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「待賢殿宮廷の雅・装束と調度品下賜品展示お手伝い&有職装束大全出版記念パーティー」

待賢殿の展示会と八條先生の御本出版記念パーティーがあり弟子としては駆けつけねばと急遽決まった武蔵国もうで
今回は前泊込みです。

行きの交通をぷらっとこだまかジェットスターかで迷い・・・・・・・・・・・。
早すぎるのもどうかなとも思い・・・・・・・・。ゆっくりいった方がいいのかな???

新幹線か
でもこの前とんでも事件があったばかりだし・・・・・・・でもぷらっとだしと散々悩み結局ぷらっとで!!!
新幹線って久しぶりそういえば去年広島行きはのったっけ・・・・・・・
退屈しのぎに持参物もいろいろ揃えまぁのんびり行くのもいいかな。

と!!行きは「ぷらっとこだま」に決定夜行バスと値段がそんなにかわらない。
片道とドリンク券がついて10500円です。

こだまなので4時間かかります。
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午前中に新大阪駅で弁当やおやつを購入していざ入場

こだまの中でぽりぽりつまみ食いしながら本なんか読んで景色をぼ~~~と眺める。
もう少し早めにつけば待賢殿の展示会にお手伝いが出来たのですが・・・・・
へんに中途半端で来てもお役にたてれるかどうか不安だったので、当日にお伺いします。


ゆっくりIN東京

今回は地震の影響で中之島図書館の書庫が破損の為に出庫出来貴重な古典本を見る事が出来なくなっています。
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と思い立ち以前から行きたかった永田町の「国立国会図書館」
ない本はないといっても過言ではない!!!
なんせ「本という本は収納すべし」がコンセプトへたすりゃコミケ系もあるかも漫画もあるし・・・・。

ここは一番蔵書率が高いので一度来たかったのですがなんだかんだ訪問せずで
蔵書4,266万2,279点 年間受け入れ79万5,757点

図書館といえど貸し出しはしていません。
しかも事前に登録を行なわないと書庫の本さえ見れないので事前登録済です。
勿論登録済初入場は東館の入り口へ。

一度に借りれる本は書籍&雑誌計6冊までかつしかも借りと複写その都度時間がかかります。

半日いても借りられるのは少ない事前に本の優先順位を決めてから効率よく動かないといけません。
入館手続をしてから資料室へ。

さすがに一級品の品ばかり・・・・・絶版&貴重な品がいっぱいです。
❤❤❤図書館でこのロゴ変ですよね。気を付けないと興奮しすぎで鼻血出るかも‥‥
なんせ本屋で熱中しすぎてよく貧血で倒れてました・・・・・最近はもっぱら図書館~~~~
夏は涼しく冬はあったか入場無料最高~~~~

事前に書籍雑誌の題を検索して館内のPCで貸し出し登録

「采女の装束・平安朝童装束に関する考察汗衫について・西宮記女装束条について・服飾からみる平安時代のわらわの姿・王朝雅の文化・うつぼ物語における装束の色彩表現について・雅亮装束抄考証・たまきはる全注釈・平安朝における五節舞姫装束・重ね色目高田装束店・四条宮下野集」

かなりの量だ~~~~閉館までがんばろ~~~~

情報は【こちら】


前日に東京IN宿泊は勿論いつもの和草です。
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夕方に浅草ぶらぶらキナナでマンゴー&抹茶NO5のダブルでクールダウンNO1
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境内は夏模様
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夕食は蕎麦
再び散歩「まるごとにっぽん館」発見
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しっかりいただきました。クールダウンNO2
おいしゅうございました。

お店の情報は【こちら】


でいつもの和草ここは大浴場が最高にいい。
カプセルも悪くないし。
きれいではないけど我慢できないほどでもない。


翌日
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10時に展示会オープンなのでその前におじゃまして先生にお品の数々をレクシャー
開店後はお忙しいので、できればご案内出来る様にしっかり学習せねば。
しかしガラス越しでなくてこんなに貴重な物をがつんと見れるなんて~~~~~さすが目利きでいらっしゃる。


14時35分から装束の着付けデモンストレーションの為に「装束や物具を搬入」往復作業に汗だく~~~~~


リーガルロイヤルホテル東京
で!先生の出版記念パーティー会場

待賢殿生徒主催
有職装束大全出版記念パーティー

御方は西鄕隆盛の御子孫のご夫妻~~~すごすぎ~~~

撤収を行い待賢殿に!!!20時解散~~~~新宿で夜行バスでトンボ帰りなのです。
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少し時間があるので果実園でパフェ
さすがに美味しい甘くてジューシー最高~~~~


ファ~~~なんかバタバタの一日
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暑きこと世に知らぬほどなり。第二段

暑いってのはなぁ~世の中が知らへんってことがないくらいに暑い~~~ねん

連日の猛暑・・・・・平安の事は極暑といっていたそうなあ~~~
今回は不意打ちの京詣で
陶あんさんの陶器市出店とシークレットセールの案内にキタキタ~~~~~!!!

まずは祇園四条でで降りて六道珍皇寺へ。
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入り口のお店で高野槇を買います。
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木の札に戒名を描いてもらい、線香にくぐらせて清めます。
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鐘をついて、各地蔵さんにお参りして
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高野槇を使いお札に水で清めて刺してゆきます。

閻魔大王様にもお参り


平安前期の延暦年間開基
珍皇寺はもと真言宗で、平安・鎌倉期には東寺を本寺として中世の兵乱にまきこまれ荒廃します。
南北朝期の貞治3年(1364年)建仁寺の住持であった聞溪良聰が再興・改宗して現在は大椿山と号し、臨済宗建仁寺派の寺院です。
五山の送り火に終る盂蘭盆の前に参拝します。
8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂 みたま)を迎えるために参詣する風習があります。
「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」といいます。

午前6時〜午後10時開門時間
平安時代この辺りは墓所の鳥辺山の麓で、俗に六道の辻と呼ばれた京の東の葬送の地であったこと
まさに生死の界(冥界への入口)でお盆には、冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられた事に由来しています。

六道とは、
仏教の教義でいう地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅(阿修羅)道(しゅら)・人道(人間)・天道の六種の冥界
人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生するという。
この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境の辻が、古来より当寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきました。

早朝にいかないと長蛇の列です。猛暑にはきつい
ちなみに我が家は6日に初盆僧侶の読経があったので前日の5日に父が帰ってきていることになっているので。。。。
まあぁ~~~外出中の御挨拶&戻り後の御挨拶を兼ねての訪問になりました~~~~~。

観光の情報は【こちら】
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こちらの神社の催事がこの陶器市だそうです。
で 清水陶器まつり

陶器市 泉涌寺周辺の陶工が主に清水焼であるのですが、生地が素朴でありながらやはり絵付けが優美で繊細な京都ならでわの華やかさが感じられます。
今回初めて私の好きな陶あんさんが出店されるときききちゃいました!!!!
陶あんさんは大正時代に開窯した比較的新しい窯元さんですが、絵柄や金彩が綺麗でいかにも女性好み
もう集めだして数十年????セール毎に一つずつ買い揃えていますので格別なんです。

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やはり午前中できめないと・・・・・・・。やはり一番好き
この陶器市どちらかというとデザイナーズ系が多く清水焼オンリーではないもよう。
陶庵さん出品以外はべつにいいかな???

