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小忌の公達もいとなまめかし

訳:小忌衣(神事の際に上に羽織る麻の衣 山藍の汁で柳・梅・雉の柄を型押し、右に赤蘇芳の紐をして蜷結びた紐が付いてる
  衣)を羽織ってる公達たち(上流貴族の子息達)もなぁ~~もう~~~めっちゃ色っぽいねん~~V(。・ω・。)ノ♡

今日は黒田装束店さんへ。
装束店さんの着付け方、装束の再現をするという名の理由をつけて装束体験!!!
ただ着たいだけ??そうかもいやそう( ;∀;)

今回もいろいろ悩みたおして

今年は一代の天皇で一度だけの大嘗祭が行われます。

大嘗祭とは初めて即位した天皇が行う神事で新嘗祭という神事の一代で一回だけ行われる祭りです。

天皇さんが秋の豊穣を神に祈る神事で戦後この日は「勤労感謝の日」になっています。


その準備たるや年換算
それに伴う宮殿建設、儀式の準備、占い、装束から神にささげる麻、絹の布、そのたもろもろ等々その後の宴会等等・・・・・・・・・・。

なんといっても神様と天皇の儀式用に2か所宮殿が建てられ儀式が終わると取り壊されるという!!
驚きの真実!!!
完全〇〇億円単位の儀式です。

しかしこの儀式実は天皇さんの私的な神事です。
何故なら戦後国家が神事に携わることは憲法で禁じされています。
予算は宮内庁から出るもののあくまで天皇の予算で出されます。


大嘗祭をテーマ

平安時代の殿上人が新嘗祭(もしくは大嘗祭・毎年行われる際はこう呼びます)に奉仕した姿は????

でも完全再現は不可能です。

何故なら完璧な平安時代の絵付き文献がない。装束の現物もない。

 小忌衣の形状が不明

文献では平安時代末期にあるまさすけしょうぞくしょう数行の記述だけ。
平安中期の小忌衣姿五節の豊明節会の殿上人姿装束が現存しないので不可能

ちなみに近世この着付けに近いのはこれ

井筒さんの闕腋袍束帯小忌衣の奏任官
小忌衣の表裏を袍に挟むのは平安時代は???

袍の形状も不明
袖はもう少し今より短かかったでしょうし。
袍の寸法は全体的にもう少し小さい&蟻先は入欄といって外に出すのではなくてアコーデオン型で半臂の欄のようになってる。

なのでお金積んでも完全再現はどっちみち無理。

黒田さんに構想をご相談したところ、「やってみましょう」とうれしい一言。
本当感謝


できる範囲で再現

候補は二領

文官の縫腋袍 赤色
五位の袍せっかくやるんなら四位以上がいいなずるずるひきずるの最高~~いとなまめかしきなの
でも赤色の色目によっては禁色の赤袍っかもとにかく色を見てみたい

四位以上の黒武官闕腋袍
ただヤナグイが修理中でない。
ずるずるひきずる黒袍ひゃ~~捨てがたい。
四位以上で武官でヤナグイないのは有職故実的には✖でもそそられます。
四位の武官
いろいろ用事をしすぎてヤナグイおろして随身に持たせるなんてもむりくり設定???

ニア五節の辰の日(豊明節会) 設定

まさすけしょうぞくしょうより

小忌のこと。

小忌を着ることは。束帯の上に青摺を着るなり。

その摺青くて梅雉を摺る

上達部殿上人。
五節の節会の日。
大嘗会などに。
蔵人まで着る。

半臂を着る。
白き袙単。
白き汗取などにてあるなり。
尻。
又これも一幅なれば。
舞人の様に下襲の尻にも綴じ付くるなり。
これも赤紐あり。
これは右の肩の上に中を綴じ付けて。
後ろ前に下げて。
後ろは脇に綴じたるが良きなり。

冠に日蔭と云ふものを左右の耳の上に下げたり。
冠の巾子のもとに日蔭の蔓と云ふものを結ひて。
白き糸の端などほとかしくみなるして総角蜷を結び下げて。
方々に四筋づつ冠の角を挟めて。
前に二筋後ろに二筋左右に下げたるなり。
この糸飾る所に心葉とて梅の枝の小さく造りたるをこの蔓に纏ひて立てたり。
蔓なければ青き糸よし。
この心は。
冠の前の筋のもとと。
後ろの蔓結びたる所に立つと云ふ人あり。
日蔭方々に八筋もあり。
心々なり。

節会なれば魚袋をつく。
殿上人は瑪瑙を差すべし。
上達部は有文の帯差す。
平緒は小忌の平緒と云ふ物あれども。
常に無ければ。
紺地を差す常の事なり。


何度も記述しますがこの完全再現は不可能


①小忌衣 麻製(これは古来大麻製)
山藍の汁で雉、梅の木の柄を木型で染める。
右肩に赤紐という中間で蜷結び紐にする。
袖の下は空いた状態で真ん中の紐をくくるだけ。

対応策:黒田さんでは葵祭の斎王代さんの羽織る小忌衣を赤紐なしで体験用にお持ちです。
     形状は違いますし但し赤紐はありませんし、柄も松の枝と菊そこは妥協


というかやっていただけるだけ本当に感謝!!!

続に

②日蔭糸紐8本白と青色
 これは自作可能・購入も可能
 で作ってみました。
青色組紐正絹8本
白色より紐化繊8本

③日陰蔓の造花もしくは生花
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  造花の梅の小枝
これも造花で購入で可能造花専門店サイトで購入済
  造花だと思ってたら日陰蔓本物生花でした。
育ててみようかな?

④白の帷子・単・衵を白色
まず袍の下の衣をすべて白色限定にするのは難しい。
黒田さんちでは汗取り帷子・衵白がない。

対応策:下に着物の汗取り襦袢その上に黒田さんの小袖を着ると。
三枚下襲の下に着た感じになります。

⑤魚袋
これは身分を現わす身分証禁裏の通行証のようなもので古くは袋状のようでしたが、現物はなく絵図もないようです。
近世のものも黒田さんとこでもないので省略
これめっちゃ高いし、当時も基本正式な儀式でしか携帯しない。
五節は特別なので携帯
ほぼほぼ体験所ではおいていません。
・・・・・・・・・・・・・うちの先生の所にはあるけどね。

⑥石帯瑪瑙 
瑪瑙の石帯なんて無理~~~紋付も無理、通常の通用の白石帯(紋なし)です。
でも黒田さんとこの石帯は正倉院の石帯を再現されていて今のベルト式です。すごく珍しいですよ。

⑦平緒は小忌の平緒か紺地
黒田さんとこでは紫地なのでここも妥協


⑧袍
文官だと縫腋袍
武官だと闕腋袍これも化繊で着装済ですが赤色でした。


しかし武官が胡簗なし。どうなんだろう・・・・・・・・・・。
武官袍が黒だと四位です舞人役するかな???

で!!!!!当日見てから決めます。!!!

当日黒袍はなんと藻勝美文様の米紗です!!!
赤袍は通常の二級の袍平安期では五位の袍

もうこれは黒でしょ!!!

⑨散歩しますがかの靴がないので武官ですが、浅沓です。

今日のお題

君達は 権中将

訳:公卿の子息達の中でも超いけてんのは仮の武官の次席やん

(平安時代役職には定員がありました。
しかしそのうち定員数を超えて昇進させたい状況になると権〇〇〇という官職をつくってしまいます。
権の待遇は名ばかりな場合と同等待遇の場合どちらもあったようです。
仮の○○と呼ばれます。

有名なのは定数オーバーでも大納言に就任し有名なのは藤原行成さんですよね。
権大納言←仮の大納言

彼は摂政藤原伊尹の孫で、家の藤原北家の主流だったんですが、父祖父が死亡し天皇の縁戚でもなかったので。
有力な後見人のいなくなった彼には出世の見込みはありません。

生まれ+後見人で出世コースが決まる時代
長く地下の身分でしたが友人の紹介で一条天皇の蔵人頭に任命され時、一条天皇だけでなく左大臣道長に重宝がられて昇進していった事務方の実力者。

字がとても美しく時の道長に名書を写本させて原本はあげ行成の書をかわりにくれと所望されたり、彰子の入内の際には皇族や公卿の和歌障子に書いたのはこの人です。
数年前から国宝展で出ていましたね。千年以上前の文が残っているのは紙の質、保管方法等歴代のお仕事に感無量です。」

寛弘の四納言と呼ばれた人物。しかも当時としてはかなり珍しい真面目でまともな人。
彼と実資くらいしかまともな人いなかったですからね。

大嘗祭 豊明節会

大嘗祭・新嘗祭は夜に行われます。
が、当日の昼間を設定



万寿元年(1024年)の豊明節会

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心葉いがんじゃってる。やはり要検討

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納言・藤原朝経の従者が舞姫の控室に侵入し、「懐に抱く」事件発生
五節舞の舞姫を貢進していた藤原 兼経控室に突入する!

