鋒不可當 不若緩之待其師老 王然之 閉門不出 賊食盡將退 命康世率勁騎 追撃走之

この後4世紀末が大雀命(仁徳天皇)即位後と見るのが妥当と判断します。

369年百済からの献上「七支刀」(現物は石上神宮にあり)
泰先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作

この王朝は伊勢神宮よりも石上神宮を信仰しているように見えます。軍事政権だったからかもしれません。石上神宮は兵器倉でもありました。また物部氏や大伴氏の名が出始めるのもこの頃です。まさに軍事により倭併合をなしえたに相応しいと言えます。



広開土王(391年から412年即位の高句麗王)碑文(現在中国にあるが、墨で刷られた物が日本にもある)
百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以臣民以六年丙申王躬率□軍討滅・・・・・


立爲太子 (394年)六年 出質於倭國

(396年)六年 夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質


百済重視、新羅とは表向きは敵対新羅が三国内で弱くなると倭国と友好関係ととろうとするの繰り返しです。高句麗とは百済と共に広開土王の時代に侵攻した事と仏教文化(飛鳥時代)を取り入れた関係くらいでした。


(402年)元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質

(402年)十一年 夏 五月 遣使倭國求大珠

(403年)十二年 春二月 倭國使者至 王迎勞之特厚


(405年)十四年 王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國 季弟禮殺訓解 自立爲王 腆支在倭聞訃 哭泣請歸 倭王以兵士百人衛送 既至國界 漢城人解忠來告曰 大王棄世 王弟禮殺兄自王 願太子無輕入 腆支留倭人自衛 依海島以待之 國人殺禮 迎支即位

この405年の記述は重要です。百済王が崩御し、一旦王弟が政治を代行していた頃、その弟も兄弟に殺害されました。これを倭で人質としていた太子は嘆きかたき討ちをする為に帰国、倭王も兵をつけて送り出し百済王として即位したという記述です。(この百済の王子こそ武寧王別名嶋王)

(406年)四年 夏四月 倭兵來攻明活城 不克而歸 王率騎兵 要之獨山之南 再戰破之 殺獲三百餘級

(409年)五年 倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之

次王の伊耶本和気王(履中天皇)は父の遷都した難波宮で即位したものの弟墨江中王に殺害されそうになり、元の大和の物部氏の本拠地をたより、石上神宮に逃げ、その後に磐余に遷都しました。
父仁徳天皇の外交を引き継ぎ、奈良盆地にあって百済と深い外交を展開していく。

(418年)十四年 夏 遣使倭國 送白綿十匹

(418年)二年秋 王弟未斯欣 自倭國逃還
百済とは密接に友好関係を築く一方で新羅は敵対、友好を繰りかえしていました。
遂に人質の王弟が倭の国を逃げ出します。

421年伊耶本和気王始めての遣宋使朝貢
425年二度目の遣宋使朝貢

(428年)二年 春二月 王巡撫四部 賜貧乏穀有差 倭國使至 從者五十人
430年三度目の遣宋使朝貢(明確の宋書では明確な倭王の記載はなし)

(431年)十五年 夏四月 倭兵來侵東邊 圍明活城 無功而退

弟多遅比瑞歯別尊(反正天皇)が即位します。この王も同様父の外交政策を引き継ぎ又王族の反乱などなかった事もあり、河内平野に遷都します。
438年多遅比瑞歯別尊遣宋使を送る朝貢

反正天皇死去後、弟雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)が即位しました。
が、ここで本当に弟だったのでしょうか?なら父仁徳天皇の意思を受け継ぎ外交重視という意味で大阪か河内平野へ遷都したのではないのでしょうか?
そしてその名に宿禰が付いている事。→宿禰とは臣下の身分で王の名に相応しくありません。又後世臣下の姓を持つ王族皇族が出てきますが、それはあくまでも臣下の姓です。
しかも即位の際に臣下の要請があったにも関わらず、病気を口実に即位を自体するという記述、忍坂大中姫の推挙を受けてようやく即位するという古事記も見逃せません。

天皇の辞びて詔ひしく、「我は、一つの長き病有り。日継を知らすこと得じ」とのりたまひき。
然れども、大后を始めて諸の卿等、堅く奏すに因りて、乃ち天下を治めき。

更に河内の地を捨てて遠飛鳥宮へ始めて遷都した王、しかも甘樫丘で臣下にまるで忠誠心を試すように盟神探湯(熱湯に手を漬けて火傷するかしないかで占う法)行わせました。
天下の氏々名々の人等の氏姓の忤ひ過へて、味白檮の言八十禍津日崎前にして、くか瓮を居えて、天下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。

正統な王脈を持つ者なら必要でしょうか?いつものやり方大后を意冨本杼王の妹王族を妻に婿養子に入る様にして倭王に即位した。
443年雄朝津間稚子宿禰尊遣宋使派遣
(444年)二十八年 夏四月 倭兵圍金城十日 糧盡乃歸 王欲出兵追之 左右曰 兵家之説曰 窮寇勿追 王其舍之 不聽 率數千餘騎 追及於獨山之東 合戰爲賊所敗 將士死者過半

451年雄朝津間稚子宿禰尊崩御世子穴穂皇子遣宋使派遣

462年穴穂皇子遣宋使派遣
この人ひょっとして即位していないかも?即位の和名もただの穴穂皇子とか穴穂天皇とかしかないし、天皇という尊称はない。
やはり父親の血筋も問題で即位できなかったか?しかも義理の子供に暗殺されているし、かなり?????
即位前に目弱王に殺害されたので王位になかったともとれますし、統治期間も短いと推測出来ます。

自此以後、天皇坐神牀而晝寢。爾語其后曰、汝有所思乎。答曰、被天皇之敦澤、何有所思。於是其大后先子、目弱王、是年七歲。是王當于其時而、遊其殿下。爾天皇、不知其少王遊殿下以詔、吾恒有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王者、還爲有邪心乎。於是所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬其天皇之頸、逃入都夫良意富美之家也。

478年大長谷若建命(雄略天皇)遣宋使派遣

大長谷若建命(雄略天皇)は名実共に倭の大王といえるでしょう。
まずは身近な王位継承者(黒日子王、白日子王、目弱王、市辺之忍歯王、眉輪王、御馬王子)と有力豪族(妃の父葛城円、同じく妃の一族吉備氏の乱で吉備氏や播磨、伊勢の豪族討伐)を行い倭国王の王権を強大なものにしていきました。

この王でも敬意をはらう神がいました。

又一時、天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。彼時有其自所向之山尾、登山上人。既等天皇之鹵簿、亦其裝束之狀、及人衆、相似不傾。爾天皇望、令問曰、於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。卽答曰之狀、亦如天皇之命。於是天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。故、天皇亦問曰、然告其名。爾各告名而彈矢。於是答曰、吾先見問。故、吾先爲名告。吾者雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也。天皇於是惶畏而白、恐我大神、有宇都志意美者、自宇下五字以音。不覺白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服以拜獻。爾其一言主大神、手打受其捧物。故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。故、是一言主之大神者、彼時所顯也

しかも大長谷若建命は葛城一言主神を我大神と言っています。
母方が葛城臣の娘であるのでそう記述されたのでしょうが?あんなに豪快で暴力的な王が神前では別???
この記述は正直???まず父からして血筋に???という見解ですからここはわざと葛城の名を出すことで自身が行った葛城征伐を正当化もしくは葛城家の鎮護の意味ではないでしょうか?妃は葛城妃や吉備氏もいます。
この王の時代から葛城氏は没落の一途をたどり、ここに大伴氏や物部氏といった軍事部門の氏族が断頭していきます。



この時代に活躍したのが平群氏、物部氏、大伴氏一族です。


日本産の刀
金錯銘鉄剣(稲荷山古墳より出土・東国武人雄略大王時代の豪族の墓)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

大長谷若建命名の倭名の入った剣の銘文です。
実はこの倭王以降、国内で

中国への入宋開始
宋(南朝)420年から479年続いた王朝 梁時代始めに完成した・後の梁書よりも完成は早い
倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
 高祖永初二年(421年)、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年(425年)、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年(442年)、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年(451年)、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年(462年)、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。
 順帝昇明二年(487年)、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。


梁書(502年から557年まで続いた王朝の正史)623年頃編集
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武
齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位、進武號征東大將軍。


倭の五王の話し

「空白の4世紀」の後大陸の書物に再び倭の王の話しが出てきます。いわゆる倭の五王
この倭の五王の話しは宋書とその後の梁書に2度登場しますが、2書で違うのが王のそれぞれの関係です。

祖彌は誰か?

この使者は487年に大陸に渡り朝献した大使の文言です、

自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。

あまねく倭を武力で統治した自分の先祖の話しをしています。
祖禰とは祖は先祖つまり河内王朝の祖「品陀和気命」、禰は父の廟を現わすので武(大長谷若建命)の父「雄朝津間稚子宿禰尊」を指す言葉でしょう。様は名ではなく先祖と父という意味でとらえます。

でも武はどうして開祖を持ちだしたのでしょうか?
もっと前の祖先を持ち出せば倭国にはくがつくのに。
その頃は外交的に国の歴史を偽造する大きな理由がない。現在の倭国王が自分であり、その開祖が基礎を築いた事の方は重要だったからなのでしょう。

贊(讃)と彌(珍)は両書とも兄弟(弟の名は違う)

次の済が宋書では関係性記述無いのに対し、梁書は世子で記述されているのです。
その後は同じで済の世子興、弟武と倭王の名が続きます。

ではどちらが正解でしょうか?普通に考えると時代に近い方が正確といえるでしょう。
続日本記も日本書記も概ね時代に近い方が正確で正しく記述されています。まあ書き方の問題は残るでしょうが。


舞的見解はこう!

讃は伊耶本和気王(履中天皇)、彌(珍)は水歯別命(反正天皇)
済は男浅津間若子宿禰王(允恭天皇)だが上記の河内王朝と血筋の違う王と考えます。

そしてその世子が興は穴穂皇子(安康天皇)武(雄略天皇)と断定!!!しちゃいます。(この二人は倭の五王の内専門家も確定している)

この大長谷若建命の息子白髪大倭根子命は即位するも子がなく、早死にします。

大変権勢を誇った大長谷若建命の直系の血筋はここで絶え、履中天皇の孫といわれる袁祁之石巣別命(顕宗天皇)、意富祁王(仁賢天皇)と続きます。袁祁之石巣別命は正直実在性は?なのですが、意富祁王は大長谷若建命の娘春日大娘姫を大后として後の小長谷若雀命(武烈天皇)、継体天皇の大后手白香姫が誕生します。
しかし!ここでまた実在性に疑問が取りざたされています。
つまり。履中天皇の二人の命は雄略天皇の王族殺害を恐れて丹波国にかくまわれて暮らしていて王の血筋が途絶えて偶然臣下によって発見されるといった物語、しかも小長谷若雀命の名仁徳天皇と雄略天皇の当て字ともとれる子の名と日本書紀、古事記の小長谷若雀命の人間性に大きなくい違いがある事(妊婦の腹をさいととか殺人を楽しんだとか)でまたしても不在説がささやかれています。これはやはり皇統が危機に瀕死した際に良くある偽造劇の様にも見れます。

後の袁本杼命(継体天皇)なんと応神天皇5世孫という遠い王族が本家に事実上婿養子に入った前後のドタバタ劇を消す為に仕組まれた物語のような~~~
つまり、日本書紀編纂時の天皇家はこの継体天皇系の子孫です。よって継体天皇が王家を乗っ取った的な物語はNG
そして河内王朝最後の王武烈天皇は悪者でなくてはいけません。雄略天皇以降衰退した王家と大和朝廷に血筋の怪しい越前出身の袁本杼命が隙をついていつもの王家の血筋の娘手白香姫を正妻にして、王位に就いた。
継体天皇は専門家も認める完全婿養子、大和朝廷の臣下に即位を促されているにもかかわらず、入大和したのは即位から20年経った後、樟葉宮、筒城宮、弟国宮と点点とします。しかも墓は大和から離れた今の吹田にあります。正妻手白香姫が生んだ王子が天国排開広庭天皇(欽明天皇)現在に繋がる天皇家の血筋です。
さてこの後の事は皆さんも良く知っている歴史なので省略しますが、この継体天皇からいわゆる大臣や大夫達による談合政治が日本の政治体制になります。
婿養子とは所詮婿養子なのです。古事記はここから推古以降父母、子の記載と王墓の記載しかなくなります。
まあ古事記だから当時からすると推古時代は古い話ではないのでしょう。


中国大陸からの書はしばらく途絶え、次に出たのは隋の時代、推古女大王の時代です。
いわゆる飛鳥時代になってからです。飛鳥時代とは飛鳥に都があった時代を指し、推古から元明の時代の事をさします。いわゆる古代から中国を手本とする国家へと向かう中間期でもあたります。

隋書581年から618年続いた王朝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。(中略)
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通

(中略)
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
(中略)
人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊
(中略)
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、大悅、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。



この書できになるのは遣隋使の第一回派遣の記述と直接日本を訪れた裴清の日本の様子でしょう。
魏志倭人伝でさも大陸の使者が倭に来たと思われる記述がされていますが、本当にきたのでしょうか?
マルコポーロの東方見聞録でも日本=ジパングと紹介していますが、実は彼は日本にきていません。中国で日本の噂話しを書にしたにすぎません。本当の所確かに日本の使者は中国の皇帝に朝献したでしょう。しかし逆はなかったのではないでしょうか?わざわざ朝献の返礼をする国というには小国すぎるのです。
ここは使者が皇帝にこわれ自分達がどのように来たか?どのような暮らしをしているか?日本はどんな国なのか?
と問われたら当然いいことや自分達がどんなに苦労してやってきたか名長々と話します。そのことは誇張され、記録は後世に残されます。
そう考えた方が理屈にあうのです。邪馬臺國も九州だ大和だという基準の魏志倭人伝が超悪意のないでたらめに振り回されていうのです。

隋書でまず???
なのは
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利 

開皇20年とは王朝の祖師が王朝をひらいてから20年
ここでは西暦600年を指します。
ここで???この年の大王は豊御食炊屋比売命(推古女大王)です。
アメタシリヒコとは男名でしかも彼で王の妻はミメ、しかも太子がいてワメタシリという名で後宮に6~700名の女がいるいうんです。

女性が女性の妻を持つことはありませんし、しかもこの時代には皇太子もいません。
この時代は大夫達が談合で時期大王を決定するのです。???
これを実は使者は女性が統治する国を隋が認めないだろうと嘘を言った。ととなえる人もいます。
しかし卑弥呼の時代魏は使者に印や鏡などの返礼をしています。これも???説得力にはかけますね。

で使者がいうには「倭王は天を兄とし夜のうちに坐り政を聴き、日が昇るとその政を弟に譲る」という行動を皇帝に話します。???
倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟
隋の高宗はこの話に義理がないとていよく使者を追い返しました。 

他の記述は日本の事だと思えるのにここだけ???

まず女大王に弟はいません!残念ながら皆死亡しています。まあ歴史に現れない王子がいないとはいえませんが・・・但しこの文もっと時代をさかのぼれが卑弥呼の時代そのままです。
天は=神、夜神の神事を受けて大王が座ってその啓示を受ける。日が昇ってまつり事を司りを弟が行う。
このスタイル実は天は天照大神で大王が啓示を受け、それを大臣や大夫が協議で政治を行うという当時の政治そのままを天=兄の啓示を受ける大王と弟=大臣と大夫が行う政治
おかしくないでしょ!これぞ祀り=まつりごとの始りです。しかも今の王は女性=卑弥呼のイメージを隋の皇帝に伝えたかった大夫達は女王の偉大さを卑弥呼に表現した!
使者はその前でも嘘というかはぐらかした返答をしています。
そう大王の名前「姓アメ名タシリヒコ」そして後宮皇后と太子の存在と答えた事です。
大王に名前などありません。当然苗字もない。当然です。大王の名前など口にするだけで恐れ多い、しかも苗字などあるはずありません。苗字は征服者が非征服者にあたえる物です。大王家は征服された事などない(建前ですが・・・)のです。

とにかく第一回遣隋使は失敗します。
七年後の第二回遣隋使で外交は成功!返礼の使者

その後上遣文林郎裴清使於倭國
外交の成功です。彼は名実共に倭日本にやってきた使者です。正しく当時の風俗、政治をその書にあるように伝えています。
さてでもここでも倭の王はアメタリシヒコと記述しています。しかも王は女性という記述がありません。
使者は推古女大王に謁見しなかったのでしょうか?
隋さえ小国使者に会ったのに???

#これは憶測ですが、外国からすると王は政治を行う人物というとらえ方としますが、日本のこの当時政治は主に大夫と大臣が政務します。日本書紀から見ても政治における問題に大王は問題提案をしても議論し決定するのは大臣と大夫達です。
これを考えても外交も政治というとらえ方をすると直接謁見する人物ではない可能性があります。
ここで先の難解な文言ですが、確かに大王は国に君臨しているが統治は大臣、大夫達の大和朝廷が行う。
なので政治に大王は関与しないよってその代わりの人物が謁見した。という可能性です。

ここでは押坂彦人大兄王子、厩戸王子が代役を立てたと考えてもよいと思われます。

この当時蘇我馬子が実権を握っていたのでその名代として厩戸王子を擁立していたと考えるの妥当かもしれません。

厩戸王子は私達が学校で習ったような神格的な人物ではなく、あくまで大王となる可能性のある王族の一人、政治は叔父の蘇我馬子が行っていた。いわゆる冠位十二階や十二条憲法も馬子主導で設立されたと言っていいでしょう。


さてこう見ると倭は外交が下手=日本は外交が下手という構図は?ですね。
やはりこれは近年戦後の経済先行型政治に慣れ切った証しみたいなものです。明治も外交は素晴らしい成果を得ていました。昭和の戦争が日本の外交ベタを確立し、立ち直るきっかけもなく経済依存を繰り返したためですね。
つまり太平洋戦争のトラウマと戦後の高度経済成長が強きの外交を展開出来ないといえるでしょう。
太平洋戦争における米国との交戦の大きな原因は

①昭和の大恐慌における政治経済不安
②昭和になっても欧米に支配されるのでは?という又は欧米と肩を並べれる国でなくてはという強兵論
③軍部の中国進出に米国が激怒、報復を行った為に経済が悪化した事
④上記の報復は当時石油の依存度が米国にかたよっていた為、極度のエネルギー不足が経済に悪影響を与えた。
⑤日本軍の総帥権が天皇にあった為(明治憲法では軍の総帥権は天皇にあると記述している。国会にはなかった又横暴になる軍部は総帥権を盾にして内閣が軍を統率するのを強く嫌った背景があります。)
⑥外国の知識をまったく知らない国民に徹底してプロパガンダがしかれた。
⑦昭和天皇は開戦に大きく反対していたが、天皇はイギリスの立憲君主制を支持していた為当時の民意と東條内閣の開戦姿勢に反対の意思を示さなかった。
⑧国会内での陸軍の勢力拡大
と考えられます。
今でも日本のトラウマって悲しい限りですね。


清潔好きと礼儀正しい、発想力が苦手ですが、これはやはり奈良時代以前特に文化交流の多かった時代に九州中心に疫病がはやり始めると免疫のない倭人は即死!しかも体が弱いと精神も弱いだから自殺が高くなる。ここで12クリア、疫病から体を守る為と近世以降湿気が多かった事から清潔に保つ入浴の習慣が出来た。


旧唐書(東晋時代編集)
倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。
世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。


新唐書(北宋時代編集1060年完成)

日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。朝臣真人者猶中国戸部尚書、冠進徳冠其頂為花分而四散、身服紫袍、以帛為腰帯。真人好読経史、解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿。放還本国。開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。
白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還其偏使朝臣仲満、慕中国之風因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年、好書籍放帰郷逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡為左散騎常侍鎮南都護。貞元二十年、遣使来朝、留学生橘免勢、学問僧空海。元和元年、日本国使判官高階真人上言前件、学生藝業稍成願帰本国、便請與臣同帰従之。開成四年又遣使朝貢。


唐書はどちらも日本国が倭を併合したと記載している。
しかし倭が「日本と呼んでね」と遣唐使を送ったのは奈良時代です。
以降唐と日本は親子の関係の様な外交を重ね、日本は唐を見本に政治、文化、仏教を学んでいきます。

唐書が編集された頃はずいぶんと後の時代の日本倭国=奴国と考えていたのでしょう。
本当に北九州の王朝が大和に東征し倭を統一したと断定する必要はないと思います。

唐はここで改めて「倭」の領土を「日本」が支配した(もしくはその逆)と明確に書いています。ここ重要つまり
日本国という名のデビューです。

唐が滅亡の危機に瀕した辺りから日本との関係は薄くなり始め、
中国大陸へ目を向ける時代の一時終焉、日本の自立つの始ります。そう太平洋戦争敗戦までは・・・・・。

日本はその時代あたりから国内体制を強化し始め外交はおろそかになったのです。時は平安時代国風文化の開化へ貴族の時代の始まります。
以降平氏が日宋貿易で経済関係し、政治より経済重視という外交が始まります。

宋史 日本伝(元の時代1345年完成編集された書)