鴨川沿いは京の七夕
旧歴の七夕は8月です。
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この後錦小路店のシークレットセールにガチでいどみ!!!
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玉露用の急須のオーダー注文をお願いしました。
秋の草花バージョンです。
喫茶室でまったりしたらサクッと
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黒豆ソフトGET
帰らなきゃ~~サクサクきょうもうででした。

パリの名残第二段

続パリの名残お土産紹介

1)モノプリグルメ
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ウエハースにチョコで挟んで、さらにチョコでコーティングしたお菓子
日本でもありがちだけどさすがにチョコの使い方がパリらしい~~~ビターめなお菓子コーヒーにあいますね。

2)Flroentiln
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カリカリナッツにキャラメルコーティングのお菓子
カリカリ一気にいっちいます。危険なお菓子

3)チョコ
フランス=チョコの国
アフリカのカカオの生産国を植民地に持っていたのでチョコは美味しい&日本で買うよりかなり格安。
日本でブランドのチョコは板チョコで800円以上しますが、こちらでは300円くらいからあります。
もっと買っておけばよかったと後悔

まずは一段目
リンツの板チョコ
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キャラメル
ビターチョコにキャラメルの粒粒がはいってます。

3)Galler ホワイトラズベリー
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美味しい甘いホワイトチョコにラズベリー美味しくないわけないマリアージュ

「二人の后 藤原定子と藤原彰子」

史上初天皇の后が二人存在したのが一条天皇の治世

この二人は父親同士が兄弟で従姉妹にあたり、ともに一条天皇(父円融帝・母詮子)の従姉弟・従兄妹の関係
ふたりとも正妃でした。

定子の父は藤原道隆(父兼家・母時姫)彰子の父は藤原道長(父母道隆と同じ)

「三后」とは中宮(皇后)・皇太后・太皇太后をさします。

定子がまだ女御右だったころ
太皇太后は3代前の帝の中宮・昌子内親王
皇太后は当帝の生母・藤原詮子
中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子
三后の席はうまっていた

「一条天皇の女御であった定子を后としたい」
父摂政の道隆が無理やり皇后の名称でもあった中宮を切り離し定子に与えさせた地位でした。

しかしここでは同帝に二人の立后したわけではありません。
当時の公卿や殿上人はこの行為を悪しき事として思ったものの表だっては批判することはありませんでした。
帝に二人の正妃がいたのは一条帝の治世が初めてです。

中宮(後皇后)藤原定子

その定子はどんな人だったんでしょうか?
枕草子・栄花物語に忍ばれる記述があります。
注意:ちなみに枕草子は定子派・栄花物語は彰子派という書き方なので、やや史実的に問題はありです。


定子は父藤原道隆・母高階貴子の長女として貞元2年〈977年〉誕生

当時の道隆の官位は従四位下左近衛少将 如元1月:備中権守に遷任 昇殿を許されたまだ駆け出しの殿上人
定子は永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結い着裳で歴史上はじめて登場します。

定子の同母兄妹には兄伊周、弟道家、隆円、妹たち原子、三の君、御厨殿
その母が高内侍であったので高階貴子
中流貴族の一族の娘であったものの、道隆の女の子を多く出産した事で北の御方(正妻)と遇されていました。
これは貴族女性の最高の地位を得るためには女の子の母が誰から生まれたのかが大きく左右するためです。
父親が摂政関白の血筋でも母親が正妃でないとよっぽどの事がない限り入内は難しかったからです。
(さすがに後年関白頼通の頃は自身の娘が妾が生んだ一人だけという状況ゆえに御冷泉帝の皇后になったが)


定子正暦元年1月25日(990年2月23日)、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内

二月には内大臣殿の大姫君内へ参らせたまふ有様、いみじうののしらせたまへり。殿のありさま北の方など宮仕えにならひたまへでば、いたう奥深なることをいとわろきものに思して、今めはしう気近き御有様なり。姫君十六ばかりにおはします。やがて夜の内に女御にならせたまひぬ。
栄花物語より


摂政殿御気色たまはりて、まずこの女御后に据えたてまつらんの騒ぎをせさせたまふ。われ一の人にならせたまひぬれば、よろずは今は御心なるを、この人々のそそのかしにより、六月一日后に立てせたまひぬ
栄花物語より

同年10月5日皇后に冊立され「中宮」 小右記より

定子は派手好きの社交的な両親に育てられ教養豊かな女性だったので、学識高い一条天皇の心をつかむには理想的な女性でした。

帝との仲は???
内裏で定子の御殿登花殿で東宮妃原子と関白道隆、正妻三位の上(橘内侍)、伊周とその子松君が一家揃ってくつろいでいるところに一条天皇が来て・・・・・。

未の刻ばかりに、「えん道まいる」などいふほどもなく、うちそよめきて入らせたまへば、宮もこなたへ入らせたまひぬ。
やがて御帳に入らせたまひぬれば、女房も南面に、みなそよめき往ぬめり。
枕草子の第九十九段

勿論ここに道隆がいるのは知っていて行為をしている。つまり知られるのが大切なのです。
午後1時~3時が未の刻。
この後16時30分から17時頃までふたりでベットIN

日の入るほどに、起きせたまひて、山の井大納言召しいれて、御ネ圭まいらせたまいて、還らせたまふ。桜の直衣に紅の御衣の夕映えなども、かしこければ、とどめつつ。

その夜も
宮のぼらせたまふべき御使にて、馬の典侍まいりたり。
殿など、還らせたまひてぞ、のぼらせたまふ。

夜のお勤めの御指名があり、お召しになる。

現在の感覚でいうと実家の家族がいている所で寝室にさそうなど???
無粋ですが、天皇の后への愛情は両親にとって大問題。
天皇にとっても政務と神事を円満に行う事の必須条件でした。
娘さんを溺愛していますよ。だから後見宜しくね。という感覚ですね。

父道隆の存命中の定子は帝の寵愛と父の後見で后としての地位は確固たるものでした。

かかるほどに冬の方になりて、関白殿水をのみきこしめて、いみじう細らせたまへりといふことありて、内裏などにもをさをさ参らせたまはず。
栄花物語より

女一の宮の誕生から逆算するとこの辺りでどうも定子はらみたまふような

しかし道隆は糖尿病による体調の悪化に、長徳元年(995年)4月10日薨去

道隆没後、生前その地位を息子伊周に譲りたかったものの一条天皇の許可が出ず弟・道兼が関白になるも七日後に薨去
当時内大臣の伊周と道長が氏長者の地位を巡り対立、伊周が一条天皇の寵愛深い妹の中宮藤原定子を介しようとしたものの
一条天皇の賛同がとれず、代わりに道長は生母東三条院詮子を通じて内覧の地位を得たと言われています。
内覧とは天皇への上奏文を先に見る権利があり、実質上ここで握りつぶされればなかったことに出来るスーパー特権力
藤原氏の長者に与えられます。


天皇の判断は5月11日になって道長に文書内覧の宣旨を下し、翌月19日には道長が伊周を越えて右大臣に昇任、氏長者並びに天下執行の宣旨を獲得し、道長に軍配が下ります。

これは村上天皇の中宮安子が関白は兄弟順という遺言の効力が末代まで効いている事と、伊周の傲慢さがほかの公卿の評判が悪すぎて政務がとれないと天皇が判断した事が大きいように思えます。

中宮定子は穢れのため里の二条宮へ
東宮妃原子と共に喪中の為内裏を退出して籠っています。

中宮、世の中をあはれに思し嘆きて、里にのみおはします。されど、さてのみはとて、参らせたまひぬ。帝いとあわれに思しめしたり。


中宮は年ごろかかることやはありつる、故殿の一所おはせぬ故にこそはあめれど。あわれにのみ思さる。
内には人見るをりぞといふやうに、今めかしう、何ごとにつけても中宮をつねに恋しう思ひみこえさえたまへり
栄花物語より

道隆の薨去後、世は道長に流れつつあり、ここで伊周はおとなしくしているのが一番なのに大きな事件を起こしてしまいます。
いわゆる「長徳の変」


長徳2年(996年)頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通っていたのですが。
伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解します。
弟の隆家に相談すると隆家は長徳2年1月16日、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く事件を起こします。
しばらくは出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり花山院は口をつぐんでいましたが。
当然隠し続けられるわけもなく。

このころ定子の妊娠発覚一条帝の初めての御子が宿ります。


かう女御たち参りためへれど、今まで宮出でおはしまさぬことを、女院はいみじう思いしめし嘆かせたまへり。
中宮のただにもおはしまさぬを、さりともと頼もしう思しめすを
栄花物語より

しかし花山院襲撃事件の噂が広ま・・・・・世の中が道長派へ傾きつつあるこの頃中宮の御所では一つの噂話が流れ始めこれが清少納言の長い里籠りの原因となります。

里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ、人々はいひなすなる。いと有心にひき入りるおぼえ、はたなければ、さいはむも憎かるまじ。
また、昼も夜も、来る人を、なにしにかは、「なし」とも、かがやき返さむ。まことにむつまじうなどあらぬも、さこそはめぐれ。
あまりうるさくもあれば、「このたび、いづく」と、なべてには知らせず、左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知りたまへる
左衛門の尉(じよう)則光が来て物語などするに、