検非違使に引き渡すも今度は朝経が控室から籠って出てこなくなる珍事が起こる。
朝廷の神事が開催される予定であったにも関わらず、胸の病を口実に控室から出ようとしなかった。
めっちゃ美人だったんでしょね。・・・・・・・当時宮中女官や家族くらいしか女性に簡単に接近出来ない風俗でしたので。
一度会えても二度はそうそうありません。
神事になにしてるんだか!!!
藤原 兼経 綱家実父
道長の養子 
それぞれの妻が姉妹だったので藍婿で兄弟の中でも仲がよかった。


最初は衣冠でと予約していましたが、悩みあげく御相談しているうちに黒田さんの了承を得られただけでなく。
なんと束帯で外出しかも宗像神社さんで撮影していただけるお話に・・・・・。
本当に申し訳ない。 嬉しすぎて失神しそう。

表袴までは省略
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下襲は緋色・遠菱
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半臂・黒色三重襷紋

 
当日まで天候が思わしくなくぎりぎりになり晴れ時々曇りと降水確率0%に!!!神様ありがとう感謝!!!
京都御苑にある宗像神社へ。


九州の宗像市にあるあの世界遺産の宗像大社の分社
宗像神社

主祭神
宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)
倉稲魂神と天岩戸開神の2柱

延暦14年(795年)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝わります。後に花山院家の社。
ちなみにここはその名の通り花山院邸宅のあった一部

東京第は嘉祥3年(850年)に清和天皇(生母は冬嗣の孫の明子)が誕生した場所で後に東西で別れて小一条院・花山院御所になった場所でもあります。
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お清め

まずは拝観本殿で参拝

御挨拶は大事・お賽銭も袋に入れ神様にご挨拶の奉納を捧げます。

ギリギリで勝屋酒造で注文OK
なぜ??宗像市で宗像神社所縁の酒造会社さんなのでここで!!!
偶然お会いした宮司さまにご挨拶し手渡せました


今回の内容はセミオーダー的な装束の着付けで、あんまり他ではできない着付けです。
やはり黒田さんとこならではです。

正絹でしかも外出付冥途の土産になるわあぁ~~~~

この着付けに興味がある方は小忌衣をお持ちの体験所ならなんとか近い物ができるでしょうが。
まずは正しい事出来る事やってはいけない事。
有職故実に精通していないとちょい??になってしまうかも・・・・・今回も着付けや持ち具、細部は再現できていません。外出できるかは??ですが。

今回のはあくまでニア小忌の君達(なんちゃって小忌と小忌の間の装束)
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梶の木成長しています。
七夕には必ず必要な梶の葉
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小忌衣を一度ぬぎ
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黒田装束店様と宗像神社さまのご理解、神様への感謝を忘れずにいたい。

まだまだ検討要
心葉・挿頭花位置とか、着付け等いろいろ審議かなぁ・・・・・・・・。

黒田さんの所は交渉次第となるとは思いますが、なんと言っても本業は神社さんが主の業務。
まずは何度か訪問して人なりを知ってもらい信頼関係を築いてからご相談をされてはいかがでしょうか?


京都でのお付き合いは少しずつ最初は謙虚に
店対お客様でなくて。
あくまでも熱意や謙虚の姿勢だと個人的には思ってます。けっしてです。



その後黒田装束店さんに戻り小物の打ち合わせ
ひゃ~~~~また鼻血が!!!

十三さんのつげの櫛の櫛入れをあれこれ相談。
生地やおめりでお願いしたいどわがままだ!!!予算も考えなね!!!

本当に黒田さんとこはふとっぱら装束も体験できたとこの中では一番好き。
といっても素人に見せてくれる所はほぼなしといっていいが。

ありがとうございましたとお礼を申し上げ、失礼しました。

たぶん来年やらかす!!!

絶対(*^▽^*)



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弁の宰相の君




今回の女性装束は褻の女房装束

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まず濃色の精好の綾の袴
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単 紅幸菱
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五衣は重ね三枚 梅紋 白色 薄紅色 紅色 紅の薄様

通常五枚着ますが、季節に応じて枚数を調整しますので今回は重さもあり三衣としました。
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打衣 新作 紫色  
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裳  裾濃き空色 地摺 唐花紋 浦安の舞用

かもじを付けてます。
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正月の女舞踏
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五節の準備
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夫と息子の挿頭花を用意する
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中宮さまの準備された日陰蔓を運ぶ
いざり出る。に膝行
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五節の昼間に帝からの文を受け取る女房

中宮定子さまからのお手紙を見てしんみりする清少納言


五節に使用する蔓を眺めてワクワク~~
一年のうちで五節はとっても素敵な日

立て文を開ける清少納言
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胡床にもたれながら

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だらりとした褻の宮の女房
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殿上人の、直衣脱ぎ垂れて、扇やなにやと拍子にして、

訳:(帝のいれはる内裏に上げれる)殿上人が直衣の袖を片方だけ脱いでなぁ~扇やほかのもんで拍子とってん

3月に予約していた黒田装束店の装束体験諸事情で9月に変更
本当は装束の生地を見たいのですが、まさか業者さんでもないのにそれは出来ない。
せめてふれる事が出来る体験はとても貴重です。

本日体験日
珍しい着付け拝見と今後のお勉強の為にやはりここははずせない!


事前に細かいお願いを事前にメールで相談済

今回は男子装束 衣冠OR直衣OR冠直衣

垂えん冠だと冠直衣
烏帽子だと直衣

お色は夏用と冬用の赤色と朽葉色の直衣の三種類を見てから選びます。
単は緋色

指貫は紫を外してもらい。
いくつか選べるようにしてもらいました。ネ包の色と合わせないとね。

そして今回は内着として衵
男子用衵はないので今回は女性物の単 萌黄色をお願いしました。


単と指貫
元々平安時代の指貫は下括り式で足首の中で紐を用いて括り、その紐の先をいろんな留め方で留めるのを本義としています。
現代では引上げ式が主流で黒田装束店さんも神社さんをメイン顧客とされているので引上げ式です。

実は平安時代当時下袴という束帯の大口袴に似た袴を装着していました。
近年では省かれて現在ではどの体験所でも下袴はありません。

すべて正絹なのでそれはそれは美しいです。

今回の直衣
直衣は表白色中が夏の二藍色が正式でこれは違うでしょう?
と思った方それはそれで正解

実は平安時代の中期頃紫式部や清少納言が活躍していた頃の直衣はさまざまな色の物があり、宮中でも天皇から勅許が与えられた者のみ限定で色目の直衣で参内できました。

薄色・桜色・柳色・紅梅色・紫・紫苑色等これに冠をつけて参内するのは最高のセレブリティーの証

初めの参内、春日の使いなどの晴れやかな時には特に衣出しをして華やかにお召しになって殿上しておられました。

衣を出すことは。

衣指貫を着たる上に綿入りたる衣にても打衣にても置きて。裏表の褄を指貫の前より前によく引き違へて帯をするなり。
後ろは高く引上げて。前の褄先は指貫の上に丈に三四寸(9.12CM)たらぬ程に上ぐべし。後ろは直衣にても袍にても着たらんに。襴の裾より縁を置きたる様に見ゆまじきなり

                                                    まさすけ装束抄より




出し衣は本来は袷ですが、今回は無理をお願いしたので女子の単です。
初夏にはひへぎして単もきたようなのでOK

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色はなやんだすえに「朽葉色」でも本来の重ね色目の朽葉色ではないようです。
淡いにびろに茶色と紫を足したいような色で着てみると高貴な色目になりました。

ネ包:朽葉色
固地綾織 紋三つ葉葵
 


単 緋色

指貫 無紋 濃浅葱色

衵 綾織 松葉色

指貫は本来紋有で色も紫色系統がいいのでしょうがそうなりと一気に暗くなるのでおもいきって濃い浅葱色にしました。
夏ならこれが瑠璃色になるんでしょうね。
有職故実的には×?
でもこれはこれで、全体のバランスは指貫の寸法が幅セマなのでちょいと悪いですが、平安時代の通りとはいきません。


出し衣は
後ろは壺装束の様にたくし上げて、前を道中着の要領で裾をはの字にとり、のこりを袴の中へずず^^^と入れ込みます。
その上から袍を着せておふくあげ

はぁ~~~いつになったらこんなに手際よくできるのでしょうか?こないかもいや頑張るぞ!!
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下のほうに両側にぎゃく三角に緑の衣が見えますか?
これが出し衣です
肩脱ぎしちゃいます。
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上からの下賜品を手に
扇を手に
紅葉を手に
胡床に座ったり
美しいことこのうえなし~~~~
扇で煽いだり~~~
扇で拍子をとってみたり
文を手にしたり
酒を飲んで干果物をつまんでみたりと・・・・・

やりたい放題
片脱ぎして舞踏します。

脇息かわりの胡床でまどろんでみる感じ~~~

しとげなし~~~~~はぁ~~~~~

いつもムチャばかりお願いしている黒田装束店さんには感謝です。


次回は赤色・できれば恥ずかしいっですが外出??もかも失礼しました。

「河内詣で」

本日はちょこっと詣で・・・・・・・。
天王寺にでようかと思いつつかたずけたい用事があったのですが、思うようにできずに断念。
ちょこっと詣でになりました。

まずはちょこっとリフレッシュしに・・・・・脳のリフレッシュ
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過行く夏がまだ・・・・
百日紅と桔梗と芙蓉
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でなんで脳のリフレッシュでインターネットカフェなのか???いまいち自分的にも???ただ一人になりたかっただけ。
久しぶりに昔の漫画も読みたいし・・・・・・おやつを持ち込みドリンク三昧&読み三昧
なんだかんだ遊んでいた。

お店の情報は【こちら】

お昼前に河内松原駅に
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ここから送迎バスで「YOU~~湯」
いわゆる日帰り温泉施設3階建て近くに住んでいますが。初めて利用普段は1800円らしいですが、今回ライン友達申請で500円で利用でき!!!なら行くか!!!