倭國者 本倭奴國也 自以其國近日所出 故以日本爲名 或云 惡其舊名改之也
其地東西南北各千里 西南至海 東北隅以大山 山外即毛人國 自後漢始朝貢 歴魏晋宋隋皆来貢 唐永徽顯慶長安開元天寶上元貞元元和開成中並遣使入朝
雍熈元年 日本國僧然 與其徒五六人浮海而至 獻銅器十事并本國職員王年代紀各一卷
然 衣緑自云 姓藤原氏父爲真連 真連其國五品官也 然善隷書而不通華言 問其風土 但書以對云 國中有五經書及佛經 白居易集七十卷 並得自中國 土宜五穀而少麥 交易用銅錢 文曰乾文大寶 畜有水牛驢羊多犀象 産蠶多織絹 薄緻可愛 樂有國中高麗二部 四時寒暑大類中國 國之東境接海島夷人居所 身面皆有毛 東奥州産黄金 西別島出白銀以爲貢賦 國王以王爲姓 傳襲至王六十四世 文武僚吏皆世官
其年代紀所記云
初主天中主 次曰天村雲尊 其後皆以尊爲 次天八重雲尊 次天彌聞尊 次天忍勝尊 次贍波尊 次萬魂尊 次利利魂尊 次國狭槌尊 次角魂尊 次汲津丹尊 次面垂見尊 次國常立尊 次天鑑尊 次天萬尊 次沫名杵尊 次伊弉諾尊 次素戔烏尊 次天照大神尊 次正吾勝速日天押穂耳尊 次天彦尊 次炎尊 次彦瀲尊 凡二十三世 並都於筑紫日向宮
彦瀲第四子神武天皇 自筑紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅當周僖王時也 次綏靖天皇 次安寧天皇 次懿德天皇 次孝昭天皇 次孝天皇 次孝靈天皇 次孝元天皇 次開化天皇 次崇神天皇 次垂仁天皇 次景行天皇 次成務天皇 次仲哀天皇 國人言爲鎮國香椎大神 次神功天皇 開化天皇之曽孫女 又謂之息長足姫天皇 國人言爲太奈良良姫大神 次應神天皇 甲辰始於百濟得中國文字 八蕃菩薩 有大臣紀武内年三百七 次仁德天皇 次履中天皇 次反正天皇 次允恭天皇 次安康天皇 次雄略天皇 次清寧天皇 次顯宗天皇 次仁賢天皇 次武烈天皇 次繼體天皇 次安開天皇 次宣化天皇 次天國排開廣庭天皇 亦名欽明天皇 即位十一年壬申 始傳佛法於百濟國 當土梁承聖元年 次敏達天皇 次用明天皇 有子曰聖德太子 年三聞十人語同時解之 七悟佛法 于菩提寺講聖鬘經 天雨曼陀羅華 當土隋開皇中 遣使泛海至中國求法華經 次崇峻天皇 次推古天皇欽明天皇之女也 次舒明天皇 次皇極天皇 次孝德天皇 白雉四年 律師道照 求法至中國 從三藏僧玄奘受經律論 當土唐永徽四年也 次天豊財重日足姫天皇 令僧智通等入唐求大乗法相敎 當顯慶三年 次天智天皇 次天武天皇 次持天皇 次文武天皇 大寶三年 當長安元年遣粟田真人入唐求書籍 律師道慈求經 次阿閉天皇 次皈依天皇 次聖武天皇 寶二年 遣僧正玄入朝 當開元四年 次孝明天皇 聖武天皇之女也 天平勝寶四年 當天寶中 遣使及僧入唐求内外經敎及傳戒 次天炊天皇 次野姫天皇 聖武天皇之女也 次白天皇 二十四年 遣二僧靈仙行賀入唐禮五臺山學佛法 次桓武天皇 遣騰元葛野與空海大師及延歴寺僧澄入唐詣天台山傳智者止觀義 當元和元年也 次諾樂天皇 次嵯峨天皇 次淳和天皇 次仁明天皇 當開成會昌中遣僧入唐禮五臺 次文德天皇 當大中年間 次清和天皇 次陽成天皇 次光孝天皇 遣僧宗入唐傳敎 當光啓元年也 次仁和天皇 當土梁龍德中遣僧寛建等入朝 次醍醐天皇 次天慶天皇 次封上天皇 當土周廣順年也 次冷泉天皇 爲太上天皇 次守平天皇即王也 凡六十四世

畿内有山城大和河内和泉攝津凡五州 共統五十三郡 東海道有伊賀伊勢志摩尾張參河遠江駿河伊豆甲斐相模武蔵安房上常陸凡十四州 共統一百一十六郡 東山道有通江濃飛信濃上野下野陸奥出羽凡八州 共統一百二十二郡 北陸道有若狹越前加賀能登越中越後佐渡凡七州 共統三十郡 山道有丹波丹彼徂馬因伯耆出雲石見岐凡八州 共統五十二郡 小陽道有作備前備中備後安周防長門凡八州 共統六十九郡 南海道有伊紀淡路河波讃耆伊豫土佐凡六州 共統四十八郡 西海道有筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向大隅薩摩凡九州 共統九十三郡 又有壹伎對馬多凡三島 各統二郡 是謂五畿七道三島 凡三千七百七十二都四百一十四驛八十八萬三千三百二十九課丁 課丁之外不可詳見 皆然所記云
按隋開皇二十年 倭王姓阿毎 名自多利思比孤 遣使致書 唐永徽五年 遣使琥珀馬脳 長安二年 遣其朝臣真人貢方物 開元初遣使来朝 天寶十二年 又遣使来貢 元和元年 遣階真人来貢 開成四年 又遣使来貢 其所記皆同 大中光啓龍德及周廣順中 皆嘗遣僧至中國唐書中五代史失其傳 唐咸亨中及開元二十三年 大暦十二年 建中元年 皆来朝貢其記不載
太宗召見然存撫之甚厚賜紫衣于太平興國寺 上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 島夷耳 乃世祚遐久其臣亦繼襲不絶 蓋古之道也 中國自唐李之亂縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣續 朕雖德慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 可久之範 亦以爲子孫之計 使大臣之後世襲禄位朕之心焉
其國多有中國典籍 然之来復得孝經一卷越王孝經新義第十五一卷 皆金縷紅羅水晶爲軸 孝經即鄭氏注者越王者乃唐太宗子越王貞新義者記室參軍任希古等撰也 然復求詣五臺 許之令所過續食 又求印本大藏經詔亦給之
 二年随台州寧海縣商人鄭仁德船歸其國 後年仁德還 然遣其弟子喜因奉表来謝曰 日本國東大寺大朝法濟大師賜紫沙門然啓 傷鱗入不忘漢主之恩 枯合歡猶亢魏氏之敵 雖云羊僧之拙誰忍鴻之誠 然誠惶誠恐頓首頓首死罪 然附商船之離岸期魏闕於生涯望落日而西行 十萬里之波濤難盡 顧信風而東別 千里之山嶽易過 妄以下根之卑適詣中華之盛 於是宣旨頻降恣許荒外之跋渉宿心克粗觀内之竒 况乎金闕暁後望尭雲於九禁之中巖晴前拜聖燈於五臺之上 就三藏而禀學巡寺而優游遂使蓮華廻文神筆出於北闕之北貝葉印字佛詔傳於東海之東 重蒙宣恩忽来跡 季夏觧台州之孟秋達本國之郊 爰逮明春初到舊邑 緇素欣待候伯慕迎 伏惟陛下恵溢四溟恩五嶽世超黄軒之古人直金輪之新 然空辭鳳凰之窟更還螻蟻之封 在彼在斯只仰皇德之盛越山越海敢忘帝念之深 縦粉百年之身何報一日之恵 染筆拭涙伸紙揺魂不勝慕恩之至 謹差上足弟子傳燈大法師位嘉因並大朝剃頭受戒僧祚乾等拜表以聞 其本國永延二年次戊子二月八日 實端拱元年也
又別啓貢佛經納青木函 琥珀青紅白水晶紅黒木子念珠各一連並納螺鈿花形平函 毛籠一納螺杯二口 葛籠一納法螺二口染皮二十枚 金銀蒔繪筥一合納髪鬘二頭 又一合納參議正四位上滕佐理手書二卷及進奉物一卷表状一卷 又金銀蒔繪硯一筥一合納金硯一鹿毛筆松墨金銅水瓶鐵刀 又金銀蒔繪扇筥一合納檜扇二十枚蝙蝠扇二枚螺鈿梳函一對其一納赤木梳二百七十其一納龍骨十 螺鈿書案一螺鈿書几一金銀蒔繪平筥一合納白細布五匹 鹿皮籠一納裘一領 螺鈿鞍轡一副銅鐵鐙紅鞦泥障倭畫屏風一雙石流黄七百斤
咸平五年建州海賈周世昌遭風飄至日本 凡七年得還 與其國人滕木吉至 上皆召見之 世昌以其國人唱和詩来上 詞甚雕刻膚淺無所取 詢其風俗云婦人皆被髪一衣用二三 又陳所記州名年 上令滕木吉以所持木弓矢挽射 矢不能遠 詰其故國中不習戰闘 賜木吉時装錢遣還
景德元年其國僧寂照等八人来朝 寂照不暁華言而識文字繕寫甚妙 凡問答並以筆札 詔圓通大師賜紫方袍
天聖四年十二月明州言 日本國大宰府遣人貢方物 而不持本國表 詔之 其後亦未通朝貢 南賈時有傳其物貨至中國者
熈寧五年有僧誠尋 至台州止天台國清寺願留州以聞 詔使赴闕 誠尋銀香爐木子白琉璃五香水精紫檀琥珀所飾念珠及青色織物綾 神宗以其遠人而有戒業之開寶寺盡賜同来僧紫方袍 是後連貢方物而来者皆僧也
元豊元年使通事僧仲来 賜慕化懐德大師 明州又言 得其國大宰府牒 因使人孫忠還遣仲等貢二百匹水銀五千兩 以孫忠乃海商而貢禮與諸國異 請自移牒報而答其物直付仲東歸 従之
乾道九年始附明州綱首以方物入貢
淳熈二年倭船火兒滕太明毆鄭作死 詔械太明付其綱首歸治以其國之法
三年風泊日本舟至明州 衆皆不得食 行乞至臨安府者復百人 詔人日給錢五十文米二升俟其國舟至日遣歸
十年日本七十三人復飄至秀州華縣 給常平義倉錢米以振之
紹熈四年泰州及秀州華縣復有倭人爲風所泊而至者 詔勿取其貨出常平米振給而遣之
慶元六年至平江府
嘉泰二年至定海縣 詔並給錢米遣歸國


主に唐書と写した記述が見える。
また唐書以降はほぼ前期の王朝の史と日本書記の記述に近い紹介のされ方をしている。天皇の記録などまる写しです。やはり日本書記は外交書といっていいでしょう。
元明天皇に献上された日本書記は唐や新羅に渡ったので、原書が国内に存在しない。まあ当然といえば当然ですね。

元史 東夷伝(明時代1369年完成、編集)
日本國在東海之東,古稱倭奴國,或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也。其土疆所至與國王世系及物産風俗,見宋史本傳。日本為國,去中土殊遠,又隔大海,自後漢歴魏、晉、宋、隋皆來貢。唐永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中,並遣使入朝。宋雍熙元年,日本僧●然,與其徒五六人浮海而至,奉職貢,并獻銅器十餘事。●然善隸書,不通華言。問其風土,但書以對,云其國中有五經書及佛經、白居易集七十卷。●然還後,以國人來者曰滕木吉,以僧來者曰寂照。寂照識文字,繕寫甚妙。至熙寧以後,連貢方物,其來者皆僧也。
元世祖之至元二年,以高麗人趙彝等言日本國可通,擇可奉使者。三年八月,命兵部侍郎黑的,給虎符,充國信使,禮部侍郎殷弘給金符,充國信副使,持國書使日本。書曰:
大蒙古國皇帝奉書日本國王。朕惟自古小國之君,境土相接,尚務講信修睦。況我祖宗,受天明命,奄有區夏,遐方異域畏威懷德者,不可悉數。朕即位之初,以高麗無辜之民久瘁鋒鏑,即令罷兵還其疆域,反其旄倪。高麗君臣感戴來朝,義雖君臣,歡若父子。計王之君臣亦已知之。高麗,朕之東藩也。日本密邇高麗,開國以來亦時通中國,至於朕躬,而無一乘之使以通和好。尚恐王國知之未審,故特遣使持書,布告朕志,冀自今以往,通問結好,以相親睦。且聖人以四海為家,不相通好,豈一家之理哉。以至用兵,夫孰所好。王其圖之 。
黑的等道由高麗,高麗國王王●以帝命遣其樞密院副使宋君斐、借禮部侍郎金贊等導詔使黑的等往日本,不至而還。

四年六月,帝謂王●以辭為解,令去使徒還,復遣黑的等至高麗諭●,委以日本事,以必得其要領為期。●以為海道險阻,不可辱天使,九月,遣其起居舍人潘阜等持書往日本,留六月,亦不得其要領而歸。
五年九月,命黑的、弘復持書往,至對馬島,日本人拒而不納,執其塔二郎、彌二郎二人而還。
六年六月,命高麗金有成送還執者,俾中書省牒其國,亦不報。有成留其太宰府守護所者久之。十二月,又命祕書監趙良弼往使。書曰:「蓋聞王者無外,高麗與朕既為一家,王國實為鄰境,故嘗馳信使修好,為疆場之吏抑而弗通。所獲二人,敕有司慰撫,俾齎牒以還,遂復寂無所聞。繼欲通問,屬高麗權臣林衍構亂,坐是弗果。豈王亦因此輟不遣使,或已遣而中路梗塞,皆不可知。不然,日本素號知禮之國,王之君臣寧肯漫為弗思之事乎。近已滅林衍,復舊王位,安集其民,特命少中大夫祕書監趙良弼充國信使,持書以往。如即發使與之偕來,親仁善鄰,國之美事。其或猶豫以至用兵,夫誰所樂為也,王其審圖之。」良弼將往,乞定與其王相見之儀。廷議與其國上下之分未定,無禮數可言。帝從之。
七年十二月,詔諭高麗王●送國信使趙良弼通好日本,期於必達。仍以忽林失、王國昌、洪茶丘將兵送抵海上,比國信使還,姑令金州等處屯駐。
八年六月,日本通事曹介升等上言〔1〕:「高麗迂路導引國使,外有捷徑,倘得便風半日可到。若使臣去,則不敢同往;若大軍進征,則願為郷導。」帝曰:「如此則當思之。」九月,高麗王●遣其通事別將徐(稱)〔偁〕導送良弼使日本,日本始遣彌四郎者入朝,帝宴勞遣之。
九年二月,樞密院臣言:「奉使日本趙良弼遣書状官張鐸來言,去歳九月,與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所。守者云,曩為高麗所紿,屢言上國來伐;豈期皇帝好生惡殺,先遣行人下示璽書,然王京去此尚遠,願先遣人從奉使回報。」良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見。帝疑其國主使之來,云守護所者詐也。詔翰林承旨和禮霍孫以問姚樞、許衡等,皆對曰:「誠如聖算。彼懼我加兵,故發此輩伺吾強弱耳。宜示之寬仁,且不宜聽其入見。」從之。是月,高麗王●致書日本。五月,又以書往,令必通好大朝,皆不報。
十年六月,趙良弼復使日本,至太宰府而還。
十一年三月,命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘,以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百,共九百艘,載士卒一萬五千,期以七月征日本。冬十月,入其國,敗之。而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。
十二年二月,遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往。使復致書,亦不報。
十四年,日本遣商人持金來易銅錢,許之。
十七年二月,日本殺國使杜世忠等。征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討,廷議姑少緩之。五月,召范文虎,議征日本。八月,詔募征日本士卒。
十八年正月,命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。二月,諸將陛辭。帝敕曰:「始因彼國使來,故朝廷亦遣使往,彼遂留我使不還,故使卿輩為此行。朕聞漢人言,取人家國,欲得百姓土地,若盡殺百姓,徒得地何用。又有一事,朕實憂之,恐卿輩不和耳。假若彼國人至,與卿輩有所議,當同心協謀,如出一口答之。」五月,日本行省參議裴國佐等言:「本省右丞相阿剌罕、范右丞、李左丞先與忻都、茶丘入朝。時同院官議定,領舟師至高麗金州,與忻都、茶丘軍會,然後入征日本。又為風水不便,再議定會於一岐島。今年三月,有日本船為風水漂至者,令其水工畫地圖,因見近太宰府西有平戸島者,周圍皆水,可屯軍船。此島非其所防,若徑往據此島,使人乘船往一岐,呼忻都、茶丘來會進討為利。」帝曰:「此間不悉彼中事宜,阿剌罕輩必知,令其自處之。」六月,阿剌罕以病不能行,命阿塔海代總軍事。八月,諸將未見敵,喪全師以還,乃言:「至日本,欲攻太宰府,暴風破舟,猶欲議戰,萬戸厲德彪、招討王國佐、水手總管陸文政等不聽節制,輒逃去。本省載餘軍至合浦,散遣還郷里。」未 幾 , 敗 卒 于 閶 脫 歸 , 言 : 「 官軍 六 月 入 海 , 七 月 至 平 壺 島 , 移 五 龍 山 。 八 月 一 日 , 風破 舟 。 五 日 , 文 虎 等 諸 將 各 自 擇 堅 好 船 乘 之 , 棄 士 卒 十餘 萬 于 山 下 。 眾 議 推 張 百 戶 者 為 主 帥 , 號 之 曰 張 總 管 ,聽 其 約 束 。 方 伐 木 作 舟 欲 還 , 七 日 , 日 本 人 來 戰 , 盡 死。 餘 二 三 萬 為 其 虜 去 。 九 日 , 至 八 角 島 , 盡 殺 蒙 古 、 高麗 、 漢 人 , 謂 新 附 軍 為 唐 人 , 不 殺 而 奴 之 。 閶 輩 是 也 。」 蓋 行 省 官 議 事 不 相 下 , 故 皆 棄 軍 歸 。 久 之 , 莫 青 與 吳萬 五 者 亦 逃 還 , 十 萬 之 眾 得 還 者 三 人 耳 。 二十年,命阿塔海為日本省丞相,與徹里帖木兒右丞、劉二拔都兒左丞,募兵造舟,欲復征日本。淮西宣慰使昂吉兒上言民勞,乞寢兵。
二十一年,又以其俗尚佛,遣王積翁與補陀僧如智往使。舟中有不願行者,共謀殺積翁,不果至。
二十三年,帝曰:「日本未嘗相侵,今交趾犯邊,宜置日本,專事交趾。」
成宗大德二年,江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。帝曰:「今非其時,朕徐思之。」
三年,遣僧寧一山者,加妙慈弘濟大師,附商舶往使日本,而日本人竟不至。


元史でピンク色の記述箇所はあの二度に渡る元寇の役です。
一説にフビライハーンは貿易に乗りきのない鎌倉幕府に不満をよせ、又高麗王の度重なる出兵の要請もあり日本に宣戦布告したという説もあります。
元寇の役では蒙古、漢軍が1万5千から2万5千に対し高麗軍は2万3百から8千という規模からしてもうなずける数字です。
この時の鎌倉幕府と東武士への戦意喪失に激怒した北条政子の言葉は有名ですね。
その一言で奮起した東武士達は大宰府、壱岐、対馬戦で勝利、蒙古軍は台風に合う不運も重なりわずかな兵で本国逃げ帰ったと伝えます。
しかしこの戦争は大きな利益を生むことなく、恩賞を得られない武士の不満も重なり、鎌倉幕府の滅亡への序章でした。以後醍醐天皇から足利高尊の室町幕府、朝廷は南朝北朝に分かれ、時代は戦国、安土桃山、徳川時代へと続き、その後長く続く江戸時代の社会構造五人組みの制度や社会状況ももちろん日本人の特異性に影響与えたと言っていいでしょう。
江戸時代は徳川幕府の封建社会制度、身分制度が完全に確立して堅苦しい時代の様に思われますが、意外と江戸や大坂など大都市部では町民は大らかに過ごしていた時代もありました。

明史(清時代に編集1739年完成)