「昨日、宰相の中将のまゐりたまひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。言へ』といみじう問ひたまひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくにしゐたまひしこと」


などいひて、「ある事あらがふは、いとわびしくこそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左の中将の、いとつれなく知らず顔にて居たまへりしを、かの君に見だにあはせば笑ひぬべかりしにわびて、台盤のうへに布のありしを取りて、ただくひにくひまぎらはししかば、中間に、あやしのくひものやと見けむかし。されどかしこう、それにてなむ、そことは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用ぞかし。まことに知らぬなめりとおぼえたりしもをかしくこそ」
など語れば、
「さらに、な聞こえたまひそ」
などいひて、日ごろ久しうなりぬ。
夜いたくふけて、門をいたうおどろおどろしう叩けば、なにのかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、滝口なりけり。
「左衛門の尉の」
とて、文を持て来たり。皆寝たるに、火取り寄せて見れば、
「明日、御読(みど)経の結願(けちがん)にて、宰相の中将、御物忌に籠りたまへり『いもうとのあり所申せ申せ』とせめらるるにずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせたてまつるべき。いかに。おほせに従わむ」
といひたる、返事(かへりごと)は書かで、布を一寸ばかり紙につつみてやりつ。
さて後きて、
「一夜は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率てありきたてまつりし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御かへりはなくて、すずろなる布の端をばつつみてたまへりしぞ。あやしのつつみものや。人のもとに、さるものつつみておくるやうやはある。とりたがへたるか」
といふ。いささか心もえざりける、と見るがにくければ、ものもいはで、硯にある紙の端に、

かづきするあまのすみかをそことだに ゆめゆふなとやめをくはせけむ と書きてさし出でたれば、
「歌詠ませたへるか。さらに見はべらじ」
とて、扇かへして逃げて去ぬ。
かう語らひ、かたみに後見などするに、中になにともなくてすこし中あしうなりたるころ、文おこせたり。
「便なきことなどはべりとも、なほ契りきこえしかたは忘れたまはで、よそにてはさぞとは見たまへとなむ思ふ」
といひたり。つねにいふことは、
「おのれをおぼさむ人は、歌をなむ詠みて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ。今はかぎりありて絶えむ、と思はむ時にさることはいへ」
などいひしかば、この返りごとに、

くずれよる妹背の山のなかなれば さらに吉野の河とだに見じ
といひやりしも、まことに見ずやなりにけむ、返しもせずなりにき。さて、かうぶり得て、遠江(とうたあふみ)の介といひしかば、にくくてこそやみにしか。
完全にすねてますよね。

殿などのおはしまさでのち、世の中に事出でき、さわがしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、ひさしう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえたえてあるまじかりける
右中将おはして、物語し給ふ。
「今日宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣をりにあひ、たゆまでさぶらふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうてゐなみたりつるかな。御前の草のいとしげきを、『などか、かきはらはせでこそ』といひつれば、『ことさら露をかせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にていらへつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居いと心憂し。かかる所にすませ給はむほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、かひなく』と、あまたいひつる、語り聞かせたてまつれとなめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対の前にうへられたりける牡丹などの、をかしきこと。」
などのたまふ。
いさ、人のにくしと思ひたりしが、また、にくくおぼえ侍りしかば」といらへきこゆ
「おいらかにも」
とて笑ひ給ふ。
げにいかならむと思ひ参らする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、
「左の大臣の人、知るすぢにてあり」
とて、さしつどひものなどいふも、下より参る見ては、ふといひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、
「参れ」
など、たびたびある仰せごとをも過ぐして、げにひさしくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなたがにいひなして、そらごとなども出でくべし。
例ならず仰せごとなどもなくて日になれば、心ぼそくてうちながむるほどに、長、文を持てきたり。
「御前より、宰相の君して、しのびて給はせたりつる」
といひて、ここにてさへひきしのぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとくあけたれば、紙にはものもかかせ給はず。山吹の花びら、ただ一重をつつませ給へり。それに、
いはで思ふぞ
と書かせ給へる、いみじう、日比の絶え間なげかれつる、みななぐさめてうれしきに、長女もうちまもりて、
「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼしいできこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居、とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」
といひて、
「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」
といひていぬる後、御返事(かへりごと)かきて参らせむとするに、この歌の本、さらにわすれたり。
「いとあやし。おなじふることといひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、いひ出でられぬは、いかにぞや」
などいふを聞きて、前にゐたるが、
「『下ゆく水』とこそ申せ」といひたる、などかくわすれつるならむ。これに教へらるるもをかし。
御返し参らせて、すこしほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御木帳に、はたかくれてさぶらふを、
「あれは今参りか」
など笑はせ給ひて、
「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけり、となむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしもえこそなぐさむまじけれ」などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。
童に教へられしことなどを啓すれば、いみじうわらはせ給ひて、
「さることぞある。あまりあなづるふるごとなどは、さもありぬべし」
など仰せらるるついでに、
「なぞなぞあはせしける、方人にはあらで、さやうのことに、りやうりやうじかりけるが、『左の一はおのれいはむ。さ思ひ給へ』など頼むるに、さりともわろきことはいひいでじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作りいだし、選(え)りさだむるに、『その詞を、ただまかせて残し給へ。さ申しては、よもくちをしくはあらじ』といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。『なほこのことのたまへ。非常に、おなじこともこそあれ』といふを、『さは、いさ知らず。な頼まれそ』などむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、みな、方の人、男女ゐわかれて、見証の人など、いとおほくゐなみてあはするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることをいひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、『なぞ、なぞ』といふほど、心にくし。『天に張り弓』といひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人はものもおぼえず、みな、にくく愛敬なくて、あなたによりて、ことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、『いとくちをしく、をこなり』とうちわらひて、『やや、さらにえ知らず』とて、口をひき垂れて、『知らぬことよ』とて、さるがうしかくるに、かずささせつ。『いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじ』と論ずれど、『知らずといひてむには、などてか負くるにならざらむ』とて、次々のも、この人なむみな論じ勝たせける。いみじく人の知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ、なにしにかは、『知らず』とはいひし。後にうらみられけること」
など、語り出でさせ給へば、御前なるかぎり、
「さ思ひつべし」「くちをしういらへけむ」「こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」
なんど笑ふ。これはわすれたることかは、ただみな知りたることとかや

道隆が病死した後、左大臣になった道長は着々と権力を握ってゆき、大姫の入内も視野にしていたので、当然後宮は騒ぎ始めます。少納言は道隆と中宮定子に厚く信頼されていましたからここぞとばかりに女房達が避難しはじめたのでしょう。源実方や経房など道長と近しい間柄であったこともあろうが。
ちなみにこの枕草子が世に出たのは後者源経房が伊勢守だった長徳元年4月以降翌7月までの期間に清少納言邸を訪にはさんいたそうしを持ち帰り知られた逸話が最後に見える。


隆家は4月に宣旨が下され、ついに中宮定子の里内裏として二条宮に検非違使が御所に乱入。隆家伊周は捕獲されます。

母北の方、宮の御前御をじの人々例の涙にもあらぬ御涙ぞ出てきて、この恐ろしげなる者どもの宮の内に入り乱れたれば、検非違使どもいみじう制すれど、それにもさはるべきけしきならず。

栄花物語より
二人は中宮への配慮として5月15日伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留める勅が発せられる。
同地で隠棲していた伊周ですが、母貴子の病床の手紙を受け取るといてもいられず、ひそかに播磨国から逃亡して京へ10月初めに伊周は密かに入京し、母と再会中宮御所に匿われていたものの邸の主に密告され再度検非違使に逮捕され。
改めて大宰府へ護送されてしまいます。
中宮定子は頼りになる家族を失います。