黄金湯
ナトリウム・カルシウム塩化物強塩温泉”熱の湯”と言われる食塩泉熱環効果は抜群
陽・陰イオンが含まれ、『温泉』の泉質は、兵庫県にあります有馬温泉と同様に、湯に含まれる塩分・鉄分が非常に高い。
塩分以外にも『にがり』成分が非常に高く肥満防止、アレルギーにも効果があると言われています
※ 源泉100%です。加温・加水なし

神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき 慢性消化器病・痔疾
・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず 火傷・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病

露天風呂あり

温泉ではない内湯も
炭酸泉・ジェットバス・電気風呂・水風呂

一階
フロント・お土産売り場・ロッカー・浴場

二階
カラオケ・食堂そのた

三階
リラックスルームその他
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観光の情報は【こちら】

日頃のストレスケアたまには近場いいかも・・・・・・・・!この後地元図書館でがちんこ読書
読書の秋~~~~

「二人の后 藤原定子と藤原彰子」

史上初天皇の后が二人存在したのが一条天皇の治世

この二人は父親同士が兄弟で従姉妹にあたり、ともに一条天皇(父円融帝・母詮子)の従姉弟・従兄妹の関係
ふたりとも正妃でした。

定子の父は藤原道隆(父兼家・母時姫)彰子の父は藤原道長(父母道隆と同じ)

「三后」とは中宮(皇后)・皇太后・太皇太后をさします。

定子がまだ女御右だったころ
太皇太后は3代前の帝の中宮・昌子内親王
皇太后は当帝の生母・藤原詮子
中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子
三后の席はうまっていた

「一条天皇の女御であった定子を后としたい」
父摂政の道隆が無理やり皇后の名称でもあった中宮を切り離し定子に与えさせた地位でした。

しかしここでは同帝に二人の立后したわけではありません。
当時の公卿や殿上人はこの行為を悪しき事として思ったものの表だっては批判することはありませんでした。
帝に二人の正妃がいたのは一条帝の治世が初めてです。

中宮(後皇后)藤原定子

その定子はどんな人だったんでしょうか?
枕草子・栄花物語に忍ばれる記述があります。
注意:ちなみに枕草子は定子派・栄花物語は彰子派という書き方なので、やや史実的に問題はありです。


定子は父藤原道隆・母高階貴子の長女として貞元2年〈977年〉誕生

当時の道隆の官位は従四位下左近衛少将 如元1月:備中権守に遷任 昇殿を許されたまだ駆け出しの殿上人
定子は永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結い着裳で歴史上はじめて登場します。

定子の同母兄妹には兄伊周、弟道家、隆円、妹たち原子、三の君、御厨殿
その母が高内侍であったので高階貴子
中流貴族の一族の娘であったものの、道隆の女の子を多く出産した事で北の御方(正妻)と遇されていました。
これは貴族女性の最高の地位を得るためには女の子の母が誰から生まれたのかが大きく左右するためです。
父親が摂政関白の血筋でも母親が正妃でないとよっぽどの事がない限り入内は難しかったからです。
(さすがに後年関白頼通の頃は自身の娘が妾が生んだ一人だけという状況ゆえに御冷泉帝の皇后になったが)


定子正暦元年1月25日(990年2月23日)、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内

二月には内大臣殿の大姫君内へ参らせたまふ有様、いみじうののしらせたまへり。殿のありさま北の方など宮仕えにならひたまへでば、いたう奥深なることをいとわろきものに思して、今めはしう気近き御有様なり。姫君十六ばかりにおはします。やがて夜の内に女御にならせたまひぬ。
栄花物語より


摂政殿御気色たまはりて、まずこの女御后に据えたてまつらんの騒ぎをせさせたまふ。われ一の人にならせたまひぬれば、よろずは今は御心なるを、この人々のそそのかしにより、六月一日后に立てせたまひぬ
栄花物語より

同年10月5日皇后に冊立され「中宮」 小右記より

定子は派手好きの社交的な両親に育てられ教養豊かな女性だったので、学識高い一条天皇の心をつかむには理想的な女性でした。

帝との仲は???
内裏で定子の御殿登花殿で東宮妃原子と関白道隆、正妻三位の上(橘内侍)、伊周とその子松君が一家揃ってくつろいでいるところに一条天皇が来て・・・・・。

未の刻ばかりに、「えん道まいる」などいふほどもなく、うちそよめきて入らせたまへば、宮もこなたへ入らせたまひぬ。
やがて御帳に入らせたまひぬれば、女房も南面に、みなそよめき往ぬめり。
枕草子の第九十九段

勿論ここに道隆がいるのは知っていて行為をしている。つまり知られるのが大切なのです。
午後1時~3時が未の刻。
この後16時30分から17時頃までふたりでベットIN

日の入るほどに、起きせたまひて、山の井大納言召しいれて、御ネ圭まいらせたまいて、還らせたまふ。桜の直衣に紅の御衣の夕映えなども、かしこければ、とどめつつ。

その夜も
宮のぼらせたまふべき御使にて、馬の典侍まいりたり。
殿など、還らせたまひてぞ、のぼらせたまふ。

夜のお勤めの御指名があり、お召しになる。

現在の感覚でいうと実家の家族がいている所で寝室にさそうなど???
無粋ですが、天皇の后への愛情は両親にとって大問題。
天皇にとっても政務と神事を円満に行う事の必須条件でした。
娘さんを溺愛していますよ。だから後見宜しくね。という感覚ですね。

父道隆の存命中の定子は帝の寵愛と父の後見で后としての地位は確固たるものでした。

かかるほどに冬の方になりて、関白殿水をのみきこしめて、いみじう細らせたまへりといふことありて、内裏などにもをさをさ参らせたまはず。
栄花物語より

女一の宮の誕生から逆算するとこの辺りでどうも定子はらみたまふような

しかし道隆は糖尿病による体調の悪化に、長徳元年(995年)4月10日薨去

道隆没後、生前その地位を息子伊周に譲りたかったものの一条天皇の許可が出ず弟・道兼が関白になるも七日後に薨去
当時内大臣の伊周と道長が氏長者の地位を巡り対立、伊周が一条天皇の寵愛深い妹の中宮藤原定子を介しようとしたものの
一条天皇の賛同がとれず、代わりに道長は生母東三条院詮子を通じて内覧の地位を得たと言われています。
内覧とは天皇への上奏文を先に見る権利があり、実質上ここで握りつぶされればなかったことに出来るスーパー特権力
藤原氏の長者に与えられます。


天皇の判断は5月11日になって道長に文書内覧の宣旨を下し、翌月19日には道長が伊周を越えて右大臣に昇任、氏長者並びに天下執行の宣旨を獲得し、道長に軍配が下ります。

これは村上天皇の中宮安子が関白は兄弟順という遺言の効力が末代まで効いている事と、伊周の傲慢さがほかの公卿の評判が悪すぎて政務がとれないと天皇が判断した事が大きいように思えます。

中宮定子は穢れのため里の二条宮へ
東宮妃原子と共に喪中の為内裏を退出して籠っています。

中宮、世の中をあはれに思し嘆きて、里にのみおはします。されど、さてのみはとて、参らせたまひぬ。帝いとあわれに思しめしたり。


中宮は年ごろかかることやはありつる、故殿の一所おはせぬ故にこそはあめれど。あわれにのみ思さる。
内には人見るをりぞといふやうに、今めかしう、何ごとにつけても中宮をつねに恋しう思ひみこえさえたまへり
栄花物語より