日本,古倭奴國。唐咸亨初,改日本,以近東海日出而名也。地環海,惟東北限大山,有五畿、七道、三島,共一百十五州,統五百八十七郡。其小國數十,皆服屬焉。國小者百里,大不過五百里。戶小者千,多不過一二萬。國主世以王為姓,群臣亦世官。宋以前皆通中國,朝貢不絕,事具前史。惟元世祖數遣使趙良弼招之不至,乃命忻都、範文虎等帥舟師十萬征之,至五龍山遭暴風,軍盡沒。後屢招不至,終元世未相通也。
明興,高皇帝即位,方國珍、張士誠相繼誅服。諸豪亡命,往往糾島人入寇山東濱海州縣。洪武二年三月,帝遣行人楊載詔諭其國,且詰以入寇之故,謂:「宜朝則來廷,不則修兵自固。倘必為寇盜,即命將徂征耳,王其圖之。」日本王良懷不奉命,復寇山東,轉掠溫、台、明州旁海民,遂寇福建沿海郡。
三年三月又遣萊州府同知趙秩責讓之,泛海至析木崖,入其境,守關者拒弗納。秩以書抵良懷,良懷延秩入。諭以中國威德,而詔書有責其不臣語。良懷曰:「吾國雖處扶桑東,未嘗不慕中國。惟蒙古與我等夷,乃欲臣妾我。我先王不服,乃使其臣趙姓者訹我以好語,語未既,水軍十萬列海岸矣。以天之靈,雷霆波濤,一時軍盡覆。今新天子帝中夏,天使亦趙姓,豈蒙古裔耶?亦將訹我以好語而襲我也。」自左右將兵之。秩不為動,徐曰:「我大明天子神聖文武,非蒙古比,我亦非蒙古使者後。能兵,兵我。」良懷氣沮,下堂延秩,禮遇甚優。遣其僧祖來奉表稱臣,貢馬及方物,且送還明、台二郡被掠人口七十餘,以四年十月至京。太祖嘉之,宴賚其使者,念其俗佞佛,可以西方教誘之也,乃命僧祖闡、克勤等八人送使者還國,賜良懷《大統歷》及文綺、紗羅。是年掠溫州。五年寇海鹽、氵敢浦,又寇福建海上諸郡。六年以於顯為總兵官,出海巡倭,倭寇萊、登。祖闡等既至,為其國演教, 其國人頗敬信。而王則傲慢無禮,拘之二年,以七年五月還京。倭寇膠州。
時良懷年少,有持明者,與之爭立,國內亂。是年七月,其大臣遣僧宣聞溪等齎書上中書省,貢馬及方物,而無表。帝命卻之,仍賜其使者遣還。未幾,其別島守臣氏久遣僧奉表來貢。帝以無國王之命,且不奉正朔,亦卻之,而賜其使者,命禮臣移牒,責以越分私貢之非。又以頻入寇掠,命中書移牒責之。乃以九年四月,遣僧圭廷用等來貢,且謝罪。帝惡其表詞不誠,降詔戒諭,宴賚使者如制。十二年來貢。十三年復貢,無表,但持其征夷將軍源義滿奉丞相書,書辭又倨。乃卻其貢,遣使齎詔譙讓。十四年復來貢,帝再卻之,命禮官移書責其王,並責其征夷將軍,示以欲征之意。良懷上言:臣聞三皇立極,五帝禪宗,惟中華之有主,豈夷狄而無君。乾坤浩蕩,非一主 之獨權,宇宙寬洪,作諸邦以分守。蓋天下者,乃天下之天下,非一人之天下也。臣居遠弱之倭,褊小之國,城池不滿六十,封疆不足三千,尚存知足之心。陛下作中華之主,為萬乘之君,城池數千餘,封疆百萬里,猶有不足之心,常起滅絕之意。夫天發殺機,移星換宿。地發殺機,龍蛇走陸。人發殺機,天地反覆。昔堯、舜有德,四海來賓。湯、武施仁,八方奉貢。
臣聞天朝有興戰之策,小邦亦有禦敵之圖。論文有孔、孟道德之文章,論武有孫、吳韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將,起精銳之師,來侵臣境。水澤之地,山海之洲,自有其備,豈肯跪途而奉之乎?順之未必其生,逆之未必其死。相逢賀蘭山前,聊以博戲,臣何懼哉。倘君勝臣負,且滿上國之意。設臣勝君負,反作小邦之差。自古講和為上,罷戰為強,免生靈之塗炭,拯黎庶之艱辛。特遣使臣,敬叩丹陛,惟上國圖之。帝得表慍甚,終鑑蒙古之轍,不加兵也。
十六年,倭寇金鄉、平陽。十九年遣使來貢,卻之。明年命江夏侯周德興往福建濱海四郡,相視形勢。衛所城不當要害者移置之,民戶三丁取一,以充戍卒,乃築城一十六,增巡檢司四十五,得卒萬五千餘人。又命信國公湯和行視浙東、西諸郡,整飭海防,乃築城五十九。民戶四丁以上者以一為戍卒,得五萬八千七百餘人,分戍諸衛,海防大飭。閏六月命福建備海舟百艘,廣東倍之,以九月會浙江捕倭,既而不行。
先是,胡惟庸謀逆,欲藉日本為助。乃厚結寧波衛指揮林賢,佯奏賢罪,謫居日本,令交通其君臣。尋奏復賢職,遣使召之,密緻書其王,借兵助己。賢還,其王遣僧如瑤率兵卒四百餘人,詐稱入貢,且獻巨燭,藏火藥、刀劍其中。既至,而惟庸已敗,計不行。帝亦未知其狡謀也。越數年,其事始露,乃族賢,而怒日本特甚,決意絕之,專以防海為務。然其時王子滕祐壽者,來入國學,帝猶善待之。二十四年五月特授觀察使,留之京師。後著《祖訓》,列不征之國十五,日本與焉。自是,朝貢不至,而海上之警亦漸息。
成祖即位,遣使以登極詔諭其國。永樂元年又遣左通政趙居任、行人張洪偕僧道成往。將行,而其貢使已達寧波。禮官李至剛奏:「故事,番使入中國,不得私攜兵器鬻民。宜敕所司核其舶,諸犯禁者悉籍送京師。」帝曰:「外夷修貢,履險蹈危,來遠,所費實多。有所齎以助資斧,亦人情,豈可概拘以禁令。至其兵器,亦準時直市之,毋阻向化。」十月,使者至,上王源道義表及貢物。帝厚禮之,遣官偕其使還,賚道義冠服、龜鈕金章及錦綺、紗羅。
明年十一月來賀冊立皇太子。時對馬、台岐諸島賊掠濱海居民,因諭其王捕之。王發兵盡殲其眾,縶其魁二十人,以三年十一月獻於朝,且修貢。帝益嘉之,遣鴻臚寺少卿潘賜偕中官王進賜其王九章冕服及錢鈔、錦綺加等,而還其所獻之人,令其國自治之。使者至寧波,盡置其人於甑,烝殺之。明年正月又遣侍郎俞士吉齎璽書褒嘉,賜賚優渥。封其國之山為壽安鎮國之山,御製碑文,立其上。六月,使來謝,賜冕服。五年、六年頻入貢,且獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《內訓》二書,即命各給百本。十一月再貢。十二月,其國世子源義持遣使來告父喪,命中官周全往祭,賜謚恭獻,且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時海上復以倭警告,再遣官諭義持剿捕。
八年四月,義持遣使謝恩,尋獻所獲海寇,帝嘉之。明年二月復遣王進齎敕褒賚,收市物貨。其君臣謀阻進不使歸,進潛登舶,從他道遁還。自是,久不貢。是年,倭寇盤石。十五年,倭寇松門、金鄉、平陽。有捕倭寇數十人至京者。廷臣請正法。帝曰:「威之以刑,不若懷之以德,宜還之。」乃命刑部員外郎呂淵等齎敕責讓,令悔罪自新。中華人被掠者,亦令送還。明年四月,其王遣使隨淵等來貢,謂:「海寇旁午,故貢使不能上達。其無賴鼠竊者,實非臣所知。願貸罪,容其朝貢。」帝以其詞順,許之,禮使者如故,然海寇猶不絕。
十七年,倭船入王家山島,都督劉榮率精兵疾馳入望海堝。賊數千人分乘二十舟,直抵馬雄島,進圍望海堝。榮發伏出戰,奇兵斷其歸路。賊奔櫻桃園,榮合兵攻之,斬首七百四十二,生擒八百五十七。召榮至京,封廣寧伯。自是,倭不敢窺遼東。二十年,倭寇象山。
宣德七年正月,帝念四方蕃國皆來朝,獨日本久不貢,命中官柴山往琉球,令其王轉諭日本,賜之敕。明年夏,王源義教遣使來。帝報之,賚白金、彩幣。秋復至。十年十月以英宗嗣位,遣使來貢。
正統元年二月,使者還,賚王及妃銀幣。四月,工部言:「宣德間,日本諸國皆給信符勘合,今改元伊始,例當更給。」從之。四年五月,倭船四十艘連破台州桃渚、寧波大嵩二千戶所,又陷昌國衛,大肆殺掠。八年五月,寇海寧。先是,洪熙時,黃岩民周來保、龍岩民鐘普福困於徭役,叛入倭。倭每來寇,為之鄉導。至是,導倭犯樂清,先登岸偵伺。俄倭去,二人留村中丐食,被獲,置極刑,梟其首於海上。倭性黠,時載方物、戎器,出沒海濱,得間則張其戎器而肆侵掠,不得則陳其方物而稱朝貢,東南海濱患之。
景泰四年入貢,至臨清,掠居民貨。有指揮往詰,歐幾死。所司請執治,帝恐失遠人心,不許。先是,永樂初,詔日本十年一貢,人止二百,船止二艘,不得攜軍器,違者以寇論。乃賜以二舟,為入貢用,後悉不如制。宣德初,申定要約,人毋過三百,舟毋過三艘。而倭人貪利,貢物外所攜私物增十倍,例當給直。禮官言:「宣德間所貢硫黃、蘇木、刀扇、漆器之屬,估時直給錢鈔,或折支布帛,為數無多,然已大獲利。今若仍舊制,當給錢二十一萬七千,銀價如之。宜大減其直,給銀三萬四千七百有奇。」從之。使臣不悅,請如舊制。詔增錢萬,猶以為少,求增賜物。詔增布帛千五百,終怏怏去。
天順初,其王源義政以前使臣獲罪天朝,蒙恩宥,欲遣使謝罪而不敢自達,移書朝鮮王令轉請,朝鮮以聞。廷議敕朝鮮核實,令擇老成識大體者充使,不得仍前肆擾,既而貢使亦不至。
成化四年夏,乃遣使貢馬謝恩,禮之如制。其通事三人,自言本寧波村民,幼為賊掠,市與日本,今請便道省祭,許之。戒其勿同使臣至家,引中國人下海。十一月,使臣清啟復來貢,傷人於市。有司請治其罪,詔付清啟,奏言犯法者當用本國之刑,容還國如法論治。且自服不能鈐束之罪,帝俱赦之。自是,使者益無忌。十三年九月來貢,求《佛祖統紀》諸書,詔以《法苑珠林》賜之。使者述其王意,請於常例外增賜,命賜錢五萬貫。二十年十一月復貢。弘治九年三月,王源義高遣使來,還至濟寧,其下復持刀殺人。所司請罪之,詔自今止許五十人入都,余留舟 次,嚴防禁焉。十八年冬來貢,時武宗已即位,命如故事,鑄金牌勘合給之。
正德四年冬來貢。禮官言:「明年正月,大祀慶成宴。朝鮮陪臣在展東第七班,日本向無例,請殿西第七班。」從之。禮官又言:「日本貢物向用舟三,今止一,所賜銀幣,宜如其舟之數。且無表文,賜敕與否,請上裁。」命所司移文答之。五年春,其王源義澄遣使臣宋素卿來貢,時劉瑾竊柄,納其黃金千兩,賜飛魚服,前所未有也。素卿,鄞縣硃氏子,名縞,幼習歌唱。倭使見,悅之,而縞叔澄負其直,因以縞償。至是,充正使,至蘇州,澄與相見。後事覺,法當死,劉瑾庇之,謂澄已自首,並獲免。七年,義澄使復來貢,浙江守臣言:「今畿輔、山東盜充斥,恐使臣遇之為所掠,請以貢物貯浙江官庫,收其表文送京師。」禮官會兵部議,請令南京守備官即所在宴賚,遣歸,附進方物,皆予全直,毋阻遠人向化心。從之。
嘉靖二年五月,其貢使宗設抵寧波。未幾,素卿偕瑞佐復至,互爭真偽。素卿賄市舶大監賴恩,宴時坐素卿於宗設上,船後至又先為驗發。宗設怒,與之斗,殺瑞佐,焚其舟,追素卿至紹興城下,素卿竄匿他所免。凶黨還寧波,所過焚掠,執指揮袁璡,奪船出海。都指揮劉錦追至海上,戰沒。巡按御史歐珠以聞,且言:「據素卿狀,西海路多羅氏義興者,向屬日本統轄,無入貢例。因貢道必經西海,正德朝勘合為所奪。我不得已,以弘治朝勘合,由南海路起程,比至寧波,因詰其偽,致啟釁。」章下禮部,部議:「素卿言未可信,不宜聽入朝。但釁起宗設,素卿之黨被殺者多,其前雖有投番罪,已經先朝宥赦,毋容問。惟宣諭素卿還國,移咨其王,令察勘合有無,行究治。」帝已報可,御史熊蘭、給事張翀交章言:「素卿罪重不可貸,請並治賴恩及海道副使張芹、分守參政硃鳴陽、分巡副使許完、都指揮張浩。閉關絕貢,振中國之威,寢狡寇之計。」事方議行,會宗設黨中林、望古多羅逸出之舟,為暴風飄至朝鮮。朝鮮人擊斬三十級,生擒二賊以獻。給事中夏言因請逮赴浙江,會所司與素卿雜治,因遣給事中劉稍、御史王道往。至四年,獄成,素卿及中林、望古多羅並論死,系獄。久之,皆瘐死。時有琉球使臣鄭繩歸國,命傳諭日本以擒獻宗設,還袁璡及海濱被掠之人,否則閉關絕貢,徐議征討。
九年,琉球使臣蔡瀚者,道經日本,其王源義晴附表言:「向因本國多事,干戈梗道。正德勘合不達東都,以故素卿捧弘治勘合行,乞貸遣。望並賜新勘合、金印,修貢如常。」禮官驗其文,無印篆,言:「倭譎詐難信,宜敕琉球王傳諭,仍遵前命。」十八年七月,義晴貢使至寧波,守臣以聞。時不通貢者已十七年,敕巡按御史督同三司官核,果誠心效順,如制遣送,否則卻回,且嚴居民交通之禁。明年二月,貢使碩鼎等至京申前請,乞賜嘉靖新勘合,還素卿及原留貢物。部議:「勘合不可遽給,務繳舊易新。貢期限十年,人不過百,舟不過三,余不可許。」 詔如議。二十三年七月復來貢,未及期,且無表文。部臣謂不當納,卻之。其人利互市,留海濱不去。巡按御史高節請治沿海文武將吏罪,嚴禁奸豪交通,得旨允行。而內地諸奸利其交易,多為之囊橐,終不能盡絕。
二十六年六月,巡按御史楊九澤言:「浙江寧、紹、台、溫皆濱海,界連福建福、興、漳、泉諸郡,有倭患,雖設衛所城池及巡海副使、備倭都指揮,但海寇出沒無常,兩地官弁不能通攝,制御為難。請如往例,特遣巡視重臣,盡統海濱諸郡,庶事權歸一,威令易行。」廷議稱善,乃命副都御史硃紈巡撫浙江兼制福、興、漳、泉、建寧五府軍事。未幾,其王義晴遣使周良等先期來貢,用舟四,人六百,泊於海外,以待明年貢期。守臣沮之,則以風為解。十一月事聞,帝以先期非制,且人船越額,敕守臣勒回。十二月,倭賊犯寧、台二郡,大肆殺掠,二郡將吏並獲罪。明年六月,周良復求貢,紈以聞。禮部言:「日本貢期及舟與人數雖違制,第表辭恭順,去貢期亦不遠,若概加拒絕,則航海之勞可憫,若稍務含容,則宗設、素卿之事可鑑。宜敕紈循十八年例,起送五十人,余留嘉賓館,量加犒賞,諭令歸國。若互市防守事,宜在紈善處之。」報可。紈力言五十人過少,乃令百人赴都。部議 但賞百人,余罷勿賞。良訴貢舟高大。勢須五百人。中國商舶入海,往往藏匿島中為寇,故增一舟防寇,非敢違制。部議量增其賞,且謂:「百人之制,彼國勢難遵行,宜相其貢舟大小,以施禁令。」從之。
日本故有孝、武兩朝勘合幾二百道,使臣前此入貢請易新者,而令繳其舊。至是良持弘治勘合十五道,言其餘為素卿子所竊,捕之不獲。正德勘合留十五道為信,而以四十道來還。部議令異時悉繳舊,乃許易新,亦報可。當是時,日本王雖入貢,其各島諸倭歲常侵掠,濱海奸民又往往勾之。紈乃嚴為申禁,獲交通者,不俟命輒以便宜斬之。由是,浙、閩大姓素為倭內主者,失利而怨。紈又數騰疏於朝,顯言大姓通倭狀,以故閩、浙人皆惡之,而閩尤甚。巡按御史周亮,閩產也,上疏詆紈,請改巡撫為巡視,以殺其權。其黨在朝者左右之,竟如其請。又奪紈官。羅織其擅殺罪,紈自殺。自是不置巡撫者四年,海禁復弛,亂益滋甚。
祖制,浙江設市舶提舉司,以中官主之,駐寧波。海舶至則平其直,制馭之權在上。及世宗,盡撤天下鎮守中官,並撤市舶,而濱海奸人遂操其利。初市猶商主之,及嚴通番之禁,遂移之貴官家,負其直者愈甚。索之急,則以危言嚇之,或又以好言紿之,謂我終不負若直。倭喪其貲不得返,已大恨,而大奸若汪直、徐海、陳東、麻葉輩素窟其中,以內地不得逞,悉逸海島為主謀。倭聽指揮,誘之入寇。海中巨盜,遂襲倭服飾、旂號,並分艘掠內地,無不大利,故倭患日劇,於是廷議復設巡撫。三十一年七月以僉都御史王忬任之,而勢已不可撲滅。
明初,沿海要地建衛所,設戰船,董以都司、巡視、副使等官,控制周密。迨承平久,船敝伍虛。及遇警,乃募漁船以資哨守。兵非素練,船非專業,見寇舶至,輒望風逃匿,而上又無統率御之。以故賊帆所指,無不殘破。三十二年三月,汪直勾諸倭大舉入寇,連艦數百,蔽海而至。浙東、西,江南、北,濱海數千里,同時告警。破昌國衛。四月犯太倉,破上海縣,掠江陰,攻乍浦。八月劫金山衛,犯崇明及常熟、嘉定。三十三年正月自太倉掠蘇州,攻松江,復趨江北,薄通、泰。四月陷嘉善,破崇明,復薄蘇州,入崇德縣。六月由吳江掠嘉興,還屯柘林。縱橫來往,若入無人之境,忬亦不能有所為。未幾,忬改撫大同,以李天寵代,又命兵部尚書張經總督軍務。乃大徵兵四方,協力進剿。是時,倭以川沙窪、柘林為巢,抄掠四出。明年正月,賊奪舟犯乍浦、海寧,陷崇德,轉掠塘棲、新市、橫塘、雙林等處,攻德清縣。五月復合新倭,突犯嘉興,至王江涇,乃為經擊斬千九百餘級,余奔柘林。其他倭復掠蘇州境,延及江陰、無錫,出入太湖。大抵真倭十之三,從倭者十之七。倭戰則驅其所掠之人為軍鋒,法嚴,人皆致死,而官軍素懦怯,所至潰奔。帝乃遣工部侍郎趙文華督察軍情。文華顛倒功罪,諸軍益解體。經、天寵並被逮,代以周珫、胡宗憲。逾月,珫罷,代以楊宜。
時賊勢蔓延,江浙無不蹂躪。新倭來益眾,益肆毒。每自焚其舟,登岸劫掠。自杭州北新關西剽淳安,突徽州歙縣,至績溪、旌德,過涇縣,趨南陵,遂達蕪湖。燒南岸,奔太平府,犯江寧鎮,徑侵南京。倭紅衣黃蓋,率眾犯大安德門,及夾岡,乃趨秣陵關而去,由溧水流劫溧陽、宜興。聞官兵自太湖出,遂越武進,抵無錫,駐惠山。一晝夜奔百八十餘里,抵滸墅。為官軍所圍,追及於楊林橋,殲之。是役也,賊不過六七十人,而經行數千里,殺戮戰傷者幾四千人,歷八十餘日始滅,此三十四年九月事也。
應天巡撫曹邦輔以捷聞,文華忌其功。以倭之巢於陶宅也,乃大集浙、直兵,與宗憲親將之。又約邦輔合剿,分道並進,營於松江之甎橋。倭悉銳來沖,遂大敗,文華氣奪,賊益熾。十月,倭自樂清登岸,流劫黃岩、仙居、奉化、餘姚、上虞,被殺擄者無算。至乘縣乃殲之,亦不滿二百人,顧深入三府,歷五十日始平。其先一枝自山東日照流劫東安衛,至淮安、贛榆、沭陽、桃源,至清河阻雨,為徐、邳官兵所殲,亦不過數十人,流害千里,殺戮千餘,其悍如此。而文華自甎橋之敗,見倭寇勢甚,其自柘林移於周浦,與泊於川沙舊巢及嘉定高橋者自如,他侵犯者無虛日,文華乃以寇息請還朝。
明年二月,罷宜,代以宗憲,以阮鶚巡撫浙江。於是宗憲乃請遣使諭日本國王,禁戢島寇,招還通番奸商,許立功免罪。既得旨,遂遣寧波諸生蔣洲、陳可願往。及是,可願還,言至其國五島,遇汪直、毛海峰,謂日本內亂,王與其相俱死,諸島不相統攝,須遍諭乃可杜其入犯。又言,有薩摩洲者,雖已揚帆入寇,非其本心,乞通貢互市,願殺賊自效。乃留洲傳諭各島,而送可願還。宗憲以聞,兵部言:「直等本編民,既稱效順,即當釋兵。乃絕不言及,第求開市通貢,隱若屬國然,其奸叵測。宜令督臣振揚國威,嚴加備御。移檄直等,俾剿除舟山諸賊巢以自明。果海疆廓清,自有恩賚。」從之。時兩浙皆被倭,而慈溪焚殺獨慘,餘姚次之。浙西柘林、乍浦、烏鎮、皁林間,皆為賊巢,前後至者二萬餘人,命宗憲亟圖方略。七月,宗憲言:「賊首毛海峰自陳可願還,一敗倭寇於舟山,再敗之瀝表,又遣其黨招諭各島,相率效順,乞加重賞。」部令宗憲以便宜行。當是時,徐海、陳東、麻葉,方連兵攻圍桐鄉,宗憲設計間之,海遂擒東、葉以降,盡殲其餘眾於乍浦。未幾,復蹴海於梁莊,海亦授首,餘黨盡滅。江南、浙西諸寇略平,而江北倭則犯丹陽及掠瓜洲,燒漕艘者明春復犯如皋、海門,攻通州,掠揚州、高耶,入寶應,遂侵淮安府,集於廟灣,踰年乃克。其浙東之倭則盤踞於舟山,亦先後為官軍所襲。
先是,蔣洲宣諭諸島,至豐後被留,令僧人往山口等島傳諭禁戢。於是山口都督源義長具咨送還被掠人口,而咨乃用國王印。豐後太守源義鎮遣僧德陽等具方物,奉表謝罪,請頒勘合修貢,送洲還。前楊宜所遣鄭舜功出海哨探者,行至豐後島,島主亦遣僧清授附舟來謝罪,言前後侵犯,皆中國奸商潛引諸島夷眾,義鎮等實不知。於是宗憲疏陳其事,言:「洲奉使二年,止歷豐後、山口二島,或有貢物而無印信勘合,或有印信而無國王名稱,皆違朝典。然彼既以貢來,又送還被掠人口,實有畏罪乞恩意。宜禮遣其使,令傳諭義鎮、義長,轉諭日本王,擒獻倡亂諸渠,及中國奸宄,方許通貢。」詔可。
汪直之踞海島也,與其黨王滶、葉宗滿、謝和、王清溪等,各挾倭寇為雄。朝廷至懸伯爵、萬金之賞以購之,迄不能致。及是,內地官軍頗有備,倭雖橫,亦多被剿戮,有全島無一人歸者,往往怨直,直漸不自安。宗憲與直同郡,館直母與其妻孥於杭州,遣蔣洲齎其家書招之。直知家屬固無恙,頗心動。義鎮等以中國許互市,亦喜。乃裝巨舟,遣其屬善妙等四十餘人隨直等來貢市,於三十六年十月初,抵舟山之岑港。將吏以為入寇也,陳兵備。直乃遣王?滶入見宗憲,謂:「我以好來,何故陳兵待我?」滶即毛海峰,直養子也。宗憲慰勞甚至,指心誓無他。俄善妙等見副將盧鏜於舟山,鏜令擒直以獻。語洩,直益疑。宗憲開諭百方,直終不信,曰:「果爾,可遣滶出,吾當入見。」宗憲立遣之。直又邀一貴官為質,即命指揮夏正往。直以為信,遂與宗滿、清溪偕來。宗憲大喜,禮接之甚厚,令謁巡按御史王本固於杭州,本固以屬吏。氵敖等聞,大恨,支解夏正,焚舟登山,據岑港堅守。
踰年,新倭大至,屢寇浙東三郡。其在岑港者,徐移之柯梅,造新舟出海,宗憲不之追。十一月,賊揚帆南去,泊泉州之浯嶼,掠同安、惠安、南安諸縣,攻福寧州,破福安、寧德。明年四月遂圍福州,經月不解。福清、永福諸城皆被攻毀,蔓延於興化,奔突於漳州。其患盡移於福建,而潮、廣間亦紛紛以倭警聞矣。至四十年,浙東、江北諸寇以次平。宗憲尋坐罪被逮。明年十一月陷興化府,大殺掠,移據平海衛不去。初,倭之犯浙江也,破州縣衛所城以百數,然未有破府城者。至是,遠近震動,亟征俞大猷、戚繼光、劉顯諸將合擊,破之。其侵犯他州縣者,亦 為諸將所破,福建亦平。
其後,廣東巨寇曾一本、黃朝太等,無不引倭為助。隆慶時,破碣石、甲子諸衛所。已,犯化州石城縣,陷錦囊所、神電衛。吳川、陽江、茂名、海豐、新寧、惠來諸縣,悉遭焚掠。轉入雷、謙、瓊三郡境,亦被其患。萬曆二年犯浙東寧、紹、台、溫四郡,又陷廣東銅鼓石雙魚所。三年犯電白。四年犯定海。八年犯浙江韭山及福建彭湖、東涌。十年犯溫州,又犯廣東。十六年犯浙江。然時疆吏懲嘉靖之禍,海防頗飭,賊來輒失利。其犯廣東者,為蜒賊梁本豪勾引,勢尤猖獗。總督陳瑞集眾軍擊之,斬首千六百餘級,沈其船百餘艘,本豪亦授首。帝為告謝郊廟,宣捷受賀雲。
日本故有王,其下稱關白者最尊,時以山城州渠信長為之。偶出獵,遇一人臥樹下,驚起衝突,執而詰之。自言為平秀吉,薩摩州人之奴,雄健蹺捷,有口辯。信長悅之,令牧馬,名曰木下人。後漸用事,為信長畫策,奪並二十餘州,遂為攝津鎮守大將。有參謀阿奇支者,得罪信長,命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺,秀吉方攻滅阿奇支,聞變,與部將行長等乘勝還兵誅之,威名益振。尋廢信長三子,僭稱關白,盡有其眾,時為萬曆十四年。於是益治兵,征服六十六州,又以威脅琉球、呂宋、暹羅、佛郎機諸國,皆使奉貢。乃改國王所居山城為大閣,廣築 城郭,建宮殿,其樓閣有至九重者,實婦女珍寶其中。其用法嚴,軍行有進無退,違者雖子婿必誅,以故所向無敵。乃改元文祿,並欲侵中國,滅朝鮮而有之。召問故時汪直遺黨,知唐人畏倭如虎,氣益驕。益大治兵甲,繕舟艦,與其下謀,入中國北京者用朝鮮人為導,入浙、閩沿海郡縣者用唐人為導。慮琉球洩其情,使毋入貢。
同安人陳甲者,商於琉球。懼為中國害,與琉球長史鄭迥謀,因進貢請封之使,具以其情來告。甲又旋故鄉,陳其事於巡撫趙參魯。參魯以聞,下兵部,部移咨朝鮮王。王但深辨嚮導之誣,亦不知其謀己也。
初,秀吉廣徵諸鎮兵,諸三歲糧,欲自將以犯中國。會其子死,旁無兄弟。前奪豐後島主妻為妾,慮其為後患。而諸鎮怨秀吉暴虐,咸曰:「此舉非襲大唐,乃襲我耳。」各懷異志。由是,秀吉不敢親行。二十年四月遣其將清正、行長、義智,僧玄蘇、宗逸等,將舟師數百艘,由對馬島渡海陷朝鮮之釜山,乘勝長驅,以五月渡臨津,掠開城,分陷豐德諸郡。朝鮮望風潰,清正等遂亻畐王京。朝鮮王李昖棄城奔平壤,又奔義州,遣使絡繹告急。倭遂入王京,執其王妃、王子,追奔至平壤,放兵淫掠。七月命副總兵祖承訓赴援,與倭戰於平壤城外,大敗,承訓僅以身免。八月,中朝乃以兵部侍郎宋應昌為經略,都督李如松為提督,統兵討之。
當是時,寧夏未平,朝鮮事起,兵部尚書石星計無所出,募能說倭者偵之,於是嘉興人沈惟敬應募。星即假游擊將軍銜,送之如松麾下。明年,如松師大捷於平壤,朝鮮所失四道並復。如松乘勝趨碧蹄館,敗而退師。於是封貢之議起,中朝彌縫惟敬以成款局,事詳《朝鮮傳》。久之,秀吉死,諸倭揚帆盡歸,朝鮮患亦平。然自關白侵東國,前後七載,喪師數十萬糜餉數百萬,中朝與朝鮮迄無勝算。至關白死,兵禍始休,諸倭亦皆退守島巢,東南稍有安枕之日矣。秀吉凡再傳而亡。
終明之世,通倭之禁甚嚴,閭巷小民,至指倭相詈罵,甚以噤其小兒女雲