実は長徳元年5月1日その逮捕の際に検非違使が中宮御所に乗り込み家族を逮捕するとい狼藉を見た定子は思わぬ事態に困惑してなんと、鋏で自分の髪を切ってしまいます

これは当時では出家したととらえられていました。

御車ども引き出ずるままに、宮は御鋏して御手ずから尼にならせたまひぬ
内には「この人々まかりぬ。宮は尼にならせたまひぬ。」と奏すれば、あはれ、宮はただにもおはしまさざらむにものをかく思はせたてまつることと、思しつずけて、涙こぼれさせためへば、忍びさせたまふ。
栄花物語



不幸は重ねるもので同年夏に実家の二条宮が全焼し(放火かもしれませんね)、10月下旬には母・貴子も没します。

宮はには尽きぬもせぬことを思し嘆くに、御腹高くなりもていきて、ただならぬことのみ思し知らるるにも悲しうなむ。
栄花物語

そんな中長徳2年12月16日第一子・脩子内親王を出産
ストレスの為に出産がひどく遅れ妊娠12か月ともいわれたそうです。

かくて上の御事はあさましくてやませたまひぬ。宮の御産のことも思し嘆かれけり。
十二月二十日のほどに、わざとも悩、あせたまはで、女御子生れさせたまへり。
栄花物語

一条天皇にとって最愛の人の初めての子で強く対面を望み女一宮が生後6か月同年6月参内します。

定子は尼姿(髪が短い)だったのでさすがに気がひけるものの高階成忠が御祈りしたところ夢で男宮が生まれる夢を見たと参内を薦め。
定子も産まれたわが子が父に会えないのも不憫と思い参内を決心します。
栄花物語はこの参内に女院と道長が薦めたと書きますが、????
しかも当日内裏には公卿はすべて東三条院にいて内裏には殿上人はいませんでした
なのに公卿以下中宮を迎えたと記述しています。
栄花物語自体御堂家(道長の一族)主導で書かれた歴史書なのでこの辺りは信ぴょう性低いですね。

参内の日、天皇は母東三条院へ行幸していてそれに伴い公卿も同行しています。
つまり手薄な大内裏の中宮職の職御曹司の深夜に再会していたのです。


上渡らせたまひて若宮見たてまつらせたまふ。えもいはずうつくしおはしまして、ただ笑ひ笑ひて物語せさせたまふ。
上の御前は今まで見ざりけるよと思しめすに、まず涙もうかせたまふべし。

自分の子供を抱いた喜びだけでは当然終わらないのが男女の仲

さて宮の御対面あるに、御几帳引き寄せていとけ遠くもてなしきこえたまへるほどもことわりなれど・・・・・・・・・中略・・・・・・・
古になほたちけへる御心の出でくれば、宮「いといとけしからぬことなり」など。よろずに申させためへど、それおも聞しめしいれぬさまに乱れさせたまふほどにかたはらいたげなり。

職御曹司に暁渡らせたまひて、そこにしばしおはしますべくしつらはせたまふ

栄花物語より
子供に会うだけでは終わらずに実質上の俗世へ帰る事になった中宮
しかし当然公卿の反感はあるので、公然と内裏には入れる事が出来ない事情が読みとれます。

長徳3年6月22日条「天下不甘心」
小右記より藤原実資筆
出家した中宮が再度入内するなどゆるすまじ!!!ってか。

以上が父関白道隆が薨去以前の中宮定子の外からの情報である。

さすがに女一宮のおじたちが左遷されたままではいけないと伊周と長徳3年4月許されて12月帰京します。

では枕草子から見た定子は?

中宮定子は大内裏の中宮職御曹司っで生活することになりました。

長徳3年6月から長保元年正月三日まで

では中宮職御曹司での定子の様子を枕草子から覗いてみます。

その記述から確実にそのころの出来事だけを記述します。
但枕草子の記述順は出来事順ではないのであしからず。

職の御曹司におはしますころ、木立などの、はるかにもの旧り、屋のさまも、高う気どほけれど、すずろにをかしうおぼゆ。
母屋は、「鬼あり」とて、南へ隔て出だして、南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ。
近衛の御門より、左衛門の陣にまゐりたまふ上達部の前駆(さき)ども、殿上人のは短ければ、「大前駆(おおさき)」「小前駆(こさき)」とつけて、ききさわぐ。
あまたたびになれば、その声どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」など言ふに、また、「あらず」などいへば、人して見せなどするに、言ひ当ててあるは、「さればこそ」など言ふもをかし。

有明のいみじう霧りわたる庭に、下りて歩くを聞し召して、御前にも起きさせたまへり。
上なる人々のかぎりは出でゐ、下りなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。「左衛門の陣にまかりみむ」とていけば、われもわれもと問ひつぎていくに、殿上人あまた声して、「なにがし一声の秋」と誦してまゐる音すれば、逃げ入り、ものなど言ふ。
「月を見たまひけり」など、めでて、歌詠むもあり。
夜も昼も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部まで参りたまふに、おぼろけに急ぐことなきは、かならず参りたまふ。

中宮御所とは名ばかりの職御曹司を女房達は珍しいのか物見がてらの様に散策しています。
内裏に入れないという悲壮感がまったくありませんね。意外です。

弘微殿とは、閑院の左大将の女御をぞきこゆる。
宮の職におあしみしに(源宜方・中将)まいりて、「時々は宿直などもつかうまつるべけれど、さべきさまに女房などももてなしたまねば、いと宮仕えへ疎かにっさぶらふこと。宿直所をだに賜はりたらば、いみじうまめにさぶらひなむ。」
と、いひいたまへれば

義子は公季の大姫で長徳2年(996年)7月20日夕に入内したので、ここの記述の頃はそれ以降になります。
ここで言えるのはこの時期道長が太政官を抑えて尚、若い公達は不遇の定子の元で入りしていたという事実

これ驚きました。なんせ時の道長は何でもできる権力がありました。
それにもかかわらず殿上人、公達が会っている。
何故か???ここを紐といていきます。

故殿の御服のころ、六月のつごもりの日、大祓といふことにて、宮のいでさせ給ふべきを、職の御曹司をかた悪しとて、官の司の朝所にわたらせ給へり。その夜さり、暑くわりなき闇にて、なにともおぼえず、せばくおぼつかなくてあかしつ。つとめて、見れば、屋のさまいとひらにみじかく、瓦ぶきにて唐めきさまことなり。例のやうに格子などもなく、めぐりて御簾ばかりをぞかけたる。なかなかめづらしくてをかしければ、女房、庭におりなどしてあそぶ。前裁に萱草といふ草を、ませゆひて、いとおほくうゑたりける。花のきはやかに、ふさなりて咲きたる、むべむべしき所の前裁にはいとよし。時司(などはただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、わかき人々二十人ばかり、そなたにいきて、階よりたかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、あるかぎり薄鈍の裳、唐衣、おなじ色の単襲、くれなゐの袴どもを着てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空よりおりたるにや、とぞ見ゆる。おなじわかきなれど、おしあげたる人は、えまじらで、うらやましげに見あげたるも、いとをかし。
 
左衛門の陣までいきて、倒れさわぎたるもあめりしをかくはせぬことなり。上達部のつき給ふ椅子などに、女房どものぼり、上官などのゐる床子(さうじ)どもを、みなうち倒しそこなひたり」など、くすしがるものどもあれど、聞きも入れず。
屋のいとふるくて、瓦ぶきなればにやあらむ、暑さの世にしらねば、御簾の外にぞ夜も出で来ふしたる。ふるき所なれば、むかでといふもの、日一日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集まりたるなどぞ、いとおそろしき。

道隆のまだ喪の開けない頃、職御曹司では方向が悪いので太政官庁の朝所という場所に移り住んだ頃、あまりの暑さにその塔の上に女房達が上がって大騒ぎした様子。
悲壮感があまりないですね。いったとこのない場所への冒険心すら感じます。

殿上人日ごとに参り、夜も居あかしてものいふをききて
「豈はかりきや、太政官の地の、今夜行の庭とならむことを」
と誦しいでたりしこそ、をかしかりしか。

宰相中将斉信、宣方中将、道方の少納言など参り給へるに、人々出でてものなどいふに、ついでもなく、
明日はいかなることをか」
といふに、いささか思ひまはしとどこほりもなく、
「人間の四月をこそは」
といらへ給へるが、いみじうをかしきこそ。