道隆の薨去後、世は道長に流れつつあり、ここで伊周はおとなしくしているのが一番なのに大きな事件を起こしてしまいます。
いわゆる「長徳の変」


長徳2年(996年)頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通っていたのですが。
伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解します。
弟の隆家に相談すると隆家は長徳2年1月16日、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く事件を起こします。
しばらくは出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり花山院は口をつぐんでいましたが。
当然隠し続けられるわけもなく。

このころ定子の妊娠発覚一条帝の初めての御子が宿ります。


かう女御たち参りためへれど、今まで宮出でおはしまさぬことを、女院はいみじう思いしめし嘆かせたまへり。
中宮のただにもおはしまさぬを、さりともと頼もしう思しめすを
栄花物語より

しかし花山院襲撃事件の噂が広ま・・・・・世の中が道長派へ傾きつつあるこの頃中宮の御所では一つの噂話が流れ始めこれが清少納言の長い里籠りの原因となります。

里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ、人々はいひなすなる。いと有心にひき入りるおぼえ、はたなければ、さいはむも憎かるまじ。
また、昼も夜も、来る人を、なにしにかは、「なし」とも、かがやき返さむ。まことにむつまじうなどあらぬも、さこそはめぐれ。
あまりうるさくもあれば、「このたび、いづく」と、なべてには知らせず、左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知りたまへる
左衛門の尉(じよう)則光が来て物語などするに、

「昨日、宰相の中将のまゐりたまひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。言へ』といみじう問ひたまひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくにしゐたまひしこと」


などいひて、「ある事あらがふは、いとわびしくこそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左の中将の、いとつれなく知らず顔にて居たまへりしを、かの君に見だにあはせば笑ひぬべかりしにわびて、台盤のうへに布のありしを取りて、ただくひにくひまぎらはししかば、中間に、あやしのくひものやと見けむかし。されどかしこう、それにてなむ、そことは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用ぞかし。まことに知らぬなめりとおぼえたりしもをかしくこそ」
など語れば、
「さらに、な聞こえたまひそ」
などいひて、日ごろ久しうなりぬ。
夜いたくふけて、門をいたうおどろおどろしう叩けば、なにのかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、滝口なりけり。
「左衛門の尉の」
とて、文を持て来たり。皆寝たるに、火取り寄せて見れば、
「明日、御読(みど)経の結願(けちがん)にて、宰相の中将、御物忌に籠りたまへり『いもうとのあり所申せ申せ』とせめらるるにずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせたてまつるべき。いかに。おほせに従わむ」
といひたる、返事(かへりごと)は書かで、布を一寸ばかり紙につつみてやりつ。
さて後きて、
「一夜は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率てありきたてまつりし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御かへりはなくて、すずろなる布の端をばつつみてたまへりしぞ。あやしのつつみものや。人のもとに、さるものつつみておくるやうやはある。とりたがへたるか」
といふ。いささか心もえざりける、と見るがにくければ、ものもいはで、硯にある紙の端に、

かづきするあまのすみかをそことだに ゆめゆふなとやめをくはせけむ と書きてさし出でたれば、
「歌詠ませたへるか。さらに見はべらじ」
とて、扇かへして逃げて去ぬ。
かう語らひ、かたみに後見などするに、中になにともなくてすこし中あしうなりたるころ、文おこせたり。
「便なきことなどはべりとも、なほ契りきこえしかたは忘れたまはで、よそにてはさぞとは見たまへとなむ思ふ」
といひたり。つねにいふことは、
「おのれをおぼさむ人は、歌をなむ詠みて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ。今はかぎりありて絶えむ、と思はむ時にさることはいへ」
などいひしかば、この返りごとに、

くずれよる妹背の山のなかなれば さらに吉野の河とだに見じ
といひやりしも、まことに見ずやなりにけむ、返しもせずなりにき。さて、かうぶり得て、遠江(とうたあふみ)の介といひしかば、にくくてこそやみにしか。
完全にすねてますよね。

殿などのおはしまさでのち、世の中に事出でき、さわがしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、ひさしう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえたえてあるまじかりける
右中将おはして、物語し給ふ。
「今日宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣をりにあひ、たゆまでさぶらふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうてゐなみたりつるかな。御前の草のいとしげきを、『などか、かきはらはせでこそ』といひつれば、『ことさら露をかせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にていらへつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居いと心憂し。かかる所にすませ給はむほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、かひなく』と、あまたいひつる、語り聞かせたてまつれとなめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対の前にうへられたりける牡丹などの、をかしきこと。」
などのたまふ。
いさ、人のにくしと思ひたりしが、また、にくくおぼえ侍りしかば」といらへきこゆ
「おいらかにも」
とて笑ひ給ふ。
げにいかならむと思ひ参らする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、
「左の大臣の人、知るすぢにてあり」
とて、さしつどひものなどいふも、下より参る見ては、ふといひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、
「参れ」
など、たびたびある仰せごとをも過ぐして、げにひさしくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなたがにいひなして、そらごとなども出でくべし。
例ならず仰せごとなどもなくて日になれば、心ぼそくてうちながむるほどに、長、文を持てきたり。
「御前より、宰相の君して、しのびて給はせたりつる」
といひて、ここにてさへひきしのぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとくあけたれば、紙にはものもかかせ給はず。山吹の花びら、ただ一重をつつませ給へり。それに、
いはで思ふぞ
と書かせ給へる、いみじう、日比の絶え間なげかれつる、みななぐさめてうれしきに、長女もうちまもりて、
「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼしいできこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居、とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」
といひて、
「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」
といひていぬる後、御返事(かへりごと)かきて参らせむとするに、この歌の本、さらにわすれたり。
「いとあやし。おなじふることといひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、いひ出でられぬは、いかにぞや」
などいふを聞きて、前にゐたるが、
「『下ゆく水』とこそ申せ」といひたる、などかくわすれつるならむ。これに教へらるるもをかし。
御返し参らせて、すこしほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御木帳に、はたかくれてさぶらふを、
「あれは今参りか」
など笑はせ給ひて、
「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけり、となむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしもえこそなぐさむまじけれ」などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。
童に教へられしことなどを啓すれば、いみじうわらはせ給ひて、
「さることぞある。あまりあなづるふるごとなどは、さもありぬべし」
など仰せらるるついでに、
「なぞなぞあはせしける、方人にはあらで、さやうのことに、りやうりやうじかりけるが、『左の一はおのれいはむ。さ思ひ給へ』など頼むるに、さりともわろきことはいひいでじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作りいだし、選(え)りさだむるに、『その詞を、ただまかせて残し給へ。さ申しては、よもくちをしくはあらじ』といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。『なほこのことのたまへ。非常に、おなじこともこそあれ』といふを、『さは、いさ知らず。な頼まれそ』などむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、みな、方の人、男女ゐわかれて、見証の人など、いとおほくゐなみてあはするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることをいひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、『なぞ、なぞ』といふほど、心にくし。『天に張り弓』といひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人はものもおぼえず、みな、にくく愛敬なくて、あなたによりて、ことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、『いとくちをしく、をこなり』とうちわらひて、『やや、さらにえ知らず』とて、口をひき垂れて、『知らぬことよ』とて、さるがうしかくるに、かずささせつ。『いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじ』と論ずれど、『知らずといひてむには、などてか負くるにならざらむ』とて、次々のも、この人なむみな論じ勝たせける。いみじく人の知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ、なにしにかは、『知らず』とはいひし。後にうらみられけること」
など、語り出でさせ給へば、御前なるかぎり、
「さ思ひつべし」「くちをしういらへけむ」「こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」
なんど笑ふ。これはわすれたることかは、ただみな知りたることとかや

道隆が病死した後、左大臣になった道長は着々と権力を握ってゆき、大姫の入内も視野にしていたので、当然後宮は騒ぎ始めます。少納言は道隆と中宮定子に厚く信頼されていましたからここぞとばかりに女房達が避難しはじめたのでしょう。源実方や経房など道長と近しい間柄であったこともあろうが。
ちなみにこの枕草子が世に出たのは後者源経房が伊勢守だった長徳元年4月以降翌7月までの期間に清少納言邸を訪にはさんいたそうしを持ち帰り知られた逸話が最後に見える。


隆家は4月に宣旨が下され、ついに中宮定子の里内裏として二条宮に検非違使が御所に乱入。隆家伊周は捕獲されます。

母北の方、宮の御前御をじの人々例の涙にもあらぬ御涙ぞ出てきて、この恐ろしげなる者どもの宮の内に入り乱れたれば、検非違使どもいみじう制すれど、それにもさはるべきけしきならず。

栄花物語より
二人は中宮への配慮として5月15日伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留める勅が発せられる。
同地で隠棲していた伊周ですが、母貴子の病床の手紙を受け取るといてもいられず、ひそかに播磨国から逃亡して京へ10月初めに伊周は密かに入京し、母と再会中宮御所に匿われていたものの邸の主に密告され再度検非違使に逮捕され。
改めて大宰府へ護送されてしまいます。
中宮定子は頼りになる家族を失います。