ピンク色の記述は信長に仕えた秀吉の天下統一から朝鮮侵攻とその死を記述した行です。

なにを考えたのか朝鮮出兵は明への侵攻の足掛かりに起こした戦争と言われており、秀吉がキレ老人になり当時の李朝朝鮮王国へ侵攻、すでに泰平の世をおおかしていた朝鮮国は退廃し一時王宮も漢陽を逃げ出す始末。
この時に景福宮は平民により放火され、最後の高宗の時代まで跡地化状態になってしまいます。

なんでしょうか?息子秀頼への忠誠の礎を築きたかったんでしょうか?結束力って確かに大事ですが・・・・。
結局この侵攻は秀吉の死と明軍、民兵、李将軍の活躍で終止符が打たれます。
当然豊臣秀吉は現在も嫌いな日本人にあげるトップ2に殿堂入り、しかもこれが日本人嫌いに尾を引く要因となるのです。しかも日本人はイマイチ自覚がないので、これが韓国併合、大韓民国の日本嫌いの根っことなっていくんですね。
馬鹿秀吉ですね~~~舞は大坂出身ですが、秀吉昔からイマイチな感じありました。いかにも成り金趣味と部類の女好き、あの不細工かげん。ちょとというかかなり無理です!!!

秀吉の死後は冬の陣、夏の陣を経て徳川家康の築いた江戸幕府が政治、経済を担います。
江戸時代は身分社会、封建社会といった堅苦しい時代のように考えがちですが、意外と大都市では町人文化の花ひらいた時代でもありました。
何度かの改革で幕府は安定、不安定を繰り返しながら450年政権を維持し慶喜の大政奉還まで日本を統治していきます。
徳川幕府は長期間の政運営の疲弊から幕府の鎖国廃止改革で倒幕運動が盛んになり、薩長連合による打撃で伏見の戦いを経て長く握った政権を朝廷へ戻します。
以降当時の明治天皇による親政が始まり、欧米化による富国強兵の時代明治が始まります。

尊王攘夷運動、倒幕運動がなければそもそも天皇が存在していなければ欧米の植民地になっていたかもしれません。明治維新は有力な倒幕派の幕府の暗殺という悲劇の中で辛うじて生き残った藩の下級層無名の武士達と一部の朝廷の公家より、なし得えカリスマ性の高い明治天皇の存在と無血の政権譲渡を決断した徳川慶喜の存在もあったでしょう。(後に明治天皇は慶喜をもてなし又自身の孫に慶喜の娘をもらいうけています。これ薩摩長州にはない明治天皇の慶喜の容積を認めていた証しでしょう。)

植民地化を防げたのは当フランス、イギリスはそれぞれ薩摩長州、江戸幕府を貢献していてそのパワーバランスが分散出来た事も大きかったでしょう。
ただ当時の列強国は日本を他のアジアの国々とは違う国であるという見方をしていたようです。
日本人、及び日本文化に感銘を受け、文化的に発展している民族として移った印象も良かったでしょう。19世紀末パリ万博で紹介された日本文化がジャポニズムと称し大流行しヨーロッパで流行していた美術様式「アールヌーボ」に強い影響を与えていたからです。
その後大正、昭和と経済社会へと変貌し続けますが、日本の中国大陸侵攻を心良く思わなかった米国の経済制裁の為に製剤悪化に陥った日本の軍部の暴走が第二次世界大戦(太平洋戦争)を開戦、敗戦するものの経済社会制度はは大きく成長、しかしここ20年現在もは新社会制度の見直しをまさにせまられ第二の変革を迫られている時代でしょう。
えっここまでかなり強引ですか?
舞もそう思います。~~^^後半の武家社会以降は機会があればそのうち紹介~~~逃げます~~~。


最後に大イベントのロンドンオリンピックですが、今回金以外のメダルがおおかったな~~~という印象です。
しかも個人競技よりは団体競技メダル取得が目立っていました。
これはやはり各国はまず金!!!
に対して日本はまずメダル!!という意識が最後の決勝で相手に敗退するという結果になったといえないでしょうか?
つまり、決勝に出た時点でやった~~~と思い、次への気力が相手より低くなってしまう。
まあ良く言われますが「最後の気力、精神力」が相手よりかけてしまう。

逆に団体は全員で負担が分配される。又団体戦ならではの結束力で日本人の特徴が出て良い結果で出来ている。

でもこの経済力でのメダル確保本当にすごいと思います。
なぜなら競技の多くの選手は会社の後見を受けて各競技にいどみます。つまり、会社が利益をあげれない場合、その経済力も輩出出来ないんです。しかも政府もそこまでは税金を投入出来ない。
なのになかなか頑張ってると思うのです。

確かに北京、アテネの時ほど金メダルの数は多くありませんが、高度経済成長やバブルの頃よりはメダル数はダントツです。経済力に比例しないんですね~~~

しかも女性アスリートの活躍が抜きんで出ていました。6個の金メダルのうち女性4個男性2個人口比率的にも驚異な数字です。
はて男子弱すぎるのか?女子が強す過ぎるのか?


今の日本、というか世界は混迷期にあるのです。新しい価値観、時代への過渡期で起こる混乱です。

幕末の頃、流行った「ええじゃないか~~ええじゃないか~~~」と踊りまくった様にこんな頃ほど笑いこばしていきましょう~~~よん

きっとこの解決方法は日本人が日本人たる者に戻るこの一言につきると思います。

まだまだ大丈夫~~~~日本

住むのは日本が一番です!でも・・・同調性を持ち続けるのはストレスはたまる。
じゃあ発散!!!舞の外国詣では止まりません。
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theme : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
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2012-01-10

舞少納言の歴史謎説き第二段の巻き

京草子別編「竹取物語の謎を草子していきたいと思います。


子供の頃に必ずといっていいほど読む「かぐや姫の物語」
しかしこの物語実は大きな謎に満ちた物であることはあまり知られていない。

いろいろ草子するしがいのある物語なのです。

「竹取翁の物語」もしくは「かぐや姫の物語」とも呼ばれる原本は存在せず写本は室町時代後期後光厳天皇筆「竹取物語断簡」完成本は安土桃山時代武籐本が最古と言われています。

大和物語、又うつぼ物語の記述にも現れ、源氏物語の絵合で「物語の出て来てはじめの祖なる竹取の翁」と書かれているように日本最古の物語です。

当初は口承説話から漢文の影響を受け漢文で完成し、語に平仮名で書き改められたと言われています。

日本では「万葉集」巻十六 第三七九一歌 竹取の翁が天女を詠んだ長歌があり、チベットのアバチベット族に伝承された「班竹姑娘」という似た物語があるそうです。

その一番の大きな謎

①まず作者がわからない。
②いつ書かれたのかもわからない。

ならばその謎を解明していきましょう。

(1)誰が書いたのか?

プロファイリングしちゃいます。

作者:①優れた文才、古典、歴史、和歌、地理、外交等の知識が深い。
   ②文武天皇期の朝廷の重臣特に藤原氏を非常に敵視している。
   ③天皇には好意的。
   ④奈良前期時代の政治事情を詳細に知る人物。
   ⑤民間伝承、国内地理、海外の知識も豊富。
   ⑥貴重な紙を入手する事が可能で裕福な人物。
   ⑦石上麻呂にはやや同情的。
   ⑧世情に詳しい。
   ⑨物語を書く時間がありと朝廷殿上人との交流がないもしくは僅か。

では物語をひらがな原文で拾っていきましょう。

「今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山なる竹をとりてよろづの事につかひけり。名をば、讃岐の造といひける。その 竹の中に、もとひかる竹、一筋あり。あやしがりて、よりて見るに、筒の中ひかりたり。それをみれば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。翁いふやう、「我あさごとゆふべに、見るたけの中におはするにて知りぬ。子になり給べき人なんめり」とて、手にいれて、家にもてきぬ。妻の女にあづけて、やしなはす。うつしきことかぎりなし。いと幼なければ、籠にいれてやしなう。竹取の翁、なを竹をとるに、この子を見つけてのち、とる竹に、節をへだてて、ことにこかねある竹見つくる事かさなりぬ。
かくて翁、やうやうゆるらかになり行。このちごやしなうほとに、すくすくと大きになりまさる。三月ばかりやしなうほどによきほどなる人になりぬれば、髪上げなど左右して、髪上げさす。裳きせ、帳のうちよりもいださず、いつきやしなう。
このちごのかたちの、けうらなる事、世になく、屋のうちはくらきところなく、ひかりみちたり。翁の、心ちあしく、くるしき時も、この子を見れば、くるしきこともやみぬ。はらだたしきことも、なぐさみけり。翁、竹をとる事、ひさしくなりぬ。いきをゐ、まことの物になりにけり。この子、いと大きになりぬれば、この子の名を、みむろのあきたをよびて、つけさす。あきた、なよたけのかぐや姫とつけつ。この子、一日うちあげうちあげあそぶ。よろづのあそびをぞしける。おとこは、上下えらはず、よびつどへて、いとかしこくあそぶ。」

簡訳:
竹を取るのを生業とする讃岐造、竹の中から小さな少女を見つけ、育ていると竹から小判がザクザク!!大金持ちに!尋常でないほど早く成人した女の子は光輝く美人、見ている者も幸福な気持ちにさせてくれ翁は御室戸の神祇を生業とする秋田という者に名前を名付け、邸の奥深くに大切にしていました。

舞台は大和国、讃岐造とあるので四国と思い浮かべるや実は大和国です。
何故なら北葛城郡広陵町に讃岐神社があります。
この神社は讃岐国出身で移住した斎部氏が同地に移住した際に建立をしました。この斎部氏は古代から中臣氏と並び神事を携った一族でした。
しかし中臣氏と藤原氏が分化した後、その地位を奪われた一族です。

但し物語に登場する御室戸斎部氏はこの一族には存在しません。
藤原氏と同じ中臣氏への対抗という意味で登場したとも言えるのです。

その名を持つ翁は大和地方に住む竹狩りをして生計を立てる人物でした。
何故に竹なのか?竹はどんな土壌の地にでも育つ事ができ、その強い生命力から「竹」というアイテムが選ばれたのではないでしょうか?

なよ竹のかぐや姫という名前実は垂仁天皇の妃で迦具夜比売という人物が日本書紀に登場します。この垂仁天皇は実在性をうたがわれていますが、日本書紀では皇后の兄の反乱にあい皇后が自殺しています。又旧跡藤原京にある迦具山の名も気になります。

世界の男の、あてなるも、いやしきも、「いかで、このかぐや姫を、えてしがな」とぞ、音にもききめでて、そのあたりのかきにも、家のとにも、をる人だに、たやすく見るまじき物をよるはやすくゐもねず、やみの夜にいでても、あなをくじり、かいばみ、まどひあへり。かかるときよりなむ、よばひとはいひける。人の音もせぬところに、まどひありけども、なにのしるしあるべくもなし。家の人どもに、「物をだにいはむ」とていひかかれど、ことともせず、あたりをはなれぬきみだち、夜をあかし、日をくらせる、いとおほかり。をろかなる人は、「ようなきありきは、よしなかりけり」とてこずなりにけり。そのなかに、なをいひけるは、色ごのみといはるるかぎり、五人、おもひやむ時なく、よるひるきけり。その名どもは、石作皇子草持皇子右大臣阿倍御主人大納言大伴御幸中納言石上麻呂、この人たちなりけり。

簡訳:
世の中の男達はこの美人の噂に邸を訪れていました。中でも5人の殿上人が翁に熱心にかぐや姫への愛を訴えかけます。この求婚者の五人は実在の人物と言われています。
まず石作皇子のモデルは多治比嶋(宣化天皇の玄孫)→個人的に701年というキ―ワドに基ずき刑部親王と推測
車持皇子     藤原不比等(天智天皇と鏡王女の子?)
右大臣阿部御主人 701年就任の官位も名も同じ
大納言大伴御行  701年就任   同
中納言石上麻呂  701年就任   同

車持皇子は藤原鎌足と鏡王女の息子とも鎌足と車持娘の息子とも言われていますが、実は鏡王女は天智天皇の妃であった女性。天智天皇から鎌足に下賜された女性と言われています。
この時実は鏡王女は妊娠中それが不比等!不比等の大出世の影に天智天皇の隠し子説がささやかれる元になっています。

五人共天武天皇と持統天皇の長男草壁皇子の息子文武天皇政権化で活躍していた朝廷の重鎮達です。

物語は実は701年平安時代ではなく奈良時代に設定されています。

つまりかぐや姫は十二単衣姿ではなく
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かもしくは
かぐや姫
かぐや姫の衣裳はこんな感じだったはず。

世中におほかる人をだに、すこしもかたちよしとききて、見まほしくする人どもなりければ、かぐや姫をえまほしくて、物もくはずして、おもひつつかの家にゆきて、たたずみありけどかいあるべくもあらず。ふみをかきてやれども、返事もせず。わびうたなどかきをこすれど、「かひなし」とおもへど、しも月しはすのふりこほり、みな月のてりはたたくにも、さはらずきけり。この人びと、ある時は、竹取のよびいでて、「みむすめをくれ給へ」とふしおがみ、てをとりてのたまへど、「をのがなさぬ子なれば、心にもしたかはず」などいひて、月ひをすごす。かかれば、この人びと、家にかへりて、ものをおもひ、いのりをし、願をたてすれども、おもひやむべもあらず。かくおもひいふ事やまず、「さりとも、つゐにおとこあらせざらむやは」とおもひて、たのみをかけたり。あながちに、心ざしを見らんとす。これを見つみて、翁、かぐや姫にいふやう、「我この佛、へんげの人と申なから、ここらおおきさまで、なでおほしやしなひたてまつりつ。心ざしおろかならずは、翁の申さむ事は、きき給てむや」といへば、「なに事をかは、の給むことは、うけ給はらざらむ。変化の物にて侍けむ身をもしらず、おやとこそ、おもひたてまつれ」といふ。翁、「うれしくも、のたまふ物かな。翁、とし七十にあまりぬ。けふあすともしらず。この世の人は、女は男にあふことをす。そののち、門ひろくもなり侍る。いかでか、さてことなくてはおはせむ」かぐや姫いはく、「なんでう、さる事かし侍るべき」といへば、「変化の人といふとも、女の身をもて、翁のあらむかぎりは、かくてもいますらむかし。この人々の、とし月をへて、かくのみいましつつ、の給ふことを、おもひさだめて、あひ給ね」といへば、かぐや姫いはく、「よくもあらぬかたちを、ふかき心ざしをしらず、あだ心つきなば、のちくやしき事もあるべきを、とおもふばかりなり。世のかしこき人なりとも、ふかき心ざしをしらで、あひがたしとなむおもふ」といふ。翁いはく、「おもひのごとくもの給かな。そもそも、いかやうなる心ざしに、あひ給はむとおぼすらむ、心ざしおろかならぬ人々にこそあむめれ。かぐや姫のいはく、「なにばかりの心ざしをみむとか、いささかなる事なり。人のみこころざしは、ひとしかんなり。いかでか、これが中に、おとりまさりはしらむ。『五人のひとの中に、ゆかしき物を見せ給はむに、御心ざしまさりたり、とて、つかうまつらむ』と、そのおはすらむ人に、申給へ」といふ。「よき事なり」とうけつ。
やうやう、日くるるほどに、れいのごとく、きあつまりぬ。あるいはふゑをふき、あるいはうたをうたひ、あるいはしゃうがをし、あふぎをうちならしなどするに、翁いでていはく、「かたじけなく、きたなき所にとし月をへて物し給。きはまりてかしこまり申、『翁、いのち、けふあすしらぬを、かくの給ふ。君たちにも、よくおもひさだめて、つかうまつれ』と申もことわりなり。『いづれも、おとりまさるおはしまさねば、さだめがたし。ゆかしくおもひ侍るものの侍を、見せ給はむに御心ざしのほどは見ゆべし、つかうまつらむ事は、それになむさだむべき』といへば、これ、よきことなり。人の御うらみ事、あるまじ」といふ、五人の人々も、「よき事なり」といへば、翁いりて、かぐや姫にいはく。「石つくりのみこには、ほとけの御石のはちといふ物あり。それをとりて給へ。くらもちの御子には、ひんがしのうみに、ほうらいといふ山あんなり。そこに、しろがねをねとし、こがねをくきとして、しろきたまをみとしたる木あり。それひとえだ、おりて給はらむ。いまひとりにはもろこしにあむなる、ひねずみのかわぎぬを給へ。おおともの大納言には、たつのくびに、五いろにひかるたまあむなり。それとりて給へ。いそのかみの中納言には、つばくらめのもたるこやすがい、ひとつとりてたまへ」といふ。翁、「かたき事どもにこそあむなれ。このくににある物にもあらず。かくかたき事をば、いかで申さむ」といふ。かぐや姫ののたまはく、「なにか、かたからむ」といへば、翁、「ともあれかくもあれ、申さむ」とていでて、「かくなむ、この物をなむ、きこゆるやうに、見せ給へ」といへば、みこたち、かんだちめききて、「『おいらかに、このあたりよりありきそ』とやはのたまはぬ」といひて、からうしてみなかへりぬ。