やはりそうそうたるメンバーが朝所まできています。

一条の院をば今内裏とぞいふ。(帝が)おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿に(中宮定子が)おはします。西東は渡殿にて、(帝が)わたらせ給ひまう(中宮定子が)のぼらせ給ふみちにて、まへは壺なれば、前裁うゑ、籬結ひていとをかし。

二月二十日ばかりの、うらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂(ひさし)にて、上の御笛吹かせ給ふ。
高遠の兵部卿、御笛の師にてものし給ふを、御笛二つして高砂ををりかへして吹かせ給ふは、なほいみじうめでたしといふも世の常なり。御笛のことどもなど奏し給ふ、いとめでたし

内裏が焼けて一条院を内裏に定めて帝と定子の仲睦ましい様子を伝える枕草子
このころはまだ彰子が入内前で他に女御がいても二人の仲は大変良かった。
再び長徳四年定子は再び懐妊します。


そして中宮は宮中を退出するのですが。
退出場所が問題ですなんせ里は焼失していますし。
中宮大夫も辞退して決まらずしかたなく中宮職のナンバー3平生昌の邸があれがわれます。
しかも行啓時には道長の宇治散策のお供で公卿はほぼゼロに中宮の元には身内だけという寒しい行列になってしまいます。
道長のいやがらせは今に始まった事ではなく関白道隆が生前から中宮大夫に任ぜられても職務を放棄したり法起寺の供養の際には中宮の行啓の共をするのですが、姉詮子の行啓で下襲を人に見られたから同じものをつけたくないという理由だけで、下襲を新たに縫わせたために中宮の到着が遅れたりと・・・・・・・・・我儘・・・・まあ権力者にありがちですね。

枕草子の最初の頃の記述

大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。
当時宮の邸の門は四つ足門でないといけないのですが、平生昌はけちって門のサイズをちいさく建ててしまいました。
宮は輿に乗って入られますが、女房達は車ごと。どうせみられやしないと普段の様子で入いろうとしたが門がちいさすぎて入らない。しかたなく手入れのしていない姿のまま人目にさらされたことを生昌にこっぴどくいやみをいうあの段です。

この時の中宮はマタニティーブルーの様子はみうけられず、生昌に同情的です。

御前に参りて、ありつるやう啓すれば、
「ここにても、人は見るまじうやは。などかはさしもうちとけつる」と笑はせ給ふ。

「なにごとぞ。生昌がいみじうおじつる」と問はせ給ふ。
「あらず。車の入り侍らざりつることいひ侍りつる」と申して下りたり

つとめて、御前に参りて啓すれば、
「さることも聞こえざりつるものを。よべのことにめでて行きたりけるなり。
あはれ、かれをはしたなう言ひけむこそいとほしけれ」と笑はせ給ふ。

「さてこそは、うはおそひ着たらむわらはも、まゐりよからめ」といふを、
「なほ、例の人のやうに、これかくな言ひ笑ひそ。いと謹厚なるものを」と、いとほしがらせ給ふもをかし

宮の女房達にからかわられる生昌にひどくかばっていますね。この時の妊娠には問題がなかったようです。

長保元年11月7日中宮大進平生昌邸にて敦康親王誕生

しかし同日に藤原道長の長女彰子が女御宣下を受けて入内
藤原彰子
長保元年(999年)2月9日、裳着と同日に従三位。

大殿の姫君十二にならせたまへば、年の内に御裳着ありて、やがて内に参らせたまはむといそがせたまふ。


屏風よりはじめ、なべてならぬさまし具せさせたまひて、さるべし人々やむごとなき所どころには歌は詠ませたまふ

花山院、藤原行成(三筆の一人)、藤原公任も和歌をよせていた。
当時名だたる公卿の和歌を女御の入内の調度品に加えるなど前例がなかった。堅物でゆうずのきかない藤原実資はガンと拒否したといいます。

さて中宮定子の方はというと普通だと気がきではないと思うのに一条帝の寵愛は陰りがなく
中宮の御方は殿上人も細殿つねにゆかしうあらまほしけげにぞ思ひたりし。弘徽殿、承香殿、暗部屋など参りこませたへり。されどさるべき御子たちも出でおはしまさで、中宮のみこそは、かくて御子あまたあはしますめれ。
#この時まだ敦康親王はあ誕生していない。栄花物語は年代にあわない箇所があり。

さて藤壺に住をかまえた彰子の御殿の調度品は贅を極めていた。一条天皇は大変な文化人で教養の豊かな人物で、しかもりっぱな成人かたや彰子はようやく十二歳(今の年だとまだ十一歳・小学生です。)
大学生に小学生を嫁入りさせた感覚。当然いきなり鍾愛など無理。そこで煌びやかな要素が重要視されます。

いといむじうあさましうさまことなるまでしつらえはせたまへり。御几帳御屏風襲いまでみな蒔絵、螺鈿をさせたまへり。
中略
上藤壺に渡らせえたまへれば、御しつらえ有様はさもこそあらめ、女御の御有様もてなし、あはれめでたく思し見てたてまつらせたまふ。姫宮をかやうにおぼしたてまつらばやと思しめさるべし。

目線は父親感半端ありません。当分寵愛は無理な様子なのに栄花物語は完全無視

弘高が歌絵かきたる冊子に行成君の歌かきたるなどいみじうをかしう御覧ぜらる。「あまりもの興じするほどにむげに政知らぬ白物にこそなりぬべきかめれ」など仰せられつつぜ帰らせたまひける。

あまりに幼き御有様なれば、参りよれば翁とおぼえて、われはずかしうぞ」などのたまふはするほども。ただいま二十ばかいりにおはしめすめる。中略


そりゃそでしょ!!!

うちとけぬ有様なれば、「これうち向きて見たまへ」と申されせたまば、女御殿「笛をば声こそ聞け、見るやうやはある。」とて、聞かせたまはねば、「さればこそこれや幼き人七十の翁のいうことをかくのたまふよな。あな恥ずかしや」と戯れきこえせたまふほども

まだまだ年月がかかりますね。


中宮定子は喜びと不安がいりみだれての日だったでしょう。

かくて参らせたまふこと、長保元年十一月一日のことなり。女房四十人、童女六人、下仕六人なり。
11月1日一条天皇に入内し同月7日に女御宣下

源氏物語以降の王朝文学にこの人数が入内鉄板人数となる。


この四月の一日ごろ、細殿の四の口に殿上人あまた立てり。
やうやうすべり失せなどして、ただ頭中将、源中将、六位ひとりのこりて、よろづのことをいひ、経よみ、歌うたひなどするに
「あけはてぬなり。かへりなむ」とて、
「露はわかれの涙なるべし」
といふことを、頭中将のうちいだし給へれば、源中将ももろともに、いとをかしく誦んじたるに、
「いそぎける七夕かな」
といふを、いみじうねたがりて、
「ただあかつきのわかれ一筋を、ふとおぼえつるままにいひて、わびしうもあるかな。すべて、このわたりにて、かかること、思ひまはさずいふは、いとくちをしきぞかし」
など、返す返すわらひて、
「人にな語り給ひそ。かならずわらはれなむ」
といひて、あまりあかうなりしかば、
「葛城の神、いまぞずちなき」
とて、逃げおはしにしを、七夕のをりにこのことをいひいでばやと思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、かならずしもいかでかは、そのほどに見つけなどもせむ、ふみかきて、殿司(とものづかさ)してもやらむ、など思ひしを、七日に参り給へりしかば、いとうれしくて、その夜のことなどいひいでば、心もぞえ給ふ、ただすずろにふといひたらば、あやしなどやうちかたぶき給ふ、さらばそれにを、ありしことばいはむ、とてあるに、つゆおぼめかでいらへ給へりしは、まことにいみじうをかしかりき。月ごろいつしかと思はへたりしだに、わが心ながらすきずきしとおぼえしに、いかでさ思ひまうけたるやうにのたまひけむ。もろともにねたがりいひし中将は、おもひもよらでゐたるに、
「ありし暁のこと、いましめらるるはしらぬか」
とのたまふにぞ、
「げに、げに」
とわらふめる、わろしかし。
人と物いふことを碁になして、ちかう語らひなどしつるをば、
「手ゆるしてけり。結さしつ」
などいひ、
「男は手うけむ」
などいふことを、人はえ知らず、この君と心えていふを、
「なにぞ、なにぞ」
と源中将はそひつきていへど、いはねば、かの君に、
「いみじう、なほこれのたまへ」
とうらみられて、よきなかなれば聞かせてけり。あへなくちかくなりぬるをば、
「おしこぼちのほどぞ」
などいふ、我も知りにけりと、いつしか知られむとて、
「碁盤侍りや。まろと碁うたむとなむ思ふ。手はいかが。ゆるし給はむとする。頭中将とひとし碁なり。なおぼしわきそ」といふに、
「さのみあらば、さだめなくや」
といひしを、またかの君に語りきこえければ、
「うれしういひたり」
とよろこび給ひし。なほすぎにたること忘れぬ人は、いとをかし。