実は長徳元年5月1日その逮捕の際に検非違使が中宮御所に乗り込み家族を逮捕するとい狼藉を見た定子は思わぬ事態に困惑してなんと、鋏で自分の髪を切ってしまいます

これは当時では出家したととらえられていました。

御車ども引き出ずるままに、宮は御鋏して御手ずから尼にならせたまひぬ
内には「この人々まかりぬ。宮は尼にならせたまひぬ。」と奏すれば、あはれ、宮はただにもおはしまさざらむにものをかく思はせたてまつることと、思しつずけて、涙こぼれさせためへば、忍びさせたまふ。
栄花物語



不幸は重ねるもので同年夏に実家の二条宮が全焼し(放火かもしれませんね)、10月下旬には母・貴子も没します。

宮はには尽きぬもせぬことを思し嘆くに、御腹高くなりもていきて、ただならぬことのみ思し知らるるにも悲しうなむ。
栄花物語

そんな中長徳2年12月16日第一子・脩子内親王を出産
ストレスの為に出産がひどく遅れ妊娠12か月ともいわれたそうです。

かくて上の御事はあさましくてやませたまひぬ。宮の御産のことも思し嘆かれけり。
十二月二十日のほどに、わざとも悩、あせたまはで、女御子生れさせたまへり。
栄花物語

一条天皇にとって最愛の人の初めての子で強く対面を望み女一宮が生後6か月同年6月参内します。

定子は尼姿(髪が短い)だったのでさすがに気がひけるものの高階成忠が御祈りしたところ夢で男宮が生まれる夢を見たと参内を薦め。
定子も産まれたわが子が父に会えないのも不憫と思い参内を決心します。
栄花物語はこの参内に女院と道長が薦めたと書きますが、????
しかも当日内裏には公卿はすべて東三条院にいて内裏には殿上人はいませんでした
なのに公卿以下中宮を迎えたと記述しています。
栄花物語自体御堂家(道長の一族)主導で書かれた歴史書なのでこの辺りは信ぴょう性低いですね。

参内の日、天皇は母東三条院へ行幸していてそれに伴い公卿も同行しています。
つまり手薄な大内裏の中宮職の職御曹司の深夜に再会していたのです。


上渡らせたまひて若宮見たてまつらせたまふ。えもいはずうつくしおはしまして、ただ笑ひ笑ひて物語せさせたまふ。
上の御前は今まで見ざりけるよと思しめすに、まず涙もうかせたまふべし。

自分の子供を抱いた喜びだけでは当然終わらないのが男女の仲

さて宮の御対面あるに、御几帳引き寄せていとけ遠くもてなしきこえたまへるほどもことわりなれど・・・・・・・・・中略・・・・・・・
古になほたちけへる御心の出でくれば、宮「いといとけしからぬことなり」など。よろずに申させためへど、それおも聞しめしいれぬさまに乱れさせたまふほどにかたはらいたげなり。

職御曹司に暁渡らせたまひて、そこにしばしおはしますべくしつらはせたまふ

栄花物語より
子供に会うだけでは終わらずに実質上の俗世へ帰る事になった中宮
しかし当然公卿の反感はあるので、公然と内裏には入れる事が出来ない事情が読みとれます。

長徳3年6月22日条「天下不甘心」
小右記より藤原実資筆
出家した中宮が再度入内するなどゆるすまじ!!!ってか。

以上が父関白道隆が薨去以前の中宮定子の外からの情報である。

さすがに女一宮のおじたちが左遷されたままではいけないと伊周と長徳3年4月許されて12月帰京します。

では枕草子から見た定子は?

中宮定子は大内裏の中宮職御曹司っで生活することになりました。

長徳3年6月から長保元年正月三日まで

では中宮職御曹司での定子の様子を枕草子から覗いてみます。

その記述から確実にそのころの出来事だけを記述します。
但枕草子の記述順は出来事順ではないのであしからず。

職の御曹司におはしますころ、木立などの、はるかにもの旧り、屋のさまも、高う気どほけれど、すずろにをかしうおぼゆ。
母屋は、「鬼あり」とて、南へ隔て出だして、南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ。
近衛の御門より、左衛門の陣にまゐりたまふ上達部の前駆(さき)ども、殿上人のは短ければ、「大前駆(おおさき)」「小前駆(こさき)」とつけて、ききさわぐ。
あまたたびになれば、その声どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」など言ふに、また、「あらず」などいへば、人して見せなどするに、言ひ当ててあるは、「さればこそ」など言ふもをかし。

有明のいみじう霧りわたる庭に、下りて歩くを聞し召して、御前にも起きさせたまへり。
上なる人々のかぎりは出でゐ、下りなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。「左衛門の陣にまかりみむ」とていけば、われもわれもと問ひつぎていくに、殿上人あまた声して、「なにがし一声の秋」と誦してまゐる音すれば、逃げ入り、ものなど言ふ。
「月を見たまひけり」など、めでて、歌詠むもあり。
夜も昼も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部まで参りたまふに、おぼろけに急ぐことなきは、かならず参りたまふ。

中宮御所とは名ばかりの職御曹司を女房達は珍しいのか物見がてらの様に散策しています。
内裏に入れないという悲壮感がまったくありませんね。意外です。

弘微殿とは、閑院の左大将の女御をぞきこゆる。
宮の職におあしみしに(源宜方・中将)まいりて、「時々は宿直などもつかうまつるべけれど、さべきさまに女房などももてなしたまねば、いと宮仕えへ疎かにっさぶらふこと。宿直所をだに賜はりたらば、いみじうまめにさぶらひなむ。」
と、いひいたまへれば

義子は公季の大姫で長徳2年(996年)7月20日夕に入内したので、ここの記述の頃はそれ以降になります。
ここで言えるのはこの時期道長が太政官を抑えて尚、若い公達は不遇の定子の元で入りしていたという事実

これ驚きました。なんせ時の道長は何でもできる権力がありました。
それにもかかわらず殿上人、公達が会っている。
何故か???ここを紐といていきます。

故殿の御服のころ、六月のつごもりの日、大祓といふことにて、宮のいでさせ給ふべきを、職の御曹司をかた悪しとて、官の司の朝所にわたらせ給へり。その夜さり、暑くわりなき闇にて、なにともおぼえず、せばくおぼつかなくてあかしつ。つとめて、見れば、屋のさまいとひらにみじかく、瓦ぶきにて唐めきさまことなり。例のやうに格子などもなく、めぐりて御簾ばかりをぞかけたる。なかなかめづらしくてをかしければ、女房、庭におりなどしてあそぶ。前裁に萱草といふ草を、ませゆひて、いとおほくうゑたりける。花のきはやかに、ふさなりて咲きたる、むべむべしき所の前裁にはいとよし。時司(などはただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、わかき人々二十人ばかり、そなたにいきて、階よりたかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、あるかぎり薄鈍の裳、唐衣、おなじ色の単襲、くれなゐの袴どもを着てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空よりおりたるにや、とぞ見ゆる。おなじわかきなれど、おしあげたる人は、えまじらで、うらやましげに見あげたるも、いとをかし。
 
左衛門の陣までいきて、倒れさわぎたるもあめりしをかくはせぬことなり。上達部のつき給ふ椅子などに、女房どものぼり、上官などのゐる床子(さうじ)どもを、みなうち倒しそこなひたり」など、くすしがるものどもあれど、聞きも入れず。
屋のいとふるくて、瓦ぶきなればにやあらむ、暑さの世にしらねば、御簾の外にぞ夜も出で来ふしたる。ふるき所なれば、むかでといふもの、日一日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集まりたるなどぞ、いとおそろしき。

道隆のまだ喪の開けない頃、職御曹司では方向が悪いので太政官庁の朝所という場所に移り住んだ頃、あまりの暑さにその塔の上に女房達が上がって大騒ぎした様子。
悲壮感があまりないですね。いったとこのない場所への冒険心すら感じます。

殿上人日ごとに参り、夜も居あかしてものいふをききて
「豈はかりきや、太政官の地の、今夜行の庭とならむことを」
と誦しいでたりしこそ、をかしかりしか。

宰相中将斉信、宣方中将、道方の少納言など参り給へるに、人々出でてものなどいふに、ついでもなく、
明日はいかなることをか」
といふに、いささか思ひまはしとどこほりもなく、
「人間の四月をこそは」
といらへ給へるが、いみじうをかしきこそ。

やはりそうそうたるメンバーが朝所まできています。

一条の院をば今内裏とぞいふ。(帝が)おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿に(中宮定子が)おはします。西東は渡殿にて、(帝が)わたらせ給ひまう(中宮定子が)のぼらせ給ふみちにて、まへは壺なれば、前裁うゑ、籬結ひていとをかし。