超簡訳:
翁はかぐや姫にこの五人のうちの一人と結婚をせまりますが、姫は五人にむりやりな難問を与えそれを得た者の妻になると宣言します。

この重鎮達を美貌とはいえ庶民の娘が翻弄させてゆきます。ものすごい悪女なんですよ。かぐや姫は!!!
物語はここからがクライマックス一番の読みどころ、なんせ庶民の娘が時の権力者達をバッサバッサと切っていきます。

①一人目石作皇子「仏の御石鉢」

なをこの女見では、よにあるまじき、心ちどもなむしければ、「てんぢくにある物ももてこぬ物かは」とおもひめぐらして、い石作の御こは、心のしたくある人にて、「てんぢくに、ふたつとなきはちをば、八千里のほどゆきたりとも、いかでか、とるべき」とおもひて、かぐや姫のもとには、「いまなむ、てんぢくへ、いしのはちとりにまかる}ときかせて、三年ばかり、やまとのくに、とをちのこほりにある山寺に、びんづるのまへなるはちの、ひたぐろにへすみつきたるをとりて、にしきのふくろにいれて、つくり花のえだにつけて、かぐや姫の家に、もてきて見せければ、はちのうへにも文ぐしたり。ひろげてみれば、かくなり。

うみ山のみちに心はつくしてきないしのはちのなみだながれき

かぐや姫、「光やある」と、とばかりみるに、ほたるばかりのひかりだになし。 おく露のひかりをただぞやどさましおぐら山までなにたづねけむ とて返していだす。はちをかどにすてて、この御こ、うたのかへしをす。

しら山にあへばひかりのうするかとはちをすててもなげかるるかな

とよみて入たり。かぐや姫、返しせずなりぬ。みみにもきき入ざりければ、いひわづらひてかへりぬ。
かのはちをすて、またいひけるをききてぞ、おもひなげきをば、「はちをすつ」といひける。

簡訳:仏の御石の鉢を持ってこいといわれた石作皇子はかぐや姫を妻に出来ずにこの世に生きていてもしかたないとは考えてはいましたが、この皇子は現実的な人だったので、遠い天笠(インド)に行っても鉢を手にいれるなど不可能と思っていました。そこでかぐや姫には「天笠に行きます」と言い三年の後奈良の十市の郡の山寺にあった黒く煤けた鉢を手に入れて錦の袋を被せ、造花の枝を結びつけてかぐや姫に届けました。
この世の中にあるはずのない鉢があるのを不可思議に思い、鉢の中をのぞくと手紙が入っていました。

「難波から天笠まで海山を超え精根尽果て血を涙を流す思いで手にいれた鉢です」と書かれた和歌が書いてあります。
しかし本物の仏の鉢は光を放っていましたが、目にある鉢はただ煤けただけの凡庸な鉢でしたのですぐに偽物だとかぐや姫は気付きました。

「草に奥ほどの小さな光でもあればよかったのにいったいあなたは小暗山の奥で何を探していたのやら」
と和歌を詠んで鉢と一緒につっ返しました。
石作皇子は返された鉢を姫の邸の門に捨てて、かぐや姫の和歌の返歌を返します。

「白山のように光り輝くあなたに出会ってしまったので持っていた光を失ってしまったのではないでしょうあかと鉢を捨てましたが、あなたの事が忘れられません。」

返歌のないのをすごすごと帰りました。

この様に鉢を偽造し、その鉢を捨てて尚あつかましくかぐや姫に言い寄った事からあつかましい事を「はぢを捨てる」というようになりました。

石作皇子は現実的な人でした。といいます。というと701年というキーワードに当てはめる人物は文武天皇期に活躍した大宝律令に係わった刑部親王ではないでしょうか?天武天皇の皇子で高市親王の後親王の筆頭親王。作者は天皇家には好意的な書き方をしています。本名を明かさないのは親王の名誉を重んじたとも言えます。

②二人目草持皇子「蓬莱山の玉の枝」

草持の御子は、こころたばかりある人にて、おほやけには、「筑紫の国に、ゆあみにまからむ」といとま申て、かぐや姫には、「玉の枝とりにまかる」といはせてくだり給はむに、つかうまつるべき人は、みななにはまで、御おくりしけり。皇子いとしのびて、人もあまた、いでおはしまさで、ちかうつかうまつる人どものかぎりして、「おはしましぬ」と人にはしらせ見せ給て、二日ばかりありて、こぎかへり給ぬ。かねてこそ、みなおほせられたりければ、その時、ひとりのたからなりける、かぢたくみ六人をめしとりて、たはやすく、人よりくまじき家をつくりて、かまどを、三へにして、こめて、たくみらをいれ給つ。皇子も、おなじ所にかくれゐて、しらせたまへるかぎり、十二方をふたぎ、かみにくちをあけて、たまのえだをつくり給。かぐや姫ののたまふやう、たがはずつくりいでつ。かしこくたばかりて、みそかになにはに出ぬ。「船にのりて、かへりにけり」と殿につげやりて、いといたく、くるしがりてゐ給へり。むかへに人、おほくまゐりたり。玉の枝は、なかびつにいれて、物おほいてもてまゐる。いつかききけむ、「草持の御子は、うどむげのはなもちて、のぼり給へり」とてののしりけり。これを、かぐや姫きき給て、「我はこのみこにまけぬべし」とむねつぶれておもひをり。かかるほどに、かどをたたきて、「草持のみこ、おはしたり」とつぐ。「たびの御すがたながら、おはしましたり」といへば、翁あひたてまつる。みこのたまはく、「いのちをすてゝなむ、かのたまのえだとりて、まうできたる。かくやひめに、とくみせたてまつり給へ」といへば、翁、もて入ぬ。この玉の枝にふみぞつけたりける。

いたづらに身はなしつともたまのえにたをらでさらにかへらましやは

たとえ死んだとしてもこの玉の枝を手折って帰ってはこれなかったでしょう。けれど帰ってくる事が出来たのです。

これをも、あはれとも見でをるに、竹取の翁、はしいていはく、「みこに申給し、蓬莱の玉の枝を、ひとつの所あやまたず、もちておはしませり。なにをもちてか、さらにとかく申べき。たびの御すがたながら、我家へも、より給はずして、おはしたり。はや、みこにあひつかうまつれ」といふに、物もいはで、つらつへをつきて、いみじう、なげかしげにおもひたり。このみこ、「いまさへなにとの給べきならず」といふままに、縁にはいのぼり給ぬ。翁ことはりにおもふ。「このくにに、見えぬさまなる、たまのえだなり。このたびは、いかでか、いなび申さむ。人さまもよき人におはす」などいひゐたり。かぐや姫のいふやう、「おやののたまふ事を、ひたぶるに、いなと申さむことのいとをしさになりかたき物を。かくあさましく、もてきたることを、ねたくおもふ」翁は、ねやの中を、しつらいなどす。
翁、みこに申やう、「いかなる所にか、この木はさぶらひけむ。あやしくうるはしく、めでたき物にこそ」と申。みこ、こたへてのたまはく、「さいととしの〈きさらぎの〉十日ころより、なにはよりふねにのりて、うみの中にいでて、いかむかたもしらず、おぼえしかども、おもふことならで、世中にいきてかいなし。かぜにまかせてありく。命しなばいかがせむ。いきてあらむかぎり、かくありきて、『蓬莱といふなる、山はありや』と海にうきただよひありく。我くにのうちをはなれて、まかりありきしに、あるときには、なみあれつつ、うみのそこにいりぬべく、ある時は風につきて、しらぬくににふきよせられて、おにのやうなる物いできて、ころさむとしき。ある時には、きしかた行さきも見えぬうみにまきいれむとしき。あるときには、かてつきて、くさ木のねをくひものにはしき。ある時には、いはむかたなく、むくつけげなる物いてきて、くひかからむとしき。あるときには、うみのかいをとりて、命をつぐ。ある時には、さるたびのそらに、たすけ給べき人もなき所に、いろいろのやまひをして、ゆくかたそらもおほえず。かへらむ所、いづかたおぼえず。船のゆくにまかせて、うみにただよひ、五百日といふ、たつのときばかりに、うみの中に、わづかに山みゆ。船のうちをなむ、せめて見る。海の上にただよへる山、いとおほきにてあり。その山のさま、たかくうるはし。『これや、もとむる山ならむ』とおもひて、さすがに、おそろしくおぼえて、山のめぐりをさしめぐらかして、三日ばかり、見ありくに、天のよそほひしたる山女、やま中よりいできて、しろかねのかなまりをもちて、水をくみありく。これを見て、船よりおりて、『この山の名をば、なにと申ぞ』ととふ。女、こたへていはく、『これは、蓬莱の山なり』といふ。これをきくに、うれしき事かぎりなし。この女、『かくの給ふは、たれぞ』ととふ。『わか名はこらんなり』といひて、やまのなかにいりぬ。その山をみるに、さらにのぼるべきやうなし。そのやまの、そばひらを見あぐれば、世中になき、はなの木どもあり。こがね、しろがねのみず、山よりながれいでたり。それには、いろいろのたまのはしわたせる。そのあたりに、てりかがやく木どもたてり。その中に、このとりてまうできたるは、いとわろかりしかども、のたまひしにたがはず、このはなをおりて、まうできたるなり。山はかぎりなくおもしろく、世にたとふべきにあらざりしかど、このえだをおりてしかば、さらに、なにのこころもなくて、ふねにのりて、おひかぜふきて、四百よ日になむ、まうできにし、大願の力にやありけむ、なにはにふきよせられて侍し。なにはよりは、昨日なむ、都にはまうできつる。さらに、しほにぬれたるきぬをだに、ぬぎかへなでなむ、ここには、まうできつる」とのたまふを、この翁ききてうちなきてよむ、そのうたは

くれ竹のよよの竹取野山にもさやはわびしきふしをのみみし

竹取りの山、野に苦労したこの仕事よりもたいそう辛い目にあった事がありましょうか。

これを御子ききて、「ここらの日ごろ、おもひわび侍りつる心ちは、けふなむ、おちゐぬる」との給て

我たもとけふかはけれはわびしさのちぐさのかずもわすられぬべし

海水と涙で濡れた袖も今日はすっかり乾いたのでこれまでの苦労は忘れられるに違いありません。

ときこゆるほどに、おとこども、六人つらねて、にはかにいできたり。ひとりのおのこ、ふみばさみに、文をはさみて申、「つくも所のたくみ、あやむべのうち申さく、たまのえだを、つくりつかふまつりし事、五こくをたちて、千よ日に、ちからをつくしたること、すくなからず、しかるに、ろくいまだ給はらず、これを給て、われらがけごに給はせむ」といひて、ささげたり。竹取の翁、「このたくみらが申事は、なにことぞ」と、あやしがりてかたぶきをり。みこは、われにもあらぬ心ちして、きもきえゐたまへり。これをかぐや姫ききて、「かのたてまつる文とれ」といひて見れば、文に申けるやう、「御子の君、千日、いやしきたくみら、もろともに、おなじ所に、かくれゐ給て、かしこきたまの木を、つくらせ給ふとて、『つかさも給はむ』とおほせ給き。それを、このころあむずるに、『御使つかゐおはしますべきかぐや姫のえうじ給ふきなりけり』とうけ給はりて、『この宮より給はらむ』とて、まいれるなり」といふをききて、かぐや姫の、くるるままに、おもひわびつる心に、わらひさかへて、翁をよびとりて、いふやう、「まことのほうらいの木とこそおもひつれ、かくあさましき、そらごとにてありければ、はや返し給へ」といへば、翁こたふ、「さだかにつくらせたる物とき、かへさむこと、いとやすし」とうなづきをり。かぐや姫の、心ゆきはてて、ありつるうた、返

まことかとききて見つればことの葉をかざれるたまの枝にぞありける

本物の玉の枝と思っていましたが、言葉なくみにだました偽物だったんですね。

といひて、たまのえだかへしつ。竹取の翁は、さばかりかたらひつるうへ、かすかにおぼえてねぶりをり。みこは、たつもはした、ゐるもはしたにおぼえてゐ給へり。日のくれぬれば、すべりいで給ぬ。かのうれへせしたくみを、かぐや姫、よびすへて、「うれしき人どもなり」といひて、ろくいとほしくとらせ給。たくみら、いみじくよろこびて、「おもひつるやうにもあるかな」といひて、かへるみちにて、くらもりのみこ、ちのながるるまで、ととのへをさせ給。ろくえしかひもなくてければ、みなみな、とりすて給てければ、にげまどひにけり。かくて、このみこは、「いささのはぢ、これにまさるはあらじ。女えずなりぬるのみにあらず。天下の人の、見おもはむ事ぞはづかしき事」との給て、ただひとところ、ふかき山へいり給ぬ。宮づかさ、さぶらふ人々は、みなてをわかちて、もとめたてまつれど、え見つけたてまつらずなりぬ。みこの御もとにては、『かくしはてむ』とて、としごろは、『たまさかなる』とは、いひはじめける。

草持皇子は大変な策略家であると冒頭からめった切り!
しかも最初から努力することなく、かぐや姫を騙しかけるという陰謀家であると言い放ちます。
最後には身を隠すという所が、今の私達は鎌足は知っていても不比等(草持皇子)を知らないという事とも繋がるとも言えます。

超簡訳:蓬莱山の玉の枝を持ちかえる難題をだされた草持皇子はかなりの策略家で、国には筑紫国に行くといいながら、かぐや姫には蓬莱山に行くといい、家来をつれて難波の浜に出発した様に見せかけて実はこっそり帰ってきては深い山奥に建物とカマドを造り国の名工の鍛冶職人達を密かに呼び寄せて3年の年月をかけて偽物を造らせました。すると難波の浜から帰って来たようにみせかけかぐや姫の邸にやってきます。
玉の枝を翁に渡し、かぐや姫の手物に渡るとその枝には手紙がそれてありました。
翁に結婚を薦められかぐや姫は困惑し、草持皇子は翁に嘘のつくり話しを翁に長々に話して始めます。
そんな話をしていた時に邸に6人の職人がやってきました。
職人の棟梁らしき人がいうには「くもん司の綾部のうち麻呂といいます。玉の枝を苦労して造ったのに報酬をいただきていないので困っています。どうか報酬を頂きたいと思います。」
翁は不思議に思い、かぐや姫はそれが偽物だと知り安心し二人は偽物なら返さないとと手紙と玉の枝を草持皇子につっかえしました。
皇子は気恥ずかしさに夕暮れで日が落ちてからこっそり邸から逃げ帰りました。かぐや姫は職人たちに報酬を支払い職人達は喜んで帰っていきましたが、途中で草持皇子の家来の待ち伏せにあい、暴力を受け報酬の金を取られ命からがら逃げ出しました。皇子はかぐや姫を妻に出来なかったばかりかはじまでかいたと、山の奥深く身を隠してとうとう姿をみせなくなりました
これから先、魂が抜けたように姿を隠す事を「玉さかる」という様になったのでした。


三人目 右大臣阿倍御主人「火鼠の皮衣」
右大臣阿倍御主人は、宝豊に、家ひろき人にてぞ、おはしける。そのとしきたりける唐ふねの王けいといふ人に、「火鼠の皮といふなる物、かひておこせよ」とて、つかふまつる人の中に、心たしかなる人をつかはす。小野の草もりといふ人して、つかはさす。もていたりて、かのつくしの唐といふ所にをる、わうけいにこがねとらす。王けい、この文をひろげて見て返事かく。いはく、「火鼠の皮衣、この国にはなき物なり。名にはきけども、今だ、目に見ぬものおほかり。世にある物ならば、この国へも、まうできなまし。いとかたきあきなひ物なりしかども、天笠に、もてわたりなば、もし、長者の家々に、とぶらひもとめむに、なき物ならば、つかひにそへて、かねを返したてまつらむ」といへり。唐船かへりにけり。そののち、唐ぶねきけり。をののふさもり、まうできて「まうのぼる」といふ事をききて、あゆみとうするむまをもとめてはしらせむ。むかへさせ給はむ時、むまにのりて、つくしより、ただ七日に、まうできたり。文を見るにいはく、「火鼠の皮は、からうして、人をいだして、もとめてたてまつれり。いまの世にも、昔の世にも、このかは、たはやすくなき物なりけり。昔、かしこき天笠の聖、この国に渡りて、西の山寺におよび、おほやけに申て、からうして、かいとりてたてまつる。「あたひのかねすくなし」と、こくしぞ、つかひに申しかば、王けい物くはへて買ひたり。いま、かね五十両給ふべし。船のかへらむにつけて、だにをくれ。もしかね給はぬ物ならば、かはぎぬのしちを、返したべ」といへる事をみて、「なにおぼす。いま、かねすこしにこそあなれ。かならずをくるべきにこそあなれ。うれしくして、をこせたるかな」といひて、もろこしのかたにむかへて、ふしをがみ給。このかはぎぬいれたるはこを見れば、くさぐさのうるはしきるりを、いろへてつくれり。かはぎぬを見れば、こんじやうの色なり。毛の末には、こがねのひかりをさきたり。たからとみえ、うるはしき事、ならふべき物なし。ひにやけぬ事よりも、けうらなる事、ならびなし。「むべ、かぐや姫は、このもしがり、あひし給けるにこそありけれ」との給て、「あなかしこ」とて、はこに入給て、物のえだにつけて、御身のけさう、いといたうして、やがて、とまりなむものぞとおもひて、うたよみぐして、もちていましたり。そのうたは

 かぎりなきおもひにやけぬかはごろもたもとかはきてけふこそはきめ

 あなたえの限りない思いの火にも焼けない皮を手に入れました。恋しい思いに涙にぬれた私の袖も今日は乾いて 晴れやかな気持ちできる事が出来ます。

といひたりけり。家のかどに、もていたりてたてり。竹取いでてとりいれたり。かぐや姫に見す。かぐや姫、このかはぎぬを見ていはく、「うるはしきかはなめり。わきて、まことのかわならむとしらず」竹取いでて、いはく、「ともあれかくまれ、まづ、しやうじ入たてまつらむ。よに見えぬかわのさまなれば、「これを」とおもひ給はぬ。人ないたくわびさせたてまつり給ぞ」といひて、よびすへたてまつり。「かくよびすへて、このたびは、かならすあはせむ」といひて、女の心にもおもひをり。この翁は、かぐや姫のやもめなるを、なげきとしければ、『よき人にあはせむ』とおもひはかれど、せちにいなといふことなれば、ことはりなり。かぐや姫、翁にいはく、「このかはぎぬは、火にやかむに、やけずはこそ、まこととおもひて、人のみことにまけぬ。『よになに物なれば、それをまことと、うたがひなくおもはむ』とのたまふ。なをこれをやきて、心みむ」といふ。翁、「これ、さもいはれたり」といひて、大臣に、「かくなむ」といふ。大臣、こたへていはく、「このかわは、もろこしにもなかりけるを、からうして、もとめたつねえたるなり。なにのうたがひかあらむ。さは申すとも、はやく、やきてみ給へ」といへば、火の中にうちくべて、やかせ給ふに、めらめらとやけぬ。さればこそ、こと物のかわなり」といふ。大臣、これを見給ひて、顔は、くさのはの色にてゐたまへり。かぐや姫は、「あなうれし」と、よろこびゐます。かのよみたまへりける。うたの返し、はこにいれて返す。

のこりなくもゆとしりせばかわごろもおもひのほかにおきて見ましを

こんなあっけなくなくなる偽物と知っていたらあんなに心配しないで皮衣を火に投げ入れ観賞出来たでしょうに。

とぞありける。されば、かへりいましにけり。世の人々、あへの大臣、火ねずみのかわぎぬもていまして、かぐや姫にすみたまふとな、みにみますかりとな。などとふに、ある人のいはく、「かわは、火にくべて、やきたりしかば、めらめらと、やけにしかば、かぐや姫、あひ給はずなりにき」と世中の人いひければ、これをききてぞ、とげなき事をば、『あえなし』とぞいひける。

阿倍御主人も人に頼んで自ら行動しません。ここキーワードかも。

超簡訳:火鼠の皮をかぐや姫に要求された阿倍御主人はたいそうな金持ちで唐の国のおうけいという人物にその品の購入をたのみます。使いの小野のふさもりは手紙と金をおうけに渡すとおうけいは「話しには聞いた事がありましが、実際にあったとは聞いた事がありません。天笠(インド)にはあるかもしれないので探してみましょう。なければお金返しましょう。」数年後おうけいの唐船が九州に到着したので、ふさもりを使いにいかせると手紙を持ってきました。手紙には「ようやく火鼠の皮を探しましたが、代金がたりないので私がその分を立て替えました。それを頂ければ火鼠の皮をお渡ししましょう。」すると右大臣はすぐに金をおうけいに渡し火鼠の皮を手にいれて美しい箱に入れて上に木の枝を添えてかぐや姫の邸に行きました。
邸の前で翁に箱を渡すとかぐや姫に届け右大臣は邸に入る事を許され、姫の選択を待ちます。かぐや姫は本物なら火に投げ入れても燃えないはずと翁に告げ、火にそれを投げ入れるとメラメラと燃えていきます。
右大臣は真っ青になって座ったまま身動きしません。かぐや姫は皮衣の箱を手紙を添えて右大臣に返しました。
これを聞いてうまくいかなかった事を「あえなし」という様になりました。