宰相になり給ひしころ、上の御前にて、
「詩をいとをかしう誦じ侍るものを。蕭會稽之過古廟なども、誰かいひ侍らむとする。しばしならでもさぶらへかし。くちをしきに」
など申ししかば、いみじうわらはせ給ひて、
「さなむいふとて、なさじかし」
などおほせられしもをかし。されど、なり給ひにしかば、まことにさうざうしかりしに、源中将おとらず思ひて、ゆゑだち遊びありくに、宰相中将の御うへをいひいでて、
「『いまだ三十の期に及ばず』といふ詩を、さらにこと人に似ず誦じ給ひし」
などいへば、
「などてかそれにおとらむ。まさりてこそせめ」
とてよむに、
「さらに似るべくだにあらず」
といへば、
「わびしのことや。いかであれがやうに誦ぜむ」
とのたまふを、
「三十の期、といふ所なむ、すべていみじう愛敬づきたりし」
などいへば、ねたがりてわらひありくに、陣につき給へりけるを、わきによびいでて、
「かうなむいふ。なほそこもと教へ給へ」
とのたまひければ、わらひて教へけるもしらぬに、局のもとにきて、いみじうよく似せてよむに、あやしくて、
「こは誰そ」
と問へば、笑みたる声になりて、
「いみじきことをきこえむ。かうかう、昨日陣につきたりしに、とひききたるに、まづ似たるななり。『誰ぞ』と、にくからぬけしきにてとひ給ふは」
といふも、わざとならひ給ひけむがをかしければ、これだに誦ずれば出でてものなどいふを、
「宰相中将の徳をみること。その方に向ひて拝むべし」
などいふ。下にありながら、
「上に」
などいはするに、これをうちいづれば、
「まことはあり」
などいふ。御前にも、かくなど申せば、わらはせ給ふ。
内裏の御物忌なる日、右近の将監みつなにとかやいふものして、畳紙にかきておこせたるをみれば、
「参ぜむとするを、今日明日の御物忌にてなむ。三十の期に及ばずはいかが」
といひたれば、返りごとに、
「その期は過ぎ給ひにたらむ。朱買臣が妻を教へけむ年にはしも」
とかきてやりたりしを、またねたがりて、上の御前にも奏しければ、宮の御方にわたらせ給ひて、
「いかでさることは知りしぞ
『三十九なりける年こそ、さはいましめけれ』とて、『宣方はいみじういはれにたり』といふめるは」
とおほせられしこそ、ものぐるほしかりける君とこそおぼえしか。


職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中将とのゐにて、ものなどいひしに、そばにある人の、「この中将に扇の絵のこといへ。」とささめけば、「今、かの君の立ちたまひなむにを。」といとみそかにいひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、「何とか、何とか。」と耳をかたぶけ来るに、遠くゐて、「にくし、さのたまはば、けふは立たじ。」とのたまひしこそ、いかで聞きつけたまふらむとあさましかりしか。

大殿の新中将とは藤原成信で長徳四年十月二十二日に就任しているからこのころはそれ以降
この大殿とは道長で大殿のは成信が道長の猶子だったから。彼が義理の叔父にあたるため準養子になっていた。
いわば道長一派なので中宮に宿直にしていても女房ごときにつかいっぱしりなど「けしからぬこと!!」と憤慨している。
道長の闇が見え暗い感じがしますね。