二月二十日ばかりの、うらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂(ひさし)にて、上の御笛吹かせ給ふ。
高遠の兵部卿、御笛の師にてものし給ふを、御笛二つして高砂ををりかへして吹かせ給ふは、なほいみじうめでたしといふも世の常なり。御笛のことどもなど奏し給ふ、いとめでたし

内裏が焼けて一条院を内裏に定めて帝と定子の仲睦ましい様子を伝える枕草子
このころはまだ彰子が入内前で他に女御がいても二人の仲は大変良かった。
再び長徳四年定子は再び懐妊します。


そして中宮は宮中を退出するのですが。
退出場所が問題ですなんせ里は焼失していますし。
中宮大夫も辞退して決まらずしかたなく中宮職のナンバー3平生昌の邸があれがわれます。
しかも行啓時には道長の宇治散策のお供で公卿はほぼゼロに中宮の元には身内だけという寒しい行列になってしまいます。
道長のいやがらせは今に始まった事ではなく関白道隆が生前から中宮大夫に任ぜられても職務を放棄したり法起寺の供養の際には中宮の行啓の共をするのですが、姉詮子の行啓で下襲を人に見られたから同じものをつけたくないという理由だけで、下襲を新たに縫わせたために中宮の到着が遅れたりと・・・・・・・・・我儘・・・・まあ権力者にありがちですね。

枕草子の最初の頃の記述

大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。
当時宮の邸の門は四つ足門でないといけないのですが、平生昌はけちって門のサイズをちいさく建ててしまいました。
宮は輿に乗って入られますが、女房達は車ごと。どうせみられやしないと普段の様子で入いろうとしたが門がちいさすぎて入らない。しかたなく手入れのしていない姿のまま人目にさらされたことを生昌にこっぴどくいやみをいうあの段です。

この時の中宮はマタニティーブルーの様子はみうけられず、生昌に同情的です。

御前に参りて、ありつるやう啓すれば、
「ここにても、人は見るまじうやは。などかはさしもうちとけつる」と笑はせ給ふ。

「なにごとぞ。生昌がいみじうおじつる」と問はせ給ふ。
「あらず。車の入り侍らざりつることいひ侍りつる」と申して下りたり

つとめて、御前に参りて啓すれば、
「さることも聞こえざりつるものを。よべのことにめでて行きたりけるなり。
あはれ、かれをはしたなう言ひけむこそいとほしけれ」と笑はせ給ふ。

「さてこそは、うはおそひ着たらむわらはも、まゐりよからめ」といふを、
「なほ、例の人のやうに、これかくな言ひ笑ひそ。いと謹厚なるものを」と、いとほしがらせ給ふもをかし

宮の女房達にからかわられる生昌にひどくかばっていますね。この時の妊娠には問題がなかったようです。

長保元年11月7日中宮大進平生昌邸にて敦康親王誕生

しかし同日に藤原道長の長女彰子が女御宣下を受けて入内
藤原彰子
長保元年(999年)2月9日、裳着と同日に従三位。

大殿の姫君十二にならせたまへば、年の内に御裳着ありて、やがて内に参らせたまはむといそがせたまふ。


屏風よりはじめ、なべてならぬさまし具せさせたまひて、さるべし人々やむごとなき所どころには歌は詠ませたまふ

花山院、藤原行成(三筆の一人)、藤原公任も和歌をよせていた。
当時名だたる公卿の和歌を女御の入内の調度品に加えるなど前例がなかった。堅物でゆうずのきかない藤原実資はガンと拒否したといいます。

さて中宮定子の方はというと普通だと気がきではないと思うのに一条帝の寵愛は陰りがなく
中宮の御方は殿上人も細殿つねにゆかしうあらまほしけげにぞ思ひたりし。弘徽殿、承香殿、暗部屋など参りこませたへり。されどさるべき御子たちも出でおはしまさで、中宮のみこそは、かくて御子あまたあはしますめれ。
#この時まだ敦康親王はあ誕生していない。栄花物語は年代にあわない箇所があり。

さて藤壺に住をかまえた彰子の御殿の調度品は贅を極めていた。一条天皇は大変な文化人で教養の豊かな人物で、しかもりっぱな成人かたや彰子はようやく十二歳(今の年だとまだ十一歳・小学生です。)
大学生に小学生を嫁入りさせた感覚。当然いきなり鍾愛など無理。そこで煌びやかな要素が重要視されます。

いといむじうあさましうさまことなるまでしつらえはせたまへり。御几帳御屏風襲いまでみな蒔絵、螺鈿をさせたまへり。
中略
上藤壺に渡らせえたまへれば、御しつらえ有様はさもこそあらめ、女御の御有様もてなし、あはれめでたく思し見てたてまつらせたまふ。姫宮をかやうにおぼしたてまつらばやと思しめさるべし。

目線は父親感半端ありません。当分寵愛は無理な様子なのに栄花物語は完全無視

弘高が歌絵かきたる冊子に行成君の歌かきたるなどいみじうをかしう御覧ぜらる。「あまりもの興じするほどにむげに政知らぬ白物にこそなりぬべきかめれ」など仰せられつつぜ帰らせたまひける。

あまりに幼き御有様なれば、参りよれば翁とおぼえて、われはずかしうぞ」などのたまふはするほども。ただいま二十ばかいりにおはしめすめる。中略


そりゃそでしょ!!!

うちとけぬ有様なれば、「これうち向きて見たまへ」と申されせたまば、女御殿「笛をば声こそ聞け、見るやうやはある。」とて、聞かせたまはねば、「さればこそこれや幼き人七十の翁のいうことをかくのたまふよな。あな恥ずかしや」と戯れきこえせたまふほども

まだまだ年月がかかりますね。


中宮定子は喜びと不安がいりみだれての日だったでしょう。

かくて参らせたまふこと、長保元年十一月一日のことなり。女房四十人、童女六人、下仕六人なり。
11月1日一条天皇に入内し同月7日に女御宣下

源氏物語以降の王朝文学にこの人数が入内鉄板人数となる。


この四月の一日ごろ、細殿の四の口に殿上人あまた立てり。
やうやうすべり失せなどして、ただ頭中将、源中将、六位ひとりのこりて、よろづのことをいひ、経よみ、歌うたひなどするに
「あけはてぬなり。かへりなむ」とて、
「露はわかれの涙なるべし」
といふことを、頭中将のうちいだし給へれば、源中将ももろともに、いとをかしく誦んじたるに、
「いそぎける七夕かな」
といふを、いみじうねたがりて、
「ただあかつきのわかれ一筋を、ふとおぼえつるままにいひて、わびしうもあるかな。すべて、このわたりにて、かかること、思ひまはさずいふは、いとくちをしきぞかし」
など、返す返すわらひて、
「人にな語り給ひそ。かならずわらはれなむ」
といひて、あまりあかうなりしかば、
「葛城の神、いまぞずちなき」
とて、逃げおはしにしを、七夕のをりにこのことをいひいでばやと思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、かならずしもいかでかは、そのほどに見つけなどもせむ、ふみかきて、殿司(とものづかさ)してもやらむ、など思ひしを、七日に参り給へりしかば、いとうれしくて、その夜のことなどいひいでば、心もぞえ給ふ、ただすずろにふといひたらば、あやしなどやうちかたぶき給ふ、さらばそれにを、ありしことばいはむ、とてあるに、つゆおぼめかでいらへ給へりしは、まことにいみじうをかしかりき。月ごろいつしかと思はへたりしだに、わが心ながらすきずきしとおぼえしに、いかでさ思ひまうけたるやうにのたまひけむ。もろともにねたがりいひし中将は、おもひもよらでゐたるに、
「ありし暁のこと、いましめらるるはしらぬか」
とのたまふにぞ、
「げに、げに」
とわらふめる、わろしかし。
人と物いふことを碁になして、ちかう語らひなどしつるをば、
「手ゆるしてけり。結さしつ」
などいひ、
「男は手うけむ」
などいふことを、人はえ知らず、この君と心えていふを、
「なにぞ、なにぞ」
と源中将はそひつきていへど、いはねば、かの君に、
「いみじう、なほこれのたまへ」
とうらみられて、よきなかなれば聞かせてけり。あへなくちかくなりぬるをば、
「おしこぼちのほどぞ」
などいふ、我も知りにけりと、いつしか知られむとて、
「碁盤侍りや。まろと碁うたむとなむ思ふ。手はいかが。ゆるし給はむとする。頭中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」といふに、
「さのみあらば、さだめなくや」
といひしを、またかの君に語りきこえければ、
「うれしういひたり」
とよろこび給ひし。なほすぎにたること忘れぬ人は、いとをかし。