④ 四人目大納言大伴御幸

おほとものみゆきの大納言は、我家の人あるかぎり、めしあつめての給はく、「たつのくびに五色にひかる玉あむなり。それもてたてまつりたらむ人には、ねがはむ事をかなえむ」との給、おほせ事ををのこどもうけ給りて申さく、「おほせ事はいともたふとし。ただし、たはやすくそのたま、えとらじを。人いはむや、たつのくびのたまをば、いかがとらむ」と申。大納言のたまふ。「天のつかひといはむ物を、いのちをすててもおのが君のおほせ事をば、かなへむとこそおもふべけれ。このくにになき、天ぢくの、もろこしの物にもあらず。このくにのうみ山より、たつはおりのぼる。いかにおもひてか、きんぢにかたき物をと申べき」をのこども申やう、「さらば、いかがはせん、かたき事なりとも、おほせ事にしたがひて、もとめにまからむ」と申に、大納言見すまゐて、なんぢが君のつかひと名をながしつる。君のおほせ事をば、いかがそむくべき」とのたまて、龍の首の玉をとりに、いでしたてたまふ。「この人々のりてくる物に、殿のうちの絹・綿・銭どあるかぎりとりいでてそへてつかはす。「この人どもの、かへりくるまて、いもゐをして我は居らむ、このたまとりては、家にかへりくる」との給はせけり。おほせ事をうけたまはりて、おのおのまかりいでぬ。「『龍の首の玉とりえずは、かへりくな』とのたまへば、いづちもいづちも、あしのむきたらむかたへいなず。かかるすき事をし給」とそしりあへり。たまはせたるもの、おのおのわけつつとる。あるいは、おのが家にこもりゐぬ。あるいは、をのが行かまほしきところへ往ぬ。「親君と申とも、かくつきなきことを、おほせたまふこと」とばかりゆかぬ物ゆへ、大納言をそしりあへり。「かぐや姫すへむには、れいのやうにはみにくし」との給ひて、うるはしき屋をつくり給て、うるしをぬり、まきえして、屋の上に、糸をそめて、色々にふかせ給ふ。うちのしつらひ、いふべくもあらず。あやをり物にえをかきて、間ごとにはりたり。もとの妻どもは、かぐや姫、かならずあらむまうけをして、もとの北の方とは、うとくなりて、ひとりあかしくらし給。つかはせし人どもは、よるひるまち給に、としふるまで、おともせで、心もとながりて、ただとねり二人、めしつぎとして、やつれ給て、なにはのほとりに、むまにのりていまして、とひ給こと、「おほともの大納言殿の人や、ふねにのりて、龍ころして、そが首の玉とれり、とやききし」ととはするに、ふな人こたへていはく「あやしき事かな」とわらひて、「もはら、さるわざするふねもなし」と申〈す〉に、「おぢなき事する、ふな人にもあるかな。えしらで、かくいふ」とおぼして、「わが弓のちからは、つよきを、龍あらば、ふといころして、首の玉はとりてむ、遅く来るやつばらをまたじ」との給、ふねにのりて、うみごとにありき給に、いと遠くて、つくしのかたのうみにこぎいでぬ。いかがしけむ、はやきかぜふきて、せかいくらがりて、ふねをふきもてありく。いづれのかたと見えず。ふねは、うみ中にまきいりぬべく、ふきまはして、なみは、ふねにぞちりけつつ、まきいれ、神はおちかかるやうにひらめく。かかるに、大納言はまどひて、またかくわひしきめ見ず。「いかがすべき、いかならむとするぞ」との給に、かぢとりこたへて申。「ここらふねにのりて、まかりありくに、まだかくわびしきめを見ず。みふね、うみのそこにいらずは、神おちかかりぬべし。もし、さいはゐに神のたすけあらば、南海道にふかれおはしましぬべかるめり。うたたあるぬしのみともにつかふまつりて、すずろなる死にをすべかめるかな」。とかぢとり申。大納言、これをききての給はく、「ふねにのりては、かぢとりの申事をこそ、たかき山とたのめ。なとなくたのもしげなくは申〈す〉ぞ」と、つらつえをつきての給ふ。かぢとり申〈す〉、「神ならねば、なにわざをか、つかうまつらむ。かぜふき、なみこそはげしけれども、神さへ、いただきにをちかかるやうなるは、たつをころさむ、ともとめ給へばあるなり。疾風も龍のふかするなり。はや神にのり給へ」といふ。「よき事なり」とて、「かぢとりの御神きこしめせ。心をさなく、たつをころさむとおもひけり。いまよりのちは、毛の末一すぢをだに、うごかしたてまつらじ」とよびことばをはなちて、立ち居、泣く泣くおがみ給ふ事、千繰りばかり、申給けにやあらむ。やうやう神なりやみぬ。やうやうすこしひかりて、風はなをはやくふく。かぢとりいはく、「さればよ。たつのしわざにこそありけれ。このふく風は、よきかたのかぜなり。あしきかたのかぜにはあらず。よきかたにおもむきて、ふくなり。といへども、大納言、これをもききいれ給はず。風二三日ふきて、ふきかへしよせたり。そのはまをみれば、播磨の国、明石の浜なりけり。大納言、「南海の浜にうちよせられたるにやあらむ」とおもひて、いきづきふし給へり。ふねにあるおのこども、くににつけたれども、くにのつかさまうでとぶらふにも、えおきあがり給はで、ふなぞこにふし給へり。松ばらに御むしろしきて、おろしたてまつる。そのときにぞ、「南海にはあらざりけり」とおもひて、からうして、をきたまへるをみれば、風いとおもき人にて御はらふくれ、こなたかなたの御目にはすももを二〈つ〉つけたるやうなり。これを見て、くにのつかさも、みなおほゑみたり、くににおほせ給て、手輿つくらせ給て、にようによう、担はれのぼりたまひて、家にいり給へるを、いかでかきき給けむ、「たつのくびの玉を、えとらざりしかば難波にもえまいらざりし。たまのとりがたかりし事を、しり給にければなむ、かんだうあらじ、とてまいりつる」と申。大納言、おきゐての給はく、なんぢら、よくもてこずなりぬ。たつは、なるかみの類にこそありけれ。それがたまをとらんとて、そこらの人々のがいせられなむとするなりけり。まして、たつをとらへたらましかば、またともせず、われはがいせられなまし。よくとらへずなりける。かぐや姫といふ、おほぬす人のやつが人をころさむとするなりけり。家のあたりをだに、いまは通らじ、おのこどもも、なありきそ」とて家にすこし、のこりたりける物を、たつのたまとらぬ物どもにたびつ。これをききて、はなれ給にし元の上、はらをきてわらひ給ける。いとをふかせてつくりし屋は、とびからすのすに、みなくひもていにけり。せかいの人のいひける、「おほともの大納言は、たつのくびのたまや、とりておはしたる」といひければ、ある人ありて、「いかなるもあらず。みまなこ二に、すもものやうなるたまをそろへていましたる」といひければ、『あな、たべがた』といひけるよりぞ、よにあらぬ事をば、「あなたべがた」といひはじめける。

大伴大納言は自ら宝を手にしようと実行しますが、最後にはかぐや姫を非難します。

超簡訳:龍の首輪を持ってこいと言われた大伴大納言は家来に命じて宝を持ってくるように命令します。家来は金と宝を家来にわけて旅立たせます。
しかし家来は宝をおのおの持ち去り、大納言の悪口を言い合っていました。
当の大納言は今の妻達と離婚されてかぐや姫用のりっぱな御殿を造営し一人暮らして龍の首輪を家来が持ってくるのを今か今と待ちわびていました。しかしだれもあらわれません。待ちくたびれた大納言は数名の家来と共に難波の浜で船頭達に龍の首輪の噂話しをしてみましたが、誰も笑って相手にしません。大納言は自ら船を用意させて九州の海まで来た所、嵐に合い命からがら明石の浜まで到着出来ましたが、大納言は南国の国と勘違いされぐったりとされていた所、播磨国の長官が大納言にあいさつに来ましたが、大納言は風病に患いおたふくの様に両頬がはれ上がっていあました。そしてようやく播磨国と知り乗り物を用意させて都に戻ります。すると家来たちを呼び寄せ、怒るどころか「龍が雷の親類だ。良く行かなかった事だかぐや姫は私を殺そうとしてそんな事をいったのだ」と家来を褒めてほうびを与えました。離縁された妻達はいいきみだと笑い合いました。かぐや姫の為に建てた御殿の屋根の宝石はカラスやトンビが巣を作る為にはがしてしまいました。世間の人達は大納言様は龍の首輪の玉を取ってきたのではないふたつのスモモの様な玉をくっつけて帰ってきたのだと笑い合いました。
この事から我慢できない事を「なんと耐えがたい」という様になりました。

⑤五人目中納言石上麻呂「燕の小安貝」

中納言いそのかみまろたり、家につかはるるおのこどものもとに、「つばくらめのすくひたらばつけよ」との給をうけ給はりて、「なにのようにかあらむ」と申。こたへ給。「つばくらめのもちたる、小安貝をとらむ」との給ければ、をのこどもこたへて申。「つばくらめはあまたころして見るだにも、はかなき物なり。ただし、子産む時なむ、いかでかいだすらむ、はべる」と申。「人見れば、うせぬなり」と申。また人の申やう、「おほゐづかさの、飯かしぐ屋のむねにつつのあなごとにつばくらめは巣をくい侍り。それは、まめならむをのこどもを、ゐてまかりて、あぐらをゆひあげて、うかがはせむにこそ、つばくらめ〈子うまざらむ〉やは、さてこそ取らしめ給はめ」と申す。中納言よろこび給て「おかしき事にもあるかな。もとよりしらざりけり」と「けうあること申たり」との給て、まめなるおのこども、廿人ばかりつかはして、あななひにあげすへられたり。殿よりつかひひまなくて、「こやすがいとりたるか」と、問はせたまふ。つばくらめも、人のあまたのぼりゐたるに怖ぢて、のぼりこず。かかるよしを申たれば、中納言、これをききて、「いかがすべき」とおぼしあつかふに、かのつかさの官人、くらつまろといふ翁申やう、「こやすがいとらせ給はむ、とたばかり申さむ」とて、御まへにまいりたれば、中納言、ひたひをあはせてむかゐゐ給へり。くらつまろが申やう、「このつばくらめの、こやすがいは、あしくたばかりてとらせ給ふなり。さては、えとらせ給はじ。あななひにおどろおどろしく、廿人のひと、のぼりて侍れば、散れてこず。せさせ給ふべきやうは、みなこのあななひをこぼちて、人みなしりぞきて、まめならむ人ばかりを、粗籠にのせすへて、綱をかまへて、とりの、子うまむあひだに、つなをつりあげさせて、ふとこやすがいやすらかにとらせ給ひてむ、よかるべき」と申。中納言の給はく、「よき事なり」とて、すみやかにあななひこぼちて、人みなかへりぬ。中納言、くらつまろにの給はく、「つばくらめをば、いかならむ時にか、子産むとしりて、人をはあぐべき」との給。くらつまろか申やう、「つばくらめをは、子産まむとする時は、尾をさしあげて、七度めぐりてなむ、子は産みいだす。さて、七度めぐらむ折、ひきあげてこやすがいはとらせたまへ」と申に、中納言よろこびて、よろづの人にも、しら給はで、みそかに寮にいまして、をのこどもの中にまじりて、よるをひるになして、とらしめ給ふ。くらつまろが申を、いといたくよろこび給て、の給。「ここにて、つかはるる人にもなきに、ねがひをかなふることのうれしさ」とのたまひて、御衣ぬぎて、かづけさせ給て、さらば、ゆふさり、この寮にいまして見給に、まことに、つばくらめ、巣つくり、くらつまろ申やうをうけてめぐるに、粗籠に人をのせて、つりあげさせて、つばくらめの巣に、手をさし入〈れ〉させて、さぐるに、「物もなし」と申に、中納言、「あしくさぐれば、なきなり」とはらだち給て、「たれかは我ばかりおぼえむ」とて、われのぼりて、さぐらむ」とのたまひて、籠にのりて、つられのぼりて、うかがいたまへるに、つばくらめ、尾はささげて、いたくめぐるに、あはせて、手をささげてさぐり給に、手にひらめく物さはるときに、「我、物にぎりたり。いまは降ろしてよ。翁、し得たり」とのたまふに、あつまりて、「とくおろさむ」とて、つなをひきすぐして、つなたゆる、すなはち、やしまのかなへの上に、のけざまにおち給へり。人々あさましがりて、かかへたてまつれり。御目はしらめてふし給へり。人は水をすくひいれたてまつるに、からうして、いき出給へるに、またかなへの上より、てとる、あしとる、さげおろしたてまつる。からうして、「御心ちはいかがおぼしめさるる」ととへば、いきのしたに、「物はすこしおぼゆれども、腰なむえうごかさぬ。されども、こやすがいを、ふとにぎりもたれば、うれしくおぼゆるなり。まづ、しそくさして、このかいの顔見む」と、御ぐしもたげて、御てをひろげ給へるに、つばくらめの、まりおきたるくそを、にぎり給へるなりけり。それを見給て、「あなかひなのわざや」と、の給けるよりぞ、おもふにたがふことをば、「かひなし」とは、いひはじめける。「かいにもあらず」と見給ひけるに、御ここちもたがひてからびつのふたに、いれられ給て、家に率てたてまつる。くるまにのり給べくもあらず、御こしは折れにけり。「中納言は、かくわらはげたるわざして病むと、人にきかせじ」とし給けれどそれをやまひにて、いと弱くなりたまひにけり。かいをもえとらずなりぬるよりも、人のききわたらむこと、日にそへておもひ給ければ、ただにやみしぬるよりも、人聞きのはづかしくおぼえ給なりけり。これを、かぐや姫ききて、とぶらひにやるうた

としをへてなみたちよらぬすみよしのまつかひなしときくはまことか

長い間御尋ねにならないのはお待ちする待つ貝がないという噂は本当なのでしょうか?

とあるをよみてきかす。いと弱き心ちに、かしらもたげて、人にかみをもたせて、くるしき心ちに、からうしてかき給ふ。

かひはなくありける物をわひはててしぬるいのちをすくひやはせぬ

手紙を頂いてこんなめに合った貝はありましたが、死にそうな私をどうして(医者)すくってはくれないのでしょうか?

とかき侍ままに、たえいり給ぬ。これをききて、かぐや姫、「すこしあはれ」とおぼしける。それよりして、うれしきことをば、「かひあり」といひける。

唯一かぐや姫の同情を引いた石上麻呂これはかなりのキーワードです。

超簡訳:燕の小安貝を取る様に言われた石上麻呂中納言はまず家来に燕の巣を作ったら知らせろと命令します。家来たちは「燕の腹の中を調べても小安貝というのは出てこない、けれど子を宿した時に小安貝をいう物を腹からだすそうですが、人影が見えると姿を隠すので取れません。」と中納言に報告します。他の人が宮中の大炊寮という役所の軒下の燕の巣を探れば見つかると助言します。しかしなかなか上れません。そのでくらつまろという役人が大勢で押し掛けても取れないでしょう。一人そっと巣に近寄り、お産の際にカゴ網に一人が乗り込み、中の小安貝を取って籠につけた綱を引っ張って下してはと提案します。中納言はお産のあいずはいつわかるのかとくたつまろに聞くと尾を上にあげ七回廻ると卵を産み落とすと教えます。
中納言は軒下の燕の巣をこっそりと見張らせます。燕が七回廻る度に籠に乗っている人が巣を覗き込みますが、小安貝はありません。中納言はしまいに自分が取ると言い始め、籠に乗り込み燕が七回廻ったその時に何か手にとると「取った!!」と叫んだ為に下にいる家来が綱を激しくひっぱったために切れてしまい、中納言は釜の上に落ちて気絶していたのを家来が起し、やっと手にした物が糞とわかり「かいのない事をしてしまった」と言い落胆しました。このことから思っても無い事が起こる事を貝なしという様になりました。
中納言はこのことで体をこわし、また恥ずかしい思いでいたところ、かぐや姫から同情する手紙が届きます。
手紙を書いた中納言は気を失い倒れ、かぐや姫もかわいそうに思え同情しました。
この事から少し嬉しい事を「かいがある」という様になりました。

⑥帝の行幸

さてかぐや姫、かたちの世にも似ず、めでたきを、帝きこしめして、「さりとも、我召さむには、まゐらざらむやは」とおぼしめして、内侍、中臣の房子にのたまはく、「おほくの人の身を、いたづらになして、あはざなるかぐや〈姫はいかばかりの女ぞと、まかりて見てまゐれ」とのたまふ。房子うけたまはりてまかれり。竹取の家に、かしこまりてしゃうじいれてあへり。女に、内侍のたまふ。「おほせごとに、かぐや姫、かたち〉、いとけうらにおはすなり。よく見てまいるべきよしの給へるになむ、まいりきつる」といへば、「さらは、かく申侍らむ」といひていりぬ。かぐや姫のもとに、「はや、このつかひに、たいめんし給へ」といへば、かぐや姫、「よきかたちにもあらず、いかでか、見ゆべき」といへば、「うたて物の給かな、はや、たいめんし給へ。御門の君の御つかひは、いかでか、おろかにせむ」といへば、かぐや姫のこたふるやう、「御門のめしてのたまはむこと、けしうかしこしともおもはず」といひて、さらに見ゆべくもあらず。産める子のやうにあれど、いと心はづかしげに、おろそかなるやうにいひければ、心のままにもえせず。翁、内侍のもとにかへりいでて、「くちをしく、このをさなきものは、こはく侍物にて、たいめんすまじ」と申。「いかで、『かならず見てまいれ』と、おほせ事〈ありつるものを、見たてまつらでは、いかでか帰りまゐらむ。国王のおほせごとを〉ば、まことも世にすみ給はむ人の、うけ給はりたまはでありけむや。いはれぬ事なし給そ」と言葉はげしう言ひければ、これ〈をききて、ましてかぐや姫、あふべくもあらず。「国王のおほせ事そむかば、はやう、殺し給〈ひ〉てよかし」といふ。内侍かへりまゐりて、かぐや姫の、見えずありぬる事を、ありのままに奏す。御門きこしめして〉、「おほくの人ころしてける心ぞかし」との給て、やみにけれど、なをおぼしおはしまして、「この女のたばかりにやまけむ」とおぼしておほせたまふ。「汝がもちて侍る、かぐや姫たてまつれ。かほかたちよしときこしめして、御使を賜びしかど、かひなく見えずなりにけり。かくたいだいしくやは、ならはすべき」とおほせらるる。翁うけ給はりて御返事申やう、「この女の童、たえて宮づかへつかうまつるべくもあらず侍を、もてわづらひ侍、さりともまかりておほせ給はむ」と奏す。これをきこしめして、おほせたまふ。などか、翁の心にまかせざらむ。この女、もし、たてまつる物ならば、翁にかうぶりを、などか、賜ばざらむとおほせ給。翁よろこびて、家に返て、かぐや姫にかたらふやう、「かくなむ御門のおほせ給へる。なをやは、つかうまつりたまはぬ」といへば、かぐや姫、こたへていはく、「『もし、さやうの宮づかへ、つかうまつらじ』とおもふを、しゐて、つかうまつらせ給はば、え生けるまじく、消せなむず。みづから、かうぶりたてまつるをおもひて、いかがはせむ。一時ばかりつかうまつりて、死ぬばかりなり」翁いらふるやう、「かくゆゆしき事な給ぞ。つかさかうぶりも我子を見たてまつらずは、なににかはせむ。さはありとも、などか、宮仕へをし給はざらむ。かからむに、死に給べきやうやはある」といふ。「なを空事かと、つかうまつらせて、死なずやはある、と心み給へ。あまたの人の心ざし、おろかならざりしを、むなしくなしてき。人のおもひは、おとれるもまされるも、おなじ事にてこそあれ。昨日今日も、御門のの給はむにつかむ。人聞きやさし」といふ。翁こたへていはく、「天下の事は、とありとも、かかりとも、御命のあやうき、おほきなる障りなれば、なをかなへつかうまつるまじきことを申さむ」とて、まいりて申やう、「おほせごとのかしこさに、『女の童をまいらせむ』とつかうまつれば、『宮仕へいだしたてば、ただ死ぬべし』と申。宮つこまろが、手に産ませたる子にもあらず。むかし、山に見いでたる物に侍り。かかれば、心ばせも世に似ずぞ侍」と奏せさす。御門、聞かせおはしまして、「へんげの物にてさいふにこそ、いかがはせむ。御覧じにだにも、いかでか御らんぜむ」とおほせ給ふ。「これをいかがせむ」と奏せさす。御門おほせ給はく、「宮つこまろが家は、山もちかくなり。御狩りに御行し給はむやうにては見てんや」との給へば、宮つこまろが申やう、「いとよき事なり。なに心もなくて侍らむに、ふと御行して、御覧ぜむに、御らんぜられなむ」と奏すれば、御門おほせ給はく、にはかに日をさだめて、御狩に出給。御狩し給て、やがて、かぐや姫の家にいたり給て見給に、光みちて、けうらにてゐたる人あり。「これなむ」とおぼして、逃げいる袖をとらへ給へれば、おもてをふたぎて、逃げあへて、おもてに袖をおいて、さぶらひければ、はじめよく御覧じてければ、たぐひなくめでたくおぼえさせ給て、「ゆるさじとす」とて、「いでをはしまさむ」とてするに、かぐや姫、こたへて奏す。「をのが身は、この国に生まれて侍らばこそつかい給め。いと、出おはしましがたくや侍らむ」と聞こゆ。御門、「などかさはあらむ。なを強いておはしなん」とおほせ給て、御輿よせ給ふに、このかぐや姫、きと人の影になりぬ。「はかなく、くちをし」とおぼしめして、「げにただ人にはあらざりけり」とおぼしめして、「さらば、御ともには率て行かじ。もとの御かたちとなり給ね。それを見てだにかへりなむ」とおほせらるれば、かぐや姫、例のさまになりぬ。御門、なをめでたく、おぼしめさるること、せきとめがたし。かく見せつる宮つこまろ、よろこび給。さて、つかうまつる百官の人々に、饗いかめしくつかうまつる。御門、かぐや姫をとどめて、帰り給はむ事をあかずくちをしく、おほしければ、魂もとどめたる心ちしてなむかへらせ給ける。御輿にたてまつりてのちに、かぐや姫に

かへるさの御行ものうくおほほえてそむきてとまるかぐや姫ゆゑ

帰り道がつらく思います。帰ろうとする身に反して心は後に残ってしまう。私の望みに背く邸にいるかぐや姫のせいで。

むぐらはふしたにも年をへぬる身をなにかは玉のうてなをも見む

むさくるしい家にいる私がどうしてりっぱな宮殿などで過ごせますでしょうか?