長徳四年五月頃
清少納言のなんだかハンストともいえそうな行動

五月の御精進のほど、職におはしますころ、塗籠の前の二間なる所を、ことにしつらひたれば、例様ならぬもをかし。 一日より雨がちに、くもりすぐす。つれづれなるを、
の声たづねに行かばや」
といふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奥に、なにさきとかや、たなばたの渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし
「その渡りになむ公郭なく」
と人のいへば
「それは日ぐらしなり」
といふ人もあり。そこへとて、五日のあしたに宮に車の案内こひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞとて、さしよせて四人ばかり乗りていく。うらやましがりて、
「なをいまひとつして、同じくは」
などいへど、まなと仰せらるれば、聞き入れず、なさけなきさまにていくに、馬場といふ所にて人おほくてさはぐ。
「なにするぞ」
と問へば 「手番ひにて、まゆみ射るなり。しばし御覧じておはしませ」
とて、車とどめたり。
「左近中将、みなつき給ふ」
といへど、さる人も見えず。六位などたちさまよへば、
「ゆかしからぬことぞ、はやくすぎよ」
といひて、いきもてゆく。道も祭りのころ、思ひいでられてをかし。
かくいふ所は、明の朝臣の家なりける。
「そこもいざ見む」
といひて、車よせておりぬ。田舎だち、ことそぎて、馬のかたかきたる障子、網代屏風、三稜草(みくり)の簾など、殊更にむかしの事をうつしたり。屋のさまもはかなだち、廊めきて、はし、ぢかにあさはかなれどをかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりになきあひたる公郭の声を、くちをしう御前にきこしめさせず、さばかりしたひつる人々を、と思ふ。所につけては、かかることをなむ見るべきとて、稲というものをとりいでて、わかき下衆どもの、きたなげならぬ、そのわたりの家のむすめなどひきもて来(き)て、五六人してかこせ、また、見もしらぬくるべくもの、二人してひかせて歌うたはせなどするを、めづらしくて笑ふ。公郭の歌よまむとしつる、まぎれぬ。
唐絵にかきたる懸盤してものくはせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ
「いとひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、せめいだしてこそまゐるべけれ。むげにかくては、その人ならず」といひてとりはやし、
「この下は手づからつみつる」などいへば、
「いかでか、さ、女官などのやうに着きなみてはあらむ」
などわらへば
「さらば、とりおろして。例のはひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」
とて、まかなひさわぐ程に、
「雨ふりぬ」といへば、急ぎて車にのるに、
「さて、この歌は、ここにてこそよまめ」
などいへば、
「さはれ、道にても」などいひて皆のりぬ。
卯の花のいみじうう咲きたるをおりて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、をそひ、むねなどに、ながき枝をふきたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根を牛にかけたるぞと見ゆる。ともなる男どももいみじう笑ひつつ、
「ここまだし、ここまだし」とさしあへり。
人もあはなむと思ふに、さらにあやしき奉仕、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口をしくてちかく来ぬれど、
「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ人に語らせてこそやまめ」
とて、一条殿ほどにとどめて、
「侍従殿やおはします。公郭(ほととぎす)の声ききて今なむかえる」といはせたる。つかひ、
「『ただいままゐえる。しばし、あが君』となむのためへる。侍にまひろげておはしつる、急ぎたちて、指貫たてまつりつ」といふ。
「待つべきにもあらず」
とてはしらせて、土御門ざまへやるに、いつのまにか装束きつらむ、おびは道のままにゆひて、
「しばし、しばし」とおひくる、供に侍三四人ばかり、ものもはかではしるめり。
「とくやれ」
といとどいそがして、土御門にいきつきぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。
「現(うつ)の人の乗りたるとなむ、さらに見えぬ。なほおりて見よ」など笑ひ給へば、供にはしりつる人、ともに興じ笑ふ。
「歌はいかが。それきかむ」とのたまへば、
「今御前に御覧ざせて後こそ」などいふ程に、雨まことふりぬ。
「などか、こと御門御門のやうにもあらず、土御門しもかうべもなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、
「いかでかえらむとすらむ。こなたざまはただをくれじと思ひつるに、一目もしらずはしられつるを、奥いかむことこそ、いとすさまじれ」とのたまへば、
「いざたまへかし、内裏へ」といふ。
「烏帽子にてはいかでか」「とりにやりたまへかし」
などいふに、まめやかにふれば、かさもなき男ども、ただひきにひきいれつ。一条殿よりかさ持て来たるをささせて、うちみかへりつつ、こたみはゆるゆるとものげにて、卯の花ばかりをとりておはするもをかし。
さてまゐりたれば、ありさまなどとはせ給ふ。うらみつる人々、怨じ心うがりながら、藤侍従の、一条の大路はしりつるかたるにぞ、皆笑ひぬる。
「さていづら、歌は」とはせたまへば
「かうかう」と啓すれば
「口おしの事や。うへ人などの聞くかうむに、いかでか露をかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそはよまましか。あまり儀式定めつらむこそあやしけれ。ここにてもよめ。いといふかひなし」
などのたまはすれば、げにと思ふにいと侘しきを、いひあはせなどする程に、藤侍従、ありつる花につけて、卯の花の薄様にかきたり。この歌おぼえず。これがかへしまづせむなど、硯とりに局にやれば、
「ただこれして、とくいへ」とて御硯蓋に紙などしてたまはせたる
「宰相の君、かき給へ」といふを、
「なほそこに」
などいふ程に、かきくらし雨ふりて、神いとおそろしう鳴りたれば、ものもおぼえず、ただおそろしきに、御格子まゐりわたしまどひし程に、この事も忘れぬ。
いとひさしうなりて、すこしやむほどには、くらうなりぬ。ただいま、なほ、この返事(かへりごと)たてまつらむとて、とりむかふに、人々、上達部(かんだちめ)など、神のこと申しにまゐり給へれば、西面にいでゐて、もの聞こえなどするに、まぎれぬ。こと人はたさして得たらむ人こそせめ、とてやみぬ。なほ、この事に宿世なき日なめり、と屈(くん)じて、
「今はいかでささむいきたりし、とだに人におほく聞かせじ」など笑ふ。
「今もなどか、そのいきたりしかぎりの人どもにていはざらむ。されどさせじと思ふにこそ」
とものしげなる御けしきなるも、いとをかし。されど、
「いまはすさまじうなりにて侍るなり」と申す。
「すさまじかべきことか、いな」と仰せらるるもいとをかし。
公たづねて聞きし声よりも とかきて参らせたれば、
「いみじううけばりけり。かうだにいかで公郭のことをかけつらむ」とて笑はせ給ふもはづかしながら、
「なにか。この歌よみ侍らじとなむ思ひ侍るを。もののおりなど人のよみ侍らむにも、『よめ』など仰せられば、えさぶらふまじき心地なむし侍る。いといかがは、文字の数しらず、春は冬の歌、秋は梅花の歌などをよむやうは侍らむ。なれど、歌よむといはれし末々は、すこし人よりまさりて、『そのおりの歌はこれこそありけれ。さはいへど、それが子なれば』などいはればこそ、かひある心地もし侍らめ。露とりわきたるかたもなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初によみ出で侍らむ、なき人のためにもいとほしう侍る
とのたまはせしかど、さてやみにき。
二日ばかりありて、その日のことなど言ひ出づるに、宰相の君、
「いかにぞ、手づからおりたりといひし、下蕨は」
とのたまふを聞かせ給ひて、 「思ひ出づることのさまよ」
と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、
下蕨こそ恋しかりけれ
とかかせ給ひて、
「本いへ」
と仰せらるるもいとをかし


あれほ中宮にこわれた時には必死に和歌を詠んでいたのに実は和歌が苦手というか偉大な父と祖父の歌人としてもプレッシャーに耐え切れない清少納言がいた。
この頃には中宮にも思いを言える関係であったか。やはりすねている系の何かがあったのでしょう。
このあとの庚申の夜に内大臣に和歌を強要されそうになった時もしっかり拒否り中宮の助けを受けて逃れます。


彰子が入内してから三か月後くらいの中宮周辺は

五月ばかり、月もなういと暗きに、「女房やさぶらひたまふ。」と声々して言へば、「いでてみよ。例ならず言ふは誰ぞとよ。」と仰せらるれば、「こは、誰そ、いとおどろおどろしうきはやかなるは。」と言ふ。ものは言はで、御簾をもたげてそよろとさし入るる、くれ竹なりけり。「おい、この君にこそ。」と言ひわたるを聞きて、「いざいざ、これまづ殿上に行きて語らむ。」とて、式部卿の宮の源中将、六位どもなど、ありけるは往ぬ。

頭の弁はとまりたまへり。「あやしくても往ぬる者どもかな。御前の竹を折りて、歌よまむとてしつるを、「同じくは職に参りて、女房など呼びいで聞えて。」と持て来つるに、くれ竹の名をいととく言はれて往ぬるこそいとほしけれ。誰が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬことをば言ふぞ。」などのたまへば、「竹の名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらむ。」と言へば「まことに、そは知らじを。」などのたまふ。
まめごとなどもいひあはせてゐ給へるに、
「うへてこの君と称す」
と誦じて、また集まりきたれば
「殿上にていひ期しつる本意もなくては。など、かへり給ひぬるぞと、あやしうこそありつれ」
とのたまへば、
「さることには、なにのいらへをかせむ。なかなかならむ。殿上にていひののしりつるを、上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」
と語る。頭弁もろともに、同じことを返す返す誦じ給ひて、いとをかしければ、人々、みなとりどりに、ものなどいひあかして、かへるとてもなほ、同じことを、諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。
とのたまへば、
「さることには、なにのいらへをかせむ。なかなかならむ。殿上にていひののしりつるを、上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」
と語る。頭弁もろともに、同じことを返す返す誦じ給ひて、いとをかしければ、人々、みなとりどりに、ものなどいひあかして、かへるとてもなほ、同じことを、諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。
とて、うち笑ませ給へり。誰が事をも、殿上人ほめけりなどきこしめすを、さいはるる人をも、よろこばせ給ふも、をかし

中宮定子には喜ばしい出来事です。
非難まじりで入内していましたから殿上人が遊びついでにやってきて清少納言がしっかり対応する。
頼もしい限りだったでしょう。

長保2年(1000)2月25日 彰子皇后に冊立され「中宮」を号した。この時定子皇后に冊立
一人の天皇に二人の后が立ちます。
この時さすがの道長も独断で強硬することを控え姉詮子の同意と側近藤原行成の進言を得て彰子を中宮に立后させます。
その時の理由が中宮定子は出家した身なので春日社の使いの役割を果たせないというものだった。

敦康親王出産後すぐに定子は再び妊娠します。
「これをうれしと思ふべきにもはべらず。今年は慎むべき年にもあり。宿曜などにも心細くのみ言ひてはべれば、なほいとこぞさあむにつけても心細かるべけれ」

この妊娠は今までと違って初期の頃から心身ともに不安定だったようです。

あわれに悲しきこと多く聞こえさせたまひて、御袖も一つならず濡れさせたまふ。

その後つゆ物もきこしめさで、ただ夜昼涙に浮きてのみおはしませば、帥の殿も中納言殿もいみじう大事に思し嘆きたり。

御おととの四の御方をぞ、今宮の御後見よく仕まつらせたまふべきやうに。うち泣きてぞのたまはせける。

月日過ぎ行くままに皇后宮はいとどものをのみ思し嘆くべし。

三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿などもてまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣など、薬玉して姫宮、若宮につけたてまつらせ給ふいとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て来たるを、あをき薄様を、艶なる硯の蓋にしきて、
「これ、ませ越しにさぶらふ」
とてまゐらせたれば、
みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける
この紙の端をひきやらせ給ひてかかせ給へる、いとめでたし。