宰相になり給ひしころ、上の御前にて、
「詩をいとをかしう誦じ侍るものを。蕭會稽之過古廟なども、誰かいひ侍らむとする。しばしならでもさぶらへかし。くちをしきに」
など申ししかば、いみじうわらはせ給ひて、
「さなむいふとて、なさじかし」
などおほせられしもをかし。されど、なり給ひにしかば、まことにさうざうしかりしに、源中将おとらず思ひて、ゆゑだち遊びありくに、宰相中将の御うへをいひいでて、
「『いまだ三十の期に及ばず』といふ詩を、さらにこと人に似ず誦じ給ひし」
などいへば、
「などてかそれにおとらむ。まさりてこそせめ」
とてよむに、
「さらに似るべくだにあらず」
といへば、
「わびしのことや。いかであれがやうに誦ぜむ」
とのたまふを、
「三十の期、といふ所なむ、すべていみじう愛敬づきたりし」
などいへば、ねたがりてわらひありくに、陣につき給へりけるを、わきによびいでて、
「かうなむいふ。なほそこもと教へ給へ」
とのたまひければ、わらひて教へけるもしらぬに、局のもとにきて、いみじうよく似せてよむに、あやしくて、
「こは誰そ」
と問へば、笑みたる声になりて、
「いみじきことをきこえむ。かうかう、昨日陣につきたりしに、とひききたるに、まづ似たるななり。『誰ぞ』と、にくからぬけしきにてとひ給ふは」
といふも、わざとならひ給ひけむがをかしければ、これだに誦ずれば出でてものなどいふを、
「宰相中将の徳をみること。その方に向ひて拝むべし」
などいふ。下にありながら、
「上に」
などいはするに、これをうちいづれば、
「まことはあり」
などいふ。御前にも、かくなど申せば、わらはせ給ふ。
内裏の御物忌なる日、右近の将監みつなにとかやいふものして、畳紙にかきておこせたるをみれば、
「参ぜむとするを、今日明日の御物忌にてなむ。三十の期に及ばずはいかが」
といひたれば、返りごとに、
「その期は過ぎ給ひにたらむ。朱買臣が妻を教へけむ年にはしも」
とかきてやりたりしを、またねたがりて、上の御前にも奏しければ、宮の御方にわたらせ給ひて、
「いかでさることは知りしぞ
『三十九なりける年こそ、さはいましめけれ』とて、『宣方はいみじういはれにたり』といふめるは」
とおほせられしこそ、ものぐるほしかりける君とこそおぼえしか。


職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中将とのゐにて、ものなどいひしに、そばにある人の、「この中将に扇の絵のこといへ。」とささめけば、「今、かの君の立ちたまひなむにを。」といとみそかにいひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、「何とか、何とか。」と耳をかたぶけ来るに、遠くゐて、「にくし、さのたまはば、けふは立たじ。」とのたまひしこそ、いかで聞きつけたまふらむとあさましかりしか。

大殿の新中将とは藤原成信で長徳四年十月二十二日に就任しているからこのころはそれ以降
この大殿とは道長で大殿のは成信が道長の猶子だったから。彼が義理の叔父にあたるため準養子になっていた。
いわば道長一派なので中宮に宿直にしていても女房ごときにつかいっぱしりなど「けしからぬこと!!」と憤慨している。
道長の闇が見え暗い感じがしますね。

長徳四年五月頃
清少納言のなんだかハンストともいえそうな行動

五月の御精進のほど、職におはしますころ、塗籠の前の二間なる所を、ことにしつらひたれば、例様ならぬもをかし。 一日より雨がちに、くもりすぐす。つれづれなるを、
の声たづねに行かばや」
といふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奥に、なにさきとかや、たなばたの渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし
「その渡りになむ公郭なく」
と人のいへば
「それは日ぐらしなり」
といふ人もあり。そこへとて、五日のあしたに宮に車の案内こひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞとて、さしよせて四人ばかり乗りていく。うらやましがりて、
「なをいまひとつして、同じくは」
などいへど、まなと仰せらるれば、聞き入れず、なさけなきさまにていくに、馬場といふ所にて人おほくてさはぐ。
「なにするぞ」
と問へば 「手番ひにて、まゆみ射るなり。しばし御覧じておはしませ」
とて、車とどめたり。
「左近中将、みなつき給ふ」
といへど、さる人も見えず。六位などたちさまよへば、
「ゆかしからぬことぞ、はやくすぎよ」
といひて、いきもてゆく。道も祭りのころ、思ひいでられてをかし。
かくいふ所は、明の朝臣の家なりける。
「そこもいざ見む」
といひて、車よせておりぬ。田舎だち、ことそぎて、馬のかたかきたる障子、網代屏風、三稜草(みくり)の簾など、殊更にむかしの事をうつしたり。屋のさまもはかなだち、廊めきて、はし、ぢかにあさはかなれどをかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりになきあひたる公郭の声を、くちをしう御前にきこしめさせず、さばかりしたひつる人々を、と思ふ。所につけては、かかることをなむ見るべきとて、稲というものをとりいでて、わかき下衆どもの、きたなげならぬ、そのわたりの家のむすめなどひきもて来(き)て、五六人してかこせ、また、見もしらぬくるべくもの、二人してひかせて歌うたはせなどするを、めづらしくて笑ふ。公郭の歌よまむとしつる、まぎれぬ。
唐絵にかきたる懸盤してものくはせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ
「いとひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、せめいだしてこそまゐるべけれ。むげにかくては、その人ならず」といひてとりはやし、
「この下は手づからつみつる」などいへば、
「いかでか、さ、女官などのやうに着きなみてはあらむ」
などわらへば
「さらば、とりおろして。例のはひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」
とて、まかなひさわぐ程に、
「雨ふりぬ」といへば、急ぎて車にのるに、
「さて、この歌は、ここにてこそよまめ」
などいへば、
「さはれ、道にても」などいひて皆のりぬ。
卯の花のいみじうう咲きたるをおりて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、をそひ、むねなどに、ながき枝をふきたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根を牛にかけたるぞと見ゆる。ともなる男どももいみじう笑ひつつ、
「ここまだし、ここまだし」とさしあへり。
人もあはなむと思ふに、さらにあやしき奉仕、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口をしくてちかく来ぬれど、
「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ人に語らせてこそやまめ」
とて、一条殿ほどにとどめて、
「侍従殿やおはします。公郭(ほととぎす)の声ききて今なむかえる」といはせたる。つかひ、
「『ただいままゐえる。しばし、あが君』となむのためへる。侍にまひろげておはしつる、急ぎたちて、指貫たてまつりつ」といふ。
「待つべきにもあらず」
とてはしらせて、土御門ざまへやるに、いつのまにか装束きつらむ、おびは道のままにゆひて、
「しばし、しばし」とおひくる、供に侍三四人ばかり、ものもはかではしるめり。
「とくやれ」
といとどいそがして、土御門にいきつきぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。
「現(うつ)の人の乗りたるとなむ、さらに見えぬ。なほおりて見よ」など笑ひ給へば、供にはしりつる人、ともに興じ笑ふ。
「歌はいかが。それきかむ」とのたまへば、
「今御前に御覧ざせて後こそ」などいふ程に、雨まことふりぬ。
「などか、こと御門御門のやうにもあらず、土御門しもかうべもなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、
「いかでかえらむとすらむ。こなたざまはただをくれじと思ひつるに、一目もしらずはしられつるを、奥いかむことこそ、いとすさまじれ」とのたまへば、
「いざたまへかし、内裏へ」といふ。
「烏帽子にてはいかでか」「とりにやりたまへかし」
などいふに、まめやかにふれば、かさもなき男ども、ただひきにひきいれつ。一条殿よりかさ持て来たるをささせて、うちみかへりつつ、こたみはゆるゆるとものげにて、卯の花ばかりをとりておはするもをかし。
さてまゐりたれば、ありさまなどとはせ給ふ。うらみつる人々、怨じ心うがりながら、藤侍従の、一条の大路はしりつるかたるにぞ、皆笑ひぬる。
「さていづら、歌は」とはせたまへば
「かうかう」と啓すれば
「口おしの事や。うへ人などの聞くかうむに、いかでか露をかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそはよまましか。あまり儀式定めつらむこそあやしけれ。ここにてもよめ。いといふかひなし」
などのたまはすれば、げにと思ふにいと侘しきを、いひあはせなどする程に、藤侍従、ありつる花につけて、卯の花の薄様にかきたり。この歌おぼえず。これがかへしまづせむなど、硯とりに局にやれば、
「ただこれして、とくいへ」とて御硯蓋に紙などしてたまはせたる
「宰相の君、かき給へ」といふを、
「なほそこに」
などいふ程に、かきくらし雨ふりて、神いとおそろしう鳴りたれば、ものもおぼえず、ただおそろしきに、御格子まゐりわたしまどひし程に、この事も忘れぬ。
いとひさしうなりて、すこしやむほどには、くらうなりぬ。ただいま、なほ、この返事(かへりごと)たてまつらむとて、とりむかふに、人々、上達部(かんだちめ)など、神のこと申しにまゐり給へれば、西面にいでゐて、もの聞こえなどするに、まぎれぬ。こと人はたさして得たらむ人こそせめ、とてやみぬ。なほ、この事に宿世なき日なめり、と屈(くん)じて、
「今はいかでささむいきたりし、とだに人におほく聞かせじ」など笑ふ。
「今もなどか、そのいきたりしかぎりの人どもにていはざらむ。されどさせじと思ふにこそ」
とものしげなる御けしきなるも、いとをかし。されど、
「いまはすさまじうなりにて侍るなり」と申す。
「すさまじかべきことか、いな」と仰せらるるもいとをかし。
公たづねて聞きし声よりも とかきて参らせたれば、
「いみじううけばりけり。かうだにいかで公郭のことをかけつらむ」とて笑はせ給ふもはづかしながら、
「なにか。この歌よみ侍らじとなむ思ひ侍るを。もののおりなど人のよみ侍らむにも、『よめ』など仰せられば、えさぶらふまじき心地なむし侍る。いといかがは、文字の数しらず、春は冬の歌、秋は梅花の歌などをよむやうは侍らむ。なれど、歌よむといはれし末々は、すこし人よりまさりて、『そのおりの歌はこれこそありけれ。さはいへど、それが子なれば』などいはればこそ、かひある心地もし侍らめ。露とりわきたるかたもなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初によみ出で侍らむ、なき人のためにもいとほしう侍る
とのたまはせしかど、さてやみにき。
二日ばかりありて、その日のことなど言ひ出づるに、宰相の君、
「いかにぞ、手づからおりたりといひし、下蕨は」
とのたまふを聞かせ給ひて、 「思ひ出づることのさまよ」
と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、
下蕨こそ恋しかりけれ
とかかせ給ひて、
「本いへ」
と仰せらるるもいとをかし