これを御門御覧じて、いとどかへり給はむそらもなくおぼさる。御心は、さらにたちかへるべくもおほされざりけれど、さりとて、夜をあかし給べきにあらねば、帰らせ給ぬ。
つねにつかうまつる人に見給に、かぐや姫のかたはらによるべくだにあらざりけり。「ことひとよりはけうらなり」とおぼしける人の、かれにおぼしあはすれば、人にもあらず。かぐや姫のみ御心にかかりて、ただひとり住みし給ふ。よしなく、かたがたにもわたり給はず。かぐや姫の御もとに、文かきてかよはせ給ふ。御かへり、さすがににくからずきこえかはし給〈ひ〉て、おもしろく、木草につけても御うたをよみてつかはす。

内侍中臣房子かぐや姫に困らせられます。中臣氏は元の藤原姓です。ここでも藤原非難が見られます。

超簡訳:この事で宮中にもかぐや姫の美しさが知られる所になり、帝も噂を聞きつけ内侍中臣房子を翁の邸にかぐや姫を見てくる様に命令します。房子は翁に会い、かぐや姫に面会しようとしますが、当のかぐや姫は会おうとはしません。房子は帝の命令なので再三翁に取り次ぎを依頼しますが、まったくとりあいません。困りはては房子は宮中に戻り、帝に会えなかった事を報告します。
すると帝はさらにかぐや姫に興味を持ち今度は翁を参内させてかぐや姫を宮使えさせれば翁に官位を与えるといいます。翁は喜びかぐや姫に宮使いする様に頼みますが、拒否しどうしてもというなら宮使えした後翁が官位を受けた後自殺するといいきります。翁は驚き参内してかぐや姫の素性を明かして帝の命令を断ります。
帝はさらに興味を引き狩りの際に翁の邸に行幸します。すると美しいかぐや姫を垣間見てさらにかぐや姫への思いが深くなります。帝に見られたかぐや姫は驚き、帝はかぐや姫を無理やり輿に乗せようと呼び寄せると姫の姿は忽然となくなりました。たいそう帝は驚きましたが、その事でかぐや姫がこの世の人でない事が改めて知ります。そしてもう無理に宮中に連れ帰らないと約束すると、不思議に目の前に美しいかぐや姫の姿が現れます。
帝は残念な思いでいながらも邸を後にし宮殿に戻ります。
美しいかぐや姫の姿を目にした帝はどの夫人の元でも過ごさずかぐや姫の事を思って時折和歌のやり取りをしていました。

かぐや姫の天昇

かやうにて御心をたがひになぐさめ給ふほどに、三年ありて、春のはじめより、かぐや姫、月のおもろうゐでたるを見て、つねよりも、物おもひたるさまなり。ある人の、「月のかほ見ることはいむこと」と制しけれども、ともすれば、ひとりまほにも、月を見てはいみじく泣き給ふ。文月十五日の月に出でゐて、せちに物おもへるけしきなり。近くつかはるる人々、竹取の翁のつげていはく、「かぐや姫、例も月をあはれがり給へども、この頃となりては、ただごとにも侍らざめり。いみじくおぼしなげく事あるべし。よくよく見たてまつらせ給へ」。といふを聞きて、かぐや姫にいふやう「なんでう心ちすれば、かく物をおもひたるさまにて、月を見給ふぞ。うましき世に」といふ。かぐや姫のいはく「月見れば、世間心ぼそく、あはれに侍る。なでう物をかなげき侍るべき」といふに、かぐや姫のある所にいたりてみれば、なを物おもへるけしきなり。これをみて、「吾が仏は何事をおもはせ給ぞ。おぼすらんこと、なにごとぞ」といへば、「おもふ事もなし。物なむ心ぼそくおぼゆる」といへば、翁、「月な見給そ。これを見給へば、物おぼすけしきはあるぞ」といへば、「いかでか月を見ではあらむ」とて、なを、月出づれば、出ゐつつなげきおもへり。夕やみには、物おもはぬけしきなり。月のほどになりぬれば、なをときどきは、うちなげきなどす。これをつかふ者ども「なを物おす事あるべし」とささやけど、親をはじめて何事ともしらず。
八月十五日ばかりの、月に出ゐて、かぐや姫、いといたくなき給ふ。人めもいまはつつまず泣きまふ。これを見て、親ども、「なに事ぞ」と問ひ騒はぐ、かぐや姫泣く泣くいふ。「さきざきも、申さむとおもひしかども、『かならず心まどはし給はん物ぞ』とおもひて、いままで過ごし侍りつるなり。『さのみや』はとて、うちいで侍ぬるぞ、己が身は、この国の人にもあらず。月の都人なり。それをなむ、むかしのちぎりありけるによりてなむ、この世界にはまうできたりける。いまは、かへるべきほどになりにければ、十五日にかのもとの国より、むかへに人々まうで来むとす。さらにまかりぬべければ、おぼしなげかむがかなしき事を、この春よりおもひなげき侍るなり」といひて、いみじくなくを、翁、「こはなでうことのたまふぞ。竹の中より見つけきたりしかど、菜種のおほきさおはせしを、わが丈立ち並ぶまで、やしなひたてまつりたるわが子を、なに人か、むへにこむ、まさにゆるさむや」といひて、「われこそ死なめ」とて、泣きののること、いとたへがたけなり。かぐや姫のいはく、「月の都の人にて、父母あり。かたときのあひだとて、かの国より、まうで来しかども、かくこの国には、あまたの年を経ぬるになむありける。かの国の、父母の事おぼえず。ここには、かく久しくあそびならひたてまつれり。いみじからむ心ちもせず。かなしくのみある。されど、をのが心ならず、まかりなむとする」といひて、もろともにいみじう泣く。
つかはるる人々も、年頃ならひて、立ち別れん事を、心ばへなど、あてやかに、うつくしかりつる事を見ならひて、恋からむことのたへがたく、湯水も飲まれず、おなじ心に、なげかしかりけり。このことを、御門きこしめして、竹取が家に、御使つか給。御使に竹取出で合ひて、泣く事かぎりなし。この事を嘆くに、髭も白く、腰もかがまり、目もただれにけり。翁、今年五十ばかりなりけれども、物おもふには、片時になむ、老になりにけると見ゆ。御使おほせ事とて、翁にいはく、「いと心くるしく、物おもふなるは、まことにか」とおほせ給ふ。竹取、泣く泣く申、「この十五日になむ、月の都より、かくや姫の迎へに、まうで来なり。たうとく問はせ給ふ。「この十五日には、人々給て、月の都人、まうで来ば、とらへさせむ」と申。御使かへりまゐりて、翁のありさま申て、奏しつる事ども申を、きこしめしてのたまふ。一目見給し御心にだにわすれ給はねば、あけくれ見なれたるかぐや姫をやりて、いかがおもふべき」かの十五日に司々におほせて、勅使少将・高野大国といふ人をさして、近衛の司、合はせて、二千人の人を、竹取が家に遣はす。家にまかりて、築地の上に千人、屋の上に千人、家の人々、いと多かりけるにあはせて、あける暇もなく守らす。この守る人々も、弓矢を帯してをり、屋の内には、女どもを、番において守らす。女、塗籠の内に、かぐや姫を抱かへて居り、翁も塗籠の戸をさして、戸口に居り、翁のいはく、「かばかりして守る所に、天の人にも負けむや」といひて、屋の上にをる人々にいはく、「露の物も空に翔らば、ふと射むしたくし給へ」守る人々のいはく、「かばかりして守る所に、かばり一だにあらば、まづ射殺してむ、矛にささげけむとおもひ侍」といふ。翁、これを聞きて、たのもしがり居り、これを聞て、かぐや姫は、「さしこめて、守り戦かふべき仕度をしたりとも、あの国の人には、みな開きなむず。あひ戦かはむ人もあらじ」翁のいふやう、「迎へに来む人をば、長き爪して、まなこをつかみつぶさむ、さか髪をとりて、かなぐり落とさむ。さが尻をとりて、ここらのおほやけ人に見せて、恥を見せむと、はらだち居る、かぐや姫いはく、「声高かに、なのたまひそ。屋の上に居る、人どもの聞くにいとまさなし。いますがりつる心ざしどもを、思ひも知らで、まかりなむずる事の、口惜しう侍りけり。長き契りのなかりければ、ほどなく、まかりぬべきなめり」とおもふがかなしく侍なり。親たちの顧みを、いささかだにつかうまつらで、まからむみちも、やすくもあるまじきに、日頃もいかでゐて、今年ばかりの暇を申つれど、さらに、許されぬよりてなむ、かくおもひなげき侍る御心をのみまどはし侍て、まかりなむことのかなしさ、たへがたく侍なり。かの都人は、いとけうらにおはせず、おもふことなく、めでたく侍なり。さる所へ、まからむずる事、いみじくもおぼえず、老ひ衰へ給へる御さまを、見たてまつらざらむこそ、恋しからめ」と言ひてなく、翁いはく、「胸いたき事なの給ひそ」などうるはしき姿ある使にもさはらじ」とねたみ居り。かかるほどに、宵うちすぎて、光りたり。もち月のあかさ、十あはせたるばかりにて、ある人の、毛の穴さへ、見ゆるほどなり。大空より、人、雲にのりて下りきて、土より五尺ばかり、上りたるほどに、立ちつらねたり。これを見て、うちなる人の心ども、物におそはるるやうにて、あひたたかはむ心もなかりけり。からうして、おもひおこして、弓矢をとりてむや、とすれども、手に力もなくなりて、なへかかりたり。中に心さはがしき物、念じて射むとすれば、ほかざまへ行きければ、あひもたたかはで、心ちただ痴れに痴れて、まもりあへり。立てる人どもは、装束のきよらなること、物にも似ず。飛ぶ車、一具したり、ひしやがひさしたり。その中に王とおぼしき人、家に「宮つこまろ、まうでこ」といふにたけくおもひつる宮つこまろも、物に酔いたる心ちして、うつぶしにふせり。いはく、「汝、幼き人、いささかなる功徳を、翁つくりけるによりて、汝がたすけに、とて片時のあひだ、とおもひて、下したりき。そこらのこがねを給はりて、身をかへたるがごとなりにたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かくいやしきをのれがもとに、しばしをはしつるなり。罪のかぎり果てぬれば、かく迎ふるを、翁はなきなげく。あたはぬ事なり。はやいだしたてまつれ」といふ。翁こたへて申。「かぐや姫を、やしなひたてまつること、廿余年になりぬ。片時とのたまふに、あやしく成侍ぬ。また異所に、かぐや姫と申人ぞ、おはすらむ」といふ。ここにおはするかぐや姫は、重き病をし給へば、えこそいでをはしますまじ」と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛ぶ車を寄せて、「いざ、かぐや姫、汚き所に、いかでか、久しくをはせむ」といふ。たて籠めたる所の戸、すなはち、ただあきにあきぬ。女のいだきたるかぐや姫、戸にいでぬ。えとどむまじければ、たださしあふぎて泣き居り。竹取が心惑ひて、泣きふせる所によりて、かぐや姫いふ。「ここにも心あらで、かくまかるに、のぼらむをだに、見送り給へといへども、なにしにかは、かなしきに、見送りたてまつらむ。われをいかにせよ、とて、すててのぼり給ふぞ、具してをはせ」と嘆きいりてふせれば、「御心まどひにたり。文を書き置きてまからむ。恋しからむ折々取りいで見給へ」とて、うち泣きて、かく言葉は、この国に、生まれぬるとならば、嘆かせたてまつらぬほどまて侍らで、過ぎ別れ侍ぬるこそ、返へすがへす本意なく侍れ。脱ぎ置く衣を、形見に見給へ。月のいでたらむ夜は、月を見おこせ給へ。見すてたてまつりてまかるは、空よりおちぬべき心ちする」と書き置く。天人の中に、もたせたる箱あり。天の羽衣も入れり。また、ある箱には、不死の薬持たせたり。ひとりの天人いはく、「壺なる御薬たてまつれ。汚きところの物召したれは、御心ちあしからむ物ぞ」といひて、いささかなめ見給て、すこし形見とて、脱ぎ置く衣に、つつまむとすれど、ある天人ありて、つつませず。御衣を取りいでて着せむ、とす。その時、かぐや姫、「しばしまてといふ。「衣着つる人は、心異になるなり」といひて、「物ひとことは、いふべき事ありけり」とて、文書く。天人、「遅し」とて、心もとながり給。かぐや姫言ふ。「かく物おもひしらぬ事なの給そ」といひて、いみじく静かに、おほやけに文たてまつれ給ふ。あはてぬさまなり。「かやうに、あまたの人をたまひて、とどめさせ給へど、許さぬ迎へ、まうできて、とりいでまかりぬれば、くちをしくかなしきこと、宮つかへ、つかうまらずなりぬるも、かくかくわづらはしき身にて侍れは、心得ず、おぼしめされつらめども、ころろづよく、うけたまはらずなりにしを、なめげなる物にのみ、おぼしとどめられぬるなむ、心にいとど、とどまり侍ぬる」とて

いまはとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出ぬる

今は御別れだと天の羽衣を着るその時に帝の事が懐かしく思い出されました

ときこえて、壺の薬添へて、頭中将をよびよせて、たてまつらす。天人、とりてつたふ。中将とりつれば、ふと天の羽衣を、着てたてまつりつれば、翁「いとをし」とおぼしつる心もうせぬ。この衣着つる人は、物おもひなくなりぬれば、車にのせて、百人ばかりの天人に具してのぼりぬ。

帝にはたいそう好意的です。ここはキーワードです。

超簡訳:三年後春の始めかぐや姫は美しい月を愛でながら思いにふけっています。お付きの人が月を眺めるのは良くない事ですよ。となしなめられてもかぐや姫は月を見ながら泣く日々が続きます。
ついにはお付きの人が翁に相談しました。翁はかぐや姫にどうして月を見ては泣いているのか問いただします。
するとかぐや姫は答えずただ悲しみに暮れている様子です。遂には旧暦の八月十五日の満月の頃、ひたすら泣き続けるかぐや姫に翁は問いただします。するとかぐや姫は自分は月の住人で月に帰る日が近ずいているのですと翁に告げます。翁はそんな事はさせないと言うもかぐや姫は自分が帰りたいのではなく、月には自分の父母がいて帰らなければならないと告げます。その場にいる者はその話しを聞き、皆涙にくれます。
この事を知った帝は使いの者を翁の邸にいかせると、翁は次の十五日に月の都からかぐや姫を迎えにくるので、その日にその人達を捕えてほしいと懇願します。
これを聞いた帝は高野大国に命令して翁の邸に兵を召して警護させます。が、かぐや姫は月の国はすばらしい国ですが、育ててくれたあなた方をこの世に残す事が心残りだと嘆きます。
十五日の夜、夜中にもかかわらずに光に満ちていました。すると大空から雲に乗った人が降りてきて宙に浮いています。警護の者は皆戦う気力を奪われ、ただその光景を見ているしかありませんでした。
月の使いの人々は車を用意しています。その中で位の高そうな人が翁を呼びます。そして翁の行徳にかぐや姫を預け、金持ちになるようにしてあげた事、かぐや姫は月で罪をおかしたので世に下したから素直に御戻しする様にと諭します。翁は「かぐや姫は別の所にいらっしゃる方ではないですか?」と言うもその天人は「姫と穢れた世界かに長くいらっしゃる事はもうありません。」と言います。邸のありとあらゆる扉はひとりでに開き、かぐや姫は外に出てきました。かぐや姫は泣く翁に見送ってほしいと懇願しますが、翁はとりみだすばかりです。かぐや姫は来ていた着物を自分だと思ってほしいと言い手紙をそえます。天人が箱の中の衣と薬を取り出します。天人は「壷の中の薬をお召しあがりください。汚らわしいこの世の食べ物をお食べになっておられたので御気分がお悪いでしょう」といい無理に薬と衣を与えようとします。かぐや姫は少し待つように願い、帝にも手紙を書きました。自分がこんな境遇であったので強情に宮使えを断っていたのです。そんな事とは思わず強情な人だと思われるのが残念です。
手紙と不死の薬を添えて帝に献上するように頭中将に依頼しました。天人がかぐや姫に天の羽衣を着せるとかぐや姫のこの世での事がすべて忘れていきました。この衣は思いわずらう事はなくなるのです。かぐや姫は天人の用意した車に乗り込み、百人の天人と共に天に昇ってゆきました。

そののち、翁も、血の涙を流して、よばへどかひなし。かの書き置きし文、読み聞かせければ、「何せむにか、命をしからむ、たがためにか、なに事も、なにかはせむ」とて、「用なし」とて、薬も食はず。やがて、起きもあがらで、やみふせり。中将、人々ひきつらねて、かへりまゐりて、かぐや姫を、えたたかいとめずなりぬるよしを、こまごまと奏す。薬の壺に、文を添へてまゐらす。ひきあけて御覧じて、いとど、いたく、あはれがらせ給ふ。物聞こしめさず。、こと御あそびなどもなかりけり。大臣・上達部をはじめて、とはせ給ふ。「いづれの山か、天は近き」と。ある人、答へて奏す。「駿河の国なる山なむ、この宮もちかく、天もちかく侍なる」と奏す。これをきかせ給て、かぐや姫の歌の返し、かかせ給。

あふことの涙にうかむ我身には死なぬ薬もなににかはせむ

かぐや姫に会う事が出来ない涙に浮かんでいる自分にどうして不死の薬などなんの役にたつというのでしょうか?

かのたてまつれる、不死の薬の壺添へて、御使に給はす。勅使遣はす。、月のいはかどといふ人を召して、かの駿河の国にある、山のいただきへ、もてとづくべきよしおほせ給ふ。みねにてすべきやうを、教へ給。文、不死の薬の壺をならべて、火をつけて燃やすべきよしを、おほせ給ふ。そのよしを、うけ給はりて、つはものども、あまた具してなむ、かの山へはのぼりける。その不死の薬を、焼きてけるより後は、かの山の名をは、ふじの山とは名づけける。いまだ、その煙、雲の中へたちのぼるとぞ、いひつたへたる。

もむけとゝせあまりふたとせ なかつきころうつす  ながとき

この時代の富士山の様子がわかります。そうまさに活火山だった証しです。

超簡訳:翁と婆も嘆き悲しみ遂には床にふしてしまいました。頭中将は警護の者と共に宮殿に戻り事のありさまを帝に報告しました。帝は手紙を見てたいそう悲しみ宴や食事もなさらなくなりました。大臣や貴族を呼びこういいました。「どの山が天に近いのか?」ある人は「駿河国にあるという山が都にも天にも近いです」と告げました。すると帝は月のいわさかという使者に勅使をつかわし、手紙と不死の薬を焼くように命じました。勅使は山に登りその山を不死の山と言う様になりました。勅使はその峯で指示通り薬と手紙を焼いた煙が今もなお雲の中に立ち上っているのだと言われています。      

さてでは竹取物語はいつ書かれたのでしょうか?

701年から10世紀(平安時代初頭)の間と推測出来ます。
今は昔というで出しからして今は平安時代それより昔ですから奈良時代と設定するのも道理なわけです。
登場人物の官位が701年に基ずき、大和物語に竹取りの翁の物語の記載がある事から大和物語成立までと広範囲
これはしかたありません。なんせこれだ!という決め手がないのです。
ちなみに富士山が活火山だったのは記録にある物は781が初めて平安時代以降時折噴火しているので、特定は困難である。又朝廷が駿河国を支配していたというのもキーワードです。

では誰が書いたのでしょうか?
これはもう推測ですが、個人的な妄想でいうと下記の人物が挙げられます。

①石上麻呂

そう登場人物の一人、この人は実は物部氏の一族。石上神社は物部氏の祀られた神社です。そう敗者、しかもこの人は近江朝の大友皇子の忠臣大友皇子の最後を見取った人物いわば敗者の弐乗。しかしその忠誠心をかわれ天武天皇、統持天皇、文武天皇期に天皇に重用されます。
しかし元明天皇期に行われた遷都では右大臣まで上り詰めながら藤原京に留守役に命じられ閑職に追いやられます。
つまり最終的に敗者となったのです。新しい都平城京では親政が執り行われ、しかも朝廷の大部分の建物は藤原京の物を転用、移築したといいますから旧都藤原京はだだっぴろい土地だけが残ってしまっている状況です。
その地でわずかに残る官庁でなにするでもなく孤独な老人「石上麻呂」は自分の運命をどう考えていたでしょうか?
残された藤原京には迦具山が。大友皇子に殉死せず生き残り、天皇に仕え大臣にまで上りつめ、ついには閑職に・・・。今は都にも遠く、自分自身も大友皇子を救えなかった後悔を竹取物語を託した???
彼が作者なら①から⑨全ての条件を満たすと言えます。
ただし石作皇子の登場が疑問点とは言えますが、ここは刑部親王と考え、当時天武天皇の最長親王(壬申の乱で敵対していた)という立場であり大宝律令を推し進めた人物。しかし親王である以上(天皇家に敬意は深く持っているので)まったく違う名前にして登場させたとすればすんなり通る様に思えます。

②これはかなり個人的な憶測ですが・・・平城天皇

桓武天皇の第一皇子にして皇太子、即位して平城天皇となるも病気を理由に即位3年で同母弟に譲位し、奈良の平城京に住まいを移します。譲位後は平城上皇となのり、奈良で暮らしていました。が、810年に突然平城京への遷都宣言の命を下します。驚いたのは天皇となっていた嵯峨天皇、上皇をたぶらかしているのは藤原薬子と兄仲成と断定して、遷都に同意していると見せかけて密偵を受けた部下に平城京の内部を把握させます。すぐに彼女の「内侍」の身分をはく奪、兄の仲成を監禁します。当時の内侍は天皇の言葉を臣下に伝言する役割の女官の地位で彼女自身の言葉が「上皇の言葉」となるのを未然にふせいだからです。そうすると上皇は側近と薬子と東国に向かい挙兵をうながす為に平城京を離れます。嵯峨天皇はこれをすばやく読み取り、坂上田村麻呂を将軍に兵を大和に送り、上皇軍を捕え翌日には平城京に戻され上皇は出家、薬子は自殺、薬子の兄仲成は佐渡権守に左遷後殺害されます。平城法皇はその後奈良の平城京を離れる事なく同地で崩御しました。

その理由として
①かぐや姫=薬子への慕情、供養
②登場人物と当時の人間関係図
石作皇子=嵯峨天皇(同母弟、上皇の乱の際には敵対する)
草持皇子=藤原冬継(嵯峨天皇の側近、仲成と薬子は宇合の血筋藤原式家の出に対し冬継は房前の北家の出)
阿倍御主人右大臣=藤原葛野麻呂(上皇の乱の際には東国へ向かうのを止めようとした人物。やつあたりか?)
大伴大納言=坂上田村麻呂(元は平城天皇時代の側近、譲位後は嵯峨天皇側で軍を統率し上皇を護送した裏切者)
石上中納言=文屋綿麻呂(直前までは平城上皇側、乱後には坂上田村麻呂の助言で嵯峨天皇側につく)
③天皇=自分

乱後、平城天皇は薬子への弔いとして物語を製作、上皇崩御後に側近藤原真夏によって平安京に持ち込まれる。

ここでは物語の藤原嫌いが疑問点になります。上皇自身が母が藤原家の出である事、そして薬子自身が藤原家の出
である事がなのですが、それゆえ藤原=薬子の悲劇の構図も成り立つように考えれます。藤原家の政治権力の犠牲者というくくりで考えるとなしではないか?
草持皇子と中臣房子の名まで登場させて二人ともかぐや姫に翻弄させられるどんだけ嫌いこの一族を!!!
しかも①~⑨の条件が成立出来るのです。

但し上記二名を上げる時に起こる問題は竹取物語がひらがな書体で広まったとされる点です。
ここは当時は漢文で製作され、後に万葉かなからひらがなが流行した際にとある人物によって書き改められた。
といえばOKです。
ようは現代語訳させた人物が必要です。

それこそ竹取物語の作者と推測され必ず名前の挙がる「紀貫之、源融」

まさに左遷され政界を追われ隠棲していた人物、貫之は都を離れ土佐国司に、融は六条院の邸で引き籠る日々。時間はたっぷりあります。二人とも当時の藤原家の摂関政治を非難し、自身の生い立ちに不満があるという共通点も重要です。

で!個人的には平城上皇にしたい!