明るい定子がこの時の妊娠ほど不安にしていた頃はありません。
二人目の妊娠して宿下がりしていた際には平への気つかいも見せていましたが今は余裕はありません。
お菓子をすすめる少納言に「皆がうきうきしている楽しい日をあなただけが私のこの悲しみを知っている」と弱音をはいています。

彰子は4月30日に還行して入内して端午の節句の宮中行事にそなえます。
この日内裏では一条帝と公卿そしてその中に最大の権力者道長とその娘中宮彰子が帝の隣にいれ「菖蒲の節句」を晴れやかに行われています。
かたや自分は誰も祝いにこずにその中にもいない。そんな身の上を悲しんでいます。


御乳母の大輔の命婦、日向へくだるに、たまはする扇どもの中に、かたつかたは、日いとうららかにさしたる田舎の館などおほくして、いまかたつかたは京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
   あかねさす日に向かひても思ひいでよ 都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、えゆくまじけれ。

御乳母大輔の命婦は高階光子で叔母にあたります。
その叔母の夫が日向国の国司に選ばれて妻である叔母も定子の元を離れます。
これは道長の嫌がれせ、前記の五月の節句の後の記載と長雨から6月と解釈できるので当時は彰子と定子が同時に一条帝の正妃となっている。しかも定子は一条帝の長男まで生んでいます。
気が気ではありません。
三子目を妊娠中の定子はそれでなくても妊娠中毒症で体調が悪い頃かなり打撃です。
                 
かくて八月ばかりになれば、皇后宮にjはいともこころ細く思されて明け暮れは御涙にひちて、あはれにて過ぐさせたまふ。


長保二年十二月十五日媄子内親王誕生・皇后定子逝去

かかるほど御子生れたまへり。女におはしますを口惜しけれど、さはれ平らかにおはしますを勝ることなく思ひて、今は御事なりぬ。
中略いと久しうなりぬれば、なほいといとおぼつかなし。
「御殿油近う持て来」とて、帥殿御顔を見たてまつりたまふに、むげになき気色なり。
あさましくてかいさぐりたてまつりたまえばやがて冷えさせたまにひけり。

宮は今年ぞ二十五にならせたまうける。

清少納言は楽しい頃の中宮御所を記述しているのはやはり定子の御所がいかに輝かしい場所であったかを残したかったのでしょう。これが逆に自慢話にとらえられ口やかましい辛口論者の紫式部にちくりと言われた原因か。
皇后に追いやられても職の御曹司という場所にいて尚、殿上人が定子の御所に出入りしていたという事実は興味深いです。
かわって物静かで地味好きな定子の御所には若い公達はあまり寄り付かなかったのでしょう。
ただ彰子も性格が優しく物静かで義母として敦康親王をかわいがり、一条帝が東宮にと意向を尊重したり一時父とも不和になったりして手堅い人物。なるほどよい組み合わせ
派手好き明るい中宮定子=教養深く快活な清少納言
地味中宮彰子=地味手堅い紫式部

暑きこと世に知らぬほどなり。


訳:世の中の人がなあぁ~~~しらんことないくらいめっちゃ暑いねん。 

今年の関西の夏はとんでもなく暑いここ最近37度超え照り返しあわせると40いってるんじゃないか!エアコンないと死んでしまいます。ここはサハラ砂漠かぁ????

今日はちょっとだけ難波&京詣で
午前中に銀行へ用事を済ませて。

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今日のランチはホテルビュフェグランディア大阪最上階のラウンジアブ
勿論割引クーポンで体験です!!!
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メインは
肉の鉄板焼ワ サビやトリュフ塩など

・カラフル野菜のイタリアンマリネ
・彩り野菜のテリーヌ
・スパニッシュオムレツ
・数種豆と鶏むね肉のコロコロサラダ
・紫キャベツとリンゴのマリネ
・ホタテと胡瓜のガスパチョスープ
・トウモロコシのババロワ
・オリーブとピクルスの盛合せ
・豆アジのフリット
・本日の温製料理
・ポテトフリット
・本日の気まぐれパスタ
・白身魚の炙り焼き トマトとオクラのバルサミコヴィネグレット
・牛肉のスぺッツァティーノ
・鶏もも肉のココナッツカレー風味
・本日のポタージュ
・お野菜の具沢山ブイヨンスープ
・数種豆とミンチのアブカレー

サラダコーナー
デザートコーナー
全8種類のドリンクバー付き

野菜野菜野菜で

タンパク質タンパク質

最後は勿論デザートよん

でオリジナル料理もガンガン~~~盛って盛



お店の情報は【こちら】

腹パンの後は・・・・・・・・京都ふるたさんへ。
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今回の発注扇のイメージはこれ
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紫式部日記絵詞の五十日祝いの公卿と女房の様子
これの藤原実資にセクハラされている女房の手にもつ扇を裏に表は浦安の舞用の絵柄を替えての注文
完成舞扇

浦安の舞用の檜扇を彩色とその他変更しての注文が完成したと一報を受けての訪問

お装束を調達するにあたり意外と別注が可能な事をしった舞今日この頃。
しかもお値段もそのままという事が多い。元元発注後の制作でコストが低くて済むからだろうか。
助かります。

いわゆる近世の三重・五重の扇の絵柄は決まっています。
白塗りの上に松の絵、雲などなど・・・そして左右に造花と紐が付けられています。
ギラギラ・ベタベタ正直なところ個人的に好きではなかった。

よくよく調べてみたら平安時代にはいろんな絵が描かれていたし、縹匂いや紅の薄様、紅の匂いといった色ベタ塗扇もあったようです。(たまきはる・栄花物語)造花も6色の組ひももついていなかったと知りました。

いひしらずめずらしく、あどろおどろしき扇ども見ゆ。 紫式部日記より


!!!
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「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる」枕草子からの引用で
まず雲のグラディーションを両側紫色に

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色は赤色青色(緑色)です。
ん~~~~~いとをかし~~~

平安時代は対抗戦の時は赤色青色

そして禁色(きんじき)です。


白になったのは源氏と平家の戦いから
双方が紅白の旗を掲げて戦を行った事に由来します。

ちなみにここでいう青色は現在の青色ではありません。
現在でいうと黄色みがかった濁った緑色をさします。

で!!!
右の青色の鳥を緑色にして、くわえている飾りも緑色にします。
尾長部分も先を緑色にして、後はそのままの色で。


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姫君の装束寅の日(御前試) 青色の扇から
まさすけしょうぞくしょう 舞姫の装束 から引用


御乳母の大輔の命婦 
日向へくだるにたまはする扇どもの中に
かたつかたは、日いとうららかにさしたる田舎の館などおほくして
いまかたつかたは京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
  
あかねさす日に向かひても思ひいでよ 都は晴れぬながめすらむと

御手にて書かせ給へる
枕草子から引用

両面絵柄もありと解釈できて

裏を青色一色に!
その青も現在の青色ではなくくすんだ緑色です。
絵柄の具体的な記述がありませんから全面一色塗りでお願いしました。


そして造花や六色の紐もつけずに金具のみにしました。

平安時代は造花と六色の糸はなかった。

ただ檜の板を繋げるための組ひもをたらしてて、段染めにしたりしていたそうな。
さすがにそれではあじけないので2色の鮑結びしてにな結びした糸をたらしただけのようでした。

でも現存する枕草子絵詞の絵では「汗衫の童女」の持つ扇には左右ニナ結びした糸がみえます。
鎌倉時代には組みひもがあったと考えられるようです。

近代の者とは板の幅が狭かったようですが、これは容認して現行の三重ねものにしました。

解釈としては
手元の親骨を三枚かさねて薄様の紙で巻いたという説ではなく、8枚を一組で×3=24+1で25枚の板からなる説をとりました。

初お目見え~~~~いとをかし


ふるたさんを後にして竹田駅の和蝋燭の絵付け教室へ。

中村ローソク店さんへ。
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予約済で和蝋燭に絵を描きにゆきます。
初盆用の絵なので、蓮の花がいいかなと思います。
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今後の為に少し大きめの蝋燭にしました。

なかなか難しいですね。円形のものに絵を描くって

観光の情報は【こちら】





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