あれほ中宮にこわれた時には必死に和歌を詠んでいたのに実は和歌が苦手というか偉大な父と祖父の歌人としてもプレッシャーに耐え切れない清少納言がいた。
この頃には中宮にも思いを言える関係であったか。やはりすねている系の何かがあったのでしょう。
このあとの庚申の夜に内大臣に和歌を強要されそうになった時もしっかり拒否り中宮の助けを受けて逃れます。


彰子が入内してから三か月後くらいの中宮周辺は

五月ばかり、月もなういと暗きに、「女房やさぶらひたまふ。」と声々して言へば、「いでてみよ。例ならず言ふは誰ぞとよ。」と仰せらるれば、「こは、誰そ、いとおどろおどろしうきはやかなるは。」と言ふ。ものは言はで、御簾をもたげてそよろとさし入るる、くれ竹なりけり。「おい、この君にこそ。」と言ひわたるを聞きて、「いざいざ、これまづ殿上に行きて語らむ。」とて、式部卿の宮の源中将、六位どもなど、ありけるは往ぬ。

頭の弁はとまりたまへり。「あやしくても往ぬる者どもかな。御前の竹を折りて、歌よまむとてしつるを、「同じくは職に参りて、女房など呼びいで聞えて。」と持て来つるに、くれ竹の名をいととく言はれて往ぬるこそいとほしけれ。誰が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬことをば言ふぞ。」などのたまへば、「竹の名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらむ。」と言へば「まことに、そは知らじを。」などのたまふ。
まめごとなどもいひあはせてゐ給へるに、
「うへてこの君と称す」
と誦じて、また集まりきたれば
「殿上にていひ期しつる本意もなくては。など、かへり給ひぬるぞと、あやしうこそありつれ」
とのたまへば、
「さることには、なにのいらへをかせむ。なかなかならむ。殿上にていひののしりつるを、上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」
と語る。頭弁もろともに、同じことを返す返す誦じ給ひて、いとをかしければ、人々、みなとりどりに、ものなどいひあかして、かへるとてもなほ、同じことを、諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。
とのたまへば、
「さることには、なにのいらへをかせむ。なかなかならむ。殿上にていひののしりつるを、上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」
と語る。頭弁もろともに、同じことを返す返す誦じ給ひて、いとをかしければ、人々、みなとりどりに、ものなどいひあかして、かへるとてもなほ、同じことを、諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。
とて、うち笑ませ給へり。誰が事をも、殿上人ほめけりなどきこしめすを、さいはるる人をも、よろこばせ給ふも、をかし

中宮定子には喜ばしい出来事です。
非難まじりで入内していましたから殿上人が遊びついでにやってきて清少納言がしっかり対応する。
頼もしい限りだったでしょう。

長保2年(1000)2月25日 彰子皇后に冊立され「中宮」を号した。この時定子皇后に冊立
一人の天皇に二人の后が立ちます。
この時さすがの道長も独断で強硬することを控え姉詮子の同意と側近藤原行成の進言を得て彰子を中宮に立后させます。
その時の理由が中宮定子は出家した身なので春日社の使いの役割を果たせないというものだった。

敦康親王出産後すぐに定子は再び妊娠します。
「これをうれしと思ふべきにもはべらず。今年は慎むべき年にもあり。宿曜などにも心細くのみ言ひてはべれば、なほいとこぞさあむにつけても心細かるべけれ」

この妊娠は今までと違って初期の頃から心身ともに不安定だったようです。

あわれに悲しきこと多く聞こえさせたまひて、御袖も一つならず濡れさせたまふ。

その後つゆ物もきこしめさで、ただ夜昼涙に浮きてのみおはしませば、帥の殿も中納言殿もいみじう大事に思し嘆きたり。

御おととの四の御方をぞ、今宮の御後見よく仕まつらせたまふべきやうに。うち泣きてぞのたまはせける。

月日過ぎ行くままに皇后宮はいとどものをのみ思し嘆くべし。

三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿などもてまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣など、薬玉して姫宮、若宮につけたてまつらせ給ふいとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て来たるを、あをき薄様を、艶なる硯の蓋にしきて、
「これ、ませ越しにさぶらふ」
とてまゐらせたれば、
みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける
この紙の端をひきやらせ給ひてかかせ給へる、いとめでたし。

明るい定子がこの時の妊娠ほど不安にしていた頃はありません。
二人目の妊娠して宿下がりしていた際には平への気つかいも見せていましたが今は余裕はありません。
お菓子をすすめる少納言に「皆がうきうきしている楽しい日をあなただけが私のこの悲しみを知っている」と弱音をはいています。

彰子は4月30日に還行して入内して端午の節句の宮中行事にそなえます。
この日内裏では一条帝と公卿そしてその中に最大の権力者道長とその娘中宮彰子が帝の隣にいれ「菖蒲の節句」を晴れやかに行われています。
かたや自分は誰も祝いにこずにその中にもいない。そんな身の上を悲しんでいます。


御乳母の大輔の命婦、日向へくだるに、たまはする扇どもの中に、かたつかたは、日いとうららかにさしたる田舎の館などおほくして、いまかたつかたは京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
   あかねさす日に向かひても思ひいでよ 都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、えゆくまじけれ。

御乳母大輔の命婦は高階光子で叔母にあたります。
その叔母の夫が日向国の国司に選ばれて妻である叔母も定子の元を離れます。
これは道長の嫌がれせ、前記の五月の節句の後の記載と長雨から6月と解釈できるので当時は彰子と定子が同時に一条帝の正妃となっている。しかも定子は一条帝の長男まで生んでいます。
気が気ではありません。
三子目を妊娠中の定子はそれでなくても妊娠中毒症で体調が悪い頃かなり打撃です。
                 
かくて八月ばかりになれば、皇后宮にjはいともこころ細く思されて明け暮れは御涙にひちて、あはれにて過ぐさせたまふ。


長保二年十二月十五日媄子内親王誕生・皇后定子逝去

かかるほど御子生れたまへり。女におはしますを口惜しけれど、さはれ平らかにおはしますを勝ることなく思ひて、今は御事なりぬ。
中略いと久しうなりぬれば、なほいといとおぼつかなし。
「御殿油近う持て来」とて、帥殿御顔を見たてまつりたまふに、むげになき気色なり。
あさましくてかいさぐりたてまつりたまえばやがて冷えさせたまにひけり。

宮は今年ぞ二十五にならせたまうける。

清少納言は楽しい頃の中宮御所を記述しているのはやはり定子の御所がいかに輝かしい場所であったかを残したかったのでしょう。これが逆に自慢話にとらえられ口やかましい辛口論者の紫式部にちくりと言われた原因か。
皇后に追いやられても職の御曹司という場所にいて尚、殿上人が定子の御所に出入りしていたという事実は興味深いです。
かわって物静かで地味好きな定子の御所には若い公達はあまり寄り付かなかったのでしょう。
ただ彰子も性格が優しく物静かで義母として敦康親王をかわいがり、一条帝が東宮にと意向を尊重したり一時父とも不和になったりして手堅い人物。なるほどよい組み合わせ
派手好き明るい中宮定子=教養深く快活な清少納言
地味中宮彰子=地味手堅い紫式部

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