人の少ない宮殿や離宮(平城京の近くに茅葺屋根の離宮を持っていたそうです)で一人亡くした女性を思いながら涙して物語を書く、法衣をかぶった高貴な人物。構図的にはありでしょう!!!

かなり強引に終わります。
次回本編京草子は2012年1月10日大原を予定します。

theme : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
genre :

2011-12-12

舞少納言の歴史謎解き物語第一段の巻き

京草子別編「皇極・斉明天皇・天智天皇の謎」をテーマにあれこれ草子したいと思います。

参考書はこれしかないので「日本書紀」他に同時代の歴史書がないのが非常に残念です。

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷(続日本記より)

日本書紀(養老4年)720年に舎人親王(天武天皇の皇子)が編集し完成させた国史。神代の時代から持統天皇の時代の記述で終わる全文漢文で記述された書です。
完成後は元明天皇に献上されて以降原書は現在に至るまで行方不明、写本がいくつか残る謎の歴史書です。
その記述は膨大な物である事と天武天皇も国書の作成を指示した経緯、又飛鳥時代に国記と天皇記の史書編集がされていた事、又その記述が百済新羅高麗三国史書とも記述が似ている為に養老以前にいくつか出来あがっている物を参考にして編集されたと考えていいでしょう。

さてその中で得意なのは「皇極天皇期」の記述です。この編集は日本書紀の前半唐人が記述していた時代にも関わらず、倭人が記述したと思われる文体が読み取れるのだそうです。
唐人では絶対間違わない漢文の間違いの記述が所々あるそうで日本人による書き直しがなされていたのです。
ようは始め唐人が記述していた皇極天皇期の行を後の時代に変えてしまった。という事実が判明した訳です。

皇極天皇期で書き換えが必要だった。といえばあれしかありません。
乙巳の変(以前は大化の改新)といわれたクーデターです。
そう蘇我入鹿暗殺、蝦夷自殺するあの蘇我宗家滅亡の事件の時代です。

これはなにかありそうです。
では始めていきましょう。

舒明天皇崩御の後、帝位は皇后である宝が即位します。

642年
元年春正月丁巳朔辛未皇后即天皇位以蘇我臣蝦夷為大臣如故大臣児入鹿更名鞍作自執国政威勝於父


詔大臣曰以津守連大海可使於高麗以国謄吉士水鶏可使於百済水鶏此云倶比那
八月甲申朔天皇幸南淵河上跪拝四方仰天而祈即雷大雨遂雨五日溥潤天下或本云五日連雨九穀登熟於是天下百姓倶称万歳曰至徳天皇

九月癸丑朔乙卯天皇詔大臣曰朕思欲起造大寺宜発近江与越之丁百済大寺復課諸国使造船舶

辛未天皇詔大臣曰起是月限十二月以来欲営宮室可於国国取殿屋材然東限遠江西限安芸発造宮

丁卯天皇御新嘗是曰皇太子大臣各自新嘗

簡訳:
即位前半は是と言った政治指導を行っていたとはいえなさそうで、蝦夷を大臣に蝦夷は父以上に権勢を振るった。
雨降りの祭事を行い雨が降って人々が徳のある天皇だといって褒めたたえた。
舒明天皇の悲願「百済大寺」の再建を指示した。
宮殿を造るため人夫の招集を行った。
新嘗祭を行った。

643年
天皇遷移於小墾田宮
丁未自権宮移幸飛鳥板蓋新宮
丁亥吉備嶋皇祖母命薨癸巳詔土師娑婆連猪手視皇祖母命喪天皇自皇祖母命臥病及至発喪不避床側視養無倦乙未葬皇祖母命于檀弓岡是日大雨而雹丙午罷造皇祖母命墓役仍賜臣連伴造帛布各有差
冬十月丁未朔己酉饗賜群臣伴造於朝堂庭而議授位之事遂詔国司如前所勅更無改換宜之厥任慎爾所治

天皇が新しい宮殿に移った。
また新しい宮殿に移った。
母が病気になり、天皇は看病を熱心に行ったが、崩御してしまった。その後墓を造られた。
又天皇は別の宮殿に移った。

あまり天皇としての親政を行ったという感じはないですね。

ただ特に気になったのはやはり蘇我入鹿の暗殺時の皇極天皇の行動です。
645年
戊申天皇御大極殿
曰当居嗣位天之子也臣不知罪乞垂審察
天皇大驚詔中大兄曰不知所作有何事耶
中大兄伏地奏曰鞍作尽滅天宗将傾日位豈以天孫代鞍作耶蘇我臣入鹿更名鞍作
天皇即起入於殿
庚戌譲位於軽皇子立中大兄為皇太子
天豊財重日足姫天皇四年六月庚戌天豊財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄而詔曰云々
是日奉号於豊財天皇曰皇祖母尊

簡訳:三韓の調の際、天皇が大極殿にいた。
(中大兄王子が入鹿に切りつけた後)入鹿が「皇極天皇が天位にあるのになぜ臣下の罪のない私がこんな目にあるのか?どうぞ真偽をはっきりと明るみにしていください。」
と訴えかけると、かろうじて中大兄王子に「これはどうしたことか?」と聞き、それに中大兄王子が「入鹿が天皇になろうとし、皇位を滅ぼそうとしました。」と主張すると皇極天皇は何も答えず、入鹿をみはなした様に宮殿の奥に引っ込んでしまいます

その後中大兄王子に皇位を譲る旨を内々に告げるが、これを辞退し皇位は伯父軽王に譲位します。
中大兄王子は皇太子になり、皇極天皇は「皇祖母尊」と呼ばれ孝徳天皇が即位しました。

なんか変だと思いませんか?
父以上に権威を振るった入鹿、皇極天皇の寵臣であったはずです。その寵臣が突然目の前で暗殺され、しかも入鹿の訴えをきかずに現場から立ち去る。しかも責任追求もなし。変です・・・・・。

皇極天皇はあらかじめこの暗殺を知っていたのではないでしょうか?
だから入鹿を助けなかった。いや実はその暗殺に参加していたかもしれない。

では何故助けなかったのか?

それはひとえに皇位。

皇極天皇は皇位は自分の血を受けた中大兄王子に継がせたかった。
入鹿は古人大兄王子に皇位を継がせたかった。

両者の蜜月は皇位で真っ向から対立するかっこうです。

だから皇極天皇はこの暗殺に参加しました。

ここで暗殺ど真ん中に参加していた中大兄王子本当に参加していたのでしょうか?
残念ながら確たる証拠はありません。(天智天皇の項で)
しかし蘇我宗家がこの事件で没落した事実は真実です。

皇極天皇が譲位し孝徳天皇が即位した後の皇祖母尊の動きです。

649年
三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨天皇幸朱雀門挙哀而慟皇祖母尊
651年
二年春三月甲午朔丁未丈六繍像等成戊申皇祖母尊請十師等設斎
653年
法師命終而遣使弔并多送贈皇祖母尊
是歳太子奏請曰欲冀遷于倭京天皇不許焉皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等往居于倭飛鳥河辺行宮于時公卿大夫百官人等皆随而遷由
654年
冬十月癸卯朔皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟公卿等赴難波宮
母奉皇祖母尊遷居倭河辺行宮

簡訳:阿倍大臣が死去し皇祖母祖はひどく悲しんだ。僧に斎を行わせた。
尊い僧が死去したので使者を送った。
皇太子が都を奈良に戻したいと天皇に進言した所、天皇は拒否された為に母、妹、重臣を連れだって飛鳥河辺行宮に戻った。
天皇が難波で病気になったので難波に戻り天皇を見舞った。
皇祖母尊が難波から飛鳥河辺行宮に戻った。

同母弟孝徳天皇と中大兄王子の対立と別離があった事がわかります。
ここでも弟よりもわが子をとった。
というより、自分が戻りたかった???

ここでいえるのは皇極天皇は阿倍大臣に信頼を置いていた。その点孝徳天皇も同じ、その人物の死がこの姉弟の亀裂を産んだ可能性が大きいのではないでしょうか?
しかも退位したといえど「皇祖母尊」いわば上皇のような存在それなりの存在だったと考えていいでしょう。
ひょっとしたら中大兄王子よりも皇祖母尊の方が飛鳥に戻りたかった?
だから皇太子が飛鳥に戻った時に重臣が一緒に同行したともいえるのです。

皇祖母尊(皇極天皇)が孝徳天皇を捨てた。

孝徳天皇崩御の後、皇祖母尊が再び即位します。
何故中大兄王子は即位しなかったのでしょうか?
母皇祖母尊の思惑があったのではないでしょうか?伯父を乱暴に振り切っての即位は重臣達からの反感を買う可能性があります。また皇祖母尊は自分の親政も行いたかったというのもあると思われます。孝徳天皇は唐、新羅に近い姿勢を示し、これに反して百済派の重臣は一気に皇祖母尊に傾いた。彼女自身も百済支援を自分の手でなしたかった。よって中大兄王子の即位を遅らせたのではないでしょうか?


655年
元年春正月壬申朔甲戌皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮
夏五月庚午朔空中有乗竜者貌似唐人著青油笠而自葛城嶺馳隠胆駒山及至午時従於住吉松嶺之上西向馳去
冬十月丁酉朔己酉於小墾田造起宮闕擬将瓦覆又於深山広谷擬造宮殿之材朽爛者多遂止弗作
是冬災飛鳥板蓋宮故遷居飛鳥川原宮

簡訳:
飛鳥板葺宮で皇祖母尊が即位した。夏に唐人に似た異形の者が竜に乗って葛城の嶺から生駒を抜け、住吉に向かい西に駆けていった。
冬小墾田宮の造営を行う為に宮殿用の木材を伐採する為に多くの者が徴収された。
この時に飛鳥板葺宮が火災にあい、飛鳥川原宮に天皇は移った。

異形の者って誰???なんだか恨みに死んだ入鹿???
斉明天皇となった皇祖母尊は人が変わった様に政策を打ち出します。まずは新しい宮の造営、しかしこれは出火により一時中断してします。この出火どうやら人災だったようです。この頃放火は朝廷への不満の方法といわれており即位そうそう人気がなかったようです。

656年
是歳於飛鳥岡本更定宮地時高麗百済新羅並遣使進調為張紺幕於此宮地而饗焉遂起宮室天皇乃遷号曰後飛鳥岡本宮於田身嶺冠以周垣田身山名此云太務復於嶺上両槻樹辺起観号為両槻宮亦曰天宮時好興事廼使水工穿渠自香山西至石上山以舟二百隻載石上山石順流控引於宮東山累石為垣時人謗曰狂心渠損費功夫三万余矣費損造垣功夫七万余矣宮材爛矣山椒埋矣又謗曰作石山丘随作自破若拠未成之時作此謗乎又作吉野宮西海使佐伯連栲縄闕位階級小山下難波吉士国勝等自百済還献鸚鵡一隻災岡本宮
簡訳:飛鳥岡本宮で百済高麗新羅の使者をもてなす饗宴を催した。後飛鳥岡本宮の嶺に垣を造営して二つの宮殿を造営し、水工事業を行い多くの者をそれに従事させた。岡本宮が火災にあった。

斉明天皇は宮殿造営や水工土木工事を大変好んで行い、人々の反感を買って宮殿も放火されるありさまです。
皇極天皇時代は徳の高い天皇として敬わられたのに今度は非難の対象に変貌してしまいます。

657年
辛丑作須弥山像於飛鳥寺西且設
簡訳。:須弥山を飛鳥寺の西に造営した。

この天皇石物にすごく傾倒していました。
確か奈良にある母の墳墓にも奇妙な石物が建っていました。パワーストーンを感じていたのでしょうか??

658年
五月皇孫建王年八歳薨今城谷上起殯而収天皇本以皇孫有順而器重之故不忍哀傷慟極甚詔群臣曰万歳千秋之後要合葬於朕陵輙作歌曰
伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多多婆那爾柯那皚柯武其一
伊喩之々乎都那遇舸播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾其二
阿須箇我播濔儺蟻羅毘都都喩矩瀰都能阿比娜謨儺倶母於母保喩屡柯母其三
天皇時々唱而悲哭

簡訳:孫の建王が死去した。天皇は大変嘆き悲しんで自分が死んだら一緒に合葬するようにと遺言しました。
悲しみの歌を3首読んで口ずさんでは嘆いた。

658年
冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯天皇憶皇孫建王愴爾悲泣乃口号曰
耶麻古曳底于瀰倭施留騰母於母之楼枳伊麻紀能禹知播倭須羅庾麻旨珥其一
瀰儺度能于之褒能矩娜利于那倶娜梨于之廬母倶例尼飫岐底舸庾舸武其二
于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘飯岐底舸庾舸武其三
詔秦大蔵造万里曰傅斯歌勿令忘於世

簡訳:白浜温泉に行幸して亡き孫を懐かしんで悲しんで歌を詠んだ。
後世にその歌を忘れさせない様に命令しました。

659年
五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯

5月春に再び白浜温泉に行幸しました。

三月戊寅朔天皇幸吉野而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦平此云毘羅丁亥吐火羅人共妻舎衛婦人来甲午甘檮丘東之川上造須弥山而饗陸奥与越蝦夷檮此云柯之川上此云箇播羅
秋七月朔丙子朔戊寅遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐国仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子

簡訳:3月吉野で饗宴を催して、甘檮丘の東之川上に須弥山を造営した。
秋に唐国に使者を送った。

伊吉連博徳書曰同天皇之世小錦下坂合部石布連大山下津守吉祥連等二船奉使呉唐之路以己未年七月三日発自難波三津之浦八月十一日発自筑紫六津之浦九月十三日行到百済南畔之嶋々名毋分明以十四日寅時二船相従放出大海十五日日入之時石布連船横遭逆風漂到南海之嶋々名爾加委仍為嶋人所滅便東漢長直阿利麻坂合部連稲積等五人盗乗嶋人之船逃到括州々県官人送到洛陽之京十六日夜半之時吉祥連船行到越州会稽県須岸山東北風々太急二十二日行到余姚県所乗大船及諸調度之物留着彼処潤十月一日行到越州之底十月十五日乗騨入京二十九日馳到東京天子在東京三十日天子相見問訊之日本国天皇平安以不使人謹答天地合徳自得平安天子問曰執事卿等好在以不使人謹答天皇憐重亦得好在天子問曰国内平不使人謹答治称天地万民無事天子問曰此等蝦夷国有何方使人謹答国有東北天子問曰蝦夷幾種使人謹答類有三種遠者名都加留次者麁蝦夷近者名熟蝦夷今此熟蝦夷毎歳入貢本国之朝天子問曰其国有五穀使人謹答無之食肉存活天子問曰国有屋舎使人謹答無之深山之中止住樹本天子重曰脱見蝦夷身面之異極理喜怪使人遠来辛苦退在館裏後更相見十一月一日朝有冬至之会々日亦覲所朝諸蕃之中倭客最勝後由出火之乱棄而不復検十二月三日韓智興人西漢大麻呂枉讒我客々等獲罪唐朝巳決流罪前流智興於三千里之外客中有伊吉連博徳奏因即免罪事了之後勅旨国家来年必有海東之政汝等倭客不得東帰遂逗西京幽置別処閉戸防禁不許東西困苦経年難波吉士男人書曰向大唐大使触嶋而覆副使親覲天子奉示蝦夷於是蝦夷以白鹿皮一弓三箭八十献于天子

簡訳:使者は唐国に着いて皇帝に謁見したが、監禁されてしまった。

庚寅詔群臣於京内諸寺勧講盂蘭盆経使報七世父母

簡訳:都の寺院に盂蘭盆経を唱えさせ七世の父母の霊を鎮めた。

660年
詔曰乞師請救聞之古昔扶危継絶著自恒典百済国窮来帰我以本邦喪乱靡依靡告枕戈嘗胆必存拯救遠来表啓志有難奪可分命将軍百道倶前雲会雷動倶集沙喙翦其鯨鯢紓彼倒懸宜有司具為与之以礼発遣云云送王子豊璋及妻子与其叔父忠勝等其正発遣之時見于七年或本云天皇立豊璋為王立塞上為輔而以礼発遣焉

簡訳:百済を救う為(唐と新羅に滅ぼされかけていた)当時倭に滞在していた豊璋達百済王族を援軍に向かわせた。

十二月丁卯朔庚寅天皇幸于難波宮天皇方随福信所乞之意思幸筑紫将遣救軍而初幸斯備諸軍器是歳欲為百済将伐新羅乃勅駿河国造船

簡訳:12月天皇自らも難波に向かい、軍備を整え駿河国で軍艦を造らせた。

661年
七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路
庚戌御船泊于伊予熟田津石湯行宮熟田津此云爾枳陀豆
三月丙申朔庚申御船還至于娜大津居于磐瀬行宮天皇改此名曰長津
五月乙未朔癸卯天皇遷居于朝倉橘広庭宮
秋七月甲午朔丁巳天皇崩于朝倉宮
八月甲子朔皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮是夕於朝倉山上有鬼著大笠臨視喪儀衆皆嗟怪
冬十月癸亥朔己巳天皇之喪帰就于海於是皇太子泊於一所哀慕天皇乃口号曰
乙酉天皇之喪還泊于難波
十一月壬辰朔戊戌以天皇喪殯于飛鳥川原自此発哀至于九日

西に船を出向させ熱田津の道後温泉に行宮を経由して筑紫に向かい朝倉橘広庭宮に入った。
七月には天皇が崩御した。
八月に中大兄王子が天皇の亡きがらを磐瀬宮に戻すと、朝倉山に大きな笠をかぶった鬼が出没して皆怪しんだ。
冬天皇のなきがらを筑紫から難波、大和の飛鳥川原宮に戻した。

一連の内容からして百済救済は斉明天皇の強い指示があったとはいえないのでしょうか?
高齢の身で軍艦に乗り込み筑紫まで赴き指揮する。
どうしても中大兄王子のかいらい天皇の姿が感じられません。

この海路の道中あの有名な和歌が詠まれています。

熱田津に船乗りせむと月待ては潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

伝額田王と言われていますが、詩の内容的に船の指揮者の歌にも読み取れます。
斉明天皇作と言っても可笑しくなく、いやいった方がしっくりいくのではないでしょうか?

斉明天皇は百済支援の思い道半ばで崩御してしまいます。

この後中大兄王子は敗戦処理と百済の亡命王族、貴族、市民等を倭に移住させて救済の処理、唐の侵略の為に城壁を各所に配置し、筑紫の防衛も強化します。
そしてあらかた国政を整えた後、近江に遷都します。が、この遷都非常に人々から嫌われ良く放火されました。
ようやく即位した天智天皇は官位を改めたくらいで後は狩猟や宴会を催すなどぐらいで大きな政治手腕を振るう事はありませんでした。

671年
十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮癸酉殯于新宮

簡訳:近江宮で崩御しました。

中大兄王子は本当に即位したかったのでしょうか?
なんだかしかたなく即位したっぽい気がしてなりません。何故なら即位後の政策が明らかでないからです。
他に即位する者がいなかった事と母の願いを叶えたかった。それだけだったのかもしれません。
だからこそ日本書紀は業績を記述出来なかったのではないでしょうか?

しかし当時の皇位であった元明天皇の父天智天皇の業績を入鹿暗殺で活躍させヒーローにする事で子文武天皇の正統性と孫軽王(聖武天皇)の即位を確たる物にする必要性があったと言えます
少なくとも当時天武天皇の親王が多く存命中であり、藤原氏からの初めての皇太子という立場は盤石ではなかったでしょう。それを正当化する為にも天智天皇の功績をおおきくする必要があったのです

で今日も私達はこの策略にまんまと乗り、中大兄王子と藤原鎌足を有名な人物と信じていたのです。
もちろんその策略に藤原不比等が一枚も二枚もかんでいたのは間違いないでしょう


あああ~~~怖い怖い歴史の御話。
次回はそのうち「竹取物語の謎」を予定します。